玄関で娘が拾った見知らぬスマホ。履歴には知らない女の名前が並び、娘が誤って送信したメッセージへの返信が届いた瞬間、私は全てを悟った。 「既婚で子持ちは」 夫は浮気をしていた。しかも相手は1人じゃない。私は静かに決意を固めた。もう見て見ぬふりはできない。 あの日から、私は夫に黙って動き始めた。 まさか、その先で夫の嘘が次々と暴かれていくとは、その時はまだ知らなかった。 コメントで続きを読む
玄関で萌花が拾った黒いスマホ。見覚えのない機種で、画面はついたままだった。履歴には知らない女の名前が並び、やり取りはどれも親密で、ただの仕事仲間とは思えなかった。 「ママ、これパパのかな?」 萌花が画面を何度も素早く押す。吹き出しの並んだ画面が次々と開き、同じ文章が送られていく。慌てて取り上げたが、もう遅かった。 「だっていっぱいメッセージ溜まってたよ。早く返信しなくちゃ」 萌花は覚えたてのフリック入力を使いたくて仕方がないのだろう。どうしたものかと考えていると、スマホが震えた。早速相手から返信が来たらしい。恐る恐る開いたメッセージには、短い文が表示されていた。 「既婚で子持ちは」 その瞬間、私は全てを理解した。秋人は浮気をしている。しかも相手は一人ではない。似たようなメッセージが他2人からも立て続けに送られてきた。片手にスマホを持ち、私は静かに決意を固めた。萌花のためにも、もう見て見ぬふりはできないと。 私は新井舞子、34歳。法律事務所の事務として働いている。実家は両親と妹の4人家族。小さい頃から私は目立たない子だった。人前に出たい、目立ちたいという願望は一切なく、自分の意見を言うことすら苦手だった。ただし、与えられた役目はきちんと果たす方だった。忘れ物をしない、期限を守る。そうした当たり前のことを積み重ねていくと、先生や周囲の大人たちはどこか安心したような顔をした。彼らの反応を見るたびに、私はますます真面目な人間になっていった気がする。 大学に入っても真面目な性格は変わらなかった。華やかな学生生活とは遠く、ひたすら講義に出て課題を提出し、時間があれば図書館で過ごした。卒業後は法律事務所に就職。難しい判断をするのは弁護士だが、その前に必要な準備はいくらでもある。書類を整え、日程を管理し、抜けがないよう確認する。そういう裏方の仕事は自分の性に合っていた。 2つ年上の夫と知り合ったのは24歳の頃。きっかけは友人に誘われてしぶしぶ参加した飲み会だった。秋人はよく笑い、誰にでも気さくに話しかける人だった。その手の社交場が得意ではない私とは正反対に見えたけれど、だからこそ気楽に話せたのかもしれない。何度か会ううちに自然と付き合うようになり、26歳で結婚した。 当時の私は、愚直に積み上げてきた自分の人生があんなに簡単に崩れるものだとは夢にも思っていなかった。 結婚して1ヶ月、新婚時代の私は秋人となら落ち着いた家庭を築いていけると思っていた。新しく借りたマンションは広くはなかったけれど、2人で暮らすには十分だ。家具の置き場所、入浴剤は何を使うか。そんな些細なことを相談する時間さえも嬉しくて仕方がなかった。大きな幸せでなくても、ささやかな毎日を丁寧に積み重ねていければいい。あの頃は秋人も私と同じ方向を見ているように思えた。 「家事はきちんと分担しよう。どっちか片方に負担が偏ると絶対続かないし」 「うん。その方が気が楽だね。平日は料理を任せる日が多いかもだけど、片付けは俺がやるよ。休みの日は俺がご飯作る。洗濯も」 秋人のその言葉を、私は何の疑いもなく受け取った。彼を信じていたからだ。 最初の数ヶ月は実際に宣言通りだったけれど、結婚して1年ほど経ち、秋人が保険会社に転職してから家の空気は少しずつ変わっていった。日に日に帰宅が遅くなり、夕飯の時間に間に合わないことが増えたのだ。新しい職場になれるまでは仕方ないだろう。そう思って、私はあまり強くは言えずにいた。 「ごめん。今日も遅くなった」 「うん。それはいいよ。でもさ、事前に連絡がないと夕食準備していいのか分からないんだよね。大体でいいから帰る時間メッセージくれない?」 「そう言われてもな。営業は付き合いが大事なんだよ。急に流れが変わることもあるし、帰宅時間は読みにくいんだ」 「うん。分かるけど、毎日だとちょっと困るの。秋人が食べないのに作るのはもったいないし」 遠慮がちに返した途端、秋人は舌打ちをしてネクタイを乱暴に緩めた。どこか面倒くさそうな仕草だった。決して私は彼を責めたかったわけではない。ただ一緒に生活する夫婦として予定のすり合わせをしたかったのだ。 「俺だって好きで遅くなってるわけじゃないって」 「そうだね。でも先に一言もらえると助かるかな」 「無理無理。仕事中にそこまで細かく気を回せないから」 「じゃあせめて食べた後の片付けはお願いしたいな。平日の料理は私、片付けは秋人がするって約束だったでしょ」 秋人はしぶしぶ皿洗いを始めたが、その日を境に食後の流し台に食器が残ることが増えていった。夕飯を作るのも温め直すのも片付けるのも、全てが少しずつ私の役目として定着していく。 「お皿洗う時こっちのスポンジ使ってね。新しいの買っといたから」 「今日は本当に疲れてるから無理。舞子お願い」 「最近ずっとそう言ってるよね」 「舞子みたいにお気楽な内勤とは違うんだよ。外で動く仕事は気も使うし、付き合いもあるから」 大学卒業以来、私は法律事務所で働いている。来客対応、電話対応、書類作成の補助、裁判所への提出物の取り寄せ。座っている時間が長いからと言って楽な仕事ではないと思う。内心腹が立ったが、その場では何も言わず、私は黙ってスポンジを握った。 結婚して1年、萌花が生まれてからは家の中の負担はさらに偏った。数時間おきにミルクを飲ませ、おむつを替え、昼夜関係なく泣き出すたびに抱き上げてあやし、寝かしつける。育休で事務所を休んでいるとはいえ、私は心身共に疲弊していった。 「秋人、ちょっと萌花を見ててくれる?私ミルク作ってくるから」 「え、俺明日朝早いんだよ。寝不足になるって」 「私だって寝不足だから。それにもうすぐ育休も開けるんだよ。共働きなんだから、たまには萌花の面倒も見てくれないと困るんだけど」 「いや、でも俺外回りだし、寝不足で運転したら危ないだろ。もし事故ったら舞子責任取れるの?取れないでしょ」 そう言われると、私が1人でやるしかない。萌花にミルクを飲ませながら、私の寝不足は危なくないのかとぼんやり思った。だが、いくら考えても疲れきった頭では答えは出なかった。 育休明け1ヶ月半、結局職場復帰してからも大変なのは同じだった。朝、保育園の着替えを袋に入れ、連絡帳を書き、萌花の体温を測っている私の横で、秋人は鏡を見ながら髪型を整えている。こちらを気遣う気配はなく、彼が気にしているのは出発の時刻のみだ。 「じゃあ俺先に出るから」 「ちょっとゴミ持っていってよ」 「あー、もう時間ないわ」 秋人は腕時計に目をやり、それから靴に手を伸ばした。動きに迷いはなく、最初から手伝うつもりがないのだと嫌でも分かってしまう。 「今日ゴミの日だって分かってたよね」 「ゴミ出しするつもりで早めに準備してくれたら良かったんじゃないの?」 「俺は外で稼いでるから、朝まで家のこと全部は無理だって」 家事を分担するという新婚当初の約束はどこへ行ったのか。両手いっぱいの荷物と萌花を抱えた私は玄関に立ち尽くした。 「行ってらっしゃい」 「おう、行ってきます」 振り返らずに出ていった秋人。ドアが閉まろうとした時、反射的に大きなため息が漏れた。 結婚して3年、秋人が家を開ける日が増えていた。私は仕事を終えると保育園に寄り、萌花を連れて帰る。帰宅後は夕飯を作って食べさせ、風呂に入れ、寝かしつける。そんな毎日の営みの中に、父親である秋人はいないことが多かった。 ある金曜の夜、萌花を寝かせた後にメッセージを送る。 「今日は何時くらいになりそう?」 「客との流れ次第だけど、多分日付はまたぐと思う」 「明日は大丈夫?保育園の用品を買いに行くって話してたの覚えてる?」 「ああ、悪いけど朝起きるのは無理かも」 … Read more