「お前はもう用なしだ。とっとと出ていけ」 夫の勝が、愛人のカナを連れて家に帰ってきた。彼女は妊娠していた。私は十年間、専業主婦として尽くしてきたのに、貯金も慰謝料もゼロで追い出された。でも、私は笑顔で離婚届にサインした。だって、もう準備はできていたから。…
「ママに応募される方ですね。それでどうしてこのお仕事に?」 思わず言葉を失った。夫に浮気され、愛人に子供ができたらしい。今しがた無一文で追い出されたので、仕事を探しているとは言えなかった。 「えっと、夫と離婚することになって」 適当にぼかして答える。対応してくれた和服の女性は私を上から下まで確認して頷いた。 「それは大変でしたね。では中へどうぞ」 女性が屋敷の門を広げる。この時の私は中で面接をするのだと思っていた。仕事を見つけ、生活を整えなければ勝に復讐するのは難しい。まずは面接を成功させることだと気合いを入れた。 私を簡単に捨てたのも浮気したことも絶対に許さない。貯金も慰謝料もゼロだと笑ったところも本当にふざけていると思った。人を好きになり結婚した自分が恥ずかしくなる。けれどもう終わったことだ。過去は忘れてしまえばいい。最後に勝とカナに復讐をしてすっきりした後で、と私は呟いていった。 私は中村く子37歳。10年ほど前に夫の勝と結婚した。優しくしてくれるいい夫だが、それでも不満はある。 一番困っているのは見えっぱりなところだろうか。同僚や後輩と飲食した時は勝が全て支払うらしい。旅行や出張に行けば同僚の家族にまでお土産を買う始末。困った私が少し注意すると、彼は不愉快そうな顔でこう言い返してきた。 「お前は養ってもらっている立場だろう。大黒柱の俺に口応えをするな」 こういう人を見下すようなところも苦手だ。多くが望まないからもう少し自分を見つめ直してもらいたい。私が忠告するたびに彼が何を考えていたのか、もっと早く気づくべきだった。ただ勝にもいいところはある。初めて会った時から彼はとても気遣いができる人だった。 出会ったのは互いの同級生の結婚式だ。私の同級生は平凡な会社員だが、相手はお金持ちの医師だった。おかげで結婚式の列席者は有名企業の社員ばかり。普通の保育士だった私は完全に気後れしていた。 話題になるのも世界経済とか難しいことばかりだ。一介の保育士には理解できなかった。適当に相槌を打ち、あとは愛想笑いで乗り切るだけ。有料物件を手に入れるチャンスなどと考える余裕もなかった。そんな中、話しかけてきたのが勝だ。 同じような話をされるのだろうと身構える私に、彼はこう言った。 「最近のコンビニスイーツでお気に入りのやつは?」 思わず吹き出してしまう。勝は気にせずに続けた。 「あれ?面白い話をするのはこれからだけど」 「ごめんなさい。もっと難しい話をされると思ったから」 「そう、じゃあ俺も難しい話をしようかな。今一番人気があるお菓子は何だと思う?」 真面目な顔でそう話すので、私は大笑い。答えるどころではなかった。しかし分かったことが一つある。勝が私を気遣ってくれたということだ。私たちが付き合うきっかけになった出来事がこれだった。 交際は順調に進み、やがて結婚に至る。けれど、結婚の直前に一つ問題が起きた。それは結婚後に私が仕事を続けるかどうかだ。 保育士は体力的には大変だが、女性が長く続けられる仕事の一つでもあった。 「私は仕事を続けたいわ。確かに。あなたに迷惑をかけるかもしれないけれど」 「いや、絶対にダメだ。認めない」 強く反対する勝。私は顔を顰めた。 「どうして?家事はちゃんとするつもりよ」 「そんな話じゃない。妻を働かせるような男に見られたくないんだよ、俺は」 共働きになれば自分の給料だけでは生活できないと評価される。稼ぎの悪い男だと世間に思われるのは嫌だ。勝の主張はそうだった。 「これからの時代、女性が働く機会は増えるわ。別に共働きの家庭も珍しくなくなるわよ」 「なんでそんなことが分かるんだ。お前は学者なのか?」 「そうじゃないけど、保育士として働いていた経験よ。子供を預ける働く女性が増えていたから、私はそう思ったの」 結婚や出産後も働く女性が増えている。当時の私は保育士として肌で実感していた。だからこその主張だったのだが、勝はどうしても首を縦に振ってくれない。 「事実かどうかは関係ない。俺が同僚にどう見られるのか。それが問題なんだよ。だから専業主婦も立派な仕事だろう。違うか。お前に苦労させるつもりはないんだから、別にいいじゃないか。そうだろ」 言い返そうと思えばまだ続けられた。だが以上は水掛け論になるだけだ。互いに感情的になり大喧嘩になるかもしれない。そう考えた私はこちらから折れることにした。 「分かったわ。仕事をやめて専業主婦になればいいんでしょ」 「最初からそういえばいいんだよ。何が不満だったんだ」 「別に不満はないわよ。ただもう少し仕事をしたかっただけ」 ため息をつく。勝は少し考えてからこう言った。 「あのな、結婚したら、ずれは子供が生まれるだろう。俺は保育士として働くより自分の子育てに集中してもらいたいよ」 「それもそうね」 「頼んだぞ、く子」 「ええ、任せておいて」 結局結婚と同時に仕事をやめることとなった。今考えると私を専業主婦にしたのも勝が見えっぱりだったからだろう。本当にもう少し早く気づきたかった。 ともあれ、私は徐々に彼の本性を知っていく。次に違和感を覚えたのは結婚式の準備を進めている時だった。話題が結婚後の生活になったので、ふと新居のことを聞いてみる。 「そういえば新居はどうするか考えてる?」 「新居?そうだなあ。思い切って広いマンションでも買うか」 勝が冗談めかした言い方をした。反射的に私は表情を曇らせてしまう。 「え、もったいないわよ。二人で暮らすのに」 「なんだよ。ほんの冗談だろ」 口を尖らせる勝。私は真剣な顔で言い返した。 「冗談なのは分かってるわよ。でもね、今は冗談を言っている場合じゃないの。こっちは真剣に結婚後の話をしているんだから」 「はいはい。それでお前の希望はあるのか?」 勝がめんどくさそうに聞いてくる。 「そうね。やっぱり賃貸マンションかしら」 「賃貸か」 … Read more