「一両でよかろう。死にかけの体だが、これでも高く見積もってやっているのだぞ」——皆が歩く屍と呼んで見捨てた男を、私はたった一両で買い取った。道端に打ち捨てられ、骨と皮だけになったその男の目に、私は消えかけの火を見た。周囲は笑った。父は止めた。軍部業は嘲った。でも、私はあの日、皆の前で言った。「この人と夫婦になります」と。そして、その言葉がすべてを変え始めた。あの男がただの下人ではなかったこと…
父上、私はあの死にかけた下人と夫婦になります。 人だかりが凍りついた。道端に打ち捨てられた歩く屍のような男。骨と皮ばかりのその男を、人海の天才娘はたった一両で買い取り、皆の前で夫婦になると言い放った。 物語はまだ始まったばかりである。だがこの一言が、後に一つの藩を揺るがす真実の扉を開けることになろうとは、この時誰一人知るよしもなかった。 それでは、子宵いの物語をゆっくりと始めよう。 「父上、あの軍業様は笑いながら人を殺せるそうです」 幸は人ごみの中で父の袖を引き、周囲に聞こえぬよう声を潜めてそう告げた。人層役を務める父は娘の口を慌てて塞ぎかけ、辺りを見回した。 「口を慎しめ。着人の行列がまだ陣夜にもつかぬうちから、新しい軍業様の人層を乱りに口にするとは。人前で言うことか」 ユ野は口を継ぐんだが、目は行列から片時も離さなかった。 清瀬は豊かな在方であった。早瀬現場はこの地に広い屋敷と田畑を構える身分でありながら、藩に使える人層海役としてジ下に出資し、生きを重ねていた。妻を早くに亡くし、一人の娘を男手一つで育て上げたが、今年十七になるこの娘こそ、父にとって何よりの誇りであり、何よりの気がかりでもあった。 ユ野は五つの頃、笑いながら物を売る商人の手を見て「盗人だ」と言い当て、その者の袖から本当に女中の銀簪が出てきたことがある。銃の時には、病んだ馬を偽って死に出そうとした新入りの馬丁も見抜いた。人々はいつしかユ野を「人海の天才娘」と呼ぶようになっていた。 ユ野が見ているのは額の広さや鼻の高さだけではない。笑う時に口の端と目元が共に動くかどうか。人の話を聞く時に指先に力が入るかどうか。そうした人の肌の下にうごめく欲と恐れを、ユ野は見逃さなかった。 大通りの両側には、酒や手土産を手にした者たちがずらりと並んでいた。新しい軍業が若くて器量が良いという噂のためであった。 やがて土埃を上げながら白馬に乗った若い男が現れた。清瀬の新しい軍部業、人内兵庫である。二十四になる人内兵庫は、きちんとした上下姿で背筋を正して馬上にあった。立ち居振る舞いは整い、口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。道端の老人にはまず自ら下馬して礼を尽くし、見物に出た子供には小銭を取り出して握らせた。人々の口からは感嘆の声が次々に漏れた。 「世の中に、こんな若くて器量の良い軍部行がおられるとはな」 しかしユ野だけは、人内兵庫の顔の上を静かに這っていた。人内兵庫は口では笑っていたが、目は一度も笑っていなかった。老人に礼をする時、瞳はわずかに上を向いていた。子供に小銭を渡す時も、視線はすでに周囲の反応を確かめていた。褒め言葉が浴びせられるたびに、顎の下の筋がわずかに張った。まるで当然受けるべき賞賛を、なぜわざわざ与えるのかとでも言いたげであった。 行列の脇を、体格の良い武士が通り過ぎると、人々の視線がふとそちらへ流れた。その一瞬、人内兵庫の目の下に刃物のような光がひらめいた。誰にも気づけぬほど深いところから漏れ出たのは、嫉妬でも怒りでもなく、さっきまでなかったものだった。ユ野の指先が冷たくなった。 「父上、あの方は人の川をっておられますが、人を人として見る目を持っておられません」 現場は娘の手をきつく掴んだ。 「ユ野、お前の人層が外れたことがないのは分かっておる。だが、人層を乱りに口にすれば我が家には災いが及ぶ。頼むから静かにしてくれ」 人内兵庫の行列の後ろには、ジ下から連れてきた下人が続いていた。この中で最後に一人、縄につがれてよろめきながら歩く者がいた。無次郎と呼ばれる者であった。乱れた髪が顔の半分を覆い、川いたちの跡がボロ布に染みついていた。片足を引きずり、骨が浮くほど痩せた体は、風にでも倒れそうであった。 人々がひそひそと言い合った。 「あれは人か、幽霊か」「歩く屍が歩いておるぞ」 ところが不思議なことに、あれほど見窄らしい姿でありながら、半ばに隠れた無次郎の顔の中で、鼻と顎の線だけははっきりとしており、大きく開いた目は血の気のない顔の中でなお光を宿していた。 答えかねた尿房の一人が、飛釈に水を組んで無次郎に差し出した。 「ほら、これをお飲み。いくら下人と言えども、人は人だ」 その瞬間、人内兵庫が橋を巡らせた。笑みを崩さぬ顔のまま、指先だけが正確に飛を払いのけた。水が土に散った。 「この下任は、少年が曲がっておってな。今しつけているところだ。むやみに物を与えれば癖がつく」 口調は穏やかであったが、無次郎を見下ろす目には剥き出しの憎しみと歪んだ快楽が絡み合っていた。 ユ野は息を飲んだ。あれは憎しみではない。あの下人に苦しみを与えること自体を楽しんでいる。 ユ野の視線は無次郎の顔の上にとまった。見窄らしい身なりを取ってみれば、無次郎の骨格は並のものではなかった。広く、骨ばってしっかりと通った鼻筋。大きく厚みのある耳。畑を耕して死ぬ者の骨ではなかった。何より目であった。血の気を失った顔の中で、無次郎の目だけはまだ死んでいなかった。深い井戸の底の残り火のように、世に向けた怒りが黒く焼け焦げながらも消えずに残っていた。 ユ野の胸が大きく鳴った。この人は下人として死ぬ運命ではない。 行列を合学の師匠の娘、与田美が見ており、無次郎と目が合うと頬をほのかに染めた。それを見た人内兵庫の顎に石のような力が入るのを、ユ野は見逃さなかった。 人内兵庫は何事もなかったかのように、今日の武士に命じた。 「あの芸人に、明日から陣夜手の大岩を一人で運ばせよう」 武士は「屈強な男が三人掛かりで扱う岩を、あの骨だけの下人に一人でとは」と首をかしげたが、人内兵庫は答えを待たず、作り物めいた笑みで馬を進めた。 着人の翌日から、無次郎の食事は一日一度、他の下人たちの食べ残した冷えた粥一杯にまで減らされた。数日後にはそれさえ二日に一度となり、「この者に食べ物を与える者は無打ちであるぞ」と触れが出された。若い芸人たちは、無次郎が水を組みに行く度に押しのけ、粥の前で膳を取ろうとすれば足をかけて転ばせた。無次郎は彼らを押し返す力のない者ではなかった。拳を握ると手の甲に筋が浮き上がった。それでも一度も手を上げなかった。 数日後、足の悪い老いた下任の常吉が、水瓶を運ぶ途中で壺を割った。人内兵庫が鞭打ち従を命じた。老いて痩せた体に鞭打ちは、骨が折れることもあり得た。 無次郎が前に進み出た。 「私が割りました」 庭にいた人々が顔を上げた。誰もが常吉が壺を割ったところを見ていたからである。常吉は涙をにじませ、無次郎を見上げた。無次郎は常吉を見ず、ただ一歩前に出て、老人の体をかばうように立った。 「嘘までつくとはな。鞭打ちに処す」 人内兵庫の口元にゆっくりとした笑みが広がった。無次郎は背中を露わにして地に伏した。すでに幾重にも重なった古い傷跡が刻まれた背中に、鞭が振り下ろされる度に肉の避ける音が庭に響いた。無次郎は歯を食い縛り、地面を掴んだ。うめき声一つあげなかった。指先からだけ血がにじみ出た。 その様子を、陣夜の兵士に見ていた者があった。合学の師匠、与田分の真の娘、美である。父の使いで陣夜に立ち寄った美は、血まみれになった無次郎が引きずり出されるのを目にしたのである。美はどうしても見て見ぬふりができず、辺りを確かめてから水と傷薬を持ち出し、無次郎の傍らに膝をついた。 無次郎が顔を上げると、美の方がほのかに染まった。その瞬間、人内兵庫の視線が飛んできた。 「傷に薬を当てるとは。腹でも空いたか、減らしても色を求めるとは。明日から運ばせる岩を倍にせよ」 二日目のことであった。無次郎は三日間、粥以外何も口にしていない体で、屈強な男三人掛かりの岩を抱えた。背の傷からは血がにじみ始めていた。一歩目で膝が折れ、歯を食い縛って再び立ち上がった。二歩、三歩。腕の血管が浮き上がり、口の中で生臭いものが込み上げた。五歩目で無次郎の口から赤黒い血が吹き出し、岩が地に落ち、無次郎はその傍らに崩れ落ちた。指先が土を掻いたが、もう体を起こすことはできなかった。 人内兵庫は倒れた無次郎の脇腹を、乗り物の先で軽く突いた。道端に倒れた獣が生きているか死んでいるかを確かめるように。 「もう使い物にならなくなったな。陣夜の外に捨てておけ。墓の近くでよかろう」 芸人たちが無次郎の腕を掴んでずるずると引きずり、大通りの脇に放り出した。 日暮れ時、貧しい者たちに薬を配って帰る途中のユ野が、無次郎を見つけた。おこが震え上がって止めたが、ユ野は聞かず、裾が土にまみれるのも構わず膝をついた。無次郎の手首を掴むと、指先に細く弱い脈が伝わった。無次郎の目がわずかに開いた。死にかけた瞳の中に、ユ野は着人の日に見たのと同じ光を見つけた。黒く焼け焦げても消えぬ残り火であった。 この人は死んでいない。 「この人を私が引き取ります」 ユ野は言った。見回りに出ていた人内兵庫が馬を止め、あざけるように笑った。 「一両でよかろう。死にかけの体だが、これでも高く見積もってやっているのだぞ」 早言場が慌てて割って入ったが、ユ野は腰の小判を解いておこに渡した。 … Read more