「一両でよかろう。死にかけの体だが、これでも高く見積もってやっているのだぞ」——皆が歩く屍と呼んで見捨てた男を、私はたった一両で買い取った。道端に打ち捨てられ、骨と皮だけになったその男の目に、私は消えかけの火を見た。周囲は笑った。父は止めた。軍部業は嘲った。でも、私はあの日、皆の前で言った。「この人と夫婦になります」と。そして、その言葉がすべてを変え始めた。あの男がただの下人ではなかったこと…

「一両でよかろう。死にかけの体だが、これでも高く見積もってやっているのだぞ」——皆が歩く屍と呼んで見捨てた男を、私はたった一両で買い取った。道端に打ち捨てられ、骨と皮だけになったその男の目に、私は消えかけの火を見た。周囲は笑った。父は止めた。軍部業は嘲った。でも、私はあの日、皆の前で言った。「この人と夫婦になります」と。そして、その言葉がすべてを変え始めた。あの男がただの下人ではなかったこと...

父上、私はあの死にかけた下人と夫婦になります。

人だかりが凍りついた。道端に打ち捨てられた歩く屍のような男。骨と皮ばかりのその男を、人海の天才娘はたった一両で買い取り、皆の前で夫婦になると言い放った。

物語はまだ始まったばかりである。だがこの一言が、後に一つの藩を揺るがす真実の扉を開けることになろうとは、この時誰一人知るよしもなかった。

それでは、子宵いの物語をゆっくりと始めよう。

「父上、あの軍業様は笑いながら人を殺せるそうです」

幸は人ごみの中で父の袖を引き、周囲に聞こえぬよう声を潜めてそう告げた。人層役を務める父は娘の口を慌てて塞ぎかけ、辺りを見回した。

「口を慎しめ。着人の行列がまだ陣夜にもつかぬうちから、新しい軍業様の人層を乱りに口にするとは。人前で言うことか」

ユ野は口を継ぐんだが、目は行列から片時も離さなかった。

清瀬は豊かな在方であった。早瀬現場はこの地に広い屋敷と田畑を構える身分でありながら、藩に使える人層海役としてジ下に出資し、生きを重ねていた。妻を早くに亡くし、一人の娘を男手一つで育て上げたが、今年十七になるこの娘こそ、父にとって何よりの誇りであり、何よりの気がかりでもあった。

ユ野は五つの頃、笑いながら物を売る商人の手を見て「盗人だ」と言い当て、その者の袖から本当に女中の銀簪が出てきたことがある。銃の時には、病んだ馬を偽って死に出そうとした新入りの馬丁も見抜いた。人々はいつしかユ野を「人海の天才娘」と呼ぶようになっていた。

ユ野が見ているのは額の広さや鼻の高さだけではない。笑う時に口の端と目元が共に動くかどうか。人の話を聞く時に指先に力が入るかどうか。そうした人の肌の下にうごめく欲と恐れを、ユ野は見逃さなかった。

大通りの両側には、酒や手土産を手にした者たちがずらりと並んでいた。新しい軍業が若くて器量が良いという噂のためであった。

やがて土埃を上げながら白馬に乗った若い男が現れた。清瀬の新しい軍部業、人内兵庫である。二十四になる人内兵庫は、きちんとした上下姿で背筋を正して馬上にあった。立ち居振る舞いは整い、口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。道端の老人にはまず自ら下馬して礼を尽くし、見物に出た子供には小銭を取り出して握らせた。人々の口からは感嘆の声が次々に漏れた。

「世の中に、こんな若くて器量の良い軍部行がおられるとはな」

しかしユ野だけは、人内兵庫の顔の上を静かに這っていた。人内兵庫は口では笑っていたが、目は一度も笑っていなかった。老人に礼をする時、瞳はわずかに上を向いていた。子供に小銭を渡す時も、視線はすでに周囲の反応を確かめていた。褒め言葉が浴びせられるたびに、顎の下の筋がわずかに張った。まるで当然受けるべき賞賛を、なぜわざわざ与えるのかとでも言いたげであった。

行列の脇を、体格の良い武士が通り過ぎると、人々の視線がふとそちらへ流れた。その一瞬、人内兵庫の目の下に刃物のような光がひらめいた。誰にも気づけぬほど深いところから漏れ出たのは、嫉妬でも怒りでもなく、さっきまでなかったものだった。ユ野の指先が冷たくなった。

「父上、あの方は人の川をっておられますが、人を人として見る目を持っておられません」

現場は娘の手をきつく掴んだ。

「ユ野、お前の人層が外れたことがないのは分かっておる。だが、人層を乱りに口にすれば我が家には災いが及ぶ。頼むから静かにしてくれ」

人内兵庫の行列の後ろには、ジ下から連れてきた下人が続いていた。この中で最後に一人、縄につがれてよろめきながら歩く者がいた。無次郎と呼ばれる者であった。乱れた髪が顔の半分を覆い、川いたちの跡がボロ布に染みついていた。片足を引きずり、骨が浮くほど痩せた体は、風にでも倒れそうであった。

人々がひそひそと言い合った。

「あれは人か、幽霊か」「歩く屍が歩いておるぞ」

ところが不思議なことに、あれほど見窄らしい姿でありながら、半ばに隠れた無次郎の顔の中で、鼻と顎の線だけははっきりとしており、大きく開いた目は血の気のない顔の中でなお光を宿していた。

答えかねた尿房の一人が、飛釈に水を組んで無次郎に差し出した。

「ほら、これをお飲み。いくら下人と言えども、人は人だ」

その瞬間、人内兵庫が橋を巡らせた。笑みを崩さぬ顔のまま、指先だけが正確に飛を払いのけた。水が土に散った。

「この下任は、少年が曲がっておってな。今しつけているところだ。むやみに物を与えれば癖がつく」

口調は穏やかであったが、無次郎を見下ろす目には剥き出しの憎しみと歪んだ快楽が絡み合っていた。

ユ野は息を飲んだ。あれは憎しみではない。あの下人に苦しみを与えること自体を楽しんでいる。

ユ野の視線は無次郎の顔の上にとまった。見窄らしい身なりを取ってみれば、無次郎の骨格は並のものではなかった。広く、骨ばってしっかりと通った鼻筋。大きく厚みのある耳。畑を耕して死ぬ者の骨ではなかった。何より目であった。血の気を失った顔の中で、無次郎の目だけはまだ死んでいなかった。深い井戸の底の残り火のように、世に向けた怒りが黒く焼け焦げながらも消えずに残っていた。

ユ野の胸が大きく鳴った。この人は下人として死ぬ運命ではない。

行列を合学の師匠の娘、与田美が見ており、無次郎と目が合うと頬をほのかに染めた。それを見た人内兵庫の顎に石のような力が入るのを、ユ野は見逃さなかった。

人内兵庫は何事もなかったかのように、今日の武士に命じた。

「あの芸人に、明日から陣夜手の大岩を一人で運ばせよう」

武士は「屈強な男が三人掛かりで扱う岩を、あの骨だけの下人に一人でとは」と首をかしげたが、人内兵庫は答えを待たず、作り物めいた笑みで馬を進めた。

着人の翌日から、無次郎の食事は一日一度、他の下人たちの食べ残した冷えた粥一杯にまで減らされた。数日後にはそれさえ二日に一度となり、「この者に食べ物を与える者は無打ちであるぞ」と触れが出された。若い芸人たちは、無次郎が水を組みに行く度に押しのけ、粥の前で膳を取ろうとすれば足をかけて転ばせた。無次郎は彼らを押し返す力のない者ではなかった。拳を握ると手の甲に筋が浮き上がった。それでも一度も手を上げなかった。

数日後、足の悪い老いた下任の常吉が、水瓶を運ぶ途中で壺を割った。人内兵庫が鞭打ち従を命じた。老いて痩せた体に鞭打ちは、骨が折れることもあり得た。

無次郎が前に進み出た。

「私が割りました」

庭にいた人々が顔を上げた。誰もが常吉が壺を割ったところを見ていたからである。常吉は涙をにじませ、無次郎を見上げた。無次郎は常吉を見ず、ただ一歩前に出て、老人の体をかばうように立った。

「嘘までつくとはな。鞭打ちに処す」

人内兵庫の口元にゆっくりとした笑みが広がった。無次郎は背中を露わにして地に伏した。すでに幾重にも重なった古い傷跡が刻まれた背中に、鞭が振り下ろされる度に肉の避ける音が庭に響いた。無次郎は歯を食い縛り、地面を掴んだ。うめき声一つあげなかった。指先からだけ血がにじみ出た。

その様子を、陣夜の兵士に見ていた者があった。合学の師匠、与田分の真の娘、美である。父の使いで陣夜に立ち寄った美は、血まみれになった無次郎が引きずり出されるのを目にしたのである。美はどうしても見て見ぬふりができず、辺りを確かめてから水と傷薬を持ち出し、無次郎の傍らに膝をついた。

無次郎が顔を上げると、美の方がほのかに染まった。その瞬間、人内兵庫の視線が飛んできた。

「傷に薬を当てるとは。腹でも空いたか、減らしても色を求めるとは。明日から運ばせる岩を倍にせよ」

二日目のことであった。無次郎は三日間、粥以外何も口にしていない体で、屈強な男三人掛かりの岩を抱えた。背の傷からは血がにじみ始めていた。一歩目で膝が折れ、歯を食い縛って再び立ち上がった。二歩、三歩。腕の血管が浮き上がり、口の中で生臭いものが込み上げた。五歩目で無次郎の口から赤黒い血が吹き出し、岩が地に落ち、無次郎はその傍らに崩れ落ちた。指先が土を掻いたが、もう体を起こすことはできなかった。

人内兵庫は倒れた無次郎の脇腹を、乗り物の先で軽く突いた。道端に倒れた獣が生きているか死んでいるかを確かめるように。

「もう使い物にならなくなったな。陣夜の外に捨てておけ。墓の近くでよかろう」

芸人たちが無次郎の腕を掴んでずるずると引きずり、大通りの脇に放り出した。

日暮れ時、貧しい者たちに薬を配って帰る途中のユ野が、無次郎を見つけた。おこが震え上がって止めたが、ユ野は聞かず、裾が土にまみれるのも構わず膝をついた。無次郎の手首を掴むと、指先に細く弱い脈が伝わった。無次郎の目がわずかに開いた。死にかけた瞳の中に、ユ野は着人の日に見たのと同じ光を見つけた。黒く焼け焦げても消えぬ残り火であった。

この人は死んでいない。

「この人を私が引き取ります」

ユ野は言った。見回りに出ていた人内兵庫が馬を止め、あざけるように笑った。

「一両でよかろう。死にかけの体だが、これでも高く見積もってやっているのだぞ」

早言場が慌てて割って入ったが、ユ野は腰の小判を解いておこに渡した。

「これを死に持っていき、一両に変えて参れ。急いで。人の命を買うなら、一も安いものです」

ユ野は金だけを渡さなかった。陣夜の感情方と村の名主を証人に立て、正式な方向を作らせた。無次郎に対するあらゆる所有権と処分権がユ野に移り、一代限りの方向であり、元のあるじがいかなる理由でも再び連れ戻すことはできないという一文まで加えさせた。人内兵庫は「どうせ三日と持たずに死ぬものだ」と思い、笑みを浮かべもせず判を押す仕様をした。

嫁入り前の娘が男の下人を離れに置くことなどできぬと父が言うと、ユ野は父と見物人たちを順に見回し、はっきりとした声で言った。

「それならば、私はあの歩く屍の下人に添いましょう。死にかけの命一つを我が家で生かすことを、誰が恥と申せましょうか」

辺りが一瞬静まり返り、それから笑いが起きた。人内兵庫も大きく笑った。

「面白い。あの男が息を吹き返して婚礼の衣をまとう日が来たら、私自ら祝いの酒を届けよう」

ユ野は笑い声に眉も動かさず、おこに問板を持って来させ、無次郎をそっと乗せた。

「私を助けたことを、必ず後悔することになりますよ」

板の上で無次郎はかすかに目を開け、そう告げた。ユ野は歩みを止めなかった。馬上からユ野の背を見つめる人内兵庫の目からは、すでに笑みが一滴も残っていなかった。

ユ野は無次郎を本宅から離れた離れに寝かせ、村で最も名高いと言われる石田村原鉄を呼んだ。石田村原鉄は無次郎の着物を脱がせながら言葉を失った。背中には何年にも渡って繰り返し打たれた鞭の跡が幾重にも重なり、古い傷跡の上に新しい傷が重なり、その上にまた硬い皮膚が育ち、背中全体がでこぼこの畑のようであった。左の肋骨の一本は折れたままおかしな向きにくっついていた。

「これは一年や二年打たれた体ではない。生きていること自体が不思議なくらいです。足は完全には戻らぬかもしれません。肺も傷んでいますので、当分は粥を一さじずつ飲ませる必要があります」

ユ野は頷き、薬の処方を受け取った。その日からユ野は眠りを削った。夜明けに薬を煎じ、朝に粥を炊き、昼には傷を洗った。おこは「お嬢様が倒れてしまいます」と止めたが、ユ野は無次郎の傷の血が引くまで手を休めなかった。

三日目の夜であった。ユ野はぬるま湯に浸した手拭いで無次郎の体に浮いた血を拭っていた。無次郎は意識を取り戻していながら、しばらく目を閉じたまま動かなかった。ユ野の手が胸元の傷に伸びた瞬間、無次郎がその手首を強く掴んだ。骨が浮くほど痩せた手であったが、恐ろしいほどの力であった。無次郎がゆっくりと目を開けた。濁っていた瞳に冷たく鋭い光が浮かんだ。

「高貴なお嬢様が、汚い者の体を自らお拭きになる理由は何でしょうか?」

ユ野が答えずにいると、無次郎の口元に歪んだ笑みが浮かんだ。

「よく洗って磨いておけば、それなりに見られる顔になるゆえ、夜のお相手にでもお使いになるおつもりでございましょう」

おこが飛び出して叫んだ。

「この不届き者が!お嬢様がお前を助けようと、行く番も眠らずに看病なさったのに、何という物言いか!」

無次郎はユ野から目を離さなかった。

「そうでなければ、力のある下人が一人必要だったのでしょうか。助けた恩を体で返せとおっしゃるおつもりで。お嬢様が汚い命をお拾いになる時は、必ず理由がありますからな。遊びか、体か、時には命そのものを取るためです。お嬢様は私から何を取るおつもりで?」

ユ野は手首を掴まれたままでも、顔一つしかめなかった。

「私はお前の何かを奪うために助けたのではない」

「そのお言葉を信じろとおっしゃるのですか?」

「信じろとは強いはしない。ただ、私が生きている間は傷が腐らぬよう手当てをするつもりだ。死にたければ我が家の外へ出て好きにすれば良い。だが、私の目の前で死なせはしない」

無次郎の目がわずかに揺らいだ。ユ野はしばらく彼を見つめてから、静かに付け加えた。

「それと、夜の相手など不要だ。今のお前では、私の腰まで張ってくることすらできない」

おこが口を開けたまま固まり、無次郎は初めて言葉を失った。ユ野は何事もなかったかのように手拭いを再び湯に浸した。

「くだらぬ心配はやめて、大人しく寝ておれ」

無次郎は再び冷笑を浮かべようとしたが、なかなか口の端が上がらなかった。

それから後も、無次郎は心を開かなかった。ユ野が尋ねると顔を背け、「死にかけの下人になど何の意味がありましょう。無次郎とお呼びください」と答えるだけであった。

数日後の夜、ユ野は離れの前を通りかかり、中から漏れるうめき声を聞いた。無次郎が悪夢にうなされていた。布団を蹴り飛ばし、冷汗に濡れた額を振りながら、途切れる声でつぶやいていた。

「父上、城を焼いてはなりません。お許しください」

声が枯れ、眠りの中でも手が宙をまさぐっていた。何かを掴もうとするような、あるいは何かを止めようとするような、必死の仕草であった。ユ野は戸の前で足を止めた。「父上」という呼びかけと「城」という言葉が耳に残った。ただの下任が眠りの中でうなされるにしては、あまりに重い言葉であった。

ユ野は中に入らなかった。無次郎が自ら語る時を待つことにした。

昼間、無次郎は横になったままユ野の家の有様をじっと眺めていた。武士の善意には必ず隠れた見返りがあると信じていたからである。しかし奇妙であった。飢饉で年貢を納められなかった百姓が訪ねてきた日、ユ野は返済の期限を大幅に伸ばし、飢えた子に使うようにと米と薬代まで届けさせた。女中の沖ぬが奥の銀簪を盗んだと濡れ衣を着せられた日には、他の奉公人たちが「起きぬに違いない」と決めつけて鞭を求める中、ユ野は人層だけで判断せず、簪が消えた時刻に誰が奥に出入りしたかを一つ一つ確かめ、庭の隅に捨てられた包みから本物の下手人の手がかりを見つけ出した。

無次郎はそれらの様子を黙って見ていた。褒められるためではなかった。米を届ける時、ユ野の周りには誰もいなかった。誰も見ていないところでも同じ振る舞いをする人であった。

無次郎は知っていた。自分が経験してきた世の中では、善意には必ず見返りがついた。忠義を誓った主家は父を守らなかったし、恩を受けたと言っていた者たちは家が潰れると一斉に背を向けた。だから世に無償で施す者などいないと信じていた。しかしこのお嬢様は、なぜ見返りを求めないのか。無次郎の心の奥で久しく閉ざされていた何かが、わずかに軋んだ。

十日ほど経ち、無次郎が初めて自ら体を起こした。

「私が借した薬代と粥を全てお返しします。返し終えたら、糸間を出してください」

ユ野は無次郎をじっと見つめた。

「借金を返すという口実で、また死にに出ようというのか。お前がどこへ行くべき人間かは、後で決めても遅くはない。今出れば三日と持たずに倒れる。借金を返すと言い張ることは、自らの命を捨てるのと変わらぬ」

無次郎は言葉を返せなかった。

数日後、おこが薬屋から受け取った処方箋を手に台所で困り果てていた。漢字でびっしり書かれた薬の名と分量を逆さに持ち、なかなか読めずにいた。縁側に座っていた無次郎が何気なく言った。

「それは逆さだ。一行目は大木さ文目。二行目は遠きに問目半だ。三行目の薬の名は逆術だから、逆と間違えるな」

おこが目を丸くした。

「お前、字が読めるのか」

無次郎はそこで初めて自分の口にした言葉に気づき、口をつぐんだ。しかしすでに遅かった。台所の戸の影からユ野が見ていた。ユ野の視線は無次郎の顔ではなく指先に向けられていた。右手の人差し指と中指の内側に、長く硬く育ったタコがあった。筆を何度も握らねば生じないタコであった。

ユ野は口を開かなかった。ただ台所に戻り、薬を煎じながら心の中で静かに繰り返した。下人の手ではない。この人は一体何者だったのか。

二ヶ月が経った。ユ野の心を尽くした看病と地道な養生のおかげで、無次郎は杖なしで短い距離を歩けるようになった。足の引きずりは完全には消えなかったが、曲がっていた腰は伸び、青白かった頬に血の気が戻ると、無次郎の姿は歩く屍の頃とはまるで別人であった。

ある日、ユ野は無次郎を連れて町に出た。町に入るなり女たちの目が無次郎に集まった。若い娘たちは何度も振り返って見つめ、ある女は遠慮もなく近づいて声をかけた。

「若い衆、どちらから来た人だい。この村では見ない顔だけれど、そこの茶屋で一杯どうだい」

無次郎が顔を伏せて通り過ぎると、女は名残惜しそうにため息をついた。茶屋の前ではもっと露骨な言葉が飛んだ。

「あの顔なら花町に出しても大金を取れるだろうよ」「ああ、もったいない。下人でなければ縁談が殺到する顔だのに」

旗にいた男たちも笑い声を上げた。

「は瀬様が一両で買われたのも、通りが良いからよな。使い勝手が良さそうだ」

笑い声が町に広がった。無次郎は歩みを止めなかった。口元には無心な笑みが浮かんでいたが、握った拳の甲には青い血管が浮き上がっていた。

町を出て家へ帰る道であった。ユ野が先に口を開いた。

「人々に色を売るもののように扱われて、悔しくはないのか」

無次郎は淡々と答えた。

「この体は元より主が値段を決めるものです。今更のことでもありません」

「今更だからと言って、恥ずかしめを受けないわけではない。恥ずかしめを受けるにふさわしい身分の者が受けているだけのことです」

ユ野は足を止めた。

「身分が低ければ、人の体に乱りに値段をつけて良いということか」

「世の中がそういうものだということです」

「世の中が間違っていると抗う勇気はなく、そういうものだと諦める方が楽なのだろうな」

無次郎の目が冷たく張った。

「真綿に育ったお嬢様にはお分かりになりません。声を上げれば鞭を一つ余分に受け、頭を上げれば首が飛ぶだけです」

「お前は初めから人であることを諦めたのか」

無次郎の口が張った。

「人々がお前を物のように言うのに、お前自身が下人であることを当然だと受け入れているのではないか。それは彼らの恥ずかしめを耐えているのではない。彼らの言葉を自ら認めているのだ」

無次郎の顎がぐっと硬くなった。

「私はお前の人層の中に、人に身を売って生きる層を見たことがない。人層が変えるのではない。お前自身が変えるのだ。ただいまのお前は、再び裏切られるのが怖くて、世よりも先に自分自身を踏みにじっているだけだ」

無次郎の顔から初めて皮肉げな冷笑が消えた。ユ野は先に体を返して歩き出した。

「次に誰かがお前の値段を乱りに口にしたら、黙っていないことだ」

「拳を振るえとおっしゃるのですか?」

「言葉で勝てる場があり、目ざし一つで口を継ぐませる気もありながら、なぜ先に拳を使おうとするのか」

無次郎はしばらくその場に立ち尽くし、ごく小さく笑った。今度の笑みは人をあざける冷笑ではなかった。遠い昔に忘れていた自分の姿を、ふと思い出した者の笑みであった。

その日を境に、無次郎はユ野を世間知らずの部屋の娘として見なくなった。

数日後、町で無次郎を見かけた人内兵庫の顔が張った。歩く屍の面影はどこにもなく、町を通り過ぎるだけで女たちの首が回っていた。人内兵庫の口の中が乾き、指先が冷たくなった。あの顔を知っていた。自分が生涯かけて妬み続けてきた顔であった。

人内兵庫はユ野が薬屋に入った隙に、無次郎の前に馬を止めた。

「死に損ないが、随分人並みの顔を取り戻したものだな」

「その名の男はすでに死にました。軍部業様自らが、死んだ者の書き付けをお作りになりましたでしょう」

人内兵庫の笑みが一瞬張ったが、すぐに余裕を取り戻していった。

「女に買われたからと言って、自由になったつもりか」

無次郎は答えなかった。

「私の手を離れたからと言って、自由になったと思うな。私が息をする場所なら、どこであろうとそこは私の陣だ」

日の音が土を蹴って遠ざかった。荷を担ぐ無次郎の手がわずかに震えていた。

同じ頃、藩から感情方の見分が来るという知らせが届いた。人内兵庫は母方の叔父、最木のとの神が集める紙兵に送る兵粮を区面するための暗まいを長らく横流ししてきたのである。帳簿には米百票とあったが、実際に倉にあるのは三百票にも満たなかった。

人内兵庫は手代の吉兵を呼び、命じた。

「今夜、倉に火を放て。火が出れば、米がどれほどあったか誰にも確かめようがない」

「裏番と使い走りの子供たちが中で夜鍋仕事をしております」と吉兵がためらうと、人内兵庫は「遠外から閉めておけ」と言い放った。

ちょうど同じ頃、ユ野の毎朝の前に、誰も気づかぬ小さな変化が忍び込み始めていた。現場の日々服用する養生薬に、人内兵庫の手が伸びていたのである。

その夜、倉に火が放たれた。

「助けてくれ。戸が開かない」

中にいた裏番の声が炎の向こうで裏返った。子供たちの鳴き声がそれに続いた。無次郎は早瀬で夜空を焦がす火の手を見て駆け出した。倉から立ち上る煙は普通の火とは違っていた。人々は井戸から水を組んで火の中に浴びせたが、油を伝ってさらに大きく燃え広がった。

「水をかけるな」

無次郎の声が響いた。普段の低く沈んだ声ではなかった。

「これは油の火だ。水をかければ油が跳ねて、火がもっと広がる」

無次郎は建物と火の広がる方向を見て、瞬時に頭の中で計算を回した。

「正面から入れば屋根が落ちる。東側の土壁を崩せるまで突き崩せ。一組目は井戸水を隣り合う建物にかけろ。火の燃え移りを防ぐことが先だ。二組目は撞木で東の壁を崩せ。三組目は布団を水に浸して持って来い」

人々は自分でも気づかぬうちに、無次郎の指図に従っていた。撞木が二度東の土壁にぶつかると壁が崩れ、黒い煙が吹き出した。無次郎は濡れた布団を被り、崩れた壁の隙間から飛び込んだ。倒れていた裏番を見つけて外へ押し出し、柱の影にうずくまっていた子供二人を抱えて出た。しかし、まだ一人残っていた。無次郎は再び中に入り、米俵の影に隠れて咳き込む子供を見つけ、胸に抱いた。外へ出る瞬間、燃え落ちた梁が崩れかかった。無次郎は子供を庇い、自らの背でそれを受け止めた。背中で肉の焼ける匂いがしたが、それでも子供を離さなかった。

よろめきながら壁の外に出た無次郎の前に、ユ野がいた。無次郎は膝を折り、ユ野の胸に倒れ込んだ。

「戸は外から閉められていた。中からは開けられぬ閂だった」

そう言い残し、意識を失った。

火が消え、夜が明けた。ただ煙の匂いの残る倉の前に人々が集まる中、人内兵庫が現れた。

「痛ましいことだ。必ず恨みを抱く者の仕業であろう。は瀬殿の下人の無次郎が、陣夜を追われた後恨みを抱いていたという話がある。倉の近くで油の染みた布の切れ端が見つかった故、調べねばなるまい」

ユ野が前に出た。

「無次郎は私の所有する下任にございます。軍部業様ご自らが買い受けになった正式な方向証がございます。明白な証拠もなく、私の下任を連れ去ることはできません」

人々がざわめいた。その時、背に火傷を負いながら体を起こした無次郎が、夜跡の中に入っていった。無次郎は黒く焦げた床を歩きながら辺りを改めた。床の広さを歩幅で測り、米俵が置かれていた場所に残る跡と床に押された痕跡を確かめた。

「この倉の床は間口十二間、奥行き二十間。米俵を四十に積んでも、四百票を超えることは難しい広さだ」

無次郎は焦げた跡が数個並ぶ箇所を調べた。

「九百票あったならば床一面に痕跡があるはずだが、実際に俵が置かれていた跡は片側の壁際にしか残っていない。この倉には、長後に記された九百票などそもそも入っていたことがない」

人々の顔つきが変わった。無次郎は続けて正面の閂を指した。

「閂は内側からではなく外側からかかる作りだ。中に閉じ込められた者が、どうして自分のいる場所に火をつけられよう。しかも油は壁の下から燃え上がっていた。中から火を放ったのではない。外から油を巻いたのだ」

ざわめきが大きくなった。人内兵庫の顔から笑みが消えた。その時、無次郎が焼け残った長簿の切れ端を一枚拾い上げた。数字とその傍らに小さな点が残っていた。無次郎の目がわずかに細くなった。その点に見覚えがあった。かつての食立ての際、最木のとの神と人内兵庫が兵粮と部具と兵の数を区別するために用いていた符丁であった。

無次郎は人々が散っていくのを待ち、人内兵庫の傍らを通り過ぎながら、彼にだけ聞こえるほど低く言った。

「軍部業様は、今も兵粮を数える時にあの符丁を使いになるのですか」

人内兵庫の足が止まった。顔から血の気が引き、唇がわずかに震えた。無次郎は振り返らずに歩き去った。

人内兵庫は悟った。この者は記憶を失っていない。毒と鞭で正気まで曇らせたと信じていたが、彼は全てを覚えていた。

その夜、人内兵庫は密書を書いた。

「おじ上に申し上げます。あの者は記憶を取り戻しております。口を開く前に始末する他ございません」

数日後、最木のとの神から返事が届いた。

「生きて陣夜に戻れば人々が疑いを持つであろう。口も証言も残さぬようにせよ」

それから数日後のことであった。焼き物を担いだ中年の男が早の門前に現れた。おこが台所で使う器を選んでいる間に、焼き物売りは庭の隅で休んでいた無次郎にそっと近づいた。

「もしや、この割れがおありではございませんか?」

男が差し出したのは、竹を割った符の片方であった。使い道のなさそうな欠片であったが、無次郎の目は符の刻み口にとまった。刻まれた紋様の半分が見えた。それは高田家の家紋であった。無次郎の指先がわずかに震えた。

焼き物売りは辺りを見回した後、懐から残りの半分の符を取り出した。無次郎は指先で刻み口をなぞった。三年間、身から離さなかったものであった。鞭を受ける時も、植える時も、屑の中に打ち捨てられた時も、最後まで奪われなかった符であった。無次郎は着物の裏の縫い目に縫い込んでいた自分の半分を取り出した。二つが合わさり、紋様が一つに繋がった。

焼き物売りが膝をついた。

「若様、ご無事でおられましたか?」

「松浦か」

「はい。大殿様に長らくお仕えした要人、松浦介助にございます」

離れで向かい合うと、松浦介助は無次郎の過去を語り始めた。

無次郎の父、高田ゆは清瀬藩の過労を務めた名高い神であった。一人息子の総一郎は幼い頃から学問と武芸に秀で、二十歳で登用された。同じ年に人内兵庫は落第した。人々は人内兵庫の前でもはばからず「高田様の総一郎様は誠に天より授かった逸材だ」と言った。その言葉が積もるほどに、人内兵庫の劣等感は憎しみへと育っていった。

三年前、清瀬藩内の一派が兵を上げ、正当な藩主を退け、幼い一族の者を新たな藩主に据えるという加立てを起こした。人内兵庫の母方の叔父、最木のとの神がその中心であった。高田ゆは新たに立てられた者への忠誠を求められたが、これを拒否した。結果、加担せずとも罪に問われて処刑され、家は没収され、総一郎は身を落とされ、下人にされた。人内兵庫はこの機を逃さなかった。役人に金を渡して総一郎が病で死んだという書き付けを作らせ、「無次郎」という名を与えて、自らの私物の下人とした。

加立ての直前、最木のとの神は正当な藩主の命令のように見せかけた偽の所上を作り、城の守備を移動させ、城門を開けさせていた。人内兵庫は総一郎に「陣夜の書き付けを清書する仕事だ」と偽り、その卓越した筆跡を利用して、その偽の所上の下書きを書き写させた。総一郎は自分が何を書き写しているのか知らなかった。後になってようやく、それが父を死に至らしめた加立てに使われた偽の所上であったことを知った。自らの手が父の死に利用されたという事実。それが総一郎を最も深く踏みにじった真実であった。

偽の顔うと加担者たちの所上、兵粮の帳簿は、清世人や浦の彼川の下の隠し部屋に隠された。総一郎はその作業にも動員されていた。この秘密を知る唯一の生き残りを見張るために、人内兵庫は総一郎を遠くへ送らず、生涯手元に置こうとしたのであった。

「高田ゆ」という名を耳にした瞬間、総一郎の顔から表情が抜け落ちた。幼い日、庭先で弓の稽古をつけてくれた父の声が、ほんの一瞬耳の奥に蘇った気がした。しかし総一郎はすぐにその記憶を胸の奥深くへ押し戻し、顔を伏せた。

「藩主様を裏切った者たちは皆死んだ。父上もお亡くなりになった。義を語った者たちは、家が潰れると一斉に背を向けた。今更、何を得るというのか」

松浦が涙を流しながら去った後、ユ野が総一郎に言った。

「裏切る者がいるからと言って、皆を信じなければ、人内のような者たちがこの世を思いのままにするだけです。高田だという名が無本人として残り、ご主君が無次郎という下人の名のまま死ぬのを、そのままにするおつもりですか?」

総一郎の肩がわずかに震えた。

「世は変わらぬかもしれません。命をかけても何も変わらぬかもしれません。それでも、父上の名を正すという機会があるのに、死んだ人間のふりをして隠れ続けることができますか?」

総一郎は長い間ユ野を見つめていたが、やがてゆっくりと体を返した。

「無次郎は人内兵庫がつけた名です」

声が枯れた。

「私の本当の名は、高田総一郎と申します」

ユ野は頷いた。驚きはしなかった。初めて無次郎の顔を見た時から、この人は下人として死ぬべき人ではないと感じていたのである。

総一郎が自らの名を取り戻す決意をした日、人内兵庫の手もまた動いた。手代の吉兵は、兵粮倉で見つかったという油染みの布切れを総一郎の部屋に密かに忍ばせた。同時に、倉には最木の神と瀬現場が密かに書状を交わしていたかのように装った偽の無本城が仕込まれた。現場の薬にも手が回っていた。毎日服用する養生薬に少しずつ毒草が混ぜられ、記憶を曇らせ、震えを誘っていた。現場が正気を失って人層役としての記録を誤って書いたと言い立てるつもりであった。ユ野の今はしで拉致され、ユ野と総一郎が無本を企んでいたと自白させようとされたが、口を割らなかった。与田美には父分の真を人質にすると脅しがかかり、総一郎の死亡の書き付けを見なかったと証言せよと迫られた。

全ての準備が整った人内兵庫の手先が早に押し入った。武士たちが倉を改めると、あらかじめ仕込んでおいた偽の無本城が出てきた。

「は瀬殿。これは何でございますか?最木のとの神様への書状が、倉から出てまいりましたぞ」

ユ野が前に出た。

「この書状の神と住は、陣夜で使うものにございます。我が家にはこのような神はございません」

人内兵庫は今度は正式な鳥城を持ち出した。ユ野はそれを丹念に読み、顔を上げた。

「この鳥上に記された作成の時刻は牛の刻です。しかし、倉に火が出たのは虎の刻でした。火が出る前に鳥城王をお作りになったということでございましょうか」

周りの者たちがざわめいた。証拠も鳥城もユ野の前で崩れると、人内兵庫は家全体を無本に絡める策に出た。

「は瀬現場とその娘、無次郎を無本の疑いにて召し取る」

総一郎は懐にしまってあった方向のうしに一瞬だけ目をやった。皆が自分を見捨てた時、この一枚だけが自分を人として買い取ってくれた証であった。

「書状は私が隠しました。は瀬様、お嬢様は関わっておられません。私だけをお連れください」

ユ野が腕を掴んだ。

「何を言っているのですか?それは嘘です」

総一郎は静かにユ野の手を外し、小さな声で言った。

「お嬢様まで捕まれば、証拠を探す者がいなくなります。外にいてください」

総一郎は自ら両手を差し出した。三年前と同じ縄であったが、今度は自ら差し出した手であった。

陣夜の牢で、人内兵庫は鞭を打たせながら尋ねた。

「彼川の下に何が隠されているか言え。それから、高田ゆの密書がどこにあるかもだ」

総一郎は沈黙した。

「お前の父もこうして耐え抜いて死んだ。最後まで藩主を守ると意地を張って、結局何を得たというのだ。無本人という名と、一人も守れなかった無能な父という評判であろう」

総一郎の目つきが変わった。死人のように沈んでいた瞳に火が灯った。曲がっていた背がまっすぐに立ち、頭が上がった。無次郎の体から、過労高田ゆの子、高田総一郎が立ち上がっていた。

「私が奪われたのは私の名だ。私自身ではない」

人内兵庫の笑みが張った。彼は一歩後ずさったことに、自らも気づいていなかった。

牢を出ながら役人に命じた。

「明日、あの者を移送させよう。山道を使え。山道で野党に殺されたと見せかけ、移送の途中で始末してしまう」

移送に立った四名の役人のうち、一人が道順に首をかしげていた。

「ジ海へならば大通りが早いのに、なぜ山道を回すのか」

谷に差しかかったところで、あらかじめ待ち伏せていた松浦が荷車を道に押し出し、行く手を遮った。後方では、ユ野の奉公人たちが松明を掲げて現れた。

松浦介助は震える役人たちに静かに問うた。

「あなた方は、吉兵のより谷を過ぎたら荷を軽くせよと命じられてはいなかったか」

役人の一人が顔色を変えた。

「確かにそう言われた。馬が保たぬゆえ、谷を過ぎたら荷を軽くせよと」

「それは、この方を山中で始末せよという符丁ではなかったのか。あなた方は知らぬ間に、人殺しの片棒を担がされていたのだ」

二人は顔を見合わせ、震える手で刀を捨てた。残る一人は納得せず刀を構えて詰め寄ったが、松浦介助がとっさに体当たりしてその腕を押さえ、地に組み伏せた。最初に道順の不信を口にしていたもう一人だけは、その場に立ち尽くしたまま動かず、やがて自ら進み出て、後に真実を証言する者となった。

ユ野は縄を手に取り、震える指で総一郎の戒めを解いた。総一郎はしばらく地に膝をついたまま動かず、やがてゆっくりと自らの足で立ち上がった。

総一郎は声を荒げた。

「何ということをなさるのですか?私が自ら捕らえられた意味をお分かりにならないのか。お嬢様まで無本の一味とされてしまう」

「すでに無本に絡められた家です。これ以上悪くなりようもございません」

「これはお嬢様が出るべきことではない」

ユ野は総一郎の目をまっすぐに見た。

「歩く屍に添うと申した者にございます。生きるも死ぬも、共にすべきことでございましょう」

総一郎は口をつぐんだ。言い返す言葉がなかったからではない。ユ野の目に一つの揺らぎも見い出せなかったからであった。

この頃、与田美は自ら動いていた。父分の真を松浦の手の者に預けて安全な場所へかくまわせた後、人内兵庫の手下たちが総一郎の行方を追って山へ向かう支度をしているのを物陰から聞き取った。誰かに命じられたわけではなかった。見たこと、聞いたことを語ると自ら決めたのは、美自身であった。美は音を立てぬよう足音を整え、一行の後を追った。

ユ野は父現場の様子を確かめた。現場の手の震えと記憶の濁りは、日を追って悪化していた。しかし妙なことがあった。症状が悪くなる日は、決まって新しい薬を煎じて飲んだ翌日であった。ユ野は薬を煎じた器の底に残るかすを掻き集め、石田の元へ持っていった。石田はかすを見て顔を張らせた。

「これは尺投げの歯です。養生薬にこれが混ぜられていたとすれば、飲むほどに正気が曇り、震えが強くなります」

薬剤を納めていた薬屋は人内兵庫を恐れて口を割らなかったが、松浦介助が薬屋の家族を安全な場所へ移してから、ようやく吉兵の差しずで毒を入れたと自白した。

その夜も現場はもうろうとしながら、同じ言葉を繰り返していた。

「星の見えぬ場所に、星の軸を埋めた」

ユ野は幼い頃、父と二人きりで山の奥深くに登った日を思い出した。今は使われぬ古い星見台があった場所であった。ユ野と総一郎、松浦介助、おこの四人は山道を半日歩いて、廃れた星見台へたどり着いた。かつて星を見るために建てられた場所は、今では草々に覆われ、窓や格子は崩れ落ち、天測に使う道具は持ち去られ、見るために建てられた場所でありながら、今はもう見ることのできぬ場所となっていた。

ユ野は石壁を指先でなぞりながら改めた。壁の一角に、星座の記号と数字が刻まれていた。

「これは高田裕様がお残しになった印にございます」

ユ野は人層役として学んだ歴法の知識と、幼い頃父から聞いた星座の話を思い起こした。北斗七星の絵が指す方角、その傍らに刻まれた数字は三十三番目の石を示していた。総一郎がその石を押すと、壁の内側に小さな空間が開いた。中にあったコン天技の中軸を回すと、油紙に包まれた密書が現れた。

父の筆跡を見た瞬間、総一郎の手が震え、目元が赤くなった。密書には、加立ての日付と加担者の名前、記録を改ざんした経緯、偽造された書状の存在、そして総一郎の筆跡が用いられた偽の所上を本物と突き合わせて照合できる記録が記されていた。そして最後に一文が加えられていた。

「この密書を守る者は人層薬派や世言場である。彼はこの一見に関与しておらず、罪に問わぬことを切に願う」

ユ野の目から涙がこぼれた。

「これだけでは足りない。彼川の下に偽の顔うと原本の帳簿が揃って初めて、加立てを完全に明かすことができる」

総一郎は言った。その時、美が息を切らせて駆け込んできた。

「人内様たちが、すぐそこまで」

松浦が窓の外を見ると、人内兵庫と吉兵、引き連れた武士に十名ほどが、廃れた星見台を取り囲んでいた。

「密書と共に出てくれば、命だけは助けてやろう」

総一郎が答えずにいると、人内兵庫は待たなかった。

「火を放て。証拠も人も、一度に始末せよ」

武士たちが星見台に油を巻いた。乾いた草が瞬く間に火を吸い込んだ。熱気が石壁を伝って登ってきた。

「奥の石壁の方へ行け」

総一郎が言った。松浦介助と美がおこの手を取って裏手へ向かう間、燃え落ちた梁がきしみながら崩れ落ちた。ユ野は松浦介助をかばって押しのけたが、自らは避けきれず、崩れた柱がユ野の足の上に落ちた。

「密書を先にお持ちになって。これがなければ何もありません」

総一郎はほんの一瞬立ち尽くした。命か、真実か。しかし三年間、死んだふりをして生きてきた男が、初めて自分の意思で答えを選んだ瞬間であった。総一郎は密書を懐に押し込むと、ユ野の元へ駆け戻った。毒と拷問の後遺症が残る体で、崩れた柱を両手で掴み、歯を食い縛って持ち上げた。ユ野が足を抜くと、総一郎はユ野の腰を抱えて崩れた壁の方へ走った。燃える梁が背後で音を立てて崩れ落ち、熱風が背を焼いた。二人は石壁の隙間から抜け出し、草に倒れ込んだ。夜空が見えた。

「大丈夫か?」

ユ野は頷きながら総一郎の腕を掴んだ。

「あなたの手は、何ともない」

何ともないはずがないことは明らかであったが、ユ野はそれ以上尋ねなかった。

廃れた星見台から抜け出した一行の前方を、人内兵庫が塞いでいた。刀を抜いた人内兵庫の顔は、松明の中で歪んでいた。

「よくも生き延びるものだな」

声が震えていた。

「幼い頃からそうであった。学問をすればお前が先じ、弓を引けばお前が勝ち。道を歩けば人々は私に道を譲り、お前を見た。お前が無本人のことをして下人に落ちた時、私は初めて息ができた。人々がようやく私を見始めたからだ。しかし、下人に落ちてもなお、女たちはお前を見た。鞭打っても、植えさせても、歩く屍にしても、人々がお前を見ることをやめなかった。人層役の娘までが一両を出してお前を買っていった」

人内兵庫の声が裏返った。

「どれほど壊しても終わりがなかった。なぜお前は死なぬのだ」

総一郎は人内兵庫を見つめた。怒りでも軽蔑でもない、古いものを見つめる目であった。

「それ故、陣の文書を清書する仕事だと偽って、偽の所上を書き写させたのか。自らの手で父を死に至らしめた加立てに使う品を作らせておいて、その事実を握って生涯口を封じようとしたのか」

人内兵庫の刀が止まった。ユ野は人内兵庫の顔を見つめていた。刀を握る手は震え、目は総一郎ではなく、仕切りに山の下ジ下の法学へ向いていた。

「この人が最も恐れているのは、総一郎の刀ではない。母方の叔父に見捨てられることだ」

ユ野が落ち着いた声で言った。

「もう一つ申し上げます。最木のとの神様はすでに動かれました。全ての罪を軍部行に着せて逃げられたという知らせです。隠せと命じたのは最木であり、総一郎様を下人に落としたのも最木、兵粮を横流ししたのも最木であると」

人内兵庫の顔が真っ白になった。

「嘘だ。おじ上が私を見捨てるはずがない」

「そうでしょうか。ならば、彼川の証拠を隠せと命じたのはどなたでしょう?軍業様が一人でなさったことでしょうか?」

人内兵庫の口から言葉が溢れ出た。

「彼川の一見は、お上が時々にお命じになったものだ。偽の顔うも、兵粮の帳簿も、加担者の名簿も、全てを最木が隠せとおっしゃったのだ。私一人がなしたことではない」

石壁の影に隠れていた松浦介助と、追ってきていた美が、その一部始終を聞いていた。

総一郎は人内兵庫に近づいた。人内兵庫が刀を振ったが、総一郎は手首を掴んでねじり、刀を落とさせた。人内兵庫は地に崩れ落ちた。

「殺せ」

嘲るように言う人内兵庫に、総一郎は落ちた刀を足で押しやりながら答えた。

「私の命は、私一人で決めるものではない。法と藩主様の御前に立たせる」

一行は清世人や浦の彼側へ向かった。ここの石板を取り除くと、小さな隠し部屋が現れ、偽の顔う、偽造された書状の原本、兵粮配分の帳簿、加担した者たちの所上が見つかった。陣夜からは一両の方向のうしと、総一郎の偽の死亡の書き付けも確保された。

松浦介助はその夜のうちに、商候スーツ通に書き写した。総一郎の行方を三年探し続けた道中で気づいてきた人脈を頼り、加立てを裏切った藩主を裏切る中心の一人、多目つけ核の重心の元へ、自ら証拠を届けたのである。高田ゆの密書と本物の記録を目にした重心は、再一波の中にすでに迷いを見せる者たちがいることを知っており、その夜のうちに動いた。翌朝には、陣夜の守備の一部が最木のとの神の命令に従うことを拒み始めていた。

追い詰められた人内兵庫は、夜のうちに清世人屋へ逃げ込んだが、与田分の神はすでに松浦介助の手の者にかくまわれた後であった。二人をまとめて半酒海へ抜けようとした人内兵庫の前に、総一郎が立っていた。最後の力でユ野の腕を掴もうとした人内兵庫の手首を、総一郎はたやすくひねり上げた。その瞬間、陣夜の城門が開き、旗を掲げた軍勢がなだれ込んできた。

「清瀬軍部行、人代表無本並びに殺人、文書偽造、兵粮横領の罪により、捕らえよ」

人内兵庫の顔から最後の血の気が抜けた。彼が鞭打ち、植えさせ、屑の中に打ち捨ててきた下人たちが並ぶ中で、誰も頭を下げなかった。今度は人内兵庫の方が、顔を上げられなかった。

藩主様は高田ゆの密書と偽の顔う、総一郎が騙されて書き写した偽の所上の経緯を、自ら確かめられた。ユ野が最後まで忠誠を貫き、無本の濡れ衣を着せられたことが明らかにされ、無本人という汚名は正式に晴らされた。高田家は再興され、不当に没収された旧領地と屋敷のうち正当な分が返され、高田の忠誠は藩の記録に長く残されることとなった。

藩主様は総一郎を御前に呼ばれた。下人として生きてきた癖が抜けず、三年間曲げてきた腰はすぐには伸びなかった。

「顔を上げよ」

総一郎が顔を上げると、藩主様は自ら座を降り、その肩を掴んだ。

「我が父が命をかけて守った座に、今再び好みがついた。高田だというに、覆うた恩をせめてその子に返したいと思う」

総一郎は父の後を継ぐ家老として、藩政に加わることを命じられた。

「ご恩、身に余ることにございます。ただ、再一派より没収された罪までは頂戴いたしねます。父の眼来の課題の身を取り戻したく存じます」

林瀬現場は証拠を守り抜いた功績を認められ、人層役の高い地位についた。美は無本の証拠を探し、数多くの命を救った功により、藩から表彰を受けた。松浦は高家の家老に戻り、おこは身を挺して脅しに屈せず真実を明らかにした功を認められた。最木のとの神と人内兵庫は、それぞれの罪に応じて裁かれた。

処刑を控えたある日であった。総一郎はユ野の前で深く頭を下げた。

「お嬢様は、歩く屍の無次郎に添うと仰せになりました。今、高田総一郎の名で改めてお願い申し上げます。私と夫婦になっていただけますか?」

ユ野は総一郎を見下ろして、微かに笑んだ。

「私が助けた人は無次郎であり、私が待っていた人は高田総一郎でした。どちらもあなたである以上、私の答えが変わることはございません」

婚礼が終わった後、総一郎は色褪せて皺の寄った一枚の紙を広げた。一両で下人を買い取った方向証であった。

「なぜそれを、お捨てにならず大切になさっておられるのですか?」

総一郎は紙を折りたたんで懐に入れながら答えた。

「これは下人であった痕跡ではございません。皆が私を見捨てた時、お嬢様だけが人として買い取ってくださった証にございます」

ユ野の目が熱くなった。

人の値打ちとは、一体どこにあるのだろうか。良い家に生まれれば尊い人であり、汚い境遇に落ちれば値打ちのない人になるのだろうか。立派な着物をまとえば丁重に扱われ、ボロをまとえば泣き虫のように扱われて良いのだろうか。

馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、と古くから言われる。順風の時は誰もが笑顔を作れる。しかし人の真の値打ちは、全てが崩れ落ちた時にこそ現れるものだ。持てるものを奪われ、名を消され、それでも折れずに残るものがあるならば、それこそがその人の真の力であり、その力を見抜く目もまた、同じだけの才覚を要する。

輝く外見に惑わされて称えることは易しい。しかし、見窄らしく壊れた人の中に、まだ消えぬ光を見い出すことは、真心を持って人を見つめる者だけができることである。

一両という値段がその人の全てではなかった。歩く屍という異名がその人の終わりではなかった。誰かがこの世で最も低い場所にいる時、その中にいる人を見つめてやれるかどうか。それこそが、人を人らしくする最も尊い力なのかもしれない。

今日の物語が心に残られた方は、身の周りで今一番苦しい時を過ごしている人を思い浮かべてみて欲しい。その人の見た目ではなく、心を一度だけ覗いてみて欲しい。あなたのその一度が、誰かにとってはもう一度生きていく理由になるかもしれないから。

やえ巻きでございました。

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