「あと1時間も持たないかもしれません」 その言葉を聞いた瞬間、足元の床が崩れ落ちるような感覚に襲われた。目の前の患者は、心臓と肺の両方に大きな負担がかかっている。早急な手術が必要だが、成功率は高いとは言えない。スタッフたちは皆、どうすればいいのかを必死に模索していた。 「こんな高難易度のオペ、誰ができるっていうんだ」…

「あと1時間も持たないかもしれません」 その言葉を聞いた瞬間、足元の床が崩れ落ちるような感覚に襲われた。目の前の患者は、心臓と肺の両方に大きな負担がかかっている。早急な手術が必要だが、成功率は高いとは言えない。スタッフたちは皆、どうすればいいのかを必死に模索していた。 「こんな高難易度のオペ、誰ができるっていうんだ」...

「あと1時間も持たないかもしれません」

その言葉を聞いた瞬間、足元の床が崩れ落ちるような感覚に襲われた。目の前の患者は、心臓と肺の両方に大きな負担がかかっている。早急な手術が必要だが、成功率は高いとは言えない。スタッフたちは皆、どうすればいいのかを必死に模索していた。

「こんな高難易度のオペ、誰ができるっていうんだ」

苛立ちと焦りが入り混じった声が廊下に響く。確かに、通常の技術や経験だけでは対応しきれない手術かもしれない。失敗すれば、たった一つの尊い命が途絶えてしまう。その重圧に、誰もが押しつぶされそうになっていた。

それでも、俺の中には彼女を救いたいという強い思いがあった。体が震え、視線が揺らぐ。しかし、腹を括って振り返り、俺は言った。

「俺が、俺がやります。やらせてください」

一瞬、周囲の動きが止まり、息を飲むような沈黙が広がる。だが、すぐに一人の医者が冷ややかな目を向けてきた。

「お前にできるのか? ここを逃げ出した弱虫じゃないか」

確かに、俺には後ろめたい過去がある。けれど、もう二度と自分をごまかすわけにはいかない。後ろ指を指されようが、その言葉を受け止めた上で前に進むしかないのだ。今、目の前で消えかけている命を放っておけない。過去の失敗があるからこそ、今度こそ最後まで諦めずに戦わなければ。そう心に誓った。

全てが終わるまで、俺はこの手を離すつもりはない。そして、この決断が俺の人生を大きく変えることになるのだった。

俺の名前は桜井。今は都会の片隅で家庭教師のバイトをしながら生活を繋いでいる。お金に余裕があるわけでもないし、特別な資格があるわけでもないけれど、俺なりにやりくりして毎日を過ごしている。家庭教師の仕事は、昔世話になったジムのおばちゃんの紹介だ。知り合いの娘さんが受験前で困ってるから、という口利きで、都会の家庭は格式が高そうに思えたが、想像していたよりずっと温かい家族で、俺もすぐに打ち解けられた。

最初に出会ったのは、俺が受け持つことになった高校生の女の子。名前は鈴。彼女はもうすぐ大学受験が迫っているというのに、色々悩んでいるらしい。実力はそこそこあるけど、問題の解き方にムラがあったり、受験の情報収集もまだ甘かったりと、これから詰め込むことが多そうだった。だけど、どこか一生懸命さを隠したがるタイプというか、ツンデレというか、素直じゃないと言ってしまえばそれまでなんだけど、それも含めて、いかにも高校生って感じで微笑ましかった。

そんな家に通い始めて数日後、俺はある人物に出会った。鈴の姉、七海さん。俺より一、二歳年上くらいだろうか。初めて顔を合わせた瞬間、正直驚いた。少し儚げな雰囲気をまとった美人な女性だった。パッと見は誰もが惹かれる綺麗な人なのに、どこか顔色が優れないというか、疲れを隠しているように見えた。

その日のことはよく覚えている。昼過ぎに鈴の家へ行くと、家のソファに七海さんが座っていたんだ。彼女は何やら分厚い資料を広げてパソコンへと向かっていたけど、目を伏せると一瞬肩を押さえていたのが見えた。慌ててごまかすように「こんにちは」と微笑んだけれど、唇がほんの少し青白く見えた。

俺がテーブルに教材を置くなり、七海さんが「はい、これ」と差し出す声に振り返った。そこには手のひらサイズのクッキーがいくつも並んでいて、ふんわりと甘い香りが漂っている。ほんの少し息苦しそうなのを隠すように、彼女は軽く笑みを浮かべた。

「実は今朝、ちょっと気晴らしに焼いたんです。よかったら味見してもらっていいですか?」

一見何でもなさそうに見えるが、先ほどから時折、彼女の唇が少しだけ青白くなっているのが分かる。だからこそ大丈夫かなと心配になるけれど、彼女はまるでそれを悟られないように明るく振る舞い、「どうぞどうぞ。焼きたてですよ」とクッキーを促すのだ。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

一枚手に取ってかじってみると、生地の端がサクッと崩れ、中からバターの風味が鼻をくすぐる。甘すぎず、ほんのり塩がアクセントになっていて、素直にうまい。

「これ、めちゃくちゃ美味しいです。お店で売ってるやつみたいですね」

「よかった。鈴もこのクッキーが大好きなんです。勉強で疲れる時に、少し甘いものがあるといいかなって思って」

そこへ、早速妹の鈴がやってきた。テーブルの横に立つなり、半ばふくれ顔で姉を見下ろす。

「姉ちゃん、またクッキー作ってたの? 自分だって課題が溜まって大変なんだから、少しは休めばいいのに」

「大丈夫だよ。ちょっと気分転換したかっただけだから」

鈴はそんな姉を少し気遣うように目を伏せるが、すぐに「あ、そうだ」と俺の方へ振り返った。

「ねえ、先生、どうせならお姉ちゃんの課題も手伝ってあげてよ。私より姉ちゃんの方が大量にレポート残してるんだよね。大学に行けてない分、在宅でやること山積みっていうか」

そういう鈴の声には、どこか申し訳なさと苛立ちが入り混じっていた。

「在宅で?」

俺が問い返すと、鈴は小さくため息をついてから説明を始めた。

「姉ちゃん、一応大学に通ってるんだけど、体が優れないからあんまり授業に出られないの。だから家でレポートとか課題をまとめて片付けるしかなくて、すごい量が溜まっちゃうんだよね。姉ちゃん自身も頑張ってるんだけど、どうしても追いつかなくなるみたい」

ちらりと姉の方を見やると、七海さんは気まずそうに視線をそらした。明るく振る舞おうとしていたけれど、さっきまで笑っていた口元が少し引き締まっているのが分かる。

「そっか。大変なんですね。じゃあ、空いた時間で手伝えるところはお手伝いしますよ」

俺がそう言うと、七海さんは戸惑いながらも恐縮そうに頭を下げた。

「すみません。本当に大学のことは自分でやらなきゃって分かってるんですけど、体調によっては1日中寝込んでしまうこともあって。クッキーはお礼にと思って焼いたのに、こんなお願いするなんて図々しいかもしれないですね」

「いえいえ、そんな。こちらこそご馳走になりました。鈴さんの勉強を見てる合間にも時間はありますから」

そう返すと、七海さんはふっと表情を柔らげた。そして、少し安心したように控えめな笑みを浮かべて「ありがとうございます」とつぶやく。その笑顔を見た瞬間、俺の胸にはまた一つ、彼女を手助けしたいという気持ちが強く芽生えていた。

七海さんは少し戸惑いながら、ノートパソコンと分厚い資料を取り出してきた。そこには学会報告のような専門的な単語が並んでいる。

「うわあ、これ、普通は1週間コースだよ」

鈴が隣から資料を覗き込んで驚く。

「いや、課題が積もりに積もっちゃって、どうしようかと思ってたところだったんだよね」

「じゃあ、今ちょうどいい機会ですね。少しまとめ方を教えますよ。あと、翻訳ツールの使いどころとか」

そう言って、俺は手元のノートを広げて英文の箇所を一つずつ噛み砕いていく。七海さんと鈴が次第に目を丸くしていくのが分かる。

「すごいですね。こんな風に順番に解読していくんだ」

七海さんが素直に感嘆の声をもらすと、隣で資料を覗き込んでいた鈴が目を丸くする。

「先生、どうしてそんなに頭がいいの? ていうか、そんなに頭いいんだったら、なんで家庭教師なんかしてるの? もっとすごい会社で働いててもおかしくないじゃん」

鈴に言われて、俺は思わず苦笑いした。確かに、バイトの身分でやっている理由を聞かれるのは当然かもしれないけれど、そこを突かれると少し複雑な気分だ。

「うん。色々あってね。一応社会に出て働いてはいたんだけど、なんて言うかな? 理想と現実のギャップっていうのかな? そういうのにちょっと疲れちゃったんだよ」

「ふうん。でも、先生みたいに説明うまくても頭もいいんだったら、本当にもったいないよ。じゃあさ、私がすごい大学に受かって、さらに就職でも大きな会社に入って偉くなって、先生がすごい人だっていうのを周りに証明してあげるよ」

言い放つと、鈴はにやりと笑って見せる。続けて「そしたら先生を雇ってあげるから」と、まるで子供の頃に交わす秘密の約束のような口調で言うものだから、思わず吹き出しそうになった。

「それは楽しみだな。じゃあ、その日が来るまで俺も腕を磨いておかないとね」

冗談めかしてそう返すと、鈴は「うん、絶対だよ」と唇を引き結んで頷いた。その横顔は分かりやすくやる気に満ちていて、なんだか俺まで元気をもらえたような気がする。

それからというもの、鈴の勉強を見ている合間で時間が空けば、俺は七海さんの方にも手を貸すようになった。元々苦手だという英語の資料や論文のまとめを中心に、翻訳ツールの使い方を教えたり、レポートの骨組みをどう作れば効率がいいかなどを一緒に考えたり。最初は「そんなに手伝ってもらうのは悪いです」なんて遠慮していたけれど、彼女も次第に素直に頼ってくれるようになっていった。

ただ、一つ気がかりだったのは、彼女の体調が本当に良くならないままなのではないかということだ。レポート作成の作業中も、ふと集中を切らした時に肩で息をしていたり、胸を押さえるような仕草をするのを、俺は見逃さなかった。気づかれないようにこっそり深呼吸を繰り返している姿を見ると、やっぱり無理をしているんだなと胸が苦しくなる。

ある日の夕方、家族はちょうど買い出しか何かで留守にしていて、俺は鈴の勉強が一段落した後、七海さんのレポートを手伝っていた。彼女はいくつかの文献を参照し、それをまとめる作業で少し手こずっていたようだ。

「ここの記述は文献AとBで真逆の結論が出てますけど、どうまとめます? 単純に両方の見解を並べておけばいいわけじゃないですよね」

ノートパソコンに向かう俺を横目に、七海さんは少し苦渋しながら指を顎に当てる。

「そうなんです。教授によっては、いろんな意見をただ羅列するだけだと自分の意見がないって評価を下げるって聞いて。かと言って、私にその専門的な知識があるわけでもないから、どっちか一方に偏るのは危険だし」

「なるほど。でも、同じテーマでも多角的に分析するのは大事ですよ。その上で、七海さんが注目したいポイントを強調してあげるとか、結論というよりは問題定義とか今後の研究課題として形にするとか」

「あ、なるほど。そういうまとめ方もありなんですね」

彼女はパッと目を見開いて、すぐにキーボードに向かった。作業がまた進み出したようで、俺もほっと胸を撫で下ろす。それでも、こうやって集中する時こそ危ない。彼女は自分の体調を後回しにしてしまうからだ。

「ちょっと一区切りつきましたし、一息入れませんか? 水分補給しながら軽くストレッチすると、頭もすっきりしますよ」

「え? あ、そ、そうですね。確かに少し休もうかな」

俺が声をかけると、七海さんは小さく頷いてから、はにかむように微笑んだ。作業の手を止めて伸びをすると、思ったより肩が凝っていたのか苦笑いを漏らしている。

「ありがとうございます。気を使ってくださってるのは分かってますよ。私、どうしても集中すると周りが見えなくなるから」

彼女は申し訳なさそうに肩をすぼめながら、机の上のファイルをそっと閉じる。そして、そっと視線を落としたまま、何かを決心するかのように口を開いた。

「あの……私がこんな風に体調を崩しやすいって、聞きました?」

「鈴さんから、姉が体が弱くてあまり大学に行けないくらいしか」

そう答えると、彼女は少しだけ苦笑いを浮かべる。さらにグラスの水を一口飲んでから、静かに続けた。

「実は、昔川で溺れた事故があって、それが原因で心臓と肺に後遺症が残ってるんです。小さい頃、親に止められていたのに興味本位で川辺まで行っちゃって、そのまま流されて。救助はされたけれど……」

そう語る表情には、深い後悔の色が見て取れた。言葉を区切るたびに当時の記憶が蘇るのか、声がかすかに震えている。

「家族が心配してくれるのは分かるけど、原因が私の好奇心だっただけに、どうしても自分のせいでこうなったって気持ちが拭えなくて。本当は大丈夫だなんて強がるべきじゃないのに、家族にこれ以上迷惑かけたくないって思うと、つい無理をしてしまうんです」

自分のせいで周囲に心配や迷惑をかけているという思い。彼女の声からは、それが痛いほど伝わってきた。俺は無意識に手を握りしめ、何か言葉をかけずにはいられなくなる。

「過去は変えられないですよ」

気がつけば、静かな声が自分の口から出ていた。

「いくら悔んでも、あの時に戻れるわけじゃない。でも、少なくともこうして生きていてくれることが、家族にとって一番の幸せじゃないかな」

「もし、あの事故で……もし、あのまま流されていたら」

切なそうに目を伏せたまま、七海さんは先を言い当てる。俺は強い気持ちを込めて首を振った。

「そうです。もしそんなことになっていたら、今以上に家族は苦しんだでしょう。あなたを救えなかった自分を責める日々が続いたはずです。だからこそ、あなたが生きているということ自体が、きっと何よりも大切なんですよ」

彼女の表情が崩れそうになるのを見て、俺の胸も締めつけられる。気安く慰めているわけじゃないけれど、これだけは本音だった。すると、七海さんはぐっと唇を噛み、ほんの少し潤んだ瞳のまま小さく笑った。

「ありがとう。桜井さんにそう言われると、不思議と楽になる気がします。家族には心配をかけたくないから、こういう気持ちをなかなか伝えられなくて。でも、こうやって誰かに話せるだけでも、少し違うんですね」

「いつでも言ってくださいね。俺はただの家庭教師かもしれないけど、少なくとも七海さんの話を聞くくらいの余裕はありますから」

そう言いながら微笑むと、彼女も少し照れたように顔を俯かせ、「ありがとうございます」と声を落とす。それからしばらくして、彼女はストレッチを終えて席に戻ると、俺の顔を見ながら「もう少しだけレポートを進めましょうか」と申し出た。何度か深呼吸をして息を整え、「やっぱり急ぎでまとめなきゃいけないところもあるから」とやる気を見せる。

「でも、無理はしないでくださいね。しんどくなったらすぐ言うこと。こればかりは約束してください」

「はい、分かってます。なんだか先生みたい」

彼女は少し照れ臭そうに笑いながらそう言って、まるでずる賢い子供みたいに俺を見上げた。心なしか、その笑みはさっきまでより柔らかい。

「先生ですから」

そう返すと、自然と目が合って、同時にどちらからともなく笑みがこぼれた。声を立てて笑うわけではないけれど、言葉にならない安心感みたいなものが俺たちの間を満たしていった。

ある日のこと、いつものように鈴の勉強を見に牧野家へ足を運ぶと、玄関から一歩入った瞬間、甘い香りに包まれた。バターとチョコと何かフルーツのような香りが入り混じっていて、思わず鼻をくんくんさせてしまう。

「いい匂いだな。クッキーとかケーキとか、色々作ってあるのかな」

そう思いながらリビングへ向かうと、見慣れたテーブルの上にずらりとお菓子が並んでいた。クッキーだけでも何種類あるんだろう? チョコチップにココア味、プレーン生地にアーモンドスライス。さらに小ぶりのカップケーキまで。

「あ、桜井さん、お疲れ様です」

ちょうどキッチンから七海さんが顔を出す。エプロンをつけて、小麦粉がついた指先をタオルで拭いている姿は、なんだか家庭的で、あの儚げだった表情からは想像もつかないほど元気そうだ。

「これ、どうしたんですか? すごい量ですね」

「ちょっと作りすぎちゃって。実は、大学の課題が教授からすごく褒められたんですよ。それに加えて、たまたま調子がいい日に大学へ行ったら、みんなが『あのレポート書いた人だよね』って話しかけてくれて、ちゃんと友達もできました」

七海さんは顔をほころばせながら、嬉しそうに報告してくれる。ほんの前まで大学に行くのさえ大変そうだった彼女が、こうして楽しそうな顔を見せてくれるなんて。俺は思わず目を細めてしまう。

「それは良かったですね。努力の成果が認められたわけだ」

「はい。今までどうしても体が弱いからって引け目を感じてたんですけど、いざ行ってみたら、そんなの気にしないよ。一緒に頑張ろうって言ってくれる人たちがいて。そう思ったら、なんだか生きてることがすごく幸せに感じたんです。それで、体調がいいのを言い訳に、ちょっと張り切ってお菓子を作りすぎちゃいました。鈴と桜井さんに食べてもらおうと思って」

そう言うと、彼女は照れ臭そうに笑いながらトレーを持ち上げる。その表情は、かつての陰りが嘘のように明るい。嬉しさが外見にも滲み出ているのが分かる。

「そうだったんですね。いや、いっぱい喜んで食べさせてもらいますよ。鈴さんの分もちゃんと残ってるかな?」

「大丈夫です。あっちの皿に山ほど」

その時、勢いよくドアが開き、バタバタと足音を鳴らして鈴が登場する。

「先生、これ、ほとんど私が食べるから」

「どんだけ食いしん坊なんだよ」

「いいじゃん、別に。ていうか、お姉ちゃん最近本当に調子良さそうだね。大学でも友達できたとか、珍しく楽しそうに喋ってたから何かなと思ってたら、なるほどね」

鈴はニヤニヤしながら姉の方を伺う。まるで何かを企んでいるかのようだ。七海さんもそれに気づき、少しだけうろたえた様子。

「えっと、だって桜井さんが色々手伝ってくれたおかげでレポートもうまくまとまったし、運動のタイミングとか休憩の取り方とかも教えてもらったから、体調管理もしやすくなって。本当に感謝してるの」

そして、まっすぐに俺の目を見て言う。

「ありがとうございます。桜井さんのおかげです。もしあのまま一人で抱え込んでいたら、今頃は何も変わってなかったと思います」

その瞳は純粋な感謝で満たされていて、まるで少し前まで悩み苦しんでいた人とは思えないほど輝いている。彼女がこうして前を向けるようになったのは、もちろん七海さん自身の努力が一番大きいけれど、少しだけでも力になれていたのなら、俺にとっても喜ばしいことだ。

「いえ、七海さんが頑張った結果ですよ。俺はちょっとしたアドバイスをしただけで」

「いやいや、先生、そのちょっとしたアドバイスが本物だからこそ、姉ちゃんが変わったんだってば」

鈴が茶々を入れるように口を挟んできた。

「ていうか、姉ちゃん、あんまり先生に惚れないでよね。先生は将来私の部下になるんだから」

なんて、まるで独り言のように言うから、七海さんは顔を赤らめてあたふたする。

「ちょ、ちょっと鈴、そんなこと言ってません」

「冗談、冗談。いや、でも先生、ちゃんと覚えててよ。私が偉くなったら先生を雇ってあげるって約束してるから」

鈴はウインクして見せる。こんな冗談めいた言い方をしても、本気で叶えるために努力するのが彼女だ。俺はその光景が微笑ましくて、思わず小さく笑ってしまう。

「了解、了解。じゃあ、俺もまだまだ修行しとかないとね」

俺がそう返すと、鈴は満足げに頷きながら、並んだお菓子を片っ端から物色し始めた。

「それじゃ、早速このクッキーからいただきます。あ、こっちにはチョコチップもある。姉ちゃん、どれも美味しそうじゃん」

テーブルに所狭しと並んだクッキーやカップケーキを囲んで、俺たちはワイワイと盛り上がっていた。甘い香りと賑やかな声が混ざり合う中、ふと七海さんがこちらの様子をちらりと見て、そっと席を立った。空になった皿をキッチンへ運ぶというので、俺も自然と手伝うため後を追う。皿をシンクに重ねてから洗おうと蛇口をひねると、七海さんが小さく声をかけてきた。

「桜井さん、わざわざありがとうございます。鈴が食べる量もすごいから、お皿どんどん増えちゃって」

「いえ、どの道俺も手伝いますから。七海さんは休んでてくださいよ」

そう返して水を出したところで、彼女がぽつりと言った。

「生きてるって、こんなに幸せなんですね」

「え?」

「こんな風に家族や桜井さん、大切な人たちと笑い合えるだけで、本当に幸せを感じられるようになりました。昔は家族に迷惑ばかりかけてると思って、罪悪感の方が強かったんです。でも、今は私が生きていることで誰かが喜んでくれるんだって思えるんです」

俺は返す言葉を飲み込む。こんなにも大きな進歩を遂げた彼女に、軽々しく何を言えるというのか。ただ胸が熱くなって、洗い物用のスポンジを握りしめたまま動けなくなる。

「ごめんなさい。桜井さんには色々と助けてもらってばかりで」

彼女は少しだけ顔を上げて、恥ずかしそうに笑った。

「いや、そんなことないですよ。七海さんが自分で一歩踏み出してきたんです。俺はちょっと背中を押しただけで」

「それでも、ありがとう」

もう一度そう呟いてから、七海さんは身を翻してリビングへ戻っていく。俺は皿を洗いながら、彼女の後ろ姿を見つめた。あの日から、七海さんの笑顔を支えられたら。そんな思いを抱きながらの日々が続いていた。ほんの少し前までは、彼女の顔に浮かぶ儚げな影が気になって仕方なかったのに、今では彼女の笑顔こそが俺の心を明るくしてくれる。日常の小さな変化がここまで人を変えるなんて、正直自分でも驚いていた。

だけど、人生はいつだって予想のつかない出来事が起こるものだ。それはある日の夕方。いつものように鈴の勉強を見に行くため牧野家の玄関を開けた瞬間だった。

出迎えに来るはずの鈴の姿が見えない。いつもなら「先生、今日は遅かったね」なんて言いながら顔を出してくるのに、妙に静まり返っている。少し胸騒ぎを覚えながら奥へと進むと、リビングのドアが開け放たれていた。どうやら人の気配はあるようだ。やや緊張しながら足を踏み入れると、そこには蒼白な顔をした鈴が立ち尽くし、その向こうで七海さんが倒れているのが目に飛び込んできた。

「七海さん!」

慌てて駆け寄ると、彼女はソファの前に崩れ落ちるように倒れ、息も荒く胸を押さえていた。唇は紫色に近く、前髪が張り付いている。

「先生、お姉ちゃんが……」

震える声で鈴が言いかけるが、状況は一目瞭然だった。彼女の呼吸は危険なほど浅く、まるで体に酸素が回っていないかのような様子だ。脈を確認しようと手首に触れると、嫌なほど早く脈打っていて、リズムも乱れている。

「救急車はもう呼んでる。父さんたちも今急いで戻ってくるって」

「分かった。じゃあ、落ち着いて。鈴さん、枕とタオルを持ってきてもらえる? 少し体を横向きにして、呼吸を確保したい」

俺はかつて培った知識を総動員しながら、できる限り的確に七海さんの体を支える。意識が途切れそうになる彼女の肩を優しく叩き、声をかけ続けた。ここで慌てると悪化させる恐れがある。何より、今はすぐに医療機関で適切な処置を受けないと危ない。

「ああ、桜井さん……」

か細い声で俺の名前を呼ぶ七海さんの目が、まるで一生懸命に何かを訴えているように見える。

「大丈夫。絶対助ける」

そう心の中で誓った。待っているうちにサイレンの音が近づいて、救急隊が牧野家の前へ到着した。玄関先で待機していた隊員たちがリビングへ駆け込み、七海さんの状態を確認する。呼吸は浅く、胸を押さえて苦しそうに息をしていて、脈も乱れている。

「これは専門的な処置が必要ですね。すぐ搬送します」

隊員がそう言うと、鈴が「私が一緒に乗っていきます」と即答した。父や母にも連絡を取っているようだが、まだ到着までは時間がかかるらしい。どうやら、まずは鈴が付き添い、救急車に同乗していくことになった。救急隊員が迷うような顔を見せた時、思わず俺は前に出た。

「あの、この辺りなら元々多少なりとも病院事情を知っているんですが……専門的な外科チームが必要であることは分かります。もし可能なら、佐倉大学病院に連絡を取ってください。心臓や肺の難しい症例を扱う専門チームがあって、対応が早いです」

そう早口に告げると、隊員が「分かりました。問い合わせてみましょう」と通信機器を使い始めた。

「大丈夫、鈴さん。きっと助かるから。俺もすぐ追いかける」

俺は鈴と視線を交わし、力強く頷いた。彼女も震える声で「うん」と返事をする。救急隊員と共に七海さんを乗せたストレッチャーが車内へ収められ、鈴も乗り込んでドアが閉まる。サイレンの音が再び鳴り響き、救急車が発進した。サイレンの音が遠ざかっていくのを尻目に、俺は飛び出すように道路へ出た。空のタクシーがちょうど通りかかったのが幸いだった。手を大きく振って止めると、運転手が軽く驚いたような顔をしながらも急ブレーキをかける。

「すみません。急いで佐倉大学病院まで行ってください」

ドアが開くや、俺は助手席へ滑り込むように乗り込んだ。運転手は驚きの表情を浮かべつつも、緊迫した空気を感じ取ったのか、すぐにアクセルを踏む。タクシーが走り出すと同時に、心臓がまたドクドクと音を立てているのが分かる。先ほどの七海さんの苦しそうな姿。仰向けになった顔と、一生懸命に彼女の手を握る鈴の震える声が、何度も頭の中でフラッシュバックする。どうか、間に合ってくれ。

タクシーを降りると同時に、俺は佐倉大学病院の緊急外来入り口へ駆け込んだ。自動ドアが開くと、すぐに鈴がこちらに気づいて駆け寄ってくる。目には不安の色がありありと浮かんでいた。

「先生、よかった。すぐ来てくれて。お姉ちゃん、さっき検査室に運ばれたけど、お医者さんが直ちにオペが必要だって」

「分かった。俺が話を聞いてくる。鈴さんはここで少し落ち着いて」

そう言って、まだ震える鈴の肩を軽く叩き、俺は受付から案内された通路を奥へと進んでいった。院内は独特の消毒の匂いが立ち込めていて、肌寒いほど静かな緊張が張り詰めている。検査室を抜けた先の小さな待ち合いスペースに、白衣を着た医者が一人立っていた。彼は俺の顔を見て、最初に軽く驚いたような表情を浮かべる。

「あなたは、まさか桜井先生じゃないですか?」

「ええ、久しぶりです。彼女の容態はどうなんですか?」

再会を驚くよりも先に、俺が切迫した声で尋ねると、その医者は苦しい表情のまま首を振った。

「危険な状態です。心臓と肺、両方に大きな負担がかかっていて、早急に手術が必要だと判断しました。ですが、かなり高度なオペになります。成功率は、正直高いとは言えません。でも、このまま何もしなければ、もって1時間が限界です」

その言葉を聞いただけで胸がざわつく。七海さんの病状は想像以上に深刻だ。だけど、だからこそ今すぐ手術を行わなければ手遅れになるだろう。

「俺にやらせてください。俺なら、1時間もかけずに救って見せます」

口をついて出た言葉に、医者が目を見開く。そして、すぐに顔をほころばせ、安堵したように息を漏らした。

「あなたが……それは心強い。実は我々も、そこまで高度なオペができる医師を今すぐ呼び出せるかどうかという問題がありまして。正直、かつての桜井先生なら……」

そこまで言いかけた時、廊下の奥から声が響いた。

「誰かと思えば、桜井じゃないか」

振り返ると、白衣に腕を組んだ人物がニヤリと口元を歪めている。かつての大学病院に在籍していた頃、散々俺を嫌味で煽ってきた教授。緑戸教授だ。あの頃と全く変わらない嫌な笑みを浮かべながら、こちらに近づいてくる。

「ふん。随分久しぶりだな、桜井。どの面下げて戻ってきたんだ」

嫌味な声には、かつてと同じ傲慢さが滲んでいる。だが、今はそんな因縁に構っている余裕はない。胸の奥で込み上げる悔しさをぐっと押し殺し、俺は頭を下げた。

「緑戸教授、お願いがあります。どうか、彼女を救うための手術をやらせてください」

それだけ言うと、緑戸は鼻先で笑うように口元を歪め、あざけるような目つきで答えた。

「はっ。お前が勝手にここを去ったんだろう。それを今更戻ってきて、指示させろなんて、随分虫のいい話じゃないか」

その横には、かつての医師たちも立っていて、彼らもまた懐かしそうに、そして見下すように俺を眺めている。周囲の視線が冷たいのは分かる。それでも、今七海さんを救うためなら、どんな屈辱も耐えて見せる覚悟だった。

「お願いします。彼女を救いたい。どうか、俺に指示させてください」

「はあ。勝手にやめたくせに。今更病院の設備を使わせろとでも言うのか。自分勝手も大概にしろ」

教授は嘲るように笑いながら言葉を続ける。

「お前がやめた後、うちはただでさえ人手不足だったのに、グループ内で不穏な噂が立つわ。本当迷惑してたんだよ。今更のこのこ戻ってきて、手術をやらせてくださいなんて、笑わせるな」

目の前がカーッと熱くなるような屈辱感。しかし、ここで怒りをぶつけても何の意味もない。俺は奥歯を噛み、七海さんの姿を思い浮かべる。彼女の苦しそうな息遣いと、泣きそうな鈴の顔を思い出すだけで、下手なプライドなどどうでも良くなる。

「そうかもしれません。それでも、助けたいんです。彼女の命を、どうしても救いたいんですよ」

「ふっ。綺麗事だな。まあいい。そこまで言うなら、条件を出してやるよ」

教授が薄笑いを浮かべたのを見て、俺の背筋が寒くなる。きっとろくでもない話に違いないが、背を向ける余裕はない。

「成功したら、お前はまたうちの病院に戻って、今度こそ俺の言うことに従うんだ。分かるな。もう勝手にやめることは許さない。そして、このオペに失敗したらどうなるか、想像はつくよな。責任は全部お前一人が負え。病院は一切関知しない」

非情極まりない条件。それでも、俺は迷わず答えた。

「分かりました。受けます。その代わり、早急にオペの準備を」

教授は俺の返事を確認して、薄暗い笑みを深める。そこへ、と遠巻きに見ていた鈴が上ずった声をあげた。

「先生、先生って、お医者さんだったの?」

驚きと動揺が混ざった表情でこちらを見つめる鈴。今まで俺が医者であることを明かしてこなかったから、当然だろう。でも、今は説明している時間がない。

「ごめん、鈴さん。詳しい話は後で。とにかく、七海さんを助けるために、どうしても俺が手術するしかないんだ」

「うん」

鈴はまだ混乱している様子だったが、俺の決意を感じ取ってくれたのか、黙って唇を噛んだまま頷いた。

「よし、じゃあ、手術室を準備させよう。看護師たちに指示を出せ。桜井、しっかりやれよ。失敗は許されないからな」

教授が半ば脅すようにそう言い捨てて、廊下を去っていく。俺は手短に消毒準備や術式の確認をスタッフたちと話し合いながら、胸の奥で強く思う。屈辱だろうが何だろうが構わない。七海さんを救うためなら、どんな条件だって受け入れてやる。この手で必ず、彼女を生かして見せる。そう心に誓いながら、手術室へ向かうための白衣に袖を通した。

手術室の扉が閉まると同時に、俺は深く息を吐いた。気がつけば心臓が高鳴って、手のひらがじっとりと汗ばんでいる。かつて馴染んだはずの手術室の感触が、ひどく遠いもののように感じた。しかし、今は迷っている暇などない。七海さんを救う。それだけを胸に刻み、視線を上げると、スタッフたちとすれ違い様に最低限の打ち合わせを交わした。

「患者はすでに鎮静に入っています。呼吸と循環の管理は私たちが補佐しますから、手術に集中してください」

「ありがとう。早速だけど、血圧と心拍の動向をこまめに報告してくれ。最初の関わりで遅れるわけにはいかないんだ」

素早く器具の配置を確認しながら、俺はかつての記憶を総動員し、術式のシミュレーションを頭の中で反復する。医師をやめてから時間は経っているが、命を扱う責任感は決して錆びついてはいなかった。

「始めます」

自分自身に言い聞かせるようにそう呟き、メスを握った。必ず助ける。どんなに困難でも、この手で命を繋いで見せる。メスが皮膚を開いた瞬間、周囲の空気が凍りつくような張り詰めた静寂が訪れる。看護師が無駄のない動きで器具を渡してくれ、麻酔科医が患者のバイタルを読み上げる。モニターには心拍数や血圧が刻一刻と表示され、その数字の一つ一つが七海さんの生きる力を示すかのようだった。

手術は長い戦いだった。心臓と肺、どちらもダメージが大きく、しかも昔の事故による後遺症が複雑に絡んでいる。少しでも判断を誤れば、一気に容態が急変して命を落としかねない。どこでどう止血をして、どう補強するか。いくつもの選択肢を瞬時に検討しながら、成功への筋道を探り続ける。途中、脈拍が激しく乱れかけ、看護師が声を荒げた。

「血圧下がってきています、先生!」

「落ち着いて。大丈夫、対処できる。酸素投与を少し強化して」

深呼吸。心臓と肺を同時にケアする術式は、確かに極めて高度だ。だが、俺は大学病院に勤務していた頃、緑戸教授にしごかれながらも、同僚たちと切磋琢磨してきた。あの時は「こんな理不尽な現場、やってられるか」と投げ出したくなる夜も多かったが、身についた知識と技術だけは裏切らない。

「次、視野。ここを少し持ち上げて、視野を確保してくれ」

「了解です」

看護師が声を張り上げて的確にサポートする。何度も修羅場をくぐったその手つきは頼もしく、俺は動揺を振り払って集中を続ける。頼む。持ちこたえてくれ。まだ生きるには早すぎる。激しく脈打つ心音が伝わってくる。まるで、目の前で一生懸命に生きようとしている七海さんの声を直接感じ取っているかのようだった。

そして、それからどれほどの時間が経ったのだろう。長い長い戦いの末、最後の処置を終え、俺は大きく息を吐き出した。

「終わった。みんな、お疲れ様」

モニターに表示された心拍数は安定し、血圧や酸素濃度も持ち直している。まだ予断は許さないが、命はつなぎ止められた。看護師や医師たちが一斉に安堵のため息をつき、「すごい」と拍手が湧き起こりそうになるのをこらえるように、静かに息を飲み込む。

「患者をICUに移送しよう。術後管理が重要だ。よろしく頼む」

落ち着いた声を出しながらも、心臓は未だ大きく脈打っている。手袋を外す手がかすかに震えていた。間に合った。そう思った瞬間、溢れるような安堵が全身を駆け巡り、俺は込み上げる感情を一生懸命にこらえた。

手術後、しばらくしてICUの窓に七海さんの寝顔を確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。機械のサポートを受けながらも、確かな鼓動を刻んでいる。これから先、しばらくは入念なリハビリが必要だろうが、少なくとも助かった。そう言える状況までこぎつけることができた。

ICUの前で待っていた鈴が、俺を見つけるなり飛びつくように駆け寄ってくる。

「先生、本当に、本当に良かった」

彼女は涙をこらえきれず、子供のようにしくしく泣きながら俺の腕を掴む。

「大丈夫。七海さんは助かったよ。まだしばらく安静にしておく必要はあるけど、手術は成功したから」

「ありがとう」

鈴は言葉にならない声で何度も感謝を繰り返す。その姿を見ていると、俺も目頭が熱くなりそうだった。しかし、感動に浸っている暇はなかった。

「桜井」

背後から冷ややかな声が聞こえる。振り返ると、緑戸教授が腕を組み、険しい顔つきでこちらを睨んでいた。

「まさか手術を成功させるとはな。だが、これで終わりじゃないぞ。お前はうちの病院に戻るって条件を飲んだはずだろう」

緑戸教授の冷たい瞳からは、紛れもない勝利感が滲み出ている。まるで有能な駒を取り戻したとでも言わんばかりの口調に、俺は奥歯を噛んだ。確かに、かつての俺は緑戸教授にオペの腕だけは一人前と評価されていた。それは事実だ。だけど、その裏には数えきれないほどの理不尽を味わわされてきた。教授は難易度の高い手術やリスクの大きいケースを次々と俺に回してきた。もし万が一失敗したら、その責任は全て俺が追う。だが、うまくいった時には、教授自らオペの手柄を横取りし、自分の名声を高める材料にしていた。周囲のスタッフたちもみんなそれに気づいてはいたものの、彼の権力の前では声を上げることもできず、黙って従うしかなかった。

もちろん、命を救うことは俺にとって譲れない使命だ。どんな困難なオペでも、患者のために全力を尽くすことに一瞬の迷いもなかった。けれど、教授のやり方は次第に俺の心を蝕んでいった。患者を救うために尽くせば尽くすほど、それは教授の実績として扱われ、俺自身には「次の難症例を任せるぞ」というさらなる圧力がしかかる。しかも、教授の方針に少しでも疑問を示せば、容赦なく罵倒される。そんな日々に耐えかねた俺は、病院を去ることを選んだ。あのままでは、患者の命を守るどころか、自分自身が壊れてしまう。そんな危機感すら覚えていた。だからこそ、医者としての情熱を失いかけたまま、一度は全てを捨ててしまったのだ。

しかし、今この男は、その過去をなかったことにするかのような顔で、「俺が拾ってやる」などと言っている。悔しさと怒りが胸を焼くようだが、今は歯を食い縛り、何よりも大事な七海さんを救うために、彼の条件を飲むしかなかった。

「責任を持って、お前には再び医局で働いてもらう。いいな。あれだけ優秀な腕を持ちながら逃げ出したお前を、わざわざこの俺が拾ってやるんだ。ありがたく思え。今度は俺の言うことに逆らうなよ」

緑戸教授は有頂天に満ちた視線をこちらに突き刺す。あの頃と変わらない傲慢な態度に、吐き気すら覚えそうになるが、俺は奥歯を噛みしめて黙っていた。七海さんの命のことを考えれば、どんな屈辱も耐えられる。今はそう自分に言い聞かせるしかなかった。

鈴が横で眉を釣り上げ、何か言い返そうとした瞬間。

「緑戸先生、少しお話が」

低く落ち着いた声が廊下に響く。振り向くと、院長が厳粛な面持ちで立っていた。かつて俺がここで研修をしていた頃からお世話になっていた人物だ。

「おや、院長。ちょうどいいところに。桜井が戻ることになったんです。ご報告がてら、早速医局に手続きを」

「いいえ、緑戸先生。先にこちらの書類をご覧になってください」

院長が持ってきたファイルを開くと、そこには何やらいくつもの署名や証言書のようなものが束になっていた。緑戸教授がパラパラとめくるうちに、みるみるうちに顔色が変わっていくのが分かる。

「これは……先日から不正請求や患者への不誠実な対応があるという噂が絶えず、我々も内偵していました。その結果、緑戸先生が研究費の一部を私的流用していた疑惑が浮上しています。しかも、看護師やコメディカルからの苦情も多く、裏付けの証拠がいくつも上がってきた」

院長の声は淡々としているが、その内容は明らかに致死的だった。周囲のスタッフがざわめき、教授は目を見開いて言葉を失う。

「何を言ってるんです? 証拠なんて……」

「ここにある通りですよ。複数の医師や看護師が署名している。正直、これまで上層部も黙認していた部分はありますが、もう限界でしょう。しかも、今回桜井君が救急対応したおかげで、院内の士気が上がったんです。みんなが口を揃えて、桜井先生が戻ってきてくれればと」

淡々とした口調に隠された厳しさが、静かに緑戸教授を追い詰めていく。やがて教授は真っ青な顔で、どもりながらファイルをバサッと閉じた。

「そ、そんな……ふざけるな。俺がどれだけ病院を支えてきたと思ってる?」

騒いでいるうちに、病院の奥から医師や看護師、それに事務らしき人たちが次々と集まってくる。緊急時でもないのに、まるでこの場を取り囲むようにして続々と白衣の姿が増えていく様は、無言の圧力そのものだった。緑戸教授は嫌な予感がしたのか、振り返り様に声を荒げる。

「な、なんだお前たち。こんなところでうろうろしてる暇があったら、仕事に戻れ」

鋭い視線に看護師たちは一瞬怯んだように見えたが、誰一人としてその場を離れようとしない。むしろ、視線は硬い意思を宿したまま、じっと教授を見据えていた。

「どういうことだ? お前たち、私の指示を聞けないのか? まさか桜井の肩を持つなんて言わないだろうな。お前たちにここまでしてやったのに、忘れやがって」

もはや取り乱し、焦りと怒りが入り混じった声が廊下に響き渡る。だが、集まってきた看護師は皆、黙ったままだ。その沈黙そのものが、居場所を奪っていく。やがて、中堅の看護師が一歩前に出た。彼女は唇を強く結んでいたが、腹を括ったように視線を上げる。

「私たちは、もう見過ごせないんです。ずっと教授のやり方に疑問を感じても、口にできませんでした。けれど、院内のあちこちで不正が蔓延して、患者さんへの対応もごまかしが続いている。そろそろ限界なんです」

続けて、後ろに控えていた別の看護師や若い医師たちも一斉に口を開く。

「教授にはお世話になった面もあります。ですが、このままでは患者さんを守れません」

「先輩たちが声を上げられないなら、私たちがやらなければいけないと思いました」

その声が次から次へと重なり、廊下に広がっていく。そんな光景を見つめながら、俺は言葉をなくしていた。これが、まさにみんなの総意だ。

「こいつら、俺がどれだけ病院を支えてきたか知らないのか? 桜井、お前もだ。手術を成功させたのは大した腕かもしれんが、いい気になって」

悔しそうに唇を歪める教授の前に、俺は鈴の肩からそっと手を外し、一歩踏み出す。周囲の視線を背中に感じながら、静かに口を開いた。

「緑戸教授、あなたの功績を否定するつもりはありません。ですが、今ここにいるみんなが、自分たちの声で意思表示をしているんです。これが、病院の総意ですよ」

教授は血走った目で周囲をぐるりと見回した。だが、誰一人として視線をそらさなかった。かつてのように権威と威圧感で抑え込まれていたスタッフたちが、こうして一丸となっている。その事実だけで、緑戸教授の強権的な支配は形骸化したも同然だった。

「ふざけるな。こんな裏切り、認めるわけには……」

言葉とは裏腹に、その声はどこか上ずり、苛立ちを隠せていない。院長が穏やかな口調で「院長室へ行きましょうか」と重ねて促すと、教授は完全に打ちのめされたように肩を落とす。取り巻きだった医師たちも、やがて表情を曇らせながら教授の後ろをついていく。その光景を、看護師や医師の一団が遠巻きに見送る。もう誰も、表立って声をあげる必要はなかった。沈黙のままでも、はっきりと示されている。この病院に、あの傲慢を許す空気はもうない。

「先生」

鈴が隣でぽつりと声を漏らした。その瞳には、混乱と安堵が交錯しているように見える。大丈夫かと尋ねると、彼女はこくりと頷き、もう一度教授たちの去っていく背中を眺めた。そして、一言「こっちが本来の正しい姿だったんだろうね」とぽつりと呟いた。頷く間もなく、廊下の空気がわずかに動く。集まっていたスタッフたちが、「これからもよろしくお願いします、桜井先生」「手術、本当にお疲れ様でした」と、一人また一人と俺に声をかけてくる。俺はその度に短く「ありがとう」と返しながら、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。

もう逃げない。自分が過去に捨ててしまった場所を、こんな風に取り戻す日が来るなんて。そう思うと、自然と背筋が伸びた。そして、かすかに震える鈴の肩に再び手をやり、そっと励ますように力を込める。

「さ、落ち着いたら七海さんのところへ行こう。目を覚ましたら、きっと鈴さんの顔が一番見たいだろうから」

「うん。そうだね」

鈴はゆっくりと息をつき、後ろに残るスタッフたちへ小さく頭を下げた後、俺の隣を歩き出した。廊下の奥、ICUへと続く扉の向こうに、今は何より守りたい人が待っている。俺はその背を噛みしめながら、鈴と一緒に足早に進んだ。

それから数日後、驚異の回復力を見せた七海さんはICUから一般病棟に移り、その後の経過も順調だった。手術直後こそ朦朧としていた意識も、今では鮮明で、まだ胸に痛みは残るものの、「まるで息がしやすくなったみたい」と笑顔で言ってくれる日が増えてきた。緑戸教授の悪行が院長の手によって明るみに出てからというもの、病院の空気は一変した。研究費の私的流用やパワハラ疑惑は決定的となり、教授は正式に調査を受けるため姿を消した。院内では、医師も看護師もこれを機に新しい体制を作ろうと士気を高め合っている。

そんな中、院長から俺に正式な復帰依頼が届いた。

「桜井君、今回のオペは見事だった。君はやはり、うちの病院にとって貴重な人材だよ」

そう言われた時、俺の胸は熱くなった。かつては嫌気が差して飛び出した場所なのに、今また迎えようとしてくれる。その思いは本当にありがたく嬉しいけれど、俺の中には一つだけ譲れない条件があった。

「ありがとうございます。ただ、まだ大学受験を控えている子をきちんと見届けたいんです。僕が家庭教師として受け持っている生徒がいます。その子の合格と、もう一人、手術をした患者さんの様子をある程度見守って、日常を取り戻すまでサポートしたい。勝手な願いかもしれませんが、もうしばらくは非常勤という形で働かせてもらえませんか?」

院長は意外そうに眉を上げてから、柔らかな笑みを浮かべて頷いてくれた。

「分かった。元々人手不足だから、是非とも常勤で戻って欲しかったが、患者と向き合う君の姿勢は、ここにいる誰もが認めている。そこまで熱意があるなら、非常勤でも構わないよ。いずれ落ち着いたら、正式に戻ってきてくれればいい」

そう言ってくれたのだ。こうして俺は、家庭教師と非常勤の医師の二足のわらじを履いて、もう少しだけ牧野家に関わり続けることになった。何より、俺自身がその生活に充実感を見出していた。七海さんのリハビリにも心配は尽きないし、鈴の大学受験もいよいよ大詰めだ。俺にできることなら、とことんサポートしたいと思う。

退院後、七海さんは自宅で療養を続けながら、少しずつ大学の課題を再開していた。体力を考慮して負荷を調整しつつ、無理のない範囲で勉強を進めている。それでも、前よりずっと顔色が良く、笑う回数も増えた気がする。一方の鈴は、相変わらず受験勉強に励み、俺が訪れると「先生、教えて教えて」と目を輝かせてくる。大変だけれど、頑張る姿を間近で見るのはやはり嬉しい。

そんなある日のこと、俺は病院に非常勤として出勤し、業務を終えてロビーに向かうと、見慣れたジムのおばちゃん。かつて俺に家庭教師の口を紹介してくれた女性とばったり会った。

「いやあ、桜井先生、聞いたわよ。緑戸教授の件で一旗揚げたって。非常勤として復帰したんですって」

「おばちゃん、久しぶり。元気そうだね」

「そりゃ元気よ。あんたの方こそ、すっかり立派なお医者さんになったね。あんたが桜村の田舎から出てきた時は、右も左も分からない研修医さんだったのにさ。時が立つのは早いもんだね」

その言葉に、俺は苦笑しながら頭をかいた。懐かしい呼び方。桜村出身の田舎者と揶揄されたのも、今となっては遠い昔の話だ。

「あの頃は確かに右も左も分からなくて、随分お世話になりましたよ。病院内の手続きとかも、全部おばちゃんに助けられてばっかりで」

おばちゃんと昔話を楽しそうに続けていると、ふと背後から静かな足音が近づいてきた。振り向くと、そこには七海さんの姿があった。検査の予約を取ろうとLINEしていたらしい。

「桜井先生、桜村のご出身なんですか?」

思わぬところで話を聞かれた俺は、少し気恥ずかしさを覚えながら頷く。

「ああ、そうなんだ。ちょっと前まであまり人に言わなかったけど、田舎者だってバレるとあれかなと思って」

すると、七海さんは「いえ、そんな」と首を振り、何かを思い出したかのように目を伏せる。

「祖父の家も、桜村の隣町なんです。正確には境い目くらいの集落で。子供の頃、川が流れてる場所があって、あそこが好きだったんです。でも、あの時、私そこで溺れて、大きな事故に……」

その言葉に、おばちゃんが「えっ」と目を丸くする。俺も心臓がドキリと跳ねるのを感じた。

「ちょ、ちょっと待って。まさか、先生が昔川で溺れた子を助けたって話をちらっと聞いたことあるけど、それって……」

おばちゃんが半ば冗談のように問いかけるけれど、その瞬間、七海さんの目が大きく見開かれた。

「先生、もしかして、その助けた子って、私だったんじゃないでしょうか。あの時、中学生ぐらいの男の子に引き上げられて、心臓マッサージを受けて、なんとか一命を取り止めたって、後から大人に聞いたんです。だけど、助けてくれた方は、救急車が来る前にどこかへ行ってしまったって。だから、私はずっとお礼も言えずにいたんです」

七海さんの瞳がかすかに潤み、今にも涙がこぼれそうになる。一方で、俺はと言うと、もう否定も言い逃れもできなかった。牧野家に家庭教師で通ううち、なんとなく「もしや」とは感じていたが、このタイミングで直接ぶつけられるとは思っていなかった。

「それは、多分俺だよ。まだガキだったから、とにかく一生懸命に引き上げて、心臓マッサージしたんだけど。本当にちゃんと助かってるか不安で、後から怖くなって、逃げるようにその場を離れたんだ。名前も聞かずに、ごめん」

頭を下げる俺を前に、七海さんは言葉を失う。おばちゃんが「ええっ」と大げさに驚いているのも耳に入らないほど、七海さんはじっと俺を見つめていた。しばらくすると、ぽろりと涙を落としながら、まるで安心したように笑う。

「そう、やっぱり先生だったんだ。私、ずっとあの人に会いたいと思ってたんです。どんな方かも分からないのに、夢の中では何度もお礼を言って。でも、現実では出会えなくて。だから、まさか二度も同じ人に命を救ってもらうなんて。本当に、こんな奇跡ってあるんですね」

「二度も」という言葉に、俺の胸はぎゅっと締めつけられる。あの時と今回の心臓と肺の手術。偶然とはいえ、七海さんとは命のやり取りで再び繋がってしまったのだ。

「本当にありがとう、先生。小さい頃からずっと、生きていられるのはあの人のおかげって思ってたけど、今こうして面と向かって言えるなんて」

そう言って涙ぐむ彼女を前に、俺はどうしても目を合わせられなかった。あの時、もし俺が怖くなって途中で逃げたりせず、最後まで的確な処置ができていれば、彼女はこんな大きな後遺症を抱えずに済んだかもしれない。その思いが、ずっと俺の中でくすぶり続けていた。だからこそ、今回の手術で絶対に助けたいと思ったし、医師を志すきっかけにもなった。でも、まさか家庭教師のバイト先で再会するなんて、思いもしなかったんだ。

本当は言うつもりなんてなかったんだ。あの時のことを思い出すたびに、自分の未熟さばかりが浮かんで。あの日、救急車が来る前に逃げるようにその場を去ったのは、正直怖かったからなんだ。もし助けられなかったら、って不安で。そのまま何も言えずに。それなのに、こうして再会してみたら、さらに君が後遺症で苦しんでるって聞いて。俺のせいでこんな思いをさせてるんじゃないかって、後悔で頭がいっぱいになった。

下を向いたまま唇を噛む俺を見つめていた七海さんが、そっと近づいてくる。そして、両手で俺の手に触れ、優しく顔を上げさせた。

「先生、顔をあげてください。そんな風に自分を責めないで。あの時助けてもらえなかったら、私はここにいません。今こうして家族と笑い合えるのも、もう一度手を伸ばしてくれた先生のおかげです。後遺症は辛いけど、だからと言って先生に罪があるなんて思ったことは、一度もありません」

真っすぐな瞳が、俺の罪悪感を溶かすように見つめる。その姿を見たら、どうしようもなく胸が詰まって、言葉にならないものが込み上げてきた。

「ごめん。そして、ありがとう。君がそう言ってくれるだけで、俺は救われるよ。医者としても、人としても、君に会えて、また命を救わせてもらえて、本当に良かった」

七海さんが恥ずかしそうに手を引くと、俺はつい反射的にその手を取ってしまったけれど、彼女は振りほどくどころか、そっと握り返してくれる。あ、不意に、俺も七海さんも一瞬言葉を失った。だけど、温かな指先が重なり合うと、さっきまでの気恥ずかしさはどこかへ消えて、胸の奥に優しいぬくもりが広がる。お互いがかすかに笑みを交わしたその時。

「おっと、なんだい、なんだい。二人とも盛り上がっちゃってるね。ここは病院の廊下よ」

不意に背後からおばちゃんの声が響いた。振り向けば、ニヤニヤとこちらを見つめる彼女の姿。途端に七海さんの顔がポッと赤く染まり、俺も耳の辺りが熱くなるのを感じた。

「おばちゃん、見ないふりしてくれていいのに」

「へへ、悪いわね。だって、いいもの見ちゃったわ。まあ、若いって素晴らしいわよ。続きはお二人さんでご勝手にどうぞ」

茶々を入れたおばちゃんが去ると、俺たちは顔を見合わせて思わず吹き出す。そして、改めて離れそうになった手を、今度は互いにしっかりと握りしめた。

あれから月日が流れ、春を迎えた。鈴は見事、第一志望の大学に合格した。合格発表の日、電話越しに喜びを爆発させる鈴の声を聞いて、俺も思わずガッツポーズを取ってしまった。

「やったな、鈴さん。おめでとう。これで将来の社長への道も一歩前進だな」

「でしょ、先生。ちゃんと私に雇われる準備しといてよね。医者やってる場合じゃないよ」

鈴は冗談めかしてそう言うが、その声には確かな自信が宿っていた。教える側としても、これ以上ないほどに嬉しい瞬間だ。一方の七海さんは、大学の課題をこなしながら少しずつ体力を取り戻し、今では「以前よりも胸が楽になった気がする」と笑ってくれるようになった。手術の成功とリハビリの成果で、彼女の未来にも明るい光が差し始めている。

何より、俺たちは恋人同士になった。と言っても、まだ周囲にはあまり大っぴらにしていない。それでも、たまに二人きりになると、お互いぎこちなく照れつつも、幸せを噛みしめる時間が増えていた。

過去は変えられない。でも、未来なら一緒に作っていける。これは、俺と七海さんが同時に口にした言葉でもある。川で溺れた彼女を中学生の俺が救ったあの日から、後遺症に苦しんだ時間や、一度は医者の道から逃げた自分。その全てを抱えながら、俺たちは二度と手を離さないと決めたのだ。これから先、何が起こるか分からない。七海さんの病状だって、まだ経過観察が続くし、俺の医者としての道もようやく踏み出したばかりだ。だけど、そうやって不安や葛藤を共有し合えるのなら、二人で一歩ずつ乗り越えていけるんじゃないか。自然と、そんな思いが胸に湧いてくる。

一歩、また一歩。もう逃げることはしない。大切な人たちと一緒に、未来を築いていくのだから。

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