ホテルのラウンジだった。磨き上げられた一枚板のテーブルの向こうで、その女性は深く頭を下げていた。背筋を伸ばしたまま何かを祈るような角度で、ナコドがほんの少しだけ席を外したその隙のことだった。
俺はすぐには言葉が出なかった。今日の見合いは俺にとって十五回目。これまで十四人、誰一人として二度目を望まなかった相手ばかりだ。それも俺がそうなるように仕組んできたのだから当然のことだった。ついさっき俺はこの人に、仕事は病院の清掃員ですと告げたばかりだった。振られるための嘘だ。
これまで十四回、それを聞いた相手は皆、分かりやすく顔色を変えて去っていった。なのにこの人は顔色ひとつ変えるどころか、こうして頭を下げている。
「ご迷惑なら構いません。でも、もう一度だけ会っていただけませんか」
声が震えていた。育ちの良さが滲む言葉遣いの中に、必死のようなものが混じっていた。俺は喉の奥が閉まるのを感じた。見合いが長い間止まっていた俺の時間を、もう一度動かすことになる。
その時の俺はまだ何も知らなかった。
俺の名前は立花レジ、三十六歳。職業は外科医だ。心臓血管外科。つまり人の心臓を診るのが俺の仕事だ。
後輩たちは俺のことを冗談半分に「神の手」などと呼ぶ。手術の成功率が病院でも上の方だからというだけの話で、俺はその呼ばれ方がどうにも好きになれない。手が動くのはただ、患者に死んで欲しくないからだ。それ以上の意味は本当はどこにもない。
立派な肩書きだと人は言うけれど、俺にとってその肩書きは時に重い鎧のようなものだった。それを身につけていると、人は俺の中身ではなく鎧の立派さばかりを見る。俺という人間そのものを見てくれる人は、いつの間にかいなくなっていた。そして俺は見合いの席ではいつも自分のことを病院の清掃員だと名乗っている。
なぜそんな嘘をついているのか。それを話すには、少しだけ昔のことから語らせてほしい。
俺の生まれた家は決して裕福ではなかった。父は俺が三歳の時に亡くなった。心臓の病だった。長く入院していたから、俺の中に残る父の記憶は白い病室の風景と結びついている。元気に外を歩く父の姿は、正直なところほとんど覚えていない。
ただ一つだけはっきりと覚えていることがある。父はベッドの上でよく折り紙を折ってくれた。中でも鶴が得意で、痩せた指でゆっくりと角を合わせては、俺の小さな手のひらに乗せてくれた。
「見てろよ。朝になればな、鶴は飛ぶんだ」
そう言って、折り上がった鶴の背中を指で軽く上に持ち上げる。それが父の口癖のようなものだった。どんなに苦しい夜でも、朝はきっと来る。鶴はその時飛ぶ。
父は自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。幼い俺にはその言葉の重さはまだ届いていなかった。
父が亡くなった後、母は女手一つで俺を育ててくれた。名前は立花トシ子。近所の食堂で朝から晩まで働き、家に帰っても内職の袋を縫っていた。指にいつも油の匂いがついていた。それでも母は貧しさを嘆いたことが一度もなかった。
「お金がなくたって、人として大事なことは別にちゃんとあるんだよ」
口癖のようにそう言って笑う人だった。そしてもう一つ、母はよく俺の頭に手を置いてこうも言った。
「人をね、肩書きや見た目で測っちゃいけない。その後ろにいる本当のその人を見てあげなさい」
当時の俺はその言葉の重さがよく分かっていなかった。ただ母がそう言うから、そういうものなのだろうと思っていただけだった。
母を支えてくれた人もいた。母が働いていた食堂の女将、ヨシエさんという人だ。母とは古い付き合いで、俺にとっては親戚のおばさんのような存在だった。給料日前になるとヨシエさんは決まって「煮物を作りすぎちゃってさ」と言って、大きな鍋ごとうちに届けてくれた。作りすぎたわけではないことくらい、子供の俺にも分かっていた。
俺が貧しさというものの本当の怖さを知ったのは、中学三年の冬だった。
母が倒れた。働き詰めの無理が祟ったのだろう。検査の結果は思っていたより重く、しばらく入院することになった。幸い母は治療が奏功して回復したけれど、その時俺は思い知ったのだ。お金がなければ満足な治療すら選べない。病院の窓口で診療明細を見つめながら、母に隠れて何度も指を折って計算した夜のことを、今でもよく覚えている。
金で命の重さが決まる。そんな世界がこの世にはある。父も、もしもっと早くもっといい治療を受けられていたら。考えても仕方のないことを、俺は何度も考えた。
母の手を握りながら、俺はその時静かに決めた。医者になろう。金のあるなしで誰かが命を諦めなければならない。そんな場所を少しでも変えたい。母のようにベッドの上で「ごめんね」と謝る人を、これ以上見たくない。
それからの俺はただひたすら走った。学費の安い高校を選び、奨学金を借り、空いた時間はアルバイトに当てた。母に少しでも楽をさせたくて、勉強だけは誰にも負けないようにした。医学部に進んでからも暮らしが楽になったわけではなかった。昼は実習に出て、夜は深夜までアルバイトに明け暮れた。それでも食堂のヨシエさんは、試験が近づくと黙って弁当を持たせてくれた。「勉強のしすぎで倒れたら元も子もないだろう」と笑いながら。
俺が今こうして人の命を預かる仕事につけているのは、母やヨシエさんのような人たちが、見えないところで俺を支えてくれていたからだ。その恩を俺は今も忘れていない。
国立大学の医学部に受かった日、母は台所で声をあげて泣いた。「お父さんに報告しなくちゃね」と。仏壇に置かれた父の写真の前に、俺たちは並んで座った。母は、いつか父が折ってくれた古い鶴を大事そうに写真の前に立てていた。色褪せた小さな鶴だった。
その鶴を見つめながら、俺は心の中で父に誓った。金のあるなしで命の重さが変わってしまう。そんな世界を少しでも全うな場所に変えてみせます、と。亡くなった父がくれたたった一羽の折り鶴は、俺にとって医者を志す初心そのものだった。何度くじけそうになっても、この鶴を思い出せばもう一度だけ前を向くことができた。
それから十八年ほどが過ぎた。俺は今、都内の大学病院で心臓血管外科をしている。父と同じ心臓の病で苦しむ人を一人でも多く助けたかった。だからこの科を選んだ。
研修の頃から俺には一つの癖があった。手術や検査を前にして不安で眠れずにいる患者のそばに行くと、ついその辺の紙で鶴を折ってしまうのだ。父がしてくれたように。
「大丈夫ですよ。朝はね、ちゃんと来ますから」
折った鶴を枕元にそっと置いて、そう声をかける。気休めだと笑われるかもしれない。それでも、不安な夜を越えようとしている人の手のひらに、何か一つでも残してあげたかった。
母の教えのおかげなのか、俺は患者を肩書きや見た目で見ることがなかった。社長だろうがその辺の酔っ払いだろうが、手術台の上では同じ一人の人間だ。心臓は相手が誰であろうと同じように動き、同じように止まる。
ただ皮肉なことに、俺自身が肩書きで見られる側になっていた。「神の手の立花先生」。その評判が広まると、俺の周りにはいつの間にか妙な人間関係ができていた。とりわけ縁談だ。医者という肩書き、大学病院という看板。それを目当てに近づいてくる人が後を絶たなかった。
一度だけ結婚を考えた相手もいたけれど、母がまた体調を崩し、俺が介護と激務に追われ始めた途端、その人は潮が引くように離れていった。別れ際に言われた言葉を俺は今でも覚えている。
「あなた、忙しすぎるもの。お医者様の奥さんってもっと優雅なものだと思ってた」
彼女が見ていたのは俺ではなく、俺の肩書きと、その肩書きが連れてくるはずの優雅な暮らしの方だったのだと、その時思い知った。人の手を直す仕事をしているのに、俺自身の心にはいつの間にかぽっかりと穴が開いていた。どれだけ手術を成功させても、どれだけ神の手と持ち上げられても、その穴は塞がらなかった。
それ以来、俺は人とまっすぐ向き合うのが少しだけ怖くなった。
そんな俺に見合いを進めてきたのは、他でもない母だった。「レジ、お母さんはね、あんたが幸せにしているところをちゃんとこの目で見たいんだよ」。病み上がりの母にそう言われては断れなかった。俺はしぶしぶ見合いを受けることにした。
ただ一つだけ自分なりの決め事をした。見合いの席では肩書きを全部外そう。神の手も大学病院も年収も、何もかも。その上で、それでも俺という人間に向き合ってくれる人がいるなら、その人こそ母が言っていた「本当のその人」を見てくれる人なのではないか。
だから俺は見合いの席で「清掃員です」と名乗ることにした。病院で働いてるのは本当だ。嘘の中にほんの少しだけ真実を混ぜた。結果はすでに話した通りだ。十四回、誰もが「清掃員」という三文字を聞いた途端、分かりやすく表情を変えて去っていった。「やっぱりな」と俺は毎回思った。そのうち感傷すらしなくなっていた。
そして十五回目の見合いの相手が、あの女性、霧ヶ谷シオリさんだった。
その日の見合いも、俺にとってはいつものことになるはずだった。場所は都内の古いホテルのラウンジ。ナコドに連れられて席に着くと、相手はもう先に来て待っていた。仕立てのいい淡い色のワンピースを着た女性だった。年は俺より少し下に見えた。背筋がすっと伸びていて、それでいてどこか寂しそうな目をしていた。
ナコドが彼女を紹介した。「霧ヶ谷シオリさんです。お父様は霧ヶ谷物産の社長さんでいらっしゃってね」。霧ヶ谷物産といえば、名前くらいは俺でも知っている大きな会社だ。つまり彼女はいわゆる社長令嬢というやつだった。
正直に言えば、俺は内心で身構えた。こういう家のお嬢さんならなおさら肩書きを気にするだろう。清掃員と名乗れば、これまでの誰よりも早く綺麗に帰ってしまうに違いない。だから俺はいつもより少し早めにその言葉を口にした。世間話もそこそこに、自分から切り出したのだ。
「申し遅れました。私は病院で清掃員をしております」
言い終われば、あとは振られるのを待つだけだ。俺はテーブルの一点を見つめて、相手が表情を変えるのを半ば諦めた気持ちで待った。
ところが、いつまで経ってもその変化が来なかった。顔を上げると、シオリさんはまっすぐに俺を見ていた。逃げるでも躊躇うでもなく、ただ静かに俺の目を見ていた。
「どうですか? お仕事は大変ですか?」
俺は面食らった。これまで一度もそんな風に聞かれたことがなかったからだ。
「ええ、朝は早いですし、人が使った後を片付けるのはまあ楽ではありませんね」
「でも、誰かがやらなければ病院は回りませんよね」
彼女は少しだけ目を細めてそう言った。
「私、思うんです。表に立つ人より、見えないところで誰かを支えている人の方がずっと尊いんじゃないかって」
お世辞には聞こえなかった。社交辞令で言える言葉でもなかった。彼女は本気でそう思っているように見えた。これまでの十四人は、「清掃員」という言葉を聞いた瞬間、まるでスイッチが切れたように目から光が消えた。それが当たり前だと俺は思っていた。世間とはそういうものだと。
なのに目の前のこの令嬢はその逆だった。「清掃員」という言葉を聞いて、むしろ目に温かい光を灯したのだ。俺は思わず彼女の顔をまじまじと見てしまった。何か裏があるのではないか。そんなひねくれた疑いすら頭をよぎった。それくらい俺は人の善意というものを信じられなくなっていたのかもしれない。
それからの時間は、これまでの十四回とはまるで違っていた。シオリさんは俺の話を一つ一つ丁寧に聞いてくれた。早起きの話、病院の朝の匂いの話、夜勤明けに食べるおにぎりが妙にうまい話。どれも清掃員という設定の中で出てくる、取るに足らない話ばかりだった。それでも彼女は、まるで大切な打ち明け話でも聞くように何度も小さく頷いた。
「立花さんのお話、なんだか温かいですね」
「温かいですか?」
「ええ。仕事のこと愚痴ってる感じがしないんです。誰かのために、っていうのが自然と伝わってくるというか」
俺は内心ドキリとした。清掃員の話をしているつもりで、いつの間にか医者として患者に向き合う時の気持ちが滲み出てしまっていたのかもしれない。慌てて話をそらそうとしたが、シオリさんはもう別のことを考えているようだった。何かを確かめるように俺の顔をじっと見ていた。
「ごめんなさい。あまりじろじろ見てしまって」
「いえ」
「どこかでお会いしたことがありませんでしたか?」
俺はドキリとしたけれど、いくら記憶をたどっても、こんな美しい社長令嬢に会った覚えなどあるはずもなかった。
「いや、多分初めてだと思いますが」
「そうですよね。すみません。変なことを言って」
彼女はふっと目を伏せたけれど、その表情にはまだ何か言いたげなものが残っていた。
気がつくと、俺の方が彼女のことを知りたくなっていた。シオリさんは自分のことをあまり語らなかった。父親が社長であること、一人娘であること、それくらいしか口にしなかった。ただ母親の話になった時、彼女の表情が一瞬ふっと曇ったのを、俺は見逃さなかった。
「母は、八年前に亡くなりました」
「そうでしたか」
「優しい人でした。私のたった一人の味方で」
それ以上彼女は語らなかった。俺もそれ以上は聞かなかった。聞いてはいけないような気がしたのだ。
やがてナコドが席を外した。化粧室にでも立ったのだろう。二人きりになったその短い時間、シオリさんは不意に姿勢を正した。そして深く頭を下げたのだ。
「あなたを、ずっと探していたんです」
それが冒頭の場面だ。
俺は彼女が何を言っているのかまるで理解できなかった。探していた? この人が、俺を? 今日初めて会ったはずの、清掃員の俺を?
「ご迷惑なら構いません。でも、もう一度だけ会っていただけませんか」
震える声で彼女はもう一度頭を下げた。俺は断ることができなかった。断る理由をとっさに一つも思いつけなかったのだ。
「考えさせてください」
それを言うのが俺にできた精一杯だった。
その夜、俺は帰り道の歩道橋の上で立ち止まり、しばらく夜の街を眺めていた。車のライトが川のように流れていく。風が冷たかった。
彼女のあの真っすぐな目が頭から離れなかった。あんな風に俺を見た人は、本当に久しぶりだった気がした。なぜ彼女は清掃員と聞いても態度を変えなかったのか。なぜ俺を探していたなどと言ったのか。問いばかりが浮かんで、答えは一つも見つからなかった。
三日後、俺はナコドを通してもう一度会いたいとシオリさんに伝えた。自分でもなぜそうしたのかうまく説明できなかった。ただあの夜の歩道橋で見た街の灯りと、彼女の声がどうしても頭から離れなかった。確かめたいことがある。でもそれが何なのか自分でも分からない。そんな気持ちだった。
二度目に会ったのは、病院近くの古い喫茶店だった。豪華なホテルのラウンジよりこういう店の方が落ち着くと、彼女の方から言ってくれたのだ。社長令嬢が、と俺は少し驚いた。
シオリさんは思っていたよりずっと気取りのない人だった。運ばれてきたコーヒーに自分でミルクを注ぎながら、よく笑った。彼女が笑うと、店の中が少しだけ明るくなるような気がした。
俺たちは随分いろんな話をした。と言っても、俺の方は清掃員という設定を崩せないから、ありきたりな話ばかりだ。それでもシオリさんは退屈そうな顔一つ見せなかった。
「立花さんは、お仕事のこと悪く言わないんですね」
コーヒーカップを両手で包みながら、彼女がぽつりと言った。
「掃除の仕事は大変でしょ、って同情する人はいても、誇りを持ってるみたいに話す人はあんまりいません」
俺は内心ドキリとした。清掃の仕事を語っているつもりで、いつの間にか医者としての自分の本音が滲んでいたのかもしれない。
「汚れた病室で、患者さんがほっと息をつく。それが見られれば、まあ悪くない仕事です」
シオリさんはその言葉を聞いて、ほんの少し目を見開いた。それから何かを噛みしめるようにゆっくりと頷いた。
「そうですね。本当にそうだと思います」
その横顔に、俺はなぜだか説明のつかない懐かしさを覚えた。気のせいだと、俺はその感覚を頭の隅に押しやった。
別れ際、シオリさんは「また会ってくれますか」とおずおずと聞いてきた。俺は「はい」と答えていた。気がつけば、次に会う約束まで自分から取り付けていた。
帰り道、俺は自分の心の内が、少し戸惑うほどに軽くなっているのに気づいた。考えてみれば、誰かと向かい合って肩書きの話も年収の話も一切せずに、ただ他愛もない話で笑い合うなんて、いつ以来だろう。患者の前では医者の顔を、職場では指導医の顔を、ずっと被り続けてきた。シオリさんの前では、そのどちらでもないただの俺でいられる気がした。
皮肉な話だった。肩書きを偽って清掃員と名乗っているのに、その嘘の中で俺は一番素のままの自分でいられたのだから。
それから俺たちは月に二度、三度と会うようになった。会うほどに、シオリさんという人が分かってきた。
彼女は霧ヶ谷家という大きな家の、たった一人の娘だった。母親を早くに亡くし、父親は会社のことで忙しく、家の中はいつもひっそりと静かだったという。
「子供の頃から習い事ばかりでした。父が全部決めるんです。私が何を好きで何を嫌いか、父は一度も聞いてくれたことがありません」
そう言って彼女は寂しそうに笑った。その笑い方が、なぜか俺の心をざわつかせた。
「母だけが私の味方でした。父に内緒で私の好きなお菓子を買ってきてくれて。母がいなくなってから、この家には私の味方が一人もいなくなってしまったんです」
俺はかける言葉を探したけれど見つけられなかった。ただ彼女の話を黙って聞いていた。
別の日、俺たちは川沿いの公園を並んで歩いた。休日の午後だった。シオリさんは買ってきた焼き芋を、子供のように尻尾の方から美味しそうにかじった。
「父は、こういうのは歩きたらないって言うんです。霧ヶ谷の娘が蚤食いなんて、って」
そう言っていたずらっぽく笑った。
「でも私、ずっとこういう普通の暮らしに憧れていたんです。誰かと川を見ながら焼き芋を食べて、しょうもないことで笑って。それだけでいいのに」
俺は彼女の横顔を見ながら、胸の奥がちくりと痛んだ。彼女が憧れている「普通」を、俺は生まれた時から当たり前に持っていた。貧しくても母と二人、食堂の賄いを分け合って笑い合ったあの食卓。それはこの人にとっては、手の届かない宝物だったのかもしれない。
「立花さんは、お母様と仲がいいんですか?」
「ええ、まあ、うるさいですけどね。今でも早く結婚しろってうるさくて」
「いいなあ。そういうの、いいな」
彼女が心からそう言っているのが分かって、俺はなんだか申し訳ない気持ちになった。俺はこの人に嘘をついている。清掃員だと偽って、本当の自分を隠している。この真っすぐな人に。
何度か本当のことを打ち明けようとしたけれど、その度に言葉が喉で錆びた。今更、実は医者だったと明かせば、彼女はどう思うだろう。騙していたのか、と失望させてしまうかもしれない。それが怖かった。
俺は、自分でも気づかないうちに、この人を失いたくないと思い始めていた。
ある時、いつもの喫茶店でシオリさんが化粧室に立った。一人になった俺は手持ち無沙汰になって、テーブルの上の紙ナプキンを一枚引き寄せた。そしてほとんど無意識に、それを折り始めていた。指が勝手に動く。角を合わせ、折り目をつけ、開いて潰す。父がそうしてくれたように。
出来上がったのは、小さな紙ナプキンの鶴だった。俺はそれをぼんやりとテーブルの隅に置いた。
シオリさんが席に戻ってきたのは、その時だった。彼女の足が止まった。俺が顔を上げると、シオリさんはテーブルの上の小さな鶴を凝視するように見つめていた。その顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。
「すみません。癖で。子供の頃からのしょうもない癖なんです」
俺は慌ててその鶴を引っ込めようとしたけれど、シオリさんは震える声で言った。
「それ、もらってもいいですか?」
「え?」
「その鶴をください。お願いします」
彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。俺はわけが分からないまま、その小さな鶴をそっと彼女の手のひらに乗せた。シオリさんはそれを両手で包み込むように持って、しばらく俯いていた。
「あの、何か嫌なことでも思い出させてしまいましたか?」
「いいえ、逆です。とても大切なことを思い出していました」
彼女は顔を上げて、涙の滲んだ目で、けれどはっきりと微笑んだ。
「立花さんは、その鶴をよく折られるんですか?」
「ええ、まあ、子供の頃からの癖で。亡くなった父がよく折ってくれたんです。それを見よう見まねで」
「お父様が」
シオリさんはその言葉を口の中で繰り返しているようだった。何かを確かめるように。そしてもう一度、手のひらの鶴に視線を落とした。
「素敵な癖ですね。きっとその鶴に救われた人が、どこかにいると思います」
俺はその言葉の意味を深くは考えなかった。ただ、彼女が高が紙ナプキンの鶴一つをこれほど大切にしてくれることが、なんだか照れ臭かった。
俺は何かとんでもなく大切なことに、自分が触れてしまったような気がしたけれど、それが何なのかはやはりまだ分からなかった。ただ一つだけ確かなことがあった。俺はこの人ともっと一緒にいたい。そうはっきりと思い始めていた。
清掃員の嘘の下で、こんなにも穏やかな気持ちになれるなら、いっそこのまま。そんな甘い考えが頭をよぎるようになっていた。
俺とシオリさんのことが、彼女の父親の耳に入るのにそう時間はかからなかった。ある日、シオリさんからひどく沈んだ声で電話があった。
「父が、立花さんのことを調べたみたいで」
俺の心臓が氷りついた。調べたというのは、医者であることがバレたのか。だが、そうではなかった。
「清掃員の方と娘が会っているなんて、霧ヶ谷の家としては認められないと。父はそう言っています」
俺は思わず苦笑しそうになった。皮肉なものだ。本当の俺は、世間で言えばいい肩書きを持っている。それを隠したせいで、今引き裂かれようとしている。けれど笑えなかった。これこそが俺の求めていた答えのはずだった。肩書きを外した時、人は俺をどう扱うのか。シオリさんの父親は「清掃員」という三文字だけで、俺という人間を顧みもせずに切り捨てた。世間とはそういうものだ。分かっていたことだった。
それでも、シオリさんの声が沈んでいるのが辛かった。
数日後、俺はシオリさんの父親に呼び出された。霧ヶ谷家の応接室だった。皮張りのソファーに、その人、霧ヶ谷総一郎さんは座っていた。仕立てのいいスーツを着た貫禄のある男だった。俺を一目見ると、値踏みするように上から下まで眺めた。
「君が娘の言う清掃員か」
「立花レジと申します」
「単刀直入に言おう。娘とは別れてもらいたい」
彼はコーヒーに口もつけず、そう切り出した。
「悪く思わんでくれ。これは身分の問題だ。うちにはうちにふさわしい縁談がある。実は取引先のご子息との話も進んでいてね」
俺は黙って聞いていた。
「君もいい大人だろう。娘の将来を本当に思うなら、身を引くのが賢明な判断というものだ」
「賢明な判断」。その言葉が、妙に耳に残った。
俺はここで、本当は医者です、ということもできた。そうすれば総一郎さんの態度はおそらく一変するだろう。手のひらを返すように、俺を歓迎するかもしれない。けれど、それをやってしまったら、俺は俺が一番軽蔑しているもの、肩書きで人をひれ伏させるそのやり方に、自分から負けることになる。それに、肩書きでひっくり返る縁談など、シオリさんに対しても失礼な気がした。
だから俺は何も言わなかった。
「お話は分かりました」
それだけ言って、俺はその家を辞した。
玄関を出て長い石畳のアプローチを歩いていると、後ろから足音が追いかけてきた。シオリさんだった。
「立花さん」
彼女は息を切らして俺の前に回り込んだ。その目は赤く腫れていた。応接室での話を、どこかで聞いていたのだろう。
「ごめんなさい。父がひどいことを」
「いいんです。当然のことですから」
「当然じゃありません」
彼女は強い口調で言い返した。こんな声を出す人だとは思っていなかった。
「立花さんがどんなお仕事をしていたって、私には関係ありません。私は立花さんのその人柄に惹かれたんです。それを肩書きだの身分だのって決めつけるなんて、私は絶対に嫌です」
俺ははっとさせられた。この人は本当に、肩書きで人を見ない人なのだ。俺がずっと探していたような人が、今目の前で俺のために泣いている。
なのに俺はまだ、嘘をついたままだった。
「シオリさん、少し頭を冷やしましょう。お互いに」
俺に言えたのはそれだけだった。情けない話だった。
その後、霧ヶ谷家は本格的に動き出した。シオリさんから途切れ途切れに届くメッセージで、俺はその様子を知った。父、総一郎さんは兼ねてから話のあった取引先の社長の息子との縁談を、一気に進め始めたのだ。相手は有名な大学を出て大きな会社で役員をしている、絵に書いたようなエリートだった。
「父がその方との食事会を勝手にセッティングしてしまって。私、行きたくないのに」
俺はそのメッセージを読みながら奥歯を噛んだ。俺が本当のことを話しさえすれば、状況は変わるかもしれない。心臓外科医という肩書きは、そのエリートにだって引けを取らないだろう。けれど、それをやってしまったら、結局俺も肩書きの土俵で殴り合うことになる。シオリさんを肩書きで勝ち取ることになる。それは、彼女のお母さんが残した願いとも、俺が母から教わったこととも、正反対のことだった。
それに俺は怖かったのだ。今更正体を明かして、もしシオリさんに「嘘つき」と詰められたら。その想像が、俺の足を竦ませた。
その夜、俺は実家に帰り、母にこれまでのことを打ち明けた。清掃員と名乗っていること、その相手と引き裂かれそうなこと、エリートとの縁談が進んでいること。母は台所でお茶を入れながら静かに聞いていた。そして湯呑みを俺の前に置くと、こう言った。
「レジ、あんた、その娘さんのことが好きなんだね」
俺は答えられなかったけれど、答えられないことが答えだった。
「だったらね、肩書きを隠すのも明かすのも、どっちでもいいの。大事なのは、あんたがあんた自身をその人にちゃんと見せてるかってことだよ」
「でも、今更医者だなんて言ったら、騙してたのかって嫌われるかもしれない」
母はふっと笑った。
「あらあら。神の手の立花先生でも、そんなことが怖いのかい」
それから母は少し真面目な顔になった。
「いいか、レジ。その娘さんがもし、あんたの肩書きを聞いて離れていくような人なら、それまでの縁だったってこと。でもね、お母さんはそうは思わないよ。だってその娘さんは、清掃員のあんたを選んでくれたんだろう。肩書きがゼロのあんたを、ちゃんと見てくれたんだろう」
俺は息を呑んだ。
「だったら、その人は本物だよ。あんたがずっと探してた、本物の人だよ」
母は昔と同じように、俺の頭に手を置いた。もう白髪の増えた、小さな手だった。
「逃げるのだけは、おやめ」
俺はその夜、なかなか眠れなかった。母の言葉が頭の中で何度もこだましていた。本物の人。俺がずっと探していた本物の人。それを、俺は自分の弱さのせいで失おうとしているのではないか。
そして追い打ちをかけるように、数日後、シオリさんから短いメッセージが届いた。
「父が、家から出してくれません。しばらくお会いできないかもしれません。ごめんなさい」
俺はそのメッセージを何度も読み返した。返信を打とうとして、何度も書いては消した。何を書いても薄っぺらく思えた。励ますのも違う。謝るのも違う。結局、俺は何の一言すら送ることができなかった。
病院の屋上に上がって、俺は暮れていく空を一人で眺めた。手術では迷わない。一秒の判断が命を分ける。なのに、自分のこととなると、俺はこんなにも臆病だった。手術用の手袋をはめれば、俺は誰よりも強くなれるのに、その手袋を外したただの立花レジは、どうしようもなく弱かった。
次の壁が立ちはだかっていた。俺はその壁の前で、自分の臆病さを持て余したまま立ち竦んでいた。
それから二週間ほど、シオリさんとは連絡が取れなかった。俺はこれで良かったのだと自分に言い聞かせようとした。住む世界が違う。最初からこうなる縁だったのだと。けれど心は言うことを聞かなかった。手術の合間にも、ふとあの紙ナプキンの鶴を握りしめた彼女の顔が浮かんでくるのだった。
仕事が手につかなかった。カルテを書く手が止まり、気がつくと窓の外をぼんやり眺めている。そんな自分に苦笑するしかなかった。
ある日、手術を終えた俺に、ベテランの看護師長がぽつりと声をかけてきた。長く俺を見てきてくれた、ミナさんという人だ。
「先生、最近なんだか心ここにあらずって感じですね」
「そんなに顔に出てますか?」
「出てますよ。先生がそんな顔するの珍しいから、みんな心配してます」
俺は苦笑いした。
「私から一つだけ。先生は人の心臓は何百と直した。でも、自分の心は後回しにしすぎですよ」
その言葉が妙に心に残った。自分の心を後回しに。確かに、俺はずっとそうしてきたのかもしれない。
その夜、俺は何度も携帯を手に取っては置いた。シオリさんに連絡しようか。いや、迷惑かもしれない。彼女は今、家で辛い思いをしているはずだ。俺が動けば、もっと追い詰めてしまうかもしれない。逃げるのと相手を思いやるのと、その区別が自分でもつかなくなっていた。
ある雨の日の夕方、俺の携帯が鳴った。シオリさんだった。
「今、少しだけ家を抜け出してきました。あの喫茶店にいるんです」
俺は白衣を脱ぐのも忘れて、病院を飛び出した。
喫茶店に駆け込むと、一番奥の席にシオリさんはいた。雨に濡れた肩をハンカチで抑えている。俺の顔を見ると、彼女は泣きそうな顔で、けれど少しだけ笑った。
その顔を見た時、俺の中の迷いは綺麗に消えていた。二週間あれほど悩んでいたのが嘘のようだった。会いたかった。ただそれだけだった。傘も差さずに走ってきたせいで、俺の肩もすっかり濡れていた。
「来てくださって、ありがとうございます」
俺たちはしばらく向かい合って座っていた。窓の外は雨だった。
「父が、来週あの御曹司の方と結納の話を進めようとしているんです」
彼女は温かいコーヒーに両手を添えたまま、ぽつりと言った。
「私がいくら嫌だと言っても聞いてくれません。『霧ヶ谷の娘として、それがお前の勤めだ』の一点張りで」
俺は何も言えなかった。
「今日はその打ち合わせだと言われていました。でも、私どうしてもその前に、立花さんにお話ししておきたいことがあって。だから、抜け出してきました」
雨が窓ガラスを静かに伝っていた。
「立花さんに黙って、よその方と話を進めるなんて、私にはできませんでした」
俺は彼女のその言葉だけで、胸がいっぱいになった。この人はこんなにも真摯に、俺のことを思ってくれている。それなのに、俺は。
俺が何かを言いかけた時、シオリさんは小さく首を振った。そして言葉を続けた。
「その前に、聞いていただきたいことがあるんです。どうして私が、こんなにも立花さんのことを思うのか。そのわけを」
やがてシオリさんは、膝の上に置いていた小さな革袋から何かを取り出した。布張りの手帳だった。そして、その手帳の間に大事に挟まれていたのは、色褪せた一羽の折り鶴だった。
俺の指が止まった。その折り方に見覚えがあった。見覚えがあるだけではない。それは、俺が折る鶴と寸分違わぬ折り方をしていた。羽の角度も、首の折り返しも、まるで俺自身が折ったかのようだった。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。なぜこの人が、こんな鶴を持っているのか。喫茶店で俺が折ったあの紙ナプキンの鶴とは別の鶴だ。もっと古く、もっと長く、誰かの手で大切にされてきた鶴だった。
「立花さんに聞いていただきたい話があるんです。私の母の話を」
彼女はその折り鶴をテーブルの上に置いた。
「十二年前のことです。私が十六歳の時でした」
俺の鼓動が早くなっていく。十二年前、俺は二十四歳。医者になりたての研修医だった。
「母はユミ子と言います。本当に優しい人でした。父が厳しい分、母が私の心を守ってくれていました。私がお茶やピアノのお稽古でクタクタになって帰ってくると、こっそりおにぎりを握ってくれて、冷たい麦茶と一緒に縁側で二人で食べるんです。それが私の一番の幸せな時間でした」
シオリさんの目が、遠くを見るように細められた。
「その母が、ある日、突然」
彼女は一度言葉を切った。
「母が突然倒れたんです。心臓の病気でした。救急車で運ばれて、その夜手術になりました」
シオリさんの声は静かだったけれど、長く抱えてきた重みがこもっていた。
「私、怖くて怖くて。手術が終わっても母の意識は戻らなくて。病院の廊下の長椅子で、一人でずっと震えていました。父は海外に出張中で、すぐには帰って来られなくて」
俺は息を呑んで聞いていた。
「そんな時、一人の若いお医者様が声をかけてくれたんです」
シオリさんの目から、すっと涙がこぼれた。
「『お母さんは頑張ってますよ』って。『あなたも少し休んだ方がいい』って。その先生は、他のお医者様みたいに偉そうじゃなかった。白衣もなんだかヨレヨレで、最初はお掃除の人かと思ったくらい」
シオリさんは懐かしむように目を細めた。
「私、霧ヶ谷の娘だから、周りの大人はいつもどこか慇懃無礼なんです。『お嬢様、お嬢様』って。でも、その先生だけは、私のことをただの、母親を心配する一人の子供として扱ってくれました。『怖がらなくていい』って、目を見て言ってくれて」
俺は何も言えなかった。喉の奥が詰まっていた。
「その先生が、母の意識が戻った後、眠れずにいる母の枕元に、これ、を折ってくれたんです」
シオリさんはテーブルの上の色褪せた鶴を、指でそっと撫でた。
「『大丈夫。朝はちゃんと来ますから』って。そう言って」
俺の中で、十二年前のあの夜が一気に蘇ってきた。
そうだ。確かにあった。研修医になりたての、ある冬の夜だった。当直だった俺の元に、心臓発作の中年女性が救急搬送されてきた。ストレッチャーで運び込まれてきた時、その人の唇はすでに紫色になりかけていた。一刻の猶予もなかった。
「血圧下がってます、先生!」
上級医の先生が飛んでくるまでのほんの数秒。それすら惜しかった。俺は必死だった。上級医について、夢中で処置に当たった。心臓マッサージ、点滴、検査、そして緊急手術。俺は研修医として、その手術に立ち会わせてもらった。
手術室の眩しいライトの下で、止まりかけた心臓がもう一度、力強く動き出した。その瞬間を、俺は今でもはっきりと覚えている。一晩中、俺はその人のそばを離れなかった。当直が明けていたけれど、帰る気にはなれなかった。
そして、その人は一命を取り留めた。
俺はまだ何の力もない研修医だったけれど、あの夜、初めて自分の手が誰かの命に確かに触れた。その手応えを感じたのだ。父を心臓の病で亡くし、母を貧しさの中で見てきた俺が、医者を志した。その一番最初の願いが、報われたような気がした。
意識が戻った後も、その女性は不安そうだった。また心臓が止まるのではないか。このまま目を閉じたら、二度と朝が来ないのではないか。そう言って、眠ることを怖がっていた。
俺はその枕元で、いつもの癖で鶴を折った。そして、まだ眠れずにいたその人の手のひらに、その鶴を握らせた。父がいつも俺に言ってくれた、あの言葉を添えて。どんなに長い夜も、いつか必ず開ける。鶴はその時に飛ぶのだ、と。
その女性はそれを聞いて、ようやく安心したように眠りに着いた。娘さんも、母親の手を握ったまま、こくりと頷いてくれた。
だが、その数日後、俺には兼ねてから決まっていた別の病院への移動が控えていた。慌ただしく病院を移ることになり、俺はあの親子に自分の名前を告げそびれたまま、その場を去ってしまった。きちんと挨拶もできなかったことが、ずっと心残りだった。
あの人は無事に退院できただろうか。その後、再発はしなかっただろうか。名前も知らないあの親子のことが、俺は十二年間ずっと心のどこかに引っかかっていた。
「あの時の、女の子」
俺は絞り出すように言った。
「その廊下で震えていた女の子は、あなただったんですか?」
シオリさんは涙をぽろぽろとこぼしながら、何度も頷いた。
「気づいてくださって、ありがとうございます」
俺は言葉を失っていた。目の前のこの人が、あの夜の少女だった。あの廊下の長椅子で、小さな体を震わせていた子だった。あの母親のそばで、俺の折る鶴をじっと見つめていた、あの子だったのだ。
あの親子は無事だっただろうか。十二年間ずっと心の隅に引っかかっていたその問いの答えが、今目の前にあった。あの夜の少女は、こんなにも真っすぐな目をした人に育っていた。俺はそれだけで、目の奥が熱くなった。
「母は、あの先生に命を救われたとずっと言っていました。なのにお礼も言えないまま、先生はいなくなってしまった。母はその先生のことを、亡くなるその日まで忘れませんでした」
シオリさんは布張りの手帳を両手で胸に抱いた。
「これは母の日記です。母はあの夜のことを、ここに書き残していました。『肩書きも名乗らず、ただ一人の人間として私のそばにいてくれた、あの折り鶴の先生』って」
俺はその手帳を見つめることしかできなかった。
「母は亡くなる前に言ったんです」
シオリさんはまっすぐに、俺の目を見た。
「『シオリ、お金や家柄で人を選んではいけないよ。あなた自身をまっすぐ見てくれる人を選びなさい。あの折り鶴の先生のような人を探しなさい』って」
雨の音が、店の中に静かに満ちていた。
「だから私、探していたんです。八年間ずっと。名前も知らない、顔もおぼろげにしか覚えていない、あの先生を。父が進めてくる縁談を全部断って。肩書きでもお金でもなく、ただあの夜の先生みたいに、人を一人の人間として見てくれる人を」
彼女は目元を指で抑えた。
「正直、もう無理かもしれないと思っていました。手がかりはこの鶴と母の日記だけ。先生の名前も、どこの病院に移ったのかも、何一つ分からなかったから。こんなの、雲を掴むような話だって、自分でも分かっていました。それでも諦められなかったんです。母が最後に私に託してくれた願いだったから。あの人を探すことだけが、母とまだ繋がっていられる唯一の方法のような気がして」
俺の目からも、こぼれ落ちずに涙が溢れた。
「だからあのお見合いで、立花さんが『清掃員です』って言った時、私は思ったんです。この人だって。肩書きを全部取り払って、それでも誰かのそばにいようとする、この人の感じ。あの夜の先生と同じだって」
シオリさんはテーブルの上の紙ナプキンの鶴と、色褪せた鶴を並べた。二羽の鶴は、まるで同じ手が折ったかのように、よく似た形をしていた。十二年の時を隔てて折られた二羽が、今、一枚のテーブルの上で向かい合っていた。
「そして、この鶴を見て確信しました」
俺はもう、嘘をつき続けることなどできなかった。いや、つきたくなかった。この人にだけは、ありのままの自分で向き合いたかった。ずっと肩書きを外した素の自分を見てほしいと願ってきたのに、いざそれを丸ごと見てくれる人が現れると、今度は隠していたことが申し訳なくてたまらなかった。
「シオリさん、俺は清掃員じゃありません」
シオリさんは静かに微笑んだ。
「知っています。あなたがお医者様だってことも、多分すごい先生だってことも」
俺は驚いて顔を上げた。
「でも、私は肩書きであなたを探していたんじゃありません。あの夜、名前も告げずに私とお母さんに鶴を折ってくれた、あなた自身を探していたんです」
そしてシオリさんは、ゆっくりと頭を下げた。
「結婚してください。ずっと、あなたを探していました」
十二年という月日が、その雨の日の喫茶店で、ようやく一つの場所にたどり着いた。俺は震える手で、彼女の手のひらの上の小さな鶴を、そっと包み込んだ。
それから、ユミ子さんの命日が巡ってきた。シオリさんは、母の命日に母の前できちんと俺を紹介したいと言った。父が何と言おうと、と。
俺は迷わなかった。母の言葉が背中を押していた。逃げるのだけはおやめ。俺はもう逃げないと決めていた。たとえ追い返されても、霧ヶ谷ユミ子さんの遺影の前でもう一度頭を下げよう。あの夜名乗れなかった非礼を、十二年越しに詫びよう。
翌朝、俺は霧ヶ谷家の門をくぐった。仏間には、ユミ子さんの遺影が飾られていた。穏やかな目をした、品のいい女性だった。そのお顔は、確かにシオリさんとよく似ていた。そして俺はその顔に、十二年前のあの夜、ベッドの上で不安そうにしていたあの患者さんの面影を、はっきりと重ねることができた。間違いない。この人だ。俺があの夜必死で手を尽くした、あの人だった。
俺は遺影に向かって、心の中で語りかけた。あの夜は名乗りもせずにいなくなって、すみませんでした。あなたがその後、長くは生きられなかったと知って、胸が痛みます。それでも、あなたが残してくれた言葉が、娘さんを俺のところまで連れてきてくれました。だからどうか、見ていてください。今度はもう、逃げませんから。
俺が仏壇の前に座った時、襖が開いて総一郎さんが入ってきた。俺の姿を見るなり、彼の顔色が変わった。
「君は、どういうつもりだ? 別れてくれと言ったはずだ」
そして彼は視線を娘へ向けた。
「シオリ。お前という子は、父さんの言うことが聞けないのか?」
低い声が仏間に響いた。シオリさんの肩がびくりと震えたけれど、彼女は逃げなかった。一歩前に出た。
「お父さん、お願いです。一つだけ、聞いてください」
シオリさんはあの布張りの手帳をぎゅっと抱えていた。母の日記だった。
「これは、お母さんの日記です。お母さんが亡くなる前まで、つけていた」
総一郎さんの表情が、わずかに動いた。
「お父さんは覚えていますか? 十二年前、お母さんが心臓の病気で倒れて、手術をしたこと」
「ああ、もちろんだ。わしはあの時、海外にいて間に合わなかった」
「その夜、母さんのそばにずっといてくれた、若いお医者様がいました」
総一郎さんは何かを思い出そうとするように、眉を潜めた。
「そういえば、ユミ子がよく言っていたな。『命の恩人の若い先生がいた』と。名前も名乗らずにいなくなってしまったと。だが、それが何だと言うんだ?」
シオリさんは震える指で日記のあるページを開いた。そして、静かに読み上げ始めた。
「今日も、あの折り鶴を眺めている。あの夜、肩書きも名乗らず、ただ一人の人間として私のそばにいてくれた、あの折り鶴の先生。よれよれの白衣で、まるでお掃除の人のようだった、あの先生が、私の命を救ってくれた」
俺の胸の奥が熱くなった。
「私はあの先生に教わった。人の値打ちは、肩書きや見た目では決まらないのだと。シオリには、いつかあの先生のように、人を一人の人間として見られる、そういう人と出会ってほしい」
シオリさんの声が震え始めていた。それでも、彼女は読むのをやめなかった。
「もし叶うなら、いつかその人にもう一度会って、『ありがとう』と伝えたい。それが叶わなくても、シオリがその人のような誰かに出会えたなら、母はそれだけで安心して旅立てます」
最後の一節を読み終えると、シオリさんは日記を胸に抱きしめた。母の願いの重みを確かめるように。
仏間が、しんと静まり返った。総一郎さんは立ち尽くしたまま、娘が読み上げる亡き妻の言葉を聞いていた。その手帳に並ぶ、見慣れた妻の筆跡を凝視するように見つめていた。妻がこんな思いを、こんな言葉を書き残していたことを、彼は今日初めて知ったのだろう。
シオリさんは顔を上げ、父をまっすぐに見た。
「父さん、その折り鶴の先生が、ここにいます」
俺はゆっくりと立ち上がった。そして、ずっと握りしめていた手のひらを開いた。そこには、今朝家を出る前に折ってきた、一羽の鶴があった。俺はそれを、ユミ子さんの遺影の前に、そっと備えた。
「ご無沙汰しております、というべきでしょうか。あの夜は、お名前も伺わず、ご挨拶もできないまま、失礼いたしました」
俺は深く頭を下げた。
「十二年前、あの病院で当直をしておりました研修医が、私です。立花レジと申します。今は同じ病院で、心臓血管外科をしております」
総一郎さんが息を呑むのが分かった。清掃員だと思って追い返した男が、医者だった。それも、自分の妻の命を救った当の本人だった。彼の中で、いくつもの事実が一度に繋がったのだろう。
「君が……君が、あの夜の……」
彼の視線が、俺の顔とユミ子さんの遺影と、その前の鶴を、何度も往復した。
「では、ユミ子がずっと言っていた『命の恩人』というのは」
「結果として、そういうことになります。と言っても、俺はまだ駆け出しの研修医で、上級医の先生について夢中で動いていただけです。誇れるようなことは、何も」
「お見合いの席で清掃員だと偽っていたことは、お詫びします。肩書きを外した時、それでも俺自身を見てくれる人がいるのか、それを確かめたかったのです。子供の頃から、母に『人を肩書きで測ってはいけない』と教わったものですから」
俺は顔を上げた。
「ユミ子さんをお救いできて、本当に良かった。あの夜のことは、十二年間ずっと忘れたことがありませんでした」
総一郎さんの唇が震えていた。彼はユミ子さんの遺影と、その前に備えられた小さな鶴を、交互に見つめていた。そして、その大きな体が、ゆっくりと崩れた。彼は畳に膝をつき、両手で顔を覆った。
「すまない」
絞り出すような声だった。
「わしは……わしは、何ということを。妻の命の恩人に向かって、『清掃員だ』と。ただそれだけで、君を追い返そうとした」
彼の指の間から、涙がこぼれ落ちていた。
「ユミ子はいつも言っていた。『あなたは人を肩書きでしか見ない人だと』。わしはその言葉の意味を、今日まで本当の意味では分かっていなかったのだ」
総一郎さんは這うようにしてユミ子さんの遺影の前まで進み出た。そして写真に向かって、震える声で語りかけた。
「ユミ子、すまなかった。私は、お前がどれだけ寂しい思いをしていたか、ちっとも分かっていなかった。お前が命を救われたと、あれほど大事にしていた人を、わしはこの手で追い返そうとしていたんだ」
彼の肩が、大きく上下していた。
「お前が残した言葉が、ちゃんとシオリをこの人のところへ連れてきてくれたんだな。お前は最後まで、この子の味方だったんだな」
シオリさんが父のそばに膝をついた。そして、その大きな背中に、静かに手を添えた。
「お父さん」
「シオリ。お前にも済まなかった。父さんはお前の幸せを願っていたつもりで、お前の気持ちを何一つ見ていなかった」
親子は、ユミ子さんの写真の前で、長い間肩を寄せ合っていた。俺はその光景にかける言葉を持たなかった。ただ、長い歳月が、この家に静かに満ちていくのを感じていた。亡くなったユミ子さんが、遺影の中からその和やかな様子を、穏やかに見守ってくれているような気がした。
どれくらいそうしていただろう。やがて総一郎さんは、ゆっくりと顔を上げた。目を真っ赤にしたまま、彼は俺の前に両手をついた。
「立花さん。いや、立花先生。どうか、頭を上げてくれ。頭を下げなければならないのは、わしの方だ」
俺は慌てて、彼の手を取った。骨ばった、大きな手だった。
「やめてください。先生なんて。俺はただ、あの夜自分にできることをしただけです」
総一郎さんは、何度も首を横に振った。
「あの夜、君がいてくれなかったら、ユミ子は助からなかったかもしれん。そして君がいなければ、ユミ子はシオリにあんな言葉を残せなかった」
彼は娘の方を見た。シオリさんは涙をこぼしながら、微笑んでいた。
「わしは君に『賢明な判断をしろ』と言った。身を引くのが賢明だと。だが、本当に賢明じゃなかったのは、わしの方だ」
総一郎さんは俺とシオリさんを交互に見て、深く頭を下げた。
「シオリを、よろしく頼む。肩書きじゃない。財産でもない。妻が見つけてくれた、君という人を信じる」
俺はシオリさんの方を向いた。彼女はあの雨の日と同じように、まっすぐに俺を見ていた。あの十二年前から、何一つ変わっていない目だった。
「シオリさん。返事が遅くなりました」
俺は彼女の手を、両手で包んだ。
「こちらこそ、俺と結婚してください。今度はもう、名乗らずに消えたりはしません。あなたのそばに、ずっといます」
シオリさんはくしゃっと顔を歪めて、何度も何度も頷いた。
「はい。はい」
ユミ子さんの遺影が、その様子を、いつもの穏やかな笑顔で見守ってくれているような気がした。
御曹司との縁談は、総一郎さんが自ら丁寧に断りを入れてくれた。先方には「娘に心に決めた人がいたものですから」と、頭を下げて回ったそうだ。あれほど家柄だ身分だと言っていた人が、である。人はこんなにも変われるものなのかと、俺は正直驚いた。
「レジ君。いや、レジさんと呼ばせてもらおうか」
帰り際、総一郎さんは俺の手をもう一度、強く握った。
「君は、清掃員でも医者でも、どちらでも良かったんだ。ユミ子が見抜いていたのは、君のその肩書きの後ろにある、人柄だった。わしは年がいもなく、それを君から教わったよ」
俺はただ、頭を下げた。
後日、俺はシオリさんを実家へ連れて行った。母は玄関先で、シオリさんの両手を自分の両手で包み込んだ。
「よく来てくれたね。レジを見つけてくれて、ありがとう」
「こちらこそです。レジさんに出会えて、本当に良かった」
母はシオリさんを仏壇の前へ案内した。そして、父の写真の横にずっと飾られている、あの色褪せた古い鶴を指さした。
「これね、レジのお父さんが入院していた時、レジに折ってくれた鶴なんですよ。レジが患者さんに鶴を折るのは、ここから始まったんです」
シオリさんはその小さな鶴を、まじまじと見つめた。その目から、ほろりと涙がこぼれた。
「そうだったんですね。この鶴が、巡り巡って母を、そして私を救ってくれたんですね」
シオリさんは自分のカバンから色褪せた鶴を取り出して、その隣に並べた。年月を経た二羽の鶴が、仏壇の前で静かに寄り添った。母はその様子を見て、何度も頷きながら目を潤ませていた。そして、仏壇の父の写真に、そっと語りかけた。
「お父さん、レジにね、やっと本当の家族ができますよ」
父の写真の横では、あの色褪せた古い鶴が、今日も静かに羽を広げていた。
それから、二年が過ぎた。
俺とシオリは、あの翌日の翌年の春に式を挙げた。派手な式はあげなかった。ユミ子さんの墓と、俺の父の仏壇に、二人で手を合わせる。それが俺たちの結婚式だった。
俺は今も同じ病院で、心臓を診ている。「神の手」という仰々しい呼び名も相変わらずだけれど、不思議と以前ほどには嫌ではなくなった。肩書きの後ろにいる本当の俺自身を、丸ごと見てくれる人が家で待っている。そう思えるだけで、俺は随分と強くなれた気がする。
かつて、どれだけ手術を成功させても塞がらなかった、あの心の穴。いつの間にか、それがすっかり消えていることに、俺はある日気がついた。穴を埋めてくれたのは、地位でも名声でもなかった。ただ、俺という人間をまっすぐに見てくれる、たった一人の人の眼差しだった。
朝、家を出る時、シオリはいつも玄関まで送りに来てくれる。
「今日も、誰かの朝を繋いであげてくださいね」
そう言って、俺の背中をぽんと押す。その一言があるだけで、俺は何時間の手術でも立っていられる気がするのだった。
結婚してから、シオリはよく俺の病院での一日を聞きたがった。今日はどんな患者さんがいたのか、どんな手術だったのか。俺が誰かの命を繋いだ日には、まるで自分のことのように喜んでくれた。肩書きや収入の話なんて、シオリは一度も口にしたことがない。そういう人が隣にいてくれること自体が、俺にはできすぎた幸せだった。
不安で眠れない患者さんの枕元に、そっと鶴を折って置く癖も、変わらない。
「大丈夫。朝はちゃんと来ますから」
そう声をかけると、患者さんは少しだけ安心したように笑ってくれる。その笑顔が、十二年前のあの夜からずっと、俺の手を動かし続けている。
シオリはあの母の日記を、今も大切に本棚の一番いい場所に置いている。時々それを開いては、母と静かに話をしているようだった。
総一郎さんは、すっかり人が変わったようになった。会社でも「肩書きで人を測るのをやめた」と、照れ臭そうに話してくれた。週末になると「孫はまだか」と電話をかけてくるのには、ちょっと辟易しているけれど。
そして、つい先日のこと。シオリが顔を赤らめながら、俺に一枚の写真を差し出した。それは、まだ小さな、小さな命の影が映ったエコー写真だった。
俺は、しばらく声が出なかった。
その夜、俺は新しい折り紙を一枚手に取った。そして、これまでで一番丁寧に、一羽の鶴を折った。生まれてくる子に、いつか渡すために。
「見てろよ。朝になればな、鶴は飛ぶんだ」
父が俺に言ってくれたあの言葉を、俺はまだ見ぬ我が子のために、小さく呟いた。隣で、シオリが俺の肩に頭を預けてきた。
「この子が生まれたら、お母さんのお墓に報告に行きましょうね。『お母さんが見つけてくれたお父さんですよ』って」
「ああ、そうだな。お母さん、きっと喜ぶよ」
俺は折り上がった鶴を、シオリの手のひらに乗せた。実家の仏壇に並ぶあの古い二羽の鶴の、新しい仲間になる一羽だった。
ユミ子さんが残してくれた言葉が、シオリを俺の元へ導いた。父が残してくれた折り鶴が、十二年の時を超えて、二人を結びつけた。人と人は、肩書きで繋がるんじゃない。きっと、誰かを思うその小さな心の一つ一つが、長い時間をかけて巡り巡って、繋がっていくのだ。
俺たちの新しい家族の物語は、まだ始まったばかりだった。



