「だって嫁は他人でしょ。」 三回忌の法要の日、義母は私の分だけお膳を用意しなかった。12人分の膳が並ぶ中、私は13人目だった。10年間、寺との連絡も、花も、供物も、塔婆も、全部私が用意してきた。それなのに、義母は親戚の前で私を「他人」と呼んだ。私は何も言い返さず、その場を立ち去った。でも、その30分後、寺で何が起きたか、私はまだ知らない。 コメントで続きを読んでください。

「だって嫁は他人でしょ。」 三回忌の法要の日、義母は私の分だけお膳を用意しなかった。12人分の膳が並ぶ中、私は13人目だった。10年間、寺との連絡も、花も、供物も、塔婆も、全部私が用意してきた。それなのに、義母は親戚の前で私を「他人」と呼んだ。私は何も言い返さず、その場を立ち去った。でも、その30分後、寺で何が起きたか、私はまだ知らない。 コメントで続きを読んでください。

「だって嫁は他人でしょ。」

義母は橋袋の束を持ったまま顔も上げずにそう言った。法事の後の食事の席、畳の上には12枚のお式が並んでいた。その日の出席者は私を入れて13人のはずだった。

「お母さん、私のお前は?」

義母は口の中で「ないわよ」とだけ言った。「今日はしおりの家族だけで食べたいの。法要が終わったら帰って。」

親戚の何人かが目を伏せた。誰も止めなかった。

三回忌の申し込みも、引き取りも、会場の手配も、全部私が引き受けてきた。それを知っているのは、この座敷では義母の他にいない。

義理の妹のしおりのことは、10年間、実の妹だと思ってきた。亡くなって2年になる。花も、供物も、お布施も、もう寺に渡してある。止めるつもりはなかった。

「わかりました。」

それだけ言って、私は座敷を出た。私が座るはずだった場所で、30分後に何が起きるのか、この時の私はまだ知らない。

私は月岡ちか、39歳。市民文化会館で体感の仕事をしている。体感というのは、会館の部屋を借りたい人から申し込みを受けて、日程を調整し、備品を揃え、鍵を渡し、当日その部屋に立ち会う仕事だ。地味な仕事だとよく言われる。実際に地味だと思う。それでも25歳から14年続けてきたのは、この仕事に一つだけ譲れない決まりがあるからだった。

申し込み書に書かれた名前と日付は、一時も間違えない。たったそれだけのことだが、一時違えば当日は取り返しがつかない。名前が違えば、その人はその部屋を借りていないことになる。日付が違えば、その人はその日そこにいていい人ではなくなる。名前と日付は、その人がその場にいていいという証だ。だから私は14年間、ずっと他人の名前を正しく書くことだけを考えて働いてきた。

夫は月岡正幸、41歳。住宅設備メーカーの営業所に務めている。10年前の4月に結婚した。私が29、正幸が31の時だ。私は一人っ子で、父は5年前に亡くなり、母は新潟で一人で暮らしている。月に一度、私はその母に電話をかける。母は口を挟まずに最後まで聞いて、「それでね」とだけ言う人だ。だから結婚した時、私には「兄弟」という言葉がまだよくわかっていなかった。

その言葉を教えてくれたのが、しおりだった。月岡しおり、正幸の7つ下の妹で、私が嫁いだ年に24歳になる子だった。保育士をしていて、休みの日は自転車で私の家まで来た。玄関を開けると、いつも両手にコンビニの袋を下げている。

「お兄ちゃんより、ちかさんの方が話しやすいんだよね。」

そう言って、しおりは勝手にこたつに入った。仕事の話をよくした。担任している子が給食を残す話、保護者に叱られた話、先輩の保育士に言われて泣いた話。私は口を挟まずに最後まで聞いた。聞き終えてから、「そうだったんだね」とだけ言った。

結婚して2年目の冬だった。話し終えたしおりが、こたつの天板に顎を乗せて私を見上げた。

「ちかさんのこと、お姉ちゃんって呼んでいい?」

私は湯飲みを持ったまま固まった。

「私、一人っ子だよ。」

「知ってる。だから聞いてるの。」

その日から、しおりは私をお姉ちゃんと呼んだ。ただし、義実家では「ちかさん」と呼び、二人きりの時だけ「お姉ちゃん」と呼んだ。呼び分けていたことに、私はしばらく思い至らなかった。気づいてからも、どうしてとは聞かなかった。聞けばあの子が答えに困る。それくらいのことは分かった。

義母のことは、初めからうまくいかなかった。結婚した年の春、義実家に親戚が10人ほど集まった。私は玄関で靴を揃え、麦茶を運び、灰皿を変えた。義母が私を親戚に引き合わせたのは、集まりが半分終わった頃だった。

「ああ、これはうちの息子の連れ合いです。」

連れ合い。それだけだった。名前は出てこなかった。親戚の一人が「お名前は?」と聞いてくれた。義母はそちらを見ずに答えた。

「ちかさん、えっと、どういう字だったかしらね。」

座敷が少し笑った。私も笑った。笑うところではなかったのだが、そこで笑わないと空気が固まると思ったからだ。

考えてみれば、義母は10年の間、私を名前で呼んだことがほとんどない。「あなた」とか「ちょっと」とか、「そこの人」と言われたこともある。人の名前を書いて暮らしている人間が、嫁いだ先で名前を呼ばれない。よその家の申し込み書に他人の名前を丁寧に書き入れて、自分の名前だけがどこにも書かれない。おかしな話だと思いながら、私はその話を誰にもしなかった。

その時、間の近くに座っていた義父が湯飲みを置いた。

「ちかさんだ。線に良いと書く。」

義父の義一はそういう人だった。口数は少ないのに、いる時だけ一言を出す。義母は「そうだったわね」と言って話題を変えた。

台所へ戻ると、しおりが洗い物に手を突っ込んでいた。

「お父さん、たまにああいうこと言うんだよ。」

「たまにでも嬉しいよ。」

私が笑うと、しおりは洗い桶から手を出して、濡れたまま胸を張った。

「じゃあ私は毎回言う。ちかさん、ちかさん、ちかさんって、3回。」

しおりは麦茶のグラスを一つ落とした。二人で床を拭いた。座敷からは笑い声が聞こえていた。

その日の帰り道、正幸は運転席で黙っていた。信号で止まってから、「ごめん」と一度だけ言った。「母さんは悪気がないんだよ。」

悪気がない。この10年で、私は何度この言葉を聞いただろう。台所の洗い物は私がした。仏壇の花も、盆に来る親戚の座布団も、帰りの土産の紙袋も、私が用意した。それを義母が悪いと思っていないことは、その顔を見れば分かった。悪気がない人の手は、いつも綺麗なままだ。

義父が亡くなったのは、私が嫁いで2度目の冬だった。8年前の1月、享年64。私の名前の字を知っている人が、この家から一人減った。葬儀の間、義母は座敷の一番奥の席に座って泣いていた。実際に動いていたのは、義母の姉の時江だった。時江は義母より5つ上で、電車で1時間半かかる町から出てきていた。親戚への連絡も、受付も、母衣との話も、弔問客の対応も、全部この人がやった。義母は何もしなかった。そのことで義母を責める人はいなかった。娘のように泣く母親を責める人はいない。

「あ子は昔からこうなの。私が全部やるしかないのよ。」

時江はそう言って、名簿の余白に鉛筆で丸をつけていった。この人がいなければ、あの葬儀は回らなかったと思う。私はその横で湯飲みを洗い続けていた。この家で名前を呼ばれないことに、私はまだ慣れていなかった。

義父の一周忌は7年前の1月だった。繰り上げで法要を済ませ、その後、義実家に親戚が集まった。準備は義母がすることになっていたが、実際に動いたのは私だった。引き物を用意したのも私だ。駅前の柏屋に10個注文し、掛け紙を心志しにしてもらい、当日の朝に取りに行った。義母には前の週に「こういうものでよろしいですか」と現物を見せてある。

「ああ、いいんじゃない。」

義母はそれだけ言って、テレビの方を向いた。そして当日、義母は玄関で親戚を見送りながら、その紙袋を一つずつ手渡した。

「うちで用意したものだから、持って帰ってちょうだいね。」

うちで用意したもの。間違ってはいない。私は月岡の家の嫁で、あの家で暮らしている。だから「うち」だ。それでも、柏屋に電話をかけて掛け紙を決めて、朝の8時に自転車で取りに行ったのは私だった。時江が玄関先で紙袋を受け取り、義母に言った。

「あ子、あんた何でも一人でやって偉いわね。」

義母は片手を振って見せた。「私がやらなきゃ誰もやらないもの。」

台所で洗い物をしていた私は、蛇口を止めなかった。水の音があった方がいいと思った。

その日の帰り、駅前の柏屋の前を通った。朝に紙袋を受け取った店だ。主人が表の看板を片付けていて、私に会釈をした。こういう小さいことほど、私はよく覚えている。誰が何を用意したかは、大抵の人が一番よく知っている。知っていても、店の人は座敷の話には出てこない。

義母のやり方には、決まった型があった。一つ目は、今書いた引き物のように、私がやったことを自分がやったことにして人に渡すことだ。二つ目は、字だった。義母は私が事務の仕事をしていると知っている。それで年末になると必ず箱を持ってくる。

「あなた、字を書くのが仕事でしょ? これお願いね。年賀状の宛名。」

義実家の分が100枚ほど。月岡の親戚、岐阜の同級生、町内の役員名簿は義母が持っているのに、宛名だけは私に回ってきた。

「あの、私は筆耕をやっているわけではなくて…」

「書ければいいのよ。身内なんだから、でいいわよね。」

年が開ける前の3日間、私はこたつで100枚の宛名を書いた。手がしびれて、途中から左手で右の手首を押さえていた。「ただで」と言われた。元々請求するつもりはない。それでも「ただでいい」と先に言われるのと、「ありがとう」と言われるのとでは、まるで違うものが残る。

そこへしおりが来て、私の手元を覗き込んだ。

「お姉ちゃんの字、綺麗だね。」

「仕事で書いてるだけだよ。」

しおりはしばらく黙って見ていた。それから座を崩して座り直した。

「これ、お母さんの分だよね。」

「そうだよ。」

しおりはミカンを一つ手に取って、向かずに転がした。「お母さんが言ったの?」

私は答えなかった。しおりはそれ以上聞かず、ミカンの皮を剥いて半分を食べた。

年賀状だけではなかった。香典の表書き、父の三回忌の案内状の宛名、母の同級生への香典返し。全部だった。書き終えて渡すと、義母は封筒の束をパラとめくって、何も言わずに立ち上がる。

三つ目は、私の仕事の呼び方だ。親戚の集まりで、誰かが私に聞いてくれることがある。「ちかさんはどちらに務めですか?」私が答える前に、義母が答えた。

「会館ですって。ほら、部屋の鍵を渡す係り。鍵番みたいなものよね。」

鍵番。その言葉を聞いた時、私は自分でも意外なほど何も感じなかった。腹が立たなかったわけではない。ただ、この人は私の仕事の中身を一度も聞いたことがないのだと分かっただけだ。人は知らないものを軽く言う。軽く言われた分だけ、こちらは黙る。

会館の和室は、法事の後の食事に使われることがある。近くの寺で法要をして、うちの和室で親族が集まって食べるという流れだ。私はそういう申し込みを年に何件も受けている。何人で、何時から、お茶はいくつ。申し込み者の名前と利用日と人数を間違えずに、正面へ書き入れる。使用目的の欄には「法要の後の会食」とだけ書く。鍵を渡す係りだと言われれば、その通りではあった。

正幸に話したこともある。

「母さんに悪気はないんだよ。」

またそれだった。言い方は違っても、中身は同じだ。

「悪気がないと、痛くないの?」

私がそう返すと、正幸は缶ビールを持ったまま黙った。その頃の正幸は、母親と妻の間で立ち位置を決めることをしなかった。決めないことが優しさだと思っていたのだと思う。

一度だけ、義母の口から違う調子の言葉が出たことがある。義父の三回忌の日だった。私が台所で大皿を洗っていると、義母が背中の後ろを通りながら言った。

「私もね、昔はそこに立たされてたのよ。」

手を止めて振り返った時には、もう座敷へ戻っていた。その日の座敷で、義母は上機嫌に笑っていた。親戚に酒をついて回り、法事の段取りを自分が全部やったように話していた。台所で言った一言と、座敷での笑い声が、どうしても同じ人のものに思えなかった。

義母は、葬式の時も一周忌の時も三回忌の時も、受付の机には座った。玄関で人を迎え、帰りに挨拶をした。外から見れば、あの家の法事を仕切っているのは義母だ。実際、親戚はみんなそう思っていたと思う。私はその後ろで湯飲みを洗って、皿を拭いて、また洗っていた。

私が皿を拭いていると、しおりが入ってきて隣で布巾を取った。

「お姉ちゃん、また一人でやってる。」

私は大皿を渡した。しおりはそれを胸の高さで受け取った。

「しおりちゃんは座ってていいんだよ。」

「座ってても、誰も私の話は聞かないもん。」

言い方は軽かった。でもその時、しおりは皿を持ったまましばらく手を動かさなかった。私は聞かなかった。何かあったのかと聞けば、この子は笑ってごまかす。そういう子だと知っていた。聞く代わりに、私は布巾をもう一枚出した。二人で同じ皿を拭いていると、しおりが小さい声で言った。

「お姉ちゃんは、最後まで聞いてくれるからさ。」

何のことだか、その時は意味が取れなかった。

義母がしおりと私の間に置いていた距離は、その頃から少しずつ形が変わってきていた。ただの嫁いびりなら、私だけを標的にすればいい。あの人は、しおりが私を頼るたびに機嫌を悪くした。その距離がどこから来ているのか、私はまだ考えたことがなかった。

しおりは義実家で義母と二人で暮らしていた。義父が亡くなってからずっとだ。保育士の朝は早い。しおりは6時前に起きて、7時過ぎには自転車で園へ向かう。帰りは7時を回る日もあった。それでも週に一度は私の家へ寄った。

4年前の秋のことだ。その日のしおりは、玄関を上がっても靴を揃えなかった。

「担任のクラスの子でね、お母さんが『うちの子の話を聞いてくれない』って私に言うの。」

こたつに入って、しおりはそのまま30分ほど喋った。園長に相談したこと、保護者に電話をかけたこと、電話口で泣かれたこと。私は口を挟まなかった。相槌だけ打って、湯飲みが空になったら注いだ。喋りを終えると、しおりは急に黙った。

「私、何にもできてないよね。」

私は湯飲みをしおりの手の方へ押した。「そんなことないよ。」

「なんで?」

私はこたつの上の時計を指した。「30分話して、あなたが一度も自分の話をしなかったから。」

しおりはこたつの天板に額をつけて、しばらくそのままでいた。

「お姉ちゃんは、そういうとこ。」

しおりは額をつけたまま、片手だけあげてこちらを指した。

「そういうとこ、何?」

「ずるい。」

顔をあげたしおりは笑っていた。目の縁が赤かったので、私は見ないふりをして台所へ立った。

義実家へ行くと、しおりの部屋の窓辺にはいつも鉢が並んでいた。土だけの鉢だ。

「これ、何?」

「水仙の球根。子供たちと植えるから、家でも試してるの。」

球根は秋のうちに埋める。冬の間、鉢の上では何も起きない。土の色が変わるだけだ。2月の終わり頃に、細い緑が土を割って出てくる。それから咲くまで、また1ヶ月ほどかかる。

「水はどのくらいやるの?」

「土が乾いたら。やりすぎると腐るよ。」

「腐るんだ。」

「腐るよ。かわいそうだからって毎日あげる人がいるんだけど、一番ダメなやつ。」

しおりはそう言って、鉢の縁を指で弾いた。

「待つのが好きなんだよね。」

しおりは窓の桟に肘をついて言った。「咲いたら終わりでしょ。待ってる間の方が長いもん。長い方好きになった方が得だよ。」

保育士らしい理屈だなと、私は思った。あの子は待つ人だった。子供の話も、母親の機嫌も、自分の順番も、待つことでやり過ごしてきた子だ。

その年の暮れ、しおりは鉢を一つ、私の家の玄関に置いて行った。

「お姉ちゃんも待って。」

冬の間、私はその土だけの鉢に週に一度水をやった。翌年の3月、細い葉の間から白い花が咲いた。写真を撮って送ると、しおりからすぐに返事が来た。「咲いた」の一言だけだった。

一度だけ、しおりを私の職場に連れて行ったことがある。会館の和室は、畳が48畳。法事の後の食事にも、地域の集まりにも使う部屋だ。誰もいない昼下がりに障子を開けると、畳が一面に光った。しおりは入り口で立ち止まって、それから真ん中まで歩いていって座った。

「いい部屋だね。」

「うちで一番大きい部屋だよ。」

しおりは膝を揃えて天井を見上げた。「私の結婚式、ここでやろうかな。」

私は入り口の柱に持たれて笑った。「式場じゃないよ。」

「じゃあ、その後のご飯のとこ。」

私は笑って「はいはい」と言った。「予約は早めにね」とも言った気がする。あの部屋の正面にしおりの名前を書く日は来なかった。

義母は、そういうしおりと私の距離が気に入らなかった。法事でも正月でも、しおりが私の隣に座る。台所に立てば、しおりが布巾を取りに来る。買い物へ行くのも二人だ。ある日、義実家の茶の間で義母が湯飲みを置いてこぼした。

「私が母親なのに、何でもちかさん、ちかさんって。」

台所にいた私にも聞こえる声だった。聞こえるように言ったのだと思う。私は麦茶の入った盆を持ったまま茶の間へ入った。

「しおりちゃんは、お母さんに心配をかけたくないだけですよ。」

本当にそう思っていた。しおりは義母に弱いところを出さない。出せば義母が泣くからだ。あの家では、泣く役はもう埋まっていた。

義母は私の方を見なかった。「あなたに言われなくても、娘のことは分かってます。」

分かっている人は、そんな風には言わない。私はそう思ったが、口には出さなかった。麦茶を置いて、台所へ戻った。

その夜、車の中で正幸に話した。この人はいつもの言葉を言いかけて、途中でやめた。

「今度、俺から言うよ。」

初めて聞く言葉だった。

「言えるの?」

「言えるかどうかはわかんないけど、言うよ。」

信号が青になった。正幸はハンドルを握り直した。この人は、この人なりに動こうとしていた。あの頃の私は、それで十分だと思っていた。

その「今度」は、結局その年のうちには来なかった。翌年も来なかった。

義父が生きていたら、と考えることがある。義父は正月に一度だけ酔って、私に言ったことがあった。台所で火を使っていた時だ。

「ちかさん、この家は女が働いて男が黙る家だ。すまんな。」

謝られても困った。それでも、この家で私に謝った人は、後にも先にもあの人だけだった。その義父はもういない。

しおりがいて、正幸が少しずつ変わろうとしていて、義母は相変わらずで、それでも回っていた。回っているうちは、私は何も言わずに済む。言わずに済むのはありがたいことだと、私はずっと思っていた。波風は立たない方がいい。声をあげれば、一番困るのはしおりだ。しおりが家で息をしやすい方がいい。台所に立つ人間が一人でも、それで座敷が笑っているなら、それでいい。そういう考え方で、私はこの家に嫁いでからずっとやってきた。だから、しおりを見送った後の2年も、同じやり方をした。

3年前の9月、しおりの体に見つかったものが、この家の均衡を全部壊した。最初の電話は私の職場にかかってきた。3年前の9月10日、窓口の正面に翌月の予約を書き込んでいた時だ。携帯が震えた。しおりからだった。勤務中にこの子が電話をかけてくるのは初めてだった。

「お姉ちゃん、今大丈夫?」

声がいつもと違った。私は同僚の水希に断って、裏の駐車場へ出た。

「どうしたの?」

「検診、引っかかっちゃって。」

夏の終わりに健康診断を受けたのだと、しおりは言った。再検査になり、紹介状を書いてもらい、大きい病院で調べてもらったのだという。結果は良くなかった。私は駐車場のフェンスに手をかけた。9月の日差しが強くて、額が暑かった。

「お母さんには、まだ言ってない。」

私はフェンスから手を離した。「言おうよ。」

「言ったら、泣くもん。」

その言い方があまりにしおりらしくて、私は何も返せなかった。

「お姉ちゃんから言って、とは言わないよ。自分で言う。ただ、言う時そばにいてほしい。」

「わかった」と私は言った。それだけしか言えなかった。

その次の火曜の夜、義実家の茶の間で、しおりは義母に話した。私と正幸も座っていた。しおりが言い終わる前に、義母は畳に手をついた。

「なんて… なんで、しおりが。」

それから泣いた。声を上げて泣いた。しおりは自分の膝を見たまま、母親が泣き終わるのを待っていた。30分近く待っていたと思う。「待つのが好き」と言った子が、こんな待ち方をしていた。正幸が肩を抱いて、義母を隣の部屋へ連れて行った。座敷に残ったしおりが天井を見上げて息を吐いた。

「ね、行ったでしょ。」

私は麦茶を注いだ。氷が一つ、音を立てて回った。

入院は10月の頭に決まった。そこから1年余り、私の生活は病院を中心に回るようになる。職場にはその月のうちに話した。体感は土日が忙しいので、私の勤務は元々平日だ。それに加えて、有給を月に2日ずつ使わせて欲しいと係長に頼んだ。隣の席の水希が、書きかけの当番表から顔をあげた。

「義理の妹さんですか?」

そう聞かれて、私は一拍置いてから答えた。「妹です。」

水希は「そうですか」とだけ言って、翌週からの土曜の当番表を自分で書き換えてくれた。この子はそういうことをさらりとやる。

やったことは、大したことではない。車で送る。荷物を運ぶ。パジャマとタオルを洗って持っていく。売店で足りないものを買う。洗面器と洗濯ネットと前開きの肌着と、あの子が好きだった無糖の紅茶。医師の説明の日に付き添って聞いたことを手帳に書く。園の主人に電話をして、給食の書類のことを聞く。洗面器と歯ブラシ立てには、名前を書いたテープを貼った。病室では同じものが並ぶので、名前がないと誰のものか分からなくなる。名前を書くのは、私の得意なことだ。

病院の売店は1階の奥にあって、夕方になると顔を下げた家族で混む。私はそこで同じような顔した人たちと並んだ。誰も喋らない。レジの人だけが「袋はご入用ですか」と全員に同じことを聞く。あの列に並んでいる時間が、私は一番落ち着いた。何も考えなくて良かったからだ。私の仕事の中身と、そう変わらない。誰かの用事を、日付ごとに整理して、抜けがないように並べていく。それだけだ。

義母は毎日病院へ来た。それは本当だ。娘のところへ通わない母親ではなかった。ただ、義母は病室に入ると必ず泣いた。しおりの顔を見て泣き、点滴の袋を見て泣き、髪のことで泣いた。しおりは毎回、布団の上で母を慰めた。

「お母さん、大丈夫だから。」

「大丈夫なわけないでしょ。」

しおりは点滴の管を避けて、上半身を少し起こした。「大丈夫って言ってよ。」

義母はすました顔をした。それでも、その日も泣いて帰った。

医師の説明の日に、義母が来なかったことがある。三度あった。「行けば泣くから、行けない」と本人が言った。気にはならなかった。娘の病名を医師の口から聞くのは、母親には重すぎる。だから私が言った。しおりが「ちかさんに聞いてもらいたい」と紙に書いて出したからだ。医師はしおりと私の顔を交互に見ながら話した。私は手帳に書いた。日付、薬の名前、次に来る日、次に決めること。後で義母に見せられるように、丁寧に書いた。読み上げたことは一度もない。

「詳しいことはいいわ。」

義母はそう言って、手のひらをこちらへ向けた。「聞いても分からないもの。」

分からないから、聞いて欲しかった。分からないままでいいから、一緒にそこにいて欲しかった。私はその言葉を飲み込んで、手帳を鞄に戻した。

年が開けて、しおりの入退院が繰り返しになった頃だ。その日は熱が下がらず、予定していた退院が伸びた。荷物を持ち帰るために病室にいると、義母が来て、ベッドの脇の椅子に座らずに立っていた。

「あなたがついていながら、どうしてこうなるの?」

しおりが眠っているベッドの横だった。私は声を潜めた。「お母さん、しおりちゃんが起きます。」

「私は母親よ。何を言ってもいいでしょう。」

いいわけがない。でもその日の私は、それを言わなかった。言えば義母はまた泣く。泣けばしおりが起きる。起きたあの子は、また母親を慰める側に回る。だから私は廊下へ出て、自動販売機の前に立った。無糖の紅茶を2本買って、1本を鞄に入れた。病室へ戻ると、しおりは目を開けていた。寝ていなかったのだと分かった。

「お姉ちゃん。」

私はベッドの脇に紅茶を2本並べた。「起こしちゃった。」

「起きてたよ、ずっと。」

しおりはしばらく天井を見ていた。それから私の方を見ずに言った。「あのさ、お母さんのこと、嫌いになりたくないんだよね。」

私は紅茶の蓋を開ける手を止めた。「うん。」

「だからさ、私が言わないでいることは、お母さんには言わないでね。」

言わないでいること。何のことかは聞かなかった。聞けばこの子は笑って別の話にする。

「分かった。」

それだけ答えて、私は紅茶を渡した。しおりは一口飲んで「うまいね」と言った。

その頃には、義実家の用事はほとんど私に流れてくるようになっていた。町内会の当番の連絡、掃除の日程、檀家が毎年寺に収める五時会費の振り込み、しおりの名義の書類、保険の手続き。義母は封筒も開けずにテーブルへ置いておく。私が行くと「あら、来たの」と言って湯飲みを2つ出す。私が中身を読み、期限を確認し、必要なら電話をかけた。

正幸は仕事が忙しかった。それでも土日は病院へ来て、妹の枕元でくだらない話をした。あの兄弟は、よく似た笑い方をする。しおりが笑うと、正幸も笑った。帰りの車の中で、正幸が一度だけ言った。

「母さんのこと、ごめんな。」

「謝らないで。」

正幸はワイパーを動かした。雨は降っていなかった。でも、謝ると私が我慢してるみたいになるから。我慢していないわけではなかった。ただ、その言葉を口にした瞬間に、私はしおりの側ではなく自分の側に立つことになる。その一線だけは、越えたくなかった。

3月になって、玄関の鉢に白い花が咲いた。写真を撮って、病室へ持っていった。しおりは枕から頭を起こして、しばらく見ていた。

「来年も咲くよ、これ。」

「うん。」

しおりは写真を胸の高さで持ったまま、指の腹で花をなぞった。「球根は植えっぱなしでいいんだよ。ほっといても、その時期になったら出てくる。」

そう言って、しおりは写真を私に返した。

連休の頃、しおりは2週間だけ家へ帰ってきた。一時退院だった。私は仕事を早く上がって、義実家へ寄った。しおりは縁側に座って、庭の木を見ていた。義母は台所で、しおりの好きだったものばかり作っていた。かぼちゃの煮物と、卵焼きと、鮭のほぐしたの。

「お母さん、張り切っちゃってさ。」

しおりは笑っていた。悪い笑い方ではなかった。「食べきれないよ、これ。」

私は縁側に腰を下ろして、しおりと同じ方を見た。

「残すと泣くよ。」

「泣くね。」

二人で笑った。義母が台所から「何がおかしいの」と言った。「なんでもない」としおりが答えた。あの2週間のことは、私の中に何度も戻ってくる。みんなで笑えた時期は、あれで終わりだった。

5月の半ばに、しおりはまた入院した。今度は前より長かった。荷物を運びながら、私は洗面器の底に貼ったテープの名前を書き直した。三度目の書き直しだった。その日から、この家の実務は全て私のところへ流れてくるようになった。

義母の言うことが変わり始めたのは、2年前の春だった。それまでは、しおりのことを頼んだり、私を責めたりの繰り返しだった。そこへ新しい要求が加わった。

「ちかさん、あなた、仕事はやめられないの?」

義実家の茶の間だった。私はしおりの洗濯物を畳んでいた。

「やめるとは、どういう…」

「しおりについていてあげてほしいのよ。あなたなら、あの子も嫌がらないでしょう。」

嫌がらないでしょう。その言い方に、この人の本音が全部入っていた。

「お母さん、私が働いていないと、家の方が困ります。」

「正幸がいるじゃないの?」

正幸の給料で暮らせないわけではない。ただ、私が14年やってきた仕事は、この人にとって湯飲みを置く程度の重さでしかない。

「病院代のことなら、うちで出しますから。」

そういう話ではなかった。私はタオルを畳む手を止めなかった。

「お母さんが行かれる日を増やすというのは…」

「私は行くと泣いちゃうもの。」

その一言で話は終わった。

次に来たのは板だった。私が病院へ行かない日は、義母が行った。義母が行かない日は、正幸が行った。誰も行けない日は、しおりが一人で夕食のレトルトを見ていた。そういう日を減らしたくて、私は当番の表を作った。作った表は、机の引き出しに入れたままにした。出せば義母が怒ると思ったからだ。

しおりがまた入院して間もない頃、義母がカレンダーを持ってきた。病院の面会に誰が行くかが、月ごとに割り振ってある。私の欄が、平日の火曜以外にも並んでいた。

「これ、私の勤務の日です。」

「休めないの?」

義母はカレンダーを広げ、私の金曜に書かれた印を指で押さえた。

「休めない日もあります。」

「しおりのことでしょう。」

私は自分の手帳を出して、その場で並べた。土曜と日曜は会館が一番混む。予約が入っている日は、私が立ち会わないと部屋が開かない。義母はカレンダーを見なかった。手帳も見なかった。

「じゃあ、務め先に行って変わってもらえばいいじゃない。」

変わってもらう相手が誰なのか、この人は考えたことがない。私はその日、水希にもう一度頭を下げることになった。

6月の始めに、しおりの同僚が2人、見舞いに来た。同じ園の保育士だという。名前を名乗って、両手で紙袋を差し出した。

「月岡先生、いつも子供の話ばっかりで…」

「そうなんですよ。」

私がそう返すと、2人は笑って、それから廊下で泣いた。私はハンカチを持っていなかったので、鞄からティッシュを出して渡した。

義母はその日、2人と入れ違いに来た。ロビーですれ違ったはずだ。

「今の人たち、誰?」

義母は紙袋の中を覗き込みながら聞いた。

「しおりちゃんの職場の方です。」

「あら、私、聞いてない。」

聞いていないのは、義母が受付を通らずに裏の階段から上がってくるからだった。それを言っても仕方がないので、私は黙っていた。

義母のやり方には、もう一つ型があった。「母親」という言葉だった。6月のことだ。医師の説明があって、私と正幸が同席した。義母は来なかった。病室へ戻るとしおりが寝ていて、廊下で義母と鉢合わせた。

「先生、なんて…」

私が手帳を開こうとすると、義母が遮った。「あなたじゃなくて、正幸に聞いているの。」

正幸が説明した。義母は何度も頷いて、それから涙をこぼして、廊下の椅子に座った。

「私が母親なのに、どうして私が最後に聞くの?」

来なかったからです、とは言わなかった。言えば正しくて、正しいだけの言葉ほど、その場では役に立たない。私は自動販売機で紅茶を買って戻り、義母の隣に置いた。義母はそれを見て、しばらく黙ってから言った。

「あなたはいいわね。泣かないで済んで。」

その言葉が、一番長く残った。

その夜、私は新潟の母に電話をした。

「どうしたの?」

「別に。声が聞きたくて。」

母はしばらく黙っていた。それから「そう」とだけ言った。私はしおりの話を30分した。病院のこと、園の同僚が来たこと、水仙の鉢のこと。義母の話はしなかった。しても母が困るだけだ。実家の向こうで、母が湯飲みを置く音がした。

「何?」

「あんたが疲れてないっていう時は、大抵疲れてるからね。」

私は台所の柱に持たれた。母は昔からそういうことを言う。口を挟まずに全部聞いて、最後に一つだけ置いていく。そういう話し方は、私がしおりにしていたものだ。誰かにしてもらっていたから、できたのだと思う。

カーテンのこともあった。しおりは窓側のベッドだった。日差しが強い日は、カーテンを半分だけ引く。しおりが自分でそう決めていた。全部閉めると部屋が暗くなって、気分が滅入るからだと本人が言っていた。義母は病室に入るなり、必ずカーテンを全部閉めた。

「眩しいでしょう。」

「開けといて。」

義母は聞こえなかったふりをして、裾の方まで引いた。「体に触るから。」

しおりは言い返さなかった。義母が帰った後、私が半分だけ開け直した。それだけのことだ。それだけのことなのに。あの1年で私が一番よく覚えているのは、このカーテンの開け閉めだった。母親は娘のためにと言ってる。娘は暗いのが嫌だという。娘の希望を聞いた人間が、後で他人と呼ばれる。

しおりの書類も、その頃から私の手に回ってきた。保険の継続の手続き、園の給食の延長、市役所へ出す書類。しおりの署名がいるものは、私が病室へ持っていった。書類の名前は、私が全部覚えている。給食期間の延長願い、傷病手当金の請求書、保険の払い込み猶予の申出書。どれも締め切りがあって、どれも本人の署名がいる。しおりはペンを持つ手が震えるようになっていた。それでも自分で書いた。

「大筆でいいんじゃない? 自分の名前だからさ。」

書き終えると、しおりは必ず髪の端を指で揃えた。私の癖が映ったのだと思う。

一度だけ、しおりが言いかけてやめたことがある。7月の終わり。窓の外でセミが鳴いていた日だ。

「お姉ちゃん、一つ頼みたいことがあるんだけど。」

「何?」

しおりはしばらく黙って、それから首を振った。「やっぱり、まだ先の話だから。」

まだ先の話。私はその言葉を信じた。信じたかったのだと思う。今考えれば、あの時のしおりには、先がそう長くないことが分かっていた。分かっていて、「まだ先の話だ」と言った。頼みたいことがあると言ってしまった手前、私に気を使わせないための言い方だったのだろう。あの子は最後まで、そういう言い方をする子だった。

正幸は、母親を止めなかった。

「なんで何も言わないの?」

夜の駐車場で、私は初めて声を大きくした。

「言うと、母さん壊れるだろ。」

「壊れるって。」

正幸はハンドルの上に両手を置いた。「妹が死ぬかもしれないんだよ。今の母さんに、これ以上何を言えばいいんだよ。」

正幸は運転席の背もたれに頭をつけた。この人は、母親を守っているつもりでいた。私を守っていない方には、目が向いていなかった。私は助手席のシートベルトを引いた。

「分かった。今はいい。」

今はいい。この言葉を、私はその後繰り返し自分に使った。今はいい。しおりが退院したら、今はいい。落ち着いたら、今はいい。その先に落ち着く日が来るとは、誰も言っていなかったのに。

職場の正面に翌月の予約を書き入れながら、私は自分の字を眺めることがあった。「法要の後の会食 12名 11時から」。申し込み者の名前と利用日と人数。この正面に名前が乗れば、その人はその日そこにいていい人になる。乗らなければ、いないことになる。14年、私はそれだけをやってきた。それなのに、自分の名前がどこに乗っているのかは、考えたことがなかった。

8月に容態が変わり、9月にはほとんど眠っている時間が長くなった。義母は毎日来て、毎日泣いた。しおりはもう慰めなかった。慰める力がなかったからだ。

10月に入って、しおりが一度だけはっきり目を開けた日がある。私が水を含ませた綿を口に当てていると、しおりが私の手首を掴んだ。

「お姉ちゃん。」

私は綿を持った手を止めた。「うん。」

「ありがとうね。」

私は頷いた。頷くしかできなかった。しおりが病室で笑った回数は、私にはもう数えられない。

しおりが亡くなったのは、2年前の10月17日の明け方だった。享年32。病院からの電話は、正幸の携帯に入った。二人で車を飛ばしたが、間に合わなかった。義母は前の晩から泊まり込んでいて、しおりの手を握ったまま動かなかった。私は廊下で看護師さんの説明を聞いていた。これからの流れ、葬儀のこと、用意するもの。手帳を出して、ペンを落とした。拾って、また落とした。何度目でようやく書けた。

その日の午後には、義実家の座敷にしおりが寝ていた。葬儀社の担当者が来て、打ち合わせが始まった。義母は座敷の隅でまだ泣いていた。正幸は親族への連絡で電話をかけ続けていた。担当者の前に座ったのは、私だった。

「喪主はどなたになりますか?」

「母です。月岡あ子です。」

私が答えると、担当者は義母の方を向いて、それから私に向き直った。「では、ご相談はどなた様と…」

私で構いません。そういうやり取りが、この2日で何度もあった。義母は泣くばかりで、話す相手は私。担当者は最後まで丁寧だった。ただ、書類のご連絡先の欄には、私の携帯番号が書かれた。

檀家は小戦寺という、上の坂の途中にある古い寺で、月岡は仙台からの檀家だ。義父の葬儀も法要も、ここで営んでいる。檀家というのは、その寺に代々のお墓を預けて、法事の度に来ていただく家のことだ。私は嫁いでから知った言葉だった。実家の方は新潟で、父の葬式も会館であって、お坊さんはその都度葬儀社に頼んでいた。決まった寺があって、そこの住職と何十年も付き合っていく。そういう暮らし方は、月岡の家で初めて知った。

寺への連絡も、私がした。義母が電話に出られる状態ではなかったからだ。初めて小戦寺へ電話をかけた時、私は名乗り方に迷った。月岡の家のものです、というのか。月岡しおりの兄の妻です、というのか。結局、私はこう言った。

「檀家の月岡でございます。しおりが今朝、亡くなりました。」

そう名乗った瞬間に、しおりを「しおり」と呼び捨てにしている自分に気づいた。義理の妹を呼び捨てにするのは、世間的に正しい。正しいのに、口の中に何かが残った。

その日の夕方、住職が来た。徳山大道さん。義父の葬儀の時にも来ていただいている。背が高くて、声が低くて、話すのがゆっくりな人だ。住職は座敷に上がると、しおりの顔にかかった白い布のそばで、枕元に置かれた花を整えた。それから座り直して、義母の方を向いた。

「しおさんは、どんな方でいらっしゃいましたか?」

義母は顔をあげた。口を開いて、何か言おうとした。

「しおりは… しおりは…」

そこで詰まった。それきり、声にならなくなった。両手で顔を覆って、また泣き始めた。正幸は玄関の方で電話をしていた。親戚はまだ誰も来ていなかった。住職は義母をせかさなかった。しばらく待って、それから私の方を見た。

「お嫁さんでいらっしゃいますね。」

「はい。ちかと申します。」

住職は膝の上で数珠を持ち直した。「よろしければ、お聞かせいただけますか?」

私は膝の上で手を組んだ。何を話せばいいのか、頭が働かなかった。32年を要約する言葉なんて、持っていなかった。だから、思いついたことをそのまま話した。住職は口を挟まなかった。頷きもしなかった。ただ、私の顔を見て聞いていた。話している間、義母の泣き声だけが座敷に響いていた。話し終えると、住職は目を伏せて「ありがとうございます」とだけ言った。

その時、自分が何を話したのか、私はその後2年間、思い出しもしなかった。思い出さなかった理由は、多分単純だ。あの3日間のことは、全部が濁った水の底に沈んでいる。誰がどこに座っていたか、どの湯飲みを誰に出したか。そういう手が覚えていることは残っているのに、自分が何を喋ったかだけが抜けている。葬儀の後で、そんな風になった人は多いと思う。私は自分だけだと思っていた。

翌日、親戚が集まり始めると、座敷は急に人の家のようになった。時江が電車で1時間半かけて着いたのは、その日の昼だ。玄関で靴を脱ぎながら、一番に義母のところへ行った。

「あ子、あんた、なんか食べた?」

義母は首を振った。時江は私の方を見て、「おにぎりでも握ってあげて」と言った。私は台所へ立った。義父の時は、この人が全部やってくれた。あの時の時江は、1ヶ月ほど義実家に泊まり込んで、寝込んだ義母の代わりに葬儀も法要も回した。ただ、その後足が遠のいた。今は年に一度会うかどうかだ。無理をした人ほど、その後来なくなる。

時江は、その18日の晩だった。祭壇の中央に、しおりの写真があった。園の運動会で撮ったものだ。義母が選んだ。その前に、白木の位牌が置かれていた。長春、妙心、信女。長春妙心信女と読むのだと知ったのは、ずっと後のことだ。墨で書かれた6文字を見たのは、初七日で祭壇の前に立った時だった。真ん中の「妙心」は、あの子の名前の字だ。それは分かった。分からなかったのは、一番上の2文字だった。

長春。

艶が終わって、控え室で住職に湯飲みを出した時、私は聞こうとした。

「あの、ご住職。お位牌の上の2文字は…」

そこまで行ったところで、義母が横から入った。

「あなたが口を出すことじゃないでしょう。お寺のことは、母親の私が伺います。」

親戚が2人ばかり、こちらを見た。住職は湯飲みを持ったまま、何も言わなかった。私は「失礼しました」と言って下がった。控え室を出る時、住職がこちらを見た気がした。振り返らなかったので、確かめてはいない。

夜、家に帰ってから、私はその6文字を紙に書いてみた。仕事の癖で、字の形は綺麗にかけた。かけたところで、意味は分からない。長春。「聞く」という字と「春」という字。辞書を引いても、その2文字は出てこない。人の名前でもない。あの子が春生まれというわけでもない。しおりの誕生日は6月だ。聞ける相手は一人しかいなかった。その人に聞くには、義母の前を通らなければならない。私は紙を畳んで、手帳の後ろに挟んだ。そのまま2年、挟んだままになった。

翌19日の葬儀は、滞りなく終わった。義母は喪主の席に座り、挨拶を読んだ。声は震えていたが、最後まで読み切った。親戚は口々に「立派な喪主だ」と言った。私もそう思った。娘を亡くして3日で、あの挨拶を読み切ったのは立派なことだ。その挨拶の紙を用意したのは、葬儀社の担当者と私だった。義母の言葉を聞き取って、清書して、振り仮名を振った。それを言うつもりはない。喪主の挨拶は、喪主のものだ。

火葬場から戻って、初七日までの法要まで済ませた後、義実家の座敷で親戚が帰り支度をしていた。近頃は葬儀の日に初七日まで繰り上げて営むことが多い。遠くから来る人にもう一度出てきてもらうのが大変だからだ。私は台所で湯飲みを洗っていた。引き戸の向こうから、義母の声が聞こえた。

「お寺のことは、私がね。これから49日も納骨もあるでしょう。あの子のことは、母親の私がちゃんとやってあげないと。」

時江の声が続いた。「あ子、あんた一人で大丈夫なの?」

「大丈夫よ。娘のことだもの。」

私は蛇口の水を止めた。止めてしまったので、その後の声もよく聞こえた。

「ちかさん。」

「まあ、少し手伝ってもらってる程度よ。」

手が濡れたまま、私はしばらく流しの前に立っていた。腹が立ったわけではない。おかしいと思ったのでもない。あの人は娘を亡くしたばかりで、親戚の前では気丈にしていたかっただけだ。そのくらいのことは分かった。ただ、その日の初七日の後、私は控え室で住職に49日の日程を相談していた。手帳には、その場で挙げていただいた候補が3つ書いてある。

手伝ってもらっている程度。その言葉と、手帳の3つの候補が、私の中で並ばなかった。並ばないまま、私は湯飲みを拭いて棚に戻した。

上の2文字の意味は、それから2年の間、誰にも聞けないままになった。

49日と19日の日程を詰めたのは、葬儀の翌週だった。義実家の茶の間で、私は手帳を開いた。

「お母さん、49日ですけど、日取りを決めないといけません。」

義母はこたつに入ったまま、テレビを見ていた。「なった。決めてちょうだい。」

「お寺に伺う日ですから、お母さんのご都合が…」

義母はテレビの音量を一つ下げた。「私、まだ無理なの。」

義母は湯飲みを両手で包んでいた。「あの子のことを考えると、何もできないのよ。」

それは嘘ではなかったと思う。あの頃の義母は、朝起きてしおりの部屋の前に座って、夕方までそこにいる日があった。私が行くと、部屋の前で膝を抱えていた。だから私は言った。

「わかりました。お寺には、私から連絡します。」

日取りの計算は、住職が教えてくれた。亡くなった日から数えて49日。しおりの場合は12月4日にあたる。ただし、そこは平日だった。

「繰り上げてお勤めすることはございます。後ろへずらすのは、しない方がよろしい。」

住職はそう言った。だから12月2日の日曜に決めた。遠くから来る親戚が、その日なら出てこられる。申し込み書の名前の欄をどうするか、私は義母に聞いた。「月岡でいいでしょう」と言われたので、書いた。49日も、その次の発本も、寺の正面には「月岡」と乗っている。

納骨は同じ日にした。石屋さんに連絡して、お墓の脇に立っている石の板に、しおりの名前と法名を掘ってもらう手配もした。檀家という、その家に入った人の名前が古い順に並んでいる板だ。掘るのに3週間かかると言われて、逆算して発注した。私の仕事は日付を逆算することだから、そこだけは慣れていた。

お骨を墓に収める時、石屋さんが墓石の前の板をずらしてくれた。中は思っていたより広くて、暗かった。義父の骨壺が奥にあった。その手前に、しおりの骨壺を置いた。義母は膝をついて、中を覗き込んでいた。誰も声をかけられなかった。壺を戻す前に、住職が短くお経を上げた。風のない日で、線香の煙がまっすぐ上がっていた。

墓石に掘られた6文字を見たのは、納骨の日だった。長春妙心信女。掘られると、紙よりもずっと重く見えた。

その日から、私は毎月17日に行くようになった。月命日という、亡くなった日と同じ日が、毎月一度巡ってくる。特別なことは何もしない。花を変えて、水をかけて、しばらく立っている。それだけだ。仕事帰りに寄れる場所にあったのが、たまたま良かった。義母には言わなかった。言うと「あなたばっかり」と言われる気がしたからだ。

行くのは大抵夕方だ。仕事を上がって、バスを一つ手前で降りて、坂を上がる。花屋で小さい束を買う。夏はすぐ悪くなるので、花の水を全部変える。冬は水が冷たくて、手がかじかむ。そのうち、墓地で顔を合わせる人ができた。隣の区画の家の奥さんと、事務所の前で掃き掃除している住職だ。住職は私を見るといつも「お参りですね」と言った。それだけの挨拶が、2年続いた。

49日の席で、義母は遺族の代表として挨拶をした。短い挨拶だった。用意した紙は、私が前の晩に清書したものだ。親戚は口々に「あ子さんは大変だね」と言った。誰も私には何も言わなかった。当たり前だと思う。私は台所と事務所を往復していただけで、座敷にはほとんどいなかった。

発本は翌年の8月だった。花のこと、盆棚のこと、お経の日取りのこと、全部住職に聞いて、私が用意した。義母は「そういうのはよくわからないから」と言って、当日の朝に着物だけ着てきた。着物はよく似合っていた。親戚の前で、義母は迎え火の説明を自分の言葉でしていた。前の日に私が電話で聞いた説明と同じ内容だった。

初盆の日、義母は受付の机に座った。玄関で人を迎え、帰りに一人ずつ挨拶をした。義父の弟の一光さんが、私に湯飲みを返しながら言った。

「あ子さんも、大変だな。」

一光さんは口数の少ない人だ。法事ではいつも隅に座っていて、寺の申し込みの話には入らない。外から見えるのは、受付にいる人と挨拶をする人だ。あの席に座っている人が、その法事をやっている人に見える。そういうものだと思う。私も自分の仕事でそれを見てきた。会館の窓口に立つ人と、裏で予約表を作る人は違う。窓口の人が偉いわけではないし、裏の人が偉いわけでもない。ただ、外から見えるのは窓口の人だけだ。

そして一周忌が来た。1年前の10月。明日は17日だが、その前の土曜に営むことにした。寺の予定と親戚の都合を合わせると、そこしかなかった。申し込みの用紙は49日の時と同じものだ。違ったのは、住職に「世話のお名前はどなたでいらっしゃいますか」と聞かれたことだった。

世話というのは、その法要を営む人のことを言う。寺に申し込み、日取りを決め、お布施を出し、当日の進行を受け持つ。葬儀では中心となる人を喪主と呼び、年忌法要では法要を取り仕切る人を世話と呼ぶ。その違いは、この時初めて住職から教わった。同じ人がやることが多いので、私は二つを一括りに考えていた。

私は用紙を持って、義実家へ行った。

「お母さん、世話の欄はどうしますか?」

義母は湯飲みを置いて、用紙をじっと見た。「どうしますかって、やるんでしょ?」

「はい。でも、お名前は…」

義母は用紙を私の方へ押し返した。「私は名前なんていらないわ。そういうのは、やる人が書けばいいのよ。」

私は正幸にも聞いた。正幸は用紙を手に取って、世話の欄をしばらく見ていた。

「ちかでいいと思う。実際にやってるのは、ちかだから。」

「お母さんが、後で嫌だって言わない?」

正幸は用紙をこたつの上に戻した。「言ったら、俺が言う。」

そこまで確かめてから、私は自分の名前を書いた。月岡ちか。仕事で毎日書いてきた筆圧で、はっきりと書いた。書きながら、少しだけ手が止まった。この欄に自分の名前を入れていいのかという迷いはあった。しおりの母親でも、月岡の家の血筋でもない人間が、世話の欄に名前を入れる。それでも書いた。書かなければ、その紙は寺へ出せない。出さなければ、法要は営めない。

塔婆も、その時一緒に頼んだ。年忌の法要では塔婆を立てる。細長い板に、住職が墨で書いてくださる。表には「法事」と何の法要かを、裏にはしおりの名前と立てた日付を。

「お名前は、ちかさんでよろしいですね。」

事務所で住職に聞かれて、私は「はい」と答えた。

一周忌の当日は、朝から雨だった。私は8時に寺へ着いた。花を供え、物を並べ、引き物の数を数えて、それから墓へ行った。塔婆はもう立っていた。雨に濡れた板の裏に、「世話 月岡ちか」と書いてあった。自分の名前をこんな風に墓の前で見たのは初めてだった。妙な気持ちだった。誇らしいのとも違う。あの子の名前の隣に、自分の名前があることが、ただこそばゆかった。

法要は11時から。雨が強くなったので、全員での墓参りは省くことになった。住職がそう言い、親戚もその方がいいと言った。法要の後にみんなで食べる食事のことを「おとき」と言う。おときと読む。そのおときが終わって、みんなが帰り支度を始めた頃だ。義母が一人で立ち上がって、傘を持って出ていった。

「お母さん、どちらへ?」

「ちょっと、あの子のところに。」

止める理由はなかった。私は湯飲みを片付けながら、窓の外を見ていた。傘が坂を上がっていくのが見えた。義母が戻ってきたのは、20分ほどしてからだった。肩と裾が濡れていた。私が布巾を出すと、「いらない」と手で押し返された。それから帰るまで、義母は誰とも喋らなかった。時江が何か話しかけても、頷くだけだった。

車に乗ってからも同じだった。後部座席で、義母は窓の方を向いていた。正幸が2度ばかり話しかけたが、返事はなかった。私は助手席で、その気配だけを感じていた。あの人は、さっき墓で何を見たのか。見るものは一つしかない。あの日月岡の墓にあったのは、水を張った花立てと、雨に濡れた塔婆一本だけだ。

親戚の前での義母は、その後も変わらなかった。一周忌の3日後、洗った器を返しに義実家へ寄ると、義母が電話をしていた。相手は時江だった。義母は受話器を持って、明るい声を出していた。

「そうなの? 私が全部やってるのよ。お寺のことも、お墓のことも。」

私は台所にいた。今度は蛇口をひねらなかった。器を返して、私はその日も何も言わずに家へ帰った。

一周忌の5日後、いつも通り17日に行った。坂を上がって、区画の角を曲がったところで、足が止まった。塔婆がなかった。墓石の後ろの塔婆立てが、空になっていた。5日前の朝、雨に濡れて立っていたあの板が、影もない。石の面の色が、そこだけ変わっていた。私は花を持ったまま、しばらくそこに立っていた。風で倒れたのかとも思った。それなら地面に落ちているはずだ。辺りを見たが、どこにもない。隣の区画には、前の法事の日付の塔婆がまだ2本立っていた。

塔婆というのは、細長い板のことだ。法事の時に立てて、次の法事まで置いておく。木だから、1年もすれば墨が薄くなって、雨風で剥げてくる。それを見て、「そろそろ次の年忌だ」と家の人が思い出す。そういう役の板でもある。私は5日前の朝、その板の裏を見てから、花立ての水を変えた。世話、月岡ちか。自分で書いた申し込みの用紙が、住職の手でこの字になって、あの子の後ろに立っている。次の年忌まで、月に一度ずつ見上げるはずの板だった。

事務所へ寄った。住職は縁側で、菊の枯れた花を紙に包んでいるところだった。私が要件を言うと、手を止めた。

「ああ、あれはお下げいたしました。」

「どなたが?」

住職は花を包み終えた。「お母様が昨日いらっしゃいまして、もう下げて良いかと。」

私は花束の茎を握り直した。住職はしばらく黙ってから、こちらへ向き直った。「ご家族からのお申し出でしたので、そのまま受けいたしました。ただ…」

「はい。」

住職は膝に手を置いて、姿勢を正した。「本来は、世話のちかさんに一言申し上げるべきでした。私の手落ちです。申し訳ございません。」

頭を下げられて、私は慌てた。「いえ、私はそんな…」

「年忌の塔婆は、次のご法事まで立てておかれる家が多いのです。1年で色は焦げますが、それを見て次の年忌をご相談いただくこともありますので。」

多いのです、と住職は言った。決まりだとは言わなかった。この人はいつもそういう言い方をする。

「お母様は、何かおっしゃっていましたか?」

「見ていると辛いから。」

辛いから。その理由なら分かる。娘の名前が墨で書かれた板が、毎日そこに立っている。母親にはきついだろう。分かるのに、納得できなかった。辛いなら、なぜ雨の日にわざわざ一人で墓まで上がったのか。辛いなら、なぜ帰りの車で一言も喋らなかったのか。辛いだけの人は、あんな黙り方をしない。

その日、私は義母に何も言わなかった。問い詰めれば、多分泣かれる。泣かれれば、正幸が間に入って、話は終わる。そして次の法事の度に、この人は同じことをする。それでもよかった。私が守りたかったのは、私のメンツではなく、あの子の供養の場だ。あの場が揉め事の場になるくらいなら、塔婆の一本くらい黙って諦める。その頃の私は、本気でそう思っていた。

今思えば、この選び方が全部だった。私は10年間、揉めない方を選び続けてきた。名前を呼ばれなくても、鍵番と言われても、宛名を100枚書いても、その度に揉めない方を選んだ。選ぶたびに、あの人の中では一つずつ確定していったのだと思う。この嫁は言わない。言わないから、なかったことにしていい。

住職が湯飲みを出してくれたので、縁側に座った。庭には、掃き集めた落ち葉の山が3つできていた。この寺は、住職と時々来る手伝いの方だけで回している。本堂も掃除している。

「毎日、掃かれるんですか?」

「毎日でございます。掃いても、翌日にはまた積もりますので。」

「終わりませんね。」

「終わらないものは、終わらせようとしないのが私の仕事です。」

住職はそう言って、湯飲みに口をつけた。

「49日からずっと、ちかさんが窓口でいらっしゃいますね。」

「はい。」

住職は事務所の正面の方へ目をやって、それからすぐに戻した。「正面だけを見て申し上げているのではありません。私は電話を受ける側ですから。」

住職は湯飲みを両手で持って、庭の方を見ていた。「お花の色も、供物も、いつもちかさんがお決めになる。しおりさんが好きだった色にしてくださいと、一度おっしゃったのを覚えております。」

覚えていてくださったのか、と思った。

「お母様を悪く申し上げるつもりはございません。ただ、私どもがお相手をしているのは、この1年、ちかさんです。」

私は湯飲みを持ったまま、うまく返事ができなかった。嬉しかったわけではない。認めて欲しいと思っていたわけでもない。ただ、誰かが数えてくれたことに、体の力が抜けた。私は湯飲みを縁側に置いて、頭を下げた。

「また来月も参ります。」

「はい。お待ちしております。」

立ち上がりかけて、位牌の2文字のことが喉で出かかった。ただ、あれは「お母さんが伺います」と言った話だ。私が先に寺で聞いたと知れれば、同じことになる。聞いたのは、別のことだった。

「三回忌は、来年の秋ですよね。」

「はい。満2年でございますから、来年の10月ということになります。」

住職は縁側から立って、庭の落ち葉の方へ目をやった。「早めにご相談に伺います。」

「お待ちしております。」

三回忌まで、まだ1年あると思った。1年あれば、義母の気持ちも少しは落ち着くかもしれない。塔婆のことも、その時には笑い話になっているかもしれない。あの日の私は、そのくらいにはまだこの家に期待していた。

坂を下りながら、私は縁側で見た住職の目を思い出していた。住職の言葉は嬉しかった。嬉しかったのに、家に着く頃には別のことを考えていた。寺が私を窓口だと思っていて、親戚は義母がやっていると思っている。どちらも間違っていない。私は電話をかける人で、義母は受付に座る人だ。2つの見え方は、これまでぶつからずに済んでいた。ぶつからない方が、みんな楽だった。ただ、ぶつからないということは、どこかで誰かが数を合わせているということでもある。合わせているのが私だという自覚は、その時にはもうあった。

夜、正幸にその話をした。塔婆が下げられていたこと、住職に聞いたこと、義母が「辛いから」と言ったこと。私は事実だけを並べて話した。正幸は最後まで聞いてから、缶ビールを机に置いた。

「それ、母さんに聞いていい?」

「揉めないなら。」

正幸は缶の縁を指でなぞった。「揉めるだろうけど、聞く。」

次の週末、正幸は一人で義実家へ行った。私は行かなかった。私がいると、義母は私に向かって話す。それでは意味がない。帰ってきたのは、夜の9時過ぎだ。玄関で靴を脱ぎながら、正幸は言った。

「行ってきた。」

「なんて?」

正幸は靴を揃えてから、上がりかまちに腰を下ろした。「しおりのことは、ちかに任せてる。俺も母さんも、それで頼んでるんだから、勝手に変えないでくれって。」

「お母さんは?」

正幸は靴下を脱いで、丸めて手に持った。「あんたには分からないって。」

正幸は上着を脱いで、椅子の背にかけた。「それだけ。でも、言ったよ。」

10年の間、この人が母親に何かを言ったのは、これが最初だった。言った中身より、言ったという事実の方が、私には大きかった。

その電話が来たのは、年が開けてすぐだった。時江からだ。時江とは年に一度会うかどうかの付き合いだ。電話をもらうのは年賀状の返事くらいのもので、正月の3日にかかってきた時は、受話器を取る前に身構えた。

「ちかさん、あけましておめでとうございます。」

「おめでとうございます。」

一通りの挨拶が続いて、それから時江が言った。「あ子はね、大変よね。あの子のこと、全部一人でやってるんだから。」

私は受話器を持ち替えた。「お寺のことも、お墓のことも。あの人、ああ見えて立派だから。」

「一光さんも、たまには手伝ってあげてね。」

「はい」と私は答えた。それ以外に答えようがなかった。立派な人が、なぜ塔婆を早く下げるのか。全部一人でやっている人が、なぜ日取りの相談を私に投げるのか。私は聞き返さなかった。時江は何も悪くない。悪くない人に「あなたの妹は、そう言っていません」という気にはなれなかった。

「じゃあね、今年もよろしく。」

電話が切れた。受話器を置いてから、私は台所で随分長いこと立っていた。

三回忌の相談に小戦寺へ行ったのは、その年の9月6日だった。土曜だったが、水希が出勤を変わってくれた。「三回忌なんだから、当たり前ですよ」と言って、当番表をまた自分で書き換えた。事務所で住職と日を決めた。命日は10月17日。その前の土曜なら寺の予定も空いているというので、三回忌はその土曜に営むことにした。

8月の終わりに「世話の欄はどういたしましょう」と一度聞いた。「前と同じでいいわよ」と義母は言った。私はその返事に日付を添えて、手帳へ書いた。だから、申し込みの用紙に、私は自分の名前を書いた。一周忌の時と同じだ。今度は手が止まらなかった。

「塔婆はいかがなさいますか?」

「お願いします。一本で。」

住職は筆の入った箱を脇へ寄せて、正面を開いた。「お名前は、ちかさんでよろしいですね。」

「はい。」

帰り際、住職が湯飲みを片付けながら言った。「早いものですね。三回忌でございます。」

「はい。」

住職は湯飲みを伏せて、こちらを見た。「しおさんは、32でいらっしゃいましたか?」

「はい、32です。」

住職は頷いて、それ以上は何も言わなかった。私も何も聞かなかった。位牌の2文字のことは、その時も頭にあった。ただ、事務所の帳面を前にして、法要の日取りを決めている最中に聞くことではない気がした。聞くなら、もっと静かな日に聞こう。私はそう思って、そのまま2年目の秋を迎えていた。

花は一つ、供物は果物の箱一つ。引き物は駅前の柏屋に10個。お布施と塔婆の分、会館を使わせていただく分、それから御膳料。御膳料というのは、住職が会食に疲れない時にお包みするお金だ。その日は「檀家の法事があるので、おときは遠慮します」と住職が先に言った。だから、別の袋を用意した。寺へ納める分だけで5万2000円。それに花と供物と引き物を足すと、全部で10万2000円になる。

家に帰って、私は封筒を4つ並べた。表書きを書き分けて、中を数えて、封をした。お布施、御膳料、塔婆の使用料。筆ペンで書く時、私はいつも一度だけ深く息を吐く。仕事で覚えた癖だ。字は上手ではないが、読み間違えられない字は書ける。読み間違えられない字が書ければ、大抵の用は足りる。

これまでの法事のお金は、その都度義母から現金で受け取っていた。49日の時も、発本の時も、一周忌の時も、義母は茶箪笥を出して「これでやってちょうだい」と言った。多いこともあれば、足りないこともあったが、私は差額を言わなかった。

今回は、その封筒が出てこなかった。

「お金のこと、どうしましょうか?」

そう聞いた時、義母はこたつの上のミカンを向いていた。「食事は私が持つから。親戚への連絡も、お店への注文も、当日の席の割り振りも、今度は私がやるから。お寺の方は、お願いね。」

「わかりました」と私は答えた。何も言わなかった。三回忌の前に、金の話で揉めたくなかった。それだけの理由だ。10万2000円は、私の口座から出た。

その言葉の通り、親戚への連絡と食事は義母が引き受けた。出欠を取り、松屋に注文を入れ、当日の席を決める。松屋は小戦寺の檀家へ長く仕出しを納めている店で、女将のゆかりさんは義母と同じ年頃だ。

「お母さん、人数は私が数えるからいいわよ。」

出席は13人ね、と義母は続けた。私は手帳に「13」と書いた。そのやり取りが、9月の終わりにあった。引き物は、義母と相談して10個用意することにした。親戚だけでなく、しおりの同僚や近所の方にも一つずつお渡しするつもりだった。柏屋の主人に人数を伝えると、「掛け紙は前と同じ心志しでいいですか」と聞かれた。「同じでお願いします」と答えた。義父の一周忌の時にも、この店で同じ紙を頼んだ。それから7年以上が経ったが、月岡の家に集まる人の数は、ほとんど変わっていない。

三回忌の当日は、朝から晴れていた。この日の当番も、水希が変わってくれていた。私と正幸は車で家を出た。8時半に寺へ着いて、花を並べ、供物を上げ、引き物の箱を客殿の隅に積んだ。墓にも上がった。塔婆はもう立っていた。真新しい板が、朝の光でまだ白かった。表に「法事 長春妙心信女 三回忌」と書いてある。裏に回ると、「世話 月岡ちか」と住職の字があった。1年前よりも、字が大きく見えた。私は花の水を変えて、手を合わせた。線香一本だけ立てて、しばらくそこにいた。

10時から受付だった。義母は受付の机に座って、来た人に頭を下げていた。着物ではなく、黒いワンピースだった。しおりの写真を、膝に置いていた。正幸は10時15分に車を出した。時江がミノ駅に着くので、迎えに行くためだ。駅から寺までは車で12分ほど。迎えの時間を入れても、40分はかからない。

「戻ったら手伝うから、気をつけてね。」

そう言って送り出した。私は帰りに車を使わない。正幸は義実家まで送るし、私は電車とバスの方が早い。そう決めていた。受付の脇を通ると、義母が近所の檀家の方と話しているところだった。

「本当にあの子のためにしていることは、これくらいしかありませんから。」

その声が、私の背中に届いた。檀家の方が「立派ですね」と言った。義母は「いいえ」と首を振った。私はそのまま客殿の方へ歩いた。腹は立たなかった。この言い方は、この2年で聞き慣れていた。

客殿の広間には、松屋の人たちがお膳を並べていた。法要の後のおときは12時からだ。料理は直前に運ばれてくるが、膳だけは先にする。お膳を置いて、その上に橋袋というのを置いていく。誰がどこに座るかが、そこで分かる。私は数を確かめようとして、広間に入った。

12人分だった。一番奥の席から順に、畳の縁に沿って並んでいる。数え間違いかと思って、もう一度端から数えた。12枚。その日の出席は、私を入れて13人だ。前の週に、私は自分の手帳で確かめている。

廊下から、松屋の女将のゆかりさんが顔を出した。手に注文の控えを持っている。

「これでよろしいでしょうか?」

「あ、ちょっと待ってください。」 ext{私が数を言おうとした時、義母が奥から出てきた。}

「それでいいのよ。ありがとう。」

ゆかりさんは控えを畳んで、廊下の方へ戻っていった。一光さんが縁の近くに座って、お茶の方を見ていた。目があった。口を開きかけて、それから湯飲みに口をつけた。この人は、数を数えられる人だ。義父の法事の度に、座布団の数を先に数えていたのを覚えている。数えた上で、何も言わなかった。言えば座が壊れると思ったのだろう。私も同じことを10年やってきたので、責める気にはならなかった。

「お母さん、私のお膳は?」

義母は橋袋を数える手を止めなかった。顔もあげなかった。「ないわよ」と口の中で言った。「今日はしおりの家族だけで食べたいの。法要が終わったら帰って。」

親戚の何人かが目を伏せた。誰も止めなかった。私は自分の声が、思ったより落ち着いているのに気づいた。

「私がいたら、いけませんか?」

義母はそこで初めて顔をあげた。「だって、嫁は他人でしょ。」

その言葉は、この10年で何度も聞いてきた。名前を呼ばれない時も、鍵番と言われた時も、根にあるのはそれだった。ただ、はっきり言葉にされたのは、その日が初めてだった。義母は橋袋の束を膝の上に置いて、続けた。

「あなたは、しおりの本当のお姉ちゃんじゃないでしょう。」

座敷が静かになった。本当のお姉ちゃん。血のつながった、という意味だ。それはその通りだ。私としおりに、血のつながりはない。だから私は何も言い返さなかった。言い返す言葉がなかったのではない。この場で言い返せば、そこから先は法要ではなくなる。あの子の三回忌の日に、この座敷を親戚の見物にするわけにはいかない。

花はあげた。供物もあげた。塔婆も立っている。お布施も御膳料も、朝一番に住職へお渡しした。私がここにいなくても、しおりの三回忌は始まる。

広間の空気は、多分私が思っていたより悪かった。しおりの同僚だった保育士さんが2人、廊下の近くに座っていた。あの人たちは、月岡の家の事情を知らない。2年前に病室へ来て、廊下で泣いてくれた人たちだ。その2人の前で、私は「嫁は他人だ」と言われた。情けないと思ったのは、その時だった。

「わかりました。」

私はそれだけ言って、立ち上がった。

「ちかさん、法要には…」

義母が少し慌てた声を出した。

「家族だけで供養したいということですので、遠慮します。」

鞄を取って、廊下へ出た。誰も追ってこなかった。一光さんが立ち上がりかけたのが、視界の端に移った気がする。確かめずに、靴を履いた。腕時計を見た。10時30分だった。門を出た時、本堂の方で座布団を並べる音がした。法要が始まるまで、あと30分ある。

ここから先のことは、私はその場にいない。後で正幸と時江から聞いた話と、住職から伺った話をつなぎ合わせている。随分立ってから、一光さんが補ってくれたところもある。

正幸が時江を乗せて寺へ戻ったのは、10時50分だったという。車を止めて、二人で客殿へ上がった。時江が広間の入り口で足を止めた。

「あら、お膳が足りないんじゃないの?」

時江はそういうことに目が利く。義父の葬儀の時、1ヶ月泊まり込んで全部を回した人だ。座布団の数も、湯飲みの数も、この人はいつも先に数える。正幸が入り口から数えた。畳の縁に沿って、一番奥から。数えるのに時間はかからなかったという。お膳は一番奥の席から順に等間隔で置かれていて、入り口に一番近い場所だけが空いている。並べ方が丁寧な分、開いた場所が余計に目立った。

「一光さん、ちかは?」

義母は受付の帳面を閉じながら答えた。「帰ったわよ。」

「帰ったって。」

義母は帳面を胸に抱えて立ち上がった。「先に帰ってもらったの。いいのよ。嫁は…」

正幸は広間を見渡した。義母が答えるより先に、縁の近くにいた一光さんが小さく言ったそうだ。「嫁は他人だから、食事はいらないと言われていたよ。」

正幸の顔つきが変わった。「母さん、ちかに何を言った?」

義母は答えなかった。その間の広間の空気について、時江はこう言った。しおりの同僚だった保育士の2人が、目のやり場に困って自分の膝を見ていた。近所の檀家の方が腕時計を見て、それから咳払いをした。誰も義母を止めなかったし、誰も正幸を止めなかった。

答える前に、廊下から声がした。「そろそろお時間でございます。」

11時だった。住職が広間へ呼びに来たのだ。襖が開いて、住職が立っていた。袈裟をつけて、手に数珠を持っている。本堂で待っていたのに、誰も上がってこないので、様子を見に来たのだという。本堂には朝のうちに私が並べた花が上がっていた。住職が支度をして待っていた。あとは世話が先頭に立って本堂へ上がり、焼香を始めるだけだった。その世話がいない。

親戚が立ち上がり始めた。住職は入り口で一礼して、それから広間の中をゆっくり見回した。誰かを探している顔だったと、時江は言った。

「あれ?」

住職がそう言って、首をかしげた。義母が振り返った。「どうされました?」

「今回の世話さんは、どこへ?」

義母の顔が固まったのが、そこにいた全員には分かったという。一拍置いて、義母は言った。「世話は、私です。」

住職はまた首をかしげた。攻める調子ではなく、本当に分からないという顔だったそうだ。この人は月岡の家の内情を知らない。知っているのは、誰から電話がかかってきて、誰が事務所に来て、誰の名前で申し込みがあったかだけだ。寺というのはそういう場所で、住職というのはそういう役目の人だ。

「いえ、今回のお申し込みは、ちかさんから頂いておりますが。」

親戚の誰かが「ちかさん」と繰り返した。

「一周忌の時から、ずっとちかさんが世話を務めてくださっていますよ。」

時江が聞こえるほどの声で言った。

「一周忌も?」

住職が答えた。「はい。去年の10月の申し込みから、世話のお名前はちかさんです。」

住職は続けた。悪気は一つもない。寺の帳面にあることを、そのまま言っただけだ。「本日の日取りのご相談も、お備えのお花も、供物も、塔婆も、ちかさんがご用意くださいました。先ほどのお布施も、ちかさんからお預かりしております。」

親戚一同、「え?」という顔になったという。時江が後から私に言った言葉は、そのまま書いておく。あの時ね、みんなの顔が一斉に受付の方向いたのよ。あ子じゃなくて、机の方を。誰も何も言わないの。座敷って、ああいう時だけ本当に静かになるのね。

私はその静かさを知らない。知らない方が良かったのかもしれない。

義母は立ったまま、口を開いたり閉じたりしていた。住職は正面を見て言ったわけではない。あの日、正面は事務所にあった。この人は、電話を受けた側の記憶で話している。

「49日の頃から、ずっとちかさんが窓口でいらっしゃいました。」

そんな…。義母が言いかけた。「私が全部やってきたのよ。」

住職は困った顔をした。「私どもは、お申し込みのお名前でお務めをいたします。今回の正面には、ちかさんのお名前で載っております。」

さげすむようなことは、この人は一言も言わなかった。ただ、正面に書いてあることを述べた。それだけで十分だった。

そこへ、廊下から松屋のゆかりさんが顔を出した。人数の確認だった。手には注文の控えを持っていた。

「あの、時ですが、ご注文は12人前で受け承っております。」

時江がゆかりさんの方を向いた。「12人前? 今日は何人いるの?」

正幸が答えた。「13人だよ。」

時江が指を折って数え直したそうだ。月岡の3人、一光さん夫婦とその息子さん、あ子の従姉が2人、しおりの同僚が2人、近所の檀家の方が2人。13人じゃないの?

「え、ご注文は12人前で。」

ゆかりさんは、注文通りに作っただけだ。誰の分を外したかを決めたのは、注文した側だ。13と12の差が、その場に並んだ。一人分。誰の一人分なのかは、数えるまでもなかった。一番奥から数えて12枚目までは、みんなの席がある。その先の、入り口に一番近い場所だけが開いている。開いている場所には、畳の目しかない。

ゆかりさんは事情を知らない。注文されて、数を数えて、運ぶだけの人だ。「控えを持ったままでは…」と、12時にお持ちしますと言って下がったという。

時江が義母の方へ向き直った。「あ子、あんた、全部自分でやってるって言ってなかった?」

義母は答えなかった。

「正月に電話で言ったわよね。お寺のことも、お墓のことも、私が全部やってるって。私、それを聞いて、あんたも一人で偉いわねえって言ったのよ。」

時江は義母の前に一歩出た。「それは、何?」

時江の声は大きくなかったそうだ。ただ、静まった座敷では、どんな小さい声もよく通る。「私が渡したご仏前は、誰が受け取ったの?」

「私が。」

時江は受付の机の方を顎で示した。「そう。あんたが受付にいたものね。」

義母は帳面を胸に抱えたまま、立ち尽くしていた。あ子の従姉に当たる人が、隣の人に小声で聞いたそうだ。「じゃあ、去年の塔婆も、ちかさんじゃないの?」

そのやり取りが、一番義母に応えたと時江は言っていた。1年前の塔婆。それを下げさせたのが、誰なのか。その座敷の親戚は、知らない。

正幸が言った。「母さん、ちかが誰のためにこの2年やってきたと思ってるんだよ。」

義母は正幸を見た。それから、絞り出すように言った。「でも、嫁は嫁でしょう。」

住職はそこには入らなかった。血のつながりの話にも、家の話にも、この人は入らない。ただ、思い出したように付け加えた。

「本日は檀家のご法事がございますので、おときは遠慮させていただきます。御膳料は、お預かりしておりますので。」

御膳料。その言葉の意味は、その場で全員が知っていたわけではないと思う。ただ、住職が「お預かりしております」と言った以上、誰かがそれを包んで渡している。その日の分の袋を用意した人間がいる。その一言が一番効いたと、時江は言った。御膳料を包んだのが誰なのか、その場の全員が同時に分かったからだ。

住職が廊下の方へ体を向けた。「お戻りをお待ちいたしましょうか。ちかさんの…」

という意味だ。義母が即座に言った。「いいんです。始めてください。」

その一言は、座敷にいた全員が聞いていた。義母の顔から血の気が引いていくのが分かったと、時江は言った。住職は一礼して、本堂へ戻った。親戚が廊下へ出ていく。誰も口を聞かなかった。正幸だけが広間に残って、開いた場所をしばらく見ていたそうだ。畳の縁と縁の間。式が一枚もない、ただの畳。そこが、私の席だった。

私はバス停まで坂を降りて、10時40分のバスに乗った。土曜の午前のバスは空いていた。窓の外では、寺の裏の墓地が流れていった。石が並んでいるのが、木の間から見えた。バスを降りて、駅の階段を上がった。土曜の駅は、喪服の人間が一人歩いていても、誰も見ない。黒いストッキングが伝線していることに、そこで気づいた。朝、式の脇を通った時に引っかけたのだと思う。

駅で電車を待ちながら、私は新潟の母に電話をかけた。

「もしもし。ちか。今、大丈夫?」

母は電話の向こうで、椅子を引いたようだった。「大丈夫だけど。」

母の声で、私はようやく息が吐けた。「今日、しおりちゃんの三回忌だったんだけどね。」

そこから、駅のホームで私は10分ほど喋った。お膳が12だったこと。私の分がなかったこと。「嫁は他人だ」と言われたこと。「わかりました」と言って帰ってきたこと。母は口を挟まなかった。相槌も打たなかった。電話の向こうで、湯飲みを置く音だけが一度した。喋り終わると、母は言った。

「ご飯は食べたの?」

「まだ。」

母はそこで一度息を吸った。「食べなさい。」

それだけだった。「食べなさい」と言われて、自分が朝から何も口に入れていないことに、そこで初めて気がついた。母はいつも、こちらが気づいていない方を言い当てる。電話を切ってから、私はホームのベンチに座った。腹は立っていなかった。悔しくもなかった。あるのは、「間に合わなかった」という感じだけだった。何に間に合わなかったのかは、自分でも分からない。10年やってきて、一番近くにいたはずの人の三回忌に、私は座る場所がなかった。それが答えなのだとしたら、私はこの10年、何を積んでいたのだろう。積んだつもりのものは、誰も数えていない。そう思った瞬間に、坂の上の縁側で住職が言った言葉を思い出した。「正面だけを見て申し上げているのではありません。」一人だけ、数えていた人がいる。

電車に乗って、2つ目の駅で降りた。改札を出たところで、携帯が鳴った。正幸からだった。

「ちか。」

「うん。」

正幸の背後で、車のドアが閉まる音がした。「戻ってきてくれないか?」

私は改札の脇に寄った。「法要なら、ちゃんとできるように準備してあるよ。」

「そうじゃなくて。」

私は改札の柱に肩をつけた。「お花も、供物も、あげてある。塔婆も立ってる。お布施も、ご住職に渡してある。私がいなくても、しおりちゃんの三回忌はできるよ。」

「ちか。」

改札の向こうで、人が2人すれ違っていった。「今日は家族だけでやりたいって、お母さんが言ったんでしょう。」

正幸は黙った。しばらくして、「ごめん」とだけ言った。

「謝らないで。今日は、あの子の日だから。」

私は電話を切った。切ってから、駅の柱に持たれて、しばらく動けなかった。

法要は、予定通り11時から営まれた。私はその場にいないので、後で聞いた話になる。

読経の間、義母は一番前の席にいた。焼香の段になって、住職が振り返った。「世話から先に立つ。それが順番だ。」

義母は動かなかった。誰も合図をくれなかったからだと、時江は言った。考えてみれば、これまで義母は一度もその順番で立ったことがなかった。葬儀の喪主は、座っていれば周りが立たせてくれる。年忌の世話は違う。自分で立って、自分で先頭に行かなければならない。住職がもう一度振り返って、「どうぞ」と目で促した。義母はそこでようやく立ち上がったという。焼香を済ませて席へ戻る時、義母は誰とも目を合わせなかった。

その後、全員で墓へ上がった。天気が良かったので、みんなで坂を歩いたそうだ。石段を上がって、区画の角を曲がると、真新しい塔婆が立っている。私がお願いして、住職に立てていただいた板だ。時江が塔婆の裏へ回ったという。

「月岡ちか。」

そこにそう書いてあることは、親戚全員がその場で見た。誰も声に出して読まなかったが、みんなが見た。義母だけが、塔婆の方を見なかった。塔婆の前で、住職が短くお経を上げた。その間、義母は一番後ろに立っていたそうだ。時江はその時の義母の様子を、こう言った。

「泣いてなかったのよ、あの子。お墓の前で、一度も泣かなかったの。」

病気が分かってから、この人はしおりの話が出る度に泣いてきた。病室でも、葬儀でも、49日でも。それがその日は、泣かなかった。声をあげて泣ける人は、まだ自分が悪くないと思っている人だ。

おときが始まったのは12時だった。12人分のお膳に、松屋の料理が並んだ。誰も箸を進めなかったと聞いた。義母は途中で、親戚に向かってこう言ったそうだ。

「ちかさんね、朝から体の具合が良くなかったから、先に返したのよ。」

その時、一光さんが箸を置いた。

「さっき、帰れって言ったじゃないか。」

義母は口を閉じた。一光さんは、それ以上は何も言わなかった。この人はそういう人だ。言うべき一つだけを言って、後は黙る。義父もそうだった。後で一光さんは、私にこう言った。

「私はあの朝、膳の数を数えていた。数えて、黙っていた。すまなかった。」

「謝ってもらうことではないです」と私は答えた。「私も10年、同じことをしてきました。数えて、黙る。そうやって回してきた家です。」

正幸はおときに残らなかった。義母を家まで送って、それから駅へ回って、家に帰ってきたのは3時前だった。玄関で靴を脱ぎながら、正幸は言った。

「ごめん。」

「もう聞いた。」

正幸は鞄を床に置いた。「そうじゃなくて。」

正幸は上がりかまちに座ったまま、しばらく動かなかった。「母さんが、ちかとしおりのことをどう思ってたか、俺、分かってたんだよ。分かってて、何も言わなかった。」

それは、私も知っていた。知っていて、この人に言わせずに来た。

「今日、俺が駅に行ってる30分の間に、あんなことになってた。」

「30分あれば、あれくらいのことは起きるよ。」

言ってしまってから、少しきついかと思った。正幸は笑わなかった。

夕方、私はしおりの水仙の鉢に水をやった。玄関に置いたままの、あの鉢だ。球根は土の下にいる。秋のうちは、何も出てこない。2月の終わり頃になって、細い緑が出てくる。「待つのが好きなんだよね」と、あの子は言った。「咲いたら終わりでしょ。待ってる間の方が長いもん。」

2年待った。待った後に来たのが、あの膳の並びだった。

その晩、私は台所で洗い物をしながら、2つのことを考えていた。一つは、1年前の塔婆のことだ。義母はあの日、雨の中を一人で墓まで上がって、塔婆の裏を見た。そして3日後に寺へ行って、下げさせた。「辛いから」と言って。辛いだけの人は、わざわざ一人で見に行かない。もう一つは、位牌の2文字だ。長春。2年前の艶の夜から、私はその意味を知らないままでいる。聞こうとして、「口を出すことじゃない」と言われて、それ切りだ。あの2文字を書いたのは、住職だ。書いた人は、まだ坂の上にいる。

3日後の火曜は、私の休日だった。朝から晴れていたので、駅前の花屋で小さい束を買って、一人で坂を上がった。火曜の墓地は、誰もいなかった。3日前にみんなで上がった石段は、今度は私だけのものだった。花立ての水を変えて、買ってきた束を挿した。線香を立てて、しゃがんで、手を合わせた。墓地は静かだった。平日の午前に人がいないのは、2年通って知っている。聞こえるのは、坂の下の道を通る車の音と、どこかで鳴いている鳥だけだ。

私はそのまま、そこに立っていた。表を見た。「法事」があって、「長春妙心信女」とあって、「三回忌」とある。裏へ回ると、「世話 月岡ちか」。2年間、私はこの6文字の前で手を合わせてきた。意味は分からないままだ。

しゃがんだままでいると、後ろで砂利を踏む音がした。

「お参りですか?」

住職だった。作務衣の上に薄い上着を着て、手に竹箒を持っていた。落ち葉の季節だ。

「先日はありがとうございました。」

私が頭を下げると、住職は箒を石段に立てかけた。「こちらこそ、失礼をいたしました。私が余計なことを申し上げたばかりに。」

「余計ではありません。そういうつもりはなかったのに、口が先に動いた。本当のことを言ってくださっただけです。」

住職は頷いて、それから塔婆の方へ目をやった。「ちかさん、一つ伺ってもよろしいですか?」

「はい。」

住職は塔婆の表に手をかざした。日差しを避けるようにして、板の上の方を指した。「この2文字が、どこから来たものか、ご存知ですか?」

住職の指が、塔婆の表の上の方を示していた。長春。私は立ち上がった。

「いいえ、知りません。2年前から、知りません。」

言おうとして、やめた。艶の夜に何があったかは、この人が誰よりよく覚えているはずだ。住職は「そうでしたか」とだけ言った。「では、2年前の話をいたします。」

住職は墓石の脇の低い石に腰を下ろした。私も、塔婆のそばに立ったままでいた。

「2年前の10月17日でございます。お通夜の前の日にお宅の座敷に上がらせていただきました。」

「はい。」

住職は膝の上で数珠を持ち替えた。「私は、しおさんはどんな方でしたかとお尋ねしました。お母様がお答えになろうとして、声にならなかった。」

その通りだ。義母は畳に手をついて、泣いた。

「その後、ちかさんがお話しくださいました。」

「話しました。」

住職はこちらを見た。「何をお話になったか、覚えておいでですか?」

私は首を振った。「あの3日間のことは、全部が水の底に沈んでいる。誰がどこに座っていたか覚えているのに、自分が何を喋ったかだけがない。」

住職は膝の上で手を組んだ。「ちかさんは、2つのことをおっしゃいました。」

風が来て、塔婆が鳴った。

「一つ。しおさんは、人の話を最後まで黙って聞く子でした。保育園の子供の話も、その母親の愚痴も、途中で切らずに全部聞いてしまう。だから、自分の話をする時間がなくなってしまう子でした、と。」

体の芯がすくんだ気がした。私はそれを言ったのだと思う。言った覚えはない。ただ、その言い方は、私の言い方だ。

「二つ。しおさんは、春に咲く花が開くのを待つのが好きな子でした。窓辺に球根の鉢を置いて、冬の間中、何も起きないのを見ている。咲いたら終わりだから、待っている間の方が好きなのだと、本人が言っていました、と。そうお話しくださいました。」

私は口を押さえた。押さえないと、変な声が出そうだった。水仙の鉢のことを、私は住職に話したのだ。あの日、しおりの顔に白い布がかかっている座敷で、私は球根の話をした。32年をどう言えばいいのかわからなくて、一番近くにあったことを言ったのだと思う。園の子供の話を最後まで聞いてしまう子だということと、土しかない鉢を冬眺めていた子だということ。思い出したのではない。言われて、「そうだった」と分かった。自分の口から出た言葉なのに、他人の話のように聞いた。

住職は続けた。「法名は、私どもがおつけするものでございます。ただ、材料は私が持っておりません。故人がどういう方だったかは、残された方から伺うほかない。」

「はい。」

住職は石の上で座り直した。「あの日、私が伺えたのは、ちかさんのお話だけでした。」

長春。聞くという字と、春という字。6文字のうち、一番下の「信女」は、女性の方におつけする決まりの2文字でございます。その上の「妙心」は、しおさんの名前から一字を頂戴しました。ここまでは、どなたでも思いつかれます。

住職はそこで一度言葉を切った。「上の2文字は、ちかさんのお話から頂いたものです。人の話を最後まで聞く方。春を待つのが好きだった方。聞く、春、と書いて、長春。」

私は塔婆を見上げた。墨で書かれた2文字が、そこにあった。2年前から、ずっとそこにあった。位牌にも、墓石にも、1年前の塔婆にも、同じ2文字が入っていた。親戚が手を合わせてきたのは、その字だ。義母が毎朝仏壇の前で見ているのも、その字だ。その2文字は、私の口から出たものだった。

「知りませんでした。」

やっと出たのが、その一言だった。

「存じております。ちかさんは、あの晩、お尋ねになろうとしました。」

住職は静かに言った。「お母様がいらしたので、私は申し上げませんでした。ご家族のことに、私どもが入るものではございませんので。」

「はい。」

住職は膝に置いた手を握り直した。「それきりになりました。私の落ち度です。」

私は首を振った。振りながら、涙が出てきた。止めようと思ったが、止められなかった。2年分が、一遍に来た。泣いたのは、認められたからではない。2年間、私はあの2文字の前で頭を下げてきた。誰かがあの子のためにつけてくださった名前だと思って、ありがたく手を合わせてきた。ありがたいと思っていたものが、自分の言葉だったと知らされた。しおりの名前の半分は、私が渡したものだった。渡した覚えもないまま、渡していた。あの子が2年前から名乗っている名前の上の2文字は、私があの座敷で口にした言葉でできている。それを知らずに、私はその名前に手を合わせてきた。他人だと言われながら、他人として手を合わせてきた。

住職は何も言わずに待っていた。この人も、待つ人だった。しばらくして、私は聞いた。

「あの、三回忌。」

「はい。」

私は塔婆の板に手を触れた。指の下で、木が乾いていた。「この2文字のことで、どなたかお尋ねを受けたことはありますか?」

住職は考える顔をした。「私どもにお尋ねになったのは、ちかさんが初めてです。」

初めて。義母は2年間、毎日その位牌に手を合わせてきた。仏壇の花も変えてきた。線香も上げてきた。親戚には「私が全部やっている」と言ってきた。その2文字がどこから来たのかは、一度も寺に尋ねていない。

「誤解のないように申し上げますが」と、住職は慌てたように付け加えた。「私が申し上げられるのは、私どもにお尋ねがなかったということだけでございます。よそでお調べになったかもしれません。それは、私には分かりません。」

「はい。分かっています。」

この人は、自分が知っていること以上は言わない。だから、信用できる。住職は立ち上がって、箒を取った。

「ちかさん。」

「はい。」

住職は箒を肩に担いで、こちらを向いた。「血縁の有無は、私どもがお預かりするご用には関係ありませんよ。」

説教ではなかった。慰めですらなかったと思う。この人はただ、2年間電話を受けてきた側として、そう言っただけだ。私は膝に手を当てて、深く礼した。長い間、顔を上げられなかった。顔をあげると、住職はもう石段の下の方で落ち葉を掃いていた。

私はもう一度、塔婆の前に立った。

長春妙心信女。声に出して呼んでみた。長春、妙心、信女。2年間、私はこの読み方すら教わっていなかった。

しおりちゃん。心の中で、そう呼んだ。あなたの名前の上の2文字は、私が話したことでできてるんだって。ご住職が教えてくれた。風が来て、塔婆が鳴った。返事のつもりで、受け取っておくことにした。

坂を降りながら、私は自分の中で何かの順番が入れ替わったのを感じていた。3日前、私は席がないと言われた。その席は、義母が決めた席だ。寺の正面には、私の名前で乗っている。墓の前の板には、私の名前が書いてある。あの子の名前の半分は、私の言葉でできている。どちらが本当なのか、私はもう迷わなくてよかった。その2文字のことを、私が義母の前で口にする日が来る。それは、まだ少し先の話だ。

10月17日は、しおりの2度目の祥月命日だった。祥月命日というのは、亡くなったのと同じ月の同じ日、1年に一度だけ巡ってくる方の命日を言う。仕事を上がって、バスを一つ手前で降りて、坂を上がった。花を変えて、水をかけて、しばらく立っていた。月に一度、2年続けてきたことだ。その日は、塔婆の裏も見た。世話、月岡ちか。住職の字は丁寧だった。3日前と同じ場所に、同じ板が立っている。あれから、何も変わっていない。変わったのは、私がその2文字の意味を知っているということだけだ。知ってしまうと、同じ景色が違って見える。手を合わせながら、私はしおりに「遅くなってごめんね」と言った。何が遅くなったのかは、自分でもうまく言えなかった。

翌日の土曜、夜の8時過ぎに電話が鳴った。義母だった。

「あんた、ご住職に何を吹き込んだのよ。」

挨拶はなかった。私は台所の椅子に座った。「何も言っていません。」

「じゃあ、なんであんな話になるのよ。」

私は冷蔵庫の方を向いて、声を落とした。「お寺とのやり取りをしていただけです。」

「親戚の前で、私がどれだけ恥をかいたと思ってるの?」

私は受話器を持ち替えた。「私はあの日、何も言ってません。事実です。私はあの場にいなかった。住職が寺の帳面の通りに答えて、時江さんが思っていたことを聞いて、正幸が母親に聞いた。それだけです。」

義母はしばらく黙って、それから声を潜めた。「あんた、私を笑ってるんでしょう。」

「笑っていない。この2年で、私はこの人を笑ったことがない。」

「お母さん、何よ。」

私は椅子の背に手をかけて、立ち上がった。「今度、一度話しさせてください。」

「何を話すのよ?」

私はカレンダーの方を見た。「これからの法事のことです。」

義母は返事をせずに、電話を切った。

その翌週の火曜、私は休日だった。朝のうちに小戦寺へ行った。翌年の盆のことや、その時の塔婆のこと、相談で事務所へ上がることになっていた。住職は帳面を出して、日取りを書き込んでくれた。書き終えて、それから顔をあげた。

「ちかさん、一つお伝えしておかなければならないことがございます。」

「はい。」

住職は筆を置いて、こちらへ向き直った。「実は、先月、お母様がお見えになりまして。」

私は帳面から目をあげた。「9月の13日でございました。三回忌のお申し込みの用紙をお持ちになって、世話の欄にお名前を書いて、お出しになりました。」

「お名前を?」

住職は帳面の日付を指でなぞった。「月岡あ子と。」

住職は机の引き出しから紙を一枚出した。法要の申し込みの用紙だった。世話の欄に、義母の字がある。私は義母の字を知っている。年賀状の裏書きを、何年も見てきた。

「三回忌のお申し込みは、その1週間前、9月6日にちかさんから頂いております。同じご法事のお申し込みを2つはお受けできませんので、この用紙はお受けせず、お預かりしたままにしてございます。」

「お母さんは、なんと?」

住職は用紙を裏返して、白い面をこちらへ向けた。「その時に申し上げました。三回忌のお申し込みは、すでにちかさんのお名前で頂戴しております。と。塔婆でしたら、お母様のお名前で別に一本、立てていただけますが、とも申し上げました。」

9月13日。三回忌の1ヶ月近く前だ。

「お母様は、家結構ですとおっしゃって、お帰りになりました。」

私は用紙を見ていた。義母の字で「月岡あ子」と書いてある。年賀状の宛名は、私が毎年100枚書いてきた。書き終えて渡すと、義母は束をパラパラとめくって、何も言わずに立ち上がる。あの人が自分の名前を書くところは、ほとんど見たことがない。その人が、寺の窓口まで来て、自分の名前を書いた。書いて、断られた。その字を見ていると、腹が立つより先に、別のものが来た。この人は、あの日ここで何を思ったのだろう。思ったことは、分かる。分かるからと言って、私の席が消えていい理由にはならない。そのくらいの区別は、2年分の疲れの上に立っていても、まだできた。

つまり、こういうことになる。義母はあの日の1ヶ月近く前に、三回忌の申し込みが私の名前で寺の正面に乗っていることを知った。知った上で、自分の名前に書き換えようとして、断られた。断られたことも、知っていた。そして、三回忌の当日、私の席だけを消した。

分からなかったことが、そこで一つつながった。なぜ義母が「連絡と食事は私がやる」と言ったのか。あれは歩み寄りではなかった。寺のことは、私の名前になっていて、動かせない。動かせるのは、食事だけだった。12人前という数字は、当日の思いつきではない。松屋に注文を入れたのは、9月の終わりだ。義母は、寺で断られた後に、その数を決めている。

住職は用紙を封筒に戻しながら言った。「申し上げるべきかどうか、随分迷いました。ご家族のことですから、私どもから申し上げるものでもないと思っておりました。」

「いえ。」

住職は封筒の口を折った。「ただ、先日のことがございましたので。」

私は頭を下げた。この人は、言うべき時だけ言う。義父と同じだ。

寺の門を出てから、私は1年前の塔婆のことを考えていた。義母は雨の中を一人で墓まで上がって、塔婆の裏を見た。そこに、私の名前があった。その3日後に寺へ行って、下げさせた。「辛いから」ではなかった。見られたくなかったのだ。あの板が1年間そこに立っていれば、墓参りに来た親戚が誰でも裏を見る。見れば、分かる。だから、下げた。そして、三回忌の年、同じことが起きないように、自分の名前で申し込みを出そうとした。受けてもらえなかった。「塔婆なら、別に一本立てられます」と言われても、「家結構です」と言って、帰った。

家に帰って、私は正幸にその話をした。正幸は台所の椅子に座って、最後まで黙って聞いた。聞き終えて、両手で顔をこすった。

「知ってて、やったのか。」

「そうなるね。」

正幸は椅子の上で背中を丸めた。「母さんは、なんでそこまで…」

分からない。その時は、本当に分からなかった。正幸は立ち上がって、冷蔵庫を開けて、何も出さずに閉めた。

「俺、明日行ってくる。」

「待って。」

私は正幸を止めた。「二人で行っても、多分同じことになる。お母さんは泣いて、あなたが困って、それで終わる。」

「じゃあ、どうするんだよ。」

「みんなのいるところで話す。時江さんにも、一光さんにも、いてもらう。」

正幸はしばらく、私を見ていた。「揉めるぞ。」

「揉めないと、終わらないよ。10年揉めないようにしてきて、こうなったんだから。」

その日、私は時江に電話をした。時江は最初、しきりに謝った。正月に「立派だ」と言ったこと。「手伝ってあげてね」と言ったこと。全部、知らなかったのだと言った。

「あなたが謝ることではありません。」

そう言うと、時江はしばらく黙って、それから別の話を始めた。

「ちかさん。あ子はね、嫁に来た時、台所から出してもらえなかったのよ。」

私は受話器を持ち直した。

「月岡のおばあさん、蒼一さんのお母さんね。あの人が厳しい人でね、嫁を座敷にあげなかったの。法事の時も、あ子はずっと台所。座敷に出ていいのは、お茶を出す時だけ。」

「そうだったんですか。」

時江は電話の向こうで、湯飲みを置いたようだった。「私のところの姑は、そこまでの人じゃなかったの。私は嫁いだ先でも、座敷に座れた。あ子は、座れなかった。同じ姉妹で、行った先でこんなに変わるのよ。」

いつだったか、義母が台所で「私もね、昔あそこに立たされてたのよ」と背中越しに言ったことがある。あの声を、思い出した。

「だからね、あの子は、嫁が座敷にいるのが嫌なのよ。自分が座れなかったから。」

「はい。」

時江はそこで一つ息をついた。「それと、しおりちゃんのことね。」

時江の声が、少し低くなった。「あの子、しおりちゃんが病気になってから、ずっと言ってたのよ。娘が私を頼ってくれないって。」

私は目を閉じた。

「電話でね。泣いていうの。私が母親なのに、あの子は嫁の方ばっかり見てるって。」

分かっていた。分かっていて、私は何もできなかった。しおりが誰を頼るかは、しおりが決めることだ。でもね、ちかさん。時江はそこで、また調子を戻した。「それは、あんたのせいじゃない。しおりちゃんが選んだんだから。」

「はい」と私は答えた。同情はできる。義母がされたことも、義母が思っていたことも、分かる。ただ、痛かった人が、次の人を痛くしていいわけではない。台所に立たされた人が、次の嫁を台所に立たせていい理由にはならない。あの家の座敷は、そうやって何代も回ってきたのだと思う。私はそこで、止める。止めると言っても、怒鳴るわけでも、縁を切るわけでもない。回してきた手を、下ろすだけだ。

「時江さん、一度、みんなで集まって話をさせてもらえませんか?」

「いいわよ。私が声をかける。」

日は、11月1日の土曜になった。土曜は元々出勤の日なので、私はまた水希に当番を変わってもらった。私は受話器を戻して、台所のカレンダーの11月1日に丸をつけた。

11月1日の土曜、義実家の座敷に5人が集まった。義母、私、正幸、時江。それから、一光さん。時江が声をかけて、一光さんが自分から来ると言ったそうだ。座布団は私が並べた。茶を出したのは、時江だった。この家で、私以外の人が茶を出すところを見たのは、久しぶりだった。台所へ立とうとすると、時江に止められた。

「あんたは座ってなさい。今日は話しに来たんでしょう。」

私は座布団に座った。この家の座敷に、客として座ったのは初めてだった。畳の目が、思っていたより荒かった。

義母はこたつの向こうに座って、腕を組んでいた。「話って、何よ?」

時江が口を開く前に、義母が続けた。「言っておくけど、次の法事から、全部私がやるからね。」

私は膝の上で手を揃えた。「わかりました。お願いします。」

義母が顔をあげた。「え?」

「次の法事から、お母さんにお願いします。」

義母は腕を組んだまま、私を見ていた。言い返されるつもりでいたのだと思う。

「私がやるのよ。」

義母がもう一度言った。「全部やるって言ってるのよ。」

「はい。お願いします。」

私は鞄から手帳を出した。仕事で使っているのと同じものだ。「引き継ぎさせてください。今日、全部お伝えします。」

義母の腕が、ほどけた。私は手帳を開いて、一つずつ読み上げた。

法要の申し込み。年忌の度に寺へ電話をして、住職の予定を聞いて、日取りを決める。1ヶ月以上前に申し込む。土日は檀家の法事が入りやすいので、早めがいい。申し込み書の世話の欄。年忌の用紙は、家の名前ではなく、個人の名前を書く。書いた人が世話になる。お布施、3万円。表書きは「お布施」。新しい封筒を使う。御膳料、住職がおときに疲れない時にお包みする。5000円。別の袋にする。疲れる時は包まない。塔婆、申し込むと住職が書いてくださる。表に法名と何の法要か。裏に世話の名前と日付。当日の朝までに立てていただく。次の年忌まで置いておく。下げる時は、世話が申し出る。花、一で1万5000円。花屋は駅前の店。しおりちゃんが好きだったのは、白と黄色。供物、果物の箱で5000円。客殿の使用料、1万円。引き物、駅前の柏屋で3000円。掛け紙は心志し。数は、出席者から月岡の家のものを引いた数。今回は10個で3万円。おとき、松屋のゆかりさん。人数は、出席する人の数。墓の管理。水は夏はすぐ悪くなる。線香立ての灰は、年に一度変える。石屋さんは、納骨の時にお世話になったところ。墓の掃除。彼岸と盆の前には、区画の草を取る。石の面は、柔らかい布で拭く。金だわしは使わない。五時会費。お寺を維持するためのお金で、春に振り込みの案内が届く。出るのは、お母さんの口座から。届いたことを知らせていたのは、私。

読み上げている間、義母は何も言わなかった。時江が途中で「ちょっと待って」と言って、メモを取り始めた。一光さんは腕を組んで、天井を見ていた。私は最後の一つを読んだ。

「それから、三回忌にかかったお金のことです。」

義母の肩が動いた。「これまでの分は、その都度、お母さんから頂いていました。三回忌の分は、私が出しています。10万2000円です。」

「あんた、それを取り立てに来たの?」

私は首を振った。「いいえ。返していただこうとは思っていません。少なくとも、この席でお金の話をするつもりはありません。ただ、これからはお母さんが出すことになります。金額をご存知ないと、当日困られるので、お伝えしました。」

そこで、一光さんが初めて口を開いた。「あ子さん、今の、全部、書けたか?」

義母は答えなかった。時江が自分のメモを差し出した。義母はそれを受け取って、しばらく紙を眺めていた。それから、思い出したように言った。

「塔婆なんて、寺が勝手に立てるものでしょ。」

「申し込んだ人の名前で立ちます。」

義母はメモの紙を、こたつの上に伏せた。「法名だって、お坊さんがつけるものじゃないの?」

私は頷いた。「はい。ご住職がおつけになります。」

「じゃあ、私が何を知らないって言うのよ。」

そこで、義母が自分から言った。「意味なんて、考えたこともなかったわよ。」

座敷が、しんとした。時江が「え」と小さい声を出した。私は膝の上の手を、そのままにしていた。

「しおりちゃんの法名は、長春妙心信女と言います。」

「知ってるわよ。」

私はこたつの天板の木目を見ていた。「真ん中の2文字は、しおりちゃんのお名前から一字を頂いたものだそうです。」

「そうでしょうね。」

私はそこで顔を上げて、義母を見た。「上の2文字は、2年前の艶やの前に、私がご住職にお話しした2つのことから頂いたものだと、先日伺いました。」

義母の顔が、そこで止まった。

「あの日、ご住職が、しおりちゃんはどんな方でしたかとお尋ねになりました。お母さんがお答えになろうとして、声にならなかった。それで、私が話しました。」

「そんなの…」

義母の声が、途中で切れた。

「しおりちゃんは、人の話を最後まで黙って聞く子でした、と話しました。それから、春に咲く花が開くのを待つのが好きな子でした、と。」

私は指で字の形をなぞるようにして、続けた。「聞く、春、と書いて、長春です。私はそのことを、2年間知りませんでした。艶の晩に伺おうとして、あなたが『口を出すことじゃない』と言われたので、それ切り聞けませんでした。」

義母は、何も言わなかった。時江が両手で口を覆っていた。一光さんが、天井から目を下ろした。私は最後に、こう言った。

「お母さん、私を他人にしていただいて、構いません。本当に血は繋がっていませんから。しおりちゃんの本当のお姉ちゃんでも、ありません。」

義母が、私を見た。

「ただ、他人にお願いしていた分は、これからはご家族でお願いします。」

私は手帳を鞄に戻した。「それだけです。」

正幸がそこで前に出た。「母さん、俺からも言う。」

義母は、息子の方を見た。

「ちかを他人扱いするなら、俺たちも今まで通りには付き合えない。急に呼ばれて、その日のうちに行くのはやめる。法事を丸ごと引き受けるのもやめる。ちかが今日みたいに言われたら、俺はその場で連れて帰る。」

「あんたまで…」

正幸は膝の上で拳を作って、それをほどいた。「縁を切るとは言ってない。線を引くって言ってる。」

正幸は座り直した。この人が、母親の前で最後まで話し切るところは、その時初めて見た。

時江が湯飲みを置いた。「あ子。」

義母は、姉の方を見なかった。

「あんたね、しおりちゃんのお墓を2年守ってきた人に、あの子の三回忌の日に、座る場所をやらなかったのよ。」

義母の肩が、落ちた。

「私だって、あの子の母親よ。母親よ。」

「誰も否定してない。」

時江は声を落として、続けた。「母親なんだから、これからは自分でやりなさい。私も手伝わない。あんたが一人で全部やってるって、みんなに言ったんだから。」

義母はそこで初めて、泣いた。2年間、この人がしおりの話で泣くところは、何度も見てきた。その日の泣き方は、それまでとは違っていた。声をあげなかった。私は何も言わなかった。慰めもしなかった。慰めれば、また元に戻る。泣いている義母を見ながら、私は自分の胸の中を確かめていた。すっきりしたとは思わなかった。ざまあ見ろとも思わなかった。思ったのは、「やっと下ろせた」ということだけだ。

10年、私はこの家の数を合わせてきた。座布団の数、湯飲みの数、宛名の数、法事の日取りの数。合わせる人がいなくなれば、ずれる。ずれれば、誰かが困る。困るのが嫌で、私は数を合わせ続けた。合わせるのをやめると決めるのに、2年かかった。2年の間、私を数えていた人が寺にいたから、決められたのだと思う。

その日の午後、私と正幸と義母の3人で、小戦寺へ行った。事務所で、住職に窓口の変更を届けた。この日からの連絡先は、月岡あ子。彼岸も、盆も、年忌も、申し込みも、お布施も、塔婆も、義母がやる。住職は帳面を出して、義母の名前と電話番号と、その日の日付を書き入れた。

「受け承りました。」

それだけだった。この人は、何もさかなかった。書いて、受け承って、次の法事の日まで待つ。

事務所を出る時、義母が住職に聞いた。私から聞いた話を、この人の口からもう一度聞きたかったのだと思う。

「あの、三回忌。あの子の法名の上の2文字は…」

住職は少し驚いた顔をして、それから丁寧に説明した。私が先に伺ったのと、一言も違わない説明だった。義母は最後まで聞いて、「ありがとうございました」とだけ言った。

寺の門を出たところで、義母が立ち止まった。

「ちかさん。」

私は振り返った。

「あんた、いつから、あの子の話を聞いてたの?」

「いつからでしょう? 本当に分からない。こたつで仕事の愚痴を聞いたのが最初か、その前か。数えたことがない。」

義母は、坂の下の方を見ていた。「私は、聞いてなかったんだわ。」

それだけ言って、先に歩き出した。その背中を見送りながら、私は7月の終わりのことを思い出した。あの子が言いかけてやめた、頼み事が何だったのか、私は今も知らない。それでも、あの子の名前の上の2文字は、これからも私が覚えている。

「聞いてなかった」というあの一言は、謝罪ではなかった。詫びる言葉は、その日も、その後も、この人の口からは出ていない。それでいいと思っている。謝って欲しくてやったことは、一つもない。私が手放したのは、供養ではなかった。義母のための法事の運営を、下ろしただけだ。

4ヶ月が過ぎて、3月になった。義母のことは、時江が折に触れて教えてくれる。春の彼岸に、塔婆をお願いする手配で、義母は寺に何度も電話をかけたそうだ。初めは日取りを決めずに切り、次は住職が留守で、何度かけてようやく決まったという。彼岸の塔婆の申し込みは、締め切りを1週間過ぎてから事務所へ駆け込んだらしい。親戚への連絡も、自分でやっている。誰が来て、誰が来ないかを、紙に書いては書き直しているそうだ。

「あ子がね、この間言ったのよ。ちかさんは、あんなことを毎年やってたのって。」

時江は電話でそう言って、笑いかけて、すぐに笑うのをやめた。月岡の家に親戚が集まることは、あれから一度もない。義母は近所に「嫁が家のことをしなくなってね」と話しているらしい。そこだけは、変わらない。腹は立たない。

去年の暮れ、義母から年賀状の宛名の話が来なかった。あれを書かなくなって、私は年末に3日分の時間を取り戻した。取り戻した3日で、私は新潟へ帰った。母と2人で、大晦日から3日まで過ごした。父が亡くなってから、実家で年を越したのは初めてだった。

正幸は、月に一度、実家へ顔を出す。私は行かない。呼ばれても、その日のうちには行かない。あの日に引いた線は、2人で守っている。

私は仕事を変えなかった。転職も、資格を取ることも、しなかった。この2年で得たのは、「私が続けてきたことに意味がないわけではない」ということだけだ。意味がなかったのは、意味を数えない場所に置き続けたことの方だ。置く場所を変えれば、同じことがちゃんと積み上がる。

会館の窓口で、今日も予約の帳面に人の名前を書いている。「法要の後の会食 12名 11時から」。申し込み者の名前と利用日と人数。一時も間違えない。17日が土日に当たる月は、水希が当番を変わってくれる。「来年もそこ、私が入っときますね」と言って、当番表に自分の名前を書く。この子には、いつか何かを返さないといけない。

新潟の母には、今も月に一度電話をする。この頃は、母の方がよく喋る。私が黙って最後まで聞いて、「それでね」という順番が、入れ替わった。

夏に一度、義母から電話があった。盆の塔婆は何本立てればいいのか、という電話だった。私は決め方だけを答えて、「あとは寺に聞いてください」と言った。義母は「そう」とだけ言って、切った。正幸が心配して、「行かなくていいのか」と聞いた。「行かない」と答えた。行けば、元に戻る。私は義母を困らせたいわけではない。困っている人の代わりに手を出すのを、やめただけだ。

1年が過ぎて、また10月が来た。あれから1年。しおりが亡くなって、3年。その日、私は正幸と2人で墓へ行った。年忌の塔婆は、1年前に立てたものがまだ立っている。次に年忌の塔婆が立つのは、七回忌の時だ。板は色が焦げて、墨の字も薄くなっていた。それでも、読めた。花立てには、駅前の花屋で買った白と黄色の束を挿した。玄関の鉢は、また土だけに戻って、次の春を待っている。

「しおりちゃん、この前の三回忌、途中で帰っちゃってごめんね。」

そう言うと、正幸が横で笑った。「しおりなら、絶対怒ってるよ。」

正幸は線香を受け取って、墓石の上から水をかけた。母さんに、2人で少し笑った。石段の下から、住職が箒を持って上がってくるのが見えた。住職は区画の手前で足を止めて、私たちに会釈した。それから、隣の区画の方へ歩いていった。あの人は、今日もこの坂にいる。来年もいるだろうし、七回忌の日にもいるだろう。

「ご住職、変わらないな。」

正幸がそう言った。

「変わらないよ。」

変わらない人が一人いる場所のことを、檀家と呼ぶのだと思う。誰が世話でも、誰が来なくても、正面に名前が乗っていれば、その人はその日そこにいていい。私が14年やってきた仕事と、多分同じことだ。

私は墓石の前にしゃがんで、あの2文字を見た。長春。あの子は、まず人だった。土しかない鉢を、冬眺めていた人だった。人の話を最後まで聞いてしまって、自分の話をする時間がなくなる人だった。その2文字は、私が渡したものだ。

血は繋がっていなかったけれど、私はあなたを本当に妹だと思っていたよ。声には出さなかった。出さなくても伝わる相手だと思っている。

義母は、私を他人と言いました。確かに、しおりと私に血のつながりはありません。でも、誰かを家族だと思う気持ちまで、血縁だけで決まるものではないと、私は思っています。

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