「やっぱりそうだ。隣に住んでるおじさんだ」
少年が指さしたのは、私が墓前に供えた信彦の写真だった。隣に住んでいるという。信彦は8年前に亡くなったはずだ。もしこの少年の言葉が本当なら、墓の中にあるのは信彦ではない。彼は生きていて、すべてから逃げ出したことになる。
私は市川はるか、45歳。8年前に夫の信彦を亡くした。周囲からは婚姻関係の終了を勧められたが、今もそのままにしている。理由はいくつかあるが、義姉の明美の存在が大きい。彼女は最初から私を貧乏と罵り、金目当ての結婚だと断言した。信彦が亡くなった時には「お前がやった」と決めつけ、周囲に言いふらした。
「結婚前から信彦のお金が目的だったのよ。あの子に遺産が渡った。今私たちが疑うのも当然よね」
今、婚姻関係を終わらせれば、彼女はすべてを私のせいにするだろう。それだけは避けたい。なぜなら、明美こそが信彦が亡くなった原因を作ったと私は考えていたからだ。証拠はないが、根拠はある。
明美はとんでもない浪費家だった。私が彼女と初めて会ったのは、結婚の挨拶に行った時だ。信彦の両親はすでに亡くなっていたが、実家は残っていて、明美と彼女の夫の和が暮らしている。親族になるのだから挨拶は避けられない。覚悟を決めて信彦と一緒に実家へ行った。
出迎えてくれたのは義兄になる和。信彦から聞いていた通り、とても気さくな人だった。
「待っていたよ、信彦。それとはるかさんだっけ?」
「はい、はるかです。よろしくお願いします」
深々と頭を下げると、信彦が隣で大笑いした。
「そんなにかしこまる必要はないよね、和さん」
「ああ、もっと気楽でいいよ。さ、中へどうぞ」
案内された先はリビング。綺麗に片付いた部屋を見ていると、信彦が口を開いた。
「今日は珍しく片付いてるね。姉さんがやったの?」
「そんなわけないだろ。俺だよ」
「なんだ、いつも通りか」
二人のやり取りは友達同士のようで、私は安心していた。その後は和やかな空気の中で会話をした。私がデパートで働いていることや、仕事を通じて勝者に務める信彦と出会ったことなどを話した。
「ところで、はるかさんは結婚後も仕事を続けるつもりなの?」
「あ、はい。デパートのお客様は年齢層が幅広いので、ターゲットの年齢に合わせた従業員がいると都合がいいそうです」
私がそんな話をすると、和は何度も頷いていた。
「確かにそうだよな。うちの病院の患者も、俺みたいに若い医者には『年寄りの悩みなんか分からないだろ』とか言ってくるからな」
和は実家の病院で医師をしている。当時は研修を終えたばかりで、患者にからかわれることもあったらしい。
「何にしても、信彦が羨ましいよ。結婚しても仕事がしたいっていう奥さんで」
「え?」
思わず聞き返すと、信彦が横から私を突いた。
「聞かないでやってくれ、はるか。姉さんはそういう人なんだよ」
家を出る前に、信彦から釘を刺されていた。義姉の明美は専業主婦なのに家事をほとんどしないらしい。しかも指摘されると急に怒り出すから注意しろと。
「まあそういうことだから、余計なことはな」
和が人差し指を唇に押し当てる。私は頷いた。
その時、玄関が開く音がした。続けて女性の声が聞こえる。
「ただいま。買ってきたわよ、ケーキ」
「ああ、今行くよ」
すぐに和が立ち上がる。とっさに私も腰を浮かせた。
「あ、私が」
「いいよ、座ってて。今日はお客さんなんだから」
そう言われて、ゆっくりと座り直す。すぐに和は女性と一緒に戻ってきた。年齢は私より少し上だろうか。彼女はブランド品で身を固め、派手なメイクをしていた。
「あら、もう来ていたのね、信彦」
「ああ、姉さんお帰り」
「どこに行っていたんだ?」
「あなたたちに出すお茶菓子を買いに行っていたのよ」
ふんと鼻を鳴らす女性。この人が義姉の明美だろうかと見ていると、急に彼女は顔をしかめた。
「何よ、あなた。挨拶もできないの?」
しまったと思いつつ、慌てて立ち上がる。深々と頭を下げながら名乗った。
「初めまして、はるかです。信彦さんとお付き合いをさせていただいています」
「はいはい、あなたが信彦のお相手ね。聞いていた通りだわ。確かに貧乏そうな顔しているし、安っぽい服もお似合いよ」
ふふっと明美が笑う。馬鹿にされたことは分かった。ただ、言い返すわけにはいかない。関係がこじれる原因になるからだ。
「姉さん、なんだよその言い方は」
我慢していた私の代わりに、信彦が言い返してくれた。しかし、明美は平然としたまま。
「何か気に触った?」
「当たり前だろ。初めて会ったのに貧乏だのなんだの、ふざけてるのか」
信彦が不愉快そうに眉を潜めた。私は反射的に彼をなだめる。
「だ、大丈夫だから、信彦」
「でもな、平気だって。実際この服安いし」
本当は意外と高いけれど、波風を立てないようにそう言った。
「ほら見なさい。彼女も認めているわ」
「あのなあ」
信彦も立ち上がる。次の瞬間、和が割り込んできた。
「明美、いい加減にするんだ。失礼だろ」
「私は本当のことを言っただけよ」
「事実かどうかは関係ない。問題は失礼かどうかだ」
和の言葉に、明美は口をつむんだ。どうやら反論を思いつかなかったようだ。
「彼女を見習ってほしいよ、全く」
「どういうこと?」
「彼女、結婚しても仕事を続けるんだって。専業主婦なのに何もしないお前とは大違いだよ」
ここぞとばかりに和が嫌味を言う。明美は悔しそうな顔をしていた。
「私はこんな貧乏人とは違うのよ。不動産収入があるから」
「収入の問題じゃない。やる気の問題だ」
「やる気?そんなものは私にもあるわよ」
声を荒らげる明美。和は呆れたように鼻で笑っていた。
「お前にやる気は、買い物に対してだけだろ」
「え?」
聞き返した明美の両手には、大きな紙袋が抱えられている。和はそれを指さして続けた。
「買い物ばかりに夢中にならず、たまには家事でもやってくれ。一応お前は専業主婦なんだからな」
「ああ、私はちゃんとやっているわよ」
「じゃあ俺の前でもやってくれよ。頼んだぞ」
そう言いながら、和は明美に紅茶の入った缶を手渡す。続けてキッチンの方に目を向けた。
「紅茶を入れてくれ。俺はケーキを用意するから」
「あ、分かったわよ」
紅茶の缶を握りしめる明美。今にも缶が音を立ててへこみそうだった。
「私は絶対に認めないわよ、あなたたちの結婚」
彼女の捨てゼリフがこれだ。ただ、いくら姉とはいえ、たった一人が反対しただけ。和を始め、他の親族は誰もが賛成してくれた。おかげで私たちは無事に結婚し、晴れて夫婦となった。
しかし、この一件で明美の反感を買ったのは確かだ。彼女は私を目の敵にするようになった。普段は離れて暮らしているから特に困ることはない。問題は私の職場に顔を出した時だった。
デパートでは主に接客をしている。いくら親族でも、来店した際は明美もお客様の一人だ。適当な対応をすれば店の評判を落とす可能性がある。
「こんにちは、はるかさん」
「いらっしゃいませ」
思わず顔が引きつる。最初は同僚に接客を変わってもらっていたが、本当に初めのうちだけ。すぐに明美の態度の悪さに気づき、結局は私が対応するしかなかった。
「本日は何かお探しでしょうか?」
お決まりの文句を言ってみる。明美は口元を緩めていた。
「そうね。このバッグ、少し値下げしてくれない?」
彼女は売り場にあったブランドバッグを手にしている。まずい、と私は唇を噛んでしまった。
デパートでは消化仕入れという販売形式が多い。これは売れるまではメーカーのものという方式だ。売れ残りはメーカーへ返品できるため、デパートが有利な販売方法だった。販売員も派遣されるが、デパートの従業員が接客して販売することもある。私がいたのは委託されている売り場だった。
「申し訳ありません。こちらは私の一存ではお値引きできない商品で」
頼まれている仕事は接客と販売だけだ。自由に価格を決める権利は私にはなかった。
「あら、どうして?少しくらいは安くできるでしょう?」
「いえ、その、メーカーからの指示ですので」
例えば買い取り仕入れであれば、店頭にあるものは全てデパートのものだから、多少の値引きも可能になる。社員割引とかそういう形で安くすることもできたけれど、消化仕入れでは難しい。彼女はそれを分かっていて、私を困らせているようだった。
「もしかして、ここの店員は客を見て値段を決めるのかしら?」
「え?そのようなことは」
「あるでしょ?向こうの服は少し安くしてもらえたわ」
明美が手にしていた紙袋を掲げる。続けて、周囲の人に聞かせるかのように声を張り上げた。
「皆さん、聞いてください。この店員は客を見て値段を変えています」
店内にいた人の視線が一斉にこちらを向く。私は慌てて取り繕った。
「ち、違います。お客様の勘違いですから」
「はあ。私が嘘をついているっていうの?」
「そうじゃなくて」
次第に客が集まってくる。たまりかねた私は、明美の腕を引っ張った。
「お客様、少々こちらへ」
「勝手に腕を掴まないで」
「いいですから、こちらへ」
強引に店の奥へ連れて行く。接客は奥から出てきた同僚に任せた。入れ替わりに奥の社員スペースに入り、そこで彼女の手を離した。
「何よ、ここは」
不愉快そうな顔をする明美。私はため息をついてから言い返した。
「あの店頭で変なことを言わないでくれませんか?営業妨害ですよ」
「営業妨害?そんなことをした覚えはないわ」
ふんと鼻であしらわれる。さすがにカチンと来た。
「分かりますよね。私が迷惑していることくらい」
少し強く言う。しかし、明美はそ知らぬ顔をした。
「本当のことを言っただけじゃない?」
「明らかに嘘じゃないですか。店頭の商品はメーカーが価格を決めていて」
無駄だと思いつつも丁寧に説明する。だが彼女は目を合わせようともしなかった。
「でも、少しくらいは値引きできるでしょう」
「無理です」
きっぱりと断る。
「じゃあ、少し出してくれればいいじゃない」
「ご冗談を。不動産を持っているんですよね。それなのに貧乏な私に」
思わず笑ってしまった。馬鹿にされたと気づいたのか、明美はむっとする。
「金目当てで結婚した女が偉そうに言うな」
「違います。金目当てなら仕事はやめていると思いませんか?」
正論で反撃した。
「うっ」
言葉の根も出なかったようだ。急に視線をそらした彼女は、私に背を向けた。
「もういい。帰るわ」
「そうしていただけると助かります。今度店で騒いだら、お兄さんに報告しますから覚悟しておいてくださいね」
最後通告のつもりで告げる。明美は聞いていないふりをして、その場から立ち去っていった。
忠告はしたが、彼女が素直に私の言うことを聞いてくれるとは思えない。実際に何度も店で騒いでいたからだ。ちゃんと手を打っておいた方が良さそうね。
私に何かしているうちはまだ許せる。だが店に迷惑をかけたら終わりだ。その前に何とかしなければならない。
私はまず信彦に相談をした。
「そういうことだから、あなたの方からも注意してくれない?」
「そっか。確かに店に迷惑をかけるのはまずいな。分かった。俺から話をするよ」
「お願いね。それと、お兄さんにも和さんにも話してもらうように促して」
信彦は少し考えてから頷いた。
「そうだな。和さんからも注意してもらおうよ。頼むわね」
翌日の夜、信彦は仕事帰りに実家に寄ったと帰宅後に話した。家には明美だけがいたらしい。私が迷惑しているとは言わず、店が彼女に目をつけたと告げたそうだ。
「それ、どういうこと?」
「だから、場合によっては出禁になるってことだよ。迷惑行為で警察に通報される可能性あるからな」
「け、警察」
明美はかなり悔しそうにしていたと教えてもらった。それだけの行為をしたのだから、当然と言えば当然だ。今まで通報されなかったのは、私の親族だから。普通ならもっと早く警察を呼ばれてもおかしくなかった。
「とにかく、今後はかのデパートに行かないでくれよ」
「でも」
「でもでもじゃない。俺の仕事にも影響が出るんだぞ。分かるだろ」
信彦は明美の言葉を遮り、厳しく言ったそうだ。話しているうちに和が帰宅する。彼女は助けを求めるかのように和にすがりついたけれど、これが大失敗。事情を知った和は激怒した。
「あのな、俺が何度も言っただろう。恥ずかしいことをするな」
「でも」
「うるさい。デパートに訴えられたらどうするんだ?俺が病院を辞めなくなる可能性も出てくるんだぞ。いいのか?それでも」
これが一番効いたとのこと。明美はセレブに強い憧れを持っているらしい。学生時代は無理をしてお金持ちのふりをしていたと信彦も話していた。だからこそ、病院の後継ぎである医者の妻という立場は何が何でも守りたい。一つしか選べないのであれば、嫌がらせを諦めるという結論になったようだった。
「多分もう店には行かないと思うけど、一応気をつけておけよ」
帰ってきた信彦は開口一番、私にそう告げる。
「ありがとう。助かるわ」
「いや、俺は別に。お礼なら和さんに行ってくれ」
「分かった。今度何か持ってお礼に行くわ」
こうして私と明美の争いは終わりを迎えた。しかし、顔を合わせれば彼女から嫌がらせをされる。私たちの関係に大きな変化はなかった。例えば、実家を訪れれば明美から嫌味を言われる。自分の代わりに親族をもてなすようにも命じられた。年末年始も同様だ。挨拶をするだけのつもりがあれこれと用事を言いつけられる始末。結婚が経つ頃には、年始の挨拶も電話で済ませるようになっていた。ただ、私が避けると向こうはわざと近寄ってくる。特に用事もないのに明美がうちに訪ねてくることが増えていった。
一つ良かったのは、私の休みが不定期だったことだ。デパートは休日こそが書き入れ時になる。一般的な休日に私が出勤するのは当たり前だった。交代で休暇を取るため、平日のどこかが休日になる。シフトが決まるまで出勤日がいつになるかは私にも分からなかった。当然、明美も私の勤務体制を正確に把握するのは不可能だ。おかげで彼女が家に来ても私がいないということは珍しくなかった。うまくやり過ごすことができていた。
そうして結婚から5年ほどが経った時のことだ。休みだった私は、元気よく信彦を仕事へ送り出した。今日は久しぶりに家中を掃除しよう。そんな風に気合いを入れていたのだが、ふと電話が鳴っていることに気づいた。
誰かしら?家に固定電話はない。携帯電話だけで十分だからだ。
表示されていたのは知らない番号だった。間違い電話という可能性もあるが、番号を変えた友人かもしれない。少し考えてから私は電話に出た。
「もしもし。どちら様ですか?」
「市川信彦の奥さんか?」
信彦の名前にドキッとする。彼の仕事の関係者か?それとも悪い想像が脳裏をよぎる。
「そうですけど、何でしょうか?」
「言いたいことは一つだけだ。さっさと金を返せと旦那に伝えろ」
「は?金?」
意味が分からない。信彦が借金でもしているというのだろうか。
「分かったか?」
「あ、その話は分かりましたが」
「じゃあちゃんと伝えろ。いいな」
事情を聞く暇もなく電話は切れた。とっさに携帯電話を見つめてしまう。
「お金なんて。そんなはずがないでしょ」
信彦は地元の勝者に務めている。デパートとも取引があるくらい地元では大きな会社だ。全国的に知られている大手企業とは比べられないが、給料もかなりいい。借金をするとは到底思えなかった。
間違い。ちゃんと名前を言ったし、不審感が募る。モヤモヤした私は、昼休みの時間を狙って信彦に電話をかけた。
「どうした、はるか」
こちらの心配をよそに、あっけらかんと聞いてくる。つい私は口を尖らせていた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、時間ある?」
「ああ、どうした?」
「あのね、少し前に知らない人から電話がかかってきたんだけど」
電話の内容をそのまま彼に告げる。相手の名前は聞きそびれたが、履歴に電話番号は残っていた。メモしたその番号も信彦に伝える。
「それで、身に覚えはあるの?」
「あ、いや、俺は別に。向こうは信彦の名前を知っていたし、誰かのいたずらって可能性はないよ。俺の知人は真面目な連中ばかりだからな」
予想通りの答えだ。結婚式に参列してくれた彼の友人も、きちんとした人ばかりだった。公務員とか大手企業の社員という人もいた。反対にフリーターや無職は一人もいなかった。全員が堅実な仕事をしていたのには、少し驚かされたくらいだ。
「だったら」
私がそう言いかけた時、信彦が思い出したかのように口を挟んできた。
「もしかすると、姉さんかも」
「お姉さん?」
確かに。明美の知り合いなら、この手の嫌がらせをやりそうだ。私はそう思ったが、話は少し違ってた。
「姉さんが俺の名前を使ったのかもしれない」
「え?名前を使った?」
とっさに聞き返す。信彦はため息混じりに話を続けた。
「ああ、もう随分と前だけど、俺の名前で借金をしたことがあるんだよ。姉さんが」
詳しく話して、と信彦に促す。彼が口にした内容はこうだった。
明美が和と結婚する少し前の話だ。当時彼女は看護師として彼の実家の病院で働いていた。なんとかして医者と結婚したい。野心に燃えていた彼女は、研修医だった和に目をつけた。そして彼の気を引くために、服装や持ち物にお金をかけ始めたそうだ。
研修医といえば、一般的には収入が少ないイメージがあるけれど、実際は同年代の社会人よりも多い場合がほとんど。和は実家が病院だったこともあり、金銭的には苦労していなかった。彼に釣り合うためには、明美も身なりを整える必要がある。明美はそう考えたのだった。ただ、普通の看護師の彼女が使えるお金は高が知れている。すぐに貯金は底をつき、彼女は借金をした。自分の名前でお金を借り、足りない分は信彦の名前を使ったようだ。
結果的に二人は付き合うことになったのだが、明美は浪費をやめられなかった。彼女は借金を繰り返し、信彦が気づいた時にはかなりの高額になっていたらしい。
「あの時は、親父たちが残した不動産を処分してなんとか返したんだけど」
「それ、お兄さんは知ってるの?」
「結婚前に俺が話したよ。姉さんは怒っていたけど、隠したままで結婚させるわけにはいかないだろう」
確かにそうだが、二人は結婚しているから、和は許したということか。私が考えを巡らせていると、信彦が答えを言った。
「和さんは笑って許したんだよね。二度と借金はしないと約束させたからって」
「信じていいのかしら?」
「俺は信じたいけど、あるとね」
通話口の向こうで信彦がため息をつく。私は静かに声をかけた。
「確認してみたいわ。もし事実だったら、あなたのところに借金取りが押しかけるかもしれないもの」
「それもそうだな。一応確認してみるよ」
見えるわけでもないのに、信彦の答えに頷く。
「じゃあ、今日は少し帰りが遅くなるから」
「ええ、大丈夫よ。待っているわ」
そんな話をしてから電話を切った。不安を打ち払うかのように、一瞬で掃除をする。
信彦が帰宅したのは午後10時を過ぎてからだった。
「お帰りなさい。それで、どうだった?」
玄関先で真っ先に彼に尋ねる。
「悪い。やっぱりそうだった」
「そっか」
やっぱり。思い返せば、明美はいつもブランド品で身を固めていた。彼女自身も言っていたが、不動産収入があるのは確かだ。詳細は信彦から聞いたけれど、両親が残したマンションがあるらしい。家賃収入の全てを彼女はブランド品の購入に当てているということだった。
「実際、どのくらいの収入があるの?」
「5600万だって。弁護士からはそう聞いてる」
全て注ぎ込んでも足りなかったようだ。本当に呆れてしまう。明美が浪費家なのは確実と考えて、あることが気になった。
「そういえば、どうしてお姉さんが相続したの?」
両親が持っていた不動産というからには、明美は遺産相続で手にしたはずだ。しかし、相続したのは彼女だけ。信彦は両親の不動産を一つも相続していなかった。
「騙されたというのは言いすぎかもしれないけど、そういう感じだよ」
「え、どういうこと?」
「不動産は管理が面倒だから自分がやってやるって言われたんだ。全部自分の名義にするとは思わなかったから、了承してしまって」
管理を任せただけのつもりが、不動産の権利を渡すという話になっていたようだ。
「それ、遺言の申し立てができたと思うけど」
「兄弟で争うのも面倒だったから」
気持ちは理解できた。自分が同じ立場なら、荒立てたりはしないだろう。
「まあいいわ。とりあえず、お姉さんが借金を返してくれるなら」
「ああ、その辺は俺も釘をさしておいたから大丈夫だと思う。それと、和さんがお前にも謝りたいって言っていたんだけど、どうする?」
「分かった。来週にでも時間を作るわ」
私は素直に頷いた。
次の週、休みの前日に和に電話をかける。仕事の都合で彼は休みを取るのが難しいようだ。仕方なく、仕事の前に病院で話をすることにした。
翌日、タクシーで病院へ向かう。正面入り口で降りると、病院の駐車場から向かってくる和の姿が見えた。彼もすぐに気づいたようで駆け寄ってくる。
「ちょうど良かった。会議室で話したいけど、いいかな?」
「私は構いませんけど」
「確かカンファレンスルームが開いてるはずだから、こっちへ」
和の案内で病院のカンファレンスルームへ向かう。中に入ると、椅子に座るように促された。腰を下ろしたところで、彼が本題を切り出す。
「この間の件だけど、本当に迷惑をかけたね」
「ええ、まあ、驚いたというか」
曖昧な答えをした。余計なことを言えば、互いの関係が壊れてしまうからだ。
「全く、俺も驚いたよ。もう借金はしないって約束していたのに」
深いため息をつく和。どうやら彼も何も知らなかったようだ。
「金額とか詳細は分かりましたか?」
「本人の話だと、金額は約100万円。ブランドバッグの代金らしい」
和は自分の携帯電話を出し、一枚の写真を表示した。高そうなハイブランドのバッグの写真だ。雑誌か何かで見た覚えはあるが、到底私が買えるような代物ではなかった。
「これを買ったって。借りたのは町金だって話だけど、本当かどうか」
「大手だと都合が悪かったってことですかね」
「多分そうだな。借金を繰り返していた可能性がある」
過去に返済が滞ったことがある。それで新たに借りられず、町金に頼った。私の中にそんな考えが思い浮かぶ。
「とりあえず、今回は厳しく注意しておいた。はるかさんたちにも迷惑をかけたし」
「えっと、まあ」
愛想笑いでごまかす。例の一件の後、明美からの攻撃があったからだ。最初の数日は「お前が余計なことをしたからだ」という彼女からの電話が続いた。こちらが着信を拒否すると、今度はメールが連続。近いうちに家に押しかけてくるかもしれない。そんな不安も抱えていた。
「次に同じことをしたら離婚だって言っておいた」
「そうですか」
「それに、当面は俺が金の管理をするって言ったから、多分君にも嫌がらせをしてるんじゃないかな」
あの電話とメールは、やはり当たりだったのか。言われてみれば、そう思えなくもない。
「まあ、多少は文句を言われていますけど」
「迷惑だったら、俺の名前を出していいから」
和がため息混じりに言う。
「いいんですか?」
「ああ。これ以上君たちに迷惑はかけられない。明美が何か言ったら、俺の名前を出して離婚の話をすればいい。や、そうしてくれ」
医者の妻という肩書きにこだわっている明美のことだから、和との離婚は一番厳しい罰になるはずだ。おそらく彼女も黙るだろう。
「分かりました。本日はお時間をいただいて、ありがとうございました」
立ち上がって頭を下げる。和もすぐに礼をしていた。
「いや、こちらこそ。信彦にもよろしく言っておいてくれ」
「はい」
もう一度頭を下げてから、カンファレンスルームを後にする。これで懲りてくれるといいのだけれど、少し不安もあったのだが、和との離婚をちらつかせた途端、明美が絡んでくることはなくなった。電話やメールの攻撃もピタッと止まる。本当に静かな生活が訪れていた。
こうして生活が落ち着くと、子供のことを考えてしまう。結婚当初は「落ち着いてから」と信彦と話していた。明美のこともあり、なかなか子供の話ができなかったのも確かだ。そろそろ相談してみようかしら。私はそんなことを考えていた。しかし、私の思いとは裏腹に、信彦の仕事はどんどん忙しくなっていく。出世の話も相まって、以前よりも帰りは遅くなっていた。出張で家を開けることもしばしば。子供が欲しいと言い出せず、ずるずると先延ばしになってしまっていた。
そうして数年が過ぎた時のことだ。出張から帰ってきた信彦が、上機嫌で私に話しかけてきた。
「聞いてくれ、はるか。今回、かなり大きな契約が取れたんだ」
「本当に?」
「ああ、俺のプレゼンがうまくいって」
本当に嬉しそうに語る信彦。彼は最後にこう言った。
「おかげで年末くらいにはまとまった休みをもらえそうだ。よかったら温泉旅館かどこかに旅行にでも行かないか」
「いいの?」
突然の申し出に心が踊る。苦労させているし、年末年始は旅館でゆっくりと言うのもいいだろう。
「お前が行きたいところを探しておいてくれるか」
「ええ、そうするわ」
「じゃあ決まりだな。結婚10周年の記念でもあるし、派手に行くぞ」
子供のようにはしゃぐ信彦。一人で何か喋りながら浴室の方へ向かっていった。いい機会になるかも。結婚して10年。私の年齢も30半ばを過ぎている。子供を産むなら、これが最後のチャンスになるかもしれない。
高鳴る気持ちを抑えつつ、私は信彦が出張へ持っていった荷物の片付けを始めた。洗濯物を出している時に、ふと鞄の中にある薬袋に目が止まる。信彦に持病はない。それなら、これは何の薬だろうか。ゆっくりと手に取って確認した。
どうやら歯科でもらった薬のようだ。袋には確かに信彦の名前が書いてあった。でも、これ、この辺の病院じゃないわよね。下の方に住所が印刷されているが、病院の場所は千葉県になっている。今日まで信彦が出張で行っていた場所だ。出張先で何かあったのだろうかと思い、風呂に入っている信彦に訪ねてみた。
「ねえ、信彦。鞄の中の薬って、どうしたの?」
「薬?ああ、それか。仕事中にちょっと歯が痛くなって、病院へ駆け込んで治療を受けたそうだ。薬はその時にもらった痛み止めとのこと」
「大丈夫なの?」
「平気だよ。その場で治療してもらったし」
「そう、それならいいけど」
念のため、痛み止めは棚の中にしまっておく。随分と忙しそうにしていたし、もう少し気にかけてあげないとだめね。自分もついでに反省しておいた。
それはさておき、風呂上がりの信彦の様子を伺う。夕食は私が調理した揚げ物が中心だった。
「あ、なかなかうまそうだな。いただきます」
ビールを片手に美味しそうに食べてくれる。食べにくそうな様子はない。
「歯、大丈夫?」
途中で声をかけてみた。信彦は首をかしげる。
「あの医者、思ったよりも治療がうまかったのかもな」
この様子なら大丈夫だろう。私はほっとした。次の日にはそんな心配事も忘れ、年末の旅行のリサーチにいそしむ。
6月くらいまでには予約をしないといけないから。カレンダーに目をやった。今は4月の半ば。もうすぐゴールデンウィークで、デパートは忙しくなる時期だ。書き入れ時が終わってから予約するなら、今のうちに旅行先を決めておきたい。休憩時間には近くの旅行代理店まで足を運ぶくらい、私は熱心に考えていた。
やがてゴールデンウィークが終わる。仕事面でも一息ついて、本格的に旅館の予約をすることにした。
「よし、やっぱり別府にしよう」
行き先は大分の別府温泉に決定。今なら旅館も十分に予約できるはずだ。仕事が終わった後、私は近くの旅行代理店へ向かった。その後、温泉旅館の予約を無事に終えて店を出た時のことだ。ふと、デパートの方へ歩いていく明美を見かけた。時刻は午後7時を少し過ぎたところ。今日は少し早めに仕事を終えたので、デパートはまだ営業中だった。
もしかして、私のところに行くつもりなのかも。こちらの事情を知らなければ、彼女は私が仕事中だと思っている可能性がある。閉店間際に嫌がらせをしてやろうと考えていても、なんら不思議ではない。
どうしよう。ここはお兄さんに連絡を。とっさに鞄の中の携帯電話に手を伸ばした。しかし、思いもよらない展開に見舞われる。明美は近くのコンビニへ入っていった。
あれ?私の思い込みだったのかしら?そんな風に考えていると、ほどなく彼女が店から出てくる。隣には同じくらいの年齢の男性がいた。仲むつまじく話をしている。
え、もしかして浮気?反射的に建物の影に隠れる。店を出た二人は並んで歩き出した。どんな関係なのかは分からない。ただ、仲がいいのは確かだった。
明美は普段から声が大きいせいか、離れていても少しだけ話が聞こえてくる。男性の話は聞き取れないけれど、赤の他人とは思えなかった。私は気づかれないように追いかけた。途中、証拠になるかもしれないと思い、写真も撮影する。綺麗に撮れたのは数枚だけ。これでも十分よね。呟いてから、さらに二人を追っていく。
やがて二人は繁華街から少しずつ離れ始めた。周囲の雰囲気も変わり、カップルの姿が多くなる。これって、やっぱり浮気。思わず携帯電話を握りしめていた。しかし、少し目を離したところで二人を見失ってしまう。近くにはホテルも点在していたので、中に入った可能性もあった。
まあいいか。何かあった時には、これで反撃できるし。決定的な証拠とは言えないが、浮気が疑われる相手がいることは分かった。次に何かあった時のお守りにはなると思いつつ、その日は大人しく帰宅することにした。
帰宅してから、信彦が帰ってくるのを待つ。もちろん、情報を共有するためだ。やがて彼が帰宅する。私は玄関先まで飛び出した。
「あのね、信彦。話があるの」
「なんだ?旅行のことか?」
「それもあるけど」
少しのけぞる信彦に、先ほど見たことを話す。彼は私の話に耳を傾けながら服を着替えていた。
「なるほど。姉さんが浮気か」
「どう思う?」
「可能性はありそうだな。でも、そんなリスクを犯すかな?明美にとって、浮気がバレて離婚というのは最悪の結末だ。そこまでのリスクがあるのなら、浮気などしないだろう」
「じゃあ、何か別の。考えたくはないけど、また借金とか」
以前、明美の借金問題に見舞われたのは5年ほど前のことだ。和が彼女のお金の管理を始めたため、少しは落ち着いていた。ほぼりが覚めたと思ってもおかしくない頃。
「お兄さんに連絡した方がいいかしら」
「やあ、それはまだ早いだろう。俺が少し調べてみるよ」
「分かった。じゃあ、これが写真だから」
私は携帯電話の写真を見せる。確認してもらってから、メールに添付して信彦へ送った。
「ありがとう。じゃあ、後は俺に任せてくれ」
「ええ、頼むわね」
これが信彦と交わした最後の会話になるとは、当時の私は夢にも思っていなかった。
翌朝、玄関が開く音で目が覚める。リビングへ向かうが、やはり信彦の姿はない。テーブルの上に置き手紙が残されていた。
「仕事があるから先に行く」
本当に忙しくなったわね。こんな風に私が起きる前に信彦が仕事へ行く日も多くなっている。彼の帰宅時間も遅く、先に布団に入ることもしばしばだから、私は特に気にしていなかった。いつも通りに仕事へ行き、帰宅する。一つ違っていたのは、深夜になっても信彦が帰ってこないことだった。
さすがに遅すぎるわよね。時計に目を向ける。時刻は午前0時を過ぎていた。記憶にある限り、信彦が最も遅く帰ったのは午後11時頃だ。迷惑になるかもしれないと思いつつも、和に電話をかけてみた。
「もしもし。はるかさん、どうしたの?こんな時間に」
「すみません。お休みでしたか?」
「いや、ちょうど今仕事が終わったところ。今から帰るんだけど」
どうやら彼も忙しいらしい。私は手短に説明することにした。
「実は信彦がまだ帰っていなくて。そちらへ行っているかと思ったのですが」
「信彦が?あ、ちょっと待って。明美に連絡してみるから」
「すみません。お願いします」
一度電話を切る。ほどなく和から連絡があった。
「明美は家にいたけど、信彦は来ていないって。警察に通報した方が良くない?」
「それは大げさというか」
「でも、事故とかそういうことも考えられるし」
彼が言うと説得力がある。医師という立場から、不測の事態に陥った人とは何度も向き合ってきたのだろう。私は素直に頷いた。
「分かりました。一応、警察に届けてみます」
通話を終え、それから警察へ電話を入れた。深夜だったが、丁寧に対応してくれる。信彦の服装や身長など詳細を聞かれた。最後に、パトロール中の警察官に状況を連絡し、それらしい人がいないかを確認してくれるとオペレーターに告げられる。
「よろしくお願いします」
頭を下げながら電話を切った。ああ、どこに行ったのよ、信彦。思わず口に出る。結局、次の日になっても信彦は帰宅しなかった。さすがに不安になり、仕事は休みをもらう。携帯電話を握ったまま部屋に座り込んでいると、昼下がりに警察官が訪ねてきた。
「すみません。所轄の佐々木と申します」
丁寧な挨拶をする佐々木という警察官。彼は私服だったが、背後には数人の制服警察官もいた。
「えっと、行方不明になったのは旦那さんですかね?」
「はい。夫の信彦です。市川信彦」
「市川信彦さんね。その、話しづらいのですが」
佐々木が背後を振り返る。顎で外を示すと、数人いた制服の警察官は一斉に外へ出た。彼だけが玄関先で私の方を見つめる。
「こちらで市川さんのことを調べたんですけど、彼、借金があったようですね」
「は?借金?」
とっさに身を乗り出した。両手で私に落ち着くように、佐々木が促してくる。
「はい。大手消費者金融の数社から借りていますね。こういうケースだと、事件や事故ではなく、自ら逃げたということが」
「逃げたみたいな話ですか?」
「ええ、よくあることです。そして、本人を見つけるのはかなり難しいことになるかと」
彼のその後の説明はこうだった。借金の返済から逃亡しているので、身分が分かるものは使わない。要するに、クレジットカードの履歴などから追跡するのは無理だという。借金があるため、手持ちの現金も乏しい。知人に頼れば、そこから見つかってしまう。誰にも頼らず一人で逃げ回るのは、かなり困難だと言われた。
「じゃあ、彼は」
「自ら命をということが少なくありません。ホームレス生活になる方もいますが、こちらも見つけるのはかなり難しいですね」
「そうですか。分かりました」
ほぼお手上げ状態のようだ。だが、捜索は続けてくれるらしい。建前上かもしれないけれど、少しだけ安心した。大きな期待はせずに結果を待つ。事件以外では、警察は本気で動いてくれない。社会人の端くれだから、それくらいのことは分かっていた。
時間だけが過ぎていき、夏が終わり秋になる。やがて信彦と約束していた年末年始が訪れた。
一人で旅行に行っても意味ないものね。当然のように旅館の予約はキャンセル。想像とは正反対の寂しい年末年始を過ごした。
そして、雪解けの春のある日のことだ。不意に佐々木から電話がかかってきた。
「市川はるかさんですか?実は旦那さんの信彦さんが」
「見つかったんですか?」
反射的に声が大きくなってしまう。少し黙り込んでいた佐々木は、静かに続けた。
「ええ、まあ。それでお聞きしたいのですが、彼、病院へ行ったことは?」
病院という言葉を聞いた途端、何も言えなくなる。私は気づいてしまったからだ。警察官が行方不明だった人の治療履歴を確認する意味に。
「すみません。信彦はどこで見つかったんですか?」
知りたくないけれど、訪ねてしまう。佐々木も察したのか、落ち着いた口調で答えた。
「隣の県の山の中です。場所は」
詳しく説明してくれたけれど、何も頭に入ってこない。気づいた時には警察署にいた。隣には和が座っている。
「俺は慣れているけど、無理そうだったら言ってくれるか?」
「はい」
その後、私は出張先で信彦が言った歯科医院の薬袋を佐々木に渡した。歯科医院のカルテと一緒に保管されている治療の際に使ったレントゲンが有効だと、和にアドバイスされたからだ。
「ありがとうございます」
確認ができたのは約1週間後のことだった。警察署へ出向くと、小さな箱が用意されている。
「信彦さんのことを覚えている人もいましたよ。右手に携帯電話を持って、忙しそうにしていたって」
「確かに、随分と忙しそうでした」
「ともあれ、歯科医院のレントゲンで照合できました。残念ですが」
ようやく、目の前にある箱が骨壺だと気づいた。無言の帰宅となってしまったが、信彦を家に連れて帰ってあげられたことに安堵する。
「家に着いたよ」
小さな壺の中に収められた彼に声をかける。葬儀を済ませ、知り合いの寺の納骨堂に彼を納めた。全て終わると、全身から一気に力が抜けていく。
これからどうすれば。思わずそんな言葉をついていた。一人のリビングでぼんやりする。その時、玄関先から怒鳴り声が聞こえた。
「いるんでしょ?」
明美だと思ったけれど、返事をする気力もない。何も言わないでいたら、彼女は勝手に上がり込んできた。
「いるなら返事くらいしなさいよ」
「すみません」
小さな声で返すのが精一杯。そんな私を指差した明美は、こう言い放った。
「信彦が亡くなったのは、お前のせいだ。責任を取りなさい」
「責任?」
「私よ。あの子、借金をしていたそうじゃない?どうせお前の無駄遣いが原因なんでしょ。答えなさい」
別に無駄遣いをした覚えはない。信彦に借金があったのも、彼がいなくなった後に知ったことだ。
「私じゃないです」
「はあ。嘘をつくな。最初からうちの財産が目当てだったくせに」
足を踏み鳴らす明美。どんどんと激しい音が響く。
「もうやめて」
頭を抱えて怒鳴った。一瞬だけ明美の動きが止まる。
「何か言った?」
「もういいでしょ。これ以上、私を苦しめないで」
「はあ。何もかも原因を作ったあんたが悪いんでしょ」
彼女の口元が緩んだ。あの日、最後に信彦と話した時のことを思い出す。彼は明美を調べると言っていた。浮気なのか借金なのか。詳細は何も分からない。一つだけ言えるのは、信彦がいなくなったことで得をしたのは彼女だ。
「本当は、あなたが信彦を」
明美を睨みつける。平然とした顔で彼女はこちらを見ていた。
「何を言ってるの?警察に疑われているのはあんたでしょ?」
「私?」
「そうよ。信彦と借金の件で喧嘩になった。そして、あんたは」
「ってこと?」
私のことを指差しながら大笑いする明美。反射的に彼女を突き飛ばしてしまう。
「何するのよ?」
「出ていって。障害で訴えるわよ」
「いいの?勝手にしてください」
大声で返しながら、立ち上がった彼女の背中を押した。強引に玄関から押し出すと、そのまま鍵をかける。
「開けなさい。遺産が欲しくて信彦を手にかけたんでしょう」
明美は家の前で騒いでいたけれど、すぐに静かになる。どうやら近所の人が警察を呼んだようだ。
「すみません。佐々木です。大丈夫ですか?市川さん」
聞き覚えのある声がする。そっと玄関を開けると、佐々木が立っていた。
「近所から通報がありまして。平気ですかね?」
「はい。お手数をおかけします」
「ええ、大丈夫でしたら。それで、いつでも相談してください」
玄関の隙間から名刺を差し出される。私は深々と頭を下げながら受け取った。
だが、この出来事は余計に明美の怒りに火をつけたらしい。彼女は日を追うごとに家に来た。あることないこと、近所の人に聞こえる大声で騒ぎ立てる。和に相談したら一度は収まった。ただ、ほっとしたのも束の間、すぐに同じことが繰り返される。困った私は上司や同僚にも相談した。中には婚姻関係終了届の提出を勧めてくれた人もいる。手続きを行えば、明美との関係を断ち切れるからだ。ただ、大きなデメリットもある。それは、信彦の墓参りや法要に顔を出すのが難しくなるということだった。
さすがに顔を見れなくなるのは寂しいよね。お互いに。どうしても婚姻関係終了届の提出はためらってしまう。本当は明美の方にこそ原因があるのではないかと思っていた。
気づけば、信彦が亡くなってから8年が経過。最近は明美も静かだが、そろそろ区切りをつけた方がいいと思い始めていた。
そんなある春の日のことだ。お彼岸も近く、私は信彦に最後の報告に行くことにした。
このお参りが終わったら、婚姻関係終了届を出すわ。許してくれるわよね。
納骨堂の前でつく。静かに中に入ると、数人がお参りをしているところだった。邪魔をしないように信彦のところへ向かう。
「今日が最後だからね」
呟いてから、写真と備え物を置く。その時、不意に視線を感じた。振り返ると、小学校高学年くらいの少年が横に立っている。彼は私が置いた信彦の写真をじっと見ていた。
「どうしたの?」
尋ねた途端、少年が声をあげる。
「やっぱりそうだ。隣に住んでるおじさんだ」
「は?隣ってどういうこと?」
少年に聞き返した。彼は首をかしげて、私が備えた信彦の写真を指さす。
「この写真の人が隣に住んでるってことだけど」
「本当にこの人で間違いないの?」
「そうだよ。嘘じゃないって」
口を尖らせる少年。もしこの子の話が事実なら、納骨堂の中にあるのは考えただけでも背筋が寒くなった。私は少年の話を信じたいけれど、それは同時に信彦が嘘をついていたと証明することになる。自らが亡くなったように偽装し、全てから逃げ出した。納骨堂の中にある骨も問題だ。彼が生きているなら、謝罪だけで済む話ではなかった。
何にしても、まずは少年の言葉が事実かどうか確かめる必要がある。状況次第では、信彦が犯罪に加担していたとも考えられた。もし事実なら、私はどうすればいいのだろうか。答えは一つしかない。真実を白日の下にさらすだけだと、私は覚悟を決めていた。
深呼吸をして、少年の方に向き直る。周囲を見回しながら、彼に訪ねてみた。
「ねえ、君。お父さんかお母さんはいる?」
「お父さんはいない。うちはお母さんだけだから」
暗い顔をする少年。どうやら母子家庭の子供のようだ。
「そっか。ごめんね。君の名前を教えてくれる?」
「翔太だよ。矢野翔太。おばさんは?」
翔太と名乗った少年が、けげんな顔をした。私は慌てて自分の名刺を出す。
「あ、ごめんなさいね。急に。私は市川。デパートで働いているんだけど、お母さんを呼んできてくれるかしら?」
「いいよ。ちょっと待ってて」
差し出した名刺を持って、翔太は駆けていった。
まさか、本当に信彦が。呟いてから唇を噛みしめる。しばらくすると、翔太が戻ってきた。隣には私と同じくらいの年齢の女性がいる。目があった途端、彼女は微笑みながら頭を下げてきた。
「あ、どうも」
愛想笑いでこちらも会釈を返す。やがて女性は私の前まで来た。手にした名刺を見ながら聞いてくる。
「市川さんですか?私、矢野美子と申します。息子がこの名刺を」
「はい。市川はるかと申します。すみません。息子が何か失礼なことでも」
急に謝罪しようとする美子。私は慌てて否定した。
「いえいえ、違いますよ。実はですね」
備えていた写真を示しながら、理由を話す。美子は黙って私の話を聞いてくれた。そばにいた翔太はつまらなそうにしている。かわいそうだと思った私は、1000円札を彼に渡した。
「ねえ、翔太君。ちょっとジュースか何か買ってきてくれる?お母さんとお話ししたいから」
「いいよ。行ってくる」
駆け出す翔太を、美子は不安そうに見送っていた。彼の姿が見えなくなると、彼女はこちらに向き直る。
「すみません。お気遣いいただいて」
「いえ、お引き止めしているのはこちらなので。それで、この写真ですが」
美子に確認する。小学校高学年くらいとはいえ、翔太はまだ子供だ。証言の信憑性を語るには物足りない部分があった。その点、美子は十分に大人だ。私ともほとんど変わらないし、証言は十分に信じられると私は思った。
「この写真の方が隣に住んでいて、翔太が言ったんですか?」
「はい。お隣の方、ご存知ですか?」
「そうですね。似ていると思いますが」
さすがに慎重だ。美子は不確かな発言を一切しなかった。
「お隣の方のお名前は分かりますか?」
「さあ、挨拶くらいはしますが、表札もありませんし」
曖昧な返答に焦る。やがて翔太が戻ってきた。
「ありがとう、翔太君。ところで、隣のおじさんの名前、知ってるかな?」
今度はこちらに聞いてみる。少し考えてから、翔太は答えた。
「岡本だったかな?前に一度だけ聞いたんだけど」
「そっか、岡本ね」
やはり信彦ではない。ただ、偽名を使っている可能性はあった。もう少し詳しいことが知りたい。翔太の隣人が信彦だと確証を得られる方法はないだろうか?そんなことを考えていると、翔太がこう言った。
「でも、隣のおじさんって、本当に不思議な人なんだよ」
「不思議?何が?」
「あのね、ずっと前なんだけど、急に人が変わって」
鼓動が跳ねた。翔太の言葉に引き込まれていく。
「僕がね、『前の人はどこに行ったの』って聞いたけど、おじさんは『前から自分だ』って言い張ってて、不思議そうに首をひねってた」
私は少し前のめりになって聞いていた。
「それ、いつ頃の話?」
「さあ、ずっと前」
子供には難しい質問だったようだ。美子の方へ視線を移すと、彼女は少し考えてから答えた。
「多分、7、8年前です。この子、今12歳ですけど、幼稚園の頃にそんな話をしていたことがあったので」
「本当ですか?」
「ええ。でも、アニメとかを見ていて、そんな風に空想しただけじゃないかなって思いますけど」
苦笑する美子。そんな彼女の反応に、翔太は目を釣り上げていた。
「空想じゃないよ。だって、前のおじさんは左利きだったけど、今のおじさんは右利きなんだから。多分、宇宙人にさらわれて」
真剣に話しているのに悪いが、思わず吹き出してしまう。宇宙人にさらわれるというのは、実に子供らしい発想だったからだ。ただ、着眼点は悪くないと思った。左利きの人間が急に右利きになるのは無理がある。翔太が言うように、別人になったと考えるのが自然だと感じた。
話を聞いているうちに、次第に背筋が寒くなってくる。もし翔太の隣に住む人が信彦でなかったとしても、急に人間が入れ替わったのは確かだと思ったからだ。
「翔太君、ありがとう。よく分かったわ」
「じゃあ、うちに来る?」
「え?」
突然の申し出に困惑する。美子が慌てて翔太を叱った。
「何を言ってるのよ、翔太?彼女も困っているじゃない」
「でも、隣の人を見に来ると思ったから」
不満そうな翔太。私としても、すぐに確認に行きたいのは山々だけれど、子供の証言だけではとぼけられるだけだろう。本当に信彦が生きているとすれば、絶対に逃すわけにはいかなかった。納骨堂の中にある骨の件を含めて、彼には聞きたいことが山ほどある。絶対に言い逃れできない証拠を持って会いに行くのが一番だった。
「ねえ、翔太君。一つ約束してくれる?」
「約束?何?」
「今日のこと、隣のおじさんには秘密ね」
ニコリと微笑んで見せた。しかし、翔太は首をかしげる。
「なんで?知っている人じゃないの?」
「うん。知っている人かもしれないけど、驚かせたいから」
適当な理由をつけた。隣にいる美子は、私の意図に気づいている様子。彼女を見つめて、私はゆっくりと頭を下げた。
「お願いします」
「気をつけておきます。すみません」
「よろしくお願いします。じゃあね、翔太君。また」
軽く手を振る。彼も元気に手を振り返してくれた。
くれぐれも、犯罪に関係しているかもしれませんので。脅すような口調で美子に告げる。彼女は強く頷いていた。
その後、美子と連絡先を交換して、納骨堂を出た私は、一目散にある場所を目指した。向かった先は言うまでもない。警察署だ。佐々木に会い、翔太から聞いた話を全て伝えた。
「分かりました。少し調べてみます」
「お願いします」
私の中には一つの答えが浮かんでいる。その考えが正しければ、信彦は生きているだろう。でも、その時は彼が犯罪者の烙印を押される時。確かに彼に生きていて欲しいと思っていたけれど、犯罪者にしたくないという気持ちもある。どういう結末が私にとって最善なのか。流れに身を任せるだけだった。
翔太と運命的な出会いをした日から約3ヶ月。佐々木から連絡を受けた私は、仕事を休んでいた。指示された通りの時間に警察署を訪ねる。彼はすでに準備を終わらせていた。
「では、行きましょうか」
「よろしくお願いします」
数人の制服警察官が私たちの後についてくる。私は佐々木が運転する警察車両に乗り込んだ。それから車で約1時間。到着したのは、翔太が住むアパートの前だった。佐々木の指示で、制服を着た警察官が車から降りていく。最後に私が降りると、彼が話しかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「はい」
強く頷く。彼らと向かったのは、翔太が住む部屋の隣の部屋だった。表札は出ていない。ただ、ポストには「岡本」と書かれた紙切れが貼ってあった。こちらを一瞥した佐々木が、チャイムを押す。中からは驚いた声が聞こえてきた。
「はい。どちらさん?」
確かに聞き覚えがある。この声は信彦だ。私が確信したと同時に、扉が開く。そこには眠そうな顔で頭を掻く信彦が立っていた。
「久しぶりね、信彦」
「え、あの、えっと」
慌てたように視線を泳がせる信彦。大きく息を吸ったかと思った次の瞬間、彼は部屋の奥へ駆け込んでいた。
「逃げても無駄だ。窓の外にも警察官はいるぞ」
佐々木が声を張り上げる。信彦の動きはそこで止まった。
「どうして逃げようとしているのかしら。信彦、事情を聞かせてくれる?」
「うあ、あの、俺は信彦とか、そんな名前じゃないですよ、奥さん」
平然と嘘をつくが、彼の体には大粒の汗が滲んでいた。
「信彦じゃない?じゃあ、あなたは誰なのかしら?」
「俺はその、岡本」
「岡本なんて、大嘘はつかないわよね」
少しだけ強い口調で言う。その瞬間、信彦は観念したように座り込んでいた。
「市川信彦さんですよね。ちょっとお話を伺いますか?」
「あんた、警察官」
佐々木は大きく頷いた。
「そういうことか。もうバレたんだな」
「ええ。中で詳細を伺っても?」
「分かった。勝手にしろ」
深いため息をつく信彦。佐々木の合図で、数人の制服警察官が部屋の中に入った。外にいた警察官も、部屋の入り口の方へ走ってくる。佐々木の指示で、部屋の中には二人の制服警察官が残った。
「他の警察官は車で待機させます。彼らはここにいても構いませんよね」
「ああ」
完全に諦めている様子の信彦。
「先に着替えてもいいか?」
「どうぞ」
着ていたパジャマを脱いだ信彦は、部屋に干していた服に着替える。それから、部屋の隅にあったふかふかのソファに体を預けた。
「で、何が聞きたいんだ?」
「まずは、彼女の質問に答えてあげてくれますか?」
佐々木が私を示す。こちらを少しだけ見た信彦は、ため息をついた。視線を戻し、目線を合わせないようにして聞いてくる。
「何が聞きたい?」
「最初に聞きたいのは分かるわよね。あなた、市川信彦で間違いない」
「ああ、お前の夫の信彦だ。8年も経つから、諦めていたと思っていたよ」
信彦はテーブルの上のペットボトルを手にした。中身は水のようだ。一息に飲んでから、顔だけをこちらに向けた。
「でも、なんで俺が生きていると分かった?普通、気づかないだろう」
「もちろん気づかなかったわよ。隣に住んでいる翔太君と会わなかったら」
隣の部屋の方を見る。
「ああ」
信彦は軽く何度か頷いていた。
「あのガキか。相手をするんじゃなかったな」
「じゃあ、あなたの口から話してくれる?どうやったのか」
「どうせ分かっているんだろう。じゃあ、隠しても無駄だよな」
信彦はため息をついてから話し始める。その内容はこうだった。
ことの発端は数年前まで遡る。ちょうど結婚して5年目の頃のことだ。私のところに一本の電話がかかってきた。例の借金の話だ。あの電話をかけてきたのが、私が言った岡本高也だった。彼にお金を借りていたのは、知っての通り明美だ。信彦は関係なかったのだけれど、利用できると彼は思った。
明美の代わりに借金を返した後、信彦は高也に接触する。「もっと稼げる話がある」などと言ったようだ。とにかく楽に稼ぎたかった高也は、その話を信じた。
信彦が初めにやったことは、高也を連れ回すことだ。相手を信用させるためには必要だった。飲食店や夜の店など、彼をあちこちへ連れて行ったようだ。数年をかけて彼を信じ込ませた結果、信彦が姿を消す頃にはすっかり仲が良くなっていた。
高也は自分の話を疑わないと確信した信彦は、最後の準備に取りかかる。それが出張に同行させることだった。もちろん、仕事とは関係ない。高也が一緒に来ることが目的だった。仕事先に連れて行った高也に、信彦はこんな頼み事をする。
「悪いけど、歯医者に行ってくれないか?虫歯を治療したって妻に言い訳をしたいんだよ」
「なんだ?歯医者が怖いのか、お前?子供だな」
馬鹿にされたことには腹が立つ。しかし、自分の計画が最優先だった。信彦に頼まれた高也は、保険証を借り、信彦の名前を使って歯医者を受診する。適当に歯が痛いと言って、治療をすることが目的。何も知らない高也は、信彦の指示通りに行動した。
この先は私が知っている通りだ。山の中で亡くなっている人が見つかる。持ち物などから信彦だと思われ、佐々木が確認しようとした。私は彼の思惑通り、歯科医院の話をする。佐々木はレントゲン写真を取り寄せ、亡くなっているのが信彦だと断定した。
ただ、この話にはおかしな点がある。レントゲン写真の主が信彦だと決めつけたことではない。保険証を使って受診していたのだから、これは仕方がないことだと思われた。私が不審に思ったのは、随分と前から入れ替わりを計画していたのに、肝心な部分を信彦が語らなかったことだ。この計画は、高也が亡くならなければ成立しない。どうして高也は命を落としたのか。信彦は話す必要があった。
「ねえ、肝心の部分は話さないの?」
少し促してみる。信彦はそっぽを向いてとぼけた。
「何のことだよ。俺がやったことは全て話しただろう」
「全て?じゃあ、どうやって入れ替わったの?岡本高也が亡くなった原因は」
確信をつく。彼の答え次第で状況が変わる、大事な質問だ。
「悪いけど、俺は何もしていない。やったのは姉さんだ」
意外な答えに呆然としてしまう。私の隣にいた佐々木も、思わず身を乗り出していた。
「では、あなたが手にかけたわけではないと」
「当たり前だろ。俺がそんなことをするわけがない」
「でも、そうなると計画は破綻するじゃないか」
彼の言う通りだ。どれだけ入念に準備をしていても、高也が生きていれば全て無駄骨。使えないトリックなら、用意する意味がないと思った。ただ、実際はこうなっている。信彦の自白が、明美が高也を手にかけたと言った。
何か裏があるはずだと、彼のことを睨みつける。
「おいおい、俺を睨むなよ。事実を言っただけなんだから」
「信じられるわけがないでしょ」
「信じなくても結構だ。話したことが事実なんだからな」
余裕の笑みを見せる信彦。悔しいけれど、彼の話には一理あった。
「あなたはどう思いますか?」
「本当かもしれないと思っているわ」
「どうして?」
佐々木から厳しい目つきを向けられる。私は鞄の中に入れていたあるものを、少しだけ彼に見せた。
「そうでしたね。だから、信彦の言うことが事実かもしれないと思います」
「でも、それだと」
どうしても納得できない。こちらで調べた限り、明美には確かに動機がある。信彦が語った通り、彼女が高也を手にかけた可能性は十分にあったけれど、それでは話が繋がらない。まるで、明美が何をするか信彦には分かっていたようだからだ。唇を噛み、じっと考え込んでいた。
「納得できないんだろう。でも、その気持ち分かるぜ」
「何が言いたいの?」
「俺は弟だぞ。姉さんが何をするかくらい、分かっているんだよ」
確かにその言い分は理解できる。自分の確信にかけて行動したということだろうか。何かを見落としているようで、どうにも気持ち悪かった。
「とりあえず、実行犯だと彼が証言する姉の明美さんのところへ行きますか?」
「そうですね。彼女の話を聞いてからの方が良さそうです」
しぶしぶ頷く。その瞬間、さっと信彦が立ち上がった。
「じゃあ、着替えるか」
「え?」
「だから、姉さんのところに行くんだろ。俺がやったのは全部姉さんの指示だ。無実とは言えないだろうが、罪を軽くするためにも行くしかないだろう」
信彦の口からだろうか。彼がこんなにも嫌な顔で笑うようになったのは。
「もしお姉さんが否定したら、あなたは素直に捕まる?」
「何度も言うが、俺は何も悪くない。もし俺が手を下したという証拠でも出たら、その時は捕まってやるよ」
「忘れないでよ。今の言葉。ちゃんと録音したから」
ポケットの中の携帯電話を取り出す。彼は平然と頷いていた。
時計を見る。午前11時を過ぎていた。さすがに明美も起きているだろう。
「この時間なら、お姉さんは家にいると思いますので」
「分かりました。では、彼の実家へ向かえばいいんですね」
「お願いします」
頷いた佐々木が、携帯電話で電話をかけ始めた。おそらくは上司に指示を仰いでいるのだろう。少し話して、すぐに通話を終えていた。
「許可が出ました。あなたもご同行願いますか?市川信彦さん」
「いいぜ。別に」
適当に答えた信彦は、部屋の隅にかけていた上着に手を伸ばす。制服警察官を気にしながら、彼はそれを羽織った。先に外へ出ると、部屋の前に佐々木が車を移動させてくる。扉を開けたところで、信彦が制服警察官に連れられて部屋から出てきた。
「なんか、もう捕まったって感じがするよ」
口元に薄い笑みを浮かべる信彦。まだ余裕があるようだ。
「その顔、もうすぐ引きつらせてあげるから。覚悟しなさい」
「はいはい。お前も言うようになったな」
この3ヶ月、私がどんな気持ちでいたか、あなたには分からないでしょう。ヘラヘラする信彦を睨みつけた。
「怖い怖い」
馬鹿にしたような言い方が、本当に腹立たしい。ふんと鼻を鳴らした私は、佐々木が運転する車に乗り込んだ。続けて、制服警察官に捕まれた信彦が載せられる。
「本当に捕まった人間じゃないか。これじゃあ」
「どうせ捕まるんだから、今でも後でも同じことよ。少しは慣れておくことね」
そう言ったところで、車が走り出す。目指す実家は、車で30分くらいだろうか。とりあえず、ある人に車内からメールを送っておいた。見てくれるかどうかは五分五分。できれば見て欲しいと、私は願い続けていた。
そして、車で走ること約30分。明美と和が住む実家に到着した。先に降りて、私がチャイムを鳴らす。
「はい。誰よ?」
信彦とよく似ているなと考えていると、玄関が開いた。私を見た途端、明美は声を荒らげる。
「あんた、何しに来たのよ、こんなところまで」
「すみません。ちょっと用事がありまして」
そう言いながら、視線を自分の後ろに向けた。背後にいる数人の警察官が、明美の目に入る。
「何よ、この人たちは」
「警察の方々です。もう、分かりますよね」
ぼかした言い方をした。彼女は何を思ったのか、いきなり玄関を閉めてしまう。そして、大きな声で叫ぶように言った。
「私は何もしていないわよ。帰って」
「すみません。佐々木と申します。少しお話をお聞きするだけですので」
「うるさい。私は話すことなんかないわよ」
全く会話にならない。仕方がないので、奥の手を使うことにした。
「お姉さん、聞こえますか?」
「黙れ。お前に用事はない。さっさと帰れ」
一方的に怒鳴られてしまう。私は顔をしかめたままで続けた。
「ここで断ったら、お兄さんにも迷惑がかかりますよ。いいですか?」
その瞬間、明美の声がぴたりと収まる。私はわざと大げさに言ってあげた。
「警察官の職務の邪魔をすると、公務執行妨害ですよ。自分の妻が逮捕されたら、お兄さんも病院での立場が危なくなるかも」
「何よ、その言い方は」
玄関が勢いよく開く。その瞬間、私は足をこじ入れた。
「中に入ってもいいですか?話があるので」
「悪いけど、あんたと話すことなんか」
「でも、信彦とは話がありますよね」
ゆっくりと後ろを指さす。
「信彦?」
「姉さん、久しぶり」
「信彦!」
明美はそう言って、とっさに自分の口元を抑える。
「もう遅いですよ。聞かせてくれますよね」
「私は何も」
悔しそうに視線をそらす明美。結局、観念したのか玄関を開け放った。
「では、失礼しますね。おい、中へ」
佐々木が制服警察官に指示を出す。彼らは信彦を家の中へと連れていった。直後に佐々木と私が続く。中に入って玄関の扉を閉めると、へたり込んでいる明美に声をかけた。
「もう逃げられませんよ。分かっていますよね」
「何よ?何が目的なの?」
明美がこちらを振り返る。私は静かに答えた。
「真実を知りたいだけですよ。ついでに、あなたの悪事を暴きますけど」
拳を握りしめる明美。私は顎でリビングの方を示した。明美はしぶしぶ立ち上がり、私の横を通り過ぎて先にリビングへ入っていく。私たちが中に入ると、彼女は真ん中に堂々と座っていた。
「適当に座ってくださるかしら?」
「ありがとうございます」
「何か必要なら用意するけど」
キッチンの方を見る明美。私よりも先に佐々木が答えた。
「お気遣いなく。すぐに終わりますので」
「そうなの?それは助かるわ」
「はい。あなたが真実を打ち明けてくれればですけどね」
厳しい目差しを向ける佐々木。明美はビクッとしていた。
「真実って、何のこと?」
佐々木は彼女の言葉を無視して、勝手に話を進める。
「先にお伺いしますが、こちらの男性がどなたか分かりますか?」
「ちょっと、私の話を聞きなさいよ」
明美は不愉快そうに顔をしかめた。苛立っているのか、指先でトントンとテーブルをついている。
「申し訳ありません。お忙しいようでしたので、つい。ご存知ですよね」
佐々木は信彦のことを示した。明美は二人を交互に確認してから頷く。
「当然よ。私の弟の信彦じゃない」
「それが、おや、おかしいですね。彼、亡くなったことになっているはずですが」
はっとする。明美は慌てて視線をそらしつつ、懸命に言い訳を始めた。
「ああ、いえ、でも、彼は確かに信彦だわ。もしかしたら、少し似ているだけかもしれないけど」
「そうですか。いくら似ていても、亡くなった人間だとは思いませんよね。かなり驚くということはあったとしても」
「はあ。どう見ても信彦なのに、何がいけないのよ」
明美が感情を爆発させる。彼女にはこういうところがあった。すぐにカッとなるというか、感情的になってしまう時が。だからこそ、信彦が主張する「明美が主犯」という言葉を、強く否定できなかった。
「ええ、もう諦めなよ。俺がここにいる時点で分かるだろう」
「え?」
「落ち着いて考えろよ。何もかもバレちまったから、俺はここにいる。そういうことなんだって。さっさと理解してくれないかな」
小馬鹿にするような言い方をする信彦。明美はじっと彼を見ていた。少し考えてから、今度は私の方へ顔を向ける。
「まあ、色々と言いたいことはありますが、彼の言った通りですよ」
不服だったが、彼の言葉をフォローした。
「嘘でも、諦めろって。もうゲームオーバーだよ」
信彦がため息をつく。そこで明美はようやく状況を理解したようだった。
「そう。そういうことなのね」
「理解できたら、真実を話していただけますか?」
優しく問いかける。彼女は小さく頷いた。
「いいわよ。やったのは私。信彦が何て言ったかは知らないけど、原因は私よ」
「本当に?」
「ええ。どうやって取り繕おうかと色々考えて、信彦を身代わりにすることを思いついたわ」
明美がうなだれる。考えるような仕草の後、彼女は経緯を話し始めた。その内容はこうだ。
事件が起きたのは、明美が男性と一緒にいるところを私が目撃した日の翌日だった。あの日、彼女が一緒にいた人物こそが高也だそうだ。私が見た時は二人とも仲が良さそうにしていた。しかし、実際はかなり険悪だったという。
「あの高也という男は最低だったのよ。初めはいい顔で近づいてきて」
「いい顔?」
「それって、分かるでしょ?とあるバーで声をかけてきたのよ。私に気があるふりをして」
不愉快そうに顔をしかめる明美。小さく咳払いをしてから、話を続けた。
その日、明美は友人と食事へ出かけていたそうだ。出かけることは和にも連絡している。「ホテルのディナーだから、帰りが遅くなる」とも話していた。ともかく、食事を終えた明美は、友人と近くのバーへ向かった。そこにいたのが高也だ。
初めは普通に話をしていたが、話題は彼女の結婚生活へ移っていく。
「それで、つい不満を口にしたのよ」
「どういう不満ですか?」
「は?医者という仕事はいいけど、忙しすぎるって」
確かに、医師という仕事は忙しい。給料に見合うだけの仕事量だと言い換えてもいいくらいだ。患者のためなら病院に泊まり込む医師までいる。それこそ、真夜中に診察へ行くという話も珍しくなかった。私の想像かもしれないが、和もそういう医師の一人だったに違いない。おそらく明美も、立派な仕事をしている和を尊敬していた。優秀な医師の妻であることを誇りに思う反面、女性としてはどこか寂しかったのだろう。そんな小さな不満を口にしたという。
「あの男は私にこう言ったわ。『不満があるなら、いつでも愚痴に付き合う』と。それで、彼と付き合うようになった。ええ、最初は飲みに行っただけ。次は食事。気づいたら浮気していた。でもね、たった一度よ。私はすぐに別れたわ」
「一度」
言えることではない気がする。ただ、その一度の過ちが彼女の転落の始まりだということは理解できた。
一度きりの浮気だったけれど、高也は証拠になる写真を撮影していたそうだ。それをネタにされ、随分と脅されたとのこと。最初は数万円からスタートし、最後は100万円を超えたらしい。明美は和との関係を壊さないように、要求されるがまま支払い続けた。
「なるほど。でも、もう限界だったわけね」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、借金は借りていたお金じゃなくて、脅されていた金額」
「そうなるわね」
悪びれもせずに答える明美。どうにも悪いことをした自覚がないようだ。
「信彦の名前の借金もよ。私が払えなくて、信彦を脅そうとしたみたい」
「結局バレて、和が払ってくれたけど」
高也の脅迫は、その後も続いていたのだろう。耐え切れなくなった明美は、彼を呼び出した。それが、私が明美と高也を目撃した日だったようだ。
「呼び出した彼を、どこへ連れて行ったんだ?」
「私の持っているマンションの空き部屋よ。そこで話し合いをしようと思ったら、高也が応じてくれなくて、小競り合いになった」
佐々木が尋ねると、明美は軽く何度か頷いた。その先は押し問答が続き、掴み合いに発展。カッとなった明美は、つい彼を突き飛ばしてしまった。
「あれは、ただの事故だったのよ」
「じゃあ、どうして警察に通報しなかったんだ?少なくとも、救急車くらいは呼ぶべきだったんじゃないか」
正論をぶつけられ、彼女は黙り込んだ。
「どういう選択をしても、お兄さんにはバレる。そう思ったのよね」
問いかけるが、返事はない。仕方がないので、私は続きを促した。
「じゃあ、その事故を隠そうとしたのね」
「……ええ」
小さな声が帰ってくる。私はため息をついてから尋ねた。
「もしかして、朝一で信彦に連絡した?」
「よく分かったな」
隣から信彦が答える。あなたには聞いていない、と思いつつ、もう一度明美に尋ねた。
「信彦に連絡した時は、身代わりにすることを考えていたの?」
「どうだったかしら。本当に覚えていないわ。一心不乱にごまかそうと考えていたから」
少しだけ視線を横に向ける。こちらを見ている信彦と目があった。彼はニヤニヤしている。どうやら、こうなることも彼の筋書き通りだったらしい。悔しいけれど、明美が証言できない以上、信彦の言い分を認めるしかなかった。
「分かったわ。最後まで話してくれる?」
「いいわよ。こうなったら、何でも話すわ」
自嘲気味に笑った明美は、すらすらと続きを話していく。信彦を呼び出した彼女は、どちらが言い出したかは分からないが、彼を身代わりにすることを決めた。しかし、すぐに高也が見つかれば、身代わりがバレてしまう。話し合った末、山の中に隠すことにした。
「少し変じゃない?山の中でも、すぐに見つかるでしょ」
「山の中の廃屋の床下に隠しておいたんだよ。雪が降る頃に山中に放置して、あとは雪解け後に見つかるように」
「そんなにうまくいくかしら」
疑問を呈する私に、信彦は得意げに言い放った。
「うまくいったじゃないか。俺が見つかったとは、いつ聞いたんだ?」
「それは春先だけど」
「ほら見ろ。成功しているじゃないか」
鼻で笑われる。むっとした私は、小さな声で言ってやった。
「それが事実なら、信彦は生き恥よ」
「そうだな。遺体の身元だけなら、確か時効は3年。もう過ぎていると思うが」
反論する隙もない。悔しいが、今は諦めよう。
「それで、信彦に任せて、お姉さんは帰宅したと」
「ええ。後のことは信彦にやらせたわ。命令したのは私だから、主犯は私という認識で間違いないわよ」
堂々と答える明美。これまでの話を聞く限り、信彦の証言と矛盾はない。いくらか不明瞭な点もあるけれど、これ以上の追求は難しいと思った。
「分かりました。あとは警察署の方でお話を伺っても構いませんか?」
「いいわよ。どうせ離婚になるだろうし、もう後悔はないわ」
ゆっくりと明美が立ち上がる。はっとしながら信彦の方を見ると、彼は勝ち誇った顔で笑っていた。
「何が面白いの?」
「別に。俺が言った通りだろ」
「人が亡くなっているのよ。笑い事じゃないわ」
思いきり信彦の頬を引っ叩くと、乾いた音が響いた。
「お前、警察官がいる前でいいのか?障害だぞ、これは」
「ええ、訴えたければご自由にどうぞ。裁判では思う存分、あなたの最低なところを披露してあげるから」
信彦を睨みつける。彼は悔しそうに咳払いをしていた。言い返してこないところを見ると、騒がれたら不利になると思っているようだ。
私に残された手は二つだけ。最後の一つは、間に合うかどうかも分からない。できれば間に合って、と心の中で願い続けていた。
佐々木が立ち上がる。彼は明美に向かって手を差し出した。
「明美さん、署までご同行願いますか?」
最後の確認をする。彼女は静かに頷いた。
「あなたもよろしいですかね?市川信彦さん」
「ええ。俺が話せることはもうありませんけど、彼女の証言を裏付ける必要がありますから」
「ああ、そういうことですか。それなら」
信彦が不服そうな顔で同意する。立ち上がろうとしたところで、私は彼の腕を掴んだ。
「ちょっと待った。最後にもう一つだけいいかしら」
「なんだよ。話は終わっただろう」
強い口調で反論してくる信彦。全てをひっくり返されることを警戒しているようだ。それなら、お望み通りにどんでん返しをお見舞いしてあげようではないか。
「とりあえず、もう一度座ってくれませんか?落ち着いて、私の話を聞いていただきたいので」
「はるかさんの話ですか?」
「ええ。お姉さんに言い忘れたことがあるんです」
歯を見せて笑う。佐々木も楽しそうにしていた。実は、ここまでは彼と打ち合わせをした通りに進んでいる。最後の一手以外は、全て話していた。だから、この先に何が起こるか、佐々木は知っている。分かっていて、知らないようなそぶりをしてくれていた。
「では、まずはこれを見てください」
鞄からあるものを取り出す。それをテーブルの上に広げた。
「何よ、これ?」
「日記ですよ。岡本高也の」
私がそう言った途端、信彦が興奮して立ち上がる。
「何?嘘だ。そんなものがあるはずが」
「目の前にあるじゃない。老眼だから見えないの?」
軽く嫌味を言ってみる。しかし、彼はそれどころではないようだ。食い入るようにテーブルの上の日記を眺めている。文字に見覚えがあったのか、すぐに彼は静かになっていた。
「日記と言いましたが、メモのようなものですね。いつ、どこで、何をしたか、細かく書かれているようです。読んでみますか?」
明美に問いかける。彼女は恐る恐る手を伸ばしていた。数ページめくって、やがて息を飲んだ。
「信彦、これ、どういうことよ?」
明美が高也の日記のあるページを指さす。そこには、二人が出会った日のことが書かれていた。
「あ、いや、俺は何も」
信彦は懸命にごまかそうとする。しかし、明美は許さなかった。詰め寄るかのように声を荒らげる。
「『市川信彦の指示で、明美という女に会った』って、ここにはっきりと書いてあるじゃないの」
「あ、あれ、おかしいな。そんなはずが」
信彦の額に汗が滲む。その横顔を見ながら、私は呟いた。
「あなたの嘘、一つ見つかったわね」
「は、冗談じゃない。こんなの出鱈目だ。偽造だろ」
叫んだ信彦が、テーブルの上の日記に手を伸ばす。まずいと思った瞬間、佐々木が彼を捉えていた。
「触らないでください。残念ですが、それは無理です。そちらは重要な証拠なので」
「うるさい。どうして今になって、そんなもんが出てくるんだ。おかしいだろ」
怒鳴る信彦。私は冷静に答えてあげた。
「あなたは用意周到に行動したつもりでしょうけど、相手の方が一枚上手だったようね」
「どういうことだよ」
「岡本高也は、隣に住む翔太という仲の良かった少年に、こう話していたのよ。『自分が亡くなったら、ベランダの鉢を隠せ』って」
もう分かったと思うが、その鉢の中に入っていたのが、この日記だ。翔太は、高也と信彦が入れ替わったことに、早い段階で気づいていた。言われていた通りに鉢を隠したのも、当然だろう。案の定、高也になりすました信彦は、それを見抜けなかった。
「この日記にある通り、あなたは最初から岡本高也と知り合いだった。しかも、お姉さんに彼を近づけたのも、あなた」
「どういうことかしら?」
信彦は歯を食い縛って顔を背ける。そんな彼に、私は追い打ちをかけた。
「日記には、こんな記載もありますよ。『今日は明美を脅して奪った金を、信彦と山分けにした』とか」
「やめろ」
声を張り上げる信彦。目の前では、明美が怒りに打ち震えていた。
「信彦、あんた」
「違う!全部出鱈目だ。はるかの作りだよ。分かるだろう」
懸命に弁解するが、もう明美に届いていない。彼女は冷たい目で彼のことを見ていた。
「はるか、お前のせいだぞ」
「何を言ってるのよ。自業自得でしょ」
きっぱりと否定する。彼は拳を握りしめていた。
「お前、覚えてろよ。絶対に許さないからな」
「許さない?じゃあ、先に聞いておくけど、どうしてこんなことをしたの?」
「答える理由なんかないね」
予想通り。思わずため息がこぼれてしまった。
「それじゃあ、私が言ってあげましょうか。お姉さんのことが嫌いだったからよね」
「は?私のことが嫌い?」
明美の方が先に反応する。視線を彼女に移した私は、頷きながら話を続けた。
「そうですよ。日記にあります。『お姉さんのことが嫌いだから、落とし入れてやろう』という話になったって」
「落とし入れる?私を」
信彦を睨みつけた。明美は彼の胸ぐらに掴みかかる。前後に揺らしながら、彼を怒鳴りつけた。
「答えなさい、信彦。私を落とし入れるっていうのは、何?」
次の瞬間、信彦の怒りが爆発する。
「はあ。そういうところが、俺は昔から大嫌いだったんだよ。勝手に怒って、俺を吐け口にする。うんざりしていた。それだけだ」
「なんですって?」
「今だってそうじゃないか。復讐しようと思っていた。まんまと引っかかってくれた姉さんは、いいカモだったよ。あははっ」
信彦が大口を開けて笑う。馬鹿にされたと気づいたのか、明美は彼を突き飛ばした。
「何するんだよ」
「それはこっちのセリフよ。あんたのせいで、何もかも失ったじゃない」
「違うだろう。今、俺を突き飛ばしたみたいに、切れやすいのが原因じゃないか」
こうなると、似たり寄ったりだという気がする。低レベルの言い争いに、私はため息がこぼれた。
「でも、俺は清々してるよ。姉さんとはもうお別れだからな」
「なんでって?そうだろ。一生お前は檻の中だ。二度と顔を合わせなくていい。ざまあみろ」
一生かどうかはさておき、彼の言い分にも一理ある。ただ、私はこんな終わり方では満足できない。佐々木にも秘密にしていた最後の一手がどうなるか。それだけが心配だった。
「さあ、刑事さん、警察署へ行こうじゃないか。こんな日記があったところで、何かが変わるわけじゃないだろう」
「ああ。いや、なんだ。俺と亡くなった男が知り合いだったから、何か問題なのか?結局は姉さんが手にかけたってことは、変わりないだろう」
信彦が言い放つ。その時、私の携帯電話が鳴った。来た、と思いつつ、平然を装ってその場の全員に頭を下げる。
「すみません。ちょっと席を外しても?」
「なんだ?男か?」
からかうような口調で聞いてくる信彦。私は鼻で笑いながら答えた。
「だったら、何か問題でもあるの?そりゃ、私の夫はもう亡くなったの。再婚しようと、私の自由でしょ」
「ああ、そうかよ」
反論できなかったらしい。私は彼に背を向け、一度リビングの外へ出た。電話をかけてきた相手に、折り返しかけ直す。
「分かりました。そちらへ行きますね」
通話を終えた後、そのまま家の外へ出た。そこで待っていたのが、電話の相手である美子だ。私はゆっくりと頭を下げた。
「お呼び立てして、申し訳ありません」
「いえ」
軽く首を横に振る美子。一息ついてから、私は確認した。
「覚悟は決まりましたか?」
「ええ。これ以上、私も黙っていることはできませんので」
「では、中へ」
美子を連れてリビングへ戻る。中では再び明美と信彦が言い争いを始めていた。
「私は絶対に許さないわよ、あんたのことを」
「だから、なんだよ。俺に犯罪の片棒まで担がせておいて。ふざけるな」
信彦が叫んだところで、割って入る。
「はい、そこまで。重要な証人が到着したわ」
「証人?」
厳しい目をこちらに向ける信彦。私の隣にいる美子に気づいて、急に黙り込んでしまった。
「こちらは矢野美子さん。今、信彦が住んでいるアパートの隣に住んでいる人よ」
「初めまして。矢野です」
美子が頭を下げる。明美は眉を潜めていた。
「それで、隣の女が何のようなのよ」
「えっと、実は話があって」
「話?こっちはあんたなんかに用はないわ。帰って」
追い払うような仕草をする明美。とっさに美子は私の背後に隠れていた。
「あの、お姉さん。話を聞いていましたか?」
「聞いていたわよ」
「じゃあ、彼女が重要な証人ということも、理解していますか?」
念のために聞いてみる。すると、彼女は首をかしげていた。
「分かっていなかったんですか?」
「あ、いや、分かっているけど、今は関係ないでしょ」
話も聞かずに無関係だと言い張る心理が理解できない。だが、今はそんなことを問い詰めるよりも、美子の証言を聞きたかった。
「とにかく、彼女の話を聞いてもらえますか?」
「それは構わないが、事件に関係があるんですか?」
「ええ、根本を揺るがすくらいにね、信彦」
そう言いながら信彦の方を向く。彼は真っ青な顔で俯いていた。
「じゃあ、矢野さんでしたか。どうぞ、話してください」
「はい」
「私が今のアパートに住み始めたのは、かれこれ20年ほど前になります」
そう前置きをした美子は、思い出すような目で話し始めた。彼女の話はこうだ。
今から20年ほど前のこと。社会人になったばかりの美子は、今のアパートに引っ越してきた。当時から隣には高也が住んでいたらしい。年齢は彼の方が少し上。彼女はお隣さんとして、挨拶くらいは交わす関係を保っていた。しかし、数年後に美子が務めていた会社が倒産。理由は、とあるローンに端を発する世界的な金融危機だ。職を失った彼女は、就職活動を始める。そんな時、仕事を紹介したのが高也だった。
「私は彼の紹介で、とあるバーで働き始めました。今は友人が始めた店で働いていますが、ある時、彼にこう言われたんです」
「何を言われたんですか?」
「『俺のおかげだから、何かお礼をしてもいいんじゃないか』って」
小さな男にこんなことを言われたら、大抵の女性は怯えるだろう。事実、美子も震え上がったという。隣に住み続けるのも怖い。しかし、引っ越せば逃げたと追いかけられるかもしれない。どうすることもできなくなった彼女は、店の客に相談した。
「相談に乗ってくれた人はたくさんいたんですが、頼りになる人はいなくて。でも、頼れた人が一人だけいたのよね」
「はい。それが彼です」
美子が指さした先にいたのが、信彦だ。彼女は彼のことを見たまま話を続ける。
「私が怖くて仕方がないと話すと、彼は自分が話をつけると言ってくれました。そして、本当に数日後に、隣の人を呼び出したんです」
呼び出した先は、近所のファミレスだったらしい。美子はその場にいなかったから、話がどうなったのかは知らなかった。ただ、後で信彦にこう言われたそうだ。
「『問題は解決した』って」
「本当に解決したの?」
信彦に訪ねる。彼は視線を泳がせながら答えた。
「あ、当たり前だろ」
「それ、嘘よね。日記にそういう記述があったもの」
実は、日記にそれらしい記述があったのを確認している。高也の言い分になってしまうが、美子を脅す意図はなかった。そうだ。単に冗談を言う感覚で話しかけただけらしい。それで彼女が怯えていると信彦に聞かされ、かなり驚いたという。つまり、彼の顔が怖かったから勘違いしただけ。そういうことよね。
「はい。そのことは、ずっと後になってから知りました。翔太が生まれた後、彼が翔太と遊んでくれていた時に」
「そこで、あなたは騙されていたと気づいたのよね」
美子に問いかけると、彼女は大きく頷いた。
「ええ。少し話が見えないんですが」
「ですから、そこのバカ男が美子さんを騙していたんですよ。自分が彼女と岡本高也さんのトラブルを解決してあげた、と」
簡単に言えば、信彦が格好をつけたのだ。勘違いだったことにつけ込み、それをうまく利用した。高也も脅す意図はなかったから、今後は美子を警戒させないように気遣うだろう。そう考えた信彦は、自分が高也を説得したと美子に告げた。高也は距離を置いているはずだから、彼から真実が漏れることはない。自分は彼女を助けたヒーローになりきれるという算段だった。
実際、この信彦の作戦は成功する。恩を感じた美子は、これをきっかけに信彦と親しくなっていった。ただ、当時の信彦は私と交際をスタートさせていた時期だ。このままだと浮気になってしまうのだが、彼は構わずに彼女と親しくしていた。私との間に子供は生まれなかったけれど、彼女は妊娠してしまう。さすがに隠せなくなった信彦は、真実を告げた。
「本当にショックでした。私が浮気相手だったなんて」
「違う。俺は本気だった」
信彦が主張する。私はカチンと来た。
「じゃあ、私の方が浮気だったというのね」
「あ、いや、それは」
答えられないなら、余計な口を挟まないで。大声で一括すると、信彦はしゅんとした。
「それで、彼との間に生まれたのが翔太です。その時に、彼は私に約束してくれました。『いつか必ず結婚する』と」
ちらりと信彦を一瞥する。彼は罰が悪そうに視線をそらしていた。
「でも、翔太が生まれた後、トラブルの真実を知って、少し怖くなったんですよね」
「はい。私、騙されていたのかもと思い始めました」
「倉行するうちに、隣の方がいなくなり、急に彼が住むようになって。何もかも信じられなくなったと。そういうことですよね」
美子に問いかける。彼女はため息混じりに頷いた。
「さて、証言を聞いてもらったけど、信彦は反論があるかしら?」
「俺は」
「まあ、反論できないわよね」
彼の言葉を遮った。何か言おうとした信彦だったけれど、結局は口ごもってしまう。
「じゃあ、私の番ね。彼女の話を聞いて、疑問に思ったことがいくつかあるわ。翔太君が生まれたのは12年前。その頃から、私との離婚を考えていたの?」
「いや、それは言葉のあやというか」
「じゃあ、出任せ。嘘と言えばいいのかしら」
考える素振りを見せる。信彦は居心地悪そうに顔を背けていた。
「どっちにしても、いずれは私と離婚するつもりだったのよね」
「もう、好きに考えろ」
「じゃあ、そうするわ。もう一つは、岡本高也さんとの入れ替わりだけど、これって最初から考えていたんじゃない?」
ついに確信をつく。突然のことに驚いたのか、信彦は目を白黒させていた。
「最初に話をした時、あなたは岡本高也さんと仲良くなった。そして、彼を利用して、うまく立ち回ろうと考えた」
「違う。何の話だ?」
「彼を利用して、目障りなお姉さんを檻の中に閉じ込める。自分が亡くなったことにすれば、私との縁も切れ、自分は美子さんと幸せになれる。全てが信彦の都合のいい結果になる。このことに気づいた時、私は確信した。彼は明美に復讐するために高也を利用したわけではない。それは壮大な計画の一部だったのだと」
実際、うまくいったわよね。結果だけを見れば、あなたの望む通りになっていると言えるもの。
「偶然だろ。全部、お前が考えたストーリーに過ぎない」
「今のところはね」
優しく微笑む私とは対照的に、信彦の顔が引きつった。
「お前の証言を裏付ける何かがあるっていうのか」
焦った様子の信彦が問い詰めてくる。私は静かに首を横に振った。
「出鱈目だ。そんなもの、あるはずがない」
「残念だけど、あるのよね。美子さん」
私の言葉に反応した美子が頷く。その手には、小さなキーホルダーが握られていた。
「なんだよ、それ」
「翔太の防犯用のキーホルダーよ。周囲の音に反応して、自動で音声を録音してくれるわ」
「まさか、そんなものが」
仰天する信彦。どうやら思い当たる節があるようだ。
「翔太ったら、あなたが入れ替わった時、随分と疑っていたの。『隣のおじさんが変わった』って。だから、今でも疑っているのよ。あなたが宇宙人で、前のおじさんをさらった犯人だって」
前にも思ったが、実に子供らしい発想だと思う。ただ、彼の素晴らしいところは、真実を知ろうとしたところだ。美子が買い与えた防犯グッズを利用して、信彦の秘密の会話を録音してしまったのだ。
「うらったわね。あの子がトイレに行っている間に、本当のことを話すとか」
「やめてくれ。俺とお前の中じゃないか」
「私とあなたの中?そんなもの、とっくに終わっているわよ」
厳しい顔つきになった美子は、携帯電話を取り出した。信彦の方へ向けて、最後に彼に告げる。
「これで終わりよ」
「やめろ」
大声をあげた信彦だったが、美子の指先は止まらなかった。携帯電話に録音されていた音声データが再生される。
「あのガキも、本当にバカだよな。俺が宇宙人だなんて」
信彦の声が聞こえる。彼はその場に崩れ落ちていた。しかし、美子は音声を流し続ける。
「宇宙人とか、いるわけねえだろ。俺が高也を始末した。それが真実だ。まあ、あれも大人になったら、少しは分かるかもな。賢い生き方ってやつが」
「あははっ」
信彦の笑う声を最後に、音声は止まった。深いため息をついてから、彼に問いかける。
「生き方ね。それ、どういうものかしら?」
「違う。これは」
「あなたの声だったわよ。それと、『岡本さんを手にかけたのはあなた』って聞こえたけれど、本当のところはどうなのかしら?」
録音の中で、彼ははっきりと言っていた。「高也を始末した」と。曖昧な表現だから、どういう聞き方でもできる。もちろん、自分が手にかけたという意味もあった。
「市川信彦さん。岡本高也さんが亡くなった経緯について、詳しいお話を聞かせていただけませんか?」
「知らん。俺は知らない。何も」
強情に言い張る信彦。私は、どんな言い訳をしても無理だという気がしていた。
「信彦、あんた、私に罪を被せようとしたの?」
「へ?そんなわけないだろ」
「だって、姉さんが自分で言ったんじゃないか」
確かにそうだけど、さっきの話を聞くと、明美はかなり疑いを持っている。本当のところは分からない。ただ、一つ筋の通る推論が私の中にあった。
「私の推測だけど、口にしてもいいかしら」
明美に尋ねる。彼女は眉を潜めていたが、やがて頷いた。
「いいわよ。聞いてあげるわ」
「では、お姉さんは岡本高也さんを突き飛ばしたと言いましたよね。それは間違いありませんか?」
「ええ。カッとなって、つい」
反省したような顔をしているところを見ると、後悔はしていないのだろう。私は呆れてしまった。ここで中断しようかとも思ったけれど、とりあえず話を続ける。
「突き飛ばした後ですが、本当に彼は亡くなっていましたか?本当は生きていた。そして、あなたが帰った後、信彦と二人で成功したと喜んだんじゃないでしょうかね」
私の見解はこうだった。突き飛ばしたくらいで、人が亡くなるとは思えない。確かに打ち所が悪くて、というケースは想定できたけれど、大抵はちょっとした怪我で済むのではないだろうか。特にマンションの空き部屋のように、室内に何もなければ、無事だった可能性が高いと私は考えていた。
そうなると、問題はいつ高也が亡くなったのかだ。高也たちがグルった場合、信彦にはチャンスがいくらでもあった。誰もがそう思うはずだ。
「もし生きていたなら、春先まで見つからなかった理由も説明がつくわ」
「あ、それは何も言わなくていいわよ。どこにも遺体がなかったのだからね。高也が亡くなったのは、見つかる少し前だろう。亡くなった時期をごまかす方法は、いくらでもある。それに、骨になっていた方が運ぶのにも都合がいいと、私は思った」
「信彦、そろそろ本当のことを言ったらどう?」
「俺じゃない。俺は」
「まあいいわ。警察の取り調べでも口を割らない覚悟があるなら」
佐々木に視線を移す。彼は大きく頷いた。
「詳しい話は署の方で伺います。よろしいですか?」
「待ってくれ。違う。俺じゃない」
「そういう弁解も、署の方で伺いますよ。さあ、行きましょうか」
半ば強引に信彦を立たせる佐々木。
「助けてくれよ、はるか」
急にすがりつかれても困る。
「あなたが手を下したという証拠が出たら、大人しく捕まるという約束よね。ここに来る前、信彦が堂々と宣言したことだ」
「そんな証拠というか、俺は認めてないぞ」
「往生際が悪いわよ。『始末した』って言っていたじゃない。調べれば、証拠なんていくらでも見つかるはずだわ。じゃあね」
冷たく言ってやる。信彦は悔しそうに涙を流していた。
その後、警察署へ連行された明美と信彦は、きつい取り調べを受けているそうだ。捜査の途中だから、最終的にどうなるかはまだ分からない。今の段階で判明していることだけ話したいと思う。
まず、明美だが、彼女は高也に対する傷害の容疑で取り調べを受けている。これは彼女も認めているし、争点はないということだ。取り調べにも素直に応じているらしく、意外と早く解放されるかもしれない。ただ、生体が絡むと話は別だった。傷害だけなら罰金で終わるという可能性もあるが、生体は高額系だ。先行き不透明だけれど、彼女が自由に暮らせるのは少し先になりそうだった。
次に信彦だが、こちらは随分と複雑だ。現在は殺人罪で取り調べをしていると、佐々木は教えてくれた。ただ、高也が亡くなった経緯も、彼は知っていると思われる。もっと重い罪も見据えて、警察も捜査を進めているようで、なかなか進展はないとのことだ。信彦は否認を続けているそうだ。話を拒んだところで、真実はいつか白日の下にさらされる。彼がどう考えているかは分からないが、いっそ全て白状した方がいいと私は思った。
二人の現状は、こういう感じだ。ただ、それとは別に大きな問題がある。私たちの関係と、信彦の戸籍だ。戸籍上、彼は亡くなったことになっていた。元に戻すには、法的な手続きが必要になる。その後の話になるが、私は信彦と離婚しようと考えていた。理由は、誰もが理解できるだろう。到底信じられる人間ではないと判明したからだ。
最後に、明美と和の関係だけれど、こちらは離婚を前提に協議中とのこと。おそらくは明美の方が駄々をこねているに違いない。どんな言い訳をしても、彼女が悪いのは明らかだ。浮気の件と合わせて、慰謝料をたっぷりと請求されればいい。そんな風に考えるのは、私の性格が悪いからだろうか。少し自己嫌悪に陥ってしまった。
さて、色々とあった私だが、実は意外と元気だ。仕事も今まで通りに続けているし、友人や知人とも仲良くやっている。問題があるとすれば、信彦との離婚が成立していないことくらいだ。だが、弁護士の話では、近いうちに何とかなるということで安心していた。
一人になった後は、どうしようかしら。実際、もう8年も一人でいたようなものだ。急に何かが変わるという気もしなかった。一人で考えていてもまとまらないので、美子を訪ねて相談してみる。彼女はこんなアドバイスをしてくれた。
「婚活パーティーに参加するというのは、どうですか?」
「婚活か。そうね。美子さんも一緒なら、いいかも」
「私も?」
ぎょっとする美子。彼女も一人という点では、私と同じだ。
「一人だと気遅れするけど、二人だったら大丈夫だと思わない?」
「それは、まあ」
「じゃあ、決まり。二人で婚活パーティーに参加しましょう」
気恥ずかしかったけれど、少し楽しくなってきた。二人で笑ったところで、翔太が帰ってくる。
「ただいま。あ、おばさん、来てたんだ」
「ほら、おばさんとか、失礼でしょ?」
「すみません。今から遊びに行ってもいい?」
部屋の隅に鞄を置く。すでに遊びに行く気になっている。
「遅くならないようにするのよ」
「うん。行ってきます」
夕方も早いか、彼は飛び出していた。
「ごめんなさい。うるさくて」
「ううん。元気が良くて、羨ましいわ」
私に足りなかったのは、気軽に話ができる友人だったのだろう。そういう意味では、信彦に感謝したい。納骨堂での翔太との運命的な出会いを演出してくれたのだから。



