俺は高校を卒業してから42年間、高級旅館「笹」で働き続けてきた。創業者の代から続くこの旅館が大好きで、誇りを持って働いてきた。あと1年で定年退職。退職後は、旅好きの妻と日本各地を飛び回る計画を立てていた。しかし、その夢は、ある日突然、社長の息子・立花啓介によって打ち砕かれた。
「もういいよ、君。明日からもう来なくていいから。無能なやつは経費の無駄。会社のお荷物は早めに下ろさないとな」
啓介は、パソコンをいじっているだけで、従業員の小さなミスにいちいち噛みつくような男だった。社長が代わってから、経費削減と称してエントランスの花を減らし、部屋のアメニティをケチり、ついには受付にロボットを導入すると言い出した。俺が「旅館の良さは人のおもてなしです」と意見すると、それ以来、啓介は俺に機械の操作やトラブル処理を一手に任せるようになった。機械と睨めっこする日々が続き、俺は今まで大事にしてきたお客様への気配りができなくなっていった。
「それはつまり、首ということでしょうか?」
「意外に察しがいいな。じじい。そうだよ。見た目も頭の中も時代遅れのポンコツは首だ。今すぐ荷物をまとめて、俺の視界から消えろ」
啓介はそう言って嘲笑った。俺は誇りを持って勤めてきたこの旅館自体を傷つけられた気がした。
「首で結構です。短い間でしたが、お世話になりました」
そう言ってその場を去ろうとすると、啓介が追い打ちをかけてきた。
「いい君だ。あと1年で定年退職で、退職金も多かったろうにな。感謝感激で花束付きで送ってもらえると思ってたか。残念だったな」
本当は悔しかったが、気にしないふりをして、俺は後ろを振り返らずに旅館を後にした。今まで自分がやってきたことは何だったのか。このあっけない終わりは何なのか。そう思いながら、事務所の扉を開けて館内を見渡すと、そこには俺が憧れて入った頃の笹の姿はなかった。エントランスは造花で飾られ、花の香りはなく、業務用の掃除用品の匂いがした。お客様に接しているのは、無機質な笑顔のロボットだった。
家に帰ると、妻のトコが驚いた顔をしたが、すぐに最高の笑顔で「お帰り」と言ってくれた。俺は啓介とのやり取りを話した。
「負けてやめてきたよ。退職金ももらえるかどうか分からん」
そう言って申し訳なさそうにする俺を、トコは優しく撫でてくれた。
「やめて正解よ。ありがとう。最近のあなた、見ていられなかったもの。長い間お疲れ様でした。今日はパッと飲みましょう。私はあなたが元気でいてくれることが一番なのよ」
その日は俺の好きな食べ物が食卓に並び、好きな酒もあった。妻の明るさに、俺の気持ちは少しずつ落ち着いていった。
数日後、俺は「やめてくれてありがとう」と言ったトコの本当の意味を知ることになる。携帯を見ると、笹から朝からずっと電話が来ていた。出てみると、スタッフが「助けてください。今大変なことになっているんです」と叫んだ。俺は「もう関係ない」と電話を切ったが、何度もかかってくる。再度出ると、受付に客が殺到している。機械がトラブルを起こして動かず、啓介は役に立たないという。スタッフの必死のSOSと、後ろで聞こえるお客様の罵声に、俺は無視できずに旅館へ向かった。
旅館に着くと、本当に大変なことになっていた。エントランスはチェックアウトできない人とチェックインする人で溢れ、スタッフは悲鳴を上げていた。受付リーダーが半分泣きながら「鈴木さんしか頼れる人がいなくて」と訴える。俺は機械を確認すると、初期設定がずれていることに気づき、トラブルを解決した。そして、順番に案内を伝え、キャンセル料を負担するなど、丁寧な接客でなんとかピンチを乗り切った。
落ち着くと、スタッフが「やっぱり鈴木さんすごい」と褒めてくれた。受付リーダーが改まって言った。
「鈴木さん、もう一度戻ってきてくれませんか? 鈴木さんがいてくれると、みんな安心して仕事に集中できるんです。あと1年かもしれないですが、鈴木さんのそばで働きたいんです。上はなんとかしますから」
後ろにいたスタッフ全員が頷いた。しかし、それを見ていた啓介が悪態をついた。
「俺が頼んでないのに勝手に戻ってきやがって。俺だけでどうにかできたんだ」
啓介を見るスタッフの表情は冷たかった。静寂の中、俺は答えを促すような視線を感じた。
「主人は絶対戻りませんよ」
俺の言葉に被せるように聞こえた声は、トコだった。
「心配してついてきてみれば、全く」
少し呆れたように俺を見てそう言った。
「いや、あの……助けを求められて、考え直してもいいかなんて少し思っていたんだ」
「あなた優しいから、言いくるめられて戻ってしまうかもと思ってきたのよ。でも、うちの主人はここではもう働きませんよ。だって、この旅館もうすぐ潰れますから」
この言葉に、みんなが動揺し始めた。
「どういうことだ? 負け惜しみか?」
啓介が半笑いでバカにしてきたが、トコの言葉は止まらなかった。
「知ってます? 笹、残念なことに評判すごい悪いんですよ」
「何言ってんだ、こいつ。さすが老いの嫁。頭いかれてるぜ」
「ちょっと、今の言葉は聞き捨てなりませんね。私がそう言うなら間違いないですよ。特に旅館のことに関してはね」
トコは旅行雑誌のライターで、宿泊施設の評判にとても詳しかった。社長が変わってから笹の接客が良くないと評判だという。立花一族は他の宿泊施設にも強引な手を使って勢力を広めているが、どれもうまくいっていない。このままだと笹も時間の問題だと言われている。
「何ケチつけてんだよ。ライターだかなんだか知らないが。俺は生まれてずっと勝ち組なんだよ」
「そうそう。あなた、主人に聞いていた通りのバカさんだったわ」
「はあ? バカ?」
「ずっと依頼されても断ってたんだけど、今度Webの記事で笹について特集するのよ。夫はもう働いてないんだもの。遠慮する義理はなくなったわ。今の笹の見たままの姿を忖度なしにたっぷり書かせてもらうわ。それに、あなたが主人に今までやってきたことも包み隠さず書かせていただきますから。そのつもりでね」
俺がやってきたこと。啓介は顔を真っ青にして唾を飲み込んだ。
「やめてくれ。あんたの夫は元に戻すから。給料を倍にして、ここのオーナーにしてもいい。親父にも怒られちまう。困るんだよ」
最終的には自分のことしか考えていない発言に、周りはあきれていた。
「主人の42年間を否定して台無しにしたんですよ。それに、さっき言ったように、こんな泥に主人が戻る必要はないんですよ」
そう言ってトコは俺の手を取ると、外に連れて行かれた。家に帰る途中、トコは一言も話さなかったが、ブツブツと笹の記事の構成を呟いていた。トコを怒らせると怖い。それを一番俺がよく知っている。今度は俺がぞっとした。
家に着くと、トコは呆れたような優しい笑顔で「人がいいにも程があるわよ」と怒った。そして、部屋にこもり、パソコンで記事の執筆を始めた。
数日後、トコは言った通り、笹の暴露記事を掲載した。ただ叩くようなものではなく、俺への配慮からか、俺が受けた嫌がらせだけでなく、笹の昔と今の違い、そうなった原因、常連客の声が丁寧に書かれ、昔の笹を惜しむような形で締めくくられていた。記事が出ると、常連客からキャンセルが相次ぎ、従業員も辞めていき、結果、笹は潰れてしまった。
残念だが、俺の愛した笹はとっくに終わっていた。笹は俺の心の中にあるんだ。
しかし、昔の思い出に浸っているほど暇ではなかった。俺は今、別の宿で働いているからだ。
あの騒動から数日後、リビングで手持ちぶさたに「宿の仕事しかしてこなかったからなあ。これからどうするか」と呟くと、トコが言った。
「じゃあ、宿の仕事すればいいじゃない。理想の宿で」
一瞬驚いたが、その手があったかと思った。実は、あの日の出来事を知った立花の社長が、ことを納めてくれたお礼と、息子が失礼なことをしたと弁護士を通じて慰謝料をくれたのだ。最初は突っぱねてやろうと思ったが、あの大変な騒ぎを納めたことと、退職金だと考えればいいかと思い、受け取ったお金だった。
そして、準備を進め、俺とトコは2人で民宿を始めた。俺が大好きだった笹を彷彿とさせる、おもてなし重視の宿にした。コストはかかるが、生花と笑顔で迎え、部屋にはリラックス効果を高める香りとふかふかのタオルを置き、夫婦2人で接客することで、小人数ながらも丁寧な接客ができた。結果、予約が1年先まで埋まるほどの人気になり、中には笹の常連だった方が、俺が経営していると聞いて来てくれた方もいた。
「さ、今日も笑顔で行くわよ」
そう言って宿の玄関を開けるトコの笑顔を見て、俺は何度この笑顔に救われていくんだろうと思った。そして、この笑顔は宿と共に俺が守っていこうと、今日も強く誓った。



