八千メートルの高度で、左エンジンのタービン温度がレッドゾーンに突入した。計器の針は限界線を一気に振り切り、機体がぐらりと右へ傾く。管制室のモニターを見つめる技術者たちの顔から血の気が引いていった。誰かが震える声で呟いた。「彼女が言った通りだ。三ヶ月前に、あの人が警告した通りに」。その瞬間、私は三ヶ月前のあの会議室を思い出していた。磨き上げられた大理石の床、整然と並ぶ大手企業の資料、そして作業…
八千メートルの高度で、左エンジンのタービン温度がレッドゾーンへ突入した。計器の針は限界線を一気に振り切り、機体がぐらりと右へ傾く。管制室のモニターを凝視する技術者たちの顔から血の気が引いていく。 誰かが震える声で呟いた。 「彼女が言った通りだ。三ヶ月前に、あの人が警告した通りに」 時計の針を三ヶ月だけ巻き戻したい。私がたった一枚の紙を残して、あの会議室を静かに出ていったあの日まで。 三ヶ月前、私の工房は街外れの古い倉庫を改装した小さな建物だった。朝、いつものように炉に火を入れ、コーティングの被膜を顕微鏡で覗き込む。〇・〇三ミリの層の中に、結晶のように並ぶ分子の壁。これが一千五百度の燃焼から金属を守る。私がこの技術を完成させるまでに七年かかった。誰にも頼らず、誰にも教わらず、炉の前に立ち続けた七年だった。 その時、一通のメールが届いた。差出人は帝国エアロエンジンの若手社員、三宅と名乗る人物だった。 「次世代エンジン量産コンペに、是非桐流表面処理さんをお呼びしたい」 私はしばらくその文面を見つめた。帝国エアロは業界の頂点に立つ会社だ。従業員四名のうちのような工房に声がかかるはずがなかった。 炉の担当の岩本さんが湯のみを片手に覗き込む。 「大手のコンペなんて相手にされんぞ」 「ええ、多分数合わせです」 私は静かに答えた。それでも行こうと思った。私のコーティングがなければ、あのエンジンは空で壊れる。そのことを知っているのは、この国で私だけだったから。 岩本さんが心配そうに私の背中を見た。私は炉の火を落とし、工房の鍵を手に取った。 コンペ当日、帝国エアロの本社ビルは磨き上げられた大理石の床が人の姿を映すほど光っていた。すれ違う社員は全員がきっちりと折り目のついたスーツ姿だった。通された大会議室には、業界の誰もが知る名前が並んでいる。上質なスーツ、洗練された物腰、分厚い資料。テーブルの上には各社のロゴ入り資料が整然と並んでいた。 その中で、作業着の上にジャケットを羽織っただけの私は明らかに異質だった。入室した瞬間、いくつもの視線が私に集まり、そして静かに外れていった。 上座の鷲尾統括部長が私の資料に一目もくれず、穏やかな声で言った。 「桐流さんと言いましたか。申し訳ないが、何かの手違いのようだ」 彼はまるで道を間違えた客に告げるように丁寧だった。 「ここは国の威信を背負った最終コンペです。大手数社で十分です。町工場の方はお帰りください」 誰も声を荒げない。ただいくつもの視線が哀れむように私を撫でた。その丁寧さが罵倒よりも冷たかった。室内のどこかで、押し殺したような笑い声が漏れた。 私は何も言い返さなかった。感情を表に出すこともしなかった。ただ鞄から一枚の分析書を取り出し、テーブルの端にそっと置いた。 「これだけ置いていきます。燃焼温度が一千五百度に達した時、コーティングのないブレードがどうなるか計算してあります」 鷲尾はそれを見ようともしなかった。私は深く一礼し、静かに会議室を出た。 扉が閉まる直前、背後から声が聞こえた。 「さて、本題に入りましょう」 まるで私など最初からいなかったかのように。 廊下に出た私は、少しの間扉を見つめた。そして静かに歩き出した。私にできることはした。後は現実が答えを出す。 会議室の扉が閉まると、笑い声が漏れたのが分かった。 「町工場の女が何を置いていったんだ?」 誰かが私の分析書を、ゴミでも扱うように脇へ押しやった。だが、最前列に座っていた若い社員がそれをそっと拾い上げた。三宅徹。私をこの場に呼んだ当の本人だった。彼は紙に並ぶ数式を目で追い、見る見る表情を固くした。燃焼温度、熱応力、金属の疲労限界。そのどれもが、専門の研究者でなければ書けない精度で緻密に組み上げられていた。 三宅は思わず周囲を見渡した。誰もその紙の存在すら気にしていない。鷲尾はすでに大手の落札候補と満足げに握手を交わしていた。 三宅はグラフの一点に指を止めた。そこにはこう記されていた。 「飛行時間百時間でブレードは破断に至る」 彼はその数字をもう一度、声に出さずに読んだ。二百時間の国際線の長距離便なら、わずか数十便分に過ぎない。量産が始まれば、あっという間に到達する時間だった。 三宅は思わず立ち上がりかけた。だが、鷲尾の明るい声が会議室に響いた。 「それでは大正さんとの基本合意に向けて、手続きを進めましょう」 各社が起立する。三宅は立ち上がれなかった。分析書を静かに折りたたみ、上着の内ポケットにしまった。なぜ町工場の女社長がこれほどの計算を書けるのか。その違和感が、彼の胸の奥に小さな棘のように深く刺さった。 コンペの結果はその日のうちに決まった。選ばれたのは業界二位の巨大サプライヤー、大制重工だった。最新鋭の設備と分厚い実績。鷲尾にとって、それは正しい選択の何物でもなかった。 発表後の廊下で、幹部たちが笑顔で握手を交わしている。その輪の外で、三宅だけが内ポケットの紙を握りしめていた。 翌日、三宅は鷲尾の部屋を尋ねた。 「部長。あのコンペで桐流表面処理が残した分析書、確認していただけませんか」 鷲尾は書類から顔も上げずに答えた。 「あの町工場の?何の話だ」 「ブレードの耐熱に致死的なリスクがあると書かれています。飛行時間百時間で破断が起きると」 鷲尾はようやく顔を上げ、薄く笑った。 「三宅君、君は若いから分からないんだろうが、安全というのは実績のある大企業が積み上げてきた信頼の上に成り立つものだ。町工場の手書きの紙切れ一枚に何の意味がある?大制重工の設備を信じなさい。それが組織というものだ」 三宅はそれ以上何も言えなかった。部屋を出た彼は廊下で立ち止まり、しばらく動けなかった。鷲尾は嘘をついているわけではない。彼は心の底から、大手なら安全だと信じていた。その確信に一点の疑いもなかった。だからこそ、言葉が見つからなかった。 本当に恐ろしいのは悪意を持った人間ではない。正しいと信じきったまま間違い続ける人間だと、三宅はこの時初めてはっきりと理解した。内ポケットの分析書が、重く冷たく感じられた。 それから数週間、大制重工は自社の設備でタービンブレードの量産試作を始めた。三宅は材料担当として、その試験データを受け取る立場にいた。 最初の地上燃焼試験のデータシートが三宅の机に届いた。数値はどれも許容範囲以内に収まっていた。鷲尾が見れば問題なしと判断するデータだった。 だが三宅はシートの片隅に小さな異変を見つけた。ブレード表面に微細な変色。肉眼では見落とすほどの、わずかな兆候だった。 彼は桐流涼子の分析書をもう一度開いた。そこに書かれた予測曲線と、現実のデータが不気味なほど重なっていく。 三宅は震える指で私の工房に電話をかけた。呼び出し音が三回鳴った。 「はい、桐流表面処理です」 「桐流さん、突然すみません。帝国エアロの三宅です。ブレードの表面に変色が出ています。これはコーティングの破壊の初期兆候ですか?」 … Read more