「汚い作業員がうろつくんじゃねえよ。早く帰れ」…
俺は本清、50代半ばの会社経営者だ。代々続く工務店を営み、注文住宅を中心に地域の大工としてやってきた。幼い頃から祖父や父の背中を見て育ち、建築士が描いた図面が土地に立ち上がる瞬間に魅了された。家を建てるだけでなく、庭まで手掛けることで、施主が思い通りの家に満足する姿が何よりのやりがいだった。 この仕事は天職だと思っている。大工になるために生まれてきたとさえ感じていた。小学生の頃から修行を始め、土木や建築を学ぶ学校に進み、一級建築士の資格も取った。父の代で事業を拡大し、俺はさらに会社を大きくすることに成功した。不況による顧客離れや資材の高騰など、危ない橋も渡ってきたが、質の高い大工と、顧客のニーズを汲み取る建築士に恵まれた。 今、俺は会社をさらに大きくすることを考えていた。現代の消費者は、低コストで品質の高い家を求めている。昔のように代々受け継ぐ家ではなく、静かに暮らせる家がいい。30年ほど住めれば十分で、高齢になれば施設に入るから、家は次のオーナーに譲っても構わないという考えだ。核家族化や少子化が進み、持ち家にこだわる必要も薄れている。 それでも、低所得のために家を持つことが難しいと感じる人は多い。マンションより持ち家は、誰もが持つ夢の一つだと思う。そういった人々のための家づくりを模索していた。低コスト住宅をメインにしたハウスメーカーはたくさんあるが、平屋中心のブランドや、間取りや水回りの仕様が決まっているものが多い。安価で家を持てても、山の上の造成地で交通インフラが道路一本だけ、ということもある。 もっと身近な土地に建てられ、ライフスタイルに合った間取りで生活できる注文住宅。しかも安価で、家賃程度の支払いで暮らせる家を販売したい。俺は新しい建築構法を確立し、リリース寸前までこぎつけた。しかし、低コストを貫くには建築資材の選定が重要だ。 俺は建築資材会社をピックアップし、我々のチームが求める資材を納品してくれる会社を探していた。 「本社長、こんにちは。いつもお世話になっております」 元気で人懐っこい笑顔で挨拶してくれるのは、合憲という建築資材メーカーの営業社員、水野武史君だ。彼には開発部から資材の打診をしており、見積もりや仕様書などを細かく持ってきてくれる。 「どうしても本社長とお仕事したいので、海外の取引先まで巻き込んじゃいました」 「おお、頼もしいね。だけど合憲さんの利益もきちんと出せるような見積もりを持ってきてくれよ」 「はい。もう、音社との取引となれば、この先100年以上続くものになると信じておりますので、頑張らせてください」 大げさなことを言うが、あながち嘘ではない。暮らす人は数十年程度だが、家そのものは手入れをすれば100年ほど持つ。取引先の仕様変更や、うちの会社で企画打ち切りがない限り、同じ品質の資材を納入し続けてもらえれば付き合いは続く。それを分かって自信を持って売り込んでくる営業マンは早々いない。見積もりの内容も仕様書も申し分ない。 俺をはじめ開発チームは、合憲との付き合いを前向きに考えていた。購入を希望するサンプル品などを持ってきてもらい、強度を確認したり情報収集を行った結果、正式に取引を依頼しようという結論に達した。 俺は水野君を通じてアポイントを取り、合憲の本社ビルへ伺うことになった。本来ならスーツ着用が正装の鉄則かもしれないが、我が社では作業服、というか作業もできるブルゾンに作業ズボンを制服と決めている。クリーニングから戻ってきたばかりのブルゾンを羽織り、合憲へ向かうこととした。 その前に、一件住宅地で上棟式があり、施主へお祝いを伝える仕事もあった。うちの会社では施主の希望があれば上棟式を行う。その時、俺や父親が現場を訪れ、お祝いを伝えるのが決まりだった。 現場に向かうと、数日前の雨の影響で工程が若干遅れていた。午後からの上棟式に間に合うかわからないという話だったので、俺も屋根に登り大工たちを手伝った。埃や土埃が制服についてしまったが、俺はお構いなしで仕事をした。 同行していた営業部の原田が「そろそろ時間ですよ」と屋根の上に向かって叫ぶので、俺は施主に挨拶をして車に乗り込んだ。 「ああ、社長。これから先方と会うのに制服汚れちゃいましたね」 「建築現場で仕事をしてきたんだ。先方も分かってくれるさ」 「社長の楽観的なところ、もう少し考えた方がいいんですけどね」 「神経質すぎるよりはいいだろう」 そんなことを言いつつ、合憲重役ビルに到着した。受付でアポイントを取っている旨を伝え、4階の会議室へ行くよう指示を受けた。エレベーターで4階へ向かう。受付の社員は、エレベーターを降りて右手に会議室があると教えてくれた。担当の水野君にも連絡を入れてくれたので、すぐに迎えに来てくれるだろう。 エレベーターを降りた瞬間、大きな怒鳴り声が耳に入ってきた。 「おい、そんなんじゃ、100億以上の取引になる長期の案件なんてお前に任せてらんねえよ。俺は原田と顔を見合わせて立ち止まる。相手は1万人もの社員を抱える大企業様だぞ。お前のせいで案件がパーになったらどうすんだ?」 だんだんと声の主が近づいてくる。怒鳴り声の主と一緒にいたのは水野君だった。どうやら水野君を怒鳴りながらエレベーターホールまで来たらしい。 「なんだあんたら。ここは部外者立ち入り禁止エリアだぞ」 部外者立ち入り禁止と言いながら、俺と原田は入館IDの交付を受けてこのフロアに来た。 「あ、あの課長、だから先方の湯茶接待は日本茶じゃなくてコーヒーにしろって言ってるんだ。俺がコーヒー飲みてえんだよ。あっちが日本茶好きのじじいでも関係ねえわ」 お茶が入ったポットを持った水野君が怒られているところに出くわしてしまった。 「あの、ちょっと待ってください。その方は来客の相手を考えてお茶を用意してくれたんでしょ?」 俺は日本茶が好きで、社長室には京都の宇治茶や埼玉の狭山茶など、いくつかの緑茶を常備していた。水野君も俺の日本茶好きを熟知してくれて、美味しい日本茶を見つけてはよくお土産を持ってきてくれた。 「んだ、あんた。部外者はここに来んなって今言ったよな。なんだよ、その薄汚い服装は」 俺はこの男の話し方にあっけに取られて、口をあんぐりと開けてしまう。水野君と一緒にいるので、多分この男が営業課長の大西だろう。 「頭に埃くずつけやがって、ふざけんな。は、大工らしく犬小屋でも立ててろよ。こちらは今から100億、いや、それ以上の取引が待ってんだ」 「え?ああ、その相手は俺ですが」と言葉が声になる寸前のことだった。 ばっしゃー。 「うわ、熱い」 ポットに入ったお茶を浴びせかけられたのだ。 「汚い作業員がうろつくんじゃねえよ。早く帰れ。お、水野。床を今すぐ拭いて消毒しとけ。いつらが歩いた汚い床を俺に歩かせるって言うのか」 俺は半狂乱で顔を拭く。頬がお湯の影響で少しヒリヒリするが、多分彼が準備してくれたのは玉露だ。火傷がひどくなるような温度ではなかったのが幸いだった。 「あなた、お茶をかけましたね」 やっとのことで声が出た。 「作業服が少しでも綺麗になったろ」 ニヤニヤしながら言うが、水野君は恐縮しながら頭を下げっぱなしだ。 「随分自分勝手な上司を持って、水野君も気の毒だな。申し訳ないが、100億の契約は白紙と社長に伝えてくれるか?」 俺はそう言って、濡れた髪の毛も半端に拭った。 「そ、そんな、ちょっと待ってください」 水野君は俺を引き止めようとする。 「おい、このフロアに来るこいつらが悪いんだ。早く廊下を掃除しろ」 水野君は大西の言いなりにならざるを得なかったようだ。 「ちょっと課長、何を言ってるんですか?あなたは何をしたか分かってるんですか?」 こんな荒げた声を出す水野君を初めて見たが、俺はああ言った以上、2人を無視してその場を立ち去るしかなかった。 だが、しかし。ズブ濡れの俺と原田は、その3分後、1階まで降りたエレベーターを再び4階まで引き返すことになる。合憲の社長、三部に捕まったのだ。こんな格好では商談もできないし、したくないので一旦帰ると言ったのだが、「このままでお返しすることはできません」と俺たちは引き止められ、4階フロアにある社長室に通されたのだ。 「社長室には、大西課長の怒号が聞こえなかったのでしょうか?」 「ごめんなさい。私は先ほどまで所用で外出していました。とのお約束のためにもう少し早く帰れるはずだったのに、道路が混んでいて、急いで戻ったら、ズブ濡れで顔を赤くした本清本社長がいらっしゃるじゃないですか」 … Read more