「お前たちはもう家の風呂に入るな。他人が入った後の風呂など気持ち悪くて入れん。」…
「家がないのはお前たちな。」 その言葉を聞いた瞬間、3人の笑い声が止まった。義父の得意げな目、義母の歪んだ口元、勝雪の何も考えていない笑顔。7年間、この家で私と娘を踏みにじってきた人たちが、私が離婚を切り出すと、まるで勝利を確かめたかのように笑った。 「お前たちはもう家の風呂に入るな。他人が入った後の風呂など気持ち悪くて入れん。」 義父がそう言い放ったのは、同居して5年目の秋だった。まなみがいる前での言葉だった。勝雪は黙って視線をそらした。 「父さんの言う通りだ。君たちマジで図々しい。今日から絶対に家の風呂は使わないで。だけど掃除は毎日しっかりするんだよ。」 勝雪は笑顔でそう言った。私は何も言えなかった。 私の名前は長田まこ。42歳。会社の経理部に勤めて20年になる。新卒で入社した日のことは今でも鮮明に覚えている。緊張で震える手で名刺を受け取り、先輩たちの背中を必死に追いかけたあの春の朝。あれから20年。気がつけば後輩たちに仕事を教える立場になっていた。 数字を扱う仕事は私に合っていた。感情に左右されず事実だけが積み上がっていく感覚が、どこか自分の気質と重なる気がしたのだろう。職場では「長田さんに任せれば安心」と言われることが増えた。口数が多い方ではないが、仕事の正確さだけは誰にも負けないと思っている。それだけが自分を支えるものだった。 私生活にはずっと自信が持てなかった。両親が相次いで亡くなったのは私が30歳になったばかりの頃だ。父が先に行き、1年も経たないうちに母も後を追うように亡くなってしまった。2人とも病気だった。それぞれ長い病の末に静かに息を引き取った。手を握りながら見送った感触は今でも消えない。 葬儀が終わり、慌ただしさが落ち着いた頃、残ったのは深い空白。毎日仕事へ行き、帰宅して眠るその繰り返し。冷蔵庫を開けるたびに、誰かのために料理をしなくなったことに気づく。家の中がやけに広く感じられたのを覚えている。 そんなある夜、職場の同僚が気遣って食事に誘ってくれた。小さな居酒屋の座敷で、同僚が仲のいい友人たちを連れてきていた。隣のテーブルにいた男性グループと成り行きで話が弾み、気づけば移動して同席していた。その中に後の夫となる勝雪がいた。 長田勝雪、当時37歳。洗練された雰囲気を持ちながら、どこかのんびりとした空気をまとっている。最初の印象は不思議な男性だった。 話しているうちに勝雪が柔らかく笑ってこう言った。 「まこさんってすごくしっかりしてますね。20年も同じ会社で頑張ってきたって、なかなかできないことですよ。」 褒め言葉に慣れていなかった私は返す言葉が見つからない。俯いて「そんなことないです」というのが精一杯だった。それでも胸の中に小さな温かさが灯ったのは確かだ。 その後、2人で会うようになる。勝雪は私のことを否定しない人だった。どんな話をしても柔らかく頷いて聞いてくれた。自分に自信が持てないと打ち明けたこともある。 「これだけ丁寧に生きてきたってことじゃないですか?」 そんな彼の言葉の意味をうまく理解できないまま、ただ泣きそうになった。勝雪は両親への愛情が深い人であることも知る。遠方に住む両親の話になると目が細くなった。 「親父もお袋も元気でいてくれるうちに、できるだけ一緒にいてやりたいんだ。」 そう語る姿に私は胸を打たれた。両親をなくしたばかりの私には、その言葉が眩しく映ったのだ。 「まこさんならきっと僕たちの家族になれるよ。」 「家族」という言葉があの頃の私には薬のように染みた。私は寄りかかれる場所をずっと探していたのかもしれない。 付き合い始めて1年半が過ぎた頃、結婚の話になった。義両親への挨拶のために遠方の実家を訪ねた時のことは今でも記憶に残っている。義母の秀子さんは台所で腕を振るい、義父の泰雄さんは豪快に笑いながら私を迎えてくれた。 「遠いところをよく来てくれた。うちの勝雪のことをよろしく頼む。」 そんな会話をしながら食卓を囲む。あの夜だけは本当に温かかった。式はあげなかった。親族だけで少し豪華な食事会を開き、それで婚姻届を提出。義両親も来てくれて、乾杯の声が上がった時、私は初めて「家族ができた」と感じた。 結婚した翌年、長女のまなみが生まれる。小さな手が私の指を握った瞬間、世界が丸ごと塗り替わった。泣きながら「良かった」と繰り返す勝雪の横顔を見て、この人と家族になれてよかったと心から思った。 3歳が開けて保育園が決まり、仕事に復帰。保育園ではまなみが笑顔で私を待っていて、帰宅後に夕飯の支度、勝雪の帰りを待って3人で食卓を囲む。疲れていてもまなみの笑い声を聞くと気力が戻った。勝雪も穏やかで、家の中に争い事はなかった。あの頃が1番幸せだったと今は思う。 義両親との同居が始まったのは今から7年前のことだ。まなみが3歳になる年の春、ようやく言葉が増えてきた時期で、朝起きるたびに「ママ、おはよう」と小さな声で言うのが習慣になっていた。その声を聞くことが1日を始める理由と言っても過言ではない。 勝雪と私は結婚当初から2人で2LDKのマンションに住んでいた。まなみが生まれる少し前に将来のことを話し合い、今の戸建てに引っ越すことにしたのだ。まなみの保育園が近く、部屋数にも余裕がある。2人で話し合い、納得して決めたことだった。 引っ越してから最初の1年は落ち着いた日々が続いた。週末は3人で近所の公園へ出かけ、まなみが砂場で遊ぶ横で勝雪と他愛ない話をする。特別なことは何もなかったが、それがちょうど良かった。 義両親が家に遊びにやってきたのは、そんな穏やかな日常のさなかのこと。事前に勝雪の両親が久しぶりに遊びに来るとは聞いていた。普段は遠方に住んでいるため顔を合わせる機会は年に数回程度。「孫の顔を見に来る」そういう話だった。 義母は玄関に入るなり家の中を見渡した。その視線はまなみではなく、廊下の幅や天井の高さを測るように動いている。義母は靴を脱ぎながら壁をそっと指で叩いた。 「いい壁ね。しっかりしてるわ。」 まなみが「おばあちゃん」と駆け寄っても、義母は軽く頭を撫でるだけで視線は天井へ向いたままだった。様子を見ていたまなみが首をかしげながら私の後ろに回り込む。胸が少し痛んだが、気のせいかもしれないと思うことにした。 義父は上がるなりリビングをゆっくりと一周した。窓の鍵を開け閉めして確認し、押入れを開けて奥行きを測るように腕を差し込んだ。 「収納が多いな。いいじゃないか。」 誰に言うでもない独り言のようだが、品定めをする商人のような目である。台所に入った義母が引き出しを1つずつ開けて中を確認しているのが見えた。私は何か言おうとして勝雪の方に振り向く。勝雪はソファーに深く腰をかけ、スマートフォンを眺めながらふふふっと笑っている。両親の行動が見えていないはずはないのに、それでも何も言わなかった。 夕食の準備を始めると、義母がいつの間にか隣に立っていた。冷蔵庫を開けて中を確認し、「整理した方がいいわね」と言いながら棚を勝手に並べ替える。私が黙ってフライパンを握っていると、義母は「こっちの方が使いやすいでしょう」と調味料の位置まで動かした。自分のキッチンが少しずつ他人のものになっていくような感覚に陥る。 食卓についてからも義父は箸を置いて部屋を見回す動作を何度も繰り返す。 「日当たりはどうだ?南向きか?ちょっと2階も見せてもらえる?」 食事中に2階を見たいと言い出す義母に、勝雪は「どうぞどうぞ」と立ち上がった。私はとっさに「2階は私たちの部屋もありますので」と言いかけたが、すでに2人は階段を登り始めていた。 2階から足音が聞こえてくる。ドアが開く音、また閉まる音。部屋から部屋へと移動する気配が天井越しに伝わってきた。まなみが私のエプロンを引っ張る。 「ママ、お部屋入っていいの?」 小声で聞いてくるまなみに、私は答えられなかった。その夜、両親が泊まっていくことになったのは勝雪の提案だ。 「せっかくだから泊まって行きなよ。部屋も余分にあるしさ。」 私とまなみが風呂に入っている間に決めたらしく、確認はなかった。寝室の配置を話し合う3人の声が1階から聞こえてくる。私とまなみはいつもより早く2階に引き上げた。 翌朝、義父は早起きして庭に出ていた。ブロック塀を手で押さえて強度を確かめるように揺らし、メモ帳に何かを書き留めている。何かがおかしい。そう思う気持ちはあった。ただその正体が何なのか、この時の私にはまだ分からなかった。 帰り際に義母が言葉を発した時、それはおそらく決定事項だったのだろう。 「こんなに大きな家なら、あと2人くらい住んでも問題なさそうね。」 笑いながらの言葉だったので私も軽く受け流した。多少の不審感はあったが深くは考えなかった。しかし翌月、事態が急変する。仕事を終えて保育園にまなみを迎えに行き帰宅すると、家の前に見覚えのない大型トラックが止まっていたのだ。 作業員が次々と荷物を運び込んでいる。何が起きているのか理解が追いつかなかった。まなみを抱えたまま玄関を開けると、義父が上がり框に立っているではないか。 「あ、お父さん、どうされたんですか?」 「ああ、まこさん、今日からお世話になるぞ。」 口調は穏やかなのに、背筋に冷たいものが走る。玄関に立つ義父の背後には見知らぬ作業員がダンボール箱を抱えて次々と入ってくる。靴箱の横に積み上げられていく荷物は1つや2つではない。箪笥の引き出し、布団、台所道具らしき箱。それは明らかに数日の滞在では収まらない量だった。義父の目は笑っていない。穏やかな声と値踏みするような視線が奇妙にちぐはぐだった。 告知でも相談でもなく、これは通告だったのだ。すでに決まったことを事後的に知らせているだけ。私は玄関に立ったまま声が出なかった。まなみが私のスカートを掴んで作業員たちを黙って見上げている。勝雪に電話をかけるとすぐに繋がった。ただ彼から帰ってきた言葉は予想外のものだった。 … Read more