「この資料を来週使うから、それまでに仕上げられなかったら、あなたもう来なくていいからね。」…
「この資料を来週使うから、それまでに仕上げられなかったら、あなたもう来なくていいからね。」 冷たい声がオフィスの空気を一瞬で凍らせた。俺は机の向こうで固まる同僚の姿を見つめながら、思わず拳を握りしめた。彼女は正社員としてここに居場所を築こうと必死に頑張っているのに、どうしてこんな理不尽な集中を受けなきゃいけないんだ。 助けを求めるようにこちらを見たのは、かつての俺の忘れられない人だった。彼女は俺の高校時代の元恋人。卒業以来連絡も取れず、顔を合わせることすらなかったのに、この会社で再会することになるなんて思いもしなかった。再会の喜びを味わう暇もなく、彼女は驚くほどの過酷なノルマを突きつけられ、日々追い詰められていた。 「全部背負い込むな。手伝うから、少し資料を貸してくれ。」 彼女が戸惑いつつも差し出した書類の山は、膨大な翻訳データと複雑な契約関係の文書だった。普通にやったら1ヶ月はかかるだろう。しかし俺は作業の段取りを全て見直して、重複や無駄を徹底的に削った。翻訳のテンプレや使える辞書を駆使し、優先順位を整理して大枠を先に固める。締め切りまで1週間と宣告された作業は、意外にもあっさり道筋が見えてきた。 「もう終わったよ。」 気づけば、たった1時間も経たずに主要な資料がほぼ完成してしまっていた。徹夜を覚悟していたはずの彼女は、ただ呆然とパソコン画面を見つめ、「嘘みたい」と震える声でつぶやく。その瞳には安堵と驚きが入り混じった涙が浮かんでいた。 俺と彼女のこの再会が、俺たちの人生を大きく動かすきっかけとなるのだった。 俺の名前は立花レオン。今は桜連という自動車メーカーの日本法人に派遣社員として入社したばかりだ。桜連は海外本社を持つ大手企業で、その日本法人も規模はかなり大きい。いわゆる外資系で、社内には外国人の幹部社員が在籍していたり、会議や書類が英語メインで進んだりもするらしい。もちろん日本国内向けの販売企画やサービスを担う部署もあり、一口に車の仕事と言っても役割は多岐に渡る。 俺が配属されたのは、海外からの案件と国内営業をつなぐ中間的な部署。どうやらそこでは翻訳や通訳、さらには雑用に近いサポート業務まで求められるようだ。 「それでは立花さん、今日からよろしくお願いしますね。」 人事部の担当者が丁寧に頭を下げながら言った。俺は研修に連れて行かれ、業務についての簡単なオリエンテーションを受けた。部屋の明るさといい、生き生きとした社員たちの雰囲気といい、一見するとホワイト企業という印象を受けるけれど、企業というのは外から見える姿と中身がまるで違うことも珍しくない。 「こちらが海外関連の書類や翻訳を担当するチームになります。立花さんにはこの女性上司、日室マネージャーの指示を仰ぎながら補助業務を覚えていただく予定です。」 人事担当者が俺の隣でそう紹介すると、やや奥まったデスクから鋭い視線を持った女性が立ち上がった。黒髪をコンパクトにまとめた様子は一見スマートだが、その目つきと佇まいにはどこか突き刺すような冷たさがある。 「この部署の中間管理職です。よろしくお願いします。立花と申します。」 深く頭を下げると、日室マネージャーは笑みらしきものを作りながら「あらあら、若いわね。うちは忙しいわよ」と声をかけてきた。その口ぶりには最初からこちらを軽んじるような響きが混ざっている。彼女の目が怪しく光っているのは気のせいではないだろう。 「こちら白崎さん。業務上のサポートを受ける時は彼女に相談してもらって構わないわ。とりあえず、えっと、翻訳の下準備やら資料整理やら雑用が山のようにあるし、あなたも手を動かしてちょうだいね。」 その瞬間、紹介された女性の顔を見て、俺は思わず息を飲んだ。肩にかかる髪とどこか凛とした雰囲気をまとった横顔。少し疲れたようにも見えるが、それでも周囲を引きつける美しさがある。まさかここで再会するなんて思わなかった。白崎——かつて俺が本気で付き合っていた、忘れられない元恋人の名前だ。 「白崎です。よろしくお願いします。」 彼女はかすかに微笑んで一礼する。だがその瞳には驚きと戸惑いが混ざっているように見えた。俺の方も内心では心臓が一つ大きく跳ね上がるのを感じている。高校卒業以来、一度も顔を合わせたことがなかった相手。そんな彼女が今、この会社の社員として俺の目の前にいるなんて。 「こちらこそよろしくお願いします。」 自分が動揺しているのを隠そうと、なんとか笑みを作って答えた。その場を取り繕うように、日室マネージャーが「それじゃあ仕事に移って」と手を叩き、何事もなかったかのように話を切り上げる。周りの社員もすでに業務に集中しているのか、ちらりとこちらを見ただけでそれぞれ席に戻っていった。 俺はふと、皆が細く息を吐き出す様子を見た。表情をぐっと引き締め、デスクの書類を手際よく整理し始める姿は、昔の記憶にある彼女の面影をどこか思い出させる。懸命に頑張ろうとする意思の強さは、あの頃と変わっていないのかもしれない。自分の中に芽生える戸惑いを抱えながら、俺は改めて小さく頭を下げた。彼女もそれに気づいたように、そっと視線を伏せたままかすかに会釈してくれた。 そうして俺と皆の再会は、他の誰からも祝福されることなく、ただ業務という名の喧騒の中で静かに幕を開けたのだった。 それから数日、俺は海外部門の補助的な業務をこなす中で社内の様子を少しずつ掴み始めた。気づいたのは、この部署は仕事量がとにかく膨大だということだ。定時で終わるなど到底無理なほどのタスクが毎日のように舞い込む。しかもどの案件も海外との時差やら契約先との細かいやり取りやらが発生するため、いつまで経っても後が落ち着くだけという状態にならない。特に負担が大きいのが皆だった。日室マネージャーからの指示が彼女に集中しがちな上、他の社員も自分の業務を優先したくて、何かと皆に押し付けているように見える。派遣社員の俺と違って、皆は正社員として責任もあるのだろうが、それにしても明らかに一人では処理しきれない量を背負わされていた。そんな状況は外から見ていてもあまりに理不尽だった。 ある日の夕方、オフィスの隅でうずくまるようにデスクワークを続ける皆にそっと声をかけた。 「大丈夫ですか? すごい量の書類があるみたいですけど。」 「平気です。ありがとうございます。」 彼女は俯きがちにそう返すものの、疲労の色は隠せていなかった。何があったのか聞こうとしたところで、ヒールの鋭い音がデスクに近づく。日室マネージャーだ。 「白崎さん、あなたにはがっかりだわ。こんなに仕事が遅いなんて思わなかった。ほら、この書類。あと1週間後には海外の取引先に提出しないといけないんだから、もう準備はできてるんでしょうね。」 「すみません。まだ一部の翻訳が残っていて。」 「はあ。あと3日で仕上がらなかったら、ここから去ってもらうことになるかもしれないわね。」 さらりと口にされたその言葉に、皆ははっきりと青ざめた表情になった。そんなことを言われて怯えない方が不思議だ。 「そ、それってどういう、どういう意味か、わざわざ説明しないと分からない? あなたの立場と自覚してる? 新人扱いが嫌なら成果で示しなさいよ。もちろん、無理だと思うなら辞めるって選択もあるわ。」 言い放つマネージャーの横顔には、ゾっとするほど冷たい怒りが宿っている。皆は唇を噛んだまま、何も言えなくなってしまったようだった。さすがにこれは見ていられない。もし3日で終わらなかったら首なんて暴言を堂々と吐いているのだから。 その夜、皆だけが残って大量の資料を抱えていた。日室マネージャーの言葉にプレッシャーを受けているのが分かる。誰も手伝ってくれないのか、周囲のデスクはガランとしていて、退社時刻もとっくに過ぎている。 「立花さん。」 あのデスクにかけ寄った俺に気づくと、皆は一瞬手元の書類を隠すように身構えた。まるで日室マネージャーの鋭い視線が今にも飛んできそうだと警戒しているかのようだ。社内では他人の手を借りていると見られるだけでも、あの上司に何を言われるかわからない。そんな不安が皆の仕草に痛いほど現れていた。 「いえ、ちょっと量が多くて、まだ全然片付かなくて、でも大丈夫です。ありがとうございます。」 彼女はそう言いながらもうまく笑顔を作れず、瞬きが増えているのが分かった。明らかに無理をしている。首をちらつかせるような脅しまで受けているのに、誰にも頼れないというのはどれだけ心細いだろう。見ていられなくて、思わず昔の距離感で言葉をかけてしまう。 「一人で抱え込んで倒れたりでもしたらどうするんだ? 大丈夫そうには見えないんだけど。」 「でも、手伝ってもらったらあなたまで目をつけられるかもしれないし。」 「それは気にしなくていい。俺は派遣だし、雑用は仕事のうちさ。なんとかするから、資料を少し渡して。」 そう言うと、皆は困ったように目を伏せたが、思い切ったように分厚いファイルを俺の方へ差し出した。英語の契約書類が山盛りだ。翻訳とまとめ作業がまだ残っているらしく、ざっと見積もっても相当な時間がかかりそうに思える。 「きっと全部仕上げるのにあと何日もかかる。これじゃ3日の期限なんて……」 消え入りそうな声で皆が呟いた。だが俺は書類を一通り斜め読みして容量をざっと掴むと、コピーの隣の開いたスペースに移動してノートパソコンを開いた。 「ちょっと待ってろ。作業の段取りを考えるから。」 皆の戸惑いを背中に感じつつ、まずは契約書の文面をデジタルデータで取り込み、使えそうな翻訳ツールや会社の共有辞書を確認する。次に同系統の契約書の例を素早く検索し、主要な規定や数字部分を抽出、不要部分を切り捨てることで、まずは要約を先に作り、そこをテンプレートにして細部の文言を埋め込んでいく。そうすれば驚くほど時間を短縮できるはずだ。こういった作業には自信があった。似たような契約書と向き合う機会など腐るほどあったから、グダグダ言うよりとにかく手を動かす。 すると最初は不安げだった皆も、俺の手際を目の当たりにして「あの、これも」と少しずつ協力を申し出てくれるようになった。気づけば二人してパソコンと資料に没頭している。ひたすら翻訳し、検証し、誤字脱字をチェックし、次へ進む。時計をふと確認すると、作業を始めてから1時間も経っていない。 「よし、これで一通り、正談に必要な要点は揃ったはずだ。」 体裁を整えて、俺が仕上げたファイルを最終的にPDF化して整合性をチェックする。もちろん細かい修正は後回しにした部分もあるが、3日どころか今日1日で全ての土台が完成してしまいそうだ。 … Read more