幼稚園の迎えの時間、いつもと何も変わらない普通の午後だった。娘の唇が噛みしめられ、目が真っ赤になっているのを見るまでは。「まりんちゃんが、貧乏な家の子供はおもちゃに触っちゃいけないって言ったの」。私は自分の耳を疑った。作業着のまま駆けつけたある母親は、鼻で笑いながらこう言い放った。「貧乏ってね、遊ぼうが何をしようが、選ぶ権利なんてないのよ」。謝るどころか、娘はさらに侮辱され、私はただ立ち尽く…
俺の名前は美木孝太郎。三十代半ばの工場経営者だ。金属加工の専門工場を祖父から引き継いで三代目になった。祖父は息子が継がなかった工場を、俺が興味を示したことで俺に託してくれた。高卒で働き始め、職人として仕込まれ、祖父の引退を見届けた。その後結婚し、四年前には娘も生まれて、穏やかな暮らしを手に入れた。 妻は会社員で、仕事と家庭を生きがいに頑張る人だ。共働きで娘を育て、幼稚園の送り迎えは俺の担当になっている。作業着のまま幼稚園に出入りするのは、仕事の都合でもある。何もかもが決まったように回る毎日だった。 ある日、娘を迎えに行くと、見慣れない女性に声をかけられた。倉科という、娘さんを同じ幼稚園に通わせている母親だった。旦那が大手家電メーカーの部長で、それを自慢の種にしている。古くからの住人を見下すタイプだと、保護者の間でも噂になっている人物だ。 「美木さん、どうも。あなた、昔からこの辺りに住んでるって聞きましたけど」 「ええ、ここで生まれ育ってますから」 倉科さんは俺を頭の先から爪先まで眺めた。作業着のジャンパーを見て、嫌な笑みを浮かべる。 「その服、なんなのかしら?見たことないんだけど。センスのかけらも感じられませんわね」 「ああ、そうですか」 「それに、奥さんと共働きだって?夫婦で働かないといけないなんて、そんな貧乏、大変ね」 出し抜けに嫌みを言われて、いい気分はしない。だが子供たちのいる幼稚園で騒ぎを起こすわけにもいかない。 「あの、失礼します」 挨拶にならない挨拶をして、俺はその場を離れた。倉科さんはそれからしばらく俺に絡んでこなかった。彼女はいつも誰かの輪の中に入って、高飛車に振る舞い、自慢をして周囲を見下していた。俺は距離を置くことにした。 しかし、そうもいかない事態が起きた。 ある日、娘を迎えに行くと、娘が唇を噛みしめて目を真っ赤にしていた。めったに泣かない娘が、泣き出す寸前の顔で立っている。 「どうした?何かあったのか?」 腰を落として目線を合わせると、娘はポツポツと話し始めた。 「まりんちゃんが……おもちゃに触れちゃダメだって」 「まりんちゃんに、何かされたのか?」 「貧乏な家の子供は、おもちゃに触っちゃいけないって。貧乏はおもちゃなんて知らないでしょって……」 倉科さんの娘、まりんちゃんに仲間外れにされたらしい。俺は泣き出してしまった娘をなだめながら、怒りを必死に抑えていた。子供は親を見て育つ。倉科さんの嫌味な部分が、そのまま娘に移っているのだ。 ちょうどそこへ、倉科さんがまりんちゃんのお迎えにやってきた。俺は思い切って話しかけた。 「倉科さん、いいですか?まりんちゃんがうちの娘を仲間外れにして、『貧乏な子供はおもちゃで遊ぶな』と言ったそうなんです。まりんちゃんに確認してもらえますか?」 倉科さんは小さく鼻で笑った。 「あのね、そんなこと、どうしてしないといけないの?」 「大事なことでしょ?」 「何が大事なの?まりんが言ったことなんて、本当のことじゃない?」 倉科さんは俺に笑いかけて首を振った。 「あなたとあなたの奥さんと、あなたの娘さんは貧乏。貧乏ってね、遊ぼうが何をしようが、選ぶ権利なんてないのよ。そうでしょ?」 謝るそぶりすら見せない。それどころか、娘に何があったのか聞こうともしない。怒りよりも先に、呆れが湧いてきた。 「倉科さん、あなた本気で言ってますか?」 「そうよ。本気で言ったでしょ?まりんも本当のことを言っただけなの」 「そういうことじゃないでしょう。あの娘さんがどうしてそんなことを言うのか、考えたりしないんですか?」 「まりんは賢いの。教育にお金かけてるから」 俺の反論を遮るように、倉科さんは声を張り上げた。 「あなた、本当のこと言われて、そんなに怒ることないんじゃない?その汚い格好、工場の社長だなんて、ただゴミを作ってるだけなんじゃないの?うちの主人とは大違いね」 倉科さんの高笑いが響き、周りの保護者が俺たちの方を見た。俺はどうなってもいい。覚悟を決めて口を開こうとした。 そのとき、娘が前に飛び出した。 「違う!パパのお仕事はゴミじゃない!違うもん!」 涙ながらに倉科さんに言い返す。 「違う!パパのお仕事は工場なの!」 「生意気ね」 倉科さんは娘を鼻で笑い、その方に手を伸ばそうとした。俺はとっさに娘を自分のそばに引き寄せて隠した。 「親も親なら、娘も娘ね。口だけは達者で手に負えないわ」 倉科さんは俺の背後の娘に暴言をぶつけると、笑顔のまままりんちゃんを迎えに行き、何事もなかったかのように幼稚園を出ていった。 俺は娘を慰めながら、倉科さん親子の後ろ姿を目で追い続けた。自分が侮辱されるのは我慢できる。だが娘を侮辱されて、なりふり構っている場合ではない。誰がどうなろうと、それでも娘と妻に迷惑をかけずに打てる最高の手を、次の行動だけを考えていた。 翌日、俺の工場に客が訪れた。 「美木さん、すみません。すっかりご無沙汰してしまって」 倉科さんの夫、倉科部長だった。有名大手家電メーカーの経営企画系統部門の部長だ。実は俺の工場では、長年そのメーカーの製品の主要部品を製造し納入している。祖父の頃からの取引で、俺も代々の担当者と付き合いがあり、倉科部長ともその流れで知り合った。このことは、倉科さんの奥さんにも、他の誰にも話したことはない。 「いや、お忙しいでしょうから」 「今日は、改めて契約更新についてお話をさせていただきます」 祖父の頃から数えて何度目かの契約更新。今までは緊張感もなく行ってきたが、今回は違う。 「倉科部長、一つよろしいですか?」 「はい」 「以前、倉科部長のお嬢さんが、私の娘と同じ幼稚園に通っていると聞きまして」 「ああ、ええ、そうなんですよ」 … Read more