「お仕事をやめさせてもらえないでしょうか?」…
「お仕事をやめさせてもらえないでしょうか?」 その言葉を聞いた瞬間、俺は何も言えなくなった。まさか正美さんからそんな言葉を聞くことになるなんて、夢にも思っていなかったからだ。 俺は無藤年也。33歳で、地元で有名な焼肉店の店主をやっている。元々は両親が営んでいた店で、3年前に父が亡くなってから俺が継いだ。ホテルのレストランでシェフ見習いをしていたが、地元の人たちに懇願され、母一人に店を任せるのも気が引けて、シェフの道を諦めてこの店を継ぐことにした。 実際に働いてみると、焼肉屋の仕事は思っていた以上に面白かった。お客さんと話すのは楽しいし、新しいメニューを開発するのもやりがいがある。常連客に試作品を食べてもらうのも楽しみの一つだ。両親のレシピを再現できるように日々練習し、食材を仕入れるために農家を訪ねるのも楽しかった。レストランで働いていた時よりも、今の方がずっと充実していた。 母は今ではほとんど店に立たないが、たまに来ては俺の作る料理にアドバイスをくれる。 「とや、これちょっとお父さんの味と違うわね。塩が違う気がする。」 「え、塩?父さんって塩にまでこだわってたの?」 「当然でしょう。料理には塩が一番大事って言ってたくらいなのよ。」 両親はとても仲のいい夫婦だった。母にとってこの店は父との思い出が詰まっている場所だ。だから母が店に立たなくなったのは、店にいると父がいなくて寂しいからなんだと思う。俺も極力母に手伝いを頼まないようにしていた。 「母さん、膝が痛いんでしょ?店は俺一人で大丈夫だから休んでて。」 「うーん。でも家に一人でいてもなんだか静かでね。」 家は古くて広く、二人で住むには広すぎる。幼い頃、暗い部屋の前を通るのが怖かったのを今でも覚えている。 「幽霊とか出ないから大丈夫だよ。」 「そういうことじゃなくて、寂しいから嫌なのよ。」 母はそう言ってため息をついた。 そんなある日、友人が店に食べに来てくれた。 「相変わらず混んでんな。休みとかあるのか?」 「正直あんまり休みはないかな。まあでも他にやることもないしさ。」 「お前そんなこと言ってるからずっと彼女ができないんだよ。本当そうだぞ。」 「ああ、そういえば隣町に新しい焼肉屋ができて、無料券を配ってたんだけど、今度みんなで行かないか。」 「え、焼肉屋ならうちでいいだろう。」 「でもたまにはいいじゃねえか。ここはちゃんと金を取るだろう。」 「当たり前じゃねえか。でも割引してるんだから感謝しろよな。」 「まあまあ、落ち着けよう。ライバル店の偵察ってことで今度行ってみようよ。」 彼らは俺が休みなしで働いているのを心配して誘ってくれたのだろう。自分の店で飲み会を開いても結局は俺が働くことになってしまう。友人の優しさに胸が熱くなった。ただ、彼らの休みは土日で、週末に店を閉めるわけにはいかない。 「気持ちは嬉しいけど、俺はちょっと…」 「たまには行ってきなさいよ。その日は私が店にいるから。」 「いや、でも母さん一人じゃ…」 「大丈夫よ。もしお客さんが増えすぎちゃったら連絡するし。」 母まで気を使ってそう言ってくれたので、俺は父が亡くなって初めて店を母に任せ、友人たちと新しい焼肉屋に行くことになった。 乾杯。たまにはこうして友人とワイワイするのもいいものだと思った。 「ここあんまりうまくないな。」 「おいおい、やめとけよ。」 「年也の店の方が何十倍もうまいよな。」 確かに肉は薄く感じるし、油も良いものではない。ただ、メニューを見るからにこの店は安さが売りのようだから、ある程度は仕方がないだろう。 「まあ、ただだからいいじゃねえか。」 「まあそうだな。無料券使えるの今日までだし、仕方ねえか。」 「俺は久しぶりにみんなと飲めるだけで十分なんだから。ありがとうな。」 「なんだそれ?お前らしくないな。気持ち悪いぞ。」 そして俺たちは食事をしながら互いの近況を報告し合った。 「いやあ、食った食った。じゃあそろそろ帰るか。」 会計をするためにレジに向かうと、入り口付近で親子が店員と揉めているのを発見した。 「ああ、こちらは期限が切れてますね。」 「そ、そんな…」 俺はその親子に釘付けになった。着ている服がボロボロだったからだ。 「すみませんが、なんとかなりませんか?」 「だめだよ。あなただけ特別扱いできないでしょ。そもそも無料券を配る理由って分かってます?」 「え?どういうことですか?」 「無料で客を呼んで、またうちの店に来てもらうためなんだよ。」 店員はその女性を上から下までなめ回すように見ると、鼻で笑った。 「あんたたちがまたうちに来るとは思えないんだよなあ。」 「また必ず来ます。お金ができたら必ず来ますから。今日だけでもなんとか…」 必死に説得しようとする母親の足元では、双子が心配そうに母親を見つめていた。すると俺は双子の一人と目が合ってしまった。どうやら俺に助けを求めているようだ。 「わかりました。」 母親は食事するのを諦めて、子供たちを連れて店から出ようとした。俺は見かねてその親子に声をかけた。 … Read more