新しく来た部長に「中卒か」と初日から見下され、毎日「お前の学歴でよく生きてこれたな」と笑われていた。我慢の限界だったある日、部長は社長と役員の前で「彼の特技は英語です」とニヤニヤしながら言い放った。英語ができない俺を晒し者にする気だ。でも、部長は知らない。俺がアメリカの大学を出ていることを。俺は一歩前に出て、英語で話し始めた。部長の顔が青ざめていく。 コメントで続きを読んで。

「君が移動してきた中卒か。」 新しい部長に挨拶をした瞬間、そんな言葉を浴びせられた。どうして君みたいな中卒がここにいるのか分からんが、しっかり働くように、と。頭には来たが、俺は「はい」と短く答えて自分のデスクに戻った。 俺の名前は間田勇気。35歳の会社員だ。妻と1歳の娘の3人暮らしで、娘が可愛くて仕方がない。妻と出会ってから、俺は幸せを感じている。だが、子供の頃はそれなりに苦労してきた。 中学生の時に両親を事故で失った。父方の祖父母は俺が生まれる前に亡くなっていて、母方は祖母の体が弱く入退院を繰り返していて、祖父が面倒を見ているので、俺を引き取る余裕なんてなかった。一時は親戚をたらい回しにされたが、中学3年の頃、母の弟である叔父から連絡があった。海外で仕事をしている叔父が一時帰国するという。叔父は海外に行く前は頻繁に会っていて、父とも仲が良く、俺にもよくしてくれていた。そんな叔父が「俺を引き取る準備ができたから、遅くなってごめん。俺のところで生活すればいいよ」と言ってくれた。親戚の家で肩身の狭い思いをしていた俺は、すぐに頷いた。 しかし、俺を引き取ってくれていた親戚はそれを良しとしなかった。親戚のところには俺の両親の保険金や遺産が預けられていたらしい。俺がいなくなると、そのお金が使えなくなるから困るというわけだ。そこから親戚と叔父の間で揉め、叔父は「じゃあ、勇気のことを厄介扱いしないでください。服装や持ち物も、勇気の欲しいものを与えてやってください。世間体やお金のために勇気を利用するな」と言った。ようやく親戚は諦めたという。結局、俺は中学卒業と同時に叔父のところに行った。 そんな過去があったが、人に話して面白いものでもないので、俺の生い立ちを知る人はあまりいない。俺は2年前に今の会社に来た。知り合いに声をかけてもらって転職したのだ。その後、娘も生まれた。仕事もうまくいっていたし、苦労してきた分報われたと思う。 しかし、数ヶ月前に部長が変わった。それから部署の雰囲気は悪くなる。部長は名門大学を卒業しているらしく、エリートだ。「この中でまともな学歴はほとんどいないなあ」と部署内を見回していったことは記憶に新しい。しかも、どこで聞いたのか俺に向かって「お前、中卒らしいなあ。そんな学歴で今までどうやって生きてきたんだよ。せいぜい俺の出世の足を引っ張るなよ」と言ってきた。 そう言われても、俺は真面目に生きてきたし、俺の人生をとやかく言われる筋合いはない。反論するのも馬鹿らしくて、俺は「はい」と返事をする。それ以来、部長は機会があるごとに俺を中卒だと見下してくるのだ。 部長があまりに俺を中卒だと連呼するので、部長の取り巻き連中も俺を見下すようになった。そんな様子を見て、同僚の神川がこそこそと声をかけてきた。 「おい、いいのかよ、お前の学歴って。」 俺は神川の言葉を遮る。「はあ、いいんだよ。何言っても無駄だろ。」 そう言うと、神川は腑に落ちない顔をした。実は理由があって、俺の最終学歴は口止めしてある。仲のいい同僚や人事部、社長など知っている人はいるが、今のところそれ以外には広まっていない。 この会社では高学歴で出世している人もたくさんいる。まあ、そんなのはどこの会社もそうだろう。世間的には名門大学卒だとエリートだ。部長もその1人で出世コースのようだ。そのことに異論はないが、だからと言って人の学歴を見下してくるのはどうなのか。 部長に言い返してやりたい気持ちはあるが、それなら俺は仕事で見返したいと思った。ちょうど大きな案件を抱えているし、これを成功させれば部長だって少しは俺のことを認めるだろう。そういう仕事をしていけば、いつか部長も分かってくれる。俺はそう思い、一層仕事に力を入れた。 それから半月後、部長が「明日、社長と役員が視察に来ることになった。面倒だがしょうがない。お前らちゃんと仕事しろよ」と言った。視察の詳しい目的は分からないが、今までも役員が突然視察にやってきたことは何度かある。部長はこの視察を面倒な行事だと捉えているようだ。「ああ、面倒だなあ。視察だなんて。何しに来るんだよ。」部長は1日中ぐちぐち言っている。周りの社員の中には「まあまあ、そう言わずに」と部長の肩を持つエリート組もいるが、大半は部長を白い目で見ていた。 すると、俺を見て部長が突然「ああ、そうだ。面白いことを思いついた」と言い、それからニヤニヤと上機嫌になった。何を企んでいるのだろうか。 翌日、出社するとすぐに社長と役員が来て、部署内の空気は張り詰める。挨拶の時間になり、部長が挨拶を始めると、「うちには面白い人材がいるんです」と話し始めた。社長は「おお」と言って部長の話に前のめりだ。部長が何を言うのかと思ったら、「この部署に中卒の社員がいてですね。まあ、学歴なんて関係なく優秀だからここにいるんですよね」と俺を見てニヤニヤし出す。俺のことを言っているのか?部長が俺のことを優秀だというなんて、裏があるのだろう。 社長と役員は部長の行動を監視するように見ていた。部長は俺に前に来るよう指示して、「間田君と言うんですけど、中卒なんですよ。私なら恥ずかしくって言えませんが、彼は中卒だと知られても堂々としている。それから、彼の特技は英語なんです」と言い出した。 俺は昨日の部長のニヤニヤとした顔を思い出し、こういうことだったのかと理解する。きっとこの後、英語で話をしろとか言ってくるのだろう。俺は部長に英語が得意だなんて言ったことはない。多分部長は、中卒だし、俺は英語ができないと思っているはずだ。そこで英語のできない俺をさらし上げて笑い物にする気なのだ。 俺の予想通り、部長はニヤニヤと笑いながら「さ、視察にいらっしゃった社長と役員方にご挨拶しなさい。もちろん君の得意な英語でだ」と言った。 散々中卒だと馬鹿にしてきて、まだこんな落とし入れるような真似をするのか。そう思うと、今まで流してきた怒りが爆発した。社長に直接話せる機会なんてほとんどない。むしろいい機会だ。俺は部長に向かって「部長って英語できるんでしたっけ?」と言うと、部長は「当然だ。私を誰だと思っているんだ?名門大卒なのだから、英語くらいできて当然だよ」と答える。適当な英語ではごまかせないぞと念を押された気がした。そもそも部長は、俺には英語なんて話せないと思っているのだろう。 「分かりました。」 俺がそう言うと、社長や役員の視線が俺に集まる。俺は一歩前に出て話し始めた。その瞬間、部長は目を見開いて信じられないという顔で俺を見る。役員は頷きながら社長に耳打ちをし、社長の顔はだんだん厳しくなった。 「あ、おい、何を言っているんだ」と部長は俺を止めにかかったが、俺は止まらない。そして俺は英語で部長の悪態をぺらぺらと話し、今までの行いを暴いたのだ。 他の社員は「えっ」と言いながら隣の社員と耳打ちをしたり、俺をじっと見たり、反応は様々だ。部長は俺の言っていることを少しは理解しているらしく、少なくとも部長を褒めているわけではないと悟り、慌てている。社長に耳打ちをしている役員は、俺が話している内容を社長に通訳しているのだろう。 全て話し終わると、俺は一礼をする。次に口を開いたのは社長だった。「今の話、本当かね。」部長に向かってそう言うが、部長は俺の話を全て理解していないので「あ、ああ。いえ、その…」とどもる。 俺は部長に向かって「僕の挨拶、どうでしたか?部長は全て理解していただいたんですよね。」と言うと、部長は俺を睨みつけた。「お前、英語ができたのか?」 俺は笑って言った。「アメリカで生活していましたからね。僕はアメリカの大学を出ていますし、妻もアメリカ人です。会社ではほとんど使っていませんが、アメリカ人の友人も多いので英語はよく使うんですよ。」 社員の間でどよめきが起こる。驚いて声を出せずにいる部長に、俺はもう一言。「僕がこの会社に転職してきたのは、そちらにいらっしゃる真辺さんに誘われたからなんですよ。」そう言って、役員である真辺さんに視線を移す。先ほど社長に通訳をしていたのはこの真辺さんだ。部長は「え」と声をあげた。 真辺さんは頷いて「私の妻もアメリカ人でね。妻と間田君の奥様がアメリカ人のコミュニティクラブで知り合って、そこからずっと仲がいいんだ。妻から間田君の話を聞いた時、我が社で力を発揮してくれると思ってアプローチしたんだよ」と笑う。そこで社長が「彼が真辺君一押しの社員だったか。アメリカの名門大学を出ているんだろ。ここにいる誰よりもエリートだな」と豪快に笑った。 部長はうろたえて「はあ?アメリカの名門大学?どういうことだ?だってお前は中卒じゃ…」と言う。自分の生い立ちを話すのはあまり好きではないが、俺は手短に「幼い頃両親が事故で亡くなりまして、中学までは親戚のところで面倒を見てもらっていましたが、所詮は場でアメリカで仕事をしていた叔父に引き取られたんです。だから向こうで勉強して大学を卒業しました。その頃叔父が帰国することになったので、俺も一緒に日本に帰国しました」と話す。 そこで真辺さんが笑って言った。「それで当時友人だった奥さんが間田君を追いかけて来日したんだろう。羨ましいな。」その言葉で車内は一瞬和やかな空気に包まれる。しかし部長だけは俺を睨みつけていた。 社長は部長に向き直り、「それで、今の話は本当なのか」と言う。「え、あの、何のことで…」とうろたえる部長。そこで真辺さんが口を挟んだ。「間田君が話した内容は理解しているよな。」厳しい口調に部長は青ざめる。俺はそこで「部長は名門大卒で英語ができるのは当然なんですよね。部長は全て理解していると思いますが、僕が今話したのは、部長はよく俺のことを中卒だと馬鹿にしてきたこと。他の社員のことも見下したり馬鹿にしたりしていること。それと昨日はこの視察を面倒だと周りにぐちぐち言っていたという内容です」と言うと、他の社員も「うんうん」と頷いた。 俺は続ける。「僕の日本での学歴は中卒ですから、わざわざ訂正しようとは思いませんでした。それに、学歴だけで優劣をつける人は嫌いなので、アメリカの大学を卒業しているというのも伝えなかっただけです。」 部長は口ごもっている。社長は「そうか」と言って頷いた。俺は社長と目があったので、思い切って口を開く。「僕は学歴よりも仕事ぶりで評価して欲しいです。だからきちんと仕事をして成果を出せば、部長も認めてくれると思っています。今はまだ部長から見下されていますが、僕は必ず仕事で見返したいと思います。」 これは俺の決意だ。次の瞬間、拍手が湧き起こる。真辺さんは「さすが俺が見込んだだけのことはあるな」と笑った。そして社長が部長に向かって「君は学歴でしか判断できないらしいが、人間に部長なんて勤まるのか?社内で君の悪い噂が聞こえてきているので、今日はそれも含めた視察なんだ」と言う。部長の顔はどんどん青ざめていく。真辺さんはそれを無視して「では、仕事を始めてください」と言った。 部長は目に見えてイライラしている。社長の目もあるので表だって何かを言ってくることはないが、俺のデスクの後ろを通る時にわざと俺にぶつかってくるし、小声で嫌みを言ってくる。やることが小学生以下だ。 「お前、余計なことをしてくれたな。」そう後ろから刺されたので、思わず振り返り「僕が英語を話せるわけがないと思って、わざわざ英語で挨拶しろなんて言ってきたんですよね。自分のことを棚にあげて何なんですか?部下に恥をかかせて、それが自分の恥になると思わないんですか?」と言ってしまった。社長の視線がこちらに向いたので、部長は慌ててその場を去っていく。 その瞬間、俺宛ての着信があると言われ、電話に出た。「はい、ありがとうございます。」俺は先方の言葉に勢いよく返事をする。そして電話を切り、喜びを顔に表した。 「間田君、もしかして…」隣の席の神川に声をかけられたので、俺は勢いよく頷いた。受け持っていた大きな案件が無事に決まったのだ。 すぐに部長に報告しようとすると、部長の姿がない。きょろきょろしていると、真辺さんに声をかけられたので、俺は案件が決まったことを報告する。「すごいじゃないか。快挙だよ。」真辺さんも喜んでくれて、すぐに社長まで話が行った。すると真辺さんが社長に「あの案件、彼を中心に任せてみてはいかがでしょう」と言う。俺は何のことか分からず首をかしげたが、社長は「ああ、そうだな」と言って頷いた。 部長はタバコでも吸いに行っていたのだろう、俺が社長と話しているところに部長が戻ってきたので、俺は部長に案件が成功したという報告をした。「ああ、よくやった」と口では言っているものの、部長は青筋を立てている。社長はそれに気づいていないようで、「間田君に任せたい仕事がある」と言い出した。とある外資系企業とのプロジェクトで、もちろん英語が必須になるし、責任者がいなくて悩んでいたという。そこで俺に白羽の矢が立ったそうだ。真辺さんが「本来なら部長に任せようと考えていましたが、ここ数時間見させてもらっただけでも部長は適任とは思えなかったので、とりやめました」と言う。 部長は悔しそうに唇を噛んだ。俺は「はは、はい、是非やらせてください」と返事をし、部長に向かって「部長の出世の足を引っ張らないように頑張ります」と言った。すると周りから笑いが起こる。俺は社長と真辺さんに向かって「いつも僕は中卒だからと、部長に出世の足を引っ張るなと言われていたもので」と言うと、部長は俺を睨みつけるが、言い返すことはできないようだ。 その後、社長らが視察を終えて帰ると、俺は部長に呼び出される。嫌な予感しかしなかったので、俺は隣の席の神川に部長から呼び出されたことを話し、指定された会議室に向かった。案の定、部長は俺に向かって「ふざけるな。お前のせいで俺は面目丸つぶれだ。今からでも遅くない。あの真辺とかいう役員に連絡して、俺の鉱石を伝えろ」と言ってくる。「鉱石って何ですか?名門大卒の部下しかいないということですか?学歴で部下にランク付けをしていることですか?それとも自分の仕事を部下に押し付けて、いい評価を自分のものにしていることですか?」俺は腹が立っていたので、言いたいことを言ってやった。 部長は「うるさい。アメリカの名門大卒なんて、証拠もないのにどうとでも言えるだろう。アメリカの女はお前みたいな中卒が好みなのか。どうせお前の嫁なんて、大したことないやつなんだろう」と言ってきた。俺は手を出しそうになる衝動を抑えて口を開く。「妻は素晴らしい人だ。部長に何が分かるんですか?会ったこともない人に対して、よくそんなことが言えますね。部長こそ名門大学卒なんて信じられません。確かに学力はあったのかもしれませんけど。それ以外の人間性、社交性、一般常識、どれを取っても小学生以下じゃないですか?」 そこまで言うと、部長は俺に掴みかかってきた。その時、会議室のドアが開く。「そこまでですよ。部長の暴言は全て録画させてもらいました。明らかにパワハですよね。」スマホを構えながら入ってきたのは神川だ。部長は俺を突き離し、「お前ら覚えとけよ」と吐き捨てて出ていった。 その後、俺は真辺さんに相談し、神川が抑えてくれた部長のパワハの証拠を渡した。部長は降格。しかも降格した途端、今まで部長についていたエリート社員たちは手のひらを返した。「降格した人に興味なんてありません」と言われている現場を見てしまい、俺は思わず笑いをこらえきれなかった。 元部長は、今まで見下していた平社員に降格の視線に耐えられなかったようで、いつの間にか退職したそうだ。俺は新しいプロジェクトを任されて充実している。妻も喜んでくれているし、妻と娘の笑顔にいつも癒されている。真辺さんと神川にも感謝だ。

13 September 2026

雪の峠でバスが横転し、中学生が30人閉じ込められた。現場に駆けつけたのは、村の便利屋の俺。7年前に全てを捨てて流れ着いたこの村で、誰にも過去を明かさずに生きてきた。だが、バスの中で息をしていない少年を見た瞬間、止まっていた時計の針が動き出した。俺が心臓マッサージを始めると、若い女医が叫んだ。「あなたは一般人でしょう!下がって!」その時、俺は言った。「ここから先は俺が行く。俺に任せてくれ」彼女…

雪が音もなく降り積もる。俺はスコップで屋根の雪を崩していた。長野の山奥、戸数四十ほどの集落。冬になれば道は凍り、夜は獣の声だけが響く。ここで俺は便利屋をやっている。雪下ろし、薪割り、屋根の修理、買い物の代行。報酬は米だったり漬物だったり現金だったりする。それで十分だ。 スコップを止めて息を吐くと、白い息が朝の空気に溶けた。ポケットに手を入れると、いつものように冷たい金属が指先に触れた。腕時計だ。革のベルトは古び、文字盤のガラスには小さな傷が走っている。針は午前3時17分を指したまま動かない。もう7年、この時刻のまま止まっている。時計をポケットに戻し、再びスコップを握った。 俺の名前は田司。45歳、独り身。かつて都内の大学病院で救命救急をしていた。今は便利屋だ。7年前に全てを捨ててこの村に流れ着いた。誰も俺の過去を知らない。それでよかった。人と深く関わらないこと。それがこの村での俺のルールだった。 「田さん、まだやってくれてんのかい」 道の向こうからしわがれた声が飛んできた。矢主のあさんが玄関の戸を開けて顔を出している。 「あと屋根の半分だけやらせてもらいます。昼までには終わりますよ」 「悪いね。お茶入れとくから、終わったら寄っとくれ」 俺は軽く手を上げて応じた。 その日の午後、俺は集落の外れにある診療所に向かっていた。村に一つだけの医療機関だ。裏手の物置小屋の屋根が雪の重みで傾いている。直してくれと自治会から頼まれていた。玄関に「柏木診療所」と炭で書かれた看板が下がっている。俺は裏手に回り、はしごをかけて屋根に登った。 作業が半分を過ぎた頃、診療所の裏口が開いた。白衣の女が急ぎ足で出てくる。首から聴診器を下げ、片手にカルテを持っていた。 「すみません。田さんですよね。少しだけ手を止めていただけますか?」 俺ははしごを降りた。近くで見ると思ったより若い。30前後だろう。 「私、ここの医者の柏木はるかです。物置の鍵、開けっぱなしになっていたみたいですみません」 「いえ、こちらこそ勝手に上がってしまって。柏木先生ですか?」 「ええ、柏木はるかと言います。父の代からこの村でやっています」 ふと待合室の窓越しに患者の姿が見えた。男性が3人、長椅子に並んで座っている。その誰もが咳をしていた。 「先生、お1人でやっておられるんですか?」 「上金は私だけです。週に2日、町から内科の先生が来てくれますが、それ以外は……」 それだけ言って、彼女は口元に苦い笑みを浮かべた。言いたいことは分かった。冬の村は医者1人では到底回らない。インフルエンザ、肺炎、転倒、どれも一刻を争う。俺はそれを毎日見ていた人間だ。 「無理はしないようにしてください」 「そう言っていただけると助かります」 彼女は軽く頭を下げ、診療所の中に戻っていった。白衣の背中が扉の向こうに消える。 その夜、俺は集落の集会所に呼ばれていた。冬場の見回り当番の打ち合わせだった。ストーブの上でやかんが鳴り、男たちが車座になって茶をすっている。自治会長の長峰が神座で字を描いていた。日に焼けた顔に白いものが混じった。この村の顔で、誰よりも声が大きい。 「田さん、来年で5年目になるんだよな。ここに来て」 「ええ、そのくらいになります」 「早いもんだ。最初はあんた何しに来たんだか、誰も分からんかったがな」 笑い声が起きた。俺は曖昧に笑い返した。 打ち合わせが終わり、男たちが1人、また1人と帰っていく。最後に長峰が湯のみを置いて、こちらをじっと見た。 「田さん、あんた昔医者だったんだってな」 ストーブの炎がちろりと揺れた。誰から聞いたのか、聞き返す気にもならなかった。こういう村だ。噂は雪解けのように染み込んでいく。 「昔の話です。今は何でもありません」 「うーん。そうかい」 長峰はそれ以上聞かなかった。否定も肯定もしない俺の答えを、彼なりに受け取ったのだろう。集会所を出ると雪はやんでいた。俺は誰もいない夜道を1人で歩いた。 家に戻り、ストーブの前であぐらをかく。ポケットから止まった腕時計を取り出した。文字盤の3時17分をじっと見つめる。7年前のあの夜のことが、頭の奥でゆっくりと動き出す。 雪の高速道路で多重事故があった。運ばれてきた患者は12人。俺と後輩の最草の2人で初動を回していた。最草は28歳。真面目でまっすぐで、俺を「田先生」と呼んで慕ってくれた男だった。最も重症だったのは若い母親。彼女は妊娠していた。俺は彼女を助けた。最草に「先生の判断を信じます」とだけ言われたのを覚えている。細かいことはもう思い出せない。 明け方の3時17分、最草が別の患者の処置中に倒れた。彼の左腕にはこの腕時計があった。病院に着いた時、すでになくなっていた。そして針はもう動かなくなっていた。 俺は後輩を救えなかった。彼に過剰な負担をかけた。そう信じてきた。その日から俺は白衣を脱いだ。時計の針は止まったまま。ストーブの炎が低く唸った。俺は時計を握りしめ、目を閉じる。俺は便利屋だ。それ以上のものになる資格はもうない。時計をポケットの奥に押し込んだ。 その朝、俺は薪を割っていた。斧を振り下ろすたびに乾いた音が谷に跳ね返る。冬の終わりの、奇妙に静かな朝だった。 軽トラのクラクションがその静けさを破った。集落の細い道を、自治会長の長峰が急ぎ足で走ってくる。窓を開けるなり彼は叫んだ。 「田さん、すまん、軽トラ貸してくれ。剣道でバスがやられた」 「バスと言うと観光バスですか? 乗客はどのくらいですか?」 「修学旅行の帰りらしい。中学生だ。30人は乗ってる。横向きにひっくり返りかけて、ガードレールに食い込んだままだそうだ」 俺は斧を放り出し、軽トラの助手席に飛び乗った。車は雪解けで濡れた山道を跳ねるように走った。頭の中で勝手に手順が動き始めていた。大量出血、低体温、二次災害。忘れたつもりでいたものが、指の先まで蘇ってくる。俺は窓の外を睨みながら奥歯を噛んだ。 現場は国道から村に入る峠の中ほどだった。大型の観光バスが車体を45度ほど傾けて、崖側のガードレールにのしかかっている。ガードレールは曲がり、その下は数十メートルの谷だった。バスを支えているのは、半分曲がった鉄骨だけ。すでに何人かの村人が集まり、車体の周りでうろたえていた。窓ガラスが砕け、子供たちの泣き声が漏れ聞こえる。山道の上の斜面からパラパラと小石が落ちていた。雪解けで地盤が緩んでいる。落石が始まれば、大きな岩が来るのも時間の問題だった。 運転手らしい中年の男が車外で頭を抱えてしゃがみ込んでいた。顔は雪のように白く、唇が震えている。俺は彼の肩を掴んだ。 「あんた、運転手さんか? 名前を教えてくれ」 「大田桐り誠です。すみません、すみません」 「謝るのは後だ。今生きているこの数を数える方が先だ。乗客は何人? 意識のある子は何人? 動ける子は何人? それだけ思い出せ」 大田桐の目にわずかに光が戻った。役割を与えられると気が戻る。昔、現場で叩き込まれたことだった。 サイレンが谷の向こうから細く聞こえてきた。ほどなく白いワゴン車が現場に滑り込んできた。柏木診療所の車だった。降りてきたのは柏木はるかだった。白衣の上にダウンを羽織り、肩に救急バッグを担いでいる。 … Read more

13 September 2026

弟の結婚式で、私の席だけがなかった。義母は「あなたの席はないから帰ってください」と笑顔で言い放ち、夫の腕を掴んで「旦那さんは出席してくださいね」と付け加えた。私は頭が真っ白になり、家族も言葉を失った。なぜ私だけが外されたのか。義母は昔モデルになりたかったらしく、私に嫉妬していたらしい。でも、それだけでは終わらなかった。家族会議で、義母と義妹は私を「見下している」と逆ギレしてきた。その時、静か…

私の名前はまどか、38歳。今から話すのは、可愛い弟の結婚式で起きた出来事と、その結末です。 私には3つ下の弟がいる。名前はケント。小さい頃から何をするにも私の後ろに隠れていて、照れ屋でおとなしい子だった。自分の意見を言うこともほとんどない。でも、とても心の優しい子だ。 今日はそんな弟の結婚式。最近はずっと雨だったのに、今日は快晴。私はこの日をすごく楽しみにしていた。デパートで買ったドレスを着て、ヘアセットを始める。準備が完了し、夫と結婚式場へ向かった。 弟とは頻繁に会っていたけれど、彼女がいたことは知らなかった。結婚すると言い出した時は、家族全員が驚いた。お嫁さんとの出会いは職場。弟は不動産関係の会社で働いている。2年前にお嫁さんが入社してきたそうだ。仕事中に話すことはあまりなかったようだが、たまたま帰りの電車が一緒になったのがきっかけ。そこからお嫁さんから積極的なアプローチを受けて交際に発展。結婚することになったのも逆プロポーズだったとか。いわゆる肉食女子で、私とは真逆だ。 結婚の決め手は何だったのかと私が質問すると、 「俺と違って自分の感情を全面に出すからかな。それを見てると、なぜか俺がすっきりするんだよな」 と一言。自分の性格とは正反対の相手に惹かれるとも言われているし、自分にないものを持っている人を好きになる気持ちも分かるような気がした。 そんな私も結婚しており、現在5年目。子供はまだいないが、そろそろかなと夫とは話している。実は夫の仕事はモデル。テレビにもよく出ていて、知らない人はいないだろう。身長も高く、顔立ちも整っている。今でも見惚れるくらいだ。 そんな私も雑誌のモデルをしている。モデルと言ってもテレビに出るわけではなく、雑誌がメイン。親譲りのスタイルを生かして、高校生の時からモデルをしているのだ。学生時代は周りの女の子より身長が大きいだけで「お化けみたいだな」と男子にからかわれ、ずっとコンプレックスだった。だが、弟の一言で救われたのだ。 「姉貴はスタイルがいいんだから、それを生かすべきだよ」 そう言われて、私の考え方は180度変わった。これ以上身長が高くならないようにとずっとヒールは避けていたのだが、挑戦してみることに。そのサンダルを履いて出かけた時にスカウトされたのがきっかけで、私は今もモデルを続けている。だから今の私があるのは全て弟のおかげなのだ。本当に弟には感謝してもしきれない。 夫との出会いは雑誌の撮影で一緒になったのが始まりだった。最初は話すことはなかったのだが、仕事をする機会が増えていき、食事をすることも多くなった。徐々に親密になって交際することに。付き合い始めて2年が過ぎた頃にプロポーズされ、結婚した。夫は少し不愛想ではあるが、本当はとても優しい人だ。 そんな夫と弟の結婚式に出席したのだが、そこで事件は起きた。 私たちが親族席へ向かうと、夫の席は準備されていたが、私の席だけが見つからない。 「なんでないの?何かの手違いかな?」 と家族で困惑していると、そこへお嫁さんのお母さんがやってきて、私にこう言い放った。 「あら、まどかさん来てたの?えっと、今日招待してたかしら?見れば分かると思うけど、あなたの席はないから、今日は帰ってくださる」 「え?はい」 私は予想外の出来事に頭が真っ白になり、状況を把握するまでに時間がかかった。そして開いた口が塞がらない。家族も同じく固まっている。 「これはどういうことですか?」と夫が聞くと、 「あら、旦那さん、初めまして。旦那さんは出席してくださいね。一緒に写真も撮りたいですし、みんなに自慢したいもの。実物もやっぱりイケメンね」 と言いながら、夫の腕を掴んでいた。 「おい、ふざけるな」 夫はお母さんの手を振りほどく。 「今日は弟さんの結婚式よ。一緒にたくさんお祝いしましょうね」 と、また夫にくっつくお母さん。 「いえ、結構です。もう帰るので」 そう言って夫は私の手を引き、そのまま結婚式場を出た。慌ててお父さんとお母さんも追いかけてきて、「私たちも一緒に帰るわよ」と言ってくれたのだが、それはケントが悲しむから、2人は出席してあげてと私は言った。 「ちょっと、旦那さんは結婚式に参加してくれるでしょう?帰らないで」 とお母さんは叫んでいたけど、夫はもちろん無視だ。それでも追いかけてきて、また夫は手を引っ張られそうになっていたが、「気色悪い、触るな」と睨みつけていた。その威圧感に負けて、お母さんはひるんで諦めた様子、とぼとぼ戻っていった。夫の大声に周りはざわつき始めたが、そのまま結婚式は始まり、無事に終了した。 この騒動はもちろん弟の耳にも入り、弟は激怒。お嫁さんを置いてそのまま実家に戻ってきたそうだ。そのことを聞き、私も実家へ向かう。そして弟と話をすることに。弟は私に頭を下げて謝罪してきた。 「嫌な思いをさせて本当に申し訳ない」 弟は何も悪くないので、私は顔をあげるように言った。 「お嫁さんとお母さんには顔合わせの1度しか会ったことがなかったのに、なぜあんな態度をされたのかな?何か心当たりはある?」 と私が聞くと、弟はこう話し始めた。 「多分、お母さんの嫉妬だと思うんだ。少し変わった考えの人だから、人の悪口とかもよく言ってるし。お母さんさ、昔モデルになりたかったみたい。何回も色々なところに応募しても不合格ばかりで、結果モデルになることを諦めたらしくて。それで代わりに嫁にモデルの夢を託したらしいんだけど、もちろん嫁もモデル体系ではないから無理でさ。だから2人して姉貴を妬んでるんじゃないかなと俺は思う」 「え、何その理由?」 モデルっていうだけで妬まれる意味が私には分からず、全く理解ができなかった。 そして、なぜ当日まで弟が私の席が準備されていないことに気づかなかったのか、みんな疑問に思っているだろう。結婚式は夫婦で決めることでしょう。もちろん一般的にはそうだろう。だが、冒頭でもお話ししている通り、弟は物静かで自分の意見を言うことはあまりない。ちょうど仕事も忙しい時期だったようで、結婚式の準備は全てお嫁さんとお母さんで進めていたようだ。私たちへの報告も全てお嫁さん経由のみ。なので席の配置もお嫁さんに全て任せていたとのこと。 それを聞いて「なるほどね」と私は思った。今考えると確かに結婚式関連の連絡は全てお嫁さんからだった。実の姉である私へ連絡は一切なし。それもおかしい話だ。最初から私を招待する気持ちはなかったのだろう。でも、それがバレてしまうとモデルとして有名な夫も来ないと思って、ギリギリまで隠したのではなかろうか。その時に気づかなかった私もバカだったと反省した。 弟も今回の件はありえないとさすがに腹が立ったようで、しばらくお嫁さんとは距離を置いて色々考えると話していた。その後、結婚式から1ヶ月が経とうとしているが、未だに弟はお嫁さんとの新居には帰らず、実家で生活をしている。お嫁さんやお母さんから毎日連絡がしつこいようだ。実家の電話にもかけてくるようになり、そろそろちゃんと話し合わなければと思っていると言っていた。 私からすると内心少し複雑な気持ちだった。あんなありえない対応をする家系とは一切関わってほしくないのが本音だが、大好きな弟の幸せが一番。後悔しないように選択をしてほしいと思いながら見守っていた。 そんな時だ。お嫁さんのお母さんから、私と夫も含めて話をしたいと連絡が入る。 「なぜ私たちも?まず謝罪をしろよ」 と私は内心思ったが、弟のために我慢して参加することを決めた。 「そんなの参加する必要はないだろ」 と夫はずっと言っていたが、最後はしぶしぶ承諾し、一緒に来てくれることになった。 そして家族会議の日がやってきた。まさかこんなことが起きるとは。 お嫁さんの実家で集まることになり、夫と2人で向かう。こんなことになり、少しは反省しているだろうと思っていたが、お嫁さんもお母さんも反省の色が全く感じられず、むしろ私の顔を見るなり、 「まどかさんは日頃から私たち親子を見下しているから、ずっと腹が立ってたのよ。まずはそこを謝罪してくれないかしら」 とお母さんが言ってきたのだ。それに便乗してお嫁さんは、 「少しスタイルがよく生まれたからって何よ?気分が悪いわ」 と私を睨んでいる。 「2人を見下したことなんてありません。勘違いです」 と私は反論するが、 … Read more

13 September 2026

「こんな高級焼肉屋には分不相応なんだから、汚い貧乏一家は出ていけ。」…

「こんな高級焼肉屋には分不相応なんだから、汚い貧乏一家は出ていけ。」 その言葉に、私は息子の手を握りしめた。隣のテーブルで、ママ友の波江さんが家族揃って私たちを嘲笑っている。 「やだ、隣のテーブルばっかり。本当だな。どうやったらああなるんだ?きっとお金がないのよ。こんな高級焼肉店まで来たのに、お気の毒。」 私は夏川ゆい子。8歳の息子トマと暮らす専業主婦だ。夫は理解のある人で、今日は久しぶりの休みに家族で食事をするはずだった。だが、夫に急用が入り、私とトマの二人でこの高級焼肉店に来ていた。 「何食べる?」 トマはメニューを見て目を輝かせた。 「タン、絶対美味しい!」 トマは小学校に入った頃から牛タンが大好きで、幸せそうなその顔に私はいつも癒されている。 「じゃあお母さんも今日はタンを食べようかな。ダイエットもしなくちゃだからね。」 「お母さんはダイエットしなくても綺麗だよ。」 トマがそう言ってくれて、私は嬉しくなりながらも、同じタンを注文した。テーブルはタンだらけになり、私たちは顔を見合わせて笑いながら肉を焼き始めた。 「美味しいね。」 トマも幸せそうだ。すると、すぐ隣のテーブルに来た家族が私たちを見て笑い出した。 「やだ、隣のテーブルばっかり。」 聞き覚えのある声だと思っていると、その人が顔を上げた。 「ちょっと、ゆい子さんじゃない。やだ、ゆい子さんちってそこまで貧乏だったの?」 それは、息子の同級生のママ友、波江さんだった。旦那さんと息子さんと三人で来たらしい。 「ああ、私も、私の子供もあんな風な貧乏な家に生まれなくて良かったわ。きっと高級肉なんか食べたことないわよね。一枚恵んであげようかしら。」 波江さんの旦那さんが止めた。 「やめとけ。恵んでやったら最後、絞り尽くされるぞ。」 二人はニヤニヤしている。息子さんもトマを見てニヤニヤしていた。トマは居心地悪そうに目を泳がせている。 「本当、タンばっかり頼んで恥ずかしくないの?子供に贅沢させようって気持ちはないのかしら。なんかほら、シャトーブリアンを食べさせるんだから。」 そう言って、波江さんは皿を見せびらかした。しかし、私は羨ましくない。トマもそれほど心惹かれる顔はしていなかった。 「本当、貧乏人って大変ね。」 波江さんの息子さんは「貧乏、貧乏」と聞こえるように囃し立てる。タンを頼んだだけでここまで言われる覚えはない。私はどうしたものかと困っていると、トマが私の手をトントンと叩いた。 「どうしたの?」 トマは今にも泣き出しそうな顔をしている。 「タン以外を頼んだ方がいいのかな?貧乏って囃し立てられて、自分の好きなものを否定されて、トマは深く傷ついていた。その息子の様子に、私は深い怒りを感じた。好きなものを頼んでいるだけなのに、なぜここまで言われなければならないのだろう。 私は波江さんに言った。 「子供に贅沢させるっていうのは、もちろん高級なものを食べさせてあげることもあると思うのですが、子供が好きなことをさせる、好きなものを食べさせるという意味でもあるのではないですか?トマは前からタンが好きなんです。私も好きで食べてるんです。」 波江さんは鼻で笑った。 「それはどうせ、トマ君が我慢してるんでしょ。」 トマは涙を浮かべながらも戸惑いの表情をした。 「僕、我慢なんてしてないよ。」 しかし、波江さんは自分の考えしか信じていないようだった。 「ほら、子供にまでこんな我慢させるなんて、親として恥ずかしいわよ。」 何を言っても無駄なようだった。波江さんの旦那さんも笑いながら言う。 「まあまあ、貧乏だから仕方ねえよ。」 「それはそうね。好きだっていうのも貧乏人の強がりに決まってるわ。」 私はここまでコケにされて、思い出したことがあった。 「波江さんって、そこらの大きな銀行の行員でしたよね。」 「あら、そうよ。よく知ってるわね。」 知ってるも何も、いつも波江さんが自分で自慢に言いふらしている。何せこの地域どころか地方でも大きな銀行で、大企業とも取引がある。そこに務めているというだけで自慢しまくる波江さんの気持ちは全然分からなかったが、その自慢のおかげで私もその情報を知ることができたのだった。 「ええ、私もあの銀行に口座を持っているんです。」 波江さんはまた笑った。 「え?何?急に。まさか口座を持っているから私に何か言うんじゃないわよね。」 私はため息をつきかけるも、慌てて引っ込めた。 「でも、私はあの銀行の客ですよね。」 私が言いたいことが伝わったのか、波江さんはさらに笑い出した。 「え、客だからって?バカじゃないの?客のレベルは貯金で分かるんだよ。ゆい子さんは貧乏なんだから、底辺レベルに決まってるじゃない。」 波江さんの旦那さんも笑いをこらえている。 「本当、口座を持ってるだけじゃダメなんだぞ。貧乏人は無理しないで、お家で安い外国産の肉でも食ってなさいよ。」 「そうだ、そうだ。お前らにここはふさわしくない。俺たちのようなエリート中のエリートが来るところだぞ。」 そういえば、波江さんの旦那さんも大手企業の部長だったな。いかにもそのことを鼻にかけそうな顔を見て思い出した。二人揃って嫌味な顔をしている。息子さんも二人の言うことに何も違和感を感じていないようだった。 私は何から言えばいいのか分からず押し黙った。トマを見ると、波江さん一家の言うことに傷つき続けているようで、私はもうこれ以上は無理だと思った。とどめを刺すように、波江さんが言い放つ。 … Read more

13 September 2026

「つなぎの主人のくせに、いつまで俺の会社にいる気だ。」新社長の息子にそう吐き捨てられたのは、私が十年間、一円の誤差もなく帳簿を守ってきた経理主任だった。父から受け継いだ万年筆で、誰も見ていない場所でも誠実に記録を続けてきたのに、ある日突然、会社の金を横領したと濡れ衣を着せられた。しかも、その証拠とされた伝票の署名は、私が一度も使ったことのないボールペンの走り書きだった。私は無実を訴えたが、親…

「つなぎの主人のくせに、いつまで俺の会社にいる気だ。」 新社長の息子、八屋竜二がそう吐き捨てた。不思議と腹は立たなかった。むしろ胸に浮かんだのは懐かしさだった。 十年前、十九歳で入社した私に、父は一本の万年筆を託した。 「数字は嘘をつかない。お前の記録がこの会社の誠実そのものだ。」 そう言い残して父はこの世を去った。以来、私は一円の出入りもこの黒い万年筆で記録し続けてきた。たった一人、誰も見ていない場所でも。 その意味を、この親子は何も知らない。知らないまま、私に横領の濡れ衣を着せて切り捨てようとしている。 いいだろう。お望み通り、静かに消えてあげる。ただ、私が十年書き続けたこの記録だけは、決して消せない。それがいつか、誰の罪を暴くことになるのか。 私の名前は二階堂しおり。これは誠実さを笑った親子が、自らの手で崩れていく物語だ。 話は三ヶ月前に遡る。 私が務めるのは、八屋商事という中堅の卸売り会社だ。決して大きくはないが、四十年続く老舗だった。その経理を一人で切り盛りしているのが、主任の私、二階堂しおりだ。入金、支払い、伝票の一枚一枚、会社のお金に関わる全てを、私は父譲りの万年筆で記録してきた。 「しおり主任、今月の伝票確認お願いします。」 そう声をかけてきたのは、経理二年目の後輩、メイだ。私が一から育てた真面目な子だった。 「ありがとう。でも、この接待費、日付と金額を控えにも残しておいて。」 「え、こんな細かいものまでですか?」 「一円でも記録に残す。それがいつか自分を守ってくれるから。」 父がいつも言っていた言葉を、私はそのままメイに伝える。そんな私たちを、総務部長の河田さんが目を細めて見ていた。 「しおりちゃんは誠一さんにそっくりだな。あの人も一円のごまかしも許さなかった。」 父を知る河田さんの言葉が、静かに胸へしみる。この会社の帳簿が十年間一度も狂わなかったのは、私のささやかな誇りだった。 けれど、その誇りを疎ましく思う人間が社内に一人だけいた。新社長の息子、八屋竜二。最近、彼の周りだけお金の動きがどこか不自然になっていた。その違和感の正体を、私はまだ知らずにいた。 その違和感が形を持ち始めたのは、ある月曜の朝だった。 「二階堂さん、社長がお呼びです。」 若い秘書に呼ばれて社長室へ入ると、新社長の八屋が革張りの椅子にふんぞり返っていた。半年前、前社長が急逝した直後にこの会社を安値で買い取った男だ。隣には息子の竜二が薄笑いを浮かべて立っている。親子揃って、私を品定めするような目をしていた。 「君が例の経理のつなぎ主人か。」 近造は私を上から下までじろじろと眺めると、鼻で笑った。 「つなぎですか?」 「そうだ。前社長が育てただけの、つなぎの人材という意味だよ。高卒で入って十年、資格の一つも持たない君にしては、よくやったものだ。」 その言葉に、竜二がここぞとばかりに続けた。 「親父、こいつの父親も昔ここの経理だったらしいぜ。しがない帳簿係が二代続けて笑えるよな。」 父を笑われた。胸の奥が静かに熱くなる。前社長の元で私がどれだけの数字を守ってきたか。この親子は、その一桁すら見ようとしない。数字の一つも読めないくせに、父の何を知っているというのか。 そう言い返したい気持ちを、私はぐっと飲み込んだ。代わりに万年筆を握る手に、そっと力を込めただけだった。 「これからはこの竜二が経理を見る。君はしばらく竜二への引き継ぎをしてくれ。」 「引き継ぎですか?承知しました。」 私は静かに背を向け、社長室を後にする。だが、その言葉のどこにも感謝も敬意も感じられなかった。経理を十年守ってきた私に対して、言いようのない嫌な予感だけが胸に残った。 そして、その予感はすぐに現実になる。 その日から、竜二は過去の伝票を一枚残らず持ち出すようになった。何かを探すように、そして何かを仕込むように。 引き継ぎと称して竜二が私のデスクを漁り始めてから二週間が過ぎた頃だった。突然、朝礼の場に全社員が集められた。壇上には近造と竜二が並んで立っている。そして竜二の手には、見覚えのない伝票の束が握られていた。 「みんなに残念な報告がある。」 竜二はわざとらしく声を張り上げた。 「経理の二階堂主任が、会社の金を横領していた。その証拠がこれだ。」 ざわっと社員たちがどよめく。私は耳を疑った。 「何を言っているんですか?私はそんなこと一度もしていません。」 「とぼけるな。この三年間で、使途不明金が八百万円。全てお前が承認した伝票から出ている。」 竜二が突きつけた伝票には、確かに私の名前が記されていた。だが、それは万年筆の署名ではなかった。どこにでもあるボールペンの走り書きだ。 私の署名は、十年間ただの一度もこの黒い万年筆以外で書いたことがない。父がそう厳しく教えてくれたからだ。だから断言できる。この伝票の筆跡は、それだけで偽物だと。 「これは私の字ではありません。誰かが偽造したものです。」 「言い訳がましいぞ。帳簿係の父親も、どうせ裏で同じことをしていたんだろう。」 また父を。その瞬間、こらえていたものが静かに崩れそうになった。冤罪だ。しかも、これほど巧妙に仕組まれた冤罪だった。 「しおり主任がそんなことするわけない!」 声をあげたのは後輩のメイだった。 「そうだ。誠一さんの娘が、一円もごまかすもんか。」 河田さんも拳を握って前に出る。けれど、近造は鼻で笑うだけだった。 「社員の分際で経営に口を出すな。処分はもう決まっている。」 周りの社員たちは、誰も声を上げられなかった。近造親子の権力を、皆恐れていたのだ。 処分という名の結論は、あまりにも一方的だった。 「解雇されたくなければ、自分から辞めろ。それがせめてもの情けだ。」 … Read more

13 September 2026

La vigilia di Natale, mio padre ha fatto scorrere la mia carta di debito tre volte sulla sua porta di casa, leggendo ogni addebito ad alta voce: 45 dollari per me, 45 per mia figlia, 45 per mio…

Il lettore del bancomat emise un bip e mio padre girò lo schermo verso di me perché leggessi io stessa il numero. 45 dollari. Dietro di lui, la casa odorava di prosciutto chiodato e di stufa a kerosene che non ha mai sostituito. La neve si stava facendo grigia sotto gli stivali delle mie gemelle … Read more

13 September 2026

「工場のライン仕事でもやってろ。お前にはちょうどいい底辺の仕事だ。」…

工場長が肩を落とし、諦めたように言った。「うちの工場はトラブル続きでもうだめだ。」 俺は上司にはめられて、この工場へ飛ばされてきた。月100時間の残業が当たり前のブラック工場。だが、そこには隠された理由があった。 俺の名前は間、35歳。高卒で就職し、営業部の係長を務めていた。家が貧乏で大学には行けなかったが、この会社に入れて良かったと思っていた。 ところがある日、俺を可愛がってくれていた部長が病気で倒れ、退職を余儀なくされた。新しく部長になったのは村松という男。副社長の大学時代の後輩で、コネ入社だという噂があった。 村松部長は人間性に問題のある男だった。自分の仕事を平気で他人に押し付け、一切感謝しない。部下を便利な駒としか思っていないようだった。 就任から半年後、開発部との共同会議で事件が起きた。開発部の部長が村松部長のミスを指摘したのだ。俺が何気なく「村松部長ですね」と答えたのが運の尽きだった。 会議後、村松部長に呼び出され、一方的になじられた。「よくも大勢の前で恥をかかせたな。罰として今日の俺の仕事は全部お前にやってもらうからな。」 それからというもの、村松部長の嫌がらせはエスカレートしていった。会議では俺の発言を遮り、些細なミスを大げさに取り上げ、俺と仲の良い社員を遠ざけた。俺は孤立し、仕事ができない人間というレッテルを貼られた。 さらに村松部長は自分のミスを俺に擦り付け、連日の残業が続いた。俺は追い詰められ、「会社をやめようかな」と思うほどだった。 そしてついに、村松部長は副社長を通じて上層部に俺の悪評を吹き込んだ。突然、俺に異動の辞令が出た。行き先は関連企業の自動車部品工場。事実上の左遷だった。 営業部を去る日、村松部長はわざわざ出口まで送り出し、こう言い放った。「工場のライン仕事でもやってろ。お前にはちょうどいい底辺の仕事だ。」 翌日、俺は左遷先の工場へ向かった。工場長の高山さんと顔を合わせると、彼は弱気な口調で言った。「うちの工場はトラブル続きでもうだめだ。制御システムのトラブルで、ラインが1日に何回も止まるんだ。」 俺は画面を覗き込み、直感で分かった。「これならなんとかできるかもしれません。実は高校生の時にパソコン部でロボットを動かしていたんです。自作のシステムで大会に出たこともあります。」 高卒の俺は営業部に配属されたが、最も得意とするのはシステム開発だった。今も趣味で自作システムを作っている。 高山工場長の目に希望の光が宿った。「本当か? 試作のシステムを作ってくれ。本格導入には本社の許可がいるが、まずは動くかどうか試してほしい。」 俺はすぐに試作システムを完成させた。しかし、一部のラインで試すとエラーが発生し、現場から不満の声が上がった。「本社から来た人間がしゃしゃり出るなよ。元営業だろう。」 俺は冷静にエラーの原因を調べた。ログを追っていくと、ラインのセンサーから制御プログラムへの応答にわずかな遅延が生じていることが分かった。古いシステムはその遅延を異常と認識し、緊急停止をかけていたのだ。 俺はタイムアウトの設定値を見直し、遅延を許容範囲として処理するようプログラムを書き換えた。翌日、改善したシステムでラインを稼働させると、エラーは出ず、ラインも止まらなかった。 高山工場長はすぐに本社へ許可を取り、俺のシステムを正式に導入してくれた。現場の社員たちも「元営業のくせにあいつすごいな」と評価を一変させた。 しかし、この後、最後の波乱が待ち受けていた。システム導入から3日後、俺の携帯に本社から50件以上の着信が入っていた。折り返すと、村松部長の声だった。「工場の制御システムを改善したのはお前って本当か?」 俺が認めると、村松部長はさらに問い詰めてきた。「じゃあ営業部で使っていた作業効率化システムもお前が作ったものだったのか?」 そう、俺は営業部で使われていた効率化システムも自作していた。だが、前の部長に「お前が便利なシステムを作れることは周りに黙っていた方がいい」と言われ、能力を隠していた。退職の際、俺はシステムを全て削除した。 村松部長は「お前が作ったシステムをもう一度使わせろ」と要求してきたが、俺は断った。「お断りします。」 翌日、村松部長が工場に乗り込んできた。「システムを返せ! 営業部がどれだけ困ってると思ってるんだ?」 俺は冷静に返した。「俺のいないところでトラブルが起こっても対処できません。そんな無責任なシステムを使わせることはできませんよ。」 村松部長は頭に血が上り、周りに人がいるのも構わず怒鳴った。「高卒の無能のくせに調子に乗るからだぞ。いいからさっさとシステムを返せ。返さないとまたお前の評判を落とすぞ。」 その時、影から高山工場長と副社長が現れた。副社長はこの工場の管轄で、システム改善を自分の目で確かめるために来ていたのだ。 実は、昨日の電話の後、高山工場長が俺に「副社長に君と村松部長の会話を聞かせよう。あいつの本性と悪事を明らかにしよう」と提案してくれていた。 副社長は鋭い目で村松部長を睨みつけた。「先ほどの発言は本当か? 村松君、相田君をこの工場に左遷するよう仕向けたのか?」 村松部長は必死に否定したが、高山工場長が証言した。「俺もこの耳でしっかり聞いていました。村松部長は相田君という優秀な社員を身勝手な理由で貶め、工場に左遷させたのです。」 俺も追い打ちをかけた。「俺が本社を去る日、部長はこう言いました。『工場のライン仕事でもやってろ。お前にはちょうどいい底辺の仕事だ。』」 その瞬間、工場内の空気が一変した。騒ぎを聞きつけた現場社員たちが集まり、全員が村松部長を睨みつけた。 副社長が深々と頭を下げた。「君を部長に据えたのは俺の判断だ。今回の責任は俺にある。相田君、本当にすまなかった。」 村松部長は顔色を青くし、膝から崩れ落ちた。「今までのことは謝る。2度としないと約束するから。」 しかし、俺は首を横に振った。「あなたの言葉を信用することはできません。長期間に渡り一方的に攻撃され、評判を落とされましたから。」 副社長の行動は迅速だった。村松部長は降格となり、移動先はあれだけ馬鹿にしていた工場の現場仕事だった。厳しい社員たちに毎日叱責されながらラインに立っていると噂で聞いた。 一方、俺は高山工場長の元で働き続けている。本社へ戻らないかと打診されたが、断った。この工場は俺を受け入れ、再チャンスをくれた恩人だ。恩を返すまで離れるわけにはいかない。 さて、今日も頑張って働くか。

13 September 2026

「だから、あなたにはやめてもらいたいの。いいわよね」…

「息子をこの会社に入れようと思っているの。海外でデザインについてたくさんの経験を積んできたんですもの。必ず戦力になると思うわ」 そう言って、新社長は軽い調子で僕を見た。隣に座る息子はニヤニヤと笑っている。 「だから、あなたにはやめてもらいたいの。いいわよね」 一瞬、意味が理解できなかった。 「え、突然すぎてよくわからないのですが、どうして僕が」 「あなたのデザイン、私好きじゃないのよ。和風建築なんて古臭くてダサいじゃない?うちは時代劇のセットを作ってる会社じゃないもの」 僕は30年、この会社で建築デザイナーとして働いてきた。特に和風建築に情熱を注ぎ、多くのクライアントから信頼を得てきた。それなのに、新社長は僕の実績も、今抱えている案件も、すべて無視して、あっさりと首を切ろうとしている。 「クライアントは僕のデザインを求めてくれています。一度引き受けた案件を投げ出すなんて、そんなことできません」 「今時、和風建築をわざわざ作ってくださいなんて。依頼してくるクライアントって、どういう趣味してるの?おじいちゃん?それともおばあちゃんかしら」 彼女はクライアントのことまで侮辱し始めた。その姿を見て、この会社はもうダメなのかもしれないと感じた。ならば、言われた通り早々に退職した方がいい。僕は新社長に見切りをつけ、会社を去ることにした。 ところが、退職後にかかってきた新社長からの突然の電話。 「今すぐ出社しなさい!」 早口でまくし立てる声には、焦りの色が濃く出ていた。 「今さら気がついても遅いよ」 僕は冷静に、新社長の知らない場所で起きていた出来事を伝えた。すると、新社長は驚き、ガタガタと震え出す。 だが、僕の言葉は新社長の絶望の始まりでしかなかったのだ。 僕の名前は安藤介。都会の真ん中にある小さな建築会社でデザイナーとして働いている。入社してもう30年になるが、建築は奥深く難しいと今でも感じている。 僕が特に心血を注いでいるのが和風建築だ。最も得意としている分野でもある。日本の伝統的な美しさを現代の建築デザインに消化させることを目指して、日々情熱を注いでいる。 しかし、僕の直属の上司である部長の堀田し子さんは、いつも僕のデザインに苦い顔をしていた。し子さんは社長の一人娘でもある。彼女は建築デザインに関する知識はほとんどなく、感性もいまいちだったが、社長の後を継ぐために経営を学び、会社に対する理想だけはしっかりと持っているような女性だ。そして、彼女の理想に和風建築は含まれていないらしかった。 そのことはぼんやりと分かってはいたが、ある日、彼女との会話でそのことをはっきりと気づかされてしまった。 「おはよう、安藤君。そのデザイン、進めていた案件?」 「はい、まだ着手し始めたばかりですが、和風建築の特徴を生かしたものができそうです」 僕は息を込めて説明してみせたが、し子さんは眉をひそめていった。 「安藤君、ずっと言おうと思っていたの。和風建築なんてもう古くない?今の時代はモダンで洗練されたデザインが求められるんだから、もっと先進的なアプローチを考えるべきよ」 突然否定されたことに戸惑いながらも、もしかしたらし子さんに和風建築の良さを分かってもらうチャンスかもしれないと思った。 「和風建築は古いと考えられがちですが、未来に向けた新しい可能性を秘めていると思っています。ほら、こんな風に現代技術との組み合わせも色々と考えられるんです」 資料を広げ説明し始めた僕に、し子さんは面倒そうな表情を浮かべ、立ち去っていった。 その後も日々の仕事の中で、僕は和風建築に対するし子さんの偏見に悩まされたが、それでも和風建築に対する思いが揺らぐことはなかった。 僕がこうして和風建築に強いこだわりを持っているのは、祖父母の影響が大きい。僕は子どもの頃、祖父母にとても懐いていて、まさに純和風の祖父母の家で過ごすことが多かった。そして、祖父母は時代劇が大好きで、彼らと長く過ごすうち、いつの間にか同じように僕も昔の風景や趣が大好きになった。 そのおかげで、歴史や伝統文化に対する興味は他の人よりも強かったと思う。そのうちに、日本の伝統ある建築技術、そしてそのデザインへの興味が強くなり、その道の勉強にも熱が入った。だから和風建築には愛着があるし、自分にとっては祖父母との思い出も重なる特別なものなので、その信念は貫こうと強く決意している。 僕は社内での理解者を増やすことに加え、プライベートでもネットを通じ、同じく和風建築に情熱を持つ若手建築家と交流し、刺激を受けながら自らのスキルを磨いていった。 「和風建築を広めるためには、今の時代にあった新しい発想が必要だね」 「そうですね。伝統を大切にしつつ、現代の技術をもっと取り入れていけば、まだ伸び代が多い分野だと思います。新たな魅力を生み出せるかもしれない」 「うん。僕もそう考えているんだ」 こんな風に社外にできたコミュニティでは生き生きと交流することができ、ちょうどいい息抜きにもなっていた。 一方、社内ではどんどん肩身が狭くなってきている。上司であるし子さんが軽蔑するような態度や言動を頻繁に繰り返している影響なのか、僕のデザインが古臭いという評判が広まっているようだった。 「安藤先輩のデザインって、本当に時代遅れですよね」 「確かにな。し子さんが採用するとは思えないのに、よくやってるよな」 「安藤もこだわりなんか捨てて、大衆受けするようなアイデアを考えればいいのに」 聞こえてくるのはそんな陰口ばかりである。他の社員たちからの理解を得ることがどんどん難しくなってきていた。孤立してしまっている。そのことをひしひし感じていたが、意識してしまうと気がめいってしまうので、なるべく考えないようにして過ごしていた。 しかし、僕が目を背けようとしても現実は変わらないし、とても厳しい。 僕のことを採用してくれ、長年お世話になった社長が急逝したのだ。以前から持病を抱え、近年は特に辛くて通院していることは知っていたが、こうも早く亡くなってしまうとは思いもしなかったので、とてもショックだった。 会社では慌ただしく葬儀が行われ、娘のし子さんの社長就任が発表される。その後、行われた就任式では彼女の経営理念の宣言もなされた。近代的で最先端なデザインに特化することを掲げて、会社を一新するとやる気満々だ。 デザインの仕事に関しては課長以下の役員に丸投げするような態度であった彼女だが、こと経営に関しては時代をリードする会社になるという強い思いがあるようだった。 彼女は社長になってすぐ、新たな試みとして自ら海外へ出向き契約を取ってくるなど、活発に動き始めた。そんなし子さん、いや、し子社長の動きに会社は少々混乱した。社長が交代になったというだけでもバタバタしていたというのに、それに加えて新社長の独断による行動だ。しかも、海外企業との取引は初めてだというのに、し子社長は誰にも相談することもなく、いつの間にか契約を結んでいた。 相手は誰も聞いたことのない無名のIoT企業。完全な事後報告で社員たちは困惑したが、海外に詳しい者もおらず、それを止められない。 「日本には知名度がないから全くの無名だけど、海外では最先端企業として知る人ぞ知る存在よ。そんなところといち早く契約を結べたなんてラッキーだったわ」 彼女が自信満々に言うので、首をひねりつつもそうなんだなと納得するしかなかった。 そんな社内がざわついている頃、僕はし子社長から呼び出された。 社長室の前で少し落ち着かない気持ちでドアを開けると、そこにはし子社長と若い青年が座していた。 「失礼します」 し子社長は入ってきた僕を一瞥すると、青年に何やら耳打ちをした。すると青年は「ああ」とだけ言い、席についた。 「安藤君、そこへかけてください」 僕は大きなテーブルで斜め向かいに座る青年に軽く会釈をし、同じように腰かけた。一体、これから僕に何の話があるというのだろうか。あれこれ考えを巡らせていると、目の前に座ったし子社長が明るいトーンで言った。 「先に紹介しておきます。彼は海外留学から帰ったばかりの私の息子です」 … Read more

13 September 2026

“Tommy Lee Jones Hated Her More Than Anyone Else

Cindy Landon, the widow of beloved television icon Michael Landon, has broken decades of silence at age 68 to reveal the truth behind her seemingly perfect marriage. The woman who spent years protecting her late husband’s legacy now says silence is no longer an option. The revelation challenges the wholesome family-man image Michael Landon cultivated … Read more

13 September 2026