雪が音もなく降り積もる。俺はスコップで屋根の雪を崩していた。長野の山奥、戸数四十ほどの集落。冬になれば道は凍り、夜は獣の声だけが響く。ここで俺は便利屋をやっている。雪下ろし、薪割り、屋根の修理、買い物の代行。報酬は米だったり漬物だったり現金だったりする。それで十分だ。
スコップを止めて息を吐くと、白い息が朝の空気に溶けた。ポケットに手を入れると、いつものように冷たい金属が指先に触れた。腕時計だ。革のベルトは古び、文字盤のガラスには小さな傷が走っている。針は午前3時17分を指したまま動かない。もう7年、この時刻のまま止まっている。時計をポケットに戻し、再びスコップを握った。
俺の名前は田司。45歳、独り身。かつて都内の大学病院で救命救急をしていた。今は便利屋だ。7年前に全てを捨ててこの村に流れ着いた。誰も俺の過去を知らない。それでよかった。人と深く関わらないこと。それがこの村での俺のルールだった。
「田さん、まだやってくれてんのかい」
道の向こうからしわがれた声が飛んできた。矢主のあさんが玄関の戸を開けて顔を出している。
「あと屋根の半分だけやらせてもらいます。昼までには終わりますよ」
「悪いね。お茶入れとくから、終わったら寄っとくれ」
俺は軽く手を上げて応じた。
その日の午後、俺は集落の外れにある診療所に向かっていた。村に一つだけの医療機関だ。裏手の物置小屋の屋根が雪の重みで傾いている。直してくれと自治会から頼まれていた。玄関に「柏木診療所」と炭で書かれた看板が下がっている。俺は裏手に回り、はしごをかけて屋根に登った。
作業が半分を過ぎた頃、診療所の裏口が開いた。白衣の女が急ぎ足で出てくる。首から聴診器を下げ、片手にカルテを持っていた。
「すみません。田さんですよね。少しだけ手を止めていただけますか?」
俺ははしごを降りた。近くで見ると思ったより若い。30前後だろう。
「私、ここの医者の柏木はるかです。物置の鍵、開けっぱなしになっていたみたいですみません」
「いえ、こちらこそ勝手に上がってしまって。柏木先生ですか?」
「ええ、柏木はるかと言います。父の代からこの村でやっています」
ふと待合室の窓越しに患者の姿が見えた。男性が3人、長椅子に並んで座っている。その誰もが咳をしていた。
「先生、お1人でやっておられるんですか?」
「上金は私だけです。週に2日、町から内科の先生が来てくれますが、それ以外は……」
それだけ言って、彼女は口元に苦い笑みを浮かべた。言いたいことは分かった。冬の村は医者1人では到底回らない。インフルエンザ、肺炎、転倒、どれも一刻を争う。俺はそれを毎日見ていた人間だ。
「無理はしないようにしてください」
「そう言っていただけると助かります」
彼女は軽く頭を下げ、診療所の中に戻っていった。白衣の背中が扉の向こうに消える。
その夜、俺は集落の集会所に呼ばれていた。冬場の見回り当番の打ち合わせだった。ストーブの上でやかんが鳴り、男たちが車座になって茶をすっている。自治会長の長峰が神座で字を描いていた。日に焼けた顔に白いものが混じった。この村の顔で、誰よりも声が大きい。
「田さん、来年で5年目になるんだよな。ここに来て」
「ええ、そのくらいになります」
「早いもんだ。最初はあんた何しに来たんだか、誰も分からんかったがな」
笑い声が起きた。俺は曖昧に笑い返した。
打ち合わせが終わり、男たちが1人、また1人と帰っていく。最後に長峰が湯のみを置いて、こちらをじっと見た。
「田さん、あんた昔医者だったんだってな」
ストーブの炎がちろりと揺れた。誰から聞いたのか、聞き返す気にもならなかった。こういう村だ。噂は雪解けのように染み込んでいく。
「昔の話です。今は何でもありません」
「うーん。そうかい」
長峰はそれ以上聞かなかった。否定も肯定もしない俺の答えを、彼なりに受け取ったのだろう。集会所を出ると雪はやんでいた。俺は誰もいない夜道を1人で歩いた。
家に戻り、ストーブの前であぐらをかく。ポケットから止まった腕時計を取り出した。文字盤の3時17分をじっと見つめる。7年前のあの夜のことが、頭の奥でゆっくりと動き出す。
雪の高速道路で多重事故があった。運ばれてきた患者は12人。俺と後輩の最草の2人で初動を回していた。最草は28歳。真面目でまっすぐで、俺を「田先生」と呼んで慕ってくれた男だった。最も重症だったのは若い母親。彼女は妊娠していた。俺は彼女を助けた。最草に「先生の判断を信じます」とだけ言われたのを覚えている。細かいことはもう思い出せない。
明け方の3時17分、最草が別の患者の処置中に倒れた。彼の左腕にはこの腕時計があった。病院に着いた時、すでになくなっていた。そして針はもう動かなくなっていた。
俺は後輩を救えなかった。彼に過剰な負担をかけた。そう信じてきた。その日から俺は白衣を脱いだ。時計の針は止まったまま。ストーブの炎が低く唸った。俺は時計を握りしめ、目を閉じる。俺は便利屋だ。それ以上のものになる資格はもうない。時計をポケットの奥に押し込んだ。
その朝、俺は薪を割っていた。斧を振り下ろすたびに乾いた音が谷に跳ね返る。冬の終わりの、奇妙に静かな朝だった。
軽トラのクラクションがその静けさを破った。集落の細い道を、自治会長の長峰が急ぎ足で走ってくる。窓を開けるなり彼は叫んだ。
「田さん、すまん、軽トラ貸してくれ。剣道でバスがやられた」
「バスと言うと観光バスですか? 乗客はどのくらいですか?」
「修学旅行の帰りらしい。中学生だ。30人は乗ってる。横向きにひっくり返りかけて、ガードレールに食い込んだままだそうだ」
俺は斧を放り出し、軽トラの助手席に飛び乗った。車は雪解けで濡れた山道を跳ねるように走った。頭の中で勝手に手順が動き始めていた。大量出血、低体温、二次災害。忘れたつもりでいたものが、指の先まで蘇ってくる。俺は窓の外を睨みながら奥歯を噛んだ。
現場は国道から村に入る峠の中ほどだった。大型の観光バスが車体を45度ほど傾けて、崖側のガードレールにのしかかっている。ガードレールは曲がり、その下は数十メートルの谷だった。バスを支えているのは、半分曲がった鉄骨だけ。すでに何人かの村人が集まり、車体の周りでうろたえていた。窓ガラスが砕け、子供たちの泣き声が漏れ聞こえる。山道の上の斜面からパラパラと小石が落ちていた。雪解けで地盤が緩んでいる。落石が始まれば、大きな岩が来るのも時間の問題だった。
運転手らしい中年の男が車外で頭を抱えてしゃがみ込んでいた。顔は雪のように白く、唇が震えている。俺は彼の肩を掴んだ。
「あんた、運転手さんか? 名前を教えてくれ」
「大田桐り誠です。すみません、すみません」
「謝るのは後だ。今生きているこの数を数える方が先だ。乗客は何人? 意識のある子は何人? 動ける子は何人? それだけ思い出せ」
大田桐の目にわずかに光が戻った。役割を与えられると気が戻る。昔、現場で叩き込まれたことだった。
サイレンが谷の向こうから細く聞こえてきた。ほどなく白いワゴン車が現場に滑り込んできた。柏木診療所の車だった。降りてきたのは柏木はるかだった。白衣の上にダウンを羽織り、肩に救急バッグを担いでいる。
「状況教えてください。意識のある子は車に下ろせていますか?」
「先生、56人は出した。まだ10数人だから」
「分かりました。出せた子から見ます」
彼女は山道のアスファルトに膝をつき、子供たちの瞳孔を順に見ていった。脈を取り、手早く声をかけ、軽症と重症を分けていく。動作に無駄がない。1人で全部背負ってきた人間の覚悟の動きだった。
俺はバスの破れた窓から中を覗き込んでいた。通路に頭から血を流して動かない少年がいた。年は13くらい。胸が上がっていない。その時、上の斜面で鈍い音がした。拳ほどの石がバラバラと落ちてくる。
「皆さん、車体から離れてください。危ないです」
彼女は叫びながら、自分は車体に近づこうとしていた。通路の少年に、彼女もすでに気づいていた。俺は先に窓に手をかけていた。
「待って。あなたは出てください。一般の方はこれ以上は危険です」
「先生、あの子、心停止だ。今出さないと助からない」
「だから私が行きます。あなたは一般人なんです。早く逃げて」
その一言が俺の耳の奥で別の声と重なった。「田先生の判断を信じます」。7年前の最草の声だった。斜面でまた石が崩れた。今度はもっと大きな音だった。
「聞いてますか。田さん、下がってください」
「先生、ここから先は俺が行く。俺に任せてくれ」
はるかが俺の顔を見た。何かに気づいたような、戸惑った目だった。俺は窓枠に足をかけ、車内に滑り込んだ。バスの中は座席が斜めに歪み、荷物が通路に散乱している。ガソリンと鉄と血の匂いが混ざっていた。通路の少年に俺は這って近づいた。顔色は灰色、唇は紫。頸動脈に指を当てる。脈がない。俺の中で7年ぶりに何かが切り替わる音がした。
「気道確保。頭動かすな。頸椎まだ生きている前提で行く」
声に出して自分に指示を出した。大田桐が外から窓越しにこちらを見ていた。
「大田桐さん、あんたの上着を貸してくれ。それと車の中からありったけのタオルだ。急いでくれ」
「あ、はい。はい」
大田桐の動きが早くなった。少年の口の中を指で確認し、顎を引き上げる。顎を持ち上げ、気道を通す。胸の真ん中に手を重ね、押し始めた。1、2、3、4。肋骨のしなりが手のひらに返ってくる。外で長峰の声がした。
「長峰さん、聞こえるか? 住民を上の道まで下げてくれ。落石が来る。子供たちは診療所の方の路肩に集めてくれ」
「おう、分かった。任せろ」
長峰は何も聞き返さなかった。便利屋に指示されたことに文句一つ言わなかった。彼は怒鳴るように人を動かし始めた。
圧迫を続けながら、俺は時間の感覚を取り戻していた。30回押して人工呼吸を2回、もう一度押す。少年の胸がわずかに動いた気がした。脈を取る。細いけれど確かに打っている。戻った。
「先生、こっちだ。アドレナリン使えるなら準備をしてくれ」
割れた窓の向こうからはるかの顔が覗いた。彼女は一瞬息を飲んでから、すぐに救急バッグを開けた。迷いのない手つきで注射器を取り出す。
「ルート確保します。少年、体重45キロ前後と200ccで」
「頼む。出血は左の側頭部。圧迫だけでもう少し持たせる」
2人の手が初めて同じリズムで動いた。言葉を最小限にして、互いの判断を互いに預けて。その時、頭の上で空気を裂く音がした。ヘリのローターだった。県の防災ヘリが谷の上をゆっくりと旋回している。遅れてきた救急隊員が山道を駆けてくるのが見えた。数分後、少年がストレッチャーに乗せられ、ヘリに運ばれていく。
俺はバスの影にしゃがみ込み、ようやく息を吐いた。両手が震えていた。それは恐怖の震えではなかった。7年ぶりに命を掴んだ手の震えだった。ポケットに手を入れる。止まった時計が、いつもよりひどく熱を持っているように感じた。
長峰がこちらに歩いてきた。何か言いかけて、結局彼は何も言わなかった。ただ軽く頭を下げて、また住民の方へ戻っていった。便利屋を見る目ではもうなかった。
少し離れたところではるかがこちらを振り返った。彼女の目が俺をまっすぐに捉えていた。雪解けの風が谷を吹き抜けていった。俺の中で、長く止まっていた何かがゆっくりと動き出していた。
事故から3日が経っていた。村は何事もなかったように元の静けさを取り戻していた。子供たちは全員、町の病院で命をつないでいるという。心停止だった少年も意識が戻ったと聞いた。俺はいつも通り頼まれた仕事をこなしていた。神社の階段の雪かき、犬小屋の修理。何も変わらない1日のはずだった。
夕方、診療所の裏手で薪を積んでいると、足音が近づいてきた。振り向くまでもなく誰か分かった。柏木はるかだった。白衣のまま息を切らしていた。頬が寒さで赤くなっていた。
「田さん、少しお時間いいですか?」
「ええ、ここでよろしければ」
やがて彼女は俺をまっすぐ見た。
「単刀直入に伺います。田さん、あなた医者ですよね」
風の音が一瞬遠くなった。俺は薪の束を地面にゆっくりと置いた。
「あの現場の動き、私見ていました。気道確保の手順、胸骨圧迫の深さ、ルート確保の指示の出し方。あれは1日2日で身につくものじゃありません。何年も現場で命を扱ってきた人の手でした」
「先生、それは……」
「ごまかさないでください」
声が少しだけ震えていた。俺はポケットから止まった腕時計を取り出した。革のベルトを指でなぞる。7年、誰にも語らなかった話を初めて口にする時が来ていた。
「先生のおっしゃる通りです。俺は昔、救命救急をしていました。7年前、都内の大学病院で。7年前に何が……後輩を1人なくしました。最草量と言います。28歳でした。同じ夜、同じ現場で、俺の隣で倒れて戻ってきませんでした」
はるかは何も言わなかった。
「あの夜、12人の患者を2人で回していました。最草には別の重症患者を任せた。判断したのは俺です。最草は俺の判断を信じると言って走ってくれた。その後、彼は処置の最中に倒れて、そのまま戻りませんでした」
「それは田さんの責任ですか?」
「俺はそう信じてきました。俺が無理をさせたから、俺が彼の体調に気づかなかったから、彼は死んだ。そう思って白衣を脱ぎました。この時計は……」
俺は文字盤を見せた。
「最草が最後につけていたものです。針が止まったのが、彼の心臓が止まった時刻です。俺はこれを動かす資格がない。そう思って、ずっとポケットに入れて歩いてきました」
はるかの目がわずかに潤んだ。必死に涙をこらえているのが分かった。
「田さん、私、あなたに診療所を手伝って欲しいんです」
「先生、俺は……」
「お願いします。資格のことは後で考えればいい。今、この村にあなたの手がいるんです」
俺は答えられなかった。
その夜、俺の家の戸が控えめに叩かれた。こんな時間に客は珍しかった。戸を開けると、雪に濡れたコートを着た老人が立っていた。白いものが混じった髪。深いしわの刻まれた顔。それでもすぐに分かった。俺の指導医だった柏木俊助だった。
「先生、どうしてここに?」
「はるかから聞いた。あの子は私の娘だ」
俺はそこで初めて、2人の苗字が同じだったことの意味に気づいた。「柏木診療所」と看板に書いてあった。「父の代から」とはるかは言っていた。柏木をストーブの前に通した。彼は両手を火にかざし、しばらく黙っていた。やがて低い声で開いた。
「田司、お前さん、ずっと自分のせいだと思って生きてきたのか」
「思ってきたというより、それ以外考えられませんでした」
「そうか。すまんかった」
柏木は深く頭を下げた。俺は何が起きているのか、すぐには分からなかった。
「最草のことだ。あの夜、彼が倒れた本当の原因は先天性の心疾患だった。本人は学生の頃から知っていたが、研修の採用書類には書いていなかった。私は当時の責任者として、後でカルテを取り寄せて確認した」
「そんな……最草が、そんな」
「彼は医者になりたかったんだ。書けば救命には進めなかった。それを知った上で現場を選んでいた」
俺は椅子の背もたれを掴んでいた。
「あの夜、誰がどう判断しても、彼の心臓はいつかどこかで止まっていたのかもしれない。お前さんの判断ミスじゃない。お前さんが負荷をかけたからでもない。彼は最後まで自分の意思で走った」
「先生、それをなぜ今まで?」
「お前さんが誰にも会わずに病院をやめた。住所も告げずに消えた。私は探した。何年も探した。見つからなかった」
柏木はコートの内ポケットから古い封筒を取り出した。しわがより、角がすり切れていた。
「これは最草が倒れた日にロッカーに残していたものだ。お前さん宛てだった。私がずっと預かっていた」
封筒を震える手で受け取った。中には短い手紙と1枚のメモが入っていた。最草の字だった。
「田先生、今日もしものことがあったら、俺の腕時計、先生に持っていて欲しいです。先生のそばにいると、俺は医者をやってよかったと思います」
俺は言葉が出なかった。ストーブの炎がぼやけて滲んだ。膝の上に雫が1つ、また1つと落ちていった。
「あの時計をお前さんが持っているとは、はるかから聞いた。最草はちゃんとお前さんに渡せたんだな」
俺は止まった時計を握りしめた。
「はるかがお前さんの手を借りたいと言っている。あの子は私が思うよりずっと頑固だ。一度言い出したら引かない。父親としては頼みたい。医者の先輩としても頼む」
俺は頭を下げた。深く、長く頭を下げた。
1週間後の朝、俺は柏木診療所の玄関に立っていた。ポケットにはもう止まった時計はなかった。村の時計屋に頼んでベルトを変え、電池を入れ直した。針は今、ちゃんと動いている。正式な復帰ではない。今はまず看護助手としてはるかの手元を手伝う。それが俺とはるかで決めたことだった。
待合室の長椅子にはいつもの患者たちが腰かけていた。俺の顔を見て、誰かが声をあげた。
「あれ? 便利屋さん、なんでここに?」
「今日からこちらでも少しお手伝いさせてもらいます。よろしくお願いします」
長峰が奥から顔を出した。彼は俺を見てにやりと笑った。
「ようやくか。遅いぞ、田」
「先生はやめてください。まだその器じゃありません」
「何言ってる。村の連中はもう決めとる。あんたは田先生だ」
はるかが診察室から顔を覗かせた。
「田さん、最初の患者さんお願いします」
「はい、ただいま」
返事をしながら俺はカルテを手に取った。待合室の窓の外で、長峰が誰かに話しているのが聞こえた。
「あの人な、昔すごい医者だったらしいぞ。それがな、こないだのバスの一件でな」
俺は聞こえないふりをして診察室の扉を開けた。扉の向こうではるかが患者の女性に優しく声をかけていた。仕事を終えて夕暮れの道を歩いて帰る。風が谷を渡っていく。雪解けの匂いがした。春はもうすぐだった。



