「お前に女としての魅力を感じないんだよ」――夕食の後、夫が突然差し出したのは離婚届だった。しかも彼の欄はすでに記入済み。海外赴任が決まり、給料も上がる。新しい人生には私がいらないらしい。20年近く、家事も仕事も優太の育児も全部一人でやってきたのに。でも、息子の優太だけは私の側にいてくれると思っていた。なのに優太は「父さんと一緒に行く」と……。あの日、優太が私に手渡したのは「戻るまで開けないで…
「僕が戻るまで開けないで。」 切羽詰まった様子で私を止める優太。戻るまで、と言われて胸が小さく跳ねた。理由は分からないけれど、優太がまた帰ってくるつもりでいてくれる。それだけで心の奥に小さな明かりが灯るような気がした。 「分かった。ちゃんと約束守る。大事に取っておくね。」 優太は安心したように笑った。その笑顔を見た瞬間、私は離婚して初めて泣きそうになった。 優太の手から渡された封筒は思っていたより厚みがあったけれど、今は見ないでと念を押された以上、私は従うしかなかった。 「戻るまで開けないから。うん、絶対だからね。」 真剣な顔で頷いた後、優太はまた笑った。目尻が下がる笑顔は幼い頃と変わらない。こうして優太は去っていった。まさか、優太からの手紙があんなに重要になってくるなんて。この時は気づきもしなかった。 私は鈴木まゆみ。37歳。地方のスーパーでレジのパートをしているごく普通の主婦だ。息子の優太が幼稚園に入園したのをきっかけに始めた仕事。少しでも家計の足しになればと軽い気持ちでやり出したが、気づけばもう15年近く続いている。 最初は午前中だけの短時間勤務だった。泣いて離れていく優太を保育園に預け、慌てて職場へ向かう毎日。帰宅後は洗濯物を取り込んで夕飯の下ごしらえ。あの頃はとにかく必死で、目の前の生活を回すことに精一杯だった。 今は手がかからなくなったが、その分教育費がこれからどんどん増えていく。最近は漠然と仕事について考えるようになっていた。そろそろ正社員で働きたい。もちろん簡単ではないことくらい分かっている。 私は19歳の若さで結婚した。特別な資格もなく、履歴書にかける経歴だって立派とは言えない。それでも今より安定した収入があれば、優太の進学の選択肢を増やしてやれる。老後だって不安だ。物価は上がる一方で毎月の貯金も微々たるもの。パート代だけでは限界がある。 これまで何度か夫の周一に相談したことがあった。パートから正社員になることについて。しかし、その度に帰ってくるのは決まって否定的な言葉だった。 「やめとけって。共働きの同期とか毎日地獄だって愚痴ってるぞ。」 夕飯を食べながら周一は味噌汁を吸って鼻で笑う。 「部屋は散らかってるし、弁当はレトルトとか冷食。しかも最近は家事分担しろとか言われるらしい。仕事して帰ってきてさらに皿洗いとか無理だろ。結婚する意味ないって。」 まるで自分は被害者側のような口ぶりだった。私は黙って空になった周一の茶碗にご飯をよそった。この家では当たり前の光景だ。 朝は私が誰よりも早く起きて弁当を作り、洗濯を回し、優太を送り出してからパートへ行く。帰宅後は買い物をして夕飯を作り、風呂掃除をして翌日の準備をする。周一は仕事で疲れているからという理由で、家事にはほとんど手を出さない。私は男の人はそんなものなのだろうと自分を納得させていた。だが、最近は違和感の方が大きくなっている。 周一はソファーに寝転がりながら満足そうに部屋を見回す。 「やっぱ家はこうじゃないとな。片付いてて飯がちゃんとしてて、帰ってきたらゆっくりできる。最高。」 つまり、彼の理想の生活を維持するために私には今のままでいてほしいということだ。 「第一、お前の学歴と職歴じゃ正社員なんて厳しいしな。」 悪気なく言っているのか、笑いながら続ける。 「今の世の中、パートでゆっくりできるなんてむしろ贅沢な身分じゃん。よかったな。俺がちゃんと稼ぐ男で。」 肯定も否定もせず、私は曖昧に微笑んだ。周一は私より10歳年上で、昔から自分はできる男だという意識が強かった。確かに同年代の家庭と比べれば収入はやや高い方かもしれない。けれど超高収入かどうかは疑問だ。私がパートに出なければ貯金はできないだろう。だが週一はまるで自分が特別なエリートかのように振る舞う。 「普通ならもっと苦労してるぞ。専業主婦に近い生活しながらパート程度で済んでるんだから、感謝して欲しいくらいだわ。」 そう言って笑う彼を見て、私は食べ終えた皿を持ってシンクに逃げた。昔なら素直に「そうだね」と思えたかもしれない。けれど最近は週一の自己賛美を聞くたびに胸が小さくきしむようになっていた。 今のところ生活自体は何とか回っている。ギリギリの月もあるものの家賃は払えているし、食卓に困ることもない。贅沢はできないが、節約を意識すればそれなりに穏やかに暮らしていける。ただ、あくまで今だけの話だ。 本当の問題はこれから先にある。優太は来年大学受験を控えている。本人が希望している大学はどれも県外。つまり合格すれば一人暮らしが前提になる。もちろん夢を諦めさせるつもりはない。優太は昔から真面目で勉強もコツコツ頑張るタイプだ。高校受験の時も友達が遊んでいる日も机に向かい、「ここに行きたい」と目を輝かせながらパンフレットを見せてきた。 こんな姿を見てしまえば、親として応援したいと思うのは当然だ。食費、光熱費、教科書代、交通費。大学生の一人暮らしには想像以上にお金がかかる。もちろん遊ぶお金くらいはアルバイトで何とかしてもらうつもりだ。しかし生活の基盤まで全部自分で賄うのは酷だと思う。親だからこそ最低限の支援はしてあげたい。そのためにはどう考えても今のままでは厳しい。 週一の給料だけで乗り切ろうとすれば、貯金はどんどん減っていくだろうし、学資資金まで手をつけることになるかもしれない。だったら週一の機嫌を伺うより、私自身が働く時間を増やした方がずっと現実的だ。 ありがたいことに今のパート先は職場環境が悪くない。むしろ人間関係にはかなり恵まれている方だと思う。レジだけではなく品出しや発注補助、新人教育まで任されるようになった頃から、店長やエリアマネージャーに何度も言われていた。 「鈴木さん、そろそろ正社員どう?」 最初に言われたのは確か数年前。その時は「いやいや、私なんて」と笑って流した。家事との両立も不安だったし、何より週一がいい顔をしないだろうと思っていたからだ。けれど社員への誘いは一度きりでは終わらなかった。 「鈴木さんなら十分やっていけると思うんだけどな。正直今の社員より頼りになりますよ。」 冗談半分に言われることもあったが、働きぶりを評価してくれているのは伝わってきた。15年も同じ場所で働けば嫌でも経験は積み重なる。クレーム対応も、混雑時のレジ回しも、売り場の空気を読むこともそれなりに身についていた。だからもし今の私が正社員になりたいと頭を下げれば、受け入れてもらえる可能性は高いと思う。 問題は能力でも年齢でもない。週一だ。彼が私の正社員化を認めるかどうか。そこだけが最大の壁だった。 よし、頑張ろう。 夕食後、なるべく週一の機嫌が良さそうなタイミングを見計らって、私は話を切り出した。優太は自室にこもって受験勉強中。リビングにはテレビのニュース番組の音と換気扇の低い唸り声だけが響いている。週一は食後の一服をしつつソファーに深く腰を沈めていた。ネクタイはすでに外され、ワイシャツのボタンも上から2つ開いている。仕事終わりのこの時間、彼の一番機嫌が安定していることを私は長年の経験で知っていた。 今話すしかない。 私はマグカップに入れた温かいお茶をテーブルに置いた。 「来年には優太も大学生だね。」 なるべく自然に言ったつもりだが、自分でも声が硬いのが分かった。 「ああ、まだ慣れるか分からないけどな。」 煙を吐きながら週一は気楽そうに返す。 「ま、俺に似てたら大丈夫だろう。高卒のお前に比べたら大変だけどな。」 ケラケラと笑う声がリビングに響いた。悪気があるのかないのか、もう今となっては分からない。多分本人は冗談のつもりなのだろう。でもこういう言葉を週一は昔からよく口にした。 「高卒だから世間知らずなんだ。お前には難しい話だろう。頭がないんだから黙ってろ。」 付き合っていた頃はこんなことを言う人ではなかった。少なくとも私の記憶の中に覚えはない。結婚し、子供が生まれて私が家庭に入るようになってから、週一は少しずつ変わっていった。もしくは変わったのではなく、本来の姿だったのかもしれない。 最初の頃はその度に傷ついていた。高校卒業後すぐに働き始めたことをまるで人生の失敗のように指摘される度、自分の価値を否定されている気になって苦しかった。さらに悔しいのが反論できなかったこと。私は大学にも行っていないし、大した資格もない。高卒で就職した仕事も出産と育児で辞めてしまった。だから自分に自信がないという気持ちを週一に見透かされていたのだと思う。 20年近くも同じようなことを言われ続ければ人は慣れる。傷つきはする。ただ、いちいち反応するのに疲れてしまっただけだ。 大事なのは相手に対して感情的にならないこと。週一の機嫌を損ねずに自分の希望を通してもらうために。 「優太、最近すごく頑張ってるよね。」 「あいつ意外と根性あるからな。誰に似たんだか。」 「あなたじゃない。」 そう返すと週一は満足でもなさそうに鼻を鳴らした。こういうところだ。週一は基本的に自分を持ち上げられると機嫌が良くなる。だから私は長年かけて地雷を踏まない会話を覚えてしまった。否定せず、逆らわない。まず相手を立てる。夫婦というより取引先との会話に近いかもしれない。 … Read more