70歳を過ぎたある日、40年連れ添った夫が突然「早急に新居を探して家を出ていけ」と告げた。理由も告げず、私の意見も聞かず、一方的に別居を決めた夫。長年、私と娘に冷たく当たり続けた彼に、私はもう何も言えなかった。でも、彼が倒れて入院し、荷物を取りに戻った家で、私は彼の机に置かれた古い手帳を見つけた。開いた瞬間、息を呑んだ。そこには、私が知らない真実が綴られていた。彼がなぜ私を遠ざけたのか、なぜ…
「早急に新居を探して家を出ていけ。この家には俺が住み続ける」 70歳を過ぎたある日、夫の正吉から突然、別居を告げられた。彼は一方的に話を進め、私の意見には耳を貸さなかった。結局、私はしぶしぶながら別居を受け入れた。 今思い返してみても、40年もの間、正吉は冷たかった。私や娘の香りに無関心で、些細なことでも目を釣り上げて怒った。口数も少なく、夫婦らしい生活を送った記憶はほとんどない。彼との生活を振り返るたび、私は胸が締めつけられた。 そんなある日、突然病院から電話がかかってきた。正吉が街中で倒れ、救急搬送されたのだという。彼は入院することとなり、私は荷物を取りに行くため、久しぶりに自宅へと戻った。すると、正吉の書斎の机に1冊の手帳が置かれていた。 「それ、お父さんがずっと使ってたものよ」 ふと手帳を開いた瞬間、私は思わず息を飲んだ。読むうちに全てを理解し、自然と涙が溢れた。 「正吉、ごめんなさい。あなたはずっと苦しんでいたのね」 私は長野、71歳。今はとある事情で1人暮らしをしているが、先月まで2歳年上の夫・正吉と暮らしていた。 彼と出会ったのは今から40年以上も前のこと。当時26歳だった私は銀行に勤務していた。周囲の友人はみんな結婚し、独身なのは私だけ。そんな娘を見かねてか、父がある日、見合い話を持ちかけてきた。 「お父さん、この方は?」 とある男性の写真を見せられて、呆然としている私に、彼は淡々と告げた。 「うちの社員の正吉君だ。彼も1人でな。じこ、一度会ってみなさい」 父は食品会社を経営しており、正吉は社員の1人だった。彼は優秀ではあるものの、無口で人付き合いが苦手なのだそう。 いきなりのことで驚くが、父の提案を断るわけにはいかない。私は後日、正吉と会うこととなった。 「初めまして。川島順と申します。長野正義さんですよね。社長からお話は伺っております」 彼は私を見るなり小さくお辞儀をした。確かに父から聞いていた通り、口数が少ない人だった。話を広げようと質問しても、帰ってくるのは一言二言だけ。 「困ってますよね。俺みたいな男性を紹介されて」 2人きりになった時、正吉は申し訳なさそうな顔をした。彼は社長の娘を紹介されていたらしい。 「なぜ俺がじこさんの見合い相手なのか分からなくて。気を使わせてしまってますよね」 「ええ、そんなことはありません。むしろ私は正さんが見合い相手で良かったと思ってますから」 正直に言えば、最初は見合いなんて適当な理由をつけて断ろうと考えていた。結婚願望はあるものの、今回の相手は父の会社の社員。向こうは私が社長令嬢だから結婚したがっている可能性がある。そう思い、あまり乗り気ではなかったのだ。 だが、正吉と話して、私は気づけば彼の人柄に引かれていた。無口ではあるけれど、一緒にいると不思議と落ち着く。正吉は話すのが苦手なのではなく、慎重に言葉を選んでいるようだった。そんな誠実な彼となら結婚してもいいかもしれないと思えた。 「正さんの気持ちもありますし、無理はしませんが、またお会いできたら嬉しいです」 「俺もじこさんと仲良くなりたい」 私たちはその後交際を始め、出会いから1年後に結婚。正吉を支えるため、私は銀行員を辞めて専業主婦となった。彼と一緒にいる時間は穏やかで、毎日が幸せだった。 しかし、正吉と実家に行く度、私は心をかき乱される。 「正さんってば、物好きなんだな。こんな地味な顔の兄貴と結婚するなんて。兄貴って昔からどん臭いし、苛立つことも多いんじゃない?」 私たちを見て嘲笑うのは弟の弘雪。彼は実家で暮らしており、父の会社で働いていた。当然、私のこともお見合い前から知っている。ただ、結婚を報告した際、弘雪は祝福するどころか鼻で笑った。彼は昔から私を見下しているのだ。自分の方が優秀だと思い込んでいる。 入籍後も、弘雪は会うたびに私を馬鹿にした。ある日、久々に実家に顔を出した私を見て、彼は悪い笑みを浮かべる。 「俺なら姉貴みたいな奥さん、絶対に嫌だな。正さんってもしかして社長の座を狙うために姉貴と結婚したの?言っておくけど無理だよ。俺がいるんだから」 「正吉君は真面目だ。そんな理由で結婚したわけではないだろう」 「じこの方はどんな考えで彼を選んだかわからないがな。こんなチャンスは2度とないと思って飛びついたのかもしれない」 「お父さんが見合い話を持ってこなかったら結婚できなかったでしょうね。じこ、あの人に捨てられないよう人一倍頑張りなさいよ。あなたは要領が悪いんだから。もし正吉君に捨てられても、もううちには戻ってくるなよ」 両親は弘雪と一緒になって私を貶める。2人は子供の頃から会社の後継である長男の弘雪ばかり可愛がり、娘の私には冷たかった。成績が良くても、家事の手伝いを頑張っても、褒められたことはない。物心ついた時にはもうこの扱いだったので、私は慣れている。とはいえ、夫の前で馬鹿にされるのは恥ずかしかった。 両親や弘雪に感化されて、彼までも同じような扱いをしてくるのではないか。そんな不安もあり、家族に合わせることに恐怖を感じていた。 けれど、私の心配は杞憂だったらしい。正吉は家族から何を言われようが、私の味方をしてくれたのだ。 「ご家族が謙遜する気持ちも分かりますが、じこさんはとても素晴らしい女性です」 先ほどまで黙って家族の話を聞いていた彼が、不意に声をあげた。 「は?謙遜じゃないって。俺はただ事実を」 「じこさんは立派な妻ですよ。毎日美味しい料理を作り、俺の帰りを待っていてくれます。いつだって笑顔を絶やさない。彼女のおかげで俺は仕事を頑張れます」 正吉はふっと笑み、こちらに視線を送る。彼が変わってくれたことが心から嬉しかった。両親と弘雪は笑い合う私たちを見て不満げな顔をしていたが、もう気にならない。正吉がそばにいれば大丈夫だと思えた。 それから1年後、私は娘の香りを出産する。正吉は育児に追われる私を支え、家事を積極的に手伝ってくれた。 「じこは1人で頑張りすぎだ。俺はお前の夫なんだから、もっと頼ってほしい」 「だけど、正吉は働いてるでしょ。私は専業主婦だから、家のことは全部私がやるわ」 「俺も手伝う」 優しい口調で皿を洗い、香りの面倒も見てくれる彼。私は正吉の優しさに何度も救われた。 そして、香りはすくすくと育ち、3歳になる。私は娘の成長を喜んでいたが、その頃から徐々に正吉の態度が変わっていった。 「正吉、お帰りなさい。今日は一段と遅かったわね。夕食、温め直すわ」 「いや、いらない。食べてきた」 彼は仕事が忙しいのだろう。帰宅が遅くなり、夕食に手をつけないことが増えた。以前のように家事を手伝うことも減り、休日はしょっちゅう家を開ける。 「あら、今日もどこか行くの?」 「帰りは遅くなる。夕食はいらない」 「そう。いつもどこに行ってるの?」 「何をしてようが関係ない」 目的地を尋ねても、彼は教えてくれなかった。怪しいと思うものの、正吉にも事情があるのだろう。仕方ないので、休日はいつも香りと2人で過ごしていた。ただ、たくさん遊んでくれていた正吉がいなくて寂しいのか、彼女は時折ぐずる。 … Read more