「値上げだと?ふざけたことを言ってくれるじゃない。うちが取引してやってんだから感謝してもらいたいものね」——その言葉を聞いた瞬間、二十年以上続いた取引の終わりを悟った。先代社長の進藤さんは、お客さん第一で、俺の会社をここまで育ててくれた恩人だった。だから娘の蒼井さんに代替わりしても、その娘だからと信じてきた。なのに彼女は年を追うごとに態度を大きくし、「あんたは私に言われたことをやってればいい…

「値上げだと?ふざけたことを言ってくれるじゃない。うちが取引してやってんだから感謝してもらいたいものね」——その言葉を聞いた瞬間、二十年以上続いた取引の終わりを悟った。先代社長の進藤さんは、お客さん第一で、俺の会社をここまで育ててくれた恩人だった。だから娘の蒼井さんに代替わりしても、その娘だからと信じてきた。なのに彼女は年を追うごとに態度を大きくし、「あんたは私に言われたことをやってればいい...

「値上げだと?ふざけたことを言ってくれるじゃない。うちが取引してやってるんだ。感謝してもらいたいものね」

取引先の二代目社長は、ふんと鼻で笑いながらそう言い放った。物価高騰に伴う値上げ交渉をするために俺は訪れたのだが、彼女は聞く耳を持たないどころか、こちらを完全に見下していた。

この会社とは長い間取引を続けてきた。しかし、先代の社長から娘に代替わりしてから、両者の関係は良いとは言えなくなっていた。先代からの付き合いも考えて、今まで値上げを申し出ることはしなかった。だが、もう今の価格では会社を維持することができない。必死に説明しても、彼女は鼻で笑うばかりだった。

「うちと取引したいって会社はいくらでもあるのよ。取引先をいくつか切って、あんたの会社を潰してあげようか?」

ついには脅迫めいた言葉まで飛び出してきた。そうすれば俺が値上げを諦めると思っているのだろう。その人を舐め切った態度に、俺の我慢も限界に達した。

「分かりました。それでは、契約は中止にしましょう」

「はあ?あんた、何言ってるか分かってるの?年間五億よ?」

「五億くらい問題ありません。中止で結構です」

きっぱりと言い切った俺を、二代目社長は貧乏人の強がりだと嘲笑った。自分がこれからどんな目に遭うのかも知らずに。

俺の名前は中村太郎。冷凍食品の会社の社長をしている。うちの製品は主に飲食店に卸している。元々この業界で働いていた俺は、もっとお客さんのために努力している飲食店の力になりたいと思い、この会社を設立した。設立当初からの目標は、いいものを提供することだ。

だが、最初から上手くいったわけではない。小さな会社ということもあり、なかなか契約も増えず悩んでいた。多くの飲食店には既に決まった取引先があり、小さな新しい会社にわざわざ契約を変えるはずがない。営業は失敗の連続だった。話を聞いてもらえないこともしばしばあった。

それでも俺は諦めず、できることをコツコツとやっていこうと製品を作り続けた。まずは少ない取引先を大事にし、これからも契約したいと思ってもらえる会社作りに励んだ。どうすれば取引したいと思ってもらえるのか、どんな商品が求められているのかを必死に考えた。

その結果、少しずつではあるが、着実に取引先は増えていった。「これからも取引をしたい」と言ってもらえることも増え、本当に嬉しかった。そのおかげで扱う食材も増え、今では野菜から肉、冷凍食品まで多くの食材を扱っている。創業して二十数年。地道な努力の甲斐もあって、うちの会社は高い冷凍技術で評価を得るようになった。いいものを使いたいと思う飲食店の気持ちに応えるため、冷凍技術には特にこだわってきた。取引先からも「冷凍でこんなに味が落ちないいい食材はなかなかない」と喜んでもらえている。その言葉が俺の頑張る力になった。

得意先の中でも、特に古くから付き合いのある会社がある。先代社長である進藤社長は、食べ放題など複数の飲食店を経営している。全国に店舗があり、この業界ではとても有名な会社だ。

設立当初のうちの会社の規模から考えると、相手にしてもらえるはずもない会社だと思っていた。しかし、熱心に営業に通い、俺の考え方や気持ちを進藤社長に伝え続けた。その結果、「一度取引しよう」と言ってもらい、俺の作るものを認めてくれて、以来取引を続けている。他の取引先と比べても付き合いは非常に長く、進藤社長のおかげで続けて来られたのだと感謝している。今では「いいビジネスパートナーだ」と言ってもらえるまでになった。進藤社長は大きな会社であるにも関わらず、一番にお客さんのことを考えている。その姿勢を見て、俺は進藤社長を尊敬していた。これからもそんな進藤社長の力になれればと思い、頑張ることができていた。

そんな時、進藤社長が会社にやってきて、年齢を理由に引退することを告げられた。

「長年、良きビジネスパートナーとして一緒に仕事ができて本当に良かったよ」

そう言われ、俺も色々なことを思い出し、少し寂しい気持ちになった。

「今、役員を務めている娘の蒼井に社長を継がせることにした。これからは蒼井と、お互いの会社のために良くやってほしい」

突然のことに驚きながらも、進藤社長の真剣な眼差しを見て、その思いを受け取った。蒼井さんとは会ったことはないが、役員をやっている娘さんがいることは話に聞いていた。どんな人なのか分からず、うまくやっていけるか少しだけ不安になった。しかし、進藤社長の娘さんなのだから、きっといい人だろう。そう思うと不安はすぐに消え、進藤社長が退任するのは寂しいが、蒼井さんと頑張っていこうと前向きな気持ちに切り替えた。

「進藤社長のおかげでここまでやってこられました。本当にお世話になりました」

言葉では足りないほどの感謝の気持ちを精一杯伝える。そして、これからは蒼井さんと良好な関係を築き、取引を続けていくことが最大の恩返しだと思い、改めていいものを作ろうと決心したのだった。

それから数週間後、ついに社長交代の日がやってきた。今度は二人揃って挨拶に来てくれた。

「先日話した娘の蒼井だ。これからよろしくな」

「中村さんとはいいビジネスパートナーだったと父から聞いております。これからよろしくお願いします」

蒼井さんは礼儀正しく、とても感じのいい素敵な人だった。まだ若く、俺よりずっと年下なのにしっかりしており、この人ならうまくやっていけそうだと感じた。

実際、社長になってからの蒼井さんは敏腕という感じで、本当に頼りになった。考え方もしっかりしており、進藤社長に続くいいビジネスパートナーになれるのではないかとも感じた。

しかし、それは最初だけだったのだと、俺は次第に思うようになった。蒼井さんは利益のためにどんどん新しいことを取り入れていこうというタイプだった。お客さん第一で考えていた進藤社長とは違っていた。その考え方は経営者としては良いのかもしれない。社長交代後、蒼井さんの会社はどんどん業績がアップしていった。海外進出も押し進め、大成功を収めていく。

しかし、業績がアップしていくにつれ、蒼井さんの態度はどんどん横柄へと変化していった。

「中村さん、うちの頼んだことは、何でもしっかりやっていただかないと困りますよ」

「ですが、と言われましても、うちは最善を尽くしますが、他の取引先との契約もありますので、あまり無茶な要望にはお答えできないこともあります」

いつからか、上から目線で偉そうに指図してくるようになった。蒼井さんの言葉には驚いてしまうことも多い。

「いやいや、誰のおかげであんたの経営が成り立ってると思ってるんですか?うちが最優先に決まってるじゃないですか」

蒼井さんはいつも自分が言いたいことだけを言い、俺の話には全く耳を傾けずに立ち去ってしまう。自分の会社がなければ俺の会社は成り立っていない。いかにも自分のおかげだという言い方で、俺を見下してくるのだ。確かに長年取引してもらっており、蒼井さんの会社の店舗が増えるたびにうちへの注文も増えていくため、取引も増えていく一方だ。しかし、ずっと一緒に仕事をしてきたのは進藤社長であり、そこまで蒼井さんに上から目線で言われなければならない理由が俺には分からなかった。時には進藤社長のやり方は儲からないと否定していることもあり、俺はそんな話を聞くたびに不快な思いをしていた。進藤社長の思いを引き継ぐいい社長だと思っていたこともあり、すごく残念に思っていた。

そうして時が流れ、数年で両者の関係性はすっかり変わってしまった。蒼井さんの横柄な態度は変わらず、むしろますます偉そうになってしまっている。無理な納期を設定するなど、蒼井さんが無理を強いてくることも日常となっていた。

「三日後の納品だけど、予定が変わったから明日の午前中に全部納品して」

「明日ですか?さすがにそんな変更は受け入れられません」

「はあ?誰に向かってそんな偉そうに反抗してるわけ?あんたは私に言われたことをやってればいいのよ」

そう言って蒼井さんは一方的に電話を切ってしまう。この数年で話し方もタメ口になり、最初に挨拶に来た時の姿からは想像もできない人になってしまった。蒼井さんの要望は毎度本当に厳しい。だが、俺が意見をしても蒼井さんは上から目線で全く聞く耳を持たない。そして、いつも決まって一方的に電話を切られてしまうため、俺はなんとか無理をして蒼井さんの無茶な要望に答えるしかなかった。

これには俺の会社の社員たちの間でも不満が出始めた。

「そんなの無茶苦茶ですよ」「急に明日納品なんて何なんですか?」

みんなに迷惑をかけてしまって本当に申し訳ないと思っている。

「すまないが、一緒に頑張ってほしい」

「社長が謝ることじゃないですよ。社長のためにやりますけど、こっちの都合も考えてくれないあの人の態度は許せません」

不満を言う社員たちに、俺はひたすら謝り、一緒に頑張ってもらうしかなかった。みんな俺を責めることなく、文句を言いながらも納期に間に合うよう無理をしてくれるが、そんな姿を見るのは心苦しかった。俺自身も蒼井さんに対して不満はあったが、進藤社長から続く二十年以上の付き合いを考えて、耐えて取引を続けるしかなかった。

そんなある日のこと。俺は緊張しながら蒼井さんに電話をかけた。普段は蒼井さんの無茶を受け入れている俺だが、今日はどうしても蒼井さんに受け入れてもらわなければいけない要件があった。それは物価高騰に伴う契約金額の変更である。すでに他の会社は値上げをしていたが、蒼井さんの会社はまだ据え置きのままだった。これまでも何度かそれとなく値上げの話をしていたが、うまく言いくるめられ、いつものように一方的に電話を切られてしまうため、なかなか話が進まないでいる。しかし、これ以上は会社の経営にも関わってきてしまう。そこで、今日こそはしっかり話をつけようと考えていた。

「蒼井さん、先日もお話しした契約金額変更の話ですが、次回の納品からお願いしたいと考えております。よろしくお願いします」

「はあ、こんなの高いって言ってるでしょ。値上げなんて受け入れられるわけないじゃない。今までこの金額でやってたんだから、変更なんて無理よ」

「しかし、物価もあり、これ以上現状維持を続けることは不可能です。ご理解いただきたいです」

物価高騰が与える影響は、社長である蒼井さんもしっかり分かっているはずだ。自分でも無茶を言っている自覚はあるはず。俺は諦めずに食い下がった。すると、蒼井さんが「ちっ」と小さく舌打ちした。

「分かったわ。現状維持ができないのなら、あんたとの契約は打ち切らせてもらうわね」

突然の脅し。俺は面食らって一瞬言葉に詰まってしまった。そんな急に契約打ち切りだなんて。

「確か年間五億くらいにはなる契約よね。あんたのところなんか使わなくても、うちと契約している会社は多いのよ」

蒼井さんは勝ち誇ったように胸を張り、俺を見下す。

「うちがいないと困るくせに、値上げするって言ってくるから悪いのよ。いくつかの契約を中止して、あんたの会社潰しちゃおうかな」

蒼井さんはケラケラとバカにしたように笑いながら、ふざけた言い方でそんなことを言ってきた。そういえば、俺が現状維持でいいと言うと思っているのだろう。だが、俺の感情は蒼井さんの考え通りには動かなかった。その舐め切った態度に、今まで我慢していた怒りが爆発してしまったのだ。

「分かりました。全ての契約を中止させていただきます」

怒りで震えそうになるのを抑え、低い声で告げる。

「はあ?あんた何言ってるか分かってるの?五億よ?」

蒼井さんは、まさか取引中止を受け入れるとは全く思っていなかったようで、驚き怒りながら声を荒らげた。

「五億くらい問題ありません。中止で結構です」

「生意気な。もういいわ。後悔しても知らないから」

俺がきっぱりと中止で良いと伝えると、蒼井さんは立ち去った。こうして、二十年以上続いた契約は、両者で合意されることになったのである。

その数週間後、なんと蒼井さんの方がうちの会社に突然やってきた。いつも胸を張って堂々と歩いているのに、今日は見るからに元気がない。

「申し訳ありませんでした」

もう蒼井さんと話す気にもなれず、「帰ってくれ」と伝えると、蒼井さんは深々と頭を下げて謝罪してきた。それでも俺が黙っていると、蒼井さんがぽつぽつと今日やってきた事情を打ち明け出した。うちの会社との契約を打ち切ったことで、国内分の安定供給すら危うくなっていると話す。二十年もの間契約をしていたのだから、突然契約が中止になればそうなることは想像できたはずだ。それでも、うちの会社を見下していた蒼井さんからしたら、他の会社に当たればすぐに取引先が見つかると考えていたようだ。それだけ自分の会社に自信を持っていたのだろうが、現実は甘くない。うちの会社は進藤社長の時代からの長い付き合いということもあり、他社と比べて低価格で取引をしていた。だが、それを当たり前だと考えた蒼井さんは、他の会社に同額の条件を提示しただけで激怒され、突っぱねられたという。

いくら全国展開、海外進出しているような会社であろうと、あんな無茶な金額では取引したいと思うはずがない。それでも、どうにか同じ価格で取引してくれる会社を見つけて契約したそうだが、品質が悪く味が落ちたとお客さんからのクレームが殺到し、現場の社員からも不満が出たという。それでもうどうすることもできなくなって、蒼井さんは謝りに来たようだった。本当に何も知らないで偉そうにしていたのだと思うと、ますます腹が立ってしまう。

「本当に申し訳ございませんでした。もう一度、契約をしていただけませんでしょうか?」

「お断りします。話すこともありませんので、お引き取りください」

「お願いします。改めて、契約や契約の更新に関する話し合いをしていただきたいと思っています」

「価格を上げて良いのなら、他社さんでもいいのでは?うちはもう、あなたと仕事をしたくないんで」

「いえ、それが、それも考えて試しに取り寄せたのですが、味が全く違うと現場から上がっており、やはりこちらの品質には叶わないと」

「話し合っても無駄ですよ。何を言われても、一緒に仕事をする気はもうありませんので」

蒼井さんは今までの態度が嘘のように丁重にペコペコと頭を下げ続けたが、俺は断固として拒否する。もう蒼井さんに振り回され、苛まれながら仕事をするのは真っ平御免だ。

「何よ?」

すると、蒼井さんが低い声でぽつりと漏らした。それに俺が眉を潜めていると、蒼井さんも耐えきれなくなったのか、きっと俺を睨んだ。

「偉そうに。あんた、もううちと契約がなくなって困ってるんでしょ。五億くらい問題ないなんて強がり言っちゃって」

本性を表した蒼井さんに、一つため息をつく。

「強がりではありませんよ。蒼井さんは何も知らないと思いますが、うちの会社が持つ冷凍技術は様々な企業に評価していただいており、『業界最高峰』とも言われています」

「そんなわけない。うちとの取引がメインだったじゃない」

「進藤社長とは長い付き合いがあり、ずっと取引させていただくつもりでいました。だから、他の会社からの契約はお断りしていたんですよ」

俺が強がりで言っているわけではないことを理解し始めたのか、蒼井さんの顔がだんだんと引きつっていく。

「あなたとの取引がなくなれば、その分、正当な価格で他に卸すことができますね」

「何よ。長年取引してきたのに、進藤社長への恩とかないわけ?」

もう言えることがなくなってしまったのか、蒼井さんは最後に進藤社長の名前を出し始めた。

「ありますよ。それでも、無茶苦茶な要望をして、こちらのことを考えてくれない人とは仕事はできません。もうお引き取りください」

俺はきっぱりと蒼井さんに言い放った。それでも蒼井さんは「契約してくれるまでここにいる」などと言って駄々をこね始めたが、「営業妨害で警察を呼ぶ」と言うと、さすがにまずいと思ったのか、逃げるように帰っていった。

その後、蒼井さんの会社は海外進出をストップすることになった。国内だけでも維持しようと試みたが、新規で契約した加工会社の価格が俺の会社より圧倒的に割高で採算が合わなくなり、さらには味の低下も相まって経営不振に陥った。結果、海外の全ての店舗と国内の七割の店舗を畳むことになってしまったようだ。

一方、俺の会社は新しい会社との契約を交わし、五億以上の儲けを出すことができている。蒼井さんの会社との契約が中止になったことが分かると、様々な企業が契約の話を持ってきてくれた。そのため、いい条件での契約を結ぶことができたのだ。今まで蒼井さんの無茶な要望のせいでギリギリで社員に無理をさせていたが、それもなくなる。社員たちも労働環境が良くなったおかげか、職場の雰囲気も以前より良くなった。俺は長い付き合いであることだけを気にして契約を続けていたが、社員のためにもっと早くこの決断をしたら良かったと反省した。

そんなある日のこと、進藤社長が俺の元にやってきた。

「うちの娘が飛んだり迷惑をかけたようで、本当に申し訳ない」

契約が中止になったことも何も蒼井さんから知らされていなかったようで、何度も何度も頭を下げられる。それから、進藤社長から蒼井さんの会社の騒動について話をされた。業績不振により蒼井さんの社内での求心力が著しく低下し、社長職から降ろすという動きが起こったという。それに蒼井さんが抵抗したことで内部抗争が発生し、経営はさらに悪化。蒼井さんの横柄な態度は社員に対しても同じだったようで、それをみんな不満に思っており、蒼井さんを庇う人はいなかった。会社はすっかり傾いてしまったが、同業他社に吸収合併されることになり、なんとか倒産は免れたようだ。新経営陣に蒼井さんは追放され、その後の行方は進藤社長も知らないという。進藤社長は自分が作り上げてきた会社をめちゃくちゃにされ、悲しそうだが、自分の責任でもあると言っていた。そんな姿を見て、俺も自分が引退する時には適切な人に継がせようと心に誓った。その時のためにも、社員や取引先を大切に、これからも取り組んでいこうと思う。

「やだ。何よ、その格好。やっぱり貧乏人は貧乏人のままね」

所用で訪れた高層ビル最上階のオフィス受付で、偶然再会した高校時代の元彼女がそう下品に呟いてきた。望まぬ再会に気分を害しながらも、我慢して要件を告げた俺に、元彼女はニヤニヤ笑ってこちらをバカにしたように首をかしげる。

「失礼ですけど、社長から貧乏人は通すなって言われてるんで」

そんなわけあるかよ。というか、その態度は受付担当として失格じゃないのか。時間と共に丸くなるどころか、高校時代の性格のまま外見だけ大人になってしまったらしい。元彼女に呆れてしまう。

「じゃあもういいです」

「やっと分かってくれました。このまま大人しく地上へお帰りください」

高が貧乏人と見下し嘲笑を浮かべ続ける元彼女の横目に、俺はスマホを取り出すと、一本の電話をかけた。

俺の名前は赤川悠。俺は昔から勉強をするのが好きで、中学高校とも成績優秀で通っていた。大学も有名国立大を目指していたのだが、家が裕福な方ではなかったため、塾などには行かず自力で勉強をしていた。だが、様々なことが重なり受験当日に体調を崩していた俺は、第一志望の大学に受かることができなかったのである。もちろん随分と気落ちした。それでも教師や親の勧めもあり、違う大学へと進むことを決意。奨学金を受けながら市立の大学に進学したのだった。

それが結果として良かったと今では思っている。大学のサークルで運命の出会いを果たしたのだ。正美という女性で、すぐに交際に発展。大学卒業後は大手IT企業に就職し、その数年後、正美と結婚を果たしたのだった。さて、その日、俺はとある用事で都心にある超高層ビルの最上階を訪れていた。「天空のオフィス」とも称されるそこは、ある企業が拠点を構えていることでも知られている。最上階専用の近未来のような最先端のエレベーターに乗って上昇すること数分。開放的なビル最上階の景色をこれでもかと活かした設計になっているオフィスのロビーをぐるりと見回し、俺はフロア入り口の受付へと近づいた。

受付には一人の女性が待機していた。ここの会社には制服がないと聞いている。受付担当の女性も、その小柄な体を華やかなフリルシャツで包んでいた。ふわふわとした巻き髪にプラスして化粧もしっかりと施されたその雰囲気には、似合いの服であった。ただ、アパレル関係でもない会社の受付担当としては少々派手だなと内心俺は思う。もちろん、そんなことはおくびにも出さず、俺は女性に要件を伝えようと顔を上げた。だが次の瞬間、俺よりも先にその女性が高い声をあげる。

「え、嘘?悠じゃないの?」

甘えたように響く、舌足らずのその喋り方には聞き覚えがある。俺はそこで初めて相手の顔をまじまじと見つめた。目の前の派手な女性と、制服を着た女の子の姿がオーバーラップする。その女性は、なんと高校時代の元彼女、工藤詩乃だったのだ。そして当時の苦い思い出もついでに俺の中に蘇る。別れ方が別れ方だったため、どう反応すればいいか分からず、反射的に黙り込んでしまった。そんなこちらを横目に、詩乃はまるで珍獣を見るかのような様子で俺をゆっくりと眺め回すと、それからふんと鼻で笑った。

「ちょっと何その格好。こんな時代の最先端の構造ビルに来るのに、そこら辺に売ってるような安物のシャツとジーンズで着てくるとか。まあ、あんた高校の時からダサかったけどね」

クスクスと肩を揺らして、それから彼女は「あ、違うわね」と間延びした明るい声をあげて、直前の自身の言葉を否定する。

「あんた、ダサい前におしゃれするほどお金持ってなかったんだったわ。実家も貧乏だったけど、その様子だと今も貧乏なのね。かわいそうに。けど、国立大に落ちる程度の頭なんだから、それも当然か」

ねっとりとした嘲笑の奥に悪意が見え隠れした詩乃の声が、すっきりと広いロビーに響いた。確かに彼女の言う通り、俺は国立大の受験に失敗した。基本的に諸々を管理できなかった俺にも問題があったと今は反省している。だが、受験間近に俺が体調を崩した一因は、目の前の元彼女にもあるのだ。

詩乃とは高校三年の夏に付き合い始めた。と言っても、俺はバイトと勉強で忙しかったし、何より受験が迫っていたから、最初は彼女からの告白を断っていたのだ。それに詩乃は顔こそ可愛らしいが計算高い性格で、自身の利となる相手とだけ上手く付き合い、その他の存在は無視するか、自分の都合のいいところだけ頼って甘えるような一面があったから。だが、俺が何度か交際を断っても彼女は諦めが悪く、グイグイと迫ってきた。そして、可愛い詩乃に告白されたことで周りが囃し立てるものだから、俺も内心調子に乗ってしまったのである。若かったからというのは単なる言い訳だが、そんなこんなで俺はついに詩乃に押し切られ、彼女と付き合うこととなった。

しかし、晴れてカップルになった途端、詩乃はそのわがままな性格や人を人とも思わないところを全開にし始めた。バイトと勉強で忙しいという俺に、「カップルなんだから二人で遊びに行くのは当然でしょう」と散々ごねて、彼女の行きたいところに付き合わされることはしょっちゅうで、その際の支払いも全て俺に押し付ける。また、詩乃がファンであるアーティストの限定コラボグッズが出た時などは、俺を炎天下に何時間も並ばせた挙句、自分は家から一歩も出てこないなんてこともあった。その度に俺は、本来なら勉強に当てるべき時間と気力を削られ、その分の遅れを寝る間を削って取り戻すという生活をしていたのである。

だが、受験も目前に差し迫った冬の最中。「どうしても遊びに行きたい」という詩乃の誘いを、さすがに断っていた俺に、彼女が言ったのだ。

「付き合ってるのに、気軽に会うこともできないなんて悲しいよ。せめてカフェでお茶するだけでもダメなの?」

電話口で珍しく悲しげなことを口にした詩乃に、俺もなんとなく折れてしまった。そして、「お茶だけなら」と出かけることになったのである。しかし、自分から言い出した待ち合わせに堂々と遅れてきた彼女は、明らかに風邪を引いていると分かるほど顔色が悪かった。体調を聞いても「大丈夫だよ」の一点張りで、挙げ句には「そんなに早く帰りたいんだ」などと往来で責められるものだから、仕方なく俺は彼女が満足するまで数時間、一方的な彼女のおしゃべりに付き合うはめになった。

やはりそれがいけなかったのだろう。俺は次の日、見事に風邪を引いた。熱も高く、最後の追い込みをしようと思っていた受験当日までの貴重な数日が、寝ているだけで終わってしまった。また、受験当日も熱だけは何とか下がったものの、頭痛と鼻水と喉の痛みに苛まれながら挑まなければいけなくなったのだ。結果は推して知るべし。俺の受験は失敗した。

そして、俺の受験失敗を耳にした詩乃はといえば、俺が学校に顔を出すなり猛然と食ってかかってきた。

「あんた、顔もセンスもダサいけど、頭だけはいいから我慢して付き合ってあげてたのに、肝心な国立大に落ちるなんて、そんなのどこもいいとこないじゃない。ああ、本当最悪」

その小さな顔を鬼のように歪めて、彼女は吐き捨てた。だが、さすがに言いたい放題の相手に俺もカチンと来て言い返した。

「でも、俺が風邪を引いたのは詩乃にも一因があるだろ」

「はあ?あんた、自分のしょうもなさを私のせいにする気?やだやだやだ。何も信じられない。バカじゃないの?頭悪い上に最低な男」

しかし、俺が口を挟んだ瞬間、その倍の速度で詩乃がそれを叩きつける。俺を睨みながら彼女が怒った。

「あんたに付き合ってあげてた私の時間、返してよ。そりゃあんたは、私みたいな可愛い彼女と付き合えて良かっただろうけど、私にしてみたら何も得なんかなかったじゃない」

「あ、もうやっぱり貧乏人は貧乏人のままね」と言い捨てて、詩乃はこちらをじろりと一瞥した。

「私、将来の見えない人と付き合うほど暇じゃないから。これから私に突きまとわないでね」

投げつけるようにそれだけ言って、彼女はさっさと俺の前から去っていった。そうして俺と詩乃はあっけなく別れたのだった。

本当に、今思い返してもあれほど最悪な経験はない。それも、十数年も経ってから、偶然とはいえその相手とこうして再会してしまうなんて。さらに相手は、時間と共に丸くなるどころか、高校時代のあのまま外見だけ大人になってしまったらしい。厄介な元カノにうんざりしながら、早く離れたい一心で俺は手短に要件を告げた。

「こちらの社長に取り次いでほしい」

だが、案の定、詩乃はニヤニヤと笑うばかりで俺の言う通りにはしてくれない。それどころか、全力でこちらを馬鹿にするつもりらしく、今度は嘲笑の色を隠そうともせず、大げさに肩をすくめた。

「ちょっとあんた本気?そもそもこんなオフィスの社長に、あんたみたいな貧乏人が何の要件なのよ?ま、別にどうでもいいけどさ。社長と会うなら、せめてもうちょっと格好に気を使いなさいよ」

キャハハとフリルのブラウスを揺らしながら、詩乃は嫌味ったらしい笑い声をあげる。確かに、シャツとジーンズというラフな格好で来た俺も良くない。これから向かう場所を考えての服装なのだが、あんな趣向の高層ビルを訪れるには相応しい恰好とは言えないだろう。でも、それを言うなら、こんな最先端のオフィスの受付にしては、彼女のその化粧も服もどうにも場にそぐわないものだ。むしろ、大人の女性としては痛々しいほどだが、それでもそんなことを言えば、またあの頃のように逆上させてしまうのは目に見えている。俺は言い返したいのを必死に我慢して、本来の要件を再度繰り返した。

「なあ、お願いだから社長に話を通してくれ。俺の名前を言えば分かるから」

それでも詩乃はわざとらしくにっこりと笑い、ちょこんと首をかしげた。濃いピンクに染まった唇が舌足らずにもごもごと動く。

「失礼ですけど。社長から貧乏人は通すなって言われてるんで」

「だから、こんな最先端オフィスが似合わないあんたは、大人しく地上へお帰りください」

挙句、とんでもないことを言い出した彼女に、俺はすっかり呆れてしまう。たとえ相手が誰であれ、またどんな外見をしていたって、詩乃のような一社員の判断で会社を訪れた人間を通さないなど、そんなふざけたことがあってはならないのに。俺は思わずため息を吐き、それから淡々と返した。

「じゃあもういいです。自分で電話するんで」

そうして俺は受付から少し離れて電話をかけ始めた。そんなこちらの様子を、高が貧乏人と見下しているのか、詩乃は相変わらずニヤニヤと笑いながら眺めている。だが、俺がこの経緯を電話相手に告げた数分後だった。受付の奥のフロアから一人の女性が早足で近づいてくる。そして女性は開口一番、詩乃に向かって低い声で叱責したのだった。

「これはどういうことですか?私への来客を勝手に追い返そうとするとは」

「え、社長?」

詩乃は慌てて立ち上がり、背筋をピンと伸ばして向き直った。

「あなたは知らないようだから教えてあげるわ。こちらの男性は、私の夫です。ひいてはあなた、彼を貧乏人と馬鹿にしたようね。そもそも私はあなたに、来る人間を選別する権利など与えていないわよ」

「えっと、これはその、っていうか、夫?」

突如フロアから顔を出した自社の社長の冷静ながらも厳しい言葉に、詩乃は目を白黒させている。それに「夫」という言葉が予想外すぎたのか、詩乃の目は自社の社長と俺との間を忙しなく行ったり来たりしていた。

「ごめん、呼び出して。というか、時間に正確なあなたが珍しく遅いからどうしたのかと思ったら、なるほど。こういうことなのね」

俺の言葉に、女性が自身の顎に指を当て、首を振る。俺が用のあった相手、この「天空のオフィス」の社長は、数年前に結婚した妻の正美なのである。実は正美は、俺が務める大手IT企業の社長令嬢なのだ。そして、ここはその大手企業の子会社の一つだった。ちなみに俺は、大学時代に詩乃に手ひどく振られた悔しさをバネに猛勉強し、その過程でプログラミングに興味を持った。そして大学でもIT系全般を学ぶサークルに入り、そこで同じくプログラミングを得意としていた正美と出会ったのである。最初はただのサークルメンバー同士というだけであったが、俺は知的で凛とした彼女にいつしか惚れ込み、また正美も同じように俺を慕ってくれたのだった。正美がIT企業の社長令嬢であると聞かされた時には驚いたが、結婚前提で付き合っていると彼女の父に挨拶をした際、彼女の父も娘との交際を認めてくれ、また大学卒業後は自身の会社に呼んでくれた。そして正美と結婚後、俺は社長である義父の片腕として社内外に向けに紹介されたのである。それから数年、この子会社の社長を務めていた正美であるが、しばらくの間一線を退くこととなった。なぜなら、彼女が妊娠したからだ。さらに、もう一ヶ月後には正美の後任として、俺がこの子会社の社長へと就任することが決まっている。俺がここを訪れたのも、引き継ぎにあたっての軽い打ち合わせと、その後は時間を取って正美を連れて病院へ行くためであった。

「ほっと、それもこいつが次の社長?そんなの私、知らなかったもの」

事実を知ってしばらくの間呆然としていた詩乃は、しかし直後には俺たちのことをきっと睨みつけ、眉を吊り上げて叫ぶ。

「だから私何も悪くない。てかこいつ、ちょっと風邪引いたくらいで国立大に落ちるほど頭悪いのに、それがここの社長?笑わせないでよ。冗談でしょ」

これが俗に言う逆切れであるが、彼女の醜い様子に、もはや俺も正美も反論する気さえ失せてしまった。そして正美は諸々の感情を一呼吸で抑え込むと、社長として詩乃に告げた。

「この会社の社員である以上、社内であなたが勝手に来る人間を選別し、さらに冒涜をすることなど、私は許しません。処分は追って伝えます。その間は自宅待機をしていなさい」

ついに社長の激怒に触れたと察したのか、その場にへなへなと座り込む詩乃。正美はその姿を一瞥すると、社長付きの秘書に後を任せ、俺を連れて社長室へと戻っていった。

さて、その後のことである。詩乃は受付から一般事務へと移動になった。ただ、元々外見の良さと上層部への愛想の良さだけが取り柄で、大した仕事もできない彼女は、受付での騒動が社内に広まったことも相まって、移動先でも身の置き所はないに等しかったらしい。その居心地の悪さに耐えきれず、しばらくして退職届を提出し会社を辞めた彼女だったが、その後も定職には就かずにフラフラと点々としてるようだった。

一方、俺はと言うと、この度会社の社長を引き継ぎ、また入れ替えで正美は産休期間へと入った。幸い母子共に健康とのことで、俺としてはゆったり過ごしてほしいのだが、元々活動的な妻は、現在張り切ってベビー用品を揃えているところである。一時期は不妊症手前まで陥っていた俺だったが、そんな俺の背中を厳しくも温かく押してくれたのは妻だった。とにかく今はまず、彼女の無事の出産を祈るばかり。そして大事な妻と、やがて出会えるであろう新しい命を全力で守っていこうと、俺は改めて決意したのだった。

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