追加融資の相談のために地方銀行を訪れた俺は、応接室に通されて固まった。そこに立っていたのは、定年を間近に控えたベテラン行員の胸岡さんと、もう一人の若い男。その顔を見た瞬間、高校時代の記憶が鮮明に蘇ってきた。米田だった。
俺は佐草。三十二歳。金属プレス加工の工場を営む親父が急逝し、後を継いだ二代目社長だ。大手自動車メーカーの一次下請けとして二十年以上の実績があり、特にプレス加工の精度の高さはメーカーからも高い評価を得ている。高校を卒業してすぐにこの工場で働き始め、口数の少ない親父から技術を叩き込まれた。
親父の葬儀には、この地域の二十七の工場が集まって結成した共同組合の社長たちが全員集まってくれた。組合をまとめていたのが親父だった。金型製造業の古川さんが、俺の肩を叩いて言ってくれた。
「親父さんはな、俺が資金繰りに困った時、夜遅くまで組合のみんなに頭を下げて回って助けてくれたんだ。今度は俺が恩返しする番だ。何かあったら遠慮なく言ってこい」
親父を継いで二ヶ月目、大きなチャンスが舞い込んだ。大手メーカーから新型エンジン部品の量産依頼を受けたのだ。ただし、それには最新の設備投資が必要になる。すでに五億円の融資を受けている地方銀行に、追加融資を相談することにした。
担当の胸岡さんはベテラン行員で、事業計画書を渡すと丁寧に目を通してくれた。
「佐草さんのところなら問題ない。審議も通ると思いますよ」
そう言って太鼓判を押してくれたが、一点、申し訳なさそうに切り出した。
「実は私、今月いっぱいで定年なんです。新しい担当には丁寧に引き継いでおきます」
俺はその言葉を信じた。二週間後、胸岡さんから連絡があり、新しい担当の挨拶のために来店してほしいと言われた。何の疑いもなく銀行へ向かい、応接室で見たのが米田だった。
米田の実家は地元でも有数の資産家で、高校時代、米田は常に俺をボロ工場の息子と見下していた。しかしテストの成績では常に俺が上位で、米田は俺の功績を妬んでいた。テストが返されるたびに「どうせずるでもしたんだろう」と因縁をつけてくる。卒業後、米田は有名私大を出て地方銀行の本店に採用され、エリートコースを歩んでいるという話を友人の誰かから聞いていた。
胸岡さんが口を開いた。
「佐草さん、こちらが新しい担当の米田です。米田から聞いたんですが、高校の同級生だったようで」
米田は薄笑いを浮かべながら、名刺を投げるように差し出した。俺は黙って受け取る。すると胸岡さんが時計を見て言った。
「佐草さん、実は今日、定年前の最後の本店会議がありまして。引き継ぎは米田に全て伝えてあります」
胸岡さんが部屋を出ていくと、米田の口元が歪んだ。嫌な予感がした。ドアが閉まった瞬間、米田の態度が一変する。
「で、三億円追加で貸して欲しいんだって」
俺は努めて冷静に返した。
「新型エンジン部品の量産化のため、設備投資が必要になったんです」
すると米田は机の上の事業計画書を指でつまみ、ニヤニヤと笑いながら言った。
「無理だね。ボロい町工場に貸す金は一円もない」
その言い方に、高校時代の記憶が嫌でも甦る。しかしここは教室ではない。ここで感情を爆発させれば、あいつの思う壺だ。親父ならこんな時、どうしただろうか。俺は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのを感じながら、淡々とした口調で返した。
「うちの工場はこれまで一度も融資の返済を遅らせたことはありません。大手メーカーとの安定した取引実績もあります」
米田はめんどくさそうに顔を上げた。
「お前さあ、高校の時は成績良かったけど、結局ボロ工場ついで終わりかよ」
挑発には乗らず、俺は話題を引き戻した。
「胸岡さんから引き継ぎは受けていますよね」
「ああ。定年間際のじいさんから渡されたこの事業計画書だろ。工場の事業計画なんて読む価値ないんだけど」
米田はそう言って資料を眺め始め、ある言葉で止まった。
「地域貢献? そんなこと書いてるから、いつまでもボロ工場なんだよ」
さらに読み進めながら、またある言葉で止まる。
「はあ。高精度のプレス加工ね。でもそんなもん、大手メーカーなら簡単に作れるだろう」
言葉を継ぐほどに俺の怒りが込み上げていく。米田はそんな俺にお構いなしに続けた。
「うちの銀行とは長い付き合いらしいが、古いってだけで別に価値があるわけじゃない。俺は数字だけで判断する。それが今の銀行のやり方だ」
そう言うと、今度は一転して目を細め、厳しい口調に変わった。
「俺は本店からここに赴任して実績を作れって言われているんだ。中小向けの融資を削り、大口取引先にシフトしろってな。出世のためには成果が必要なんだよ。つまり、お前の工場は真っ先に切り捨てる対象ってことだ」
この男の出世のために、俺の工場が犠牲になる道理はない。怒りに震える俺に、米田は言い放った。
「俺のやり方が嫌なら解約しろよ」
俺は米田を睨み、立ち上がった。
「はい。解約させていただく。そう言ったんだ」
そう告げて背を向け、応接室を出た。背後で米田が何か言っているが、もう聞く必要はない。工場に戻った俺は自席に腰を下ろした。言葉にできない怒りと悔しさで、頭の中が整理できない。やり場のない怒りを紛らわせようと、普段は開けることのない親父の机の引き出しを開けると、一冊のノートがあった。
ページを開くと、親父の几帳面な文字で埋め尽くされていた。俺は無心で読み進めた。そこには共同組合各社の特徴が丁寧に記されていた。
「古川さんの金型技術は誤差四分の一ミクロン以下で国内トップクラス。山田さんのバネは航空機部品にも採用されている」
親父は仲間の技術を誰よりも理解し、その強みを把握していたのだ。そして最後のページには、こう書かれている。
「一人では何もできない。だが、仲間がいれば山も動かせる」
俺はその言葉を何度も読み返し、思い立った。米田が侮辱したのは俺の工場だけじゃない。この共同組合全体を見下したのだと。
その日の夕方、古川さんから電話があった。
「おい、最さ、銀行で何かあったのか? お前が決算を変えて銀行から出てきたところを、うちの経理が見かけたって言うからよ」
俺は包み隠さず事情を話した。話を聞き終えると、古川さんは激怒した。
「許せねえな。よし、明日、緊急で組合会議を開こう」
「でも古川さん、これは俺の工場の問題で」
「バカ野郎。組合を何だと思ってる? 俺たちは仲間だ。仲間が侮辱されて黙ってられるか?」
古川さんの声が震えている。
「お前の親父さんは、俺が資金繰りに困った時に組合を動かして助けてくれた。あの時、親父さんは言ったんだ。仲間が潰れるのを見過ごすのは、自分が潰れるのと同じだってな。だから今度は俺が親父さんの息子を守る番だ」
電話が切れた。しばらくすると古川さんから再び連絡が入り、組合の連絡網で全員の参加を取り付けたとのことだった。俺はその結束力に驚かされた。
翌日、地域の集会所に二十七社の社長全員が集まった。俺は古川さんに促され、銀行での出来事を改めて説明した。そして、父の遺した言葉を胸に、俺は言った。
「昨日、親父のノートを読みました。『一人では何もできない。だが、仲間がいれば山も動かせる』と書いてありました」
その言葉を口にした瞬間、まるで亡き父が応援しているかのような不思議な安心感に包まれた。
「俺の工場が侮辱されたということは、この組合全体が侮辱されたということです。そんな銀行に、俺たちの未来は預けられません」
口をついて出た「俺たち」という言葉に、これまで整理できずにいた怒りが明確な形になった気がした。すると、一人の社長が手を上げた。話を聞けば、その社長も最近、追加融資を一方的に断られたという。担当者の名前を確認すると、やはり米田だった。米田が侮辱したのは、俺だけではなかったのだ。会議室に静かな怒りが広がっていく。
古川さんが立ち上がった。
「よし、決めた。俺たち全員で銀行を変えよう」
他の社長たちも次々に立ち上がった。こうして二十七社全てが取引銀行を変える決意を固めた。その場で各社の預金額を出し合うと、その総額は四十九億円に上った。具体的な移行計画は、数日後に再び開く会議で立てることになった。
数日後、再び組合会議が開かれた。古川さんが各社の社長に移行先の候補を尋ねると、いくつか名前が上がったが決め手にかける。俺は以前の記憶を辿った。一年ほど前、地方銀行のライバルにあたる信用金庫の支店長が、しばしば営業に来ていたことを思い出した。親父は丁寧に断っていたが、その支店長は諦めず、以来、定期的に工場の様子を見に来ていた。親父の葬儀にも弔問に訪れ、俺に名刺を渡していった。あの時の誠実な態度を思い出し、俺は口を開いた。
「信用金庫の支店長なら、話を聞いてくれるかもしれません」
古川さんが身を乗り出した。
「俺も思い出したぞ。信用金庫の村石支店長だ。確かにあの人は筋が通ってる。だが、四十九億の移行だ。さすがに村石さんも慎重になるはずだ」
しばらく沈黙が続いた後、古川さんがつくように言った。
「最後さ、お前が組合の代表として交渉に行ってこい。お前の親父さんは、この組合二十七社の技術を誰よりも理解していた。これは単なる融資交渉じゃない。俺たちの誇りを取り戻す戦いだ。その先頭に立つのは、親父さんの意思を継いだお前しかいない」
他の社長たちも無言で頷いた。俺は覚悟を決めた。
「わかりました。行かせていただきます」
翌日、俺は信用金庫を訪れた。受付で村石支店長との面会を告げると、すぐに応接室へ通される。村石支店長とは親父の葬儀以来の再会だった。頭を下げる支店長に、俺は単刀直入に切り出した。地方銀行で起きた一連の出来事、組合で開かれた会議、移行する預金総額が四十九億円になること。さらに、地方銀行への融資返済が終わっていない会社もあるため、借り替え融資が必要になることも告げた。
村石支店長は真剣な表情で耳を傾け、時折、親父のノートを見つめ何度も頷いている。四十九億という額は、この支店の預金残高を大きく左右する数字だ。しかし同時に、審査部から厳しい追求を受けるリスクもある。支店長はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「佐草さん、正直に申し上げます。この規模の移行は前例がありません。本部を説得するには相当の覚悟が必要です。ですが、私も覚悟を決めます。佐草さん、率直に伺います。なぜ当金庫を選んでいただけたのでしょうか」
俺は親父のノートを取り出した。
「これは親父が残したノートです。二十七社の技術が全て記されています」
ページを開き、村石支店長に見せながら俺は言った。
「村石支店長、あなたは親父が生きていた頃から何度も工場に足を運んでいただき、親父の葬儀の時にも弔問に来てくださった。俺はその誠実さを覚えています」
村石支店長の表情が変わる。俺の心に再び親父が宿ったかのように、言葉が自然と紡ぎ出された。
「この共同組合には、国内トップクラスの技術が集まっています。金型、バネ、溶接、どれも大手メーカーが頼りにする技術です。それだけじゃありません。地域経済に貢献し、地域の雇用も支えています。俺たちは数字だけで判断されるような工場じゃない。それを理解してくれる金融機関と付き合っていきたいんです」
村石支店長は力強く答えた。
「わかりました。本部と協議します」
一週間後、村石支店長から本部の承認が下りたと連絡が入った。さらに二週間後、全社の審査が完了し、総額四十九億円の預金受け入れと借り替え融資が正式に承認された。組合会議で報告すると、会場に安堵の空気が広がった。古川さんがにやりと笑った。
「じゃあ次は、地方銀行に別れを告げに行くか」
数日後、俺たち二十七人の社長は地方銀行の前に集まった。古川さんが俺の肩を叩く。
「最後さ、お前が先頭だ」
俺は深呼吸をして銀行のドアを開けた。二十七人の社長が俺に続いて一斉に入ってくる。窓口の行員たちがざわめいた。俺は窓口の行員に告げた。
「米田を呼んでください」
行員が慌てて奥に向かう。数分後、米田が現れた。二十七人の社長が並ぶ光景を見て、何ごとかと不審そうな顔を浮かべている。俺は米田を真正面から見据えていった。
「ここにいる全員、この銀行を解約しに来た」
米田は口を開けたまま、言葉を失う。騒ぎを聞きつけたのか、奥から支店長も慌てて出てきた。この支店長とは、親父が存命中に何度か顔を合わせたことはあるが、話したことはない。親父の葬儀には顔を見せていなかったはずだ。支店長は状況を把握しようと、俺たちを交互に見る。
「こ、これは一体どういうことでしょうか」
俺は支店長に向き直り、改めて自己紹介から始めた。
「私は佐草と申します。親父の後を継ぎ、金属プレス加工工業を営んでおります」
俺は一旦言葉を切り、周りを見た。二十七人の社長たちが、俺を励ますように頷く。
「ここにいるのは、地域の共同組合二十七社の社長です」
動揺して視線の定まらない支店長に向かって、俺は続けた。
「先日、私はここで融資担当の米田から侮辱を受けました。追加融資の相談をした際、『ボロい町工場に貸す金は一円もない』『事業計画など見る価値もない』『嫌なら解約しろ』と言われました。これが御行の新しい融資担当の言葉です」
支店長の顔がみるみるうちに青ざめていく。米田は気まずそうに俯いた。俺はさらに続けた。
「しかも米田は、それが本店の方針だと言いました。中小向けの融資を削り、大口取引先にシフトしろと。つまり、これは米田だけでなく、御行全体が技術を軽視し、地域を軽視しているということです」
その時、俺の後ろから一人の社長が前に出た。組合会議で手を上げたあの社長だ。
「私も同じです。追加融資を門前払いされました」
支店長の顔がさらに青ざめていくのが分かる。俺は畳みかけた。
「被害を受けたのは私だけではありません。この共同組合二十七社が、御行から侮辱を受けたんです。二十年の付き合いも、地域への貢献も、全て数字という一言で切り捨てられました」
支店長が言葉を探している。俺は米田に向き直り、その目を真っすぐと見ながら言い放った。
「もはや我々の未来を預けることはできません。二十七社、総額で四十九億円の預金を今すぐ解約します」
驚愕のあまり、米田は一言も発することができない。慌てて支店長が言った。
「これは重大な問題です。二十七社が一度に解約となると、影響は計り知れません。本店に相談させていただけないでしょうか」
俺はきっぱりと答えた。
「俺たちが解約することに、なぜ本店との相談が必要になるのでしょうか。待つ必要はありません。我々はすでに新しい預金先として信用金庫と話がついています。預金の受け入れも借り替え融資も全て承認済みです」
すると、米田が震えながら俺の前に歩み出た。そして突然、床に手をついて頭を下げた。
「佐草、この通りだ。考え直してくれ」
周囲がざわめく。米田はかすれるような弱い声で言い訳を始めた。
「本店からノルマがあって、実績を作れと言われて……」
俺は米田を見下ろし、声を荒げた。
「お前の実績のために、俺たちの工場が犠牲になる道理はない」
言葉につまる米田に、俺は続けた。
「お前は前担当の胸岡さんを『定年間際のじいさん』と呼んだな。あの人が何十年もかけて築いた関係を、お前は一瞬で壊した」
米田の顔が歪む。俺は腰を下ろし、米田と目線を合わせて言った。
「米田。お前が技術を軽視し、中小を見下した結果がこれだ。二十七社、総額四十九億円が一度に消える。お前が切り捨てた町が、束になって銀行を見限るんだ」
「最、頼む……」
米田の震える声を断ち切るように、俺は立ち上がり支店長に向き直った。
「もう一度申し上げます。手続きを進めてください」
支店長が苦渋の表情で俺を見る。
「佐草さん、せめて猶予を」
「猶予などありません。我々の決定は揺るぎません」
古川さんが俺の隣に並んだ。
「支店長。これは二十七社の総意だ。もう覆らない」
支店長は深く息を吸い込み、ゆっくりと頷いた。
「わかりました。手続きを進めさせていただきます」
支店長が行員たちに指示を出すと、行員たちが慌ただしく動き出す。窓口のほとんどが開けられ、二十七社の社長たちがそれぞれの窓口に並んだ。解約の手続きが進められていく。米田は床に座り込んだまま動けないでいる。支店長も深刻な表情でその光景を見守るしかなかった。
俺は最後まで手続きを見届けた。全ての解約が完了し、俺たちは銀行を後にした。外に出ると、古川さんが俺の肩を叩いた。
「よくやった。親父さんも見てるぞ」
その後、地方銀行の支店長と本店の役員が正式に謝罪に訪れた。本店の役員は、米田を本店付きの調査役に移動させ、事実上の左遷とすることを告げてきたが、組合の決定が変わることはないと、俺は改めて告げた。
その一方で、俺は信用金庫からの融資で最新設備を導入し、大手メーカーの依頼である新型エンジン部品の量産化に着手した。さらに、信用金庫からの潤沢な融資は共同組合各社の設備を充実させ、今後ますます地域経済への貢献と雇用拡大に寄与していくだろう。
ある日、俺は工場の作業を終え、親父の仏壇に手を合わせた。
仲間がいれば、山は動かせる。この言葉がなければ、こうして親父に明るい報告もできなかっただろう。俺はこの言葉を胸に、これからも歩んでいく決意を固めるのだった。



