吹雪が峠を白く塗りつぶすその夜、俺は山奥の薬草庵へ逃げ込んだ。いろりの火のそばに女が一人座り、黙々と薬草を刻んでいる。その横顔を見た瞬間、足の裏から血の気が引いた。千代。二年前、雪の峠で命を落としたと思っていた妻。千代は顔を上げ、俺を見た。だが、その瞳に驚きも喜びもない。ただの旅人を見る、穏やかで遠い目。本当に、何も覚えていないのだ。俺は声も出せずに立ち尽くすだけだった。千代は温かい煎じ薬を差し出し、静かに頭を下げた。俺は震える手でその碗を受け取った。指先を見た瞬間、胸の奥が軋んだ。かつて俺の前に箸と匙をまっすぐ並べてくれた、あの手だった。
物語は二年前のあの春に遡る。大和家はこの国でも指折りの家柄で、当主の十蔵は博識で知られ、屋敷には日夜客人や役人が出入りしていた。そんな家に生まれながら、嫡男の颯斗はどこか世間離れした静かな男だった。書物を読むのが好きで、華やかな交流よりも、客間の書棚を整理する方が性に合っていた。
ある日の午後、颯斗が書物を並べ直していると、客間の襖がそっと開き、一人の娘がためらいがちに入ってきた。それが千代だった。彼女は浄化外れの窯場で陶器を焼く職人の娘で、父の神兵は腕は一流ながら身分は低く、屋敷の者たちからは蔑まれていた。それでも千代は懸命に働き、古びた書物を丁寧に扱った。その一つ一つの所作に、飾らない真直ぐさが滲んでいた。
颯斗はその日、千代の後ろ姿を見つめながら、生まれて初めて味わう感情にとまどっていた。それは華やかさとは無縁の、深く静かな温もりだった。十蔵は息子の想いを知ると、真っ向から反対した。東校の娘を嫁に迎えるなど、家の恥だと。だが颯斗は父の前に膝をつき、三日三晩、頭を下げ続けた。ついに十蔵は長いため息とともに、根負けした。
婚礼は質素に行われた。華やかな飾りは何もなく、千代の白無垢姿はただ清らかで、参列した者たちは言葉を失った。父の神兵は裏口からこっそりと通され、目を赤くしながら娘の手を握った。
「母もおらぬのに、ようぞそんなに美しく育ってくれた」
千代も目を潤ませながら、父の荒れた手を握り返した。颯斗はその光景を少し離れた場所から見つめていた。この世の誰にも代えがたいものを、今まさに手にしたのだという実感が、足の先からじわりと込み上げてきた。
夫婦の日々は静かでありながら、深い幸せに満ちていた。千代は毎朝、颯斗の膳に箸と匙を丁寧に並べる。その並べ方には少しの手抜きもない。颯斗がその理由を尋ねると、千代は父の言葉を思い出しながら答えた。
「父は生涯、壺を焼きながら、一度も歪んだものを作ったことがございません。土を扱う手でも、心がまっすぐでなければ器もまっすぐにならぬと申しておりました」
颯斗はその言葉に、胸を打たれた。千代の美しさは、華やかな飾りの中にあるのではなく、暮らしの中で真直ぐに生きる姿そのものにあるのだと、初めて気づいたのだ。それ以来、颯斗は膳の前に座るたび、箸を並べた者の心を思って、静かに手を合わせるようにして食事を取るようになった。
夕暮れになると、二人は並んで書物を読んだ。千代の読み書きはたどたどしかったが、颯斗がそばに座って一文字ずつ読み聞かせると、目を輝かせてついてきた。覚えが早く、一度読んだことは忘れない。ある夜、千代が初めて一人である一節をすらすらと読み上げた時、颯斗は思わず手を叩いた。その夜、二人は書物を閉じて長く語り合った。明日はどの書物を読もうか。子が生まれたら、どんな名をつけようか。そんなささやかな未来を語り合う時間が、颯斗の記憶の中で最も穏やかな夜となった。
千代の優しい心根は、屋敷の中で少しずつ知られていくようになった。子供たちに目線を合わせて話しかけ、重い荷を持つ女中を手伝い、病に倒れた下女に自ら粥を炊いて運んだ。屋敷の中では前例のないことで、女中たちの間では「若奥様は亜か違う」と噂が広まった。十蔵も、初めは面白くなさそうにしていたが、徐々に心を許していく様子だった。
ただ一人、沢だけがその様子を見るたびに、唇を強く噛みしめていた。沢は屋敷の奥向きを取り仕切る年かさの女中で、長年この家のために尽くしてきた。だが、千代が笑うたび、自分の居場所が少しずつ奪われていくように思えてならなかった。跡継ぎも産めない自分と、東校の娘でありながら屋敷中の人望を集めていく千代との差が、沢の胸の奥で少しずつ憎しみへと変わっていった。
最初の春が巡ってきたある雨の夜、千代はためらいがちに颯斗の客間へ入ってきて、ぽつりと呟いた。
「旦那様、私は、おそらく身ごもったようでございます」
颯斗はその言葉を聞いた瞬間、何も言えず、ただゆっくりと手を伸ばして千代の両手を包み込んだ。それだけで全てだった。春雨の音だけが静かに続く中、二人は長く並んで座っていた。
千代の懐妊が知れ渡った日、屋敷中に祝いの声が広がった。だが、沢の顔からは血の気が引いていた。自分よりも慕われる者がいる。その者の血筋がやがてこの家の中心になる。そう思うだけで、沢の胸は冷たく締めつけられた。その夜から、沢は千代を追い落とす段取りを密かに練り始めた。
沢には、権蔵という共犯者がいた。権蔵は屋敷の倉庫の鍵を預かり、物品の出入りを取り仕切る男だった。数年前、権蔵が御用金の一部を横領したことがあり、その露見を沢が口添えして握りつぶしてやったのだ。それ以来、権蔵は沢の弱みを握られ、言いなりになっていた。二人は長年、倉庫から米や物を少しずつ抜き取り、売り払った金を浄化外れの隠し場所に溜め込んでいた。
異変に気づいたのは、千代だった。台所の女中が「去年確かにあったはずの亀がない」と首をかしげたり、倉庫の米の量が減っていたり、冬に備えた薪が明らかに少なかったり。千代はそれらを胸のうちに留めていたが、ある夜、倉庫の前で沢と権蔵が低く囁きながら何かを受け渡している場面を、月明かりの下ではっきりと目撃してしまった。交わされていたのは、明らかに大和家の荷物の包みだった。
その姿を悟った沢の顔色は、瞬間、冷たく凍りついた。その夜から、沢は眠れなくなった。そして、権蔵を奥の一室に呼び寄せ、夜を徹して策を練った。結論は、先手を打つことだった。
沢は自ら筆を取り、偽の密書を仕立てた。内容は、千代が屋敷の外の男と密通し、家の宝を盗み出しているというものだった。権蔵の得意技は筆跡を真似ること。若い頃に寺で手習いをしており、他人の筆跡を移す才能があった。密書には千代の筆跡を巧みに真似た文字で、その男に宛てた文章がしたためられていた。
沢は颯斗が留守の隙に、その密書を書物の間に挟んでおいた。颯斗が戻ってきた時、沢はわざと困った顔をして切り出した。
「言い出しにくいことでございますが、家のことを思うと、これ以上黙っておれませぬ」
密書を手渡された颯斗は、読むうちに顔色が変わっていった。手が震えた。直感は千代を信じたいと言っていたが、沢が何日も前から吹き込んでいた言葉と、目の前の筆跡がその思いを押し潰していった。密書には、その男と会う期日と場所まで具体的に記されていた。
颯斗は千代を呼び寄せ、密書を突きつけた。千代は密書を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「旦那様、私の目をお見ください。これは私が書いたものではございません。私は決してそのようなことをした覚えはございません」
涙が止めどなく溢れた。膝をつき、両手を合わせて懇願した。だが、颯斗の目にはすでに疑いの影が差していた。千代の言葉は、もう届かなかった。
翌日、颯斗は密書を十蔵に差し出した。沢は涙を流しながら偽の証言を並べ立て、権蔵も口裏を合わせてそれを裏付けた。二人の話は微塵も食い違わなかった。千代は十蔵の前でも無実を訴えた。腹の子を抱えながら、泣きながら、一言一言、自らの潔白を語った。しかし十蔵の目に映ったのは、証拠として突きつけられた密書と、沢と権蔵の一致した証言だった。十蔵は長く沈黙した後、重々しく処分を告げた。千代を屋敷から追い出すという決定だった。
千代は何も言わなかった。ゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばして、部屋を去った。
千代が大和家の門を出た日は、真冬の吹雪だった。雪は軽く舞い始め、千代が足を進めるにつれて次第に激しくなっていった。千代は持ち物をほとんど持たなかった。ただ、父が彫ってくれた小さな木の神差しを肌身離さず、父が持たせてくれた小さな土器を風呂敷に包んで胸に抱いていた。それらだけは決して手放さないと心に決めていた。
峠道の半ばまで登った頃だった。吹雪の中に、突然二人の男が現れた。千代はその瞬間、直感でこれが誰の差し金かを悟った。後ずさりし、足を取られた。男たちが飛びかかり、千代は避けようとして、斜面の下へ転げ落ちていった。何かに強く頭をぶつけた。目の前が白くなり、やがて全てが闇に沈んでいった。
男たちは崖下を覗き込んだが、雪が深く舞い、何も見えなかった。二人は顔を見合わせ、生きてはいまいと結論づけて、その場を去った。
崖の下で、千代の息は途絶えることなく、細々と続いていた。吹雪の中、腹の子が生まれようとしていた。千代は消えゆく意識の中で、子を産み落とした。赤子の泣き声が、雪の積もる峠道の下で細く響いた。
その時、近くの山中で薬草籠を背負って戻る途中だった老女が、遠くにその泣き声を聞きつけた。お徳という名のその老女は、声を頼りに雪の中を懸命に進んだ。吹雪の中に倒れている若い女と、そのそばで震える赤子を見つけた瞬間、一瞬たりとも迷わなかった。赤子を懐に抱き入れ、肩を貸して千代の体を支えながら、庵へと向かった。みちは険しく暗く、千代は一歩ごとに崩れそうになり、その度にお徳は老いた体で支え続けた。
庵に着くなり、お徳はまずいろりに火を起こした。氷のように冷え切った千代の体を温めるためだった。薬棚の引き出しを一つ一つ開けながら、必要な薬剤を次々に調合し、手当てをした。千代の息が消えかけては、また細く続くということを、その夜のうちに何度も繰り返した。夜が明け始める頃、千代の息は少しずつ安定してきた。
二日が過ぎて、ようやく千代の目が開いた。天井を見つめたまま長く瞬きもせず、お徳が顔を近づけると、まるで見知らぬものを見るような目で見上げた。
「ここはどこでございますか」
それが千代が初めて発した言葉だった。部屋の中を見回すうちに、千代は木のそばに置かれた赤子を見つけた。
「あの赤子はどなたの子でございますか」
お徳はその言葉に胸が凍りついた。千代の目には、赤子に向ける母の本能というものが微塵も宿っていなかった。ただ、見知らぬものを見る目だった。お徳は静かに言った。
「それはお前の子だ」
千代はその言葉を聞きながら、また天井を見つめた。
「私は、自分の名すらわかりませぬ」
お徳は長年この山奥で暮らし、数えきれない病を見てきた。千代の瞳を覗き込み、頭を手で確かめ、あれこれと問いを重ねた末に、静かに見立てを下した。強い衝撃で頭を打ったことが脳の働きを乱し、極度の恐怖と痛みが重なって、記憶を司る部分が一時的に傷ついてしまったのだ。記憶を失った者の扱いを、お徳は知っていた。無理に思い出させようとするのは、かえって傷を深くするだけだった。
お徳は数日思案した末に、千代に「朝」という名をつけた。かつて自分が産んで、幼いうちに亡くした娘の名が、朝だったからだ。
「わしの名はお徳じゃ。これからここで、わしと共に暮らそう」
千代はその名を聞きながら、しばし目を閉じた。赤子には「小春」という名がつけられた。小さくとも、遠くまで生きるという意味を込めて。
朝となった千代は、その日から新しい暮らしを始めた。過去が何であったか、どこから来たのか、何も分からぬままに。しかし、不思議なことに、どこか胸の奥深くで何かを失ってしまったという、苦しい感覚だけは消えなかった。昼間は静かで穏やかに見えた。お徳が言いつける薬草仕事を黙々とこなし、小春を世話し、飯を食い、木枯らしと共に眠りに着いた。しかし夜になると違った。体を震わせ始め、息が荒くなり、やがて涙を流しながらうめき声を上げるようになった。その夢うつつの言葉は、お徳の耳に届くたびに胸を締めつけた。この娘は、単なる事故にあったのではなかった。記憶はなくとも、魂は覚えている。
季節は巡り、春が訪れた。朝は本格的にお徳の薬草仕事を手伝い始めた。名前を教え、効能を教え、煎じ方と乾かし方を一つ一つ丁寧に教え込まれると、朝は十日もたたぬうちに、どの薬草をどの火加減で煎じるべきかを、まるで直感で分かるようになっていった。お徳はそれを見ながら、この娘は前にも薬草を扱う仕事をしていたのではないかと思った。
小春は日に日に育っていった。首が座り、目を合わせて笑うようになった。ある日、小春が初めて朝を見て笑った日、朝はその笑顔に涙が込み上げた。理由は分からなかったが、その子の笑顔が胸の奥のどこかに溜まっていた何かに触れたような気がした。
その年の夏、深い山中の村で流行病が広がった。高熱と咳が止まらない病人が続出し、村人たちは恐怖に怯えた。麓から呼ばれた若い医者は見立てがつかず困り果てていたが、お徳は長年の経験から即座に見抜き、処方薬を次々に調合した。朝もそのそばで夜を分かたず薬を煎じ、村人の世話を手伝った。十日ほどで病人の多くが快方に向かい、若い医者は深く頭を下げた。この一件で、お徳の評判は麓の村まで広く知れ渡ったが、お徳はそれを誇るでもなく、いつものように黙々と薬草を刻み続けていた。
秋の夜、村では盆の送り火が焚かれ、川には小さな灯籠が流された。朝は小春を抱いて川辺に立ち、揺れる明かりをじっと見つめていた。理由も分からぬまま、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。誰かを見送っているような、いや、誰かに見送られているような、名づけようのない感覚だった。お徳はその横顔を見て、何も言わずにそっと肩に手を置いた。
深まる秋のある夕べ、お徳は薬棚の引き出しを一つ開け、古い木箱を取り出した。中から現れたのは、固く滑らかな根のようなものだった。独特の冷たく深い香りが、部屋中に広がった。朝はその香りを感じながら顔を上げた。
「これが天麻じゃ。天が授けた薬とされ、塞がった脳の気血を開き、乱れた心を目覚めさせるには、これに勝るものはない」
お徳はそれを朝の前に置き、静かに言った。
「明日の朝から、これを毎日煎じて飲むが良い。時はかかろうが、急がずとも良い」
翌朝、朝は初めて天麻の煎じ薬を口にした。淡い褐色の薬湯は、苦くはなかった。むしろ口の中に広がるのは、深い山の夜明けの冷気と、その底に潜む温もりを同時に感じる不思議な味わいだった。薬湯が体を伝って降りていく瞬間、胸のどこかが少し緩むような気がした。
半月ほどで、朝の頭の重さや痛みが少しずつ和らいでいった。雨が上がった後のように、胸の内が変わっていった。ある日、山で薬草を取りながら見晴らしの良い丘に登った時、朝は初めて胸がその景色と同じほど清々しく開けるのを感じた。その場に立ち、しばらく山の下を見下ろした。涙が溢れた。悲しいのではなかった。塞がっていたものがゆっくりと溶けていく、その途中に流れる涙だった。
それからいくつかの月が過ぎる頃には、朝の夢に一人の男の顔が現れるようになった。初めは輪郭だけがぼんやりと浮かんでいたが、夢を見るたびにその顔は少しずつはっきりとしていった。朝はその夢を見るたび、目覚めた後に必死でその顔を思い出そうとした。あの顔が誰であるのか、どうしても知りたかった。
朝はやがて自ら天麻の煎じ薬を作り始めた。ある朝、膳の上に匙を置こうとした手が止まった。匙をまっすぐに揃えねばならぬという感覚が、あまりに強く胸に迫った。ゆっくりと箸と匙の向きを整えながら、朝はふと、かすかな記憶が頭をよぎるのを感じた。それは妻のように整えられた小さな膳だった。何であるかを掴もうとすればすぐに散ってしまったが、確かに見えたものだった。
ある日、小春を背負って山道を歩いていると、背中で小春が初めて「母さま」と口にした。幼い声が発したその一言に、朝は思わず足を止めた。胸の最も深いところが大きく鳴った。記憶があろうがなかろうが、その一言が自分に向けられたものであることを、朝は全身で悟った。小春を背から下ろし、前に抱き直して小さな瞳を見つめた。
「小春や。私のことが分かるのですね」
小春は両手を伸ばして朝の頬に触れ、無邪気に笑った。朝の目から涙がこぼれた。
そうして年月が流れた。天麻の煎じ薬を毎日飲み続けるうちに、朝の変化はお徳の目にも明らかになっていた。荒々しさは消え、胸の重りは消え、夢の中の男の顔は次第にはっきりとしていった。しかし、まだ全てが一つにつながることはなかった。一つの決定的な欠片が抜け落ちたまま、記憶は完成することなく漂い続けていた。お徳はそれを知っていた。天麻は塞がった気血を開き、心を目覚めさせる役目を果たす。だが、記憶を完全に呼び覚ますには、血の繋がりの力がいる。自分を真に見知る者。自分と血で結ばれた者が目の前に現れて初めて、全ての欠片が揃うのだと。お徳はそれを静かに待ち続けていた。
その頃、颯斗は浄化代の役目として各地の争いを調停し、ようやく帰路についていた。あの夜、千代を疑い、追い出してしまったことがあってから、颯斗は役務に一層深くのめり込んでいった。それが自らの犯した過ちから逃れる方法であり、同時にその過ちを忘れようとする努力でもあった。しかし、忘れられるものではなかった。地方の訴えを聞くたびに、無実を訴える者の声があの夜の千代の声のように聞こえてならなかった。帰路の途中、深い山中の峠道で吹雪に見舞われた。従者の一人が、山に明かりが見えると告げた。颯斗はそこへ足を向けた。
天井に星薬草が吊された質素な庵だった。いろりから煙が立ち上り、中から煎じ薬の匂いが漏れていた。山奥の薬草庵だった。颯斗が戸を叩き、老女が招き入れた。部屋の奥、赤く燃えるいろりの前で、一人の女が薬草を丁寧に整理していた。
それが冒頭の場面だった。長い年月が過ぎ、千代は痩せこけ、髪は乱れ、手は荒れていた。しかし、颯斗には分かった。その手が、昔、箸と匙を丁寧に並べていた手であることが。死んだと思っていた。あの吹雪の夜、峠道で行方知れずになったと聞かされ、雪の中をいくら探しても見つからず、誰もが死んだものと思い込んでいた。それが、ここに生きて座っていた。千代の目に、颯斗を見知る気配は微塵もなかった。それが、颯斗の胸を再び打ち砕いた。
颯斗はその夜、その場を去らなかった。従者には旅の疲れを癒すため一日止まると告げた。しかし胸のうちでは、帰還までの猶予が決して多くないことを自覚していた。焦る心を必死に抑えながら、颯斗は翌日もその翌日も、様々な理由をつけては庵を訪れた。ある日は旅の疲れによる頭痛、また別の日は峠道で冷えた足首が痛むと言った。千代は颯斗をただの見知らぬ旅人として、丁寧に、しかし特別な感情のない目で扱った。それが颯斗には、胸が引き裂かれるほど辛かった。自分を知らぬということが、しかし同時に、ここで生きて息をしているということが、今すぐ全てを打ち明けるよりも先になすべきことがあることを気づかせていた。限られた日数のうちに真実を明らかにしなければ、千代の無実は晴れないまま、自分は去らねばならなくなる。颯斗は総覚悟を決めた。
颯斗は従者を通じ、京の目付け方に密かに調べを進めるよう命じた。大和家の倉庫の収支記録を全て確かめ、権蔵の周辺の人物を洗うよう。そして、二年前、千代に着せた濡れ衣の根拠となった密書が、果たして偽造されたものであるかを確かめる作業も指示した。調べは初め、思うように進まなかった。かつて大和家に仕えていた商人が権蔵の不正について何か知っているらしいという噂を頼りに調べたが、その商人は一度は口を開きかけたものの、翌日には態度を一変させ、何も存じませんとだけ言って口を閉ざしてしまった。後で分かったことだが、その商人は権蔵に家族へ累が及ぶと脅されていたのだ。調べは行き詰まり、颯斗は焦りに苛まれた。
颯斗は諦めず、別の道を探らせることにした。処方外れの商人たちを一人ずつ当たらせ、倉庫から流れた米や物がどこへ売り渡されたかを、金の流れから遡って調べさせた。この地道な追跡が実を結び、ある古い問屋から権蔵が持ち込んだ品物の売買記録が見つかった。そこから権蔵の周辺の事情が一つずつ明るみに出始めた。権蔵が倉庫の鍵を悪用して米や物を横流ししていた証拠、隠していた品物の在りか、そして二年前、千代に着せられた密書に関連して、当時の権蔵が夜中に隠し持っていた筆跡の書き手が判明した。筆跡を鑑定した役人からも、その密書の字は千代のものと微妙に異なるという結論が出た。
颯斗はその報告を読みながら拳を握った。疑っていたことが一つずつ事実として確かめられていく瞬間だった。同時に、あの夜の千代の涙を信じられなかった自分がどれほど愚かだったかが、改めて胸をえぐった。権蔵の罪状が露見すると、沢の罪も明らかになった。二人が交わした書状が権蔵の住まいから見つかったのだ。その中には、倉庫を横領する具体的な手はずと、千代に濡れ衣を着せるための造語が克明に記されていた。そして、峠道で千代を襲おうとした者たちが沢の手の者だったという証言も出てきた。
颯斗は集められた全ての証拠を十蔵に突きつけた。十蔵は沢を呼び出して問いただした。沢は初めは必死に否認していたが、証拠が一つまた一つと積み重なるにつれて、ついに言葉を失った。権蔵も同様に観念した。十蔵は長い沈黙の末、二人に処分を下すことを決めた。
しかし、その処分が正式に言い渡される前に、思わぬことが起きた。山奥の庵に二年前に姿を消した若嫁によく似た女がいるらしいという噂が、屋敷を出入りする商人の口から沢の耳に密かに届いていたのだ。まさか生きていようと、沢は初め耳を疑った。しかし調べれば調べるほど、その女の年恰好は千代のものと重なった。千代が生きており、庵にいると知った沢は、自分の罪がもはや逃れられぬところまで来ていることを悟りながらも、なおも最後の悪あがきに出た。
「権蔵、生きて戻られては元も子もない。山奥のあの女を、今すぐ始末せよ」
震える声で沢が命じると、権蔵はすでに追い詰められた身でありながら、なお沢の言いなりになるしかなかった。手の者を夜のうちに山奥へ走らせたが、屋敷を見張っていた目付け方の者がその不審な動きを掴んでいた。目付け方はすぐに捕り方を手下のところへ走らせ、山道の途中でその者たちを取り押さえた。後半時遅れていれば、千代の身に再び刃が及んでいたであろう。この一件によって、沢と権蔵の罪状はもはや動かしようのないものとなった。
十蔵は長い沈黙の末、正式に処分を下した。倉庫の宝を横領した罪。密書を偽造して千代に無実の罪を着せた罪。命を奪おうと刺客を放った罪。そして、生きていると知りながらなお再び刺客を放とうとした罪。全てを数え上げた後、沢と権蔵は遠島に処されることとなった。遠島へ向かう道筋は、二年前に千代が追われて雪の中を歩んだあの峠道だった。縄を打たれた二人が、かつて千代を突き落とした崖のそばを、罪人として通り過ぎていく様子を、道中の村人たちが黙って見送った。
十蔵はその日、客間に一人座り、長らく頭を垂れていた。子の望みを阻み、嫁を疑い、結果として一人の人の一生を大きく損なわせるのに自らも加担してしまった。その重さが、老いた背をさらに深く曲げさせた。
颯斗は処分が決まった翌日、お徳を訪ねて全てを打ち明けた。自分が千代の夫であること。愚かにも沢の策に欺かれ、千代を追い出してしまったこと。真実を明らかにし、今こそ彼女を迎えに参りたいということ。お徳は最後まで静かに聞いていた。
「あの子に記憶がないことは、知っておろうな」
颯斗は頷いた。自分が初めて庵に足を踏み入れた日、千代が自分を知らぬ者として扱った時から、気づいていた。
「記憶のない者に、無理に過去を突きつけてはならぬ。今は天麻で気血が開きつつあるゆえ、時が来れば、おのずと戻ってこよう。ただし、血の縁の力がいる」
颯斗はゆっくりと顔を上げた。
「千代の父をお連れすることができます」
お徳は頷いた。
「それが良い。血の縁が触れれば、記憶の戸が開こう」
颯斗はすぐに人を使わし、千代の父・神兵を探し出させた。千代が追われた後、神兵は娘を探し続けていた。屋敷に足を運び、各地を訪ね回ったが、見つからぬまま二年が過ぎていた。使いの者が颯斗の言葉を伝えた時、神兵は初め信じられなかった。娘が生きているということを。しかし話が進むにつれて、その目からは涙が止めどなく溢れた。颯斗は神兵を自ら伴い、庵へ向かう道を急がせた。空は珍しく晴れて、高かった。
その朝、お徳はいつにも増して念入りに天麻の煎じ薬を作り始めた。冬が終わりかけた頃で、冷たいながらもどこか春の気配の混じった空気が庵の庭を漂っていた。朝はいつもの通り明け方に起きて、いろりを起こした。小春はまだ眠っていた。お徳はすでに竈の前に座って、何かを待っているようだった。朝が入ってくると、お徳は言った。
「今朝は、わしが煎じよう」
声がいつもと違って静かで慎重だった。竈の中で天麻の薬湯が次第に色を深めながら立ち始めた。その香りがいつもより一段と深く、庵の中に広がっていった。お徳はその朝、生涯で煎じた薬湯の中でも最も念を込めて、天麻の湯を煎じた。出来上がった薬湯は碗に丁寧に注がれ、朝の前に差し出された。その朝の薬湯には、お徳の長い祈りが込められていた。朝は碗を両手で受け取り、ゆっくりと口をつけた。薬湯が喉を伝って降りていく瞬間、頭の中の何かが大きく動くのを感じた。夢の中で何度も見たあの男の顔が、いつになく鮮明に浮かび上がった。朝は目を開けぬまま、両手で碗をしっかりと握った。胸が大きく鳴っていた。何かが今にも開こうとしていた。
まさにその瞬間、庵の外で足音が聞こえた。いく人もの足音だった。庭に人が降りる音。そして、見覚えのある杖の音がした。朝の指が碗を強く握ったまま、固まった。庵の戸が開いた。冷たい風が入ってきた。朝は目を開けた。
戸口の前に、白髪の老人が立っていた。曲がった腰。赤土に染まった両手。その手に、朝の目が止まった。老人の視線は、朝の胸元に刺された小さな木の神差しへと移っていった。老人が震える声で呟いた。
「その神座は、わしがこさえたものじゃ」
その一言と、赤土に染まった手の記憶とが、朝の頭の中で同時に弾けた。老人が娘の名を呼んだ。
「千代」
それだけであった。しかし、その二文字が朝の全身を貫いて通り過ぎた。朝という名で二年を生きてきたが、その名こそが自分の本当の名であることを、骨の髄まで悟った。千代は碗を取り落とした。碗が土間に落ちて粉々に砕け、天麻の煎じ薬が静かに広がっていった。頭の中で散らばっていた欠片が、全て一斉に揃った。大和家の客間の書物の香り。春雨の音。丁寧に並べた箸と匙。婚礼の夜の月明かり。嘘の密書。吹雪の峠道。無念に追われたあの夜。全てが一度に押し寄せた。
千代は駆け出した。
「父上! 千代が戻ってまいりました!」
父は駆け寄ってくる娘を、その老いた腕でしっかりと受け止めた。曲がった腰で、赤土色の両手で娘を抱きしめ、その場に崩れ座るようにして座り込んだ。二人はその場で共に泣き崩れた。父は声を上げて泣いた。生涯他人の前で泣いたことのない人だった。しかしその日ばかりは、込み上げる涙を止めることができなかった。
「生きていたのか。生きていたのか」
何度も何度も繰り返しながら泣いた。お徳はその様子を見て、そっと顔を背けた。目に滲むものを隠すために。その場にいた誰もが言葉なく立ち尽くし、二人の号泣が十分に流れるまで静かに待ち続けた。
その後ろから、颯斗が中へ入ってきた。役目の小袖を身にまとってはいたが、そこに浄化代としての気構えのようなものは感じられなかった。ただ一人の男が、そこに立っていた。千代は父の腕の中から顔を上げ、颯斗を見た。全ての記憶がすでに戻っていた。颯斗は千代と目が合った瞬間、言葉を失い、ただその場に膝を折り、土間に額をつけた。肩だけが小さく震えていた。
しばしの沈黙の後、颯斗は震える声で言った。
「償えるとは思っておりません。沢の策に惑わされ、千代の潔白を信じ切れなかったこと。その根には、沢自身の抱えていた深い恐れがあったこと」
沢と権蔵の罪状が全て明らかになり、千代を再び害そうと計らったことまで発覚し、遠島に処されたことも、颯斗は隠さず伝えた。千代の濡れ衣は、これで完全に晴れたのだ。千代はその言葉を聞きながら、目を閉じた。無念だったという思いが先に立ち、次には深い疲れが訪れた。二年という年月がどれほど長く、記憶さえ失ったまま過ごした時間がどれほど重いものであったか。
「すぐに全てを忘れることはできませぬが、小春のためにも、これからのあなた様を見てまいります」
それが、千代が颯斗にかけた最初の言葉だった。
全てが片付き、庵の中が少し静かになった頃、お徳は隅に座っていた。手はそっと膝の上で組まれていた。千代がそのそばに寄り添い、お徳の手を握った。
「ばあ様。泣いておられますか」
お徳は首を横に振った。しかし、その目には確かに涙が滲んでいた。しばしの後、お徳が言った。
「助けた時は、こんな日が来ようとは思うてもなかった。ただ、助けねばと。それだけを思うておった」
千代はお徳の手を強く握った。
「助けてくださってありがとうございます。そして、見つけ出してくださってありがとうございます」
その言葉が、お徳の内に長く燻っていた古い悲しみを、静かに溶かしていった。
千代が大和家へ戻るのに先立ち、十蔵が自ら庵を訪ねてきた。十蔵は庭で千代を見るなり、しばし足を止めた。老人の顔には、長く生きてきた者だけが持つ複雑な表情が浮かんでいた。千代は十蔵の前で静かに頭を下げた。十蔵が先に口を開いた。
「このたびの難儀は、まことにわしの目が曇っておった。心から詫びる」
その言葉は短かった。しかし、重々しい十蔵が誰かの前で詫びの言葉を口にしたのは、それが最初で最後だった。千代は顔を上げ、十蔵を見つめた。老人の背は曲がっていた。その顔に、千代は自分の父に似た何かを見た気がした。千代は静かに言った。
「父上。もう過ぎたことでございます。どうぞ、気になさらないでくださいませ」
全てが片付いた後、千代は小春を抱いて大和家へと戻っていった。十蔵は小春を正式に自らの孫として認めた。女中たちは口々に外へ出てきて、涙しながら千代を迎えた。以前の大和家が冷たく格式ばったものであったとすれば、今では何か温かく、人の暮らしの匂いのする場所へと変わっていた。それが千代がこの家にもたらした最も大きな変化だった。
颯斗もまた変わった。以前の颯斗は、物事の道理は見分けられても、自らの感情には正直になれぬところがあった。それが結局、沢の策に欺かれる決定的な弱みとなった。しかし、千代を失い、探し、再び迎え入れるまでの長い道のりを経て、颯斗は確かに変わった。今では疑いが生じれば、耳を傾けることを覚えた。それは千代を通して学んだことであった。
十蔵は、それから一年ほどが過ぎた春に亡くなった。息を引き取る前日、十蔵は千代を呼び寄せた。人払いをして二人だけになった時、十蔵は長らく千代の手を握っていた。そして、ただ一言だけ言った。
「初めから、良き嫁であった。すまなかったな」
千代はその言葉に、涙が込み上げた。葬儀は母方の大寺で営まれ、読経の声が長く境内に響いた。十蔵が亡くなった後、その部屋から一つの引き出しが見つかった。中には、千代が初めてこの家に来た時に持ってきて、追われた日に置いていったものが、そのまま収められていた。十蔵がそれらを捨てずに、ずっと大切にしまっていたのであった。千代はその引き出しを開けて、しばらく見つめていたが、やがて静かに閉じた。それだけで十分だった。
そうして日々が積み重なっていった。毎朝、箸と匙を丁寧に並べること。小春が新しい言葉を覚えるたびに共に笑うこと。毎週、山奥の庵を訪ねてお徳の薬草仕事を手伝うこと。夕べに父の家に立ち寄って、土に触れること。それらが千代の日々を満たしていった。
千代は時折、夕べに小春を寝かしつけながら思った。記憶を失ったあの二年が、ただ無いに費やされた時ではなかったのだと。山奥の庵で薬草を煎じ、お徳に寄り添って生きたあの時こそが、自分という人間を新たに作り直す時であったのだと。
千代は小春に、箸と匙を並べる作法を教え始めた。
「心がまっすぐでなければ、匙もまっすぐに置けませぬ。おじい様が壺を焼かれる時に教えてくださった言葉です」
小春はその言葉を理解しているのかいないのか、「まっすぐ」という言葉だけを何度も真似た。その姿があまりに愛らしく、千代は思わず声を立てて笑った。箸一つに、父から千代へ、千代から小春へと受け継がれてきたものがある。それは教えであると同時に、深い愛情でもあった。
千代はお徳の許しを得て、庵の庭の一角に天麻を育て始めた。土を選び、根を植え、天麻の種を丁寧に埋める作業を、三人で共に行った。父もそのそばで土を整えるのを手伝った。
「土を扱うことなら、わしの得意とするところじゃ」
東校の職人である父の手が、畝を柔らかく整えていった。それを見ながら、千代とお徳が同時に笑った。
お徳から、千代は古い筆を受け取った。それは、若い頃に娘の朝に文字を教えようと用意しておきながら、娘を失ってから一度も手にすることのなかった筆だった。
「いつか記憶が戻ったら、その筆で書き記しておくが良い。書き記しておけば、忘れずに済む」
千代は紙の上に硯と筆を置き、ゆっくりと墨を磨り始めた。父がそばに座り、その様子を静かに見守っていた。墨が十分に擦れたと思う頃、千代は筆を手に取った。紙を開いた。最初のページだった。千代は一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。そして、静かに筆を下ろした。
千代が書き記した最初の一行は、こうだった。
「天麻の香りに導かれて、失った己れを取り戻した。今日もまた穏やかに、明日もまた長く安らかであろう」
筆が震えた。長らく書いていなかったせいで、初めの数文字は歪みもした。しかし、書き進めるにつれて、筆は次第に落ち着いていった。最後の一画を引き終え、筆を置いた時、千代は目に涙が滲むのを感じた。父がそのそばで、娘の書いた字をじっと見つめながら、低く一言だけ言葉をかけた。その一言は字を褒めているのではなかった。生き抜いてきたことそのものを、褒めているのであった。
その後も、千代はいくつもの月をかけて、その紙に出来事を綴っていった。お徳が自分を助けてくれた日の記憶。朝という名で呼ばれて過ごした日々。天麻の煎じ薬を初めて口にした日の味わい。夢の中で少しずつ鮮明になっていったあの男の顔。そして、父の一言に記憶が弾けたあの瞬間。それらを一文字一文字、丁寧に書き連ねていった。
千代は紙に自らの物語だけでなく、お徳の物語も記していった。お徳の若き日の娘・朝を生み育てたこと。流行病でその娘を失ったこと。それでも庵の戸を再び開いて、人々を世話し続けたこと。颯斗はそんなことをわざわざ書きす必要があるのかと言ったが、お徳の物語がなければ私の物語もございませんという千代の言葉に、静かに頷いた。
その日も、いろりの下では星薬草が風に揺れていた。千代は白い紙にゆっくりと筆を下ろした。
「天麻の香りに導かれ、失った己れを取り戻した。今日も穏やかに、明日もまた家族と共に生きていく」
香の煙は春の空へ細く立ち上っていた。少し離れたところでは、颯斗が小春と共に庭を歩いていた。小春が花をつまもうとするたびに、颯斗が「摘んではならぬ」と言って止める声が聞こえていた。物語はその穏やかな一日のうちに、静かに幕を閉じた。



