二十三時十七分、ドアを叩く音で目が覚めた。翌朝は早朝から大型ビルの定期清掃。四時に目覚ましをセットして布団に入った夜のことだ。裸足で玄関へ向かうと、ドア越しに押し殺した嗚咽が聞こえた。開けた瞬間、血の気が引いた。顔面蒼白の娘・美穂が、妊娠六ヶ月のお腹を両手で庇うように立っていた。髪は乱れ、サンダル履きの足は氷のように冷たい。「お母さん……帰ってきた。ごめんなさい」。そう震える声で呟いて、その…

二十三時十七分、ドアを叩く音で目が覚めた。翌朝は早朝から大型ビルの定期清掃。四時に目覚ましをセットして布団に入った夜のことだ。裸足で玄関へ向かうと、ドア越しに押し殺した嗚咽が聞こえた。開けた瞬間、血の気が引いた。顔面蒼白の娘・美穂が、妊娠六ヶ月のお腹を両手で庇うように立っていた。髪は乱れ、サンダル履きの足は氷のように冷たい。「お母さん……帰ってきた。ごめんなさい」。そう震える声で呟いて、その...

その夜、私はいつもより早く布団に入った。翌朝は早朝から大型ビルの定期清掃が入っていて、普段より一時間早い出勤が必要だったからだ。目覚ましを四時にセットし、読みかけの文庫本を閉じて電気を消した。

二十三時を回った頃、激しくドアを叩く音で目が覚めた。枕元の時計が青白い光で二十三時十七分を示している。こんな時間に一体誰だ。胸騒ぎを感じながら慌ててベッドを抜け出し、暗い廊下を裸足で玄関へ向かった。ドア越しに聞こえてきたのは、押し殺したような嗚咽だった。その声に聞き間違いようのない馴染みがある。

ドアを開けた瞬間、血の気が引いた。顔面蒼白の美穂が、大きくなり始めたお腹を両手で庇うようにして立っていたのだ。髪は乱れ、頬には涙の跡が何本も走っている。家を飛び出してきたのか、足元はサンダル履きで、薄手のカーディガンを一枚羽織っただけ。十一月の深夜に、妊婦がそんな格好でいる。その事実だけで、尋常ではない状況だと分かった。

「お母さん……帰ってきた。ごめんなさい」

その声は震えていて、まともに言葉を紡ぐことすらできないほど弱々しかった。美穂はそのまま膝から崩れ落ち、玄関のタイルにうずくまる。私は慌てて彼女の体を抱き起こし、中に引き入れた。華奢な肩が氷のように冷え切っている。リビングのソファに座らせ、毛布をかけてから温かいタオルで顔を拭いてやった。しゃくり上げる美穂の背中を撫でながら、ゆっくりと事情を聞いた。

彼女は途切れ途切れに、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返しながら話し始めた。夫の信彦が夕食時に些細なことで激昂したという。味噌汁の味が薄いと文句をつけ、美穂が謝っても怒りが収まらず、食卓のものを投げ散らかした末に、妊娠六ヶ月のお腹に手を上げたのだという。

「味噌汁が薄いって怒り出して……私が何度謝っても止まらなくて……お腹を蹴られて、壁に押し付けられて……」

カーディガンの袖をまくると、上腕部に紫色の痣が広がっていた。さらに腹部を見せてもらうと、脇腹にも大きな打撲の跡がある。赤黒く腫れ上がった肌が、その理不尽な行為の凄まじさを物語っていた。妊娠中の女性に手を上げるなど、人間のすることではない。体の芯から怒りとも恐怖ともつかない感情が湧き上がり、手が震えた。歯を食い縛らなければ、叫び出してしまいそうだった。

「美穂、今すぐ病院に行こう。お腹の赤ちゃんのことが心配だから」

携帯電話を操作し、タクシーを手配した。美穂にコートを着せ、肩を支えながらエントランスまで降りる。深夜の冷たい空気が頬を刺す。美穂は私の腕にしがみつくようにして、小刻みに体を震わせていた。

救急外来に到着すると、当直の医師が即座に診察に入ってくれた。超音波検査で胎児の心拍と発育状態を確認し、美穂の全身を丁寧に診てもらう。待合室の硬い椅子に座り、蛍光灯の白い光の下で手を組んで祈るように結果を待った。やがて看護師に呼ばれ、診察室に入ると、医師は深刻な表情だったが「胎児に異常は見られません」と告げた。その瞬間、全身の力が一気に抜けた。

ただし母体への打撲は全治二週間と診断され、当面の絶対安静が指示された。腹部への衝撃は切迫のリスクを高めるため、しばらくは極力動かないようにと厳しく言い渡される。

「妊娠中にこのような行為を受けることは、母子ともに命に関わる極めて危険なことです。今回は幸い胎児に影響はなかったものの、打撲の場所が数センチずれていたら、取り返しのつかない事態になっていた可能性があります」

私は唇を噛み締めた。数センチの差で孫の命が奪われていたかもしれないのだ。

「先生、診断書を発行していただけますか? 警察に届けることも考えていますので」

医師は頷いてすぐに診断書を用意してくれた。負傷の部位や程度、受傷の推定時刻、胎児への影響の可能性まで細かく記載されたその書類を、私はしっかりと鞄にしまい込んだ。これが最初の、そして最も重要な証拠になる。

病院を出る頃には東の空がうっすらと白み始めていた。タクシーの中で美穂は私の肩にもたれかかり、疲れ果てたように目を閉じていた。まだ二十八歳の娘がこんな目に遭うなんて。胸の奥で激しい怒りの炎が燃え上がるのを感じながら、私は眠る彼女の手を握り続けた。

私は酒井菊、五十五歳。大手ビルメンテナンス会社に勤めて十五年になる。毎朝五時に起きて身支度を整え、六時には最初の清掃現場に向かうのが日課だった。担当しているのは都心のオフィスビル数棟で、朝の出社前と夕方の退社後に清掃作業を行う。そんな生活を十五年、一日も休まずに続けてきた。

秋の朝はまだ暗い。息が白く染まり始めていることに気づく。季節はもう冬の入り口に差しかかっていた。毎年この時期になると、五年前の冬に亡くなった夫の正和のことを思い出す。発見された時にはすでに手遅れで、告知からわずか三ヶ月。桜を見せてやりたかったのに、正和は雪が溶ける前にこの世を去った。あの時、私を支えてくれたのは一人の娘だった。まだ二十三歳だった美穂は、大学を出たばかりの社会人一年目だったにも関わらず、毎週末のように顔を見せに来てくれた。あの日々があったから、私は再び前を向くことができた。

出勤すると、同じ会社で清掃員を務める鈴木が「おはよう」と高架室に入ってきた。もう十年以上の付き合いになる気さくで世話焼きな彼女は、この職場で一番の親友であり、正和の葬儀の時も一番に駆けつけてくれた大切な存在だ。

「おはよう、キク。今日も早いわね。あんた本当に朝強いわよね」

「そうね。まあ、慣れかしら」

「そういえば美穂ちゃん元気にしてる? 確かもう安定期に入ったでしょう。お腹も大きくなってきた頃じゃない?」

美穂は今年で二十八歳になる。一年前に中野信彦という男性と結婚した。中野グループといえば、この地域で不動産開発や建設業を手広く展開する財閥として知られている。駅前の大型商業施設から住宅地の分譲マンションまで、中野の名前が入っていない建物を探す方が難しいと言われるくらいだ。正直、庶民の我が家とは住む世界が違うと思っていたから、結婚が決まった時は驚いた。信彦は端正な顔立ちで物腰も柔らかく、初めて紹介された時は「お父さんの分まで美穂さんを幸せにします」と頭を下げた。あの時は少し安心したけれど、信彦の母である中野鈴蘭が見せた鋭い目つきのことは、なぜか心の片隅にずっと引っかかっていた。

「先週電話したわ。ちょっと声に張りがないような気がして。妊娠中だから体調が安定しないのかもしれないけど……母親の勘って言うのかしら。何かが違う気がするのよ」

「座りが重い人もいるからね。私も上の子の時は半年近く寝込んだもの。でも心配するのも分かるわ。美穂ちゃんは大事な一人娘だもんね」

鈴木の言葉に頷きながら、私は掃除道具を持ってフロアに向かった。美穂は結婚してしばらくは嬉しそうに新婚生活の様子を報告してくれていたのに、ここ数ヶ月は連絡の頻度がめっきり減っている。週に一度はあった電話が月に一度になり、会おうとしても何かと理由をつけて断られることが増えていた。最後に直接顔を合わせたのは三ヶ月も前のことだ。あの時も美穂はどこか元気がなく、薄い長袖の袖口から覗いた手首に青あざがあった。「ドアに手をぶつけちゃって」と笑っていたけれど、夏なのに手首まで隠れる服を着ていたことが、胸の奥にざらつきを残した。

その夜、私はいつもより早く布団に入った。翌朝は早朝から大型ビルの定期清掃が入っていて、普段より一時間早い出勤が必要だったからだ。

二十三時を回った頃、激しくドアを叩く音で目が覚めた。枕元の時計が青白い光で二十三時十七分と表示している。こんな時間に一体誰だ。胸騒ぎを感じながら慌ててベッドから起き上がった。廊下を裸足で歩きながら玄関に向かうと、ドア越しに聞こえてきたのは押し殺したような嗚咽だった。その鳴き声には聞き間違いようのない馴染みがある。

ドアを開けた瞬間、血の気が引いた。顔面蒼白の美穂が、大きくなり始めたお腹を両手で庇うようにして立っていたのだ。髪は乱れ、頬には涙の跡がいくつも走っている。家を飛び出してきたのか、足元はサンダル履きで、薄手のカーディガンを一枚羽織っただけ。十一月の深夜に妊婦がこんな格好でいる。その事実だけで、尋常ではない状況であることが分かった。

「お母さん……帰ってきた。ごめんなさい」

その声は震えていて、まともに言葉を紡ぐことすらできないほどに弱々しかった。美穂はそのまま膝から崩れ落ち、玄関のタイルにうずくまる。私は慌てて美穂の体を抱き起こし、中に引き入れた。華奢な肩が氷のように冷え切っている。リビングのソファに座らせ、毛布をかけてから温かいタオルで顔を拭いてやった。しゃくり上げる美穂の背中を撫でながら、ゆっくりと事情を聞いた。

彼女は途切れ途切れに話し始めた。信彦が夕食時に些細なことで激昂したという。味噌汁の味が薄いと文句をつけ、美穂が謝っても怒りが収まらず、食卓のものを投げ散らかした末に、妊娠六ヶ月のお腹に手を上げたというのだ。

「味噌汁が薄いって怒り出して、私が何度謝っても止まらなくて……お腹を蹴られて、壁に押し付けられて、倒れた私を蹴ろうとしたから、もう怖くて玄関から裸足で飛び出して……」

カーディガンの袖をまくると、上腕部に紫色の痣が広がっていた。さらに腹部を見せてもらうと、脇腹にも大きな打撲の跡がある。赤黒く腫れ上がった肌が、その理不尽な行為の凄まじさを物語っていた。妊娠中の女性に手を上げるなど、人間のすることではない。体の芯から怒りとも恐怖ともつかない感情が湧き上がってくる。手が震えた。歯を食い縛らなければ、叫び出してしまいそうだった。

「美穂、今すぐ病院に行こう。お腹の赤ちゃんのことが心配だから。何があってもまず赤ちゃんを守らないと」

携帯電話を操作し、タクシーを手配した。美穂にコートを着せ、肩を支えながらマンションのエントランスまで降りる。深夜の冷たい空気が頬を刺すように冷たい。美穂は私の腕にしがみつくようにして、小刻みに体を震わせていた。

救急外来に到着すると、当直の医師が即座に診察に入ってくれた。超音波検査で胎児の心拍と発育状態を確認し、美穂の全身を丁寧に診てもらう。待合室の硬い椅子に座り、蛍光灯の白い光の下で手を組んで祈るように結果を待った。壁にかけられた時計の秒針が刻む音が、夜けに大きく響いていた。

やがて看護師に呼ばれ、診察室に入った。医師は深刻な表情だったが、「胎児に異常は見られません」と告げた瞬間、全身の力が一気に抜けた。膝が折れそうになるのをこらえ、椅子の背もたれに手をつく。

ただし母体への打撲は全治二週間と診断され、当面の絶対安静が指示された。腹部への衝撃は切迫のリスクを高めるため、しばらくは極力動かないようにと厳しく言い渡される。

「妊娠中にこのような行為を受けることは、母子ともに命に関わる極めて危険なことです。今回は幸い胎児に影響はなかったものの、打撲の場所が数センチずれていたら、取り返しのつかない事態になっていた可能性があります」

私は唇を噛み締めた。数センチの差で孫の命が奪われていたかもしれないのだ。

「先生、診断書を発行していただけますか? 警察に届けることも考えていますので」

医師は頷いてすぐに診断書を用意してくれた。負傷の部位や程度、受傷の推定時刻、胎児への影響の可能性まで細かく記載されたその書類を、私はしっかりと鞄にしまい込んだ。これが最初の、そして最も重要な証拠になる。

病院を出る頃には東の空がうっすらと白み始めていた。長い夜が明けようとしている。タクシーの中で美穂は私の肩にもたれかかり、疲れ果てたように目を閉じていた。涙の跡が乾いた頬に白い筋を残している。まだ二十八歳の娘がこんな目に遭うなんて。胸の奥で激しい怒りの炎が燃え上がるのを感じながら、私は眠る彼女の手を握り続けた。

自宅に戻り、美穂を寝室に寝かせた。疲れと恐怖で消耗しきった彼女は、布団に入るとすぐに眠りに落ちた。安らかとは言えない寝顔だ。眉間に深い皺が刻まれ、時折うなされるように体をよじらせる。私は枕元にグラスの水を置き、そっと部屋を出た。

リビングに戻って一人で考え込んだ。朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を淡く照らしている。本来ならもう出勤している時間だったが、今日は会社に連絡して休みをもらった。事情を察した鈴木は「気にしないで。あんたは美穂ちゃんのそばにいてあげなさい」と言ってくれた。

テーブルの上に診断書を広げ、改めて内容を確認する。全治二週間の打撲、腹部と上腕部に広範囲の痣。医師の所見として外部からの強い衝撃によるものと明記されている。冷たい医学用語で綴られた文面が、美穂が受けた暴力の残酷さを物語っていた。この紙一枚が、今の私にとって唯一の武器だった。

けれど相手は中野グループだ。地元の不動産開発と建設業で莫大な財を成した財閥で、政界にも太いパイプを持っていると聞く。市の再開発事業の多くに中野の名前が入っており、地元の議員や商工会の幹部とも繋がりが深い。清掃員の私が声を上げたところで、その力の前では風に舞う砂粒のように吹き飛ばされてしまうのではないか。テレビのニュースで時折見かける権力者による事件のもみ消し。あの手この手で被害者を黙らせ、何事もなかったかのように済ませてしまう。私たちもそうなるのではないかという恐怖が、胸の底にへばりついて離れなかった。

昼過ぎに美穂が目を覚ました。顔色はまだ悪いが、少し落ち着きを取り戻したように見える。温かいお粥を作って運ぶと、彼女は申し訳なさそうな表情で箸を手に取ったものの、ほとんど口に運ぼうとしない。

「ごめんなさい。急に帰ってきちゃって」

美穂は涙をぽたぽたと流す。私もこらえていた涙がこぼれそうになりながら、「いいのよ」と告げて彼女を抱きしめた。

「でも、中野の家に逆らったら本当に大変なことになるの。あの家はこの町のどこにでも手が届くから。前に信彦さんと喧嘩した時も、お母様が『中野家を敵に回したらこの町では生きていけない』って」

美穂が何を恐れているのか、痛いほど伝わってくる。中野グループの影響力は、地元の商店から行政機関に至るまで広く浸透している。清掃の仕事で出入りするビルの管理会社も、中野グループと取引関係にあるところが多い。逆らえば仕事を失い、住む場所まで奪われかねない。その恐怖は決して大げさなものではなかった。

美穂は視線を落としたまま続けた。小さな声だが、一言一言に重い沈黙が挟まっている。

「結婚して半年くらいで始まったの。食事の味付けが気に入らないとか、掃除が行き届いていないとか、ちょっとしたことで怒鳴られるようになって……最初は怒鳴るだけだった」

美穂の肩が小刻みに震える。

「でもそのうち物を投げるようになって、手が出るようになった。お母様に相談しても『夫婦喧嘩だ』とか『あなたの至らなさが原因でしょう』って取り合ってもらえなくて」

私の手が無意識に握り拳を作っていた。半年前から手を上げられていた。それはつまり、美穂は妊娠する前から耐え続けていたということ。三ヶ月前に会った時、夏なのに長袖を着ていた理由も、急に痩せた理由も、全てが繋がった。

「どうしてもっと早く言ってくれなかったの? 私はあなたの母親なのよ」

「お母さんに心配をかけたくなかったの。お父さんが亡くなってから、やっと落ち着いた生活が送れるようになったのに、また問題を持ち込むなんて。それに、中野の家の力を考えたら、誰にも助けを求められないと思って」

彼女の言葉に、さらに胸が締め付けられた。

「信彦さんも、手を上げた後は急に優しくなるから、もしかしたら変わってくれるかもしれないって……そう思い込もうとしていた」

典型的なDVの構図だ。手を上げた後の優しさで被害者を縛り、逃げ場をなくしていく。それを義母も正当化し、被害者の味方になる人間がどこにもいない状況。美穂はたった一人で、巨大な壁の中に閉じ込められていたのだ。

胸が張り裂けそうだった。母親として、なぜ気づいてやれなかったのか。三ヶ月前に手首の痣を見た時、なぜあの場で追求しなかったのか。自分が情けない。自責の念が津波のように押し寄せ、目の奥がじっと熱くなった。

夕方になって、私は鈴木に電話をかけた。事情を包み隠さず話すと、電話の向こうで鈴木が大きく息を飲む気配が伝わってくる。数秒の沈黙の後、鈴木の声が力強く響いた。

「絶対に泣き寝入りしちゃだめよ。相手が財閥だろうと何だろうと、人に手を上げていい理由にはならないわ。ましてや妊婦のお腹を叩くなんて、とんでもない話じゃない。まずは警察に行きなさい。診断書もあるんでしょ? 証拠があるなら、きちんと届けるべきよ」

彼女の真っ直ぐな言葉が、暗闇に差す一条の光のように私の迷いを照らしてくれた。とはいえ、警察に被害届を出したところで、財閥の力で揉み消されるのではないかという不安は消えない。中野グループの顧問弁護団は、この地域で最も力のある法律事務所だと聞いたことがある。ただの清掃員の私に、一体何ができるのだろう。診断書を握りしめたまま、私はその夜もなかなか眠りにつけなかった。

翌朝、美穂はまだ眠っていた。安静が必要な体だから起こすわけにはいかない。私はキッチンで朝食の準備をしながら、鈴木の言葉を何度も反芻していた。泣き寝入りしちゃだめよ。その通りだ。ここで黙っていたら、美穂は一生怯えながら生きることになる。お腹の赤ちゃんが生まれた後も、あの男の支配から逃れられない日々が続くのだ。清掃員だろうと何だろうと、私は美穂の母親だ。世界中の誰が敵に回っても、彼女を守れるのはこの私しかいない。

美穂が起きてきたのは昼近くだった。温めておいた雑炊を運ぶと、彼女はおずおずと箸をつけた。半分ほど食べたところで、私は箸を置き、テーブル越しに美穂の目を見据えた。

「美穂、今日警察に行こう。被害届を出すの。このまま何もしないなんて、お腹の赤ちゃんに申し訳が立たないわ。この子が生まれてきた時、『お母さんはあなたを守るために戦ったのよ』って、胸を張って言わないと」

彼女の手が止まり、顔が強張った。恐怖と不安が瞳の奥にありありと浮かんでいる。箸を持つ指先がかすかに震えていた。

「でもお母さん、中野の家が黙っているはずがないわ。被害届なんか出したら、もっとひどいことになるかもしれない。お母さんの清掃の仕事だって、中野グループのビルに出入りしてるんでしょ」

美穂の手が一層震える。彼女が自分の痛みよりも母親の心配をしていることに、胸が締め付けられた。こんな状況でも他人を気遣える美穂の優しさが、DVの被害者としての弱さにも繋がってしまっているのだ。

「あなたのお腹には新しい命が宿っているの。その子を守ることが、今一番大事なことでしょう。中野の家がどんなに力を持っていても、人に手を上げて許される道理はないのよ。証拠はある、診断書もある。お母さんの仕事のことは心配しなくていいの。一歩ずつでいいから、前に進みましょう」

長い沈黙が二人の間に横たわった。壁掛け時計の秒針がカチカチと音を刻む。美穂は何度も唇を噛み、目を伏せ、大きくなったお腹に手を当てていた。お腹の中で赤ちゃんが動いたのか、美穂の表情がふっと緩む。その瞬間、彼女の目に小さな光が宿ったように見えた。

「わかった。行こう、お母さん。この子のためにも」

二人で最寄りの警察署に向かった。秋の日差しが降り注ぐ歩道を、美穂の歩調に合わせてゆっくりと歩く。警察署の建物が近づくにつれて美穂の足取りが重くなるのが分かったけれど、私がその手をしっかりと握ると、彼女は小さく頷いて前を向いた。

窓口で事情を説明すると、女性の相談員が対応してくれた。個室に通され、美穂が被害の詳細を語る間、私は隣で彼女の手をしっかりと握り続ける。美穂は何度も声を詰まらせながらも、信彦から受けた暴力の始まりから昨夜の出来事まで、一つ一つ丁寧に語った。美穂が話し終えると、私も事情を聞かれた。深夜に娘が駆け込んできた状況、病院での診察結果、診断書の内容。担当の女性警察官はメモを取りながら真剣な表情で耳を傾け、時折確認の質問を挟んでくれた。腕の痣を写真に撮り、記録として残す作業も行われる。

「被害届を受理しました。今後、加害者からの接触があった場合は、すぐに110番通報をしてください」

DV被害者支援センターの連絡先も渡された。保護の申し立てやシェルターの利用についても相談できるという。数枚のパンフレットと連絡先カードを受け取り、警察署を出た。秋晴れの空が頭上に広がっている。一つだけ確かな行動を起こせたという安堵感と、これから始まる戦いへの緊張感が胸の中に入り混じっていた。

けれど私は、被害届だけではまだ足りないことを薄う感じ取っていた。中野グループの力は、警察への圧力という形で簡単に覆返される可能性がある。もっと根本的な、相手の足元そのものを揺さぶる何かが必要だ。その何かがまだ見えないまま、私は美穂の肩を支えて帰路に着いた。

数日後、警察から連絡があった。信彦に対する任意同行が行われ、事情聴取が実施されたという報告だ。担当の刑事は丁寧な口調で経過を説明してくれたが、その内容は私の不安を裏付けるものでしかなかった。信彦は事情聴取の場に現れたが、一人ではなかった。中野グループの顧問弁護士団から派遣された弁護士が二名同席し、信彦は「妻との口論の際に感情的になって謝って接触してしまった。暴力ではない」と陳述したという。妊婦のお腹を殴り、蹴り、壁に押し付けた行為が「誤って接触」で済まされるのか。顧問弁護士は警察に対して長時間にわたって法的見解を述べ、「単なる暴行ではなく偶発的な接触である」という主張を繰り返した。結局、信彦はその日のうちに帰宅を許されたという。身柄の拘束には至らず、在宅捜査の形で継続するとのことだが、財閥の力が警察にまで及んでいることを目の当たりにして、私は呆然とする思いだった。

あの診断書を見れば、「誤って接触」などという言い訳が通用するはずがない。それでも権力の前には正論すら無力になるのか。このままでは揉み消される。その確信が私を次の行動へと駆り立てた。被害届だけでは足りない。もっと根本的な、中野の家が金の力で覆返すことのできない何かが必要だ。

証拠収集を始めて三週間が経過した頃、公園で知り合った清子さんから連絡が入った。地元紙の記者・高橋という人物が、是非話を聞きたいと言っているという。清子さんは以前、DV被害者支援のNPO法人で相談員として活動しており、法的な手続きにも精通していた。彼女も三十年前に元夫から暴力を受け、幼い息子を連れて逃げ出した経験を持つ。清子さんの仲介で、私は高橋記者と密かに会うことになった。

待ち合わせ場所は、中野グループの関係者が来そうにない隣町の小さな喫茶店だった。奥まった席に案内され、周囲に人がいないことを確認してから資料を広げた。高橋さんは四十代半ばの痩せた男性で、真剣な目つきが印象的だった。資料に目を通し始めると、ペンを走らせる手が止まらなくなる。二重帳簿の写真、不正入札の痕跡、耐震基準との乖離データ。次々とページをめくりながら、時折低い声で「これは……」と呟いている。

「記事にする前に、まず国税局と建設業監督官署への告発を先行させた方がいいですね。公的機関が動いたという事実があれば、報道の正当性と信頼性が格段に増します。逆に、公的機関の動きなしに報道すれば、中野グループ側から目をつけられて反撃される可能性があるんです」

私たちの作戦はこうして三段階の計画に整理された。第一段階は国税局への内部告発。第二段階は建設業法違反の監督官署への通報。第三段階はメディアへの情報提供と報道。この三つを数日の間隔を開けて順番に実行し、中野グループが対応に追われている隙をついて次の一手を打つ。

全ての準備が整い、作戦決行の日取りを決めた。来週の月曜日に国税局への告発状を提出する。そこから始まる連鎖反応が、中野グループという巨大な構造物の土台を根底から揺さぶることになるだろう。

作戦の決行日を前にして、中野が動き始めた。最初の兆候は私の職場に現れた。清掃の仕事を終えて高架室に戻ると、上司の佐藤が待ち構えていたのだ。いつもは温厚な佐藤の表情が、表情を合わせようとしない。佐藤は言いにくそうに切り出した。

「中野グループから会社に正式な書面で連絡があり、君が清掃中に不審な行動をしている、書類に触っているという苦情が入っているんだ。ビルのセキュリティカメラにも記録が残っているそうだ」

心臓が大きく跳ねたが、私は表情を動かさなかった。

「不審な行動とは、具体的にどのようなことでしょうか。私は通常通り清掃業務を行っているだけですが。スマートフォンを確認したのは、娘が妊娠中で体調が不安定なため、急な連絡に備えていたからです」

佐藤は苦しそうに言葉を選びながら続けた。

「具体的にどの行動がどうとは聞いていないが、中野グループは当社にとって最大の取引先であり、月額の清掃委託費だけでも相当な額になる。向こうが不快に思っている以上、対応せざるを得ない。申し訳ないが、明日から君の担当は中野のビルを外すことになった」

これで中野グループ本社ビルへの出入りができなくなった。証拠収集のルートが一つ断たれたことになるけれど、動揺する必要はない。必要な証拠はすでに十分に集めてあるのだ。問題はむしろ、中野グループが私の動きに気づいているかもしれないという事実の方だった。

中野の攻勢はそこから加速するようにエスカレートしていった。同僚たちの態度が目に見えて変わり始めた。昨日まで普通に挨拶を交わしていた人たちが、廊下ですれ違っても目をそらすようになった。休憩室に私が入ると、それまで賑やかだった会話がぴたりと止まり、気まずい沈黙が部屋を満たす。ロッカーに入れていた制服が、なぜか濡れた雑巾の上に置かれていたこともあった。中野グループからの圧力が、会社全体に影を落としている。鈴木だけは変わらず私の隣に座り、一緒にお弁当を食べてくれた。

「気にしないの、キク。あいつらが何を言おうと、あんたは間違ったことなんかしてないんだから。私はずっとあんたの味方よ。それに他の子たちだって、中野の名前に怯えてるだけよ。あの財閥に睨まれたら仕事を失うかもしれないと思えば、誰だってビクつくもの。不安がらないでよ」

彼女の言葉に頷きながらも、孤立感は日に日に深まっていった。長年積み上げてきた職場での信頼が、財閥の一声で崩れ去っていく。怒りよりも悲しさの方が勝った。

ある夕方、自宅のインターホンが鳴った。モニターを覗くと、見覚えのある毛皮のコートが映っていた。鈴蘭だ。ドアを開けると、鈴蘭は有無を言わさぬ態度で玄関に足を踏み入れてきた。高級ブランドのバッグを腕にかけ、宝石を散りばめた指輪をはめた手で、私の質素なマンションの壁を指先でなぞる。まるで汚れを確認するかのように。

「少しお話があるの。上がらせていただくわ」

招き入れたわけでもないのに、鈴蘭は勝手に上がり込んできた。リビングを通すと、ソファに腰かけることもなく、狭い部屋の中をゆっくりと見回す。テーブルの上の新聞、棚に並んだ安い食器、壁にかけられた家族写真。全てを睥睨するような視線で眺めてから、鼻で笑った。

「まあ、こんな狭いお部屋に美穂さんを住まわせているの? 中野家のお屋敷の廊下一筋分にも満たないわね。かわいそうに。まるでウサギ小屋だわ」

怒りが喉元まで込み上げてきたが、私はぐっと飲み込んだ。相手のペースに乗せられるわけにはいかない。気然と立ち、鈴蘭の目を真正面から見据えた。

「ご要件は何でしょうか」

「単刀直入に言うわ。美穂さんを中野家に返しなさい。それから警察への被害届を取り下げなさい。あなたが余計なことをしなければ、中野も温に済ませるつもりよ。解決金として、それなりの金額を用意することもできるわ」

鈴蘭はバッグから封筒を取り出した。分厚く膨らんだ茶封筒をテーブルの上にぽんと置く。その手付きはまるで不要なチラシを放り投げるかのように無造作だった。

「三百万。清掃員のお給料の何ヶ月分になるかしら。これだけあれば、あなたの年収を超えるんじゃないの? 受け取って、全てなかったことにしてくださらない?」

金で美穂の傷を、孫の命の危機を、全てなかったことにしろというのか。札束の入った封筒を前にして、私の中で何かが冷たく研ぎ澄まされるのを感じた。怒りを通り越して、静かな確信が胸に宿る。

「お断りします。お金で娘の傷は消えません。お腹の赤ちゃんが受けた恐怖も消えません。鈴蘭さん、一つだけ申し上げます。信彦さんのしたことは違法行為です。いくらお金を積んでも、その事実は変わりません」

封筒を鈴蘭に押し付けるようにして返すと、彼女の表情が一変した。余裕の笑みが消え、代わりに凄絶な目が私を射る。

「酒井さん、あなた、自分が何をしているか分かっているの? 中野グループに盾突くということがどういうことか、身を持って知ることになるわよ。この町で仕事をしていられるのも、家を借りていられるのも、全て中野グループのおかげなのよ。高が清掃員の分際が、中野グループを敵に回してこの町で生きていけると思わないことね」

低く唸るような声で脅しを残し、鈴蘭は足音を立てて出ていった。玄関のドアが閉まった後も、部屋の中には高級香水の匂いがしばらく漂っていた。私の手は小さく震えていた。恐怖がないといえば嘘になる。中野グループの力は本物だ。けれどあの傲慢な態度を見て確信したことがある。鈴蘭は自分たちの力を過信している。金と権力さえあれば何でも揉み消せると信じて疑っていない。その過信こそが、中野の最大の弱点だ。

鈴蘭の訪問から数日後、さらに深刻な事態が起きた。仕事から帰ると、マンションの入り口に黒塗りの高級車が止まっていた。その傍らに信彦がスーツ姿で腕を組んで立っていたのだ。一見すると紳士的な佇まいだが、街灯に照らされた目には暗い光が宿っている。

「お母さん、お話があります。美穂は中野の嫁です。お腹の子供が生まれたら、当然中野家の後継として育てるつもりです。いつまでもこちらに置いておくわけにはいきません。美穂を返していただけませんか」

口調こそ丁寧だが、その奥に潜む威圧感は隠し切れていなかった。私はマンションの入り口に立ち塞がるようにして信彦の前に立つ。

「信彦さん、あなたは妊婦の体に手を上げたんですよ。警察に被害届も出しています。被害者の居場所に加害者が押しかけること自体が、さらなる脅迫行為に当たるのではないですか」

信彦の表情がわずかに歪んだ。しかしすぐに余裕を取り戻し、薄い笑みを浮かべて見せた。

「夫婦喧嘩で少し手が出ただけでしょう。うちの顧問弁護士は、被害届程度ではどうにもならないと言っています。お母さんの勤務先にもっと強く申し入れることだってできるんですよ。今ならまだ穏便に済ませられます」

脅迫に近い口調だった。私は心臓の鼓動を必死で抑えながら、毅然とした態度で信彦を追い返した。去っていく高級車のテールランプを見つめながら、握りしめた拳に力が入る。

それから一週間ほど経った頃、最悪の知らせが届いた。会社の人事部から呼び出され、言い渡されたのは解雇通告だった。人事部の小さな会議室で、担当者は申し訳なさそうな表情を浮かべながら、「業績悪化に伴う人員整理」という名目を並べる。だが本当の理由は火を見るより明らかだった。整理解雇の対象が私一人であること。業績悪化を裏付ける具体的な数字の説明がないこと。全てが中野グループからの圧力を示している。十五年、真面目に働いてきた職場をこんな形で追い出されるとは。あまりの理不尽さに、怒りを通り越して笑い出したくなるほどだった。

高架室でロッカーの荷物を段ボール箱に詰めていると、鈴木が息を切らして駆け込んできた。目が赤い。泣いたのだろう。

「キク、解雇って本当なの? あんた十五年間もここで無休無欠で働いてきたのよ。それなのに、理不尽すぎるわ。私、上に直談判してくる」

「ありがとう。でも騒がないで。鈴木まで巻き込まれて解雇されたら、それこそ中野の家の思う壺よ。私は大丈夫だから。あなたはここで働き続けて」

鈴木は涙をこらえつつも、最後まで荷物を運ぶのを手伝ってくれた。段ボール箱を抱えて会社を出る時、長い廊下の両側に並ぶ同僚たちは、誰一人として声をかけてこなかった。視線をそらし、壁を見つめ、あるいは忙しそうにスマートフォンを操作する。十五年一緒に働いてきた仲間たちが、まるで私の存在を消し去るかのように振る舞っている。その光景は、どんな無実の罪よりも深く心に突き刺さった。

職を失い、来月からの収入が途絶える。五十五歳の清掃員が新しい職を見つけるのは容易ではない。年金はまだ受給できる年齢ではなく、貯蓄だけで生活を支え続けるには心もとない。その上、妊娠中の美穂と生まれてくる赤ちゃんの面倒も見なければならないのだ。自宅のテーブルに通帳を広げ、残高を確認した。正和が残してくれたわずかな保険金とこれまでの貯蓄を合わせても、生活費を切り詰めてせいぜい半年。それも美穂の出産費用を考慮に入れなければの話だ。出産費用、赤ちゃんの衣類やミルク代、美穂の検診費用。数字を積み上げるたびに、目の前が暗くなる思いがした。

解雇されたことは、すぐに美穂にも伝わった。毎朝出かけていた母親が、ある日突然家にいるようになったのだから。美穂は私の表情を見て全てを察し、見る見るうちに顔色を失った。その夜、二人で簡素な夕食を終えた後、食器を洗いながら美穂がとうとう口にした言葉に、私は凍り付いた。

「私が中野の家に戻れば、全部収まるんじゃないかな。信彦さんに謝って、お母様にもお詫びして、そうすればお母さんの仕事のことも、きっと元に戻してもらえる。赤ちゃんのためにも中野の経済力は必要だと思うの。お母さんが働けなくなって、このまま貧しい暮らしの中に赤ちゃんを生み出すのは、もしかしたら私のわがままだったのかもしれない」

「そんなことはないわよ」と言いかけたが、美穂は肩を震わせながら続ける。

「実家に逃げ返ってきたこと自体が、間違いだったのかも」

その言葉を聞いた瞬間、膝の力が抜けそうになった。DVの被害者が、加害者の元に自ら戻ろうとしている。手を上げた男の元に、お腹の赤ちゃんを連れて帰ろうとしているのだ。これは母親が子供を守るために自分を犠牲にするという美しい話ではない。子供もろとも恐怖の檻に閉じ込められるということだ。何より辛かったのは、私のせいで美穂があの地獄に戻ろうとしていることだった。

「美穂、それだけは絶対にダメ。あの家に戻ったら、また同じことの繰り返しになるわ。あなたに手を上げた人間が、次は生まれてきた赤ちゃんに向かわない保証がどこにあるの? 正直、この先の生活には不安がある。しかし私は美穂と生まれてくる孫を守りたいのだ。お金のことなら何とかなる。お母さんは五十五歳だけど、まだ働けるわ。どこかの清掃会社が雇ってくれるわよ」

自分でもどこまで本気で信じているのか分からない言葉を並べている自覚はあった。声が震え、やがて涙がこぼれた。美穂と二人、テーブルにつっぷして泣いた。全てを投げ出してしまいたい衝動と、絶対に諦めてはいけないという意地が、心の中で激しくぶつかり合っていた。

美穂が寝室に引き下がった後、一人きりになったリビングで、私は仏壇の前に正座した。正和の遺影を両手で持ち上げ、彼の穏やかな笑顔を見つめる。胸の奥から熱いものが込み上げてきて、こらえきれずに涙がこぼれ落ちた。正和が亡くなった時も、こうして一人で泣いたものだ。病室のベッドで正和の手を握りながら、少しずつ冷たくなっていくその指先にすがりつくことしかできなかった。医師が最期を告げた瞬間の静寂を、五年経った今でも鮮明に覚えている。あの時は本当に何もかも終わりだと思った。朝が来るのが怖くて、ずっと夜が続けばいいとさえ願った。けれど美穂がいてくれたから、立ち直れたのだ。「お母さん、一緒にお父さんの好きだった蕎麦を食べに行こう」というあの一言が、閉ざされた世界に小さな風穴を開けてくれた。美穂の存在が私を再び前に進ませてくれた。そして今、その美穂が苦しんでいる。娘に救われた母親が、今度は娘を救う番だ。

仏壇の引き出しから、正和の形見の万年筆を取り出した。深い紺色の軸に金色のペン先が光る。正和が営業マン時代にコツコツ貯めて買った一本だ。亡くなる数日前、酸素マスクの下から途切れ途切れの声で「お前に、何か大事なことを書く時に使え」と渡してくれた。あれから五年、大事にしまったまま一度も使っていなかった。大事なことがまだ来ていないような気がしていたからだ。

「私、もうダメなのかしら」

正和なら何と答えるだろう。きっとあの穏やかだけど力強い声で、「お前は強い女だ。俺が惚れた女だから」と言ってくれるに違いない。出会った頃から、私の本当の強さを誰よりも認めてくれていたのは正和だった。清掃の仕事を始めた時、周囲に「もっといい仕事があるだろう」と言われた。しかし正和だけは「立派な仕事じゃないか。人が気持ちよく過ごせる空間を作る仕事だ」と胸を張って背中を押してくれたことを思い出す。

仏壇の脇に置いてあったエコー写真を手に取った。まだ生まれていない孫の、小さな命の記録。丸まった体、ちょこんとした手足、大きな頭。こんなに小さいのにもう心臓は動いている。この子を守れるのは、私と美穂しかいない。この子が生まれてくる世界に、理不尽な苦しみの影があってはならない。涙を拭い、リビングの隅に置いた段ボール箱に目を向けた。箱の中には、私が清掃員として最後に成し遂げた仕事の成果が詰まっている。二重帳簿の写真、不正入札の記録、耐震偽装のデータ。解雇されてしまったけれど、この証拠を集めるという仕事だけは、最後までやり遂げた。この仕事人生の中で、最後にして最も重要な仕事。

ふと、あることに気づいた。解雇されたということは、もう中野グループに遠慮する必要がないということだ。守るべき職場はすでにない。これまでは解雇されるかもしれないという恐怖が心のどこかでブレーキをかけていた。けれど、今そのブレーキは外れた。失うものがなくなった人間ほど強いものはない。正和の万年筆のキャップを外した。紺色の軸を指で撫でると、正和の体温がまだ残っているかのような温もりを感じる。この万年筆で、国税局への告発状に最後の署名をしよう。清掃員としてではなく、娘と孫を守る母親として。

「正和、これが大事なことよ。あなたが託してくれたこの万年筆を、ようやく使う時が来たの」

窓の外で冬の風が唸りを上げている。ガラス窓がかすかに震え、カーテンの裾が揺れた。けれど、その風の音が不思議と背中を押してくれるような気がした。嵐の前の風だ。これから私たちが起こす嵐は、中野グループという巨木を根こそぎ倒すことになる。

翌朝、目が覚めた時、胸の中にあったのは迷いではなく、透き通った水のような決意だった。昨夜泣くだけ泣いて、全ての迷いを涙と一緒に流し切ったのかもしれない。朝食の支度をしながら、鈴木と清子さんにそれぞれ電話を入れた。

「作戦を決行するわ」

その一言で、二人とも全てを理解してくれた。午後に私の家に集まることになった。鈴木は仕事の昼休みを利用して駆けつけてきた。コンビニで買ったおにぎりを手に「食べながら話すわよ」と言いながらドアをくぐる。続いて清子さんがいつもの穏やかだが芯の通った表情で到着した。手には高橋記者から受け取ったという封筒を持っている。

リビングのテーブルに証拠資料を広げ、私は二人の目をまっすぐに見て切り出した。

「二人に改めてお願いがあるの。作戦を予定通り決行させてほしい。解雇されたからこそ、中野グループに遠慮する必要も、職場を気にする必要もなくなった。今度は私たちが仕掛ける番よ」

鈴木は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに力強い笑みを浮かべた。おにぎりを握る手にぎゅっと力がこもる。

「あんたがそう簡単に諦めるわけないもんね。私も最後まで付き合うわ。十五年一緒に働いてきた仲間が不当に解雇されて、黙っていられるわけないじゃない」

清子さんも深く頷き、封筒からプリントアウトされた記事の草稿を取り出した。

「リクさん、記者の高橋さんにはもう連絡してあるわ。この草稿を見て。中野グループの不正を徹底的に追求する内容になっている。国税局と監督官署への告発を先行させて、公的機関が動いた事実を作れば、この記事が掲載される。あの人、もう書き上げているのよ。合図を待つだけ」

三人で作戦の最終確認に入った。テーブルの上に並べた書類を一枚ずつ確認しながら、手順を詰めていく。国税局への告発状には、正和の万年筆で署名を済ませた。紺色のインクで書かれた名字の文字が、白い用紙の上でくっきりと光っている。建設業法違反に関する通報書類も完成し、添付資料の順番まで確認した。メディアへの情報提供については、高橋記者が取材と裏取り取材を進めている。

「月曜日に国税局への告発状を窓口提出する。水曜日に建設業監督官署への通報書類を郵送する。金曜日に高橋記者の記事が朝刊に掲載される」

三つのアクションを数日の間隔で連続して打ち込むことで、中野グループが一つ目の対応に追われている最中に次の波が押し寄せる。美穂もリビングに出てきて、私たちの話を聞いていた。臨月が近づき、お腹はかなり大きくなっている。椅子にゆっくりと腰かけ、お腹を優しく撫でながら彼女は口を開いた。

「お母さん、私も一緒に戦うわ。私も同じ週に離婚調停の申し立てを行うつもり」

美穂が書類をテーブルの上に置いた。信彦への慰謝料請求と、結婚してからずっとつけていたDV被害の記録。写真も日記も診断書も、全部。

「この子のために、もう逃げない」

四人の女性が小さなリビングで一つの決意を共有した瞬間だった。五十五歳の清掃員と、五十六歳の同僚と、六十歳のボランティア活動家と、二十八歳のDV被害者。誰一人として特別な力や地位を持っているわけではない。財閥の前では取るに足らない存在かもしれない。けれど正義と証拠は、私たちの側にある。それぞれが自分の持ち場で、自分にできることをやり抜く覚悟を、この小さなリビングで固めた。

作戦決行の週が始まった。月曜日の朝、冬晴れの空の下、国税局の庁舎に足を踏み入れる。受付で告発状の提出を申し出ると、窓口の職員は書類に目を通し始めた。ページをめくるにつれて、表情が引き締まっていくのが分かる。二重帳簿の写真、架空発注の記録、裏金口座への送金を示唆するメモ。一介の清掃員が二週間かけて集めたものだが、その内容は国家機関を動かすに足る重さを持っていた。職員は経理の担当官に取り次ぎ、私は別室で詳しい事情を聞かれた。どのような経緯でこれらの情報を得たのか。告発の動機は何か。私は正直に全てを話した。娘がDV被害を受けたこと。清掃員として中野グループの本社ビルに出入りしていたこと。清掃中に不正の痕跡を発見したこと。担当官は黙って聞いた後、「調査に入ります」と短く告げた。

同じ日の午後、美穂は家庭裁判所に離婚調停の申し立てを行った。DV被害の診断書、痣の写真記録、美穂が結婚当初からつけていた詳細な被害日記、そして信彦の暴言を録音した音声データ。全ての証拠を添えた陳述書の厚さは、一年間の苦悩の重さそのものだった。

水曜日、建設業監督官署への通報を実行した。耐震基準に関する設計値と実測値の乖離データ。公共工事の不正入札を示唆する資料を添えた通報書を郵送する。こちらは窓口提出ではなく書留郵便にした。受理の記録を確実に残すためだ。

そして金曜日の朝、まだ薄暗い時間帯に、鈴木からの電話で目が覚めた。

「キク、今すぐ朝刊を見なさい。一面よ。一面」

急いでポストから新聞を取り出した。地元紙の朝刊一面に、大きな見出しが踊っている。「中野グループに脱税疑惑 国税局が調査着手 数億円規模の所得隠し」。高橋記者の署名入り記事だった。記事は脱税の疑惑だけにとどまらなかった。建設部門の不正入札疑惑、公共工事における原価水増しの実態。さらには耐震基準を満たしていない可能性のある建築物の存在にまで言及している。取材班が独自に入手した情報として、中野グループの元従業員の証言も掲載されていた。一つの企業の不正がこれほど広範にわたっているという事実は、地域社会に激震をもたらすだろう。美穂に新聞を見せると、大きく目を見開いて記事を読みふけった。読み終えた後、お腹の赤ちゃんに向かってそっと呟いた。

「おばあちゃんがやったのよ」

その声は小さいけれど、誇りに満ちていた。

記事の翌週の月曜日、事態は急展開を見せた。朝八時過ぎ、鈴木から興奮した声で電話がかかってきたのだ。

「キク、今すぐテレビつけて。速報をやってるの。国税局が中野グループに入ったわ」

慌ててリモコンを手に取ると、速報テロップが画面の上を流れていた。「中野グループ本社に国税局が強制調査 脱税容疑で」。映っているのは、あの豪華な大理石のエントランスだった。段ボールを抱えた調査官が十数名列をなして自動ドアをくぐっていく。スーツ姿の係官たちがエレベーターに乗り込み、役員フロアへと向かう映像が生中継されている。あのエントランスの大理石を毎朝磨いていたのは私だ。あのエレベーターのボタンを毎日拭いていたのも私だ。私が長年通い続けた場所に、今は国家の捜査権力が踏み込んでいる。テレビ画面を見つめながら、言葉にならない感慨が込み上げてきた。美穂もリビングに出てきて、隣で画面を見つめていた。二人とも何も言わず、ただ息を飲んでニュースに見入っている。あの巨大なビルの中で、今まさに数億円規模の不正が白日の下にさらされようとしているのだ。

中野グループの株価は、記事の翌日から急落を始めた。初日に十五パーセント下落し、二日目にさらに二十パーセント。三日目には取引停止の措置が取られるほどの暴落となった。三日間で時価総額の半分以上が消し飛んだ計算になる。地元経済界には激震が走った。取引先からの契約解除の通知が雪崩のように押し寄せたという。中野グループと取引のあった建設資材メーカー、不動産仲介業者、広告代理店が次々と距離を置き始めているそうだ。主要取引銀行からの融資凍結も報じられ、資金繰りが急速に悪化したらしい。建設部門の受注は全面的にストップし、施工中の工事現場では作業員たちが手持ち無沙汰に立ち尽くしている映像がニュースで流れた。三代にわたって築き上げてきた財閥の信用が、まるで砂の城に波が押し寄せるように崩壊していく。そのきっかけを作ったのが一人の清掃員だということを、テレビの前の視聴者たちは知る由もない。

捜査が始まって数日後、信彦の身柄が確保された。容疑は業務上横領と脱税ほう助。早朝に自宅に捜査員が踏み込み、信彦は寝巻きのまま連行されたという。ニュースでは信彦が顔を覆い隠しながら車に乗せられる映像が繰り返し放送された。かつて高級スーツに身を包み、中野グループの専務として肩で風を切って歩いていた男が、唸だれた姿で連行されていく。さらに、信彦は美穂への傷害罪でも追起訴される見込みだと高橋記者が教えてくれた。DV事件と経済犯罪が同時に起訴されることで、信彦の罪は重くなる可能性があるという。中野グループの顧問弁護士は脱税と不正入札の膨大な案件の対応に追われ、DVの傷害罪にまで手が回らない状態だった。かつて「被害届程度ではどうにもならない」と豪語していた顧問弁護士が、今は自分たちの首を絞めている案件の処理に忙殺されている。因果は巡るものだ。

そして鈴蘭が、私のマンションに現れた。今度はあの毛皮のコートでも高級ブランドのバッグでもなく、地味なグレーのジャケットを羽織り、化粧も崩れかけた顔で玄関に立っていた。目の下には深い隈が刻まれ、頬はやつれている。かつての傲慢な面影は影も形もなく、そこにいたのは、全てを失いかけた一人の老女だった。

「お願い。もうやめて。このままでは中野が完全に潰れてしまうの。信彦は確かに悪いことをしたわ。でも、あの子はまだ若いのよ。反省させますから、どうかお願い。告発を取り下げてちょうだい」

深く頭を下げ、懇願する鈴蘭の姿を、私は黙って見つめていた。あの日、電話口で高笑いしながら「ただの喧嘩で大げさな」と言い放った女。「高が清掃員の分際で」と見下した女。「うさぎ小屋」と嘲笑った女が、今は崩れた化粧のまま必死に頭を下げている。

「鈴蘭さん、あなたは覚えていますか? 美穂がお腹を殴られて裸足で逃げ帰ってきて、その後あなたが電話をかけてきた時、あなたは何とおっしゃいましたか?」

鈴蘭が顔を上げた。その目に恐怖の色が走る。

「『ただの喧嘩で大げさな』そう笑いましたよね。妊婦のお腹に手を上げることが、ただの喧嘩ですか? あの電話を受けた時、私は震えが止まりませんでした。怒りじゃない。あなたの冷酷さに対する恐怖で、自分の手が震えているのが分かった。それでもなお、冷静に告げる。この家に娘を返したら、いつか取り返しのつかないことになるかもしれないと、本気で思いました」

「でも、それと会社の問題は別じゃない。私たちは確かに美穂さんに悪いことをしたわ。でも、会社のことまで……」

「会社の不正は、告発する前から存在していたものです。脱税も不正入札も耐震偽装の疑いも、全て中野グループが自らの手で何年もかけて積み上げてきた罪です。私はただ清掃員としてあのビルの中で仕事をしていて、見て見ぬふりができなかっただけ」

鈴蘭は玄関のタイルに膝をつき、泣き崩れ始めた。宝石をはめていた指からは指輪が消え、高級マニキュアが剥げかけた指先が震えている。その姿にほんの一瞬だけ同情の念がよぎった。ただ、深夜にお腹を抱えてこの玄関に倒れ込んだ美穂の姿が脳裏をよぎると、その感情はすぐに消え失せた。

鈴蘭を追い返した後、寝室から美穂がそっと出てきた。彼女も鈴蘭の嗚咽を聞いていたのだろう。複雑な表情を浮かべていたが、やがて私の目をまっすぐ見ていった。

「これで良かったのよね。私が逃げ出さなかったら、お母さんがあの会社の不正に気づかなかったら、この町の人たちがもっと危険な目に遭っていたかもしれない」

「ええ、あなたも赤ちゃんも、もう二度とあんな思いをしなくていい。これからは私たちの力で、自分たちの人生を歩いていこう」

美穂が私の腕にそっとしがみついてきた。大きなお腹が私の体に触れると、中で赤ちゃんが元気に蹴っているのが伝わってくる。この小さな命のために、全てが動いたのだ。

離婚調停は、中野側の混乱もあって想像以上にスムーズに進んだ。家庭裁判所に到着した美穂は、私と一緒に待合室に入った。信彦の代理人弁護士は別の待合室に案内されており、互いの姿を見ることはない。それが調停の基本ルールだと清子さんから事前に教えてもらっていた。調停委員に呼ばれ、美穂が調停室に入った。私は待合室で祈るような気持ちで彼女の帰りを待つ。約三十分後、美穂が戻ってきた。表情は硬かったが、目にはかっこたる決意が宿っている。「全部話してきた。結婚してからの仕打ちのこと、お母様の対応のこと、全部。調停委員の方は真剣に聞いてくれたわ」。次に信彦の代理人弁護士が調停室に呼ばれた。DVの証拠と診断書、被害日記と写真記録。そして信彦が業務上横領で身柄を拘束されているという揺るぎない事実の前に、反論の余地はほとんどなかったという。数回の調停を経て、離婚と慰謝料の条件は美穂に有利な形で成立した。慰謝料と財産分与を合わせた金額は、美穂と赤ちゃんが当面の生活に困らない程度の額だ。中野グループの資産凍結が進む中でも、美穂の権利として裁判所が認めた分は確実に保全されるという。離婚届が受理された日、美穂は旧姓の酒井に戻った。私と同じ苗字を取り戻した美穂が、少しだけ笑みを見せたのが嬉しかった。

建設業監督官署の調査も並行して進み、中野建設が施工した商業ビル二棟とマンション一棟に、耐震基準を下回る構造が発見された。住民説明会では怒号が飛び交い、「うちのマンションは大丈夫なのか」「命を預けている建物で手抜きをしていたのか」という声が上がったらしい。補強工事の即時実施が命じられ、費用は全て中野グループの負担とされた。中野グループの名前は、地域の名士から地域の不正企業へと、一夜にして塗り替わった。

裁判の結果は、中野にとって壊滅的なものだった。信彦には傷害罪と業務上横領、さらに脱税ほう助の罪で、懲役四年の実刑判決が言い渡された。法廷で判決を聞いた信彦は、血の気が引いた顔で弁護士の肩にすがりついたという。かつて財閥の御曹司として高級スーツに身を包み、「清掃員の分際」と見下していた男が、法的措置を受けて連行されていく。その一部始終を高橋記者が紙面で詳しく報じた。中野グループの会長、つまり信彦の父親も、脱税の主犯として在宅起訴された。長年にわたって積み上げてきた不正の総決算として、追徴課税額は十億円を超えたという。鈴蘭は直接的な刑事罪には問われなかったものの、夫と息子の罪によって全ての財産を失うことになった。国税局の追徴課税、株価暴落による資産の消滅、そして差し押さえ。華やかなお屋敷は競売にかけられ、毛皮のコートも宝石も高級バッグも全て処分された。鈴蘭は遠方の親族の家に身を寄せることになったと風の噂で聞いた。かつて「うさぎ小屋」と嘲笑った私の質素なマンションよりも、さらに狭い部屋で暮らしているそうだ。中野グループは事実上の解体に追い込まれた。創業から三代にわたって築き上げた財閥が、自ら積み重ねた不正の重みに耐え切れず、内側から崩壊したのだ。地元では「自業自得だ」「あの家族は昔から横暴だった」という声が大勢を占め、同情するものはほとんどいなかった。

もしあの時、鈴蘭が美穂の痛みに真摯に向き合い、信彦の行いを止めていたなら。もし清掃員を見下さず、一人の母親の訴えに耳を傾けていたなら。結末は全く違うものになっていたかもしれない。けれど鈴蘭はそうしなかった。傲慢さと蔑みが、中野の全てを灰に帰したのだ。

冬が終わり、桜の蕾が膨らむ頃、美穂は元気な女の子を出産した。小さな命を腕に抱いた瞬間、私の目から涙がこぼれ落ちる。この子が無事に生まれてきてくれた。それだけで、あの日々の全てが報われたように感じる。

私は新しい清掃会社に再就職していた。前の職場を不当解雇されたことが話題になり、以前よりも待遇のいい会社が声をかけてくれたのだ。鈴木も同じ会社に移ってきてくれて、二人で並んで掃除をする日常が戻ってきた。清子さんは時折、赤ちゃんの顔を見に来てくれる。美穂は赤ちゃんを抱きながら、穏やかに笑っていた。

仏壇の正和の遺影に向かって、心の中で報告する。あなた、孫が生まれたわよ。とても可愛い女の子。これからは、三人で幸せに暮らしていくからね。彼の写真が、いつもより優しく微笑んでいるように見えた。

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