高校時代、教室の空気が消えたあの日を今でも覚えている。誰も私と目を合わせず、机の教科書が床に落ち、グループ分けのたびに「あ、もう埋まってるから」と笑顔で言われた。それから二十年以上が過ぎ、私は四十二歳。IT企業の企画部へ異動した初日、主任の席にいたのは、あの頃クラスの中心にいた森田なおだった。「ああ、あんたが噂の中卒ね。部下はコーヒー入れてきて」その言葉は、部下という仮面の下に下働きへの命令…

高校時代、教室の空気が消えたあの日を今でも覚えている。誰も私と目を合わせず、机の教科書が床に落ち、グループ分けのたびに「あ、もう埋まってるから」と笑顔で言われた。それから二十年以上が過ぎ、私は四十二歳。IT企業の企画部へ異動した初日、主任の席にいたのは、あの頃クラスの中心にいた森田なおだった。「ああ、あんたが噂の中卒ね。部下はコーヒー入れてきて」その言葉は、部下という仮面の下に下働きへの命令...

「ああ、あんたが噂の中卒ね。部下はコーヒー入れてきて」

その言葉は、部下という建前の中に、下働きへの命令が滲んでいた。私の名は佐野ゆり子。四十二歳。ジオカスケード株式会社、本社企画部に異動してきたばかりの新参者だ。ジオカスケードはデータ分析やDX支援を軸に、AI活用のマーケティング最適化、海外企業へのコンサルティングまで手がける国内有数のIT総合企業で、グループ全体の従業員は数千人に上る。

本社のビルはいつ来ても独特の空気を持っていた。清潔で洗練され、どこか人工的で、笑い声も雑談もため息すらも聞こえてこない。壁には今期のプロジェクト概要が張り出され、数字と目標が整然と並んでいる。この密度の中で仕事をするということが、この会社で働くということなのだろう。

異動の前日、社長の竹本信司から直接話があった。「君は企画部と営業部の部長が両者とも出張中でね。まずは主任に挨拶して指示をもらってほしい」穏やかな言葉だった。私は「承知しました」とだけ返した。私は昔から感情をすぐに表に出す方ではない。淡々としていると言われることも、クールすぎると言われることもある。それがいい方向に働くこともあれば、そうでないこともある。どちらにしても、それが自分の輪郭だと受け入れてきた。

かつて、その性格のせいでひどい目にあったことがある。高校に入って間もない頃だ。クラスに、何をするにも中心にいる女子がいた。成績も優秀で教師からの受けも良く、クラスの空気はいつもその子を軸に動いていた。私はただ自分のペースで過ごし、媚びなかった。それが気に入らなかったのかもしれない。ある時期から、じわじわと締め出しが始まった。朝教室に入っても誰も私と目を合わせない。それまであった挨拶が、ある日を境に消えた。机に置いた教科書が床に落ちている。体育の授業でグループを作る時、私の周囲だけ不自然に人が離れる。「あ、もうここ埋まってるから」という言葉が、笑顔と一緒に向けられる。私は気のせいだろうと思うことにして、誰にも言わなかった。親に伝えれば心配させる。教師に言えば、次の日の教室がどうなるかは考えなくても分かった。だから私は淡々とその時間を過ごした。感情を飲み込むことは、あの頃に覚えた。

ただ、それも昔のことだ。大人になってまで人を貶める行為がどれほど稚拙で愚かなことか。それを分からない人間がいるのなら、教えるまでだ。私は軽く息を吸い、背筋を伸ばして企画部のドアを開けた。

最初に私を出迎えたのは、痛いほどの視線だった。ドアを開けた瞬間、フロア全体から一斉に集まった。それはほんの数秒のことだが、妙に長く感じられた。誰もが手を止め、新しく来た人間を品定めするような目で私を見る。そしてほぼ同時に、また一斉にそれぞれのパソコン画面へと視線を戻していく。私は構うことなく、社長に言われた通りに主任の席へ向かった。

主任席にいたのは、切れ長の目にきっちりと整えられた黒髪の女性。スーツのシルエットに乱れはなく、立ち方一つにも隙がない。その人の顔を見た瞬間、時間が巻き戻るような感覚を覚えた。森田なお。高校時代の同級生だ。「久しぶり」という言葉は彼女の口からは出てこない。代わりに、薄く口の端を引き上げた笑みが浮かんだ。それは懐かしさでも親しみでもなく、値踏みするような、あるいは状況を確認するような類いのものだった。

「異動の人が来るとは聞いてたけど、どうでもいいからよく資料見てなかったのよ。まさかゆり子がここに来るなんて。っていうか、よく入社できたものね」

高校時代、なおはいつもそういう目で私を見ていた。自分より上か下か、その彼女は笑顔の裏で絶えず計算し続けていた。あの頃と、今も変わっていないように思う。

「私が主任だから。知り合いだからって容赦しないわよ」

名刺を差し出しもせず、なおはそれだけを言った。私は「よろしくお願いします」と言って頭を下げる。なおはそれを見て、ふんと鼻から小さく息を出した。

高校時代のなおは、常にクラスの中心にいた。成績は学年トップクラスで、何か意見を言えば周囲が頷く。誰も正面からなおに逆らおうとしなかった。逆らえば、次の日から明らかな締め出しが始まることを、クラスの全員が知っていたからだ。当時の私は、そのにとって唯一目障りな存在だったのかもしれない。成績では私がなおを上回ることがしばしばあった。しかも、私はなおのグループに媚びることもしなかった。それが彼女には我慢できなかったのだろう。

「あんたは高一で退学したから知らないかもしれないけど、私は東大に進んだの。中卒にこの会社の仕事は難しいかもしれないけど、やってもらわなくちゃ困るから。とりあえず、これ全部、今日中にお願い」

なおが私の机に置いたのは、分厚いファイルと付箋が貼り付けられた書類の山だった。データ整理、会議室の予約確認、備品の発注リスト、コピーの仕分けが今日の仕事らしい。私は黙々とそれをこなす。一つの山が終われば「これもお願い」と言って新しい山が机に積まれる。私は逆らわず、それも片付けていく。雑務であっても仕事は仕事だ。しかし数が多すぎる。これほどまでの書類整理を、なぜ溜め込んでいたのか。しかもデータベースではなく紙の書類が多いのも気になった。ペーパーレスが叫ばれるこの時代にそぐわないほど紙が多い。それだけではなく、なおは「そうそう」と思い出したように作業を付け加えてくる。その追加作業が昼前の時点で四件に達していた。私はそれも黙々とこなした。元々仕事のスピードには自信がある。一つ一つを丁寧に、かつ確実に片付けていく。

なおはそれが気に入らないのか、他所の雑務まで勝手に引き受けて私に押し付ける。「なんか地味だし、仕事が好きそうだから。あと、その眼鏡、結構ダサいよ。宮部長がいたら絶対いじられそう」人の悪口を言う時は、何よりも楽しそうだ。そして宮部長という名前がここで登場した。社長の言っていた出張中の部長だろう。企画部の雰囲気は、最初に感じた通りだ。いや、それ以上かもしれない。午前中だけで、泣きそうな顔をした社員を三人見た。廊下に出て窓際で俯いている女性社員。給湯室で目を赤くしたまま水を飲む男性。デスクで画面を見つめたまま、肩が小さく震えている若い社員。その誰もが、誰かに話しかけることもなく息を潜めるようにしている。

午後になると、なおの態度はさらに露骨になった。「佐野さん、これもお願い。あと会議の資料も修正しといて。今すぐ」指示の出し方は、最初から命令口調に近い。私が黙って引き受けると、なおは隣の席の同僚に向かって、聞こえるか聞こえないかの声量で言った。「ああ、異動の社員なんて使えた試しがないわよね。本当に本社に来たからって、どいつもこいつもエリート気取りでいて欲しくないわ」私は手を止めなかった。顔も上げなかった。「特に中卒なんて持っての他よ」大きく動揺するほどのことでもない。学歴の話で人を差別する人間を、私はこれまでに何度か見てきた。逆に言えば、学歴以外で人を判断できないのだろう。なおは四十を過ぎても、高校時代と変わっていないようだ。二十年以上の長い時間が経ったにも関わらず、何かを成熟させることはなかったのだろう。私はその事実を、感情なしに受け止めて初日の勤務は終わった。

本社に来て二日目の朝から、なおの仕事の振り方は容赦がない。午前中だけでデータの入力修正、会議室の予約変更、備品発注リストの更新、先月分の経費精算書の仕訳、社内資料の印刷と配布が積み上がっていた。そこへ昼前になって、なおがさらに書類の束を私の机に置く。「時間通りにお昼に行きたいなら、この仕事終わらせてからね」くすくす笑いながら、なおは同僚二人を連れてフロアを出ていった。私は書類の束を手に取り、内容を確認する。取引先別の売上データの照合、企画書の修正指示、会議用資料の表紙作成。一つ一つは難しくないが、量がある。なおはそれを分かって置いていったのだろう。昼休みを削れば体力はじわじわと消耗する。そういう計算だ。私は手を動かした。一件ずつ無駄なく片付けていく。全部終わった時点で、まだ昼休みまでは二十分ある。私は次週の会議に使えそうな資料を先読みし、参考データを簡潔にまとめてフォルダーに整理した。こうすれば、誰かが後で探す手間が省けるだろう。私は席を立ち、ランチへ向かった。

なおたちが戻ってきたのは、私がデスクに戻ってから数分後のことだ。私が自席でお茶を飲んでいるのを見て、なおが足を止めた。「随分余裕そうじゃない?」「仕事は終わりました。次週の会議用の参考データもまとめてフォルダーに入れてあります。必要であればご確認ください」なおの表情が一瞬固まった。何か言おうとして、口が開いたまま閉じる。結局、なおは悔しそうな表情を浮かべ、何も言わずに自席へ向かった。

本社での勤務を開始してから数日が経過した。企画部の社員たちがどういう状態に置かれているかが、少しずつ見えてきた。その日の昼前、私の隣のデスクで小さく息をついていた女性社員が俯いていた。「なんでもない」と言いたそうに顔を伏せていたが、肩の震え方が尋常ではない。私は席を立ち、彼女の近くにしゃがんだ。「一緒にお昼に行きませんか?」外へ移動しても、彼女は最初は遠慮がちに黙っていた。しかし私が黙って隣を歩いていると、やがてぽつぽつと話し始めた。「理不尽なことが多すぎて、私……」その声は小さい。私たちは喫茶店に入ることにした。彼女の名前は三宅恵。入社五年目の社員だ。「私が書いた企画が通ってるんです。でも、私の名前じゃなくて」言葉を切りながら、三宅は話した。数週間前に提出した企画書があった。コンテンツマーケティングに関する提案で、かなりの時間をかけてまとめたものだったという。上司である宮部部長に提出したところ、「検討する」と言われたきり、特に何の連絡もなかった。そして先日、別の社員がほぼ同じ内容の企画をプロジェクト化したという話が社内の噂で流れてきた。「部長に聞いたら、ネタがかぶっただけだって。でも、私の方が絶対に先で……」三宅は唇を噛んで、視線を膝に落とす。悔しさと怒りと、それを誰にも言えなかった積み重ねが、その小さな姿に滲み出ていた。私は三宅の話に最後まで黙って耳を傾ける。余計な相槌を打つよりも、ただ聞くことの方が今の彼女には必要だと感じたからだ。話し終えた三宅は、少し表情がほぐれていた。「証拠になるものは手元に残してありますか?」私が聞くと、三宅は少し目を丸くしてから頷いた。「記録は消さないように。それだけ守っておいてください」彼女は小さく「分かりました」と言った。その声には、先ほどまでとは違う、何かを決めたような硬さがあった。オフィスに入る前に、三宅は一度だけ私を振り返った。「佐野さんって、怖くないんですか? ここ?」私は少し考えてから笑顔で答えた。「めちゃめちゃ怖いわよ。私、毎晩大量の書類に追いかけられる夢を見るの」そう言うと、三宅は少しだけ笑った。それから私たちは休憩時間によく一緒に話すようになった。私に本社に来て初めての友達ができたのだった。

企画部には、三宅のような話が他にもあった。アイデアを出しても潰される。潰した理由を説明してもらえない。声を上げると、翌日から態度が変わる。このフロアには、そういう積み重ねがあった。その週の後半、私は自分で一つの企画書をまとめてなおに提出した。特に指示があったわけではない。ただ、この部署がどんな基準で動いているのかを確認したかったのだ。翌朝、なおは私の机に戻ってきた企画書を雑に置いた。赤いボールペンで、大きく「ボツ」と書かれていた。「どの点が問題でしたか?」「理由を言わなくてもダメに決まってるでしょう。宮部部長がいたら二秒でお払い箱よ、こんなの」そう言ってなおは踵を返した。私は手元に戻ってきた企画書を机の引き出しにしまいながら、今起きたことを整理する。おそらくなおは企画書を読まなかった。読まずに「ボツ」と書いたのだろう。それは審査ではなく、排除だ。この部署で行われているのは評価ではなく管理。何が通って何が通らないかは内容ではなく、誰が出したかで決まっている。その仕組みが、今一つの形として目の前に現れた。私はそれを怒りとして受け取らず、情報として受け取った。

本社に来て一週間が過ぎた頃には、企画部の社員たちとの距離が少しずつ縮まっていた。きっかけは特別なことではない。他の社員の資料の印刷を手伝ったこと。給湯室でコーヒーカップを落とした若い男性社員と一緒に片付けたこと。「何かお手伝いできることはありますか」と、さりげなく声をかけたこと。些細なことの積み重ねが、じわじわと空気を変えていった。元々このフロアの社員たちは、誰かを信頼することに慎重だった。なおをはじめとする管理職の言動が、社員の口を重くさせていたのだろう。しかし人間は、話を聞いてもらえる相手を本能的に求めるものだ。私が黙って耳を傾け続けると、最初は一言だけだった会話が少しずつ長くなっていった。その変化を、なおは敏感に察知していた。ある夜、残業中に給湯室の前を通りかかった時、なおが誰かに向かって声を潜めているのが聞こえた。「宮部部長のいない間に、あいつってりやがって。中卒のくせに」私は立ち止まらず、そのまま廊下を歩き続ける。「中卒」という言葉で私のことを指しているのには気づいた。しかし、聞こえていないふりをするのは難しくなかった。

その翌日、なおは私を呼んだ。「三宅の企画アシスタントに入りなさい。あなたに任せるわ」言いながら、なおの口の端にはわずかな笑みが浮かぶ。それは仕事を任せる顔ではなく、舞台を用意した者の顔だった。三宅も同席していた。目が合うと「よろしくお願いします」と言って三宅は小さく頭を下げる。その目には、申し訳なさと心細さが混じっていた。「少しはまともな企画出してみなさいよ。締め切りは来週の月曜。分かった?」三宅が「はい」と答えると、なおはそれ以上何も言わずに自席へ戻る。去り際に投げかけた言葉の温度があまりにも低かった。

三宅と二人になり、私はまず彼女の話を聞くことから始めた。現在進行しているプロジェクトの状況。自分が何をやりたいのか、何に迷っているのか。彼女は最初、要点だけを話そうとしていた。しかし私が「もう少し詳しく聞かせてもらえますか」と言うと、それまで溜め込んでいたものが溢れ出すように話が広がっていった。「実はSNSを使ったブランディング企画、ずっと温めてたんです。若い世代じゃなくて、四十代以上をターゲットにした。でも、出しても潰されるから、誰にも言えなくて」その言葉には、アイデアそのものよりも、それを誰かに話せたという安堵の色があった。三宅は企画者としての目を持っていた。市場の変化を読む感覚も、ターゲット設定も、整理すれば十分に光るものがある。ただ、それを文書として形にする訓練が不足していた。誰かに見せて意見をもらう機会が、この部署では与えられてこなかったのだ。出せば潰される。潰される前に出さなくなる。その繰り返しの中で、三宅の持っていた感覚が少しずつ萎縮していた。私はその部分を補うために、毎日少しずつ時間を重ねた。残業後も残って作業を続けた日が三日続く。三宅は何度も「佐野さんまで遅くなってすみません」と言ったが、私はその度に「いいんです。続けましょう」と返した。夜の九時を過ぎたオフィスは、昼間とは別の静けさを持っている。空調の低い音と二人分のキーボードの音だけが続く時間の中で、三宅の言葉が少しずつ本音の色を帯び始めた。「本当はこういう企画が作りたかった。この会社でまだやれると思っていたのに」そういう言葉が、ぽつりぽつりと混じるようになった。私はそれを聞きながら、手を動かし続けた。

完成した企画書は、私たち二人が納得できる仕上がりになった。構成もデータの裏付けも、実際の業務で使えるものとして十分な水準に達していると思った。「こんな企画が、私にも作れたんだ」三宅は達成感と手応えを感じているようだった。提出は翌朝のこと。三宅の顔は自信に満ちている。この企画で通らなかったら、何が通るのかという表情だ。私もそう思っている。難敵なのは、提出先が他でもないなおということだ。なおは封筒を受け取ると、その場でぱらぱらとページをめくり、十秒も経たないうちに机の端に置いた。「ボツ。時間かけた割に何やってんの?」三宅の表情が固まった。なおがページをめくる動作には、内容を確認しようとする気配が一切なかった。目が文字の上を滑り、どこにも止まらない。読む前から、なおはすでにこの企画書をボツにすると決めていたのだ。それは評価ではなく、初めから決まっていた結論に形だけの手続きを被せたものだった。「あんたも、二人ともペナルティね」なおは企画書を手元に引き寄せる。「これはこっちで預かるわ。あちこちに捨てられても困るから」私は何も言わなかった。三宅も唇を噛んで俯いた。なおが去った後、しばらくの間二人とも言葉がなかった。三宅の手が膝の上で微かに震えている。怒りなのか悔しさなのか、それとも力が抜けただけなのか。彼女自身にも分からなかったかもしれない。自席に戻る廊下で、三宅は一度だけ鼻をすった。私はそれを聞きながら隣を歩く。三宅は泣くのをこらえている。震える方が痛々しい。私は三宅の肩にそっと手を置いた。そして耳元で、彼女にだけ聞こえる声でささやく。「大丈夫。私を信じていてください」三宅は赤い目を少し丸くした。私の何を信じればいいか分からないのだろう。しかしやがて、目の中に決意が宿るのが見えた。三宅はゆっくり頷く。その小さな動作の中に、今持てる全ての信頼が込められているように見えた。

翌週の月曜日、課長の宮が企画部の全員を集めた。新しいプロジェクト立案の発表だった。宮は手元の資料を広げ、概要を読み始める。私はその内容を聞きながら息を整えた。それは先日、ボツになった三宅の企画だった。構成もターゲット設定も核となるコンセプトも、先週私たちが作り上げたものと同じ。企画者として発表されたのは、三宅の名前だ。宮は「よくまとまった提案です」と短く評価した。フロアに小さなざわめきが走った。なおの顔を見ると、蒼白になっていた。「どうして」という表情が露わに出ている。なおは預かった企画書を自分の名前で出し直すつもりだったのかもしれない。あるいは、別の誰かの名前で出す算段をしていたのか。その計算が崩れた瞬間の顔だった。発表が終わると、なおは足早に私の席まで来た。周囲の視線を気にしてか、声は低く押し殺されている。「どういうこと? 企画書は私が回収したわよね。なんで三宅の企画が通ってるの?」「バックアップは必須ですから。いい企画だったので、もったいないと思って直接社長に掛け合いました」なおの目が見開かれた。「は? 社長?」「はい。提出先を変えただけです。内容は三宅さんが作ったものそのままですから」なおの口が開いたまま閉じなかった。数秒間の沈黙。フロアの誰かが、そっとこちらを見ているのが分かった。なおが呼吸を整え、低い声を絞り出す。「部長が戻ったら、こんなこと許されないんだから。覚えてなさい」「部長が戻ったら」という言葉がまた出た。それが脅し文句として機能しているというなおの確信と、その確信が揺らがされた時に何が起こるのかという予感が、私の中でひっそりと形を作り始めている。なおが離れていった後、私はしばらく自席で静止して周りを見渡す。フロアの社員たちはそれぞれの画面に向かっている。誰もこちらを見ていないようで、その全員が今の一連のやり取りを聞いていたはずだ。直接目は合わせないけれど、ちらりと向けられる視線の気配が空気の中に残っている。三宅の席に目をやると、彼女は小さく頷いた。その動作だけで、今日のことは伝わっていた。私もまた、表情を変えずに頷き返した。

翌日の午前、営業部に動きがあった。社員たちが妙にざわついている。どうやら出張に出ていた営業部長が戻ってきたらしい。ジオカスケード営業部長、堀越修。彼が廊下を歩いてくる姿を、私はガラス越しに見た。背が高く、歩き方に無駄がない。周囲に丁寧に挨拶をしながら、しかし立ち止まることなく自分のフロアへと向かっていく。その様子を、私は特に表情を変えずに眺めた。「修さん、出張お疲れ様でした」なおが修にワントーン高い声で近づくのが見える。いつもの彼女からは想像できない姿だ。「宮部長とも仲が深まったんじゃないですか? 十日間も一緒に出張だったんですし。あれ、余計なことを聞いちゃいましたか?」わざとだろうと思うほどにオフィス内に響くような声で話すなお。当の修は「互いにお互い仕事ばかりしてたからね」とかわしている。なおは宮部長と修をくっつけようとしているのだろう。その姿は、一昔前の少女漫画を彷彿とさせた。

その日の昼休みの少し前、廊下で修とすれ違った。私は周囲に誰もいないことを確認してから、軽く会釈する。「お疲れ様。様子はどうだい?」「概ね把握できてきました。もう少し待ってください」「無理はしないで」「しません」それだけの会話だった。廊下を歩きながら、私は修の言葉を反芻する。「無理はしないで」。その言葉は心配とも指示とも取れる。私はどちらとも受け取らず、ただ頭の片隅に置いた。今の自分に無理はない。何が起きているかを見ている。それだけだ。しかし、その会話をなおに見られていた。なおが修を気にかける理由ははっきりしている。彼女が宮朝子の手足として動いているのは、この数日間でよく分かった。そして宮部部長が修に強い関心を持っていることも。修の動きを把握することが、なおにとっての仕事の一つになっているのだろう。

その翌朝から、なおがまた露骨に態度を変えた。無関係な仕事を追加で振ってくる頻度が倍近くになった。昼休みに席を立つタイミングを見計らったように、新しい指示を出してくる。私はそれらをこなしつつ、なおの行動の変化を記録し続けた。なおは私の机に書類を叩きつけながら小声でささやく。「ゆり子が修さんと気軽に喋ってんじゃないわよ。宮部部長に言いつけるよ」私はそれをスルーして、引き続き黙々と仕事をこなした。なおが癇癪を立てているのが分かったが、構っている暇はない。嵐は来るべき時に来る。今はまだ、その前の静けさの中にいる時間だと、私は知っていた。

その日の朝、企画部のフロアに明らかな変化があった。社員たちの動きがいつもより慌ただしい。デスク周りを整える者。会議室の椅子を並べ直す者。廊下に出て何度も時計を確認する者。なおは早朝から出社していたようで、すでに自席でパソコンに向かっていたが、その背筋の伸び方が普段とは違った。宮部部長が今日帰ってくる。誰かが言ったわけではないが、そういう空気がフロア全体に漂っていた。午前十時を少し回った頃、エレベーターホールの方向から高いヒールの音が近づいてきた。最初に動いたのはなおだった。立ち上がり、フロアの入り口に向かって歩き始める。他の社員たちもそれを見て、自然と姿勢を正した。画面から顔を上げ、入口に視線を集める者もいた。引き締まっていた空気が、さらに一段固くなる。

宮朝子が入ってきた。年齢は四十代後半だろうか。ヒールで底上げされた身長に、仕立てのいいスーツが乗っている。肩まで伸びた黒髪はきっちりと整えられ、顔には隙のないメイクが施されていた。どこを切り取っても「できる女」という印象を周囲に与えるよう、計算し尽くされたような佇まいだ。宮部部長がまず向かったのは、自分の部署ではなかった。企画部のガラス越しに、営業部の方へと足を向ける彼女の背中が見えた。私は手元の資料から視線を上げ、その動きをそっと追う。営業部のフロアに入るなり、宮部長の雰囲気がわずかに変わり、声がワントーン上がった。「お疲れ様。今戻ったわ。もう帰っちゃうんだもん。寂しかったわよ」その声は企画部まで届いた。「修」という下の名前が、オープンなフロアの空気に乗ってふわりと広がる。なおがそれを聞いて、満足そうに口の端を上げた。周囲の社員たちは、見て見ぬふりをするように画面に目を落とす。修の返答は廊下からは聞き取れない。しかしほどなくして、宮部長が企画部へと戻ってきた。その足取りには、来た時よりわずかに不満げな重さがある。何かが期待通りにいかなかったのか、あるいは期待した反応が得られなかったのか。想像はついた。

「宮部部長、出張お疲れ様です」なおの声に続いて、社員たちが一斉に頭を下げた。まるで独裁者を迎え入れるような動きだ。「お疲れ、みんな。仕事続けていいわよ」部長は自分の机に座り、スマホを触っている。そしてなおと何かを話し始めた。ちらちらと私や三宅に視線を向けていたが、あえて知らないふりをした。宮朝子という人間について、私が把握している情報を整理する。東京大学卒業で、入社以来学歴を全面に出す形で社内のキャリアを積み上げてきた。自分よりも学歴の低い社員への対応は、言葉の端々に差別に近い意識が滲む。部下の前では高圧的で、侮辱の言葉を惜しまない。ただ、修のような相手には、それとは全く別の顔を向ける。同じ人間の中に、それだけの落差が共存している。

やがて宮部長は企画部の全員を集めた。フロアの中央に立ち、背筋を伸ばして見回す彼女は、まるで舞台に上がった者のように見える。私は壁際の椅子に腰を下ろし、その姿を見ていた。「皆さんご存知の通り、私はこの部署を長年率いてきた。この部署が今の地位を保っているのはなぜだと思う?」誰も答えなかった。それが正解だと、全員が分かっているかのように。「優秀な人材がいるからよ。そして優秀な人材というのは、ちゃんと努力して、ちゃんとした教育を受けてきた人たちのことを言うの」そこで一度、視線がフロア全体を流れた。「東大を出ているからって全員が仕事できるとは言わない。でも、そこに至るまでの過程で培ってきたものは確実にあるわ。努力の証明よ。それが学歴というものの意味なの」フロアの空気が、じわじわと重くなっていくのが分かった。「反対に、最低限の教育課程を終えていない人間というのは、そもそもビジネスの場で何かを主張できる立場にないの。仕事のやり方も物の考え方も、土台から違うのよ。それは努力でどうにかなる話じゃなくて、積み上げてきたものの差なの。分かる?」三宅がわずかに肩を縮めた。他の社員も視線を落とす。私はその様子を、表情を変えずに眺めた。「今回新しいプロジェクトが立ち上がったわね。でも油断しないで。うまくいかなかったら担当はいつでも変えるから、そのくらいの覚悟を持って当たってちょうだい」最後の一言は、明らかに三宅に向けられていた。三宅は顔を上げることなく、ただ膝の上に置いた手を握りしめる。「それからもう一つ」宮部長の声のトーンが変わった。「来月、ジオカスケードインク、つまりアメリカのグローバル本社から社長が来日する予定よ。当社からもアメリカ本社に人材を送り込む話が出ています。一人はおそらく、営業部の堀越部長でしょう」今度は別の種類の緊張が走る。「とにかく、先方に恥ずかしい姿を見せることは絶対に許されない。この機会に、この部署の価値をグローバル本社にしっかり見せてもらいたいわ。それぞれが自分の役割を果たして、私が向こうで力を発揮できるように支えてください」アメリカへ行くのは自分だ。修と共に。この部署の全員が、そのための踏み台になれ。そういう意味の言葉が、綺麗に整えられた敬語の中に透けて見えた。話が終わると、フロアが重い沈黙に包まれる。宮部部長は満足そうに視線を巡らせた後、自席へと戻った。ヒールの音が遠ざかっていく。その音が消えても、フロアの緊張した空気はしばらく解けなかった。三宅は一つ深呼吸をして、それからゆっくりと画面に向き直る。その背中が、何かを決めたように見えた。折れてはいない。ただ全てを飲み込んで、それでも立っていようとしている。そういう背中だった。

私は立ち上がり、宮部部長の席へと向かう。その横にはなおが立っていた。私が近づくのを見て、なおの目が細くなる。「初めまして、宮部部長。この度異動してまいりました、佐野ゆり子と申します」宮部部長が顔を上げ、私を上から下までゆっくりと眺める。品定めの視線だった。一秒、二秒。その目が一度、なおの方へ流れた。なおが、ほとんど気づかれないほどの動作で頷いた。「ああ、あんたが噂の中卒ね。部下はコーヒー入れてきて」顎で給湯室の方向を示した。「じゃあ私の分もお願い。部下の佐野さん」なおが便乗してくすくす笑う中、宮部部長は鋭い眼光で私に言葉を放つ。「あんたさ、まずは自分の立場をわきまえるところから始めなさい。中卒のポンコツが、私たち管理職と対等に話せると思わないで」私が修と廊下で話していたのを、なおから聞いたのだろう。彼女の目には、私への侮辱と、私が修に近づいたことへの苛立ちが複雑に混ざり合っている。今は泳がせておこう。私の中に、奇妙なほど穏やかな感覚があった。怒りでも恐れでもない。ただ、全てが予定通りに動いているという確信だった。「承知しました。少々お時間をいただきます」頭を下げて給湯室に向かった。コーヒーメーカーに豆をセットしながら、私は今自分が何を感じているのかを確かめる。侮辱への反発はない。ただこれだけの素材が揃えば、後は時期を待つだけでいいという冷静な計算だけがあった。カップ二つにコーヒーを注いで、フロアへ戻る。宮部部長の机にカップを置いた。なおの机にも置いたが、二人とも顔を上げなかった。私はそのまま自席へ戻り、作業を再開する。

三十分が経過した頃だった。「何このコーヒー? 冷めてるじゃない。私、こんなの頼んでないわよ」「私もです。コーヒーで気合い入れようと思ってたのに」フロアの社員たちが固まる。誰もが顔を上げずに、画面を見続けていた。「また始まった」という空気が、音のないまま広がっている。私は立ち上がり、部長の机へ向かった。誰もが私に注目している。私はそれを踏みしめるようにして、宮部部長の机の前に立つ。「入れ直してまいります」カップを持ち上げようとしたその瞬間、宮部部長の手が先にカップを掴む。そして、ばしゃあと音を立て、コーヒーが私のスーツへと浴びせられる。温度はもうほとんど残っていなかった。それでも、濃い茶色の液体がスーツの胸から腹にかけて広がった。衣服に染みが広がっていく感触が、じわりと伝わってくる。「入れ直すなんて当然でしょう。冷めたコーヒー出すなんて、どんな教育受けてるの?」「この人、まともな教育受けてないんですよ。宮部部長、なんだって中卒ですから」「ああ、そうだったわね。中卒なんて、生きづらそう。私だったら恥ずかしくて、そんなの絶対に無理だわ」フロアの誰も動かず、止めようともしない。そうする術を、このフロアの誰も持っていなかった。長い時間をかけて作られた構造が、今この瞬間もきっちりと機能している。私はハンカチを取り出した。スーツの表面を抑えながら、私は正面から宮部部長を見る。「入れ直してきましょうか」その声は、私が思っているよりもずっと低かったのだと思う。宮部部長の目が、わずかに揺れる。あの宮部部長が、一瞬だったが確かに怯んだ。「え、いい。後で自分で入れるから、あっちへ行きなさい」私は頭を下げ、踵を返して自席へ戻る。フロアは静まり返っていた。パソコンの画面に視線を戻し、カーソルを動かしながら、今この場所で起きていることを一つも見落とさないよう、頭の中に刻み込んだ。コーヒーの染みは乾けば落ちる。しかし今日ここで起きたことは、消えない。

私が本社に来て一ヶ月が経過した。宮部部長となおからの嫌がらせは、形を変えながら続いている。ただし、三宅のプロジェクトに私がサポートとして正式に加わってからは、その露骨さに制限がかかるようになっていた。営業部との連携が必要なプロジェクトである以上、修をはじめとする他部署の目が常にある。彼らの前で目立った嫌がらせをするのは、さすがの宮部部長にも難しかったのだろう。その代わり、企画部だけで行われる打ち合わせや会議の場では露骨だった。ある内部会議でのことだ。私が市場分析のデータをもとに提案を行った直後、宮部部長が口を挟んできた。「ちょっと待って。そのデータ、古くない?」「先月末時点のものです。最新です」「でも読み方が浅いわ。分析ってもっと多面的にやるものでしょ」「では、どの角度が不足していますか? ご教授願います」彼女は一瞬言葉に詰まる。それでも視線をそらさず「全体的にね」と言って話を打ち切った。「全体的に」という言葉は、何も言っていないに等しい。そのことは、その場にいた全員が気づいていた。誰も声に出さなかったが、微妙な沈黙がそれを物語っている。「承知しました。ご指摘の点を踏まえて再確認します」私はそれだけ返して、その場を納めた。また別の日には、会議用に作っておいた資料が直前になって削除されたこともあった。しかししっかりバックアップを取っていたため、会議に支障は起きなかった。その時になおが悔しそうな顔をしていたことから、犯人は彼女で間違いないだろう。こういったやり取りが週に何度か繰り返された。私はそれらを平静な顔でこなし続ける。動揺を見せることが、彼女たちの求めているものだと分かっていたからだ。求められているものは、与えてやるつもりはない。

ジオカスケードインクの社長が来るという話が社内に正式に伝わったのは、今から二週間前のことだ。フロア全体の空気が数日間ざわついた。総務部が会議室の清掃スケジュールを組み直し、受付回りの装飾が入れ替えられ、社員食堂のメニューが一時的に豪華になった。そして今日がその来訪日だ。朝からオフィスの空気が違う。いつもより早く出社した社員が多く、机の整理をしている者、スーツにブラシをかけている者、鏡を見ながら髪を直している者と、普段は見られない光景があちこちに広がっていた。宮部部長はいつもより高いヒールを履いている。それは朝一番でオフィスに入ってきた瞬間に気づいた。立ち姿がいつもより数センチ高く、スーツも普段よりきっちりと整えられていた。その気合いの入り方は、グローバル本社の社長への印象付けと修へのアピールが複雑に絡み合っているように見えた。

オンライン朝礼が始まった。画面の中に竹本信司社長の顔が映し出された瞬間、フロア全体がわずかに姿勢を正す。「おはようございます。本日はジオカスケードインク、グローバル本社の社長がいらっしゃいます」一言だけで、社員の間に緊張が走るのが分かった。「ご本人の希望で、今日の業務はゆっくりと視察される予定です。皆さんはいつも通りのパフォーマンスで、活気のあるところを見せましょう。今日の業務後に大会議室で交流会を行いたいと思いますので、参加お願いします」滝本社長の言葉が、逆説的に社員の緊張を高めていた。いつも通りにしろと言われるほど、いつも通りにできなくなる。それが人間というものだ。朝礼が終わると、宮部部長は素早く修の元へ向かった。かつかつとヒールの音を響かせて、営業部のオフィスに入っていく。「修、絶対に一緒にアメリカ勤務しましょうね。今日が正念場よ。まあ、誰が選ばれるか分からないけどね。でも、私は絶対にアメリカ勤務がしたいと思ってるから、頑張らなきゃ」彼女の表情には明らかな期待があった。修の「頑張る」という言葉を、自分との未来への意欲として受け取ったらしい。その解釈の歪みが、見ている側には痛ましいほど明白だった。企画部に戻った宮部部長は、早速社員たちに声をかける。「さあ、みんなしっかり仕事してちょうだい。あちらの社長さんがどこで見てるか分からないんだから。私の足を引っ張る真似は絶対にしないでよ」激励のつもりなのかもしれないが、そこから透けて見えるのは「私のために動け」という意識だ。これを聞いて奮起できる社員は、おそらくなおくらいだろう。他の社員は小さくため息をつくか、黙って画面に向き直るかのどちらかだった。

案の定、なおはその朝も大量の業務をゆり子の机に積み上げてきた。書類のタブファイル、未処理の領収書の山、複数部署にまたがる文書の仕訳、来週の会議室予約の取り直し。それに加えてなおが「念のため確認して」と言いながら差し出した過去三ヶ月分の議事録の照合まで積まれた。毎回毎回、よくこれだけの雑務を溜め込めるものだ。もはや関心すら覚える。ただ、本社勤務一ヶ月でこれだけの量をこなし続けた結果、私の処理速度は最初の頃とは比べ物にならないほど上がっていた。どこに何があるか、どの作業にどれだけの時間がかかるか、体が覚えてしまったのだ。領収書の仕訳は日付と部署コードで並び替えれば一括処理できる。社内文書は配布先の部署順にあらかじめ振り分けてしまえば、後は流すだけだ。会議室の予約はシステムのカレンダーを見れば空きがすぐに把握できる。議事録の照合は変更点に蛍光マーカーを引きながら読み進めれば、読み直しの手間が省ける。一時間もあれば終わる。そう踏んでいた通り、五十分で終わった。なおは返却された処理済みの書類を受け取り、また悔しそうな顔をした。何か嫌味を言おうとして、しかし何も言えず、踵を返した。

私は三宅と合流してプロジェクト会議に向かう。今日は営業部との合同会議だ。会議室のドアを開けた瞬間、私と三宅は同時に足を止めた。本来このプロジェクトにはノータッチのはずの宮部部長が、会議室の中に座っていたからだ。しかも、わざわざ修の隣の席を選んで。「お疲れ様」修は二人の顔を見て、のんびりとした調子で言った。状況の不自然さをまるで気にしていないような、その穏やかさが逆に場を和らげる。「部長がどうしてですか?」「ああ、私はメンバーじゃないけど、把握しておこうと思ってね」もっともらしい言葉だ。しかしその視線が、入室してきた社員たちよりも会議室の壁に設置された防犯カメラへと向いていることに、私は気づいている。今日どこかで視察しているとされるグローバル本社の社長へのアピールに余念がない。修の隣という座席を確保していることも含めて、今日の宮部部長の全ての行動には何かしらの計算が働いていた。

会議が始まった。今日のメンバーは宮部部長を含めて七名。営業部から修、企画部から三宅と私、そして二名の関連スタッフ。議題は三宅のプロジェクトの進捗確認とKPIの方向性の確認だ。会議の冒頭で営業部の職員が話題を変えた。「そういえば私、ちょっと調べたんですけど、ジオカスケードインクの社長さんって、名前も顔も公開されていないんですね。会社概要の社長欄には、L. S. としか書かれてなくて」「L. S.

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ですか? 何かの略語でしょうか?」会議室に好奇心が広がった。誰もがその名前を初めて聞いたような顔をしている中、修は一人、にこにこしていた。私は何も言わない。ただ手元の資料に視線を落として、呼吸を繰り返す。会議は本題へと進んだ。私がプロジェクトのKPIに向けた重要ポイントをいくつか提示すると、他のメンバーが資料に目を落としながら熱心に聞いた。修が「そこ、具体的にどういう根拠で」と前のめりに聞いてくる場面もあった。三宅が補足を加え、営業部の職員が営業の視点から意見を添える。会議室の空気が、生きた議論の形を帯び始めていた。その時、宮部部長が口を挟んだ。「でも、それだとコスト面でリスクがあるんじゃない?」攻撃の対象は、企画部である私たちだ。部長であれば本来フォローする側だと思ったが、この人には通用しない。「現在の市場コストと比較した場合、このアプローチは初期投資を一点二倍に抑えながら、三ヶ月以内に回収できる試算が出ています。資料の四ページをご覧いただけますか?」宮部部長が資料をめくる。数秒の沈黙。他のメンバーも同じページを開き、数字を確認している。「なるほど。これは納得感があるね。営業部的にも、このペースなら現場が追いつける気がします」宮部部長は何も言わなかった。代わりに前歯をわずかに動かして、視線を資料に落としたまま固まる。反論の言葉を見つけられないようだ。

会議が次の議題に移りかけたその瞬間だった。「ちょっと、中卒。あんた、全員分のコーヒーを入れてきなさい。早く」会議室に一瞬の静寂が流れる。「ちょっと、今は佐野さんにいていただいた方がいいんじゃないですか? さっきのは、たまたまこの人が知っていた知識でしょ。中卒が、この後に何ができるって言うの? 私がいるんだから問題ないわよね。修?」修が目を丸くした。「え、佐野さんがいた方がいいんじゃないですか?」「大丈夫です。急いで入れてきます」そう言うと三宅が立ち上がった。「じゃあ、私も手伝います」宮部部長がにやりとする。思った通りの展開になったという満足感を、隠そうともしていなかった。しかし次の瞬間、修が席を立った。「三宅さんはここにいて、僕が手伝うよ。ほら、今一番出番ないのって僕だし」宮部部長の顔が引きつる。「修、そんなことしなくていいのよ」「みんなにリラックスして仕事してもらうのも部長の仕事だよ」そう言って修は笑った。宮部部長の顔が、じわりと赤くなる。フォローのつもりで修に振った言葉が、そのまま自分に帰ってきた。それが会議室にいる全員に見えているのだ。私と修は並んで会議室を出る。廊下を歩きながら、修は多くを語らなかった。給湯室についてコーヒーメーカーの前に立つと、修が優しく言った。「もう少しだよ。一緒に頑張ろう」私は何も言わずに頷いた。

会議が終わった後、宮部部長の機嫌は明らかに落ちている。修の前で思うような展開にならなかったこと、自分の言葉が笑いで返されたこと。そのどちらもが、彼女の中でくすぶっているらしい。会議室から戻るなり、近くにいた部下に書類の不備を大声で指摘し、別の社員には提出期限の変更を突然言い渡した。なおがそれを見て、素早くフォローに入る。「宮部部長、お疲れ様です。今日の部長は、いつもに増して頼もしいですね。きっとあちらの社長さんも、部長のことをご覧になってますよ」宮部部長の表情が、わずかにほぐれた。なおはいつも、宮部部長が聞きたい言葉を、聞きたいタイミングで差し出してくる。それが二人の関係を長年支えているものの正体だろうと、私は思っていた。しかし私に向けられた宮部部長の目は、常に鋭い。修と一緒にコーヒーを入れに行ったのが、そんなに気に入らなかったのか。業務が一段落した夕方、宮部部長が私の机のそばに来た。周囲に聞こえないよう声を潜めて言い放つ。「私の海外勤務が決まったら、絶対にお前を首にしてから行く。覚えとけ」それだけ言って立ち去った。私はその言葉を頭の中に納める。覚えておく。言われた通りに。しばらくして自分の机を見た。黒い粉が書類の上に散らばっていた。細かく、均一に。最初は何かと思ったが、よく見るとコーヒーの粉末だった。そんなに悔しかったなら、自分で入れればいいのに。コーヒーくらい。

今夜の交流会まで、あと数時間。私は机を綺麗に拭き終え、新しい書類を広げた。手を動かしながら、冷静にその瞬間の到来を待ち続ける。

退勤のチャイムが鳴った。フロアのあちこちで、パソコンの電源が落ちる音がする。社員たちが席を立ち、荷物を手に取り、思い思いに大会議室へと向かい始める。今夜の交流会を楽しみにしている者、緊張している者。両方が混じり合った空気の中で、廊下がにぎやかになった。私もパソコンを閉じて立ち上がろうとした。その時だ。宮部部長となおが揃って、私の机に向かってくる姿が視界に入る。満足げな表情だ。今日この瞬間を楽しみにしていたかのような。「あなたみたいな中卒が、グローバル本社の社長に会えると思ってるの? 何度も言ってるでしょう。立場をわきまえなさいって。あんたは残業よ」そう言いながら宮部部長は手にしていた書類の束を、私の机に置いた。どさりという音がフロアに響いた。私は書類に目を落とした後、宮部部長を見た。「あの、いつも思うんですけど、紙書類はデータ化していないんですか? 会社から予算も出ていると思うんですが、未だにこの量の紙書類って、考えられなくて」その瞬間、二人の女は分かりやすくむっとした顔をする。「余計なことを言うな。役員でもない下っ端の平社員のくせに。あなたには分からないでしょうが、上には上の事情があるのよ。さっさとやれ」と言い捨て、二人は並んで去っていった。ヒールの音が遠ざかる。フロアに残ったのは、私と遠巻きに様子を見ていた数人だけだった。三宅が心配そうな顔でこちらを見ている。「大丈夫だから、先に大会議室に行ってね」彼女は少し躊躇した後に「分かりました」と言って、会議室の方向へ歩き出した。振り返り、一度こちらを見た三宅の目に「本当に大丈夫ですか」という問いが乗っている。私は小さく頷いた。三宅の背中が廊下の角を消えると、フロアは完全に静かになった。私はパソコンを開き直す。そして呟いた。「二十分で終わらせる」

書類をめくりながら、必要な情報を確認していく。宮部部長が置いていった量は、一見すると多い。しかしよく見れば、大半は同じ形式の繰り返しだった。テンプレートを一度整えてしまえば、後は流し込むだけだ。指がキーボードの上を動く。こういう時間が嫌いではなかった。黙々と手を動かす時間。余計なものが削ぎ落とされて、自分とやるべきことだけが残る。十五分が経った頃、廊下から足音が聞こえた。「ゆ、ゆり子さん、何をしてるんですか? もう始まりますよ」滝本社長が、慌てた顔でフロアに入ってきた。彼は普段は穏やかで表情豊かな人間だが、こういう時だけ少し表情が崩れる。「宮部部長に頼まれた仕事です。もう少しで終わりますから」滝本社長は一瞬言葉に詰まった。何かを言いかけて、それを飲み込む。代わりに少し呆れたような顔で言った。「分かりました。でも、終わったら必ず来てくださいね」「はい」滝本社長の足音が遠ざかっていく。私は画面に目を戻した。作業は実のところ、ほぼ終わっていた。最後の数行を入力して保存する。椅子から立ち上がり、上着を手に取った。このまままっすぐ大会議室に向かうのでは、面白くない。私はそう思いながら廊下へ出た。

大会議室のドアは薄く開いていた。中からは、すでに大勢の人の気配がする。私はそっとドアを押し、一番後ろの壁際に滑り込んだ。大会議室は大学の講義室に似た作りだ。正面に壇があり、座席は緩やかな階段になって奥へと続いている。照明が壇に向かって集まるような設計になっていて、前方の席にいる人間の顔は、後ろからでも比較的よく見えた。一番前の席に、宮部部長となおが並んで座っていた。二人は背筋が伸びていて、顔がやや上を向いている。「私がこの会社で最も優秀な社員です」とでも言いたげな、そういう座り方だった。宮部部長の隣には修がいた。修はどこかリラックスした様子で、手元の資料を眺めている。私は一番後ろの壁際の席に腰を下ろした。前方を見渡すと、会場はほぼ満席に近い。企画部の社員たちも、営業部の社員たちも、思い思いの席に座っている。三宅は中段あたりに座っていたが、こちらに気づいていないようだった。

やがて壇に動きがあった。まず滝本社長が現れる。続いて、彼と並んで壇に上がったのは、痩せた白人男性だ。年齢は六十代前後で、グレーの髪をきっちりと整え、落ち着いたスーツをまとっている。その立ち姿には、長年の経験を積んできた人間だけが持つ重みがある。近くにいた社員が小声で「あれがグローバル本社の社長かな」とささやいた。滝本社長がマイクを手に取った。「皆さん、お疲れ様です」彼は日本本社の現状への感謝、社員へのねぎらい、そして今後への期待を語った。短く、しかし誠実な言葉が続く。「本日はジオカスケードインク、グローバル本社の社長にもご挨拶いただきたいと思っております」そう言って、隣の男性にマイクを渡した。男性がマイクを受け取り、会場を見渡す。そして口を開いた。「初めまして。ジオカスケードインク、グローバル本社から来ました、ロドと申します」流暢な日本語。発音に癖はあるが、言葉の選び方が自然で、長年日本語を使い続けてきたことが伝わる。会場がわずかにざわめいた。ロドはグローバル本社の現状と今後のビジョンについて簡潔に語った。そして、大事な話として付け加える。「今回の来日の目的の一つとして、アメリカで共に仕事ができる人材を迎えに来ました」宮部部長の目が輝いた。前のめりになる体を、必死に抑えているのが後ろからでも見て取れる。今この瞬間を、ずっと待っていたのだろう。隣の修に目配せをしているのが見えた。修は前を向いたまま、小さく頷く。その意味を、宮部部長は都合よく受け取っているに違いなかった。ロドが一呼吸置く。そして、少し恥ずかしそうに口を開いた。「色々お話ししましたが、私はグローバル本社の社長ではありません」会場が静止する。誰もが、今聞いた言葉を頭の中で繰り返しているような、そういう沈黙。前列の方では、宮部部長が固まるのが見えた。「我が社の社長は、日本で生まれ、日本で育ちました。そして、若くしてアメリカへ渡ったのです。アメリカで教育を受け、それまでジオカスケードインクの社長を務めていた先代の後を継ぎました」誰もがロドの次の言葉を待っている。「今回、その社長は、一ヶ月も前からこの会社に来て視察をしています」会場が再びざわめいた。今度は先ほどよりも大きく、動揺と驚きが混じり合っている。宮部部長の顔が、少しだけ歪んだ。なおは落ち着きなくきょろきょろと周囲を見回している。誰だろう、という顔で。「皆さんと一緒に仕事をして、この会社をよく知るためにです」ロドが会場の後方に視線を向けた。「エリコ、どこかで見ているんだろう。隠れてないで、こっちに来なさい。お世話になった皆さんにご挨拶をするんだ」会場中の視線が、一斉に後方へと向いた。私はゆっくりと立ち上がる。すぐに壇に行かなかった私を、ロドは怒っているなと思いながら。一番後ろの席からの距離。その道のりを歩きながら、私はまずきつく一本に結んでいた髪をほどいた。肩の辺りで、黒髪がさらりと広がる。そして眼鏡を外した。会場の空気が変わるのが分かった。ざわめきが起き、そしてすっと引く。まるで波が砂浜に触れて、引いていくような、そういう感覚だ。階段になった通路を、ゆっくりと降りていく。前方の席を通り過ぎる瞬間、横目に宮部部長となおの顔を確認した。宮部部長の顔から、血の気が引いていた。なおはまだ状況を飲み込めていないのか、私の顔とロドを交互に見比べていた。その表情は、今まで見たどんな顔よりも滑稽だった。私は壇に上がる。マイクの前に立ち、会場を見渡した。企画部の社員たちの顔が見える。三宅が、目を大きく開けてこちらを見ていた。私は口を開いた。「ご紹介に預かりました、ジオカスケードインク社長の竹本ゆり子です。こちらでは、佐野ゆり子の名前でお世話になっておりました」会場がどよめく。企画部の社員たちから上がった声は、特に大きかった。驚きと戸惑いと、そして何かが腑に落ちたような、そういう複雑な響きを持っていた。「私が一ヶ月も前からこの会社に来ていた理由は、日本本社の視察のためです」滝本社長が隣で頷き、マイクを受け取った。「以前から一部の部署で発生していた問題を解決すべく、ゆり子社長に相談しました。今後、日本本社から人材を送るということもあり、社長自ら視察に来ることを希望されました」マイクが再び私に戻ってきた。「おかげで本当に貴重な経験ができました。お世話になった皆さん、ありがとうございます」そして、前列の席の方へと視線を向けた。まだ表情が固まったままの宮部部長となおがいる。ちゃんと話を聞いていることを確認すると、私は息を吸った。「いろんな社員たちを見ました。毎日懸命に仕事をして、それでも声を上げることができなかった人たちの存在も。そういう人たちが、これから正当に評価される場所になってほしいと、心から思っています」会場が静寂した。三宅が目元を押さえている。その隣の社員も、唇を結んで天井を向いていた。前の席では、宮部部長となおが、まだ凍ったように固まっている。二人の顔は、蒼白を通り越して灰色に近い。

交流会が始まると、社員たちが次々と私の元へやってきた。握手を求める者。仕事の相談を持ちかける者。「実は困っていて」と小声で打ち明ける者。それぞれが、それぞれの形で、この一ヶ月間の何かを解放するように話しかけてきた。三宅は人の波が少し引いたタイミングで近づいてきた。目が赤い。「佐野さん……アメリカの社長さんだったんですね」「ゆり子でいいですよ、三宅さん」三宅は少し笑って、それからまた目を潤ませた。言葉にならないものが、その顔に溢れている。あの夜の残業を思い出した。窓の外に広がる夜の街を眺めながら、二人でキーボードを打ち続けたあの時間。三宅が「この会社でまだやれると思っていたのに」と呟いた、あの声を私はまだ覚えている。「三宅さんの企画、本当に良かったですよ。これからも続けてください」三宅は深く頭を下げた。その肩が、小さく震えている。

会場の隅で動きがあった。宮部部長となおが、誰にも気づかれないように会場の出口へと向かっていたのだ。二人の足取りは素早く、しかし目立たないよう壁際を伝うようにして移動している。だが、その動きを滝本社長はすでに察していた。近くのスタッフに何かを耳打ちすると、出口の前に二人のスタッフが立った。宮部部長となおは、観念したように出口の前で足を止める。スタッフに促され、二人は別室へと案内されていった。その様子を修が遠くから見ていた。私と目が合うと、修はにっこりと笑った。そして、別室の方向へと歩き出す。私は話しかけてくれる社員が途切れるのを待った。最後の一人と言葉を交わし、頭を下げてから会場を後にした。

廊下は静かだった。ヒールの音が規則正しく床に響く。会場の熱気が、ドアの向こうにまだ残っていた。社員たちの声、笑い声、グラスの音。その全てが、今夜この場所で起きたことの証だ。私は別室のドアの前に立った。ノブに手をかけながら、一つ息を吸う。さあ、制裁の時間だ。

別室のドアを開けると、重厚な空気が出迎えた。部屋の中央に長テーブルが置かれている。上座側には滝本社長とロド、そして数名の役員が座っていた。修はテーブルの端、少し離れた位置に腰を下ろしている。全員が私の正体を知っている人間だ。そして下座側には、宮部部長となおが並んで座っていた。宮部部長は部屋に入ってきた私を見るなり、わざとらしく怯えたような表情を作った。そのまま立ち上がり、修の方へと歩き出す。修はそれを察知し、宮部部長が近づくより先に椅子を引いて立ち上がり、テーブルの反対側へと移動した。居場所を失ったまま立ち尽くす宮部部長を、部屋にいる全員が黙って見ていた。私は空いていた椅子に腰を下ろす。なおがおずおずと口を開いた。「あ、あの、佐野さんがグローバル本社の社長って、本当なんですか?」滝本社長が頷いた。なおの顔が、みるみると青ざめていく。宮部部長は表情を作り直そうとしているが、目の奥に動揺が滲んでいた。「改めてご説明しますが、ゆり子社長は、前社長である竹本恵子の娘です。恵子は私の姉に当たります。ジオカスケードの創業者はゆり子社長の祖父で、母方の家系が代々会社を守ってきました。母は私の父である佐野徹と結婚し、私が生まれ、しばらく日本で暮らしていた。しかし、私が高校一年生の時に、母がジオカスケードインクを継ぐことになったため、家族でアメリカへ渡ったのです」なおの目が一瞬大きく開く。過去の記憶が、何かを呼び起こしたのだろう。視線が宙を彷徨い、それから自分の手元に落ちた。「私は秋からアメリカの高校に改めて入学し、そのままアメリカの大学を卒業しました。日本での学歴だけで言えば、確かに中卒かもしれません。しかし実際には、歴とした大卒です」その事実が、部屋の空気をわずかに変えた。なおが唇を震わせる。「中卒」という言葉を何十回と口にし、嘲笑の種にしてきた。その言葉が、今、丸ごとひっくり返されたのだ。「五年前にゆり子社長に会社を引き継いでからは、姉は夫婦でアメリカで暮らしています。ゆり子社長が今の立場についたのも、そういった経緯があってのこと」宮部部長は黙ったまま、正面を向いている。滝本社長が続けた。「それで、先ほどの話ですが、『問題のある一部の部署』というのは、企画部のことです。以前から企画部では離職者が続いたり、匿名の社内相談が相次いでいました。名前が上がっていた宮部部長となおにヒアリングを試みたこともあったらしい。しかし、毎回うまくかわされてしまう。そこで、客観的な視察が必要になったと、滝本社長から聞かされていた」私が口を開く。「叔父から話を聞いた時に、ちょうど日本に来る予定もありましたので、私が自ら覆面での視察を志願しました。まさか高校時代の同級生が当事者の一人だとは思っていませんでしたが」なおがぴくりと肩を揺らす。「彼女が私を中卒だと思い込んでくれたおかげで、正確な実態を掴むことができた。その思い込みがなければ、彼女たちはもう少し慎重に動いていたかもしれない。そういう意味では、感謝している」なおは終始落ち着きがなかった。一方の宮部部長は、ここに来てようやく毅然とした表情を取り戻していた。背筋を伸ばし、口を正面に向けて開く。「お言葉ですが、社長。私は部長として、部下たちに厳しく接したことはあります。しかし、それは過剰な行為ではなく、指導の範疇だと思っております。受け止める側の問題もあるのではないでしょうか」堂々とした物言いだ。この後に及んでまだそう言えるのかと思う気持ちと、やはりそう来たかという気持ちが同時にあった。確かに、指導と嫌がらせの境界線は曖昧な部分がある。新人や繊細な社員であれば、少し厳しく言われただけで傷つくこともある。その論法で逃げようとしているのだろう。しかし、私は知っている。「では、これまで他の社員たちが提出した企画の横取りについては、どうお考えですか?」部屋にいた全員が、表情を動かした。「人聞きが悪いわね。他の人と被るような企画を出す側にも問題があるでしょう。考え方が古いのよ。同じような企画であれば、信頼のおける人間の企画を採用するのは当然じゃないですか?」どこまでも白を切るつもりだった。私はパソコンを開く。そして残業中に整理した書類の中から見つけたデータを、テーブル中央のモニターに映した。あの夜、誰もいないオフィスで書類を整理しながら、私はそれを見つけた。最初は単なる古い書類だと思っていたが、ページをめくるうちに日付の書き換えられた形跡に気づく。インクの色が微妙に違う。数字の筆圧が、他の部分と合っていない。何枚かを並べてみると、同じ手法が繰り返されていることが分かった。「先日の残業中に、大量の紙書類を整理する機会がありました。その中に、提出済みの企画書が何件も混在していました。よく見ると、作成日が後から書き換えられた形跡があるものが複数あります」モニターに書類の画像が映し出される。日付の部分が明らかに修正されている痕跡。元の数字が透けて見えるものもあった。「紙書類にこだわっていた理由が、これで分かりました。データであれば変更履歴が残ります。しかし紙であれば、書き直せる。他の社員が作成した企画書を手元に置いて、作成日を書き換え、別の人間が作ったように見せる。そのために、紙の書類を使い続けていたのではないですか」宮部部長の顔から、今度こそ血の気が引いた。「それから、DX推進のための予算についても確認させてください。企画部には毎年、デジタル化推進のための費用が計上されています。しかし、その使用の報告がここ数年、提出されていない」滝本社長が役員に目配せをした。役員の一人が資料を開き、頷く。「それは、担当者が変わったりして引き継ぎが……」「予算の使用が不明なまま、報告もされていない。だとしたら、これは担当者の問題ではなく、部長の管理責任です」宮部部長は口を開いたが、言葉が出なかった。「さらに、これまでの成果として計上されてきたプロジェクトのいくつかが、実際には部下の社員が作成した企画を元にしていることも確認しています。部長の実績として報告されていたものが、実際には別の人間の仕事だったということです」今進んでいる三宅のプロジェクトも、下手をすればなおの手柄になっていただろう。滝本社長がしっかり企画書の内容を読んでくれたおかげで助かった。沈黙が部屋を満たす。宮部部長がゆっくりと口を開いた。「それは、全部、社員の成長のためにやってきたことです。私が手に入れることで、企画の質が上がる。それが部下の育成というものでしょう」誰も頷かない。私はパソコンを操作した。「最後に、いくつか映像を確認していただけますか?」モニターに映像が流れ始める。企画部の内部映像だ。なおが社員を怒鳴りつける場面。宮部部長が「黙ってないわよ」という言葉で部下を脅す様子。そして、三宅が企画を没にされ、泣きそうな顔で机に向かっている場面。宮部部長が「指導の範疇」と言い続けた日々の記録が、そこにあった。「あ、誰がこんな映像を……」「社内の防犯カメラの映像と、私が記録していた音声データを組み合わせたものです」私は胸のポケットから、先ほど外した眼鏡に触れる。この眼鏡には、小型カメラが仕掛けられていた。もちろん、調査という名目で滝本社長も了承済みだ。なおは途中から画面を見られなくなっていた。視線を膝に落として、唇を噛んでいる。隣の宮部部長は、最後まで画面を見続けていた。しかし、その目が映像を見ているのか、それとも別の何かを見ているのかは分からない。そして、何かを断念したように息をつくと、急に声を張り上げた。「違うんです。これは指導の一環で……」「誰も、やめてほしいなんて思っていません。どんな社員でも、みんなで成長して、みんなで幸せになれる部署にしたかっただけで。本当です。信じてください」涙を流しそうな勢いで声を震わせる宮部部長。しかし、涙は出ていない。これで乗り切れると思っているのだろうか。私は最後に一つの映像を流した。夕方のオフィス。宮部部長がゆり子の机に近づき、周囲を確認してから声を潜める。「私の海外勤務が決まったら、絶対にお前を首にしてから行く。覚えとけ」それが決定打だ。ロドがゆっくりと息をついた。役員たちの顔が、一様に固まっている。修は静かに目を伏せた。「信じてください」という言葉は、空気の中に溶けて消えた。信じる者が、この部屋には誰もいない。滝本社長が立ち上がる。「宮部部長、ゆっくり話を聞かせてもらおう。森田君もだ」役員たちも立ち上がった。宮部部長となおが、促されるようにして立ち上がる。部屋を出ようとしたその瞬間だった。宮部部長が、勢いよく振り返る。その顔には、これまで見たことのない剥き出しの感情があった。「修、助けて。一緒に海外勤務するって約束したじゃない? 私たち、ずっと一緒だよね。修は私の味方だよね?」修は目を細め、冷静に事実を述べる。「そんな約束してないよ。それに、僕が結婚してるのは知ってるよね。君はただの同僚だよ。それ以上でも、それ以下でもない」「お、奥さんとは別居しててもう破綻してるんでしょ?」「別居はしてるよ、日本とアメリカで。だから今回、海外勤務を希望してるんだ」そこで修は、私の隣に並んだ。「妻とゆり子と一緒に暮らすためにね」にっこりと笑う修。それが宮部部長の視界に入った瞬間、彼女の表情がそれまでとは変わった。一ヶ月間、自分が虐げ、蔑み、コーヒーをかけた相手が、修の隣に立っている。妻として。「そこまで、お前……」「宮部部長の言葉、しっかり覚えていますよ。私は私の立場をわきまえて、アメリカでしっかり頑張りますね。彼と一緒に」私の最後の挑発に、宮部部長は何も言わなかった。何も言えなかったのだろう。やがて、彼女は会場を出ていった。なおがその後に続く。扉が閉まる直前、なおがこちらを振り返った。その目に何が宿っていたか、私には読み取れなかった。そして、扉が閉まった。宮部部長が積み上げてきたもの。なおがその隣で加担してきたもの。それが今夜、一つ一つ、この部屋の中で明らかになった。

部屋に残ったのは、私と修と、滝本社長とロドだけになった。ロドが低く笑う。「相変わらずだな、ゆり子」褒め言葉として受け取っておきます。修が私の隣に立った。「お疲れ様」何気ないその言葉の中に、この上なく温かいものを感じる。長く一緒にいると、それだけで伝わるものが、確かにある。窓の外に夜の街が広がっている。無数の明かりが、静かにまたたいていた。

宮朝子と森田なおに対する処分が正式に下ったのは、あの夜から二週間後のこと。企画の横取り、予算の不正使用、部下への継続的なハラスメント行為。諸々の事実について社内調査と外部の法的確認を経た結果、部長は懲戒解雇となった。加えて、横取りした企画によって生じた利益の一部を、被害を受けた社員への保証として支払うよう求められたという。金額は決して小さくなかった。彼女たちの長年かけて積み上げてきたキャリアは、一夜にして崩れた。宮部部長は最後まで「指導の一環だった」と主張し続けたという。しかし、映像と音声の記録の前では、その言葉はただの言い訳にしかならない。東大卒という肩書きを盾に、自分の能力以上の地位を保ち続けてきた宮部部長。その構造が、根元から引き抜かれたのだ。なおもまた、諭旨解雇に準ずる処分を言い渡された。圧力行為への加担及び資料の改ざんへの関与が認定されたためだ。社内での立場は一変し、それまで自分が従えていた社員たちと同じ、あるいはそれ以下の位置に置かれることになったらしい。かつてなおが「中卒のくせに」と言い放った相手が、グローバル本社の社長だった。その事実は社内にじわじわと広まる。なおはその後、誰とも目を合わせられなくなったという話を、後に三宅から聞いた。さらになおには別の問題も発覚した。調査の過程で、社内での不貞行為が明るみに出たのだ。それが彼女の夫の耳に入り、夫は離婚を申し立てたという。なおは慰謝料の支払いを求められ、長年暮らしてきた自宅も手放すことになった。職場での地位も、家庭も、同時に失った。二人がオフィスの荷物を引き取りに来た日、企画部のフロアは静かだった。誰も声をかけず、それぞれ自分の画面に向かい、いつも通りに手を動かしていた。その静寂が、答えだろう。

三宅恵が手掛けるプロジェクトは、その後も順調に進んだ。正式な担当者として認められた三宅は、それまでとは別人のように仕事に向き合っている。発言が増え、提案が増え、会議の場でまっすぐ前を向くようになった。それを見ていた社員たちも、少しずつ変わり始めた。声を上げることが、ここでは許されるのだと分かったからだろう。企画部の離職率は、翌四半期から大幅に改善した。それがあの一ヶ月の、一番確かな結果だった。

それから数ヶ月が経った。私は今、アメリカにいる。見慣れた空は青く、どこまでも続いている。隣の部屋から、修の声が聞こえた。電話をしているらしい。日本語と英語が交互に混ざる、いつもの調子だった。「ゆり子、そこまで散歩に行かないか」電話を終えた修が、私を誘った。手をつないで、二人で外を歩き出す。私は今、本当に幸せだ。