板場の入り口に立った黒田さんが、白い割烹着を腕にかけたまま笑った。大広間には十二人が座ったままだ。板場の者も座敷の者も、誰一人として私と目を合わせようとしない。
「三十二年だ。俺がこの店をどうやって回してきたか、あんたには分からんだろう」
私は黒田さんの顔を見た。「分かりました」
「それだけか」
黒田さんが一歩前に出た。私は柱に手をかけたまま答えた。「皆さんが決めたことですから」
黒田さんの口が半分開いたまま止まった。言い返されると思っていたのだろう。「後で泣きついても遅いぞ」
「はい」
十三人の足音が玄関の方へ遠ざかっていく。父の葬儀が終わってから私が花の屋の代表に着いた、その翌日の朝だった。私は引き止めなかった。泣きもしなかった。大広間の柱に手をかけたまま、その音を最後まで聞いていた。
話はその年の十月から始まる。私は篠原綾野、三十六歳。死の淵の川沿いに立つ料亭、花の屋の一人だ。花の屋は曽祖が始めた店で、創業から八十四年になる。座敷が八室と、五十人が入る宴会場が一つ。婚礼も顔合わせも会社の接待も、昔からこの店を使ってきた。
私は大学を出て東京のホテル会社に入り、宴会と飲食の運営をしていた。献立を組むのは料理長の仕事で、私の仕事は予約と人と数字だった。料理は作れない。今も作れない。
半年前、父から電話があった。「帰ってこい」要件は言わなかった。帰ってみると父は痩せていて、板場に立つ時間が前より短くなっていた。「経営の方だけお前が見ろ」私は会社をやめて花の屋へ戻り、役員として帳簿と予約と人の采配を引き受けた。父は板場のことで私に指図したことが一度もない。任せると言ったきり、口を出さない人だった。私はそれを娘への信用だと思っていた。
「板場には黒田がおる。お前は座敷と数字を見ろ」父はそう言った。ただ戻ってきてからの半年の間に、二度か三度、父が調理場の金庫を開けて何かを書き込んでいるのを私は見ている。売上の帳簿ではなかった。表紙の黒くなった大学ノートだ。何を書いているのかと聞いたことがある。父は表紙を手で抑えて、「店のことだ」とだけ答えた。
十月三日の朝、父が板場で倒れた。仕込みの最中だったという。運ばれた先で意識は戻らず、その日の夕方に亡くなった。六十八歳だった。病院の廊下で私が最初にしたのは、その週の予約を数えることだった。悲しむより先に手が動く。ホテルで十二年やってきた癖だ。
翌日から四日、花の屋は忌中で店を閉めることになった。通夜には二百人近くが来た。市長も商店街の人も、四十年この店に魚を納めている裏商店の村上さんも来た。みんな父の名前を呼んで泣いた。村上さんは受付の前で長いこと立っていた。六十三歳になる魚屋の二代目だ。花の屋と裏商店の付き合いは父の代の前からのもので、月に二百万ほどの魚が四十年ずっとこの川沿いの店へ運ばれてきた。
「綾乃野さん、店は続けなさるんでしょう」
「続けます」
村上さんは頷いて、それ以上は何も言わずに帰っていった。
黒田さんは受付の後ろに立って、来る人来る人に頭を下げていた。板長の黒田誠司さん、五十八歳。二十六で花の屋に入って三十二年になる。父が一番長く一緒に働いた人だ。
「仙代には世話になりました」
黒田さんはそう言って、来る人ごとに腰を折った。その姿を見て、私はこの人には礼を言わなければと思った。
その考えが最初に揺れたのは、通夜が終わった後の着替えの間だった。追い回しの柚月啓吾君が、公会の受付で名簿の順を間違えた。追い回しというのは板場で一番下の役で、走り回るのが仕事だ。二十六歳の柚月君は震える手で名簿を直そうとしていた。
「お前、何年ここにいる?」
黒田さんの声が廊下に響いた。
「三年です」
「三年いて紙も並べられんのか。板場に戻れ。今日はもう手を出すな」
柚月君は名簿を置いて出ていった。座敷には親戚も客も残っていた。私は黒田さんの横へ行った。「黒田さん、今日はみんな気が張っています」。黒田さんは私を見もしない。「板場の人間の育て方は板場の人間が決めることです」それだけ言うと、黒田さんは背を向けて廊下を歩いていった。
翌日の葬儀で、私は決定的なものを聞いた。参列者の列が途切れた頃、黒田さんが同業の人と話しているのが聞こえた。廊下の柱を挟んですぐ後ろに私がいるとは、黒田さんも思っていなかったのだろう。
「俺はな、仙代がここにいたんだ」
相手が何か言った。
「娘さんはホテルで働いてただけだろう。料理も作れん。素人だ。そのお遊びの経営に俺がいつまでも付き合うと思うか」
私はその場を動かなかった。三十二年勤めた人の言葉だ。父を送る日に言い返す話ではない。そう思って座敷へ戻った。
葬儀の翌朝、私は喪服を脱いで店へ出た。忌中の張り紙はまだ玄関にかかっている。それでも仕込みだけは動かさないといけない。三日後には忘れの座敷が二つ入っていた。板場の戸を開けると、包丁の音が止まった。「おはようございます」返事はあった。味方の藤堂左平さんが「はい」と言っただけだ。五十五歳。味方は煮物と椀を受け持つ役で、板長の次に古い人になる。後の四人は手元から顔を上げない。柚月君もその隣の子も、まな板を見たまま挨拶を返した。私は挨拶を三度繰り返して板場を出た。すぐに黒田さんの声が聞こえた。「余計な口を聞くな。仕事しろ」誰に言ったのかは分からない。板場の音がまた動き始めた。
廊下で仲居の一人とすれ違った。「女将さん、おはようございます」。私は足を止めた。「おはよう。三日後の法事、お前の数はこれで合ってる?」「あ、板長さんがもう決められましたので」彼女は伝票を胸に抱えたまま、そのまま座敷の方へ行ってしまった。
調理場に入ると、しずさんが献立表を広げていた。「綾乃野さん、これ、ご存知でしたか?」三日後の法事の献立だ。私が先週、報事を出されるご家族と電話で相談して決めたものだった。年配の方が多いので揚げ物を一品減らして椀を軽くする。そういう約束をしていた。表の右半分が赤い字で書き直されている。揚げ物が二品に戻り、椀が濃いものに変わっていた。字は黒田さんのものだ。
「昨日の夜です。板長さんがいらして」
料理としては黒田さんの組み方の方が格上だろう。それは分かる。分からないのは、ご家族と話した人間に一言もないことだった。私は板場へ戻って黒田さんに献立表のことを聞いた。
「三日後の法事ですが、揚げ物を減らすとご家族にお約束しています」
黒田さんは鍋の中を見たまま答えた。「あれじゃ椀が痩せる」「軽くしてほしいというご希望です。お年寄りが多いので」。黒田さんは玉杓子を鍋の縁に置いた。「板場のことは板の人間が決める」黒田さんがそこで顔を上げた。「女将さん、あんたは料理を作ったことがないでしょう。素人が口を出すと店の味が痛むんですよ」それから鍋に向き直り、話は終わったという背中になった。私は板場を出た。廊下で息を吐いてから、お家のご家族へ電話を入れ、揚げ物のことをもう一度お詫びして、こちらの都合で献立が変わったと伝えた。頭を下げるのは私の仕事だ。
その日の昼前、村上さんから電話が入った。「綾乃野さん、確かめたいことがあってな」。じきの向こうで村上さんが素盞をした。「板長さんから、しばらく数を減らすと聞いとるんだが、本当かね?十一月の分から半分でええと」。私は受話器を持ち帰えた。「そんな話はしてません」「そうか。そうだろうと思ったんだ」。村上さんの声は困っていた。「四十年の付き合いだ。この人は父にも同じ聞き方をしてきたのだろう。うちは花の屋さんに合わせるだけだから、決まったら教えてくれればええ」
電話を切ってから、私はしばらく調理場の椅子に座っていた。十一月は忘年会の予約が入り始める月だ。数を減らす理由がない。
昼を過ぎて、私は人の帳簿を開いた。半年前に戻ってからやめた人が三人いる。向こう板の者が二人、仲居が一人。三人とも黒田さんが「使えんかった」と一言で片付けた。私はそれを受け入れた。板場の人の采配は板場の人がする。父もそうしてきた。三人の顔は覚えている。向こう板の子は二十九歳で、父が包丁の持ち方を褒めたことのある人だった。仲居の一人は常連のお客に指名でついていた。やめる日に挨拶へ来た彼女は私と目を合わせずに、「お世話になりました」とだけ言って帰っていった。その時、私は若い子は続かないものだと自分に言い聞かせた。ホテルでも人はよくやめた。だから同じことだと思った。
帳簿を三年分遡って、私はもう一つのことに気づいた。仲居頭の欄が三年前から空になっている。座敷を仕切る人間がいないまま、五人の仲居が黒田さんの指示で動いていた。三年前までそこには室井組さんという名前があった。私が中学生の頃から花の屋にいた人だ。やめたことは聞いていたが、理由は聞いていない。
夕方に予約台帳を確かめていて、私はもう一枚めくる手を止めた。十一月と十二月の欄に、鉛筆で薄く「保留」と書かれたのが七つある。どれも会社の宴会だ。鉛筆の字はしずさんのものだった。私は調理場にいたしずさんに「これは誰の指示ですか」と聞いた。「板長さんにそう書いておくように言われまして」。しずさんは鉛筆の跡を指でなぞった。「保留って、何の保留ですか?」「私にも分かりません。ただ九月の終わり頃から増えました」
七つとも十五人から二十五人の宴会だった。花の屋にとっては一番美味しい仕事になる。それを板場の人間が保留にする理由が、私には見つからなかった。
「しずさん、室井さんはどうしてやめられたんですか?」
しずさんは伝票を揃える手を止めた。「私の口からは申し上げにくいことです」それだけだった。調理場の金庫の扉が半分開いていた。しずさんが中を見ている。「しずさん」。しずさんは驚いた顔で振り返り、金庫を閉めた。「すみません。ちょっと確かめておりました」。しずさんは金庫の前から動かない。「何をですか?」「仙代のものです。綾乃野さんが代表におなりになったらお渡しします」
翌朝、板場に黒田さんがいなかった。「板長は所用で昼から出てきます」藤堂さんはまな板から目を離さずにそう言った。板長が仕込みの朝にいないのは、私が戻ってきてからは一度もなかったことだ。
十月七日、私は花の屋の代表になった。司法書士の事務所で書類に判を押しただけの、十五分ほどの手続きだ。表に出ると空が高かった。父が亡くなって四日が過ぎたところで、まだ実感というものがない。
店へ戻ると、しずさんが調理場で待っていた。「綾乃野さん、お渡しするものがあります」金庫の前にしゃがんで、しずさんは布に包んだものを出した。大学ノートだった。表紙が手垢で黒くなっている。真ん中に父の字で「花の屋出入り」とだけ書いてあった。「仙代がずっとつけていたものです。わしが見とるから、お前は何も言わんでいい。三十年、そう言われてまいりました」。しずさんは布を畳んで膝に置いた。「中身は私はあげておりません。仙代がそうおっしゃいましたので」
私はノートを受け取った。厚みの割に軽い。表紙に指をかけて、それから止めた。「これは後で読みます」。父が亡くなってすぐに読むものではない気がした。私はノートを調理場の引き出しに入れて鍵をかけた。あの時開いていれば、話は違っていたのだろう。
「しずさん、父はあれを毎月書いていましたか?」
「人が入った時とやめた時だけです」。しずさんは湯呑みに茶を注いだ。「やめた時?」「はい。やめた日に必ず一ページお書きになりました。書き終わるまで調理場から出てこられませんでした」
私はその時、店の人の名前を覚えておくための記録だろうと思った。葬儀の店にはそういうものがある。父は人の顔を覚える人だった。
「しずさん、うちはこの五年で何人やめましたか?」
しずさんは口を開きかけて、また閉じた。「数えたことはございません」
その日の午後は、しずさんと二人で予約台帳を広げた。十月の残りに法事と会食が七件、十一月に会社の宴会が十一件、十二月は二十六日まで二十九件。忘年会と年の暮れの顔合わせだ。花の屋にとっての一年はこの二ヶ月で決まる。「大丈夫です。仙代の時も暮れの二ヶ月でうちは持ちました」。私は電卓を叩いた。前の年の十一月と十二月で売上は五千二百万円ある。年間のおよそ三割がここに乗っている。従業員は十四人。板場が六人、仲居が五人、調理場と洗い場が一人ずつ、それにしずさん。人件費と仕入れと固定の費用を引くと、この二ヶ月の利益で翌年の春までは持つ。ホテルにいた頃、私が毎月やっていた作業だ。数字を並べている間だけ、私は父の娘ではなく宴会部門の人間に戻れた。
帰りがけ、しずさんが言った。「夕べ、板長さんが座敷でこうおっしゃっていました。娘のお遊びに付き合ってやるのも今のうちだと」。葬儀の日に私も聞いた。しずさんは黙った。「しずさん、私は板場のことは言いません。父もそうしてきましたから。ただ座敷でお客様とお約束したことだけは私が守ります。それは仙代と同じです」
しずさんが笑った。目のしわの寄り方が父に似ていた。
日が落ちてから、私は十一月の宴会のお客様へ一件目の電話を入れた。元橋建設の元橋修造会長、七十歳。花の屋で一番古い会社のお客で、私が生まれる前から座敷を使ってくださっている。
「父が四日前に亡くなりました」
「聞いたよ。通夜には行けなかったが、うちの者をやった」
私は台帳を開いたまま続けた。「十一月十四日のお席ですが、花の屋は変わらずお受けいたします。私が代表を継ぎました」。じきの向こうで元橋会長がゆっくり息を吸った。「綾乃ちゃんか」「はい」。元橋会長が笑うのが分かった。「あんたが小学生の頃、二階の廊下を走って仙代の女将さんに叱られとったな」。私は返事に詰まった。「龍一さんの店だ。行くよ。うちは四十年、あそこで飯を食っとる」
電話を切った後、私は台帳の十一月十四日の欄に丸をつけた。丸が一つついただけで、腹の底に力が入った。数字の見通しよりも、この一件の方が私を立たせたと思う。
その夜、私は店に残って翌日からの段取りを描いた。朝は私が板場の入り口に立って挨拶をする。忘れの席は私がつく。十一月の宴会は私から一件ずつお客様へ電話を入れて、父が亡くなったことと店は続けることを伝える。書き終えて外へ出ると、川の風が冷たかった。玄関の忌中の張り紙を外した。翌日から花の屋はまた開く。父がいなくても開く。私はそのつもりでいた。振り返ると板場の窓に明かりがついていた。夜も遅い時間だ。中で人の影が動いている。一人ではない。四つか五つ。私は明かりをしばらく見ていた。声は聞こえない。翌朝になれば分かることだ。そう思って私は門を出た。
翌朝、私は六時半に店へ着いた。仕込みの音がしない。花の屋の朝は水の音と包丁の音で始まる。米を研ぐ音、鍋に水を張る音、まな板を叩く音。子供の頃、その音で目を覚ましていた。その朝はどれも聞こえなかった。
勝手口から入って廊下を進むと、大広間の襖が開いていた。十三人が座っていた。板場の五人が横一列。その後ろに仲居が五人。一番端に洗い場の人と下足番の人が座っている。全員が私服だった。白い割烹着も着物も着ていない。一番奥の席に黒田さんが座っていた。膝の前に白い封筒の束が揃えて置いてある。
「おはようございます」
私が言うと、何人かが小さく返事を返した。誰も顔を上げない。黒田さんが封筒の束を畳の上で押し出した。「今日付けでやめさせてもらいます。十三人分です」。私は封筒を見た。角が揃っている。一日二日で書いたものではないと、その揃い方で分かった。
「理由を伺ってもいいですか?」
「仙代がなくなったからですよ」。黒田さんは膝に手を置いた。「俺はね、仙代の下で三十二年やってきた。仙代の味を守るためにここにいたんだ。その仙代がいなくなった。それだけのことです」
私は畳に膝をついて、封筒の束を手元に寄せた。「引き継ぎの期間は今日までです」。黒田さんは膝を崩して座り直した。私は封筒の束から目を上げた。「今日の昼に忘れの座敷が入ってます。十二人様です」「そりゃ女将さんがなんとかするんでしょう」。黒田さんの後ろで誰かが小さく笑った。誰が笑ったのかは分からなかった。
「十一月の宴会が十一件、十二月は二十九件です。年の暮れの大きい席が続きます。その方たちにはどう申し上げればいいでしょう?」
「知りませんよ。俺はもうここの人間じゃない」
畳の目を数えるくらいの間があった。私は膝をついたまま、十三人の顔を順に見た。柚月君が膝の上で手を握っている。仲居の子の一人は袖口を指でつまんだまま動かない。
「皆さんもですか?」
返事はなかった。もう一度聞いた。「皆さんもですか?」誰も私と目を合わせない。畳に落とした視線が、そのまま上がってこない。藤堂さんが咳払いをした。「まあ、そういうことです」。黒田さんが引き取った。「俺たちは新しい店をやる」黒田さんは背を伸ばして私の方を見た。「駅前だ。もう物件は抑えてある。一ヶ月後には開ける。花の屋で三十二年やった俺の店だ。この連中も、俺についてくると言ってくれてます」
私は封筒の束を膝の横に置いた。「花の屋のお客様は、うちのお客様です」「俺の客だよ」。黒田さんが片方の口の端を上げた。「あの座敷に何を出してきたと思ってる?この町で花の屋の名前が通ってるのは、料理がうまいからだ。その料理を作ってきたのはこの俺だ」
私は何も言わなかった。黒田さんは立ち上がって、割烹着を腕にかけた。大広間の入り口の方へ歩いていき、そこで振り返る。「この店もこれで終わりだな。三十二年だ。俺がこの店をどうやって回してきたか、あんたには分からんだろう」
私は黒田さんの顔を見た。胸の辺りが熱くなっていた。ここで泣いて頭を下げれば、何人かは残るかもしれない。柚月君は残るだろう。仲居の子も二人くらいは残る。そう思った。それでも私は、半年の間に板場へ足を踏み入れるたびに見てきたものを思い出していた。若い人の顔が、季節ごとに入れ替わっていく。あの入れ替わりは、私が引き止めたところで止まらない。私は膝の横の封筒を畳に残して立ち上がり、大広間の柱に手をかけた。
「分かりました」
「それだけか」。黒田さんが一歩前に出た。私は柱に手をかけたまま答えた。「皆さんが決めたことですから」。黒田さんの口が半分開いたまま止まった。言い返されると思っていたのだろう。怒鳴られるか泣かれるか、そのどちらかの返事を予期していたはずだ。用意したものが行場を失った顔をしていた。「後で泣きついても遅いぞ」「はい」
残りの十二人が順に立ち上がった。畳を踏む音、襖を開ける音、玄関で靴を出す音が、順番に遠ざかっていく。柚月君が最後に出ていく時、一度だけ振り返った。何か言いかけて、口を閉じて、そのまま廊下へ消えた。
足音が消えた。大広間には白い封筒の束と私だけが残った。私は封筒を一枚ずつ確かめた。十三あった。全部同じ文房具屋の同じ封筒だ。中の紙も同じ形だった。誰かがまとめて用意したものに、十三人が名前だけ書いたのだと分かる。
背中で声がした。「綾乃野さん」しずさんだった。手に自分の鞄を下げていない。前掛けをして、いつも通り調理場に出てきた格好だった。「しずさんは、私は調理場です。仙代にこの調理場を頼むと言われております」。それだけ言って、しずさんは大広間の障子を開けて回った。朝の光が畳の上に入ってきた。
私は板場へ行った。竈の火が落ちている。鍋も杓子も洗って伏せてある。仕事を投げていったのではない。片付けて揃えて、それから出ていったのだ。包丁が一本もなかった。板場の人間の包丁は自分のものだから、それは当たり前だ。当たり前のことなのに、抜かれた包丁差しの穴を見ていると腹の底が冷たくなった。私は水道の蛇口をひねった。水の音だけが板場に響いた。八十四年やってきた店で、その日料理を作れる人間は一人もいなかった。
その日の昼に、忘れの座敷が一つ入っていた。板場の壁に父の描いた献立の下書きが張ってあった。十月の分で、日付は三日になっている。倒れた日の朝に描いたものだった。最後の一文字が途中で切れている。字が下へ流れて、そこで鉛筆が止まっていた。私はその紙を剥がさずに、上から画鋲をもう一つ足しておいた。それから板場を一回りした。冷蔵庫の中には前の日に仕込んだものがそのまま残っていた。出汁の入った寸胴、霜を引いた魚、下茹でした里芋。誰かがその日に使うつもりで作ったものだ。作った人はもういない。私は蛇口を閉めて調理場へ戻った。
その日の昼の忘れは、私が受話器を持って断った。「本日、板場のものが全員退職しました。花の屋でお食事をお出しすることができません」忘れを出されるお宅は父の代からのお客だった。電話口の奥さんは、しばらく何も言わなかった。「龍一さんが亡くなってすぐに」。奥さんの声が低くなった。「はい。私の力が及びませんでした」「困ったね。お寺の後にみんなでそのまま行くつもりだったんだけど」
私は前の晩に見ていた地図を頭に浮かべた。花の屋から車で七分のところに、会席の仕出しをしている料理屋がある。父が生前「あそこの煮物はいい」と言ったことのある店だ。「同じ町内に、仕出しをなさるお店があります。人数と時間をこちらからお伝えして、お席の手配もいたします。お代は花の屋がお預かりした分から回します」「そこまでしてもらわなくても」。私は台帳の欄に鉛筆を置いた。「うちがお受けした席です。最後まで私が手配します」
電話を切ってから、私はその料理屋へ頭を下げに行った。突然の十二人前だ。断られても仕方がない。先方の主人は私の顔を見ると、「龍一さんとこの」とだけ言って、二つ返事で引き受けてくれた。
後で聞いた話では、十三人は花の屋を出てからまっすぐ駅前の喫茶店に入ったのだという。黒田さんがみんなにコーヒーを奢って、新しい店の名前を紙に書いて配ったそうだ。その紙に書かれていた名前は、花の屋の一文字を使ったものだった。その話を聞いた時、私は腹も立たなかった。ただ、この人はまだ花の屋の外に出ていないのだと思っただけだ。
帰りの車の中で、私はハンドルを握ったまま数を数えた。その日が一件、翌日が二件、その月の残りが四件、十一月が十一件。十二月が二十六日まで一件ずつ。仕出しに頼んで回れる数ではない。
店へ戻ると、しずさんが調理場で電卓を叩いていた。「綾乃野さん、今日の分の給料と離職の書類の手配をいたします」。私は調理場の框に腰を下ろした。「明日、店を開けられません」。しずさんは電卓から手を離した。それからゆっくり頷いた。「仙代なら同じことをなさいます」。その言葉に私は返事ができなかった。板場の窓から川の水の音が聞こえていた。
黒田さんから最初の電話が来たのは、その日の夜だった。「板場の道具のことだが」挨拶はなかった。「出刃と中華鍋と蒸し器。あれは俺が使ってきたものだ。持っていく」。私は板場の伝票綴りを引き寄せた。「あれは店の備品です」「俺が育てた鍋だ」。私は伝票綴りの三年前のページを開いた。「買った伝票が調理場にあります。三年前に入れた遠火鍋は四十二万円で、うちが払っています」。黒田さんが黙った。それから「けち臭いことを」と吐き捨てて、電話を切った。
翌朝、また鳴った。「常連には俺から挨拶しておく」。じきの向こうで車の音がしていた。「どちらの方にでしょう?」「元橋さんも久保田さんも、死の淵の連中も、みんな俺がついてきた客だ」。私は調理場の椅子に座り直した。「黒田さん、うちのお客様へのご連絡は会社からいたします」「うちのお客様と来たか?」黒田さんが笑った。「あんた、その客が誰の顔を見に来てたと思ってるんだ?」
その日の午後、三度目の電話が来た。要件は看板のことだった。新しい店の看板に「花の屋」と三十二年と入れたいという。「仙代の名前も入れたい。あの人には世話になったからな」。私は台帳のページをめくる手を止めた。「父の名前は困ります」「なんでだ?」私は息を整えてから答えた。「父はもう何も言えません。言えない人の名前を別のお店の看板に置くことはできません」。黒田さんは何か言いかけて、「じゃあ勝手にする」と言って切った。私は受話器を置いて、それから電話のページを開いた。これが本当の仕事だった。
十月八日の夜から、私は予約の入っているお客様へ順に電話をかけた。「花の屋の篠原でございます。父の急なことで、店のものが一度に退職しまして」。言い訳はしなかった。誰がやめたのかも言わなかった。板場の体制が整うまで店を閉めること。そのお日にちにお受けできないこと。それだけを伝えて頭を下げた。十月の残りが六件、十一月が十一件、十二月が二十九件。四十六件のお宅と会社へ、私としずさんの二人で三日かけて回りきった。「もう待てないよ」と言われた席もある。会社の忘年会は日が決まっている。よそに移すしかない。「仙代がいなくなって、そんなことになってるのか」と言ってくれた方もいた。
元橋会長には私が最後にかけた。十一月十四日、お受けできません。申し訳ございません。元橋会長はしばらく黙っていた。「板長さんがやめなさったのか」「はい」。元橋会長の声から、さっきまでの柔らかさが消えていた。「やめたのは何人だ?」「黒田さんも入れて十三人です」。じきの向こうで机を叩く音がした。「龍一さんの葬式の三日後にか」。私は返事をしなかった。「綾乃ちゃん、開ける?」。私は台帳の開いたページを見ていた。「体制を整えてから必ず開けます。日が決まりましたら、一番にご連絡いたします」「待つよ」。元橋会長はそれだけ言って切った。
十月九日、私は玄関に張り紙を出した。「都合によりしばらく休業いたします。再開の日が決まり次第お知らせいたします」紙を張りながら、川向こうの道を通る人がこちらを見ているのが分かった。その日のうちに噂は町を回った。花の屋が潰れる。板長が抜けた。娘では無理だった。親戚の一人は電話でこう言った。「綾乃ちゃん、悪いことは言わないから、建物と土地を売っておしまいなさい。今なら値がつくよ」
夜、寝床に入ってから、私は天井を見て考えた。あの朝、泣いてすがっていたらどうなっただろう。柚月君は残ったかもしれない。仲居の子も二人くらいは残って、座敷だけなら開けられたかもしれない。それでも、と思った。半年の間、私が板場に入るたびに顔触れが変わっていた。私が泣いて止めて、あと半年同じことが続くだけだ。父の代から八十四年続いた店で、続いていなかったのは人の方だった。
数字だけはその日のうちに並べた。手元にある運転資金が二千三百万円。父が残していたものだ。休んでいる間の固定の費用は月におよそ百六十万円。建物は自分のものだから家賃はない。保険と光熱費と借入の返済と税金を並べると、その額だった。二ヶ月止めても三百二十万円で済む。これは持ちこたえられる。私はその計算を三回やり直して、同じ答えが出るのを確かめた。持ちこたえられるのと、また開けられるのは別の話だ。板場に人がいない。一人もいない。
この町で日本料理の板長を探して、すぐに来てもらえるほど世の中は甘くない。板場の人を探すことは、休業を決める前にやった。最初に電話したのは県内の料理人を紹介している会社だ。「日本料理の板長経験二十年以上、月給五十万円から」と条件を伝えると、担当の人は一呼吸置いてからこう言った。「篠原さん、この規模の板長さんは年に何人も動きません。早くて三ヶ月、普通は半年です」。次に父と付き合いのあった同業の店を三軒回った。どこも同じだった。「うちも人が足りん。年の暮れの前に人は出せんよ」。最後の一件で、主人がこう言った。「花の屋さんが十三人抜けたって話、もう聞いとる。この町は狭いんだ」その上でこう続けた。「明日から板を回すつもりなら、腕の落ちる人でも入れるしかない。うちならそうする」
私は礼を言って帰った。腕の落ちる人を入れて、板前のいない献立で四十六件の座敷を回す。それをやれば店は今月も開く。開いて、そして八十四年の名前が落ちる。父が三十年かけて村上さんと作ってきた仕入れの筋も一年で切れる。そこまで見てから、私は調理場で一人で決めていた。店を閉める。整うまで開けない。
決めてしまうと、不思議と手が動いた。仕入れ先には私が回った。裏上商店の調理場で、村上さんは腕を組んだまま話を聞いた。「しばらくうちからのご注文が止まります。四十年頂いてきて、こんなことになって申し訳ありません」「それはいい」。村上さんは湯呑みを置いた。「綾乃野さん、うちはな、花の屋さんに合わせて仕入れてきたんだ。四十年ずつだ。止まるのは構わん。ただまた始める時は、うちに行ってくれ。よそに取られたら承知せんぞ」。杉の手蔵の杉野さんにも同じことを言った。「掛けはそのままにしておきます。いつでも戻してください」。掛けというのは、その場で現金も払わずに月末にまとめて支払わせてもらう取引のことだ。信用のある店にしか許されない。私はその時、この人たちの言葉をただの厚意として聞いていた。
その夜、朝倉先生から電話が入った。顧問の税理士、朝倉絽子先生、五十二歳。父の代からうちの帳面を見てくれている。「篠原さん、お伝えしておきます。お父様は今年の四月に、会社の定款と役員をきちんと整理されています。あなたを役員に入れたのもその時です」「はい。私が戻ってすぐでした」。朝倉先生が書類をめくる音がした。「早すぎるくらいでした」。朝倉先生の声が少し低くなった。「あの時期にあそこまで整えられる方は珍しいんです。まるで、日を決めていらしたみたいに」
電話を切ってから、私は調理場の引き出しの鍵を開けた。父の大学ノートを出して、表紙に手を置いた。その頃の私にとって、それは辞めた人の名前が書いてある帳面だった。私は表紙を撫でただけで、また引き出しに戻して鍵をかけた。
十月十一日、花の屋の座敷に三人が集まった。私と顧問税理士の朝倉先生と、社会保険労務士の綾瀬先生だ。綾瀬先生、四十七歳。朝倉先生が同じ建物に事務所を構えている人を呼んでくれた。十三人が一度にやめた時にやることは、実は決まっている。「喪失は私が出します。籍があるからそこは動かせません」。「退職証票と今月分の給与の支払いもこちらで」。綾瀬先生が顔を上げた。「それと、これは先に申し上げておきます。御社に退職金の規定はございません。長くお務めの方がいらっしゃいますが、規定がない以上、支払いの義務は生じません。弔分をお出しになるかどうかは会社のご判断です」。父の代から、やめる人には板場から包んでいた。「では同じようになさるのがよろしいかと」。朝倉先生が電卓を置いた。「篠原さん、ここは感情を挟まないで行きましょう。やめた方が困らないように、規定通りに出す。それだけです」
私は頷いた。腹の中では正直思っていた。あの人たちの書類など後回しにしてやりたいと。けれど父はそういうことをしなかった人だ。それに、頭を下げて困るのは黒田さんではない。柚月君や仲居の子たちだ。「全部、規定通りにお願いします」。そこから二時間、私たちは十三人分の名前を一つずつ照合していった。入社の年月日、賃金日額、雇用保険の番号、最後の給与の日。
四人目の名前のところで、綾瀬先生の手が止まった。「篠原さん、この方、住所の変更が出ていますね」。綾瀬先生は書類を一枚抜いて机の上に置いた。「いつですか?」「九月です。届けが出ています」。四人目は板場の若い人だった。その後、二人同じように住所の変更が出ていた。三人とも、九月のうちに駅の向こう側へ移っている。新しい店の物件がある方だ。「先に住むところを移してから、やめていることになりますね」。綾瀬先生は事務的にそう言った。咎めるでも驚くでもない。書類にそう書いてあるというだけの言い方だった。
私は座敷の畳を見ていた。先月のうちに、この三人は次の場所を決めていた。私が父の弔い合戦の合間に十月の献立を組んでいた頃、この人たちはもう荷物を運んでいたことになる。
「篠原さん、これは私の仕事の外の話ですが」「はい」。朝倉先生は湯呑みに手を伸ばして、飲まずに戻した。「一度に十三人がやめる会社は、私も二十年で三つしか見ていません。三つとも、やめる側に段取りをする人がいました。封筒も期日も、誰かが決めています。十三人がむやみに同じ日を選ぶことはありません」
昼を過ぎた頃、外から声がした。杉の手蔵の杉野さんだった。約束はしていない。営業部長の杉野さん、五十八歳。「篠原さん、お忙しいところすみません」。座敷に上がってもらうと、杉野さんは膝の上で手を組んだ。「言おうかどうか、三日迷いました」。私は座り直して先を促した。「何でしょう?」「九月の半ば、黒田さんがうちへ見えたんです」。私は背筋が伸びた。「注文の話かと思ったら、そうじゃなかった。仙代はもう長くない。花の屋は畳むことになる。だから自分が新しい店をやる。杉野さん、その時は今まで通り頼むと」
座敷が静かになった。朝倉先生も綾瀬先生も手を止めている。「九月の半ばですか?」「十六日です。うちの記録に残っています」。父が倒れたのは十月三日だ。その時、父は毎日ではないにしても板場に立っていた。年内の献立の相談を私としていた。畳むという話は、私もしずさんも聞いたことがない。「村上さんのところにも言っています」。杉野さんが続けた。「魚屋の寄り合いでそういう話が回っておりました。花の屋さんは畳む。板長が別に出すと」。私は湯呑みを持ったまま、しばらく動けなかった。噂は町を回っていた。父が倒れる前から回っていた。私だけがその輪の外にいた。
帰り際、玄関で杉野さんが振り返った。「うちは花の屋さんとの取引です。それだけはお伝えしておきます」
杉野さんが帰った後、私は駅前へ車を走らせた。黒田さんが抑えたという物件を、この目で見ておきたかった。駅前の商業ビルの一階だった。角の区画で、通りに面した窓が大きい。中を覗くと床が剥がされていて、天井から電気の線が垂れていた。内装をやり直す業者の看板が壁に立ててある。その看板に、着工の予定日と建物の管理会社の名前が入っていた。私はその場で管理会社に電話をかけた。「この区画はいつからのご契約でしょうか?花の屋という料亭のものですが、うちの元の板長が借りていると聞きまして」。先方は名前を確かめてから、事務的に答えた。「契約日は九月十二日になっております」
九月十二日。父が倒れるちょうど三週間前だ。私は電話を切って、剥がされた床をもう一度見た。その日の思いつきで十三人がやめたのではない。父の死はきっかけですらなかった。あの人はもっと前から出ていくつもりで、出ていく日を父が動けなくなる日に合わせただけだ。ビルの入り口に内装の作業の予定表が張ってあった。取りかかったのは九月二十九日になっている。父が倒れたのはその四日後だ。つまり、父が板場で倒れたその日、この床はもう剥がされていた。私は写真も撮らずに車へ戻った。撮る必要がない。私が知りたかったのは一点だけで、それはもう分かった。
帰り道、信号で止まるたびに手が震えた。悲しいのでも怖いのでもない。腹が立っていた。父の葬儀で頭を下げていたあの姿を思い出すと、震えが止まらなかった。
店へ戻ると、しずさんが玄関を拭いていた。休みの店の玄関でも、しずさんは毎日そうしていた。「しずさん、九月に黒田さんが杉野さんのところへ行っていました」「そうでしたか」。しずさんは雑巾を桶の縁にかけた。「しずさん、あの日車の中で言いかけたのは、このことですか?」。しずさんは長いこと黙っていた。それから玄関の框に腰を下ろした。「私が見ておりましたのは、もっと前からのことです」しずさんは膝の上で手を重ねた。「九月のことは知りません。ただ、この店で人がいなくなるたびに仙代が調理場で帳面をお書きになるのは、三十年見てまいりました」。しずさんの目が赤くなっていた。「わしが見とるから言わんでいいと。それを守ってきたのが正しかったのかどうか、私には分かりません」
私はしずさんの隣に座った。何と言えばいいのか分からなかった。父もしずさんも、同じ場所に三十年経っていた。
しずさんと別れて座敷へ上がると、朝倉先生がまだ残っていた。書類ではなく、私が渡した五年分の給与のデータを見ている。「篠原さん、手続きとは別に一つだけ申し上げます」。朝倉先生は眼鏡を外して机に置いた。「この五年、人の出入りが多すぎます」。朝倉先生は画面をこちらへ向けた。「うちが見ている飲食店の中でも飛び抜けています。十四人の店で五年に二十二人がやめている。普通ではありません」。二十二人。私は画面の数字を目でなぞった。「私は数字しか見ていませんから、理由は言えません」。朝倉先生は画面を閉じた。「ただ、数字がこれだけ揃う時は、大抵理由が一つです」
その夜、私は携帯電話に残っている番号を出した。柚月啓吾。三年前に入った子だ。最後に見た顔が、大広間の襖から振り返ったあの顔だった。呼び出しの画面まで出して、私は指を離した。今かければ、あの子は困るだけだ。板長について行くと決めた数日後に、女将から電話が来る。それがどれだけ厄介なことか、私にも分かる。私は画面を消して、代わりに調理場の名簿を開いた。この五年で辞めた人の名前を、上から順に書き写す。その作業を、その晩から始めた。名前は思っていたよりずっと多かった。
翌日から二日かけて、私としずさんは五年分の名簿を洗い直した。給与の記録、雇用保険の資格の取得と喪失、それにしずさんが調理場でつけてきた出勤の控え。三つを突き合わせると、この五年で花の屋に入った人とやめた人が全部並んだ。二十二人。朝倉先生の言った通りの数だった。私は模造紙を座敷の畳に広げて、名前と入った月とやめた月と役を書いていった。書き上げた紙の前に立った時、私はしばらく動けなかった。やめているのは下の役の人ばかりではなかった。向こう板が三人、焼き方が二人、追い回しが七人、仲居が七人、洗い場が二人、それに副板長が一人。合わせて二十二人になる。副板長の欄には、沢谷直樹と書いてあった。五年前の九月に辞めている。四十二歳。私が高校生の頃に花の屋へ入った人だ。父が「あれは腕がいい」と言った数少ない一人だった。
「しずさん、沢谷さんはどうしてやめたんですか?」
「板長さんと板場で言い合いになりまして」。しずさんが模造紙の端を抑えた。「何の言い合いですか?」「お椀のことです。沢さんが自分で組んだ椀について、板長さんが『これは俺の真似だ』と」。しずさんは行の名前を目で追っていた。「その後、三ヶ月、沢さんは板場に立たせてもらえませんでした」
私は膝をついて、紙の上の名前を指で辿った。評判の良かった仲居が二人いる。指名でお客がついていた人だ。「次の板長になる」と父が言っていた人が、やめた人の中にいる。一人ずつ見ていけば、それぞれに事情があるように見える。実家に帰った人もいれば、体を悪くした人もいる。けれど紙一枚に並べると、全く違う形が出てくる。残っているのは黒田さんと、黒田さんに従う人だけだった。
「しずさん、この五年より前はどうでしたか?」
「仙代が板に立っていらした頃は、そんなにやめませんでした」。しずさんは指を折った。「板長さんが仕入れまで見るようになったのが、ちょうど五年前です。仙代が膝を悪くされて、朝の市場へ行けなくなった年でした」
私は模造紙の左端に「五年前」と書いた。父が板場から半歩下がった年から、人が抜け始めている。線が一本はっきり引けた。
その晩、私は調理場の引き出しを開けた。父の大学ノートを開いた。表紙をめくるのはこれが最初だった。一ページ目の日付は三十年前だった。父が三代目になった年だ。帳面は三つの欄に分かれていた。左に日付、真ん中に名前、右に一言。左と真ん中は満濃で、右の欄だけが鉛筆で書いてある。父はここに、人が入った日と辞めた日を一つずつ書いていた。入った日の行には「木嶋常三、十九歳」とある。やめた日の行には「木嶋常三」とだけある。そういう並びだ。私は右の欄を見た。鉛筆の字は細かくて、擦れているところがある。読もうと思えば読めた。読まなかった。その時私が欲しかったのは名前だけだったからだ。やめた人の名前とやめた月と、その人が今どこにいるか。それが分かれば電話をかけられる。右の欄は、明かりの下で腰を据えて読むものだと思った。私はノートから名前だけを拾って、また閉じた。模造紙に並べた二十二人の名前は、一つ残らずノートの中にあった。
同じ頃、駅前の方の話も耳に入ってきた。商店会の人が教えてくれた。黒田さんは新しい店の準備を進めていて、看板の意匠まで決まっているらしい。「花の屋の元の板長の店だと聞いて、通りの人は皆、それは繁盛するだろうと言っているそうだ。篠原さんとは気の毒だがあの板長さんが出すなら、そりゃ流行るわな」。私はその言葉に頷いて聞いていた。反論する材料がまだ何もなかった。
十月十四日から、私は電話をかけ始めた。最初は今井はつさん。七十二歳。四年前まで二十年、花の屋で皿を洗ってくれた人だ。「花の屋の綾乃野です」「まあ、綾乃野さん。仕事のことをうちの人と話しとったのよ」。今井さんの声は変わっていなかった。私は父のことを詫びて、それから店の話をした。しばらく休んでいること。人を集め直していること。「今井さん、よかったらまた花の屋に来ていただけませんか?」。電話の向こうが沈黙した。「板長さんは、黒田さんですか?」。じきの向こうで今井さんが何度か息を吸った。「私はね、綾乃野さん、花の屋は好きなの。仙代にもよくしてもらった。でも、あそこにはもう行かれん」「どうしてですか?」。今井さんは言い渋っていた。私が待っていると、小さな声で言った。「ばあさんは手が遅いって。板場の若い子の前で毎日ね」。私は受話器を握り直した。「私は手が遅いのよ。それは本当だから、言われても仕方ないと思っとった。ただ四年前にね、若い子がその真似をするようになったの。板長さんが言うから、みんな言うようになった」「今井さん」。今井さんの声が湿った。「あの人がおるなら、行かれんの。ごめんね」。私は謝って電話を切った。しばらく、じきに手を置いたまま座っていた。
翌日、私は元仲居の岸本さんにかけた。三十九歳。二年前に辞めている。「板長さんが座敷の並びまで決めるようになって」。岸本さんはそう言った。「お客様の好みはこっちが分かってるんです。それに口を出すなと言われて、何度か言い返したら、次の月から私だけ座敷を外されました」
その次に、元焼き方の葛西淳さんにかけた。三十四歳。三年前だ。「篠原さん、今、花の屋って板長は黒田さんのことですね。今もお聞きになりますか?」。葛西さんは短く笑った。「そりゃ聞きますよ」。葛西さんの声は硬かった。「俺、あの人に三年。お前の焼き物は素人以下だって言われ続けたんです。今でも夢に見ますから」
四人目は、二年前まで向こう板だった二十九歳の人だった。今は市街の活魚店にいる。「花の屋の名前は履歴書に書いてません」と言われて、私は言葉が続かなかった。「書くと、あの店で何年やったのにこの程度かって言われるんです。板長さんの名前が通ってる分、やめた人間には逆に重いんですよ」。そんな風に。じきの向こうで鍋を洗う音がしていた。仕込みの合間に出てくれたのだと分かった。「篠原さんはご存知ないでしょ。板場に立つ人間は、どこの店で何年って見られますから」。その人は無遠慮にそう言った。私にその実感がないのは事実だった。私は座敷の数字は分かる。板場の人がどう見られて生きているのかは、分かっていなかった。
私は四人に共通するものを紙に書き出した。理由はそれぞれ違う。手が遅い。口を出した。腕が足りない。出てくる名前だけが、いつも同じだった。四日で私は十一人と話をした。十一人のうち九人が、聞いてもいないのに黒田さんの名前を出した。残りの二人は名前を出さずに、「板場のことはちょっと」とだけ言った。私は電話を切るたびに、同じ質問を自分にしていた。父はこれを知っていたのか。見ていなかったのなら、あの右の欄には何が書いてあるのか。知っていたのなら、なぜ三十年、黒田さんを板場に置き続けたのか。私はまだその答えを持っていなかった。十一人のうち、その電話で戻ると言ってくれた人は一人もいなかった。それでも十一人が十一人とも、電話を切る前に同じことを言った。仙代にはよくしてもらいました。花の屋のことは今でも好きです。その二つを言ってから、みんな「行かれません」と続けるのだ。好きな店に戻れない理由が、一人の人間の名前だった。私は模造紙の前に座って、その意味を考えた。黒田さんは花の屋を支えていたのではない。支えるかもしれなかった人を、二十二人分この店から追い出していた。そう思った時、私の中で一つだけ順番がひっくり返った。板場に人がいないのは、黒田さんが出ていったからではない。黒田さんがいたから、この五年ずっと人がいなかったのだ。
模造紙の右の端に、私は一つだけ丸をつけていない名前を残していた。沢谷直樹。副板長までいった人で、辞めた理由が一番はっきりしている人だ。かける相手として一番筋が通っている。同時に、一番断られそうな相手でもあった。私は二日、その名前を見ていた。
十月十八日の朝、私は電話帳のページを開いた。沢谷直樹さんは、隣の市のホテルにいた。日本料理の部門の副料理長をしていると、しずさんが年賀状で知っていた。私は昼の休みの時間を選んで、携帯電話にかけた。「花の屋の篠原綾乃野と申します。仙代の娘です」「はい」。声が硬くなったのが分かった。「父が今月の初めに亡くなりました」「存じております。伺えず申し訳ありませんでした」。私は要件を先に言った。「回りくどく話しても仕方がない。沢さん、花の屋をもう一度手伝っていただけませんか?」。返事まで五秒ほどあった。「申し訳ないですが、それは無理です」「理由を伺ってもいいですか?」。沢さんの気配が変わった。「黒田さんがいる限り、僕はあの板には立てません」。言い方は丁寧だった。丁寧な分、動かない返事だった。
私は受話器を持ち替えた。もう隠す意味はなかった。十一人の話を聞いた後では、これは条件ではなく先に置くべき事実だった。「黒田さんなら、もういません」。沈黙が落ちた。車の音も、ホテルの厨房の音も、何も聞こえなくなった。「十日前にやめられました。板場と座敷の十三人で、駅前に新しいお店を出されます」。沢谷さんが何かを置く音がした。「十三人」「はい。花の屋に残っているのは、調理場の谷口さんと私だけです」。沢さんはしばらく何も言わなかった。「篠原さん、それは本当ですか?」「本当です」。沢さんの声がそれきり途切れた。「すみません、ちょっと時間をください」
その日の夜、沢さんの方から電話が来た。「明日、伺ってもいいですか?」
翌日の午後、沢谷さんは背の高い姿勢で花の屋の玄関に立っていた。五年ぶりに見る顔は、記憶より痩せていた。四十二歳、私より六つ上になる。座敷に上がってもらう前に、沢谷さんは板場を見せてくれと言った。火の落ちた竈と、伏せた鍋と、空の包丁差し。沢さんはその前に立って、しばらく動かなかった。「仙代は、ここで倒れられたんですね」「はい」。沢さんは伏せてある鍋の縁を指でなぞった。「僕はね、篠原さん」。沢さんは板場の壁に張ってある紙を見ていた。父が最後に書いた献立の下書きだ。「やめてから五年、年に一度会ってました」「その話は聞いたことがありませんでした」「毎年のです。花の屋には来られませんから、川向こうの蕎麦屋で仙代がお呼びになるんです」「父は何を?」。沢谷さんは板場の窓の方を向いた。「何も。天気の話と、僕の店の話を聞いて、うまいものを食えとだけ」。沢谷さんは紙から目を離した。「一度だけ、こう言われました。直樹、お前の椀はうちの椀だと」。私は父の字を見た。「あれは僕の椀じゃないと言われてやめた男に、五年かけて『あれはうちの椀だ』と言いに来られたわけです。年に一度ずつ、蕎麦を食いながら」。沢谷さんの声が途中で止まった。
私たちはそれから座敷で三時間話した。私は隠さずに全部話した。休業していること。十三人が抜けたこと。十二月までの予約を全部お断りしたこと。手元の運転資金と、月にかかる費用。再開の見通しが立っていないこと。「正直に申し上げます。今の花の屋は、あなたに来ていただける状態ではありません」「知ってて呼んだんでしょ」。沢さんが笑った。沢さんが背筋を伸ばした。「条件を伺います」「板長としてお願いします。花の屋の板場は沢さんにお預けします。月に五十二万。献立は沢さんが組んでください。私は口を出しません。ただお客様とお約束したことだけは、私に守らせてください」。沢谷さんは手帳を出して数字を書き取った。「休みを週に一日と、月に一度の連休を必ず取ってください。それを守れる人数になるまで、座敷は八室のうち個室しか開けません」。沢谷さんが顔を上げた。「個室?」「はい。人が足りない状態で八室を開ければ、また同じことになります」。沢谷さんは長いこと湯呑みを見ていた。「篠原さん、ホテルの副料理長の給料は四十六万円です。役職もついています。花の屋は、明日潰れるかもしれない店です」「その通りです」。沢谷さんは湯呑みを畳に置いた。「それでも来ます」。沢谷さんは畳に手をついた。「仙代にまだ返していませんから」
十月二十日、私は室井組さんに会いに行った。元の仲居頭、四十八歳。三年前に辞めて、今は駅前のビジネスホテルで働いている。私が中学生の頃から花の屋にいた人で、私に着物の畳み方を教えてくれた人だ。喫茶店で向かい合うと、室井さんはいきなり言った。「綾乃ちゃん、あんた痩せたわね」。「室井さん」「板長さんたち十三人が出ていったって、この街中に広まってるわよ」。私は要件を言った。仲居頭として戻ってきてほしい。座敷の采配は室井さんに任せる。給料と休みはこう考えている。室井さんは私の話を最後まで聞いて、それから紙ナプキンを一枚取った。「私がやめた時ね、板長さんはこう言ったの。座敷は板場の下だって」。室井さんはコーヒーに口をつけた。「仙代はそんなこと一度も言わなかった。だから私は、板長さんの言葉が花の屋の言葉になるのが嫌だったの」。室井さんは紙ナプキンを畳んだ。「綾乃ちゃん、あんたは座敷を板場の下に置く?」「置きません」。室井さんが畳んだ紙を私の方へ押した。「なら、いいわ」。それだけだった。
室井さんに会った次の日から、私は今井はつさん、葛西さん、岸本さんと順に会った。全員をその場で取るようなことはしなかった。役と日数と給料と、いつから来られるかを一人ずつ詰めていった。今井さんは週に四日でお願いしますと言った。葛西さんは今の店の引き継ぎに一ヶ月かかると言った。今井さんは電話では行かれないと言った人だ。会って、黒田さんがもういないことをもう一度伝えると、しばらく黙ってからこう言った。「綾乃さん、私、七十二よ」「知っています」「今井さんは湯呑みを両手で包んだ。手はやっぱり遅いのよ」「今井さんの洗い方が丁寧だから、うちの器は四十年持ったと父が言っていました」。今井さんは前掛けの端で目を抑えた。
葛西さんとは、今の店の休みの日に会った。焼き方に戻ってもらう話をすると、彼は要件の紙を最後まで読んでから顔を上げた。「板長は沢さんですか?」「はい」。葛西さんが紙を畳んだ。「なら、やらせてください。沢さんの下でなら、俺はまだ伸びます」
岸本さんは、子供の学校の時間があるので夜の遅い日は入れないと言った。私はそれで組み直しましょうと答えた。座敷の個室なら組める。八室だったら組めなかった。私は手帳に、その一人ずつの条件を書いていった。板場に人の名前が戻ってくる。一日に一つずつだ。
再開の日を決めたのは、その手帳のページが半分埋まった晩だった。十二月八日。沢谷さんの引き継ぎと葛西さんの一ヶ月と、器と仕入れの手配、全部を足して一番早くて十二月の頭になる。忘年会の季節にぎりぎり間に合う。私は元橋会長に電話を入れた。「十二月に花の屋を開けます」「そうか」。元橋会長は電話の向こうで誰かに何か言っていた。「その日は開けとくよ。うちの部長連中も連れていく」「まだ個室しか開けられません」。元橋会長が受話器の向こうで笑った。「一室あればいい」
電話を切った後、私は台帳の十二月八日の欄に「元橋建設様」と書いた。休業してから台帳に書き込む、最初の予約だった。
その同じ頃、駅前では別の集まりが持たれていた。居酒屋の座敷にいたのは、黒田さんを入れて十三人だった。そこで黒田さんはこう言ったのだという。「来月の頭には今度の店を開ける。花の屋の客は全部こっちに来る。給料も今まで通りだ。心配するな」。拍手が起きたそうだ。
十月二十五日の昼、花の屋の座敷に村上さんと杉野さんが来ていた。再開の相談だった。十二月八日に開けること。まずは個室だけで回すこと。魚は前と同じに届けてもらいたいこと。私が紙に書いた予定を、村上さんが老眼鏡越しに読んでいた。「十二月八日か。忘年会にぎりぎり間に合うな」「はい」。村上さんは紙の日付を指で抑えた。「よし。うちは十二月一日から入れる。仕込みの分がいるだろう」。杉野さんも手帳を出した。
そこへ、玄関で音がした。「ごめんください」。声で分かった。黒田さんが立っていた。後ろに藤堂さんがいる。二人とも白い割烹着ではなく私服だった。「板場に俺のものが少し残ってましてね」。黒田さんは靴を脱いで上がってきた。断りを持たない上がり方だった。私は座敷の襖を閉めようとしたが、閉める前に黒田さんが中を覗いた。「やあ、村上さんと杉野さんも」。村上さんが黙って会釈をした。黒田さんは笑っていて、廊下から板場へ入っていった。私は後ろに着いていった。板場で黒田さんは竈の前に立った。「火が落ちてるな。何日になる?」「十七日です」。黒田さんは竈の縁を指でこすった。「十七日か」。黒田さんは伏せた鍋を一つ持ち上げて、また戻した。「女将さん、これ、この先どうするつもりです?板場ってのはね、毎日火を入れてないと死ぬんですよ。壁も、匂いも抜ける。抜けたら戻らない」。私は何も言わなかった。黒田さんは戸棚から古い鍋つかみと布巾を二つ取って、袋に入れた。それだけが、この人が残していったものだった。
そこを出る時、黒田さんはしずさんのいる調理場の前で足を止めた。しずさんが立ち上がって頭を下げた。三十年同じ店にいた人だ。「谷口さん、あんたもやめときゃよかったな」。しずさんは腰を折ったまま動かなかった。「その年で沈む船に残っても、退職金が減るだけだよ」「板長さん」。しずさんが顔を上げた。「私は仙代に、この調理場を頼むと言われております」。黒田さんは鼻で笑った。「その仙代はもういないんだ」。しずさんは何も返さなかった。私は調理場の入り口に立ったまま、しずさんの背中を見ていた。
座敷の前を通る時、黒田さんはわざわざ足を止めた。襖は開いたままだ。村上さんも杉野さんもこちらを見ている。「村上さん、年明けにうちの店に来てくださいよ」「はあ」。村上さんは湯呑みを畳に置いた。「駅前です。十一月の頭には開けます。花の屋の板を三十二年やった。俺の店だ」。黒田さんは割烹着の袖に手をかけた。「東京の会社が金を出してくれるんです。四千五百万。あちらさんは俺の腕と客につけてくれた金です」。杉野さんが手帳を閉じる音がした。「村上さん、悪いことは言わない。うちに着いた方がいい」。黒田さんは私の方へ顎を向けた。「こんな素人の道楽に付き合わされて、あんたのところの魚が腐るだけだ」
座敷が静かになった。私は襖の横に立ったまま、黒田さんの後ろ姿を見ていた。「この通りの客はね、全部俺の客なんですよ」。黒田さんは指で座敷をさした。「あの目の前に座った社長連中の顔は、俺が全部覚えてる。名前も、酒の好みも、家族の話も。あの人らが見に来てたのは、花の看板じゃない。俺の腕だ」
そこで藤堂さんが口を挟んだ。「女将さん」。藤堂さんは廊下から座敷の中を見ていた。「包丁も握ったことのない人が、料理屋の看板を継ぐってのが、そもそも無理な話だったんですよ。仙代もそう思ってたと思いますがね」。藤堂さんはそこで一度、廊下の柱に手をかけた。「俺は三十一年、この板場に立ちました。あんたの親父さんに味方を任されて五年です。だから言うんですがね。仙代は最後まで、板場の話をあんたにしなかったでしょう」「していません」。藤堂さんが小さく息を吐いた。「そういうことですよ」。藤堂さんは肩を竦めた。「板場のことが分からん人間に、板の話はしない。それだけの話です」
私はその言葉を聞いて、奥歯を噛んだ。父がどう思ってたかは、この人が決めることではない。「藤堂さん」。私は一歩だけ前に出た。「父が何を思っていたかは、父しか知りません」「そりゃそうですがね」。私は藤堂さんの目を見た。「あなたも私も知りません」。藤堂さんが目をそらした。黒田さんが手を叩いて笑った。「いいね。言うようになった」。私は玄関の方へ体を向けた。「黒田さん、何です?」。私は下駄箱の向きを直した。「板場のものはもうありませんね。玄関はこちらです」。黒田さんは私の顔をしばらく見て、それから袋を持ち直した。「女将さん、俺はね、冗談で言ってるんじゃないんですよ」。玄関で靴を履きながら、黒田さんは言った。「あんたはよくやってる。ホテルの仕事はできる人だ。ただ料理屋ってのは違う。ここは板場が全部なんだ。板場がない料理屋は、ただの座敷だ」「そうかもしれません」。黒田さんは靴べらを下駄箱へ戻した。「素直でよろしい」。黒田さんは戸を開けて、そこで振り返った。「一ヶ月もしないうちに、あんたはこの建物を売る相談をすることになる。そうなったら、うちに行ってくれれば口を聞きますよ」。戸が閉まった。藤堂さんの足音が続いて、二人の気配が門の外へ消えた。
その日の夜のことを先に書いておく。沢谷さんから電話が来た。要件は器の手配のことだった。話が終わりかけたところで、私はつい昼のことを口に出してしまった。「今日、黒田さんが店に来ました」。沢谷さんはしばらく黙っていた。「何か言われましたか?」「板場のない料理屋はただの座敷だと」。じきの向こうで水を止める音がした。「篠原さん」。沢谷さんの声が電話の向こうで低くなった。「その人の言うことは、半分は当たってます。板場のない料理屋は、ただの座敷です」「はい」。沢谷さんは一度言葉を置いた。「ただ、板場だけの料理屋も、この世にはありません。誰が客を取って、誰が座敷を整えて、誰が金を回すか。あの人はそれを一度も考えに入れたことがない」。私は受話器を持ち直した。「十二月八日には、板場に火を入れます。それまで、こらえてください」
話は昼に戻る。黒田さんが出ていった後の座敷で、村上さんが湯呑みを両手で持ったまま下を向いていた。「聞かせてしまってすみません」。私は村上さんの前に座り直して頭を下げた。村上さんは顔を上げなかった。杉野さんが先に口を開いた。「篠原さん、四千五百万とおっしゃいましたね」「はい」。杉野さんは指で膝を叩いた。「新しい店でその額が出るとしたら、相当な規模ですよ」「そうですか」。杉野さんは声を落とした。「うちも新規の店には卸しません。保証金をいただきます。それはどこの店でも同じです」。杉野さんはそこまで言って、それ以上は言わなかった。
村上さんは帰り際、玄関で靴を履いてから私の方へ向き直った。「綾乃野さん」。私は驚いて「やめてください」と言うと、村上さんは頭を上げてこう言った。「わしはな、さっきの話を聞いて腹が立った」。それだけ言って、村上さんは帰って行った。
私は玄関に立って、川の方を見ていた。悔しさは後から来る。人前で言われている間は、頭のどこかが冷たくなっていて、何も感じない。玄関の柱に手を置いた頃になって、ようやく手が震え始めた。「一ヶ月もしないうちに建物を売る相談をする」。その言葉が耳から離れなかった。一つだけはっきりしていることがあった。私はあの場で言い返せなかったのではない。言い返す材料を持っていなかったのだ。黒田さんの言うことは半分は正しい。板場のない料理屋は、ただの座敷だ。火を入れない板場は死ぬ。三十二年その板場に立っていた人の言葉には、重みがある。私が持っているのは、二十二人の名前を書いた模造紙一枚と、まだ来ていない五人の約束だけだ。それを人前で広げて見せるようなことは、私にはできなかった。広げたところで、あの人には通じない。この人は自分が花の屋だと思っている。三十二年、本気でそう思ってきたのだ。だから私は十二月八日まで黙っていることにした。言い返さないのは負けたからではない。開ける日まで、こちらの手の内を一枚も見せないと決めたからだ。
玄関の柱から手を離して、私は板場へ行った。壁の父の献立の紙が、風でめくれかけていた。私は画鋲をもう一つ足した。調理場へ戻って電卓を叩いた。二千三百万円から、その月に出ていく百六十万円を引く。次の月も引く。数字は減っていく。減り方は分かっている。分かっていても、あの言葉が当たるのかどうかは私には分からなかった。
十一月に入ってから、駅前の話がこちらへ流れてくるようになった。最初に教えてくれたのは元橋会長だった。十一月三日、私が再開の挨拶に伺うと、元橋会長は社長室で笑っていた。「黒田さんから電話が来たよ」「うちの元の板長ですね」。元橋会長は膝掛けに手を置いた。「新しい店を出すから是非使ってくれと。開店は十日だそうだ」。元橋会長は湯呑みを回した。「私はね、こう言ったんだ。黒田さん、あんたの腕はうまい。それは本当だ。ただうちが花の屋を使ってきたのは、あんたの腕を食いに行ってたからじゃない」。会長。元橋会長は指を一本ずつ立てていった。「うちは絶対に使うんだ。取引先を通す道と、玄関と、部屋の飾りと、女将さんの挨拶と、あの座敷の八十四年。全部込みでうちの昼に見せてるんだよ。料理はそのうちの一つだ」。私は返事ができなかった。「そう言ったらね、黒田さんは黙ってしまった」。元橋会長は湯呑みを置いた。「多分、考えたこともなかったんだろう」
黒田さんは覚えている限りの常連へ電話をかけていったらしい。けれど、かけられる先が思ったより少なかったのだと後で分かった。花の屋の予約台帳とお客の控えは、会社の帳にある。会社の資産だ。持ち出すことはできない。黒田さんが持っていたのは、自分の頭の中にある顔と名前だけだった。料理屋の常連というのは、大抵会社の名前で予約が入る。担当の課長が変われば、電話をかけてくるのは別の人になる。花の屋の調理場には、その引き継ぎが二十年分残っている。黒田さんの頭の中には、板場から見た顔しか残っていない。実際にかけた先で、こう言われたそうだ。「黒田さんの店だから通っていたわけじゃないんですよ。花の屋さんだから、うちは使ってきたんです」。同じことを三件でも四件でも言われれば、さすがに堪える。死の淵の関係の人が、私にこう言った。「板長さんね、最初は勢いが良かったんだが、先週あたりから花の屋の名前を出すようになったよ」。私は看板のことを聞いた。その人は首を振った。「かかっておらんよ。屋号も、あんたの親父さんの名前もな。あの店はまだ看板を上げるときに言っとらんのだ」
私はその場ではそれ以上聞かなかった。ただ家に帰ってから朝倉先生に電話をかけて、うちの屋号を勝手に使われた場合にどうすればいいかを聞いた。朝倉先生は、「まず事実を確かめてから」と言った。
十一月五日、村上さんが店に来た。座敷に上がるなり、村上さんは湯呑みも持たずに話し始めた。「綾乃野さん、昨日、黒田さんがうちへ来た」「注文の話ですか?」。村上さんは膝の上で拳を作っていた。「十日から入れてくれと。魚は今まで通りので頼むと言うんだ。掛けだ。一ヶ月分をまとめて月末に払う。魚屋にとっては、こちらの支払いを一ヶ月待つということになる。わしは断った」。村上さんは膝の上で手を組んだ。「花の屋さんだから、うちは卸してきたんだ。八十四年の店で、先代からの取引で、決算書も見せてもらってる。うちが信用してるのは、その店だ」「黒田さんはなんと」。村上さんの眉が動いた。「俺とは三十年の付き合いだろうと」。村上さんはそこで首を振った。「わしは言ったよ。黒田さん、わしとあんたの付き合いは三十年だ。それは間違いない。ただ、わしが取引しとったのは、あんたじゃなくて花の屋さんなんだと」
私はその言葉を、しばらく頭の中で繰り返していた。三十年同じ人と魚の話をしてきた。それでも取引は人ではなく店についてくる。当たり前のことだ。当たり前のことなのに、黒田さんは今まで考えずに済んでいた。新しい店なら、新規の取引になる。うちの決まりでは、初めの半年は現金でお願いしとる。保証金もいただく。「怒られませんでしたか?」。村上さんは天井を見た。「怒られた」。村上さんは苦笑いをした。「店の前で大きな声を出された。あんたも花の屋の女将に丸め込まれたのかと」。すみません。村上さんは手のひらをこちらへ向けた。「綾乃野さん、あんたが謝ることじゃない」。村上さんは湯呑みを持ち上げて一口飲んだ。「わしはな、あの時、あの人は魚の値段を知らんのだと思った」「値段?」。村上さんは湯呑みを畳に戻した。「三十年、うちの魚を使ってきた人だ。魚の目利きは大したもんだよ。ただ、いくらで仕入れて、いつ払うかは、ずっと帳場が決めてきた。先代と谷口さんがな」
村上さんが帰った後、私は調理場のしずさんを見た。しずさんはいつものように伝票を揃えていた。
同じ日の夕方、私は調理場で予約台帳を開いてみた。黒田さんが持っていったものと、この店に残っているものの違いは、自分の目で確かめておきたかった。十一月十四日、元橋建設様、十二名。二階の松の間。担当は総務部の長井様。前回は九月十八日。お車三台。長井様は貝が苦手。そういう行が二十年分並んでいる。書いたのはしずさんと、その前は父だ。座敷に上がった方の好き嫌いは、その日のうちに仲居が帳簿へ伝えて、しずさんが書き足す。それが花の屋のやり方だった。誰が課長で、誰が部長になって、誰が定年でやめたか。その引き継ぎまで、この台帳が覚えている。黒田さんの頭の中には、この二十年分の行がない。
「しずさん、この台帳、いつからですか?」
「先代からです」。字が変わっているところが、代わり目です。私はページをめくった。万年筆の字が、三つの筆跡に変わっていく。店というのは、こういうものでできている。私はその時そう思った。
杉の手蔵も同じだった。杉野さんが電話で教えてくれた。黒田さんが新しい店の酒を頼みに来たが、新規の取引なので保証と前払いをお願いしたと。「そうしましたら、うちが花の屋さんの肩を持っているとおっしゃいまして」。杉野さんは困った顔をしていた。「篠原さん、私どもはどちらの肩も持ちません。ただ、決まりが決まっているだけです」。その言葉の通りだと思った。誰も黒田さんに意地悪をしていない。仕返しをした人もいない。花の屋の名前で四十年、三十年年と積んできたものが、黒田さんの名前にはついていかなかった。それだけのことだ。私はその頃、ようやく父の口癖の意味が分かりかけて いた。店を守っとるのは、一人の料理人じゃない。父はその続きを言わなかった。言わなくても、村上さんや杉野さんや元橋会長が、勝手に続きを言ってくれる。
十一月七日頃から、駅前の様子が変わってきたらしい。柚月君と同じ板場にいた人が、実家の人に話したのが商店街まで回ってきた。新しい店の開店が十日から伸びた。理由は誰にも説明されていない。給料の話も出ていない。十三人は十月八日付けで花の屋を辞めているから、入ったのは割りの八日分だけで、十一月はまだ一円も入っていないことになる。「板長さんがもう少し待てと言うばかりでね」。そう話していたそうだ。私はその話を聞いても、ざまあみろとは思わなかった。柚月君の顔が浮かんだからだ。あの子はまだ二十六歳で、板場の一番下で、断れる立場ではなかった。
十一月八日、朝倉先生から電話があった。「先日、お父様が四月に役員を整理された件ですが」「はい」。朝倉先生の背後で、事務所の電話が鳴っていた。「御社も四月の二十日付けで入っています。何かご相談を受けていなかったか、司法書士の先生にも伺ってみました」。朝倉先生はそこで、言葉を選ぶような間を置いた。「先生はお父様から、こう言われたそうです。今年のうちに、娘の名前を入れておきたいと」。今年のうちに。私は受話器を持つ手に力を入れた。四月です。父はまだお元気でした。電話を切ってから、私は調理場の引き出しを見た。父は四月に私の名前を会社に入れた。私を呼び戻したのも同じ月だ。そして九月の半ばに、黒田さんは杉野さんのところで花の屋は畳むと言っていた。四月と九月の間に、何かがあった。私はそう思ったが、そこから先へは進めなかった。父はもういない。聞ける相手が、この世に一人もいなかった。
その頃、花の屋の調理場の電話が鳴った。受話器を取ると、聞いたことのない女性の声だった。「日の出フーズの者と申します。花の屋の代表の方はいらっしゃいますか?」。落ち着いた声だった。私が名乗ると、相手は用件を先に言った。「弊社は外食の店舗をいくつか運営しております。この度、御社の元の板長さんが出される新しいお店に出資を検討しております」「黒田さんですね」。次の人は、書類をめくったらしい音を立てた。「はい。それで、事実の確認をさせていただきたいことが三つございます」。私は調理場の椅子に座り直して、鉛筆を取った。次の人は、一つずつ番号をつけて読み上げた。
「一つ目。先方から頂いた計画書に、御社の系列店として開業するという記載がございます。これは事実でしょうか?」「事実ではありません」。私は自分の声が固くなるのが分かった。「花の屋は誰の系列店も持っておりません。屋号を使わせたこともありません」。次の人は書き取っているようだった。「承知しました。二つ目。花の屋の主要なお取引先については、そのまま引き継ぐ前提で数字が組まれております。魚と酒と器の、三者の名前が入っております」「うちの取引先です。うちが契約しています」。次の人の声の調子は変わらなかった。三つ目。「御社のお客様について、開業から三ヶ月で四割移すという前提がございます」。私は鉛筆を止めた。「四割」。次の人、「四割の根拠になる資料を、どなたかにお渡しになったことはありません」。私は台帳の上に手を置いた。「中には、お客様の会社の名前と、お担当の方の名前と、お好き嫌いと、前のご利用の日が書いてあります。二十年分です。うちの財産で、うちの責任です。どなたにもお見せしません。じぼさんにも、黒田さんにも、です」
次の人は頷いた。「では、伺い方を変えます。この記録の写しについて、退職された方がお持ちになっている可能性はありませんか」。次の人はこちらの目を見た。私は調理場の方を指した。「棚の鍵は二本だけです。父と、調理場の谷口です。父が亡くなってからは、私と谷口です。板場のものが調理場に入るのは伝票を取る時だけで、棚は開けません」。次の人はそこで初めて、長い息を吐いた。それからこう言った。「三ヶ月で四割という数字を、御社の側から示したことはありません」。「次の人は同じ調子で続けた。四割の根拠になる資料を、どなたかにお渡しになったことはありません」。私は台帳の上の手を離した。「次の人、うちのお客様が何件あるかは、私と谷口しか知りません。四割という数字は、うちの誰の口からも出ていません」
座敷が静かになった。「篠原さん、差し支えなければ、なぜそこまで言い切れるのかを伺いますか?」。次の人の聞き方は、攻める調子ではなかった。数字を確かめる人の聞き方だった。「うちの座敷は八室です。一日に受けられるのは、多い日で六件。ただ、まとまった人数のご宴会となると、年に二百件ほどです」。私は指を折った。「そのうち、会社のお名前で入るものが四割。あとはご法事とお顔合わせです。会社のお客様は、担当の方が変わっても、次の方が同じようにお使いになります。人ではなく部署でついているんです」。次の人が手帳に線を引いた。「なるほど。四割を移すというのは、その部署と抱き合わせで連れていくということです。それができるのは、会社に対してうちより先に何かを約束できる人だけです」。次の人が顔を上げた。「その方はいらっしゃいますか?」「いません」。私は湯呑みの縁を見ていた。「板場の人は座敷に上がりません。花の屋では、そう決まっていました」
次の人は手帳を閉じて、膝の上に置いた。「篠原さん、もう一つだけ、私の勝手な質問をさせてください」「どうぞ」。次の人は閉じた手帳を握ったままだった。「先方は、板場のことは板場の人間が決めるものだと、何度かおっしゃいました。私はその考え方を、職人の世界のものとして受け止めておりました」。私はその言葉を、二度頭の中で繰り返した。「父も、同じことを言っていました」「そうですか」。私は湯呑みを畳に戻した。「板のことは板の人が決めていい。父はそう言って、三十年、板場に口を出しませんでした」。私は膝の上で手を重ねた。「決めていいのは板場のことだけです。お客様も、仕入れ先も、屋号も、板場のものではありません。父はそれを分けていました。分けていたから、口を出さずにいられたんです」
次の人は、しばらく畳の一点を見ていた。「よく分かりました」
玄関で靴を履きながら、次の人は振り返った。「本日伺った内容は社に持ち帰ります。私の立場で申し上げられるのはここまでですが、見送りの方向で報告いたします」「そうですか」。次の人は、戸口で足を止めた。「篠原さん、最後に一つ。これは仕事の話ではありません」。次の人は鞄を持ち直した。「私は十年、この仕事をしています。人が抜けた会社をいくつも見てきました」。私は次の人の顔を見た。「抜けた後に残るものが何もない会社と、残るものがある会社があります。今日は、残るもののある方でした」。次の人は頭を下げて、川沿いの道を駅の方へ歩いていった。
見送って調理場へ戻ると、しずさんが伝票の手を止めて私を見た。「終わりました」「はい」。私はそう言って、調理場の引き出しの鍵を開けた。父の大学ノートを出した。今度は右の欄を読んだ。一ページ目は三十年前だ。若い人の名前が並び、右の欄に父の字で短い言葉が書いてある。「実家の店を継ぐ」「祝い」「体を悪くする」「見舞いは済ませた」「よそへ移る」「いい店だ」。そんな調子で、一つずつ違う。父はその人に、違う言葉を書いていた。私はページをめくり続けた。十年目あたりから、同じ三文字が出てくるようになった。「黒田君」。それだけだ。理由の欄に、その三文字しか書かれていないページがある。最初は一つ、次の年に一つ、その後に二年空いて、また一つ。五年前から、その三文字が続けて出てくるようになった。私は指で数えた。三十年で花の屋を出た人は四十一人。そのうち、右の欄に「黒田君」とだけ書いてある行が二十一。四十一人のうちの二十一人だ。半分より多い。
父は全部知っていた。知っていて、一つずつ、辞めた日に書き残していた。私はそこで手を止めて、しばらく動けなかった。私はしずさんを呼んだ。「しずさん、これを見てください」。しずさんは老眼鏡をかけて、ページを上から順に見た。二十一の行を全部見終わるまで、五分ほどかかった。「仙代は」。しずさんの声が震えていた。「仙代はこれをずっとおかきになっていたんですが、三十年です」。しずさんの指が、ページの上で止まった。「私は中を見たことがありませんでした」。しずさんはページの一つを指で抑えた。三年前の日付だ。名前の欄に「室井」と書いてある。右の欄は「黒田君」だった。「室井さんがやめた日、仙代は調理場から一時間、出てこられませんでした」。しずさんはそう言って、老眼鏡を外した。「その日、私はお茶をお持ちしました。仙代は帳面を閉じて、こうおっしゃいました。谷口さん、わしは今日、一番惜しいものを外へ出したと」
私は父の字を見ていた。父は知っていた。知っていて書いていた。書いて、それでも黒田さんを板場に置き続けた。なぜだと、いう言葉が腹の底から上がってきた。残りのページをめくると、最後に書かれた行が出てきた。日付は九月二十九日。父が板場で倒れる、四日前だった。最後のページには、これまでの行と違って、三行が書いてあった。一行目はいつもと同じ形だった。日付と名前と右の欄。九月二十九日、黒田誠司。右の欄には、こう書いてあった。「断る。二度目」。私はしずさんを見た。「二度目と書いてあります」「二度目」。しずさんが老眼鏡をかけ直した。「しずさん、父は黒田さんの何を断ったんですか?」。しずさんはページを覗き込んで、それから顔を上げた。「暖簾分けだと思います」。暖簾分けというのは、主人が認めて屋号の一部を分けることだ。花の屋の暖簾そのものを、板長に継がせることになる。認められては、その日から花の屋の内儀になる。仕入れも、客も、名前も、全部と分けてもらえる。「一度目はいつですか?」。私はページを戻した。八月十日の行に「黒田誠司」と書いてあった。右の欄は同じだ。「断る」。八月に一度断られて、九月にもう一度言いに来たんですね。「多分そうです」。しずさんは湯呑みを両手で包んだ。「八月のお盆過ぎに、板長さんが仙代の部屋に長いこと入っておられました。出てこられた時、板長さんの顔が真っ赤でした」
私は九月二十九日の行をもう一度見た。断る、二度目。その下に、二行目があった。字が、そこから小さくなっている。「腕はある。人が残らぬ」。私はその一行を、声に出して読んだ。「腕はある。人が残らぬ」。しずさんが息を吸う音がした。父は断った理由を書いていた。腕がないから断ったのではない。三十年見てきて、腕は認めていた。認めた上で、この人の下に人が残らないことが、断る理由だった。父はそのために、三十年、二十一の名前を書き続けていたのだ。あの帳面は思い出の記録ではなかった。断る時の根拠だった。
「しずさん、父はいつから、こう考えていたんでしょう?」
「私には分かりません」。しずさんは首を振った。「ただ、五年前に膝を悪くされてから、仙代は調理場にいらっしゃる時間が長くなりました。帳面を開いて、じっとしていらっしゃることが増えました」
私は三行目を見た。最後の行は、名前も日付もついていなかった。「綾乃を入れた。この帳面を継がせるためではない。この店がいらぬ店にするためだ」。私は畳に手をついた。四月に父が私を呼び戻して、会社に名前を入れた理由が、そこに書いてあった。父は板場を私に渡すつもりはなかった。板場は板場の人が決める。それは最後まで変えなかった。ただ、人がやめていく店の作りの方は、私に変えさせるつもりだったのだ。座敷と数字と人の采配。私がホテルで十二年やってきたのは、その三つだ。父は何も言わなかった。経営の方だけお前が見ろとしか言わなかった。言えなかったのだと思う。三十二年一緒にやってきた板長について、娘にあの人が問題だとは言えない。だから帳面を書いて金庫に入れて、しずさんに「わしが見取るから言わんでいい」と言い続けた。そして九月の終わりに二度目を断って、四日後に倒れた。黒田さんたち十三人が花の屋を出て行ったのは、その五日後だ。
私は帳面を閉じた。閉じてから、しばらく声が出なかった。
その日の夜、私は板場へ行って、火のない竈の前に立った。あの朝、私が引き止めなかった理由は、まだ誰にも言っていなかった。言葉になっていなかったからだ。今なら言える。私は半年の間、板場に入るたびに顔触れが変わるのを見ていた。名前を覚えた子が、次の月にいない。それでも若い子は続かないものだと、自分に言い聞かせていた。あの朝、泣いて引き止めれば、何人かは残ったと思う。残って、そしてまた一年後に、同じ数だけやめていった。父は三十年、それを見て二十一の名前を書いて、二度断った。私が泣いて止めたら、父が三十年書いたものが全部無駄になる。そう思ったから、私は「分かりました」としか言わなかったのだ。あの朝の私は、そこまで考えていたわけではない。ただ、体のどこかがそれを知っていた。父の帳面が金庫の中にある間、ずっと知っていたのだと思う。私は父の献立の紙の前で手を合わせた。
翌日、私は沢さんと室井さんに来てもらって、帳面のことを話した。沢さんは自分の名前が書いてあるページを見た。五年前の九月、沢谷直樹。右の欄は「黒田君」。沢さんは長いこと、その三文字を見ていた。「仙代は、僕が辞めた日に、これを書かれたんですね」「はい」。沢さんの指が、ページの端で止まった。「俺はね、篠原さん」。沢谷さんはページから目を離さなかった。「あの日、仙代に一言も言わずに出たんです。家には止められると思って、置き手紙だけ書いた。ずっとそれが心残りでした」「父は蕎麦屋であなたを呼び出していました」「蒼渡りさんが息を吐いた。五年、毎年です。蒼沢さんはページを閉じた。閉じてから、手のひらで表紙を抑えた。室井さんは自分の名前のところで、声を上げて泣いた。「仙代、何も言わなかったのよ。私がやめますって言った時。『そうか』とだけ」。室井さんは前掛けで顔を抑えた。「そうかと言って、それでこんなの書いてたの」。私もしずさんも、何も言わずに座っていた。調理場の壁の父の写真は、いつもの顔でこちらを見ていた。
十一月十二日、じぼさんから電話が来た。「社に持ち帰りまして、先方への出資は見送ることになりました。本日、先方にもお伝えしております」「そうですか」。次の人の声は、来た時と同じ調子だった。「篠原さん、こちらの理由は申し上げられませんが、御社が何かをなさった結果ではありません」「分かっています」。次の人が受話器を持ち直す音がした。「ご迷惑をおかけしました」。次の人はそれだけ言って切った。
電話を切ってから、私は調理場でしずさんに伝えた。「東京の会社は降りたそうです」。しずさんは伝票を揃える手を止めた。「そうですか」。それだけだった。ざまあみろとも、かわいそうとも言わなかった。私も言わなかった。言う代わりに、私たちは十二月八日の段取りの続きをした。器の数を数え直して、足りない小鉢を注文して、盆の水洗いに出して、座敷の個室の掃除の順番を決めた。やることは山のようにあった。黒田さんのことを考えている暇は、正直なところなかった。
その後、駅前で何が起きたかは、後から順に耳に入ってきた。黒田さんは九月十二日に物件を契約して、保証金と前の家賃で千二百万円を先に入れていた。自分の金だ。残りは日の出フーズの四千五百万円と、銀行の千二百万円。それに自己資金の残り三百万円で組む計画だった。銀行の方は、出資が決まってから実行される話だった。出資が消えると、銀行も動かない。七千二百万円の計画のうち、手元に残っているものは何もなく、先に入れた千二百万円は戻らない。内装の作業は途中で止まった。床が剥がされたままの区画の前は、一度だけ車で通った。
その週から、店を出た十三人の様子が変わった。新しい店はいつまでも開かない。十三人が出たのは十月八日付けだ。十一月の給料は、どこからも出ない。「板長、話が違いませんか?」。誰かがそう言ったらしい。「もう少し待て」。黒田さんはそう答えるばかりだったという。待てと言われて待っているうちに、黒田さんを除く十二人は自分たちで確かめ始めた。魚屋に断られていること。酒屋にも断られていること。花の屋の客が一軒も動いていないこと。東京の会社が降りたこと。常連も仕入れも全部ついてくると聞いて店を出た人たちが、そのどれも来ないと知るまでに一ヶ月かかった。最初に離れたのは、意外にも副板長の方だったという。藤堂さんが板場の連中を集めて、こう言ったそうだ。「俺は板長についていくと言った。金を出すとは言っていない」。藤堂さんはその週のうちに市街の活魚店の面接を受けに行き、決まったと聞いた。五十五歳の味方だ。腕がある人は、どこへでも行ける。残されたのは、行き先の当てのない若いものと仲居たちだった。
その頃、しずさんが調理場で予約台帳を開いて、鉛筆の跡を消していた。「綾乃野さん、十一月と十二月の保留ですが」「あの七つですか?」「板長さんに言われて、九月の終わりから止めておりました。あちらのお席に回すおつもりだったのだと思います」。七つとも、今はどこの店にも入っていない。九月の終わりに開けさせた席は、そのまま誰の店の売上にもならずに消えた。
日の出フーズが降りた翌日、十一月十三日の朝、私のスマートフォンが鳴った。画面に出た番号は、登録していないものだった。市内の局番で、番号の終わりの方に見覚えがあった。板場の壁に貼ってあった連絡先の表と同じ並びだ。私は画面を見て、そのまま置いた。呼び出しが切れて、また鳴った。その日は十一件だった。翌日は三十四件。その次の日は、一日で六十二件だった。三日で着信は百七件になった。留守番電話は途中から入れっぱなしにした。聞かないわけにはいかなかったからだ。会社としてやるべきことが残っているなら、そこに要件が入っている可能性がある。最初のうちは、こういう中身だった。黒田です。一度話をしたい。篠原さん、少し時間をもらえませんか。次の日から変わった。元橋さんに一言でいいから口を聞いてくれないか。あんたが言えば、あの人は聞く。村上さんに、うちも花の屋と同じ扱いにしてくれと言ってほしい。そして次の日には、もっとはっきりしていた。あの屋号を店に使わせてくれ。系列ということにしてくれればいい。それだけで、話が戻る。最後の方は、声が違ってた。悪かった。一回でいいから、電話に出てくれ。私は一件も出なかった。折り返しもしなかった。東京の会社が降りてまだ数日だった。あの人にとっては、崩れ始めてすぐに私の番号を押し始めたことになる。「この店も終わりだな」と言って出て行ってから、数えれば一ヶ月と一週間しか経っていない。
十一月十六日、私は朝倉先生と綾瀬先生に相談して、やることを分けた。会社としてやることは、全部やった。十三人の離職表は規定通りに出してある。源泉徴収票も送ってある。社会保険の資格喪失も済んでいる。十月分の給与は、やめた日の締めで全員に振り込んである。書類の再発行の依頼がくれば、それも会社として受ける。その上で、黒田さん個人からの電話には、会社として一通の書面を出した。本文は短かった。文面は綾瀬先生に一度見てもらってから、私が清書した。今後、黒田様個人とお話をすることはございません。花の屋の屋号、取引先、お客様に関するご依頼には一切応じられません。雇用に関するお手続きで必要なものがございましたら、書面でご連絡ください。本人が受け取ったかどうかも、私は確かめていない。内容証明の控えは調理場の引き出しに入れてある。書面を出したその日に、私は黒田さんの番号を着信拒否にした。しずさんが横で見ていた。「よろしいんですか?」「はい」。私は画面を閉じた。「会社のやることは済ませました。ここから先は、私の携帯電話です」
無視ではないと自分に言い訳するつもりはない。無視で良かった。ただ、無視していい相手と、無視してはいけない要件は別のものだ。要件は全部片付けた。あとは、鳴っていた分だけを、永遠に置いていくことにした。
その頃、駅前の話の続きも聞こえてきた。黒田さんの新しい店は開かなかった。内装の作業は止まったままで、途中まで入っていた設備の代金の支払いが滞っているという。物件の契約は生きているので、家賃だけが毎月出ていく。出資が消え、銀行が動かず、仕入れ先が掛けを断り、客が一軒も動かない。それが揃えば、店は開けようがない。商店会の人が、私にこう言った。「板長さん、この頃は誰とも口を聞かんそうだ」。私はその話に、何も返さなかった。返す言葉が思いつかなかった。ざまあみろと思わなかったといえば、嘘になる。あの日、板場の入り口で言われたことは、一時も忘れていない。それでも「いい気味だ」と口に出す気には、どうしてもなれなかった。あの人は三十二年、この店の板場に立っていた人だ。父の隣で、三十二年経っていた人だ。
十一月十八日から、別の電話が来るようになった。最初は柚月啓吾君だった。「女将さん、柚月です」。声が震えていた。私は座敷に上がってもらった。柚月君は畳に正座して、頭を畳につけた。「あの朝、僕は何も言わずに出ました。すみませんでした」。私は「顔をあげてください」と言った。柚月君はあげなかった。「板長に、残るなら業界で働けなくすると言われて。この町の店には全部話がいくと。僕、三年しかやってないので、それを言われたら」。柚月君。私は帳面を置いて、正面に座り直した。「一つだけ聞きます。あなたは、料理を続けたいですか?」。柚月君が顔を上げた。目が真っ赤だった。「続けたいです」「うちに戻れば、また一からです。今の板長は沢さんです。厳しい人ですよ」。柚月君は膝の上で手を握った。「沢さんの下でやりたいです」。私は手帳を開いて、条件を読み上げた。追い回しからやり直すこと。給料はいくらか。休みはいつか。今度は、やめた人の名前を私が書くことになると伝えた。柚月君は全部に「はい」と答えた。
戻りたいと言ってきたのは、全部で六人だった。そのうち二人は、あの朝、黒田さんのすぐ後ろに座っていた板場の者だった。一人は焼き方の沼田さん。五十二歳。座敷に上がるなり、こう言った。「女将さん、俺も板長に騙された口でね」。沼田さんの声は畳の上で崩した。「あの人の話を信じただけなんですよ。俺も被害者だ」。私は湯呑みを出さなかった。「沼田さん、あの朝、黒田さんが『そりゃ女将さんがなんとかするでしょう』とおっしゃいました」「はあ」。私は座敷の縁に手を置いた。「あの時、後ろで笑った方がいらっしゃいました」。沼田さんの顔が動いた。「うちは個室しか開けられません。人を選べる立場ではありません。それでも、お断りします。お引き取りください」。私は玄関まで見送って、深く頭を下げた。礼をしたのは、三十年うちで働いてくれたことに対してだ。それでも中には入れなかった。もう一人の板場の者にも、私は同じように「お引き取りください」とお願いした。六人のうち、残る四人は若い人と仲居だった。私は一人ずつ座敷で、一時間かけて話を聞いた。一人は、話しているうちに別の店から声がかかっていることを自分から言い、「そちらへ行きます」と言って帰っていった。残った三人を、迎えることにした。柚月啓吾君、追い回し。秋山良太君、二十四歳。仲居の大西真奈さん、三十一歳。沢谷さんには先に相談した。沢谷さんは、こう言った。「僕はあの人に潰された側です。だから言いますが、あの三人はまだ潰れていません。潰れる前に戻ってきたなら、間に合います」
十一月二十五日、再開の知らせを出した。知らせを出したのは、休業の時に私が電話で詫びた四十六件だ。案内の葉書に、再開の日と、個室だけで営業することと、板場が沢谷直樹に変わったことを書いた。書きながら、私は迷った。板場の名前を出すべきかどうか。出せば、黒田さんがいないことを知らせることになる。しずさんに聞くと、こう言われた。「仙代ならお書きになります。お客様が知りたいのは、誰が作るかですから」。私は沢谷さんの名前を入れた。
葉書を出して三日で、十二月の予約が十七件戻った。二十九件をお断りした月に、十七件だ。個室しか開けないので、それでほぼ埋まった。戻ってこなかったお客様もいる。よそに移ったまま、そちらで年始をされる会社もある。それは私が二ヶ月休んだ結果で、誰のせいでもない。今年は前の年の六割まで落ちる見込みだった。私はその数字を朝倉先生に見せて、こう言われた。「篠原さん、よく六割残りましたね」
十二月八日、花の屋は二ヶ月ぶりに暖簾を上げた。玄関の休業の張り紙は、しずさんが前の日に剥がした。剥がした後、しずさんは玄関の柱をもう一度拭いた。朝、板場に火が入った。沢谷さんが竈の前に立ち、葛西さんが焼き場に着き、柚月君と秋山君が水を汲んだ。洗い場では、今井はつさんが桶を並べていた。座敷の方は、仲居頭の室井組さんが、大西さんと岸本さんに個室の割り振りを読み上げていた。私は調理場で、しずさんと予約台帳を開いていた。その日、個室は全部埋まっていた。私は前掛けの紐を結び直して、玄関の土間に水を打った。休みの間、しずさんが毎日拭いてきた場所だ。水を含むと、石の色が濃くなった。八十四年、この石は毎日濡らされてきた。
「女将さん、三十分前です」。室井さんの声が廊下から飛んだ。最初のお客は、四時半に来た。元橋建設の元橋会長と、部長が三人。玄関で靴を脱ぎながら、元橋会長は建物を見上げた。「待ったよ」「お待たせしました」。元橋会長は座敷へ上がる前に、板場の方を見た。ちょうど沢谷さんが白い割烹着で廊下に出てきたところだった。元橋会長が足を止めた。「あんた、沢谷君じゃないか」「ご無沙汰しております」。元橋会長が廊下へ半歩出た。「戻ってきたのか」「はい」。元橋会長はしばらく、沢谷さんの顔を見ていた。それから部長たちの方を振り返った。「この人の腕はな、五年前にここで食ったぎりだ。今日は当たりだよ」
その夜、個室のうち三室から「直樹さん」と呼ぶ声が上がった。沢谷さんの名前を覚えていたお客様が、私が思っていたよりずっと多かった。その夜、私は個室を順に回った。松の間では、元橋建設の部長さんが椀の蓋を開けて、匂いだけで「おっ」と声を出した。竹の間では、法事の帰りのご家族が「一年前もここでした」と言ってくださった。梅の間は死の淵の関係の方たちで、前の年の忘年会と同じ顔ぶれだった。座敷から調理場へ戻る廊下で、私は板場の中を覗いた。沢谷さんが盛りの器を三つ並べて、柚月君と秋山君に向かって何か言っていた。怒ってはいなかった。手を止めさせて、見せて、それからやらせていた。今井さんの洗い場から、湯気が上がっていた。八十四年、この板場ではこういう音がしていたのだと思った。私が子供の頃に聞いていた音だ。半年前に戻ってきてから、私は一度もこの音を聞いていない。人が抜け続けていた五年の間に、板場の音は変わってしまっていたのだ。
最後のお客が帰る時、元橋会長が玄関で私に言った。「綾乃ちゃん、町でな、『料理も作れん素人が継いだ』と言うとる人がおるらしいな」「聞いています」。元橋会長は下駄に足を入れて、こちらへ向き直った。「その素人に、うちは四十年通っとるんだよ」。元橋会長は下駄を鳴らして帰っていった。私は玄関の柱に手を置いて、川の方を見ていた。黒田さんが出ていった日、私が手をかけていたのは大広間の柱だった。あの柱の前で、「分かりました」と言った。その日から数えて、六十一日が過ぎていた。
翌年の三月になった。黒田さんの新しい店は、結局開かないままだったという。物件は年内に引き払われ、先に入れた金は戻らなかったらしい。今は市街の宴会場に雇われて、板場に入っていると聞いた。この町では、そういう話は勝手に回ってくる。藤堂さんは市街の活魚店にいるそうだ。三月の初め、花の屋に手紙が届いた。差出人は黒田誠司。宛名は「篠原綾乃野様」になっていた。私は調理場で封を切って、最後まで読んだ。長い手紙だった。詫びと、父の思い出と、最後に「もう一度花の屋で働かせて欲しい」と書いてあった。読み終えて、便箋を畳んで封筒に戻した。封をもう一度閉じて、引き出しに入れた。便箋には、板場のことしか書かれていなかった。誰の名前も出てこない。二十一人のことも、あの朝に一緒に出ていった十三人のことも、一行もなかった。読んだ時、私は腹が立つより先に、腑に落ちてしまった。この人は、最後の一枚まで板場の話しかしていない。人の話が書けない人だから、人が残らなかったのだ。返事は、会社として出した一行だ。「採用の予定はございません」。しずさんが宛名を書き、私が判を押した。それで終わりにした。
この冬の間に、変わったことがある。村上さんは、届けた後、板場によってしずさんとお茶を飲んでから帰るようになった。「綾乃野さん、今年の春は魚がええぞ」。そう言って、村上さんは沢谷さんと十五分ほど魚の話をしていく。前の板長の時には見なかった光景だと、しずさんが笑っていた。杉野さんは掛けを元に戻してくれた。器の店も、同じだった。休んだ二ヶ月のことは、どこも口にしなかった。
板場の休みは、沢さんが決めている。週に一日と、月に一度の連休。私はそこには口を出さない。代わりに、人が足りない日は座敷の数を減らす。無理をして、開けない。それだけは私が決めている。三月の終わりの、店を閉めた後のことだ。座敷の片付けをしながら、室井さんが言った。「ねえ、綾乃ちゃん。結局、板長さんの電話、一回も出なかったの?」「うん」。沢谷さんが板場から顔を出した。「何回くらい来たんですか?」。私は前掛けのポケットから携帯電話を出して、履歴の画面を開いた。数字は消していない。消す気にもならなかった。「百七回、だったかな?」。室井さんが手を止めた。「すご。でも、もう着信拒否したから」。沢谷さんが笑って、板場へ戻っていった。柚月君と秋山君の声が続いて、笑い声になった。座敷では、大西さんと岸本さんが翌日の支度を始めていた。今井さんは、洗い場で食器を拭いていた。
花の屋は、個室のままだ。八室に戻すのは、まだ先になる。それでも、この冬にやめた人は、一人もいなかった。室井さんは帰り際、玄関で振り返った。「綾乃ちゃん、私、三年前にやめる時、この玄関で一人で泣いたのよ」「知りませんでした」。室井さんは玄関の柱を指で叩いた。「今はね、閉める時に『明日も来よう』と思って帰ってるの」。それだけ言って、室井さんは下駄を鳴らして帰っていった。みんなが帰った後、私は調理場に残った。壁の父の写真の下で、椅子に座って、上を見た。「お父さん」。写真の父は、いつもの顔をしていた。「板長がいなくなったら、この店は終わりだって言われたよ」。返事はない。言われた日、私は「分かりました」としか言えなかった。私は引き出しから大学ノートを出して、机に置いた。表紙に「花の屋出入り」と、父の字がある。最後のページの後に、私は一ページだけ足していた。十二月八日、沢谷直樹、戻る。その後に、柚月啓吾と、秋山良太と、大西真奈と、葛西と、岸本と、今井はつと、室井組の名前が並んでいる。入った人の欄が、こんなに続いたことは、三十年でなかったと、しずさんが言っていた。父の口癖が、もう一度耳に戻ってきた。店を守っとるのは、一人の料理人じゃない。そこで働く人と、通ってくれるお客さん、全部だ。父はこの続きを、口に出さなかった。書いてもいなかった。それでも三十年、この帳面を書き続けることで、それを言っていたのだと、今は分かる。「本当に、その通りだったね」。私はノートを閉じて、引き出しに戻した。板場の火は落ちている。翌朝、また入る。花の屋を終わらせるつもりで黒田さんは出ていった。その日から、この店はもう一度始まったのだ。私はこれから先も、出ていった人ではなく、残った人の名前を数えていきたいと思った。



