児童相談所の人間が玄関に立った瞬間、夫の顔色が変わった。「ご事情を聞かせてもらえますか」——その一言で、我が家の全てが崩れ始めた。小学5年生の孫・さやは最近、ご飯の匂いだけで吐き気をもよおし、食べていないのに体はどんどん大きくなっていた。夫は毎晩寝室を抜け出し、さやの布団に入り込んでいた。「子守唄を歌ってやっていた」——そんな言い訳を、あなたは信じるだろうか。さやは引きつった笑顔で夫をかばっ…

児童相談所の人間が玄関に立った瞬間、夫の顔色が変わった。「ご事情を聞かせてもらえますか」——その一言で、我が家の全てが崩れ始めた。小学5年生の孫・さやは最近、ご飯の匂いだけで吐き気をもよおし、食べていないのに体はどんどん大きくなっていた。夫は毎晩寝室を抜け出し、さやの布団に入り込んでいた。「子守唄を歌ってやっていた」——そんな言い訳を、あなたは信じるだろうか。さやは引きつった笑顔で夫をかばっ...

最近、ご飯が炊ける匂いだけで気持ち悪くなるの。孫のさやはまた夕食を拒否した。何を食べても吐いてしまう。それなのに体はどんどん太っていく。怖くて仕方なかった。

ある夜、夫の浩二が寝室を抜け出した。そのまま朝まで戻らない日が続いた。何をしているのかと問い詰めると、眠れないから本を読んでいると言う。だが、さやの部屋から「いや」という小さな悲鳴が聞こえたのは、その翌日のことだった。

慌ててドアを開けると、浩二がさやの布団から這い出てきたところだった。

「寝られないって言うから、子守唄を歌ってやってたんだ」

到底信じられる言い訳ではなかった。思春期の孫が、祖父と同じ布団で寝るだろうか。しかしさやは引きつった笑顔を見せて「本当だよ」と浩二を擁護した。

それからしばらくして、さやは私が作る食事を拒否するようになった。食欲がないのか、ダイエットか。さやも女の子らしくなったな、と浩二は暢気に笑っていた。しかしその直後、インターホンが鳴った。玄関を開けると、スーツ姿の男女が立っていた。

「児童相談所の田中と申します。ご事情を聞かせてもらえますか」

その瞬間、浩二は小刻みに震え、顔を青ざめさせた。

私は杉原美由、64歳。近所の介護施設で清掃員のパートをしながら、夫の浩二と小学生の孫のさやと暮らしている。浩二と結婚したのは35年以上前のことだ。当時同じ職場で働いていた浩二は、男らしく頼りになる上司だった。仕事ができて面倒見もいいと評判で、そんな彼に惹かれた私は同僚たちに羨ましがられたものだ。

結婚後、私は仕事を辞め、専業主婦として夫を支えてきた。翌年には娘が生まれ、私は幸せの絶頂にいた。家では寡黙な浩二だったが、家族のために必死に働く姿を誇りに思っていた。娘が年頃になって浩二を避けるようになった時は、さすがの彼も落ち込んでいたが、成長して父の仕事を理解するようになってからは、仲の良い親子に戻っていた。

10年前、娘が結婚することになった時、浩二は「もらってくれる男がいてよかった」と強がりながらも、娘がいないところで大粒の涙を流した。別れが寂しかったのだろう。相手の男性に「娘を泣かせたら許さない」と詰め寄りながら、娘の幸せを願っていた。

娘は結婚してすぐに女の子を出産した。初孫となるさやの誕生を、浩二はとても喜んだ。仕事では役員への昇進が決まり、彼にとって絶頂期だったのかもしれない。

しかし娘の幸せは長く続かなかった。結婚して2年ほど経ったある日、娘はさやを連れて家に帰ってきた。夫との価値観が合わず、離婚を考えていると言うのだ。

「結婚したんだから少しは我慢してやれ」

そう言いながら、娘が帰ってくることを浩二が喜んでいたのを私は知っている。離婚後の娘がさやと二人で暮らすと言った時、浩二は必死に説得し、実家で暮らすことを勧めた。仕事から帰ると必ずさやの寝顔を確認し、孫が喜ぶだろうとおもちゃも買ってきた。娘の離婚は残念だったが、浩二は娘と孫が一緒にいる生活に満足していた。

しかし、その1年後、娘が事故に遭った。帰宅途中、暴走した車に撥ねられたらしい。病院から電話を受けて駆けつけたが、娘はすでに息を引き取っていた。最愛の娘の死は、私たち夫婦の心に重くのしかかった。数日間、何をする気にもなれなかった。

それでも、まだ何も理解していないさやは無邪気に笑っている。その笑顔を守っていかなければ。私はさやを育てていくことを決意した。

しかし浩二はひどく落ち込み、それからというもの気性が荒くなった。娘のことを忘れようとしていたのかもしれないが、些細なことで苛立ちを見せるようになった。時に大声で私を怒鳴りつけることもあったが、さやの前だけは優しい顔を見せてくれた。さやの存在が浩二の心を癒していたのかもしれない。

しばらくして、私はパートに出ることにした。さやが成長し大学に行くことを考えると、少しでも貯金しておく必要がある。浩二に相談すると「好きにしろ」とだけ言い、反対はしなかった。

休日になると、浩二はさやをあちこちに連れて行った。両親がいない寂しさを感じさせまいと、浩二なりに孫のことを考えていたのだろう。さやもそんな浩二によく懐いていた。

幼稚園に通うようになり、周囲との違いに気づいたさやは、ある日こう聞いてきた。

「どうして私にはパパとママがいないの?」

「さやはじいじとバーバだけじゃないか」

「うん、全然嫌じゃないよ」

「さやのパパとママはお空にいるのよ。お空からずっと見守ってくれてるからね」

さやはその日以来、両親のことを聞いてくることはなかった。友達に聞かれても「お空にいるの」と答え、笑っていてくれた。

小学1年生の時に書いた作文には「おじいちゃんとおばあちゃんが大好き」と書かれており、浩二も満足そうに笑っていた。さやはスクスクと育ってくれた。

さやが小学2年生になった頃、浩二は定年退職を迎えた。最後の出勤日、私はさやと一緒にささやかなパーティーを開くことにした。

「じいじ、今までお仕事お疲れ様」

さやに出迎えられ、浩二は嬉しそうに笑った。

「今日はさやと一緒に食事を作ったのよ」

「おお、これはうまそうだ。さや、ありがとう」

さやは一生懸命作った料理を説明し、プレゼントがあると封筒を手渡した。中からは折り紙で作られた箸置きが出てきた。

「これは嬉しいプレゼントだ。いつでも使うからな」

浩二とさやは本当に仲の良い祖孫だった。

しかし、さやが小学3年生になり多感な時期を迎えると、浩二のことを避けるようになった。それまでは一緒にお風呂にも入っていたのに、彼が自分の部屋に入るのも嫌がるようになった。浩二が一緒に出かけようと誘っても、即座に断って自分の部屋にこもってしまう。

浩二は何とかさやの気を引こうと、好きなおやつを買ってきたり、欲しがっていたゲームを買い与えたりと手を尽くした。しかしさやは一向に心を開こうとしなかった。

「なんで俺を避けるんだ」

浩二は苛立ちを私にぶつけてきた。

「そういう時期よ。女の子だから避けて通れない道なの。それも成長の証よ」

私たちの娘もそうだったことを話し、浩二に理解を求めた。それでも浩二には寂しさがあったのだろう。定年を迎え、一日中家にいるとさやのことばかり気にするようになった。私がたまには気晴らしに出かけたらどうかと促しても、「さやが一緒じゃないなら行かない」と拒否し、さやの気を引くことばかり考えていた。娘の時よりもひどい執着に、私は若干の不安を感じながらも、時が解決してくれると見守ることにした。

しかし、さやが小学5年生になった頃から、浩二はおかしな行動を取り始めた。度々夜中に寝室を抜け出すようになったのだ。そのまま朝まで戻らない日が頻繁に続き、私は何をしているのかと尋ねてみた。

「年のせいか眠りが浅くてな。書斎で読書してたんだよ」

「そうなの? 昼間に少し運動した方がいいんじゃない? 体が疲れたらきっと眠れるわ」

「そうだな」

定年後の浩二は時々近所を散歩するものの、一日の大半を家で過ごしていた。運動量が下がっているのは明らかで、健康のためにも運動を勧めたのだ。

それから数日経ったある夜、浩二はまた寝室を抜け出した。ちょうどトイレに行きたくなった私は、後を追うようにして寝室を出た。用を済ませ、浩二に温かいお茶でも入れようかと書斎を開けると、部屋は真っ暗で浩二の姿はない。リビングにもいない。

どこに行ったのかと思いながら寝室に戻ろうとした時、さやの部屋から小さな悲鳴が聞こえた。

「さや、大丈夫?」

私がドアを開けると、浩二がさやの布団から出てきた。

「何をしてるの?」

「なんでもない。さやが眠れないって言うから、子守唄を歌ってやっていたんだ」

本当だろうか。思春期真っ只中のさやが、浩二のことを避けているのに、眠れないからと言って子守唄を頼むだろうか。

「一緒に布団に入る必要なんてないんじゃない?」

「そうしてくれって頼まれたんだ」

浩二はそう言いながらさやの方を見た。

「ほ、本当だよ。私が頼んだの」

さやは引きつった笑顔を見せながら浩二を擁護した。さやは嘘をついている。それは間違いなかったが、それ以上追求することもできず、その日はさやを寝かせて様子を見ることにした。

翌日、さやは相変わらず浩二を避けていた。朝食の間も目を合わせようとせず、学校から帰ってもまっすぐ自分の部屋にこもってしまう。夕食の時も、浩二が自分の皿の食べ物を分け与えようとすると、露骨に嫌がった。あんな様子のさやが、同じ布団に入ることを望むわけがない。浩二とさやは何か隠している。私の中には確信に近いものがあった。

しかしそれからも浩二は連日、さやの寝室を訪れた。

「今日は童話を読んでほしいと頼まれたよ」

「さやはもう童話なんか読まないわよ」

「赤ちゃん返りしてるんだ。そんな時期もあるだろう」

浩二は何かと言い訳を繰り返したが、どれも納得できるものではなかった。誰かに相談した方がいいのかもしれない。しかし、安易に他人に話していい内容とも思えず、私は一人で悩み続けた。

数週間後、さやに異変が現れた。一日に何度もトイレに行き、食べたものを吐き出すようになったのだ。

「大丈夫? 病院に行こう」

「うん、ちょっと風邪引いたみたい。少し休めば大丈夫」

さやは首を横に振り、病院を拒否した。しかし顔色は日を追うごとに悪化していった。

「さあ、一度お医者さんにちゃんと見てもらおう」

「本当になんでもないの。大丈夫だから心配しないで」

さやは無理に笑顔を見せて私を安心させようとしたが、私の心配は大きくなるばかりだった。

「さやの様子がおかしいの。あなた何か聞いてない?」

「特に変わったようには見えないけどな。好きな男でもできたんじゃないのか」

浩二の言うように、思春期の女の子が好きな男の子を気にして食事を我慢することはよくあることだ。しかし、さやの様子はそれとは少し違う気がしてならなかった。

しばらくして、さやは私が作る食事を食べたくないと避けるようになった。理由を尋ねても「食欲がない」と言うだけで、それ以上は話してくれない。

「このまま何も食べなかったら、そのうちあの子倒れてしまうわ」

「大丈夫だ。お前がいない間にお菓子やラーメンを食べてるから、食事が食べられないだけだ」

本当だろうか。浩二の言うことが本当ならばそれほど心配はいらないだろう。しかしさやの顔色はますます悪化していった。

ある日、風呂から上がったさやを見て私は驚いてしまった。さやの体は明らかに大きくなっていた。

「ご飯も食べていないのに太るなんて、やっぱり何か病気なのよ。お願いだからバーバと一緒に病院に行って」

「給食を食べすぎてるんだよ。本当に心配しないで」

「美由は大げさなんだよ」

さやは何度勧めても病院に行くことを拒否し、浩二も私が大げさに心配しすぎていると笑い飛ばした。さやに何もなければそれでいい。しかし明らかに様子がおかしいさやを、そのまま放置することはできなかった。

数日後、地域の寄り合いから帰宅すると、リビングから浩二の怒鳴り声が聞こえてきた。まさかさやに怒鳴っているのではないか。そう思って急いでリビングに向かうと、浩二は電話の相手に怒っていただけだった。胸を撫で下ろすと、浩二は受話器を叩きつけた。

「しつこい営業だ。こんなやつと話す必要はない」

浩二は怒りをあらわにしたまま家を出ていった。一体誰からの電話だろうか。着信を確認すると、かかってきた番号はさやが通う学校のものだった。学校からの電話にこれほどまで怒る浩二に不信感を抱いた私は、そのまま電話をかけ直した。

電話に出たのはさやの担任、小林先生だった。

「実はさやさんのことでお電話したんですけど、おじい様が一方的に電話を切ってしまわれて」

小林先生は、さやが最近になって給食を吐き出したり、好きな体育の授業を休むなど、何らかのストレスを抱えているのではないかと心配してくれていた。しかし浩二はそれはないと怒鳴りつけたらしい。

やはり、さやの体調不良の原因は浩二にある。そう確信した私は、小林先生に洗いざらいを打ち明けた。

「そうだったんですね。とにかく今後は細かく連絡を取り合って、さやさんの様子を見守りましょう」

小林先生と連絡先を交換し、その日から直接やり取りすることにした。数日間、学校と家での様子を報告し合っているうち、私たちの間に一つの疑惑が浮上した。確信はない。それでもさやと浩二の様子がそれを裏付けていた。

数日後、私はさやに食事を勧めた。

「いらない。最近ご飯が炊ける匂いで気持ち悪くなるの」

さやは相変わらず体調が悪そうで、夕食を拒否した。

「ダイエットか。さやも女の子らしくなったなあ」

浩二は暢気に笑っている。しかしその直後、インターホンが鳴った。

誰かと思い玄関を開けると、スーツ姿の男性と女性が立っていた。

「児童相談所の田中と申します。実は、こちらの中島浩二さんが中島さやさんを虐待していると通報がありまして、ご事情を聞かせてもらえますか?」

「変な言いがかりはやめろ。俺がどうして孫を虐待しなきゃいけないんだ?」

浩二は小刻みに震えながら職員に抵抗を見せた。

「虐待があったかどうかの確認のためにも、お話をお聞かせください」

「必要ない。さっさと帰ってくれ」

浩二は必死に職員を帰らせようとしている。私は不安そうに見つめているさやに声をかけた。

「自分を守れるのは自分だけよ。さやが本当のことを言わなきゃ何も変わらない。勇気を出して。バーバはさやの味方だから」

さやは俯いたまま何も話そうとしなかった。それでも田中さんや私の励ましに、さやはようやく口を開いた。

「じいじが一緒に寝ないとひどい目に合わせるって」

さやは泣きながら、浩二に毎晩同じ布団で寝ることを強要されていた事実を打ち明けてくれた。さやが嫌がると「誰が育ててやった」と怒鳴りつけ、嫌なら施設に送ると脅していたらしい。それでも拒否し続けると、浩二はさやに手を上げることもあったという。

「何を食べても気分が悪くなって吐き出してしまうの。それなのに体は太っていくし。それが怖くて」

さや自身も、自分の体調の変化に戸惑い、恐怖すら感じていた。私は泣きじゃくるさやを抱きしめ、浩二を睨みつけた。

「さやさんはおそらく摂食障害に陥っているのでしょう」

田中さんの話によると、さやは浩二との生活に恐怖を感じ、そのストレスから過食と嘔吐を繰り返しているのではないかという。

「摂食障害って痩せていくイメージがあるけど、違うの?」

「痩せるケースもあります。でも逆に太ってしまうこともあるんです。嘔吐を伴うケースでは、摂食障害に気づかずに重篤な状態を招いてしまうこともあるんですよ」

「そうなんですね。さやがそうならなくてよかった」

小林先生とのやり取りの中で、さやが何らかのストレスを抱えていることは間違いないと判断された。その原因が浩二にあることも間違いないと思った私は、毎晩さやのベッドに潜り込む彼のことを小林先生にも話した。小林先生も、日頃浩二を避けているさやが一緒に寝るのは考えにくいと、私と同じ意見だった。それでも毎晩さやの寝室に通う浩二がいるのは事実で、さやも話を合わせている。浩二が何らかの方法でさやに口止めしているとしか思えなかった。

最悪の場合、さやが性的被害に遭っている可能性もあると聞き、私は児童相談所の介入を決めた。

「くそ、しつけが足りなかったか」

真実を告白したさやの手首を掴み、浩二はさやを寝室へ連れ込もうとした。

「やめなさい」

とっさに浩二を阻止した田中さんを見て、私はさやを抱きしめ、浩二から引き離した。浩二は呆気に取られたように目を丸くさせた。

「あなたがやったことは、虐待以外の何者でもないわ」

「違うんだ。定年退職して以来、誰にも相手されずに塞ぎ込んでたんだ」

浩二は、退職後、元部下を飲みに誘っても家族サービスを優先され、相手にされなかったと話した。会社勤めをしていた頃は大勢の部下を従え、みんなが言うことを聞いてくれたが、辞めた途端に他人のように距離を置く元部下たちに苛立ちを感じていたという。

「だからって、それがどうしてさやの嫌がることをすることになるのよ」

「さやも俺を避けるようになった。だから怖かったんだ」

幼い頃のさやは自分の言うことを何でも素直に聞いてくれて癒されていた。しかし最近になって避けられるようになり、焦りと不安を抱えていたという。

「多感な時期で今は仕方ないって話したでしょう」

「俺も年だ。いつか、なんて待てなかったんだ」

浩二の不安な気持ちは理解できるとはいえ、さやを傷つけたことは到底許せることではない。

「さやさんは児童相談所の方で保護します。今後のことは後日改めて話し合いましょう」

「だめだ。大体、孫と同じ布団で寝て何が悪い?」

浩二はあくまで愛情表現の一つだったと主張し、虐待の事実はないと言い張った。

「これは俺たち家族の問題だ。部外者は帰ってくれ」

浩二は田中さんたちを追い返そうとした。その時、小林先生が駆けつけてくれた。

「ここに、さやさんの告白が録音されています」

小林先生はその場でICレコーダーを再生した。中には、さやが毎晩浩二から受けていた行為を告白する声が録音されていた。

「こんなのは子供の悪ふざけだ」

「いいえ、これにはまだ続きがあります」

録音の続きには、浩二の暴言や暴力を振るった際の音が入っていた。

「これはさやさん自身が録音したものです」

さやは小林先生に勧められ、恐怖に怯えながらも勇気を振り絞って証拠を集めていたのだ。

「これは虐待の証拠に十分なり得ます」

「待て。これはしつけだ。さやが言うことを聞かないから、仕方なく」

浩二はこの後に及んでもまだ言い訳を続けている。その姿に、私は怒りを通り越して呆れてしまった。

「もういい加減にしなさい。何をどう言い訳したって、言い逃れなんてできないわ」

「お前まで俺を裏切るのか」

「私はさやの味方よ」

私は田中さんたちにさやを託すことにした。さやは不安そうに私を見つめている。

「大丈夫よ。あなたを捨てようって言うんじゃない。さやが安全に暮らせるようになったら、必ず迎えに行くから」

「本当?」

「ええ、本当よ。バーバはいつだってさやの味方なの。あなたを捨てたりなんかするもんですか」

私の言葉に、さやは安心したように笑顔を見せてくれた。さやはそのまま児童相談所の一時保護所で保護され、田中さんたちと共に車に乗り込んだ。

みんなが帰った後、浩二は「やりすぎた」と反省の言葉を口にした。しかし時折鋭い舌打ちをしたり、怒り任せにテーブルを叩きつけている。

「どうして、どうして俺ばかりこんな目に」

「あなたは自分の行動を反省してるんじゃないの?」

「俺はさやと仲良くなりたかっただけだ。それなのに俺を裏切りやがった」

浩二は手当たり次第に物に当たり散らした。その姿を見ていると、このままさやを連れ戻すことは危険だと思えた。

「離婚しましょう」

「なんだって、お前まで俺を捨てるのか」

「今のあなたとじゃ、とてもさやを育ててはいけないわ。ここにさやが戻ってきても、あなたはまた暴力を振るうだろう。もしかしたら、これまで以上にひどくなるかもしれない」

さやの安全を考えれば、浩二と離婚するしかなかった。しかし浩二は絶対に離婚しないと拒否した。

「これはさやを守るためよ。あなたがいくら拒否しても、私はもう決めたの」

「絶対認めん」

浩二は頑なに離婚を拒否したが、私は弁護士を通じて離婚を進めると告げ、家を飛び出した。浩二はしばらく追いかけてきていたようだが、運動不足がたたったのだろう。途中で足を止め、そのまま私のことを見送っていた。

数日後、私はさやに会いに行き、田中さんたちに浩二と離婚することを伝えた。さやは落ち着きを取り戻し、専門のカウンセリングを受けながら少しずつ食事が取れるようになっているという。

「安心しました。浩二と正式に離婚ができたら、必ず迎えに来ます。それまでさやのことをよろしくお願いします」

「私たちに協力できることがあれば、遠慮なくおっしゃってくださいね。さやさんの安全と幸せのため、一緒に頑張りましょう」

田中さんたちの後押しを受け、私の決意はさらに固まった。

翌月、浩二との離婚協議が始まった。そこでも彼はさやへの虐待行為はなかったと主張した。しかし、すでに児童相談所が虐待を認め緊急保護している事実は曲げられず、最終的に私たちの離婚が成立した。離婚に伴い、浩二にはさやに対する慰謝料と今後の養育費の支払いが言い渡され、私には財産分与として浩二の資産の半分を渡すように命じられた。

裁判所の決定に浩二は肩を落としていたが、自業自得である。その後、裁判所の命令通り浩二は全ての金銭の支払いに応じた。その資金をもとに、私は新しくマンションを借り、さやを迎えに行った。児童相談所との協議の末、さやが安全に暮らせる準備ができたとして、私が引き取ることが認められたのだ。

しかし諦めきれない浩二は、度々私の職場に現れた。

「慰謝料は支払った。財産分与もやったんだ。だからさやに合わせてくれ」

浩二は養育者としての責任は果たしたと、さやの面会権を主張した。しかし弁護士に相談すると、応じるのは危険だと言う。

「さやの安全のために警察の巡回を増やしてもらおう。手配をかけてくれ」

さやの学校や私の職場、自宅周辺を見回ってもらうことになった。

数日後、さやの学校周辺をうろついていた浩二は警察に逮捕され、私とさやに対する接近禁止命令が出された。

その後、浩二は妻と孫を同時に失ったショックから自宅に引きこもるようになった。心配になって様子を見に行ってくれた自治会長でさえも怒鳴りつけ、人を寄せつけないらしい。やがて浩二は退職金が底を尽き、生活費や家の固定資産税が払えなくなり、自宅を引き払うことになった。その後はホームレス生活をしているらしい。浩二は何人かの元部下を頼ったそうだが、会社勤めをしていた頃から傲慢な態度を取っていたようで、誰一人手を差し伸べてくれる人はいなかった。

しかし、住む家を失った浩二が今後どんな手段に出るかわからない。さやの安全を考えた私は、地方にある公営住宅を借りることにした。さやは転校することになるが、浩二から遠く離れた場所であれば、彼女も安心して暮らすことができるだろう。

引っ越し後、さやは徐々に明るさを取り戻していった。新しい学校ではすぐに友達ができたようで、毎日楽しそうに通っている。最近はスケートボードに夢中で、将来オリンピックに出るのだと世界一を目指して練習に明け暮れている。さやは見る見る上達し、先日行われた大会では準優勝に輝いた。

私は新しい仕事をしながらも、大会がある日は同僚と手作りのおにぎりを持って応援に駆けつけている。これからもさやの夢を支えながら、彼女の笑顔を守っていけるように。私も健康に気をつけながら、毎日を楽しんでいる。

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