五年ぶりに本社へ戻った初日、社長の息子が俺の前に差し出したのは、泥水の入った紙コップだった。「ほら、早く飲めよ。この俺がお前のために用意してやったんだからさ」。周りの同僚がクスクスと笑う中、俺は震える手でコップを口元へ近づけた。逃げる選択肢なんて、俺にはなかった。でもその瞬間、部屋に駆け込んできた一人の女性が、俺の手からコップを奪い取ったんだ。「あなたたち、この人に何てことをしているの?」。…

五年ぶりに本社へ戻った初日、社長の息子が俺の前に差し出したのは、泥水の入った紙コップだった。「ほら、早く飲めよ。この俺がお前のために用意してやったんだからさ」。周りの同僚がクスクスと笑う中、俺は震える手でコップを口元へ近づけた。逃げる選択肢なんて、俺にはなかった。でもその瞬間、部屋に駆け込んできた一人の女性が、俺の手からコップを奪い取ったんだ。「あなたたち、この人に何てことをしているの?」。...

五年ぶりの再会で、社長の息子である小坂から差し出されたのは、泥水の入った紙コップだった。濁った液体を凝視して固まっていると、小坂をはじめとする同僚たちがクスクスと笑う。

「ほら、早く飲めよ。この俺がお前のために用意してやったんだからさ」

年月が経とうとも、ここには昔と変わらない悪意が満ちていた。それでも俺には逃げ出す選択肢すら与えられていない。震える手で紙コップを口元へ近づけた、その時だった。

「あなたたち、この人に何てことをしているの?」

一人の美女が部屋へ駆け込み、俺の手から紙コップを奪い取る。続けて放たれた彼女の言葉に、小坂も同僚も驚きを隠せない様子で立ち尽くしたのだった。

俺は北島正弘、二十五歳。不動産開発をなりわいとする小坂パートナーズで働いている。五年前、とあるミスによって地方の支社に飛ばされたのだが、先月本社への異動命令を受けて戻ってきた。高卒で入社してから二年間、本社で過ごしたが、正直いい思い出はない。

比較的裕福な家庭に生まれ育った俺は、優しい両親と三歳離れた少し病気がちな妹の明里と、四人で仲良く暮らしていた。しかし俺が中学に上がった年、突然の不幸が家族を襲った。家族旅行の先で事故に遭い、両親が亡くなったのだ。俺と明里は怪我はしたもののなんとか無事で、親戚に引き取られることになったが、親戚たちは互いに押し付け合い、俺たちはたらい回しにされた。大人たちの触りたがらない空気を感じ取った俺たちは、これ以上厄介扱いされないようにと気を張って生きていた。だが、両親の死によるショックと生活のストレスが体に触ったのか、その頃から明里の体調は悪化し始め、今まで以上に入退院を繰り返すようになってしまった。

「あの子の入院費、どうするの? 両親が残したお金も底をつきそうだし」

「どこかに相談して、施設に預けた方がいいんじゃないかしら」

偶然耳にした大人たちの会話に、俺は体の震えが止まらなかった。このままでは明里と離れ離れになってしまう。それがすごく怖かった。俺にとって家族はもう明里しかいないのだ。

それなら俺が治療費を稼いでやる。俺はその日からすぐに行動を開始した。学校の勉強もそこそこに、毎日のようにパソコンに向かった。父がエンジニアだったこともあって、小さい頃からパソコンに触れていた俺は、周りの大人たちには到底及ばない知識と技術を身につけていたのだ。ネットには、顔も名前も明かさずにできる仕事がたくさん転がっていた。中にはかなり際どいものもあったが、明里が穏やかに暮らせるなら、俺はどんなことだってやった。

そんな生活から解放されたのは、俺が高校二年の時だった。ようやく明里の治療費と二人で暮らせるだけの収入を得た俺たちは、親戚の家を出て新生活をスタートさせた。そこからの生活も決して楽ではなかったが、明里が笑顔でいられるようにと、バイトに明け暮れる日々を送っていた。そんな時、知人を介して出会ったのが、当時急成長していた小坂パートナーズの小坂社長だった。俺の家庭環境や妹の話を聞いて涙を流してくれた社長は、自分の会社で働くことを提案してくれた。

「北島君、君ならきっとうちの会社で活躍してくれると信じているよ」

こうして俺は高校卒業と同時に小坂パートナーズに就職した。安定した収入を得られるようになり、明里との生活も落ち着いた。俺を拾ってくれた社長には本当に感謝している。だが、社長の息子である小坂純一は、父親の推薦で入社した俺が気に入らないのか、同期でありながら執拗な嫌がらせや理不尽な命令を続けてきた。二年間耐え続けたある時、大きな契約がご破算になりかける事態が起きた。なんとか契約不履行は免れたものの、俺はその責任を取る形で地方の支社へ左遷された。それが五年前の話だ。

そして今、本社に戻ってきた初日から、小坂は昔と変わらず俺を泥水で歓迎した、というわけだ。固まったまま紙コップを見つめる俺に、小坂が低い声でささやく。

「飲めよ。お前に拒否権なんてないことくらい、分かってるだろ」

その声を聞いて、俺は紙コップを持つ手に力を込めた。気を緩めたら震え出してしまいそうだった。このくらいの量なら一瞬で終わる。ほんの少し我慢すれば、それで済む。そう心の中で唱えてコップを口元へ近づけた時、女性の声が響いた。

「何をしているんですか?」

次の瞬間には、俺の手元から紙コップが消えていた。ヒールの音を響かせて現れた女性は、小坂の前で立ち止まる。

「さすがに悪ふざけが過ぎます。それに、社長命令で移動してきた人物に何かあったとあれば、社長が黙ってはいませんよ」

女性の言葉に周囲はざわついた。小坂は苦々しい表情で舌打ちをしたが、女性の顎に手をかける。

「本当に真面目だな。まあ、そういうところもいいけど」

「今は勤務中です」

「分かったよ。ならまた後でな」

小坂は笑いながら女性の腰を撫で、そのまま部屋を去っていった。俺を助けてくれたのは、相馬さんと名乗る女性だった。教育係として俺につくことになったという。美しく整った顔に、艶やかな長い黒髪。特に印象的なのは、意志の強そうな涼やかな目だ。

「私、相馬菜々と言います。ここの主任で、あなたの教育係も任されています。これからよろしくお願いしますね」

そう言って差し出された白く綺麗な手を、俺は戸惑いながら握り返した。教育係が相馬さんだったおかげで、俺はすぐに本社での仕事に慣れることができた。周囲の雑談を聞いて知ったのだが、なんと相馬さんは小坂の恋人だという。おかげで小坂の俺への当たりは強く、嫌がらせも五年前よりパワーアップしていた。同僚たちも小坂に同調するかのように、雑用を山のように押し付けてくる。

「今日も残業お疲れさん。じゃあな、北島君」

俺のデスクに詰まれたファイルをわざと崩し、それを拾う俺をせせら笑いながら、小坂は定時で帰っていった。俺を気にかけてくれるのは、相馬さんただ一人だけだった。

「北島君、大丈夫?」

「ありがとうございます。でも、慣れてるので大丈夫です」

ある日、相馬さんがまだ残業しているのを見て、俺は思わず声をかけた。

「あの、もしよかったら、俺も手伝いましょうか」

「これは私の仕事だからいいわよ。気にしないで」

「でも、この量、一週間分の量じゃないですよ」

「仕方ないのよ。小坂さんの指示だから」

あの時、俺をかばったからだ。小坂は、俺に泥水を飲ませようとしたのを邪魔した相馬さんに、嫌がらせとして大量の仕事を振っていたのだ。俺は相馬さんのデスクからファイルをごっそりと持って、自分のデスクへと運んだ。

「え、ちょ、ちょっと、いくらなんでもその量は」

「大丈夫です。こう見えて、俺、入力だけは早いんで」

一時間ほどで作業を終えると、相馬さんは呆然とした様子で俺を見つめた。

「だって、まだ一時間しか経ってないのに、あの量を終わらせたっていうの?」

「言ったじゃないですか。入力だけは早いんです」

「嘘を言わないで。ただの入力作業じゃないでしょ。膨大な量の契約書に、過去十年分のデータ……。あなた、本当は何者なの?」

静かで鋭い声に、俺は思わず唾を飲み込んだ。

「俺は、支社から戻ってきた無能社員です。小坂がそう言ってたでしょ」

「でも、あなたのその仕事ぶりは、彼が言っていたものとはかけ離れてるわ」

「小坂は俺に興味がないから、適当なことを言ってるだけですよ」

歯を食いしばってごまかすと、相馬さんはそれ以上追及してこなかった。その代わり、いつもより明るく柔らかい微笑みを浮かべた。

「今日は本当に助かったわ。ありがとう」

その微笑みはすごく綺麗で、俺の心臓がドキドキと音を立て始めた。それからというもの、定時後の俺のデスクには、軽食や飲み物の差し入れが置かれるようになった。そのさりげない優しさの持ち主が分かっている俺は、来ることすら憂鬱だった会社にも、ほんの少しだけ楽しみを見出せるようになっていた。

そんなある日、大型プロジェクトの話が動き始めた。南皇フロッ区の地主を説得して、大企業が計画している地方都市開発に参入しようという話らしい。成功すれば桁外れの利益が生まれる、超特大の儲け話だ。そんな大きな話に俺のような末端社員が関わるはずもないと、淡々と業務の準備を始めていると、部屋にパンパンと手を叩く音が響いた。

「今回、この部署から私と、サポートとしてもう一名、チームに参加することになりました」

相馬さんがそう言って、俺の名前を呼んだ。

「北島さんに参加してもらうことになりました。私のサポートをよろしくお願いします」

一瞬、場は静まり返った。次の瞬間、みんなが驚きの声を上げる。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! なんでこんなに大事な仕事を北島なんかに任せるんだ!」

顔を真っ赤にした小坂が食ってかかるが、相馬さんは首を振った。

「今回の仕事に適任なのは、北島さんしかいません。的確さ、スピード、真面目な姿勢。そのどれを取っても、文句のつけようがありません」

「そんなわけないだろう! あいつは高卒で底辺支社に飛ばされるようなやつだぞ」

「あれだけ多くの仕事を彼に振り分けている小坂さんが、その実力を一番分かっていると思うのですが」

小坂はグーの根も出ずに押し黙った。この日から俺の生活は一変した。相馬さんのサポートとして、データの集計や収支予測、地主への説得材料となる資料を次々と仕上げていく。

「さすがね、北島君。この資料、本当によくできてる」

「ありがとうございます」

「それと、部長には許可をもらったから、今度の打ち合わせには北島君にも同行してもらうわ。この資料を作ったあなたが話をする方が、説得力もあるしね」

「え、で、でも、俺、今までそういうことしたことないですし……」

「それならなおさら、チャレンジするべきだわ。失敗したっていいのよ。失敗知らずの成功者なんて、この世にはいないんだから」

これまで俺の周りに、こんなことを言ってくれる人はいなかった。俺自身も周りに何かを期待するのは、とっくに諦めていた。でも、この人は俺の奥の方まで見抜くように、俺がずっと欲しかった言葉をくれる。

「北島君ならできる。私はそう信じてるわ。だから、自信を持ってね」

「……相馬さん。俺、頑張ります」

相馬さんの叱咤激励のおかげで、俺はこれまで以上に勢力的に仕事をした。初めてプレゼンが成功した時は、涙が溢れて止まらなかった。まだ二ヶ月しか経っていないのに、これまで感じたことのない充実感を得ていることに、俺自身が一番驚いていた。

そんなある日のこと。久しぶりに自分のデスクで作業をしていると、同僚が声をかけてきた。

「北島さん、小坂さんが話があるそうです。第三会議室に行ってください」

嫌な予感しかしなかった。第三会議室で待っていると、小坂が乱暴にドアを開けて入ってきた。

「北島、お前、プロジェクトから降りろ」

「は?」

「聞こえなかったのか? お前みたいな無能が名を連ねるより、社長の息子である俺がプロジェクトメンバーにいた方が花があるだろう」

「断る。俺はこのプロジェクトから降りる気はない」

思った以上に大きな声が出て、自分でも驚いた。小坂も驚いたようで、しばらく固まっていたが、徐々にその表情が怒りに染まっていく。

「おい、北島。お前、自分の立場を忘れたのか?」

小坂が近くの椅子を力任せに蹴り飛ばした。椅子は壁に衝突し、激しい音を立てる。

「……そうだな。お前がプロジェクトを降りないなら、相馬の経歴に傷がつくことになるな」

「何だって?」

「相馬だよ。上の奴らも、優秀で見た目もいい相馬のことを気に入ってるんだ。今回のプロジェクトが成功したら、昇進させるってもっぱらの噂だ。そんな時に、お前の過去をばらしたらどうなるかな? お前のことを推薦した相馬だって、責任は免れないんじゃないか」

「お前……どこまで汚いんだ?」

「は? お前には言われたくないね」

小坂が言いかけた時だった。

「一体何の騒ぎなの? 大きな音が聞こえたけど」

ドアのところに、相馬さんが立っていた。小坂はニヤリと笑う。

「これはちょうどいい。相馬、お前に聞かせてやるよ。この男の正体をな」

「小坂さん、北島君の正体って、どういうことなの?」

「こいつはな、昔、野球場にぶち込まれたことのある犯罪者なんだよ」

小坂の叫びを聞いて、俺の目の前は真っ暗になった。あれは、俺が入社して一年も経たない頃。明里の体調が急激に悪化し、入院することになった。高卒で社会人一年目の俺の給料は手取り十五万円ほど。前回の入院費用や高校の準備品などで貯金も底をついていた。一刻も早く入院費を用意したかった俺は、中学の頃から続けていたバイトを再開した。日頃から少々危うい仕事も引き受けていたが、今まで以上に突っ込んだ仕事にまで手を出した。その結果、俺は逮捕され、短い期間ではあるが服役したことがあった。職場にも迷惑をかけてしまい、最悪解雇されることも覚悟したが、小坂社長は俺を見捨てなかった。入院中の明里の面倒まで見てくれた上に、職場の人間には逮捕の事実を伏せてくれたのだ。しかし、息子の小坂純一は真逆だった。どこから嗅ぎつけたのか俺の逮捕の事実を知ると、それをネタに俺を脅しては、自分のミスの揉み消しや仕事の肩代わりをさせてきた。そして俺が支社に左遷されるきっかけになった五年前のミスも、本当は小坂が犯したものだった。

「どうだ。こいつはお前が思うようなやつじゃないってことが分かったか?」

勝ち誇った小坂の声に、相馬さんは静かに口を開いた。

「だから何だというの?」

「相馬! お前、何を言ってるんだ? こいつは犯罪者なんだぞ!」

「だから、何だというの?」

小坂の困惑した声とは対称的に、相馬さんの凛とした声が部屋に響き渡る。

「小坂さんの言う通り、彼は犯罪を犯したわ。でも、正式な裁判の場で裁かれ、服役という形でその罪を償った。支社で五年間真面目に仕事をして、本社に戻った後も、会社のためにしっかりと職務を果たしてる。そんな北島君のどこに問題があるというの?」

「そ、そんなの、犯罪者なんだから信用できるわけ……」

「犯罪者には更生の余地もないとなったら、何のための裁判で、何のための刑務所なの?」

小坂は言葉につまり、額に汗をかいていた。相馬さんは小坂を一瞥した後、悲しげに目を伏せた。

「誰だって、何かを抱えて生きているわ。人に言えない悩みかもしれない。誰にも見せられない傷跡かもしれない。そういったものを全部ひっくるめて、私たちは生きていかなくちゃいけないの。それが人間だと、私は思っているわ」

そう言うと、相馬さんは俺の顔をまっすぐ見つめた。その瞳は強く、そしてとても優しかった。

「それに、そういう人の方が、ずっとずっと強く生きていける。私はそのことを知ってるから」

「な、俺に説教するなんて、いい度胸じゃないか。俺に向かうやつはどうなるか、思い知らせてやる。二人とも、この会社にいられると思うなよ」

「そうですか。お父上にでも相談されますか?」

相馬さんの冷たい視線に、小坂は後ずさりしながら捨て台詞を吐いて会議室を飛び出していった。静まり返った会議室に、俺と相馬さんの二人だけが残った。

「北島君、大丈夫?」

「……相馬さん。俺、本当は後悔してたんです。俺が逮捕された時、事実を知った明里は、病室のベッドで一晩中泣いていたと、後に看護師さんから聞かされました。自分が病弱なせいでって、自分を責め続けて……。それからの明里は変わりました。体力作りのために運動を始めて、度重なる入院で遅れていた勉強も必死に取り戻して、看護師になるために看護学校へ通ったんです。『これからはお兄ちゃんには自分のために時間を使ってほしいから。だから私、頑張るよ』って笑ってました。俺は、生まれ変わったつもりで頑張ろうと思ってました。でも、罪を償っても、犯罪を犯したという事実は一生消えない。こんな俺と関わった人全員を不幸にするんじゃないかって、ずっと怖かったんです」

「いいのよ」

後悔と涙でぐちゃぐちゃな俺に、相馬さんは変わらず優しく寄り添ってくれた。

「私、あなたが悪い人だとは思えなかった。短い時間だったけど、あなたと一緒に仕事をして、言葉を交わして、どうしてもそう思えなかったの」

「相馬さん……小坂の恋人って、本当なんですか?」

「恋人ね。付き合わなければ首にするって脅されて、従うしかなかったわ。何もできないまま、やめさせられるわけにはいかなかったから」

小さく呟く相馬さんに、思わず拳を握りしめた。

「あいつ……」

「そうやって怒ってくれるのも、ここでは北島君だけ」

「相馬さん、ありがとうございます」

「いい顔になったわね。以前のあなたも素敵だったけど、私は今のあなたの方が好きよ」

突然の言葉に顔が熱くなる。相馬さんは声を上げて笑った。翌日、俺は社長室へ呼び出された。同僚たちがこそこそと噂する中、部屋を出ようとすると、相馬さんが呼び止めた。

「北島君。これ、ボールペン落としてたわよ」

「え、本当ですか? ありがとうございます」

「何を言われても、北島君は堂々としていなさい」

「ありがとうございます。じゃあ、俺、行ってきます」

社長室に入ると、笑顔を浮かべた小坂社長がいた。

「北島君、朝から呼び出してしまってすまないね。早速だが、息子から提言があったよ。今すぐ君と相馬君を首にするべきだとね」

「そうですか」

「しかし、安心してくれ。私は君をやめさせるつもりはないよ。君の能力を買っているのは、誰でもない、この私だ。順一の馬鹿げたことに耳を貸すつもりは一切ない。むしろ、今回のことであの馬鹿息子にはがっかりしているんだ。あいつには、君と入れ替わりということで、桜山支社へ行ってもらうことにしよう」

俺が五年間行っていた支社。小坂自身が左遷先と嘲笑していた場所へ、今度は小坂が出されることになるとは、皮肉なものだ。

「あいつは君の本当の能力を知らないから、あんなことができたんだ。本当に愚かだよ。だが、私は君の本当の能力も、その価値も分かっている。だからこそ、君を本社に戻したんだ。君なら会社のために尽力してくれると信じてね」

「小坂社長、ありがとうございます」

「では、早速なんだが、君は今のプロジェクトからは外れてもらう」

「え? どうしてですか?」

「ああ、心配しないでくれ。北島君には、北島君にしかできない仕事を頼もうと思っているんだ」

そう言って、小坂社長は一冊のファイルを俺の前に差し出した。ファイルの中身は、ライバル企業の情報を不正に入手するための指示書だった。

「過去に付き合いのある会社にハッキングして、今後の取引に使えそうな情報を引き出せ。それらしい噂をでっち上げて流せばいい」

「社長、一体何を言って……?」

「J君。お前が犯人に送った名前だったろう? 私が中学生の頃から、ブラックハッカーとして活躍する君に仕事を依頼していたのは、私だったんだよ。君のおかげでこの会社は成長できたと言っても過言ではない。ライバルを次々に出し抜く手伝いをしてくれたのだからね。それに、妹の治療費集めに必死だった頃は、かなり危ない橋も渡ってくれたな。本当に素晴らしい働きだった。だが、私も欲をかきすぎてしまったみたいでね。警察に目をつけられた時は焦ったよ。まあ、それも君が身代わりになってくれたおかげで、何とか逃れたがね」

「まさか……あの時、俺が捕まったのは?」

「ああ、そうだよ。私が警察に君の情報を流したんだ。君があっさり捕まってくれて、本当に助かったよ。それに君があの馬鹿息子の失敗を次々にかぶってくれたおかげで、会社の名誉も守られた。私たち親子は、君には頭が上がらないな」

驚愕の事実を次々と知らされ、俺は呆然とすることしかできなかった。

「ふざけるな! 俺は罪を償って、一からやり直すと決めたんだ。もう二度と、自分の力を悪事に使うことはしない!」

「ああ、では私の話を断ると?」

先ほどまでの和やかな笑みは消え、小坂社長の低い声が社長室に響く。

「君は恩を仇で返すというのだな。高卒で世間知らずな子供だったお前を雇ってやったのは誰だ? お前が服役中、妹の面倒を見てやったのは? 前歴のあるお前を何も言わずに戻してやったのも? それもこれも、全てお前にブラックハッカーとしての利用価値があったからだ。それなのに断るだと? もう少し頭を使わないと、今の世の中渡っていけないぞ」

「……最近、相馬君と親しくしているそうだね。知っているかな? 彼女には多額の借金があるらしくてね。そのために前の会社を辞めて、給料のいいうちに来たんだよ。そんな彼女が突然首になったら、どうなるかな?」

「どこまで汚いんだ……」

「使えるものは何でも使う。それが私の流儀なんだよ」

小坂社長の本心を聞き、俺は目をつぶった。胸を張って堂々としていなさい。相馬さんの言葉が思い出される。相馬さんを守ることができるのなら、俺が小坂社長の手先になる道を選んでもいい。でも、そうすることで、相馬さんを裏切ることになる。目を開き、せめてもの抵抗だと言わんばかりに、正面から小坂社長の顔を見据えた。

「……相馬さんに手出しをしないと約束してくれますか?」

「ああ、約束しよう。私からすれば、表で活躍してくれる相馬君、そして裏で活躍してくれる北島君。その両方が手元に残ってくれるのが一番だからね」

そう言いかけた時だった。

「バンッ」

社長室のドアが激しい音を立てて開かれ、凛とした声が響き渡った。

「そこまでよ」

そこにいたのは、厳しい表情で鋭く小坂社長を見据える相馬さんだった。

「相馬君! なぜここに? 人払いをしていたはずだろう!」

「ここには誰もいないわよ。あなたの仲間は、誰一人」

相馬さんは細長い機器を取り出し、操作した。すると、さっきの俺と小坂社長との会話が、クリアな音声で再生された。相馬さんは俺の方を見る。その視線の先には、さっき相馬さんが俺の胸ポケットに差してくれたボールペン。まさか、あのボールペンが盗聴器だったのか。

「無駄よ。これを壊したところで、どうにもならない」

相馬さんは書類を取り出し、小坂社長に突きつけた。

「小坂剛一、業務上横領罪並びに特別背任罪で逮捕します」

そこからはあっという間だった。相馬さんの言葉に続くように、社長室に数名の警察官が入ってくる。小坂社長は最初こそ抵抗したが、しばらくすると観念したのか、うなだれたまま連れて行かれた。事情聴取のため別室へ案内される途中、相馬さんの姿を見かけた俺は、思わず彼女を呼び止めていた。

「相馬さん!」

「北島君、ごめんなさい。あなたを騙して利用して、それに本当はあなたの過去も全部知ってた」

その表情は苦しげで、今にも泣き出してしまいそうだった。

「俺はそんなこと、気にしてません。あなたの役に立てたなら、それだけで」

「北島君、ありがとう。あなたと出会えて、よかった」

それはまるで別れの挨拶のようだった。相馬さんは俺の胸ポケットにあったボールペンを抜き取ると、キスを返した。

「待って、相馬さん!」

しかし、俺の呼びかけには答えず、相馬さんは彼女の本当の同僚たちの元へと去っていった。その日の夕方には、ニュースや新聞で小坂社長の逮捕が報道されていた。会社は倒産し、俺も一時的に無職になったが、その期間は明里が学校とバイトを両立して家計を支えてくれた。明里も無事に看護学校を卒業し、今は看護師として働いている。そして俺は、相馬さんが認めてくれた自分の能力を信じ、一念発起して情報セキュリティ会社を起業した。かつてブラックハッカーとして活動していた俺だが、自分のスキルを生かして誰かの役に立つには、この道が一番だと思ったからだ。あの衝撃の日から一年が経とうとしていた。相馬さんとはあれ以来会うことはなかった。彼女の連絡先すら知らない俺には、お世話になった警察の人に自分の連絡先を彼女に届けてもらうことしかできなかった。今日まで連絡も何もないということこそが、彼女の答えなのだろう。

「ジリリリリリ……」

会社の電話が鳴った。電話を取ると、南条という女性のお客さんが来ているということだった。心当たりのない名前に首をひねりながら、通してもらうように伝える。ドアをノックする音が聞こえ、客人を迎えようとドアを開けた。

「え?」

そこにいたのは、思いがけない人物だった。

「久しぶりね、北島君」

一年ぶりに聞くその声に、目頭が熱くなるのを感じる。

「相馬さん……。その名前、もう使ってないの?」

「南条彩佳。それが私の本当の名前」

「南条、彩佳さん……」

俺がそう口にした瞬間、彼女の顔が満面の笑みになる。

「北島君に呼ばれるの、なんかちょっと慣れないけど、嬉しい」

「仕事が忙しくて全然連絡できなかったんだけど、会社を立ち上げたって聞いて、お祝いを言いたくて」

「そうだったんですね。わざわざありがとうございます」

「私がこうして会社を立ち上げられたのは、全部、あなたのおかげです。自信もなくて閉じこもっていただけの俺を、南条さんが認めてくれたから、俺は自分の気持ちを丸ごと受け止めることができたし、何が何でも前を向いていくって決意できたんです。本当にあなたには感謝しています」

南条さんは静かに俺の言葉を聞いてくれていた。

「本当にありがとうございました」

そう言って頭を下げると、南条さんが小さく呟いた。

「違うわ」

「え? なんですか?」

南条さんの涼やかな目元には、涙が浮かんでいた。

「仕事のためなんかじゃない。あの時、北島君に言ったことは、全部本心だった。本当は隠さなくちゃいけなかったけど、私にはできなかった。だって、あなたのこと、本気で好きになってしまったから」

「本当は会いに来るべきじゃないって分かってた。でも、やっぱり私……」

俺は彼女の言葉を遮って、彼女の体を抱きしめていた。

「俺にも言わせてください。俺もずっとあなたが好きでした。ずっと会いたかった」

「北島君、本当に?」

「もう俺は、あなたに嘘なんてつきません」

涙がこぼれて濡れた頬を、指でそっと拭う。くすぐったそうに肩をすくめながら、彼女が甘く微笑んだ。

「私も、あなたにはもう嘘はつかないわ」

二人でしばらく見つめ合うと、どちらからともなく顔を近づける。唇が軽く触れ合った後、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。

「ねえ、元ブラックハッカーと警察官なんて、最高にドラマチックだと思わない?」

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