朝の五時半、階下から怒鳴り声が響いた。「起きなさい。嫁のくせに、いつまで寝てるの」。まだ薄暗い部屋で、妻の乃美がゆっくりと目を開けた。私は布団から這い出し、階段を降りた。台所には義母と義兄の妻が立っていた。何食わぬ顔で、私が作る朝食を待っている。あの日から、季節がいくつも変わった。義母と真梨子が転がり込んでから、私は早朝から起こされ、弁当を作り、掃除をし、庭の草むしりをし、帰宅すれば夕食の準…

朝の五時半、階下から怒鳴り声が響いた。「起きなさい。嫁のくせに、いつまで寝てるの」。まだ薄暗い部屋で、妻の乃美がゆっくりと目を開けた。私は布団から這い出し、階段を降りた。台所には義母と義兄の妻が立っていた。何食わぬ顔で、私が作る朝食を待っている。あの日から、季節がいくつも変わった。義母と真梨子が転がり込んでから、私は早朝から起こされ、弁当を作り、掃除をし、庭の草むしりをし、帰宅すれば夕食の準...

朝の五時半、階下から怒鳴り声が聞こえてくる。起きなさい。嫁のくせに、いつまで寝てるの。視界の端で、妻の乃美がゆっくりと目を開けた。窓の外はまだ薄暗い。息子の叶夢は隣で静かな寝息を立てている。下で朝食の準備をしなさい。早く。半分眠ったままの頭で、私は布団から這い出した。階段を降りると、リフォームしたばかりの台所に、義母の節子と義兄の妻、真梨子が立っている。何食わぬ顔で、私が作る朝食を待っている。出勤前に一階の掃除も言いつけられた。庭の草むしりも。帰宅すれば夕食の準備。弁当も作れと言われた。材料費はすべて私の負担だ。私が作った弁当を、真梨子が自分で作ったと義母に言っていることは、すぐに知った。それでも私は黙っていた。言い争うことが面倒だった。義母と真梨子がこの家に転がり込んできてから、季節がひとつ変わった。状況は改善するどころか、少しずつ悪化していくばかりだ。自分の何のために動いているのか、時々分からなくなる。それでも職場に立てば、木材コーナーの乾いた木の香りを吸い込むと、ほんの少しだけ自分に戻れる気がした。私の名前は藤崎乃美。四十二歳。ホームセンターでパートとして働いている。DIYとの出会いは父の背中だった。建築一筋で生きてきた父は、週末になると家のどこかを直していた。小学生だった私は、そのそばで釘を拾ってばかりいた。母が病気で亡くなったのは、私が中学一年生の夏だった。父は男手一つで私を育ててくれた。社会人になってから、私はDIYで作った小物をネットで販売し始めた。小さな収入だったが、少しずつファンがつき始めた。ワタルと出会ったのは、勤務先の店舗が変わってからのことだった。当時三十五歳のワタルは、現場仕事をしていた。自分の手で何かを作ることに価値を置いている男だった。彼の兄である譲と、その妻の真梨子とも顔を合わせるようになった。初めのうちは、真梨子は感じのいい人だと思っていた。義母の節子は、結婚の報告をした時にこう言った。結婚するなら勝手にすればいいわ。でも、援助は一切しないからね。私たちはひっそりと入籍した。式はあげなかった。父は心から祝ってくれた。幸せにしてやれよと、ワタルに頭を下げた父の目がうっすらと赤くなっていた。三十八歳の時に、叶夢が生まれた。小さな手が私の指を握った瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。父とワタルと叶夢。四人での暮らしが始まった。叶夢が四歳になった頃、家を建てようという話が持ち上がった。父が「俺が図面を引いてやる」と言い出したのだ。そんな矢先、義父の容態が急変した。それから、仕事が終わると病院へ向かう日々が続いた。ワタルは時間の大半を病室で過ごした。私たちがそうやって義父に尽くす姿を見て、義母は言った。お前たち、お父さんの遺産が欲しくてそんなことしてるんだろ。浅ましいね。義父の状態が悪化するにつれ、義母の言葉はさらに鋭くなっていった。ある日、病院の廊下で真梨子がぽつりと言った。余計なことしない方がいいんじゃない?早く楽になった方が、お父さんのためよ。その言葉の意味を、私はすぐには飲み込めなかった。義父が亡くなったのは、ある夜中のことだった。病室に着いた時、義父はすでに無言だった。ワタルは長い時間、義父の手を握ったまま何も言わなかった。翌朝、病院に到着した義母が最初に放った言葉はこれだった。ろくに親もしてないくせに、こんな時ばっかり悲しむんじゃないわよ。ワタルの背中が、ほんのわずかに揺れた。葬儀には、海外赴任中の譲も駆けつけた。四十九日が終わって一週間も経たないうちに、義母から呼び出しがあった。駅前に立つタワーマンションの上層階。部屋を尋ねると、玄関から先には入るなと言われてしまった。お父さんの私物を整理してるから、散らかってるのよ。整理を手伝おうかと提案しても、断られた。大事なものだから、取られたら困るのと。義母は玄関先の廊下で、遺産の分配を一方的に告げた。不動産はこのタワーマンションと、譲のマンション。そして、築五十年の古い戸建て。その戸建てを、私たちに「住む権利」として与えると言う。名義は譲のまま。固定資産税は自分たちで払ってね。現金の配分は、義母が大半を取り、残りは譲へ優先。ワタルに渡ったのは、百万円ぽっきりだった。あれほど病院に通い、洗濯物を持ち帰り、費用を折半してきたワタルへの配分が百万円。文句あんの?そもそも、ろくに親もしてないんだから、このくらいが妥当でしょう。義母はそう言って、まるで犬を払うように手を振った。パタンと、鉄のドアが勢いよく閉まった。帰り道、ワタルは無言だった。喪失感と、言葉にできない理不尽が、二人の間に漂っていた。後日、私たちはその古い戸建てを見に行った。外壁は年季が入り、庭の草は伸びていたが、基礎は悪くない。ワタルも私も、内部を見て回ると、柱や梁はしっかりしている。ここを直して住もう。その話はすんなりと決まった。譲に連絡を取ると、返事はすぐに来た。あの家に住むんだって?DIYなんて全然OKだよ。ずっと住んでいいよ。ただ、ちょっと理由があって、居住は二階の方がいいかな。その理由については、詳しく聞かなかった。私たちは二ヶ月以上かけて、二階の補修を仕上げた。床の張り替え、壁紙の張り替え、照明の取り付け。やり切ったという充実感と、新しい暮らしが始まるのだという期待が、じわりと胸に広がった。そんな中、譲と真梨子の息子である竜二が、大学を休学して留学したいと言い出した。希望の留学先は、譲が赴任している国だった。真梨子はその話を聞いて、顔を輝かせた。いいじゃない。向こうで色々学んできたらいいわ。竜二が旅立って数日後、義母から連絡が来た。真梨子さんが一人で寂しそうだから、あなたたちの家に住ませなさい。提案でも相談でもなく、これは命令だった。私は思わずワタルに言った。それなら、母さんのマンションで一緒に住めばいいんじゃないか。しかし、義母は首を縦に振らない。だめよ。このマンションは借りたいって人がいるの。少しでも収入になった方がいいでしょ。そうして、義母も真梨子も、この家で一緒に暮らすつもりだということが判明した。家の工事がまだ終わっていないと伝えても、じゃあ早く片付けなさい。すぐに私たちが住めるようにしなさい。分かったわね。そう言うばかりだ。後日、強引に押しかけてきた義母は、室内を一通り見回してこう言った。まあ、綺麗になってるじゃない。これなら住めるわよ。一階の水回りはまだ不安が残ると伝えても、聞く耳を持たない。私たちが二階に住むので、一階にお二人で住んではいかがですかと促すと、義母は足が痛いから階段なんて使いたくないと言った。どうしても一階がいいと言い張る。気がついた時には、義母と真梨子の荷物が運び込まれ、二人は一階に住み始めていた。治まってきた生活は、最初の朝から一変した。早朝五時半に起こされ、朝食を作り、庭の草むしり。出勤前には一階の掃除。帰宅すれば夕食の準備。どれも当然のこととして扱われ、感謝が返ってくることはない。ある日、真梨子から「今日は全員の分を作って欲しい」と言われた。いつもは二階と一階で別々に食事をしていたので、珍しいと思いながら台所に立った。時間をかけて準備が整い、盛り付けようとしたその時。もういいわ。さっさと二階に戻って。追い出されるように二階へ戻される。すると、今度は下から声がかかった。のぞみさんたちも来なさい。食卓には、私が作った料理が並んでいた。見なさい。真梨子さんがみんなの分の夕食を準備してくれてるのよ。本来あなたがやるべきなのに、全部真梨子さんがやってくれたの。反論しようとして、真梨子と目があった。彼女は穏やかに笑っている。あの、これは乃美さんが作ったんです。私の声は遮られた。真梨子さん、この味付け最高だわ。本当によくできたお嫁さんね。涙をのんで、私は箸を動かした。胸の奥で何かが煮えくり返るようだった。義母と真梨子が来てから、季節がひとつ変わって、また春が来ていた。状況は改善されるどころか、少しずつ悪化していく。早朝に起こされ、弁当を作り、出勤前に一階を掃除し、帰宅後に夕食の準備をする。そのどれもが当然のこととして扱われた。職場の木材コーナーに立っている時間だけが、私に戻れる場所だった。ある休日の昼下がり、一階から真梨子の声がした。ちょっと来てもらえる?床がベコベコするんだけど、直して。すぐに降りると、脱衣所の床が沈んでいた。そこには、大きな鏡台が置いてある。何度も繰り返し伝えてきた「重い物を一階に置かないでください」という言葉は、届いていなかった。このままでは床が抜ける。ワタルと二人がかりで鏡台を移動させ、床の状態を確認して補修した。作業が終わった頃には、日が傾いていた。時間かかりすぎ。おかげでお風呂に入れなかったじゃない。どうしてくれんのよ。数日後、また真梨子から声がかかった。シンクの水が流れないという。確認すると、排水トラップにゴミがぎっしりと詰まっている。食材の切れ端とティッシュが混じり合っていた。ここにゴミが溜まっていたんです。気をつけてくださいね。そう伝えた瞬間、真梨子の顔色が変わった。私のせいだって言いたいの?あんたたちがちゃんとしなかったからでしょ。三日後、また同じ理由で呼び出された。今度は髪の毛も混じっている。もう、ゴミ箱のように排水溝に流しているとしか思えない。呼び出された側が悪者にされる。その理不尽な構図が繰り返されていた。さらに三日後、また呼ばれた。無言でしゃがみ込み、排水トラップを外して清掃を始める。すると、玄関のチャイムが鳴った。義母が帰ってきたのだ。またパチンコで負けたのか、廊下を近づいてくる足音が重い。台所に入ってきた義母は、私たちを見て眉をひそめた。またあんたたち、勝手なことして。やめなさい。何度言ったら分かるの?さすがに黙っていられず、私は口を開いた。真梨子さんから頼まれて。言い終わらないうちに、真梨子が叫んだ。私も、やめてって言ったのに、二人が勝手に来て。ワタルと私は顔を見合わせた。今聞いた言葉は、現実のものだろうか。勝手に触るなって言ってるでしょう。私が夕食の準備をしようとしたら、二人が来て何かゴソゴソし始めて。止めようとしたんですけど、怖くて。涙声を装った真梨子の声が、台所に広がった。そうなの?真梨子さんが可哀想に。あなたたち、もう許さないから。その瞬間だった。パシャリという乾いた音とともに、頬に衝撃が走る。何が起きたか理解するより先に、左頬が熱くなった。お前の態度を直してやる。真梨子さんを見習いなさい。義母の声が空気を貫いた。いつも、姑にいじめられてるんです、三回目なんです。真梨子の目には涙が光っていた。しかし、泣いてはいない。声を震わせながらも、義母がどう反応するかを確かめている。弱者を演じることに、真梨子は慣れているようだった。出てく。うん。車が動き出すと、ワタルが口を開いた。乃美。ごめんね。もう、家族だなんて思わなくていいから。俺もそうするし。ワタルがちらりとこちらを見る。私は窓の外に目を向けたまま、口元をわずかに上げた。このまま、泣き寝入りしようと思ってたけど。気が変わったわ。走り続ける車の中に、その言葉が漂った。ワタルは何も聞かなかったが、ハンドルを握る手の力が、少し緩んだような気がした。父の家に着いたのは、昼過ぎのことだった。父は私の顔を見て、一瞬だけ目を細めた。それから叶夢に視線を移し、口元を緩めた。お父さん、急にごめんね。構わないよ。ほら、入ってゆっくりしなさい。叶夢は玄関に入るなり、「じじ」と叫んで父の腰に飛びついた。その日の夕方、父が庭でバーベキューをしようと言い出した。カナトは大はしゃぎで庭を駆け回る。夕日が庭の木々に傾きかけていた。風は穏やかで、遠くで鳥の声がする。私はお茶を持って椅子に腰を下ろした。葉夢の声が耳に届いて、ワタルと父が隣にいる。それだけで、胸の奥に確かな満足が広がっていった。間違ってはいない。あの家を出てきたことが、正しかったのだと。しばらくして、私のスマートフォンに、真梨子から着信があった。画面を見て、私は通話を切った。数日後、今度はワタルのスマートフォンが鳴る。義母からだと言う。出なくていいの?うん。もう、関係ないもんね。そう言って、ワタルはスマートフォンをポケットに戻した。すると、今度はメッセージが届き始めた。水が全然流れない。すぐ来て直して。やはり排水溝だった。私はスマートフォンで検索をかけ、地元の水回り専門の業者のホームページを見つけ、そのURLをコピーした。メッセージの返信欄に、そのURLだけを貼り付けて送信した。数分後、真梨子からメッセージが届く。人にも程がある。ひどすぎる。こっちは困ってるのに。私は無言でロックした。翌日、義母からもメッセージが来た。お前らが何か仕掛けていったんだろう。嫌がらせにも程がある。警察に通報するからな。それを読んで、私は少しの間考えた。この人たちの世界の中では、全てが自分たちを中心に回っているのだろう。困ったことが起きれば、誰かのせい。自分たちは常に被害者だ。知ったことではない。勝手にすればいい。そう思いながら、私はスマートフォンを置いた。日常が少しずつ戻ってきた。叶夢の新しい保育園は、以前この家で暮らしていた頃に通っていた園だ。手続きをして戻ると、彼はたちまち輪の中に引き込まれた。ネット販売の作品も、少しずつ再開した。久しぶりに工具を手に取ると、指先がその感触を覚えていた。家を出て一ヶ月が経った頃のこと。ワタルのスマートフォンに、着信があった。あの家のお隣に住んでる、島本さんからだった。家に来て欲しいって。島本さんは、引っ越した当初に挨拶に伺った時に出てきた、小柄な年配の女性だ。穏やかな人で、叶夢に飴をくれたこともある。その島本さんが、わざわざ電話をかけてきた。あの家で、何かが起きている。そう直感した。あの家が見えてきた時、最初に気づいたのは人の気配だった。玄関前に数人が固まって立っている。みんな、一様に顔の前に手やハンカチを当てている。車を止めて降りた瞬間、鼻をついた。思わず声が出た。何かが腐った匂い。複数の腐敗が重なり合った、層になった悪臭だった。これほどの悪臭を、近所の人たちは何日も嗅がされてきたのだろう。そう思うと、申し訳なさが先に来た。島本さんは、ここ数日ずっとこの匂いなのよ。夜は窓も開けられなくて。そう言って、昨夜、家の明かりがついたタイミングで玄関を訪ねたが、義母に怒鳴られたらしい。こんな時間に何なの?非常識にもほどがあるわ。全く、話を聞いてもらえなかった。島本さんは申し訳なさそうに目を伏せながらも、正直に話してくれた。渡る君たちは、引っ越していたのね。確かに、これじゃ住めないわよね。その言葉が胸に落ちる。私たちは、家の敷地に足を踏み入れないようにしながら、遠くから状況を確認した。勝手に庭に入れば、不法侵入だって騒ぎ立てるに違いないから。島本さんの家の庭越しに裏手を覗いてみると、縁の下に何かがびっしりと詰め込まれている。目を凝らすと、半透明のビニール袋が何重にも重なっているのが見えた。生ゴミだ。ビニール袋の中に、食べ物の残りかすが詰まっている。袋は複数あり、縁の下にぎっしりと押し込まれていた。さらに視線を移すと、花壇の土が不自然に盛り上がっている。私が丁寧に植えた花壇だった。叶夢が「綺麗だね」と言って、毎朝水をやるのを手伝ってくれていた。その花壇が掘り起こされ、土が山のように盛られている。あの盛り上がった土の下に、ゴミが埋められているのではないか。私たちが二ヶ月以上かけて作り上げた家が、一ヶ月でこうなっている。その事実を飲み込むのに、少し時間がかかった。すると、家の正面の方から騒がしい声が聞こえてきた。義母が玄関先に立ち、近所の人たちに向かってわめき散らしている。なんだよ、あんたたち。人の家の前に集まってるんじゃないよ。近所の人が悪臭の件を伝えようとすると、義母の声はさらに大きくなった。はあ?家の中のことなんて、関係ないでしょう。プライバシーの侵害だよ。周囲の人たちが困り顔で顔を見合わせている。その義母が、人だかりの中に私たちを見つけた。あ、あんたたち。私が連絡したのに、無視したね。人非人のクズ夫婦が。大勢の中で浴びせられた言葉に、周囲が静まる。ワタルが一歩前に出た。出ていけって言ったのも、関わるなって言ったのも、母さんだろう。穏やかな声だった。義母は一瞬言葉に詰まったが、すぐに表情を険しくする。言い訳するな。お前たちが、この匂いを何とかしろ。今すぐ。結局、義母の許可を得て庭に入ることになった。ただし、家の中には入るなと言われた。縁の下に詰め込まれたゴミを、一つずつ引き出す。ビニール袋は想像以上の数があった。中には、内容物が液状になりかけているものもある。口元をタオルで覆いながら、それでも手を止めずに続けた。近所の人が手伝おうとしてくれたが、義母が「私の家の庭に入るな」と遮った。結局、ワタルが一度父の家に戻ってトラックを借りに行き、私が一人で作業を続けた。庭のゴミが片付くと、悪臭は和らいだ。島本さんが「ありがとう」と言ってくれた。その言葉を受け取りながら、私は張り詰めていたものが緩んでいくような感覚を覚えた。島本さんが、義母に向かって少しためらいがちに口を開く。こんなこと言いたくないけど、節子さん。お嫁さんに、あの態度はないんじゃないかしら。義母の顔色が変わった。何言ってるの?嫁は、嫁いできた瞬間から私の私物なのよ。私がどう使おうが、私の勝手でしょ。周囲が静まり返った。嫁を私物と言い切った義母。冗談でも勢いで言ったのでもない。義母は本気でそう思っている。この人は、最初からそういう人だったのだ。あの日、ワタルに親孝行をしていないと言い、私の頬を打ち、料理の手柄を奪わせ続けた。全てが、一本の線で繋がった気がした。島本さんは何も言わなかった。見るからにドン引きした表情だ。義母は、大きな音を立てて玄関のドアを閉めた。しばらく、誰も動かなかった。すると、後ろから小さく肩を叩かれた。ここにいたのは、島本さんのお孫さんのナツキちゃんだった。高校生くらいの、明るい髪色の女の子である。私は、のぞみさんたちの味方だよ。ナツキちゃんはそう言って、にっこり笑った。その手には、最新のスマートフォンが握られていた。翌日、真梨子から電話がかかってきた。いつもなら画面を確認して無視するところだが、昨日の一軒もある。何か言ってくるかもしれないと思い、電話に出た。庭のゴミ、片付けてくれたのね。助かったわ。また、定期的にお願いね。笑いが混じっていた。お礼でも、申し訳なさでもない。当然のことが行われた、という口ぶりだ。断ると、真梨子が続けた。私たちは別にいいけど、ご近所さんが困るんでしょう。だったら、何とかしないとね。近所への迷惑を人質にしている。計算の透けた言い方に、私は胃の辺りがじわりと重くなった。真梨子さん。どうして、そんなことになるんですか?勤めて落ち着いた声で聞いた。すると、真梨子は少しの間を置いてから、閉塞的に説明し始めた。排水溝が詰まった後、次は洗面所に生ゴミを捨て始めたのだという。ただ、そこも詰まった。トイレも、風呂場も、次々と詰まっていったらしい。ゴミ袋に入れるようになったが、今度は袋が部屋を埋め尽くし始めた。一階が生活できない状態になり、二階へ上がった。そして、庭に捨て始めた。最初は困って、のぞみたちに助けを求めていたが、庭に捨てることを思いついてからは、特に気にならなくなったのだとか。あなたたちが悪いのよ。どういう神経をしていれば、そうなるのか。怒りより先に、力が抜けた。真梨子さん。あなた、終わりますよ。私は落ち着いて、はっきりと言った。へえ。何かするつもり?お母さんは私の味方だから。何言っても無駄よ。真梨子は笑いながら、そう言って電話を切った。私はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。真梨子は「お母さんは私の味方だから」と言った。それは本当のことだ。義母は、真梨子の味方だろう。しかし、この世界には義母と真梨子の二人だけがいるわけではない。もっと広い場所に、この話は続いていく。真梨子は、そのことをまだ知らないでいる。私はスマートフォンの電話帳を開き、ある人物の番号を探す。かけるべき相手は、すでに決まっていた。それから数週間、同じことが繰り返された。悪臭の連絡が島本さんから入り、ワタルと私があの家へ向かい、後始末をして帰る。その繰り返しだった。これ以上、ご近所に迷惑をかけ続けるわけにはいかない。そう判断して、週に一度、定期的にあの家へ行くことにした。まるで、召使いのように。帰りの車の中で、私はワタルに言った。来週の月曜日、叶夢のお迎え、お願いできる?もちろん、大丈夫だよ。母さんと真梨子さんには、ちゃんと家にいてもらう。ワタルの声は穏やかだった。しかし、その目には覚悟のようなものが宿っている。翌週の月曜日、私は手を振って家を出た。車に乗り込みながら、ワタルに聞く。お母さんには、何て言ったの?いつもは朝からパチンコに行くから、重要な用事じゃないと家にいないでしょ。もうすぐ、兄さんが帰ってくるみたいだよ、って言ったんだ。そしたら、今すぐ家の中を片付けに来なさい、だってさ。思わず苦笑いが出た。さらにワタルによると、義母は私たちがまだあの家に住んでいることにしろ、とも言ってきたらしい。海外赴任中の譲に、次男夫婦を追い出したことを知られたくない。そういうことだろう。あの家が見えてきた。近づくにつれ、かすかに悪臭が漂ってくる。インターホンを押すと、しばらくして真梨子が出てきた。無言のまま「入って」だけ言い、奥へ引っ込む。玄関に入った瞬間、言葉を失った。家の中は、想像を超えた状態だった。廊下にはゴミ袋が積み上がり、床には食べかけのものが放置されている。壁紙が剥がれかけている箇所もあった。私たちがあれだけ丁寧に仕上げた内装が、見る影もない。奥から義母が現れた。遅いじゃないか。今すぐ、片付けなさい。丁寧に、急いで。相変わらずの命令口調だ。私は義母に、はっきりと言った。私たちは、掃除をしに来たわけではありません。義母の目が細くなる。あ、口答えするの?嫁は黙って、私の言うことを聞きなさい。真梨子さんは体調が優れないのだから、家事ができないのよ。真梨子の方を見ても、どこも悪そうではない。腕を組んで、こちらを見ている。お母さん。真梨子さんって、家事が全然できないんですね。そんなことないわよ。あんたたちがいた時、ずっとやってくれてたでしょ。あれ、全部私がやってたんです。ずっと言ってきましたが、全然信じてくれませんでしたよね。義母の目が、わずかに揺れる。それでも認める気はないらしく、すぐに顔を険しくした。当然でしょ。真梨子さんは、譲が選んだ人なのよ。完璧に決まってるじゃない。すると、玄関の方で音がした。ドアが開く音。足音。そして、聞き覚えのある声。ただいま。義母と真梨子の目が、同時に大きくなる。え、譲。まだ先だと思ってたのに。真梨子の顔から、余裕が音を立てて消えていった。言っただろう。もうすぐ帰るって。廊下に現れた譲は、疲れた旅のまま、ゆっくりと室内を見回した。荒れ果てた家の惨状が、一目で分かる。その目が、真梨子のところで止まった。マンションに寄ったら、知らない男が住んでいた。真梨子。どういうことだ?真梨子の顔が引きつった。言い訳を探すように、目が泳ぐ。へ、人に貸し出してるだけよ。俺は、許可したか?言葉は短かったが、その重さは十分だった。真梨子の目が、せわしなく泳ぐ。そして、言葉もなくなる。真梨子をフォローしようと、義母が割って入る。譲。怒らないでやって。真梨子さんは寂しかったんだよ。だから、だからね。家に男の人を住ませてたんだって。ち、違うって。その男が言ったんだよ。自分は真梨子の恋人だけど、あんたは誰だって。真梨子が、小さく息をのんだ。竜二が留学に旅立つと聞いて大喜びしていたのは、息子への愛情からではなかったのだ。彼が家を出れば、男を堂々とマンションに住ませることができる。この家に転がり込んだのも、マンションを人に貸し出していると見せかけるためだった。夜な夜な出かけていたのも、男に会うため。全て、辻褄が合う。真梨子の笑顔の裏には、ずっとそういうものがあったのだ。ま、いい。それは後でゆっくり話し合おう。で、なぜ母さんと真梨子がこの家にいるんだ?この家は、俺たちに住んでもらうことになっていたはずだが。譲の問いに、義母が口を開く。わ、ワタルも、乃美さんも、住んでるわよ。住んでません。今は、私の父のところにいます。そう、この人たち、勝手に出ていったのよ。家事も何もしないで、こんなに家を荒らして。無責任にゴミを放置して、出ていったの。真梨子は義母に同調して、嘘に嘘を重ねた。それに、私たち、のぞみさんからひどい嫌がらせを受けてたのよ。わざと排水溝を詰まらせて、水を使えないようにされたの。暴言も浴びせられた。家事も食事の支度も、全部私にやらせてたのよ。本当よ。でも、のぞみさんがそれをした証拠なんて、ないの。だから、信じてもらえないのは、分かってるわ。証拠がなければ勝てる。長年、そうやって生きてきた人の確信に満ちた顔だった。そうか。母さんたちの主張は分かった。そこまで言うなら、証拠を確認しよう。え?譲がふと廊下の方に目を向けた。その動作は、まるで最初からそうするつもりだったかのようだった。義母と真梨子が、その視線を追う。譲は迷わず、声をかけた。竜二。おいで。現れたのは、竜二だった。義母と真梨子が固まる。今回、竜二と一緒に帰国してきたんだ。そうそう。ワタル。この家に入居する時に、俺、二階で生活するようにって伝えてたよな。ああ。詳しい理由は聞かなかったけど、そう言ってもらってた。だから、二階を先に補修してたんだ。譲は短く頷く。理由は、一階に防犯カメラを設置していたからだよ。去年の秋頃に、侵入者が来たことがあってな。念のため、一台だけつけていたんだ。所有者の俺が設置してたんだから、問題はないはずだ。義母の顔から、血の気が引いていくのが見て分かった。真梨子も、青い顔で唇を噛んでいる。母さんたちが、のぞみさんに意地悪されてたなら。映像と音声が残っているよね。確認してみようか。いいから、証拠なんて探さなくていい。いらない。やめて。その慌てっぷりが、全てを物語っていた。竜二がパソコンを操作し、記録を再生する。画面に映し出された映像を見て、義母の顔が青白くなった。早朝から私たちを怒鳴りつける義母の姿。私が時間をかけて作った料理を、自分の手柄として義母に差し出す真梨子の姿。八時間かけて床を補修し続けるワタルと私の姿。何度も何度も排水溝にゴミを詰まらせる真梨子の姿。そして、私の頬を打つ瞬間までも、カメラは鮮明に記録していた。竜二はそれを確認した上で、私に電話をかけてきてくれたのだ。証拠があります。泣き寝入りしないでください。その一言が、私の覚悟を決めた。さらにもう一つの証拠があった。ナツキちゃんのスマートフォンだ。彼女もDIYが好きで、私たちが毎日少しずつ家を改修していく様子を、ずっとスマートフォンで撮影していたのだという。その動画には、家の外で騒ぐ義母たちの言動も映り込んでいた。真梨子と義母が庭に大量のゴミを捨てる様子。義母が大勢の前で私たちを怒鳴りつける場面。縁の下に大量のゴミが詰め込まれた庭の全景。私が一人で黙々と後始末をするところも、記録されていた。義母が腕を組んで冷たく見下ろす姿も、「嫁は私物」という言葉までも。ほら、ここ、本当に最低だね。二人とも。自分の手柄として料理を差し出す場面が流れた時、真梨子の顎がわずかに動いた。しかし、声にはならなかった。映像の前では、言葉は無力だった。全部、説明してもらおうか。ち、違うの。あれは、そういうつもりじゃ。真梨子は、自分は関係ないという顔で黙っていた。真梨子。お前もだ。遺産の分配についても、譲は明確に指摘した。俺は、四十九日も過ぎてから、と言ったはずだ。なのに、何で遺産の分配が一人で決まってるんだ?母さんは俺に、現金は均等に分けたから、家の名義は譲のままで、って言ったよな。なんなら、ワタルに多めに渡すことにしたとも。実際にワタルが受け取ったのは、百万円である。しかも、相続税を持ち出した、わけの分からない理由で。義母は反論しようとしたが、映像の前では声がしぼんだ。母さん、真梨子。この家から出ていってくれ。名義は俺だ。俺からの命令だ。そんな、どこに行けというの?マンションに戻ればいい。ただし、出ていく前に、この家をきちんと片付けること。それだけだ。そして、譲は真梨子との離婚を考えていることを告げた。あのマンションからも出ていけよ。男と一緒に。真梨子には、後で弁護士を通して連絡をする。しっかり対応してくれよ。真梨子の顔が歪んだ。義母が真梨子に寄り添う。真梨子さん、可哀想に。竜二も可哀想。譲、考え直しなさい。竜二を、父親のいない子にするつもり?男の子なんだから、父親とのコミュニケーションは大事なのよ。義母の言葉を聞いて、竜二の顔が引きつる。彼を、一体何歳だと思っているのだろうか。現在の日本の法律では、もう成人である。小さい子供じゃないんだから。でも、俺は父さんと一緒に暮らすよ。この先も。それを聞いた真梨子の顔から、最後の余裕が消えた。息子まで失う。その現実が、ようやく真梨子の表情を崩した。しかし、誰もその顔に同情しなかった。義母は最後まで私を罵り続けた。クズ嫁が、お前のせいでこうなったんだ。全部、お前が悪い。怒鳴り声は、もはや叫びだった。言葉に力はなく、感情だけが空を切っている。私は反論するにも値しないと思ったが、一つだけ、言いたいことがあった。そう言いますけど、お母さん。私の作った料理、美味しいって食べてましたよね。義母の顔が、悔しさでぐしゃりと歪む。言い返す言葉が、出てこないようだ。長い沈黙の中で、私はワタルと目を合わせた。ワタルは小さく頷き、そのまま二人でその家を出た。玄関のドアを閉めた瞬間、後ろから義母の声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。外の空気が、深く肺に入ってくる。青い空が広がり、風が頬を撫でた。あの家を出た日に抱えていた重さとは、全く違う感覚である。軽いというより、晴れやかだった。ワタルが、私の隣に立つ。二人で、しばらく空を見上げた。長かったけれど、終わった。私たちは並んで、父と叶夢の待つ、我が家へ向かった。その後、譲の言葉通り、義母と真梨子はあの家を出ることになった。弁護士を通じた連絡が届いた後、真梨子はほとんど抵抗しなかったという。竜二が父についていくと宣言した時点で、真梨子の手札はすでに尽きていたのだろう。彼らの離婚は成立した。慰謝料の請求は着々と進み、真梨子は相当額を支払うことになったと、後にワタルから聞いた。義母はタワーマンションに戻った。しかし、そのマンションがどういう状態になっているかは、想像に難くない。あの戸建てと全く同じことが、起きているはずだ。住める状態ではなくなったマンションで、一人でゴミの山に囲まれて暮らす義母の姿が頭をよぎる。哀れだとは思わなかった。これは、義母自身が積み重ねてきた結果だ。ワタルへの遺産配分についても改めて話し合いが持たれ、正当な金額がワタルの手元に渡ることになった。相続税などという言葉で丸め込もうとした義母の打算は、最終的に全て崩れた。あの家は、ワタルと二人で丁寧に再び直した。今度は、誰にも邪魔されずに。父も手伝いに来てくれて、叶夢はその足元でまた釘を積んでいた。二階も一階も、本来あるべき姿に戻っていく。細部の仕上げはプロの業者に頼んで、家はまるで新築のように生まれ変わった。私たちはもうこの家には住まない。綺麗になった家は、譲が賃貸で貸し出すことにした。私はホームセンターでのパートを続けながら、ハンドメイド作品の販売を本格的に進めている。父の建築知識と、私のデザイン感覚が合わさった作品は、以前より確実に売れるようになっていた。いつかお店を持てたら。そう、父と話すことも増えた。叶夢は今日も、父と並んで金槌を握っている。その姿を見て、私もワタルも目を細める。これが、私の幸せな日常だ。

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