「貧乏人はいらん。離婚で」
直が離婚届をテーブルに叩きつけた。こちらを馬鹿にしきった言い方に、背筋が凍る思いがした。
「まあ、このまま放り出すのはかわいそうだからな。選択肢をくれてやる。今後一生、俺に絶対服従すると誓え」
あまりの言い草に、私は言葉を失った。直は勝ち誇ったように腕を組み、私が知事の借金を相続したことを鼻で笑った。
「専業主婦が一人で2億なんて返せるわけないだろ。俺が手を差し伸べてやるって言ってるんだ。感謝しろよ」
私はポカンとしていた。これが彼の本性か。私が昔から嫌い抜いてきたタイプの人間そのものだった。
足音が近づいてくる。ユナだった。
「私はママについてくよ」
私は目を閉じる。泣きそうになるけれど、泣いている場合じゃない。守らなければ。何よりもまずユナを守りたい。それが私の一番の役割だ。
私はボールペンを取る。不思議なくらい迷いはなかった。
離婚届にサインを終え、即座に行動を開始した。
私の名前は三木あみ。どこにでもいる35歳の専業主婦だ。
自分で言うのもなんだが、私はかなり顔立ちが整っている方だと思う。学生時代は毎日のように告白されていた。周囲からは美人よりも可愛い系だと評価される。モデルをしていたこともあった。子供を産んだ今でも20代に間違われるし、よくナンパされる。
だが、それは私にとっては嬉しいことではない。外見で舐められていると感じるからだ。
もちろん褒められることには慣れているし、素直に嬉しいと思う。だが、私の外見しか見ていない人間の口から続く言葉はいつも薄っぺらかった。「何も考えてなさそう」「守ってあげたくなる」「怒らなそう、ふわふわしてそう」など、勝手なイメージばかり押し付けられる。その度に私は心の中で毒づいていた。
初対面の数秒で何が分かるのよ、と。
私はおっとりした性格ではない。むしろ逆だ。白黒はっきりつけたいタイプだし、嫌いなものは嫌い。納得できないことには従わず、腹が立てば普通に言い返す。
学生時代、しつこく言い寄ってきた男子に真正面から「無理」と切り捨てて泣かせたこともある。撮影現場のスタッフからつきまとわれてぶち切れた末に、逆に胸ぐらを掴み上げて一発お見舞いしたこともあった。
特に男性は私を見ると、勝手に「大人しそうで従順で扱いやすい女」だと思い込むようだ。だからこそ、相手がこちらを見下しているのにも私はすぐ気づくことができる。
舐められないためにも、私は自分の性格を偽ることなく生きてきた。周囲にどう思われようと構わない。ただまっすぐに己の生きざまを貫く。そうすれば自然と道は開け、信頼できる人たちと共に日々を過ごすことができる。何の疑いもなく私はそう信じていた。
3歳年上の夫と出会ったのはまだ20代半ばの頃だ。
当時の私は学生時代から続けていたモデルの仕事をやめ、別の職へ進もうとしていた時期で、人生の方向性をなんとなく探している最中だった。そんな時、人から食事会に誘われた。
「あみが絶対に好きだって感じる男。連れて行くから。あんたまだ若いんだから少しは恋愛しないと」
強引に連れて行かれた先で、私は直と出会った。
第一印象は真面目そうな人。背筋がちゃんと伸びていて清潔感があり、物腰も柔らかい。誰に対しても気配りを欠かさず、店員への態度も丁寧だった。
正直最初は警戒した。私は昔から優しそうな男性に対して条件反射で身構えてしまう。表面だけ取り繕って中身は腐っている人間を嫌というほど見てきたからだ。
だが直は違った。会話の最中、私が冗談半分で投げた言葉にもきちんと自分の考えを返してくる。適当に同意し、こちらの気分を良くさせるために合わせることをしない。
「もし結婚しても専業主婦とか絶対向いてない気がするんですよね。私」
私がそう言うと、直は淡々と自分の意見を述べた。
「向いてるかどうかじゃなくて、自分がどう生きたいかじゃないですか」
その返答が妙に印象に残る。外面的な話ではなく、ちゃんと私自身を見ようとしている感覚があったからだ。
付き合うようになってからはもちろん衝突も多かった。私は白黒つけたがる性格だし、直も自分の考えを曲げない。どちらも負けず嫌いなのだ。言い合いになることも珍しくなかった。それでも不思議と嫌ではなく、むしろ心地よかった。私という人間と真正面から向き合ってくれると感じていた。
交際期間を経て私たちは結婚し、1年後には娘のユナが生まれる。
ユナは私によく似ていた。ぱっちりと開いた丸い目、ふさふさした黒く長いまつ毛。肌の色は抜けるように白く、頬はいつもバラ色。小柄な体格に柔らかそうな雰囲気をまとっている。年齢が1桁の頃から誰もが振り返る美少女だった。初対面の人間はほぼ確実に「大人しそう」という感想を抱くだろう。だが彼女の中身は周囲の大人の数倍は成熟していた。
異様に頭の回転が速く、人の機嫌や空気を読む能力にもたけている。しかも無駄に肝が座っていた。
幼稚園時代、年上の男子に砂をかけられて泣かされた友達を見たユナは、その男子の前へ歩いていった。
「自分より弱い相手にしかそんなことできないんだね」
そう真顔で言い放ったらしい。相手の男子は大泣きした。彼はユナのことが好きだったようだ。
先生から報告を受けた私は頭を抱える。直は腹を抱えて笑っていた。
ユナは勉強も運動もできた。小学4年生になった今では学年問わず有名人で一目置かれている。運動会では応援団長で、成績は常にトップ。中学受験を進められるほどで、この前は高校生向けの問題集を解いていた。
そのくせ家では普通に甘えてくる。
「ねえ、ママ。髪いじって編み込みにしてほしい」
夕食時になると私の膝に転がってきて要求してくる姿は、年相応の女の子そのものだ。
夫がいて娘がいて、家族3人で笑い合う日々がある。私はそんな毎日を幸せだと感じていた。多少の衝突や不満はどこの家庭にも存在する。それらを乗り越えてこそ絆が深まり、ずっと長く家族として過ごせるのだと。当時の私は本気で考えていた。
とある夏、セミの鳴き声が朝から容赦なく響いていた。窓の外では陽炎が揺れている。天気予報では連日35度超え。ニュースでは「危険な暑さですので外出は控えてください」と繰り返していた。
そんな猛暑の昼下がり。リビングで洗濯物を畳んでいた私は、麦茶を飲みながらスマートフォンを眺めている直から不意に声をかけられた。
「あみは今年も実家には帰らないんだよな」
私は手を止めず短く返事をする。
「うん。帰らない」
どこか残念そうな口ぶりだが、本気で残念がっているわけではない。会話の流れを作るための相槌に近かった。
「でも俺の実家には顔出すんだろ」
「もちろん。今年は直も一緒に行けそう?」
「あー、どうだろうな。後で確認しておく」
「でも、あみってずっとお父さんと仲悪いよな」
「悪いっていうか、まあ、うん、そうだね」
曖昧に笑って流す。私の実家は地方の観光地で老舗旅館を営んでいる。旅館の名前は「加宮」。海沿いに立つ古い大型旅館だ。観光雑誌にもよく載っているし、著名人が来たこともある。世間的にはそれなりに名の知れた旅館だ。
そして父は加宮の主人。おそらく4代目か5代目か、その辺りだったはず。性格は豪快で傲慢で気分屋。思いつきで行動し、人の話を聞かない。酒癖も最悪で、何度殴られたか思い出すのも嫌になる。娘の立場から言わせてもらうなら、人間性は終わっている。
幼い頃から私も姉のつきも父に厳しく育てられた。礼儀作法に言葉遣い、旅館の人間としての立ち居振る舞いはもちろん、勉強も運動も手を抜くことは許されず、姉として常に笑顔でいろと言われた。「旅館の娘として恥ずかしくないようにしろ」と繰り返し叩き込まれた。
気に入らないことがあれば怒鳴られる。理不尽なことで説教される。夜中に叩き起こされ、学校にも行かせてもらえず、1日中掃除をさせられることもあった。
何よりも旅館と従業員たちを大事にしているところだけは尊敬するが、父親との温かな思い出なんてものはほぼ存在しない。だから私は高校卒業と同時に家を出た。そのまま実家とは距離を置き、以来1度も帰っていない。
結婚する際も一応電話では報告したけれど、父は呼ばなかった。呼びたくなかったし、向こうも特に気にしていない様子だった。
ちなみに母は私が15歳の時に亡くなっている。重い病気だった。早くに手の施しようがなくなって、最後の半年ほどは家で緩和ケアをして過ごした。私もつきも母のことは今でも大好きで愛している。母がいなくなった後の加宮は、一層殺伐としていた。
そんな事情を直も知っているはずだが、正しく理解しているかと言われると違った。
「あみってお姉さんともあんまり仲良くないんだよな。なんかさ、かわいそうだよな。せっかく家族なのに」
彼はスマートフォンから視線を外し私を見る。その目に浮かんでいるのは哀れみ。私は自分の眉が動くのを自覚する。最近増えていた。直は時々こんな視線を私に向けてくる。家族に恵まれなかった哀れな女を見る目だ。
昔はそこまで露骨ではなかった。だがここ数年、直は自分の方が上という態度を隠さなくなってきている。優しいし穏やかで気遣いもできる。外から見れば理想的な夫だ。けれど時折、言葉の端々に「俺が支えてあげないと」という空気が妙に私の胸をざわつかせた。
私は洗濯物を畳みながら答える。
「いや、私とお姉ちゃん超仲良しだけど」
また即座に否定された。直は苦笑している。まるで強がっている人間を優しく受け止めてあげているような態度だった。正直腹が立つ。なぜ勝手に不幸認定されなくてはいけないのか?
つきは私より数年早く家を出て、現在海外の企業で働いている。何年も海外暮らしで超多忙だ。連絡頻度もそこまで多くない。しかも性格は猛烈に不器用。常に無表情で、父親の教育を反面教師としたのか、愛想も皆無で口数も少ない。初対面の人間からはほぼ確実に「冷たい人」だと誤解される。
しかし実際は違う。感情表現が壊滅的に下手なだけで、身内への情は深い。小学生時代、私を泣かせた男子を無言で校舎裏へ連行して説教したこともある。高校生の頃には、父と大喧嘩した私を深夜に連れ出し、コンビニでアイスを買ってくれた。私が一人で家を出た後も、定期的に生活費を振り込んできた。添えられるメッセージは短い。「生きてる」「ご飯ちゃんと食べな」「お金ある」など、色気も何もない文章だが、そこにつきなりの愛情が詰まっていることくらい私には分かる。
ユナが生まれた時もそうだった。病院へは来られなかったが、代わりに海外ブランドのベビー用品が山ほど届いた。しかも全部高級品。好奇心で調べてみたら引くくらい高かった。直は当時「お姉さんなんか怖い人だな」と笑っていた。ちなみに彼はつきと直接会ったことがない。結婚式の招待状を送ったが返事は不参加。海外で大型案件の真っ最中だったらしい。
対面として人となりを知る機会がなかったのだから、彼が誤解するのも分からなくはない。とはいえ、勝手に「かわいそうな人間」扱いされる筋合いもなかった。
洗濯物を片付けた私は麦茶を一気に飲み干す。氷がカランと音を立てた。その時、直がふっと笑う。
「ま、あみには俺とユナがいるしな。心配するなよ」
優しい夫のセリフだ。世間の人間が聞けば感動するような言葉かもしれない。一方、私は「身寄りのない哀れな女を救ってやっている」という言い方だ、とうがった感想を抱いてしまった。
結局、直は休み直前になって実家へ同行できなくなった。
「悪い。本当に急な仕事でさ」
申し訳なさそうな口ぶりだけれど、私は内心でふっと息を吐いていた。ここ数年、直は何かと実家を避けている。急な仕事や接待、前々から決まっていたという会議、あるいは取引先対応。理由はいくらでも出てくる。
最初の頃は義両親も残念そうにしていたけれど、最近では「直も忙しいものね。仕方ないわ」と諦めるばかりで、無理に来いとは言わなくなった。ユナに至っては完全に慣れている。
「今年もパパは来ないんだ。まあ、どうでもいいか。来なくても変わらないし」
10歳とは思えないほどドライな反応だ。そんなわけで今年も私とユナの2人で実家へ向かうことに。
義実家は田舎の中にある日本家屋だ。築年数は古いけれど綺麗に手入れされている。縁側があって、庭には風鈴が揺れていた。家の前の畑では季節の野菜を育てている。近くには小川も流れていた。空気が美味しいという感覚を、私は義実家で初めて知った。
3時間ほど乗った電車を降り、バスに揺られること30分。義実家の玄関を開けた瞬間、土と草の匂いが混ざった風が流れ込んでくる。
「あみちゃん、ユナちゃん、いらっしゃい。よく来たね。暑かっただろう。冷たい飲み物を出してやろうな。追加も冷えてるよ。それともアイスの方がいいかい?」
義両親はいつものように歓迎してくれた。私と義両親の仲は良好だ。むしろ直と抜きの方が会話が弾む。義母は世話好きだし、義父は穏やかで物知りだ。2人とも人との距離感を掴むのがうまい。押し付けがましくなく干渉しすぎない。でも放置もせず程よく気にかけてくれる。実家とは真逆だった。
私は縁側に腰かけ、風鈴の音を聞きながらキンキンに冷えた缶のサイダーを飲む。ユナは虫取り網を持ち、近所の子供たちと走り回っていた。
「ユナちゃん本当に人気者ね。頭もいいしな。ガキ大将じゃなくてリーダータイプか。あみちゃんそっくりね。直の要素が入らなくてよかったわ」
私は苦笑する。実際ユナは誰にでも好かれた。子供同士の揉め事にも冷静に介入し解決に導くため、帰省の時しか会わない地元の子の記憶にもよく残っているのだろう。大人受けも良く、「まあ、この子は将来物になる」と真顔で言われている。親の私も否定できないのが怖い。
縁側を眺めながら私はぼんやり考える。義実家は居心地がいい。私の実家とは大違いだ。
加宮は観光地にあるがゆえ、人の出入りが激しい。従業員や宿泊客、観光客はもちろん業者も頻繁に出入りし、四六時中人が動いている。父も騒がしい性格だった。旅館全体が常に忙しなく、落ち着くという感覚は存在しなかった。
一方、義実家は穏やかで、時間の流れまで違うように感じる。私は昔からこういう場所の方が好きだった。だからだろうか。直が実は自分の地元をあまり好きではないことにも気づいていた。
まだ一緒に帰省していた頃、彼はいつも退屈そうだった。見るからに田舎で古い価値観で、刺激がない。口には出さないが、そう思っているのが空気で分かる。直は自分は都会で成功する側の人間だと考えている。こんな場所で一生を終える男ではないと自信満々でそう信じ込んでいるようだ。
その意気込みを否定するつもりはない。向上心を持つこと自体は悪ではないし、人生を前向きに切り開くためには必要だろう。だからと言って、自分を育ててくれた親や地元を下に見るような態度はあまり感心できなかった。
義母は夕飯の支度をしながら心配していた。
「直ちゃんと食べてるかね。体壊さなきゃいいが。せっかくあいつの好物を用意したんだがな」
義父もつぶやく。親は何歳になっても子供の心配をする生き物なのだ。直はそのことに多分気づいていない。
帰省中、私たちは義実家でのんびり過ごした。畑を手伝い、スイカを食べ、夜には線香花火をする。ユナは義父に将棋を習い、真顔で連勝していた。義父は地味に落ち込んでいる。一方、私は義母からレシピを叩き込んでもらった。家に帰った後も同じものを作れるように。
そんな穏やかな時間はあっという間に終わる。数日後、私とユナは自宅へ戻った。
そして玄関を開けた瞬間、2人同時に声が漏れる。
「うわ、何これ?」「うわ、信じられない」
リビングにはコンビニの袋と脱ぎっぱなしの服が散乱している。食べ終えたカップ麺の容器が何個も積まれ、ハエがたかっていて、倒れた缶ビールの中身がカーペットの上にこぼれていた。エアコンはつけっぱなし、家の中が全体的に妙に酒臭い。
私は無言で額を押さえる。リビングのソファーでは直が大の字で寝ていた。豪快ないびきまで響いている。どうやらここ数日、放題食いして散らかした末力尽きたらしい。
ユナはそんな父親を見下ろし真顔になった。ためらうことなく足先で直の脇腹を軽く蹴り、踏みつける。
「とっとと起きて」
「うわっ」
変な悲鳴をあげながら直が飛び起きた。二日酔いで痛む頭を抑えている彼は何の役にも立たなそうだ。そう判断して、私とユナは2人で散らかったリビングを片付けた。
夏休みが終わった頃から、私はなんとなく違和感を抱くようになっていた。直の関心が家庭へ向いていない気がする。私が気づいているということは、ユナも同様の思考に至っているはずだ。
もちろん分かりやすく冷たくなったわけではない。生活費は今まで通り入れてくれる。記念日を忘れることもない。体調を崩せば気遣ってくれるし、荷物だって持つ。一般で見れば十分いい夫の範囲に入るのだろう。
けれど空気が違うのだ。会話をしていても意識が別の場所へ飛んでいる。私が話している最中にスマートフォンを見る回数も増えた。休日一緒に出かけることも減った。以前ならユナも連れてどこか行こうかと自分から提案していたのに、最近はそんな話も出ない。
仕事が忙しいのだろうか。実際、直はここ数年順調に出世しており責任も増えていた。結婚して10年以上経った。夫婦関係なんて年月と共に形が変わるものなのかもしれない。気にするほどのことではないと、私は自分に言い聞かせていた。
そんなある日のこと、ユナが夏休みの自由研究コンクールの小学生部門で最優秀賞を受賞した。学校代表どころの話ではない。全国の学生を対象とした大規模なコンクールだ。表彰式は都内のホールで行われるらしい。
「別に大したことじゃないけど。実験の結果を書いただけだし」
「いやいや、十分大したことだよ。すごいじゃない。学校でも初のことなんでしょ?」
「まあそうだけど」
本人は相変わらずドライだ。だが心嬉しいことくらい母親である私には分かる。表情に出ないタイプなだけだ。そういうところはつきとも似ている。ちなみに自由研究のテーマは「地域別観光地における外国人観光客の動向分析」だという。小4女子の研究内容ではない。担任から「保護者の方が手伝いました」と真顔で確認されたほどだ。そんなわけがなく、完全にユナの単独制作である。我が娘ながら異形の念を抱かずにはいられない。
私は早速直に話をした。
「絶対見に来た方がいいよ。ユナ頑張ってたし。軽く発表みたいなものもするんだって」
「ああ」
返事が薄っぺらい。直はソファーへ座ったままスマートフォンを操作している。
「ちょっと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
聞いていない人間の返事だ。私は眉を寄せる。
「ま、仕事次第かな」
「そんな土曜だよ。今から休み取っておけないの?」
「最近忙しいんだって。俺が抜けた穴がどんだけのもんか。お前分からないだろ」
めんどくさそうな口振りで、ついでに睨まれる。ユナはダイニングテーブルで宿題をしていた。会話を聞いているのかいないのか、黙々と鉛筆を動かしている。
私はそれ以上追求することをやめた。無理やり連れて行っても仕方ないし、ユナも望んでいないだろう。さりげなく予定の確認だけはしておこう。もしかしたら急に一緒に行ってくれるようになるかもしれない。
表彰式当日。朝早くから身支度を整えていた私たちを横目に、直はスーツへ袖を通していた。
「悪い。急ぎの案件入った」
「そっか」
「ユナ、おめでとうな」
「ありがとう」
彼はユナの頭を軽く撫で、足早に家を出ていく。玄関の扉が閉まる。ユナは無言でその背中を見送った。
「ユナ、ごめんね」
「なんでママが謝るの?」
即答だった。しかも本気で不思議そうだ。
「パパでしょ?」
「まあ、別にいいよ」
全く気にしていないようにも見える。だが私は知っている。ユナは期待しなくなっていると。最初からなければ傷つかずに住むからだ。10歳にしてそんな諦め方を覚えてしまった。私は胸の辺りが重くなる感覚を覚えながら、ユナと会場へ向かった。
表彰式は盛大だった。壇上へ上がるユナ。名前を呼ばれ、堂々と賞状を受け取る。会場中の視線を集めても全くひるまない。むしろ妙に貫禄がある。周囲の保護者たちから「すごい子ね」「芸能人みたい」などと囁かれている。
私は客席からその姿を見つめていた。本当に誇らしい。同時に直にも見せてあげたかったという感情もあった。
式終了後。私はユナを探してロビーへと向かう。すると柱の影で彼女が誰か女性と話しているのを見つけた。40代前後だろうか。シャープなスーツ姿で姿勢が美しい。無駄のない所作で、いかにも「できる女」という雰囲気をまとっている女性だった。
ユナはこちらへ気づくと、女性へ一礼してから近づいてきた。
「ママ、お待たせ。探させちゃった」
「うん、大丈夫。今の誰?」
「審査員の人だって。コンクールの審査員の1人らしい。壇上にいたような気もする」
女性は私へ視線を向け、軽く会釈して去っていった。
「これ、名刺もらった」
ユナが差し出してきた名刺には、国内外で複数の事業を手掛ける有名企業の女社長の名前がある。とんでもない大物だ。私は一瞬固まった。
ユナによると、彼女は子供に対しても敬語で「研究内容とても面白かったです。大人でもあそこまで整理できる人は多くありません」と賞賛してくれたという。営業スマイルではなく、本気で興味を持っている人間の目をしていたようだ。
「『将来が楽しみですね』って言われちゃった。なんか前も先生に言われた気がする」
ユナはほがらかに笑っていた。私はついポカンとしてしまう。
「すごい人と喋ってたんだ」
「うん」
「表彰と発表は緊張しなかった?」
「別に慣れてるから」
堂々たる振る舞いは私も見習いたい。苦笑しながら予約していたレストランへ一緒に向かった。今日はユナのお祝いだ。せっかくなので少し奮発している。店内は落ち着いた雰囲気で、窓から街並みが見えた。
ユナはナイフとフォークを器用に扱いながら淡々とステーキを切っている。
「改めて受賞おめでとう」
「ありがとう」
「ママ、嬉しかった」
「ママはいつも自分のことみたいに喜んでくれるよね」
私はマッシュポテトを口に運ぶ。程よい塩加減と芋の甘みが見事に調和して絶品だ。それにしてもユナの言葉には照れてしまう。
「しかも泣きそうになってたし。壇上からでも分かったよ」
「な、なってないし」
「なってたよ。私、目がいいから分かるもん」
彼女はどこか得意げな、ほほえましい表情をしていた。表彰式での姿に感動していたことが完全に見抜かれている。私はごまかすようにグラスを持ち上げた。ふと鞄の内ポケットから覗くスマートフォンへ視線を落とす。直からの連絡は1度も来ていなかった。
夜、ユナが寝室へ入った後、私はリビングで洗い物を終え、ソファーへ腰を下ろしていた。時計を見る。22時半だが、直はまだ帰ってきていない。
私はスマートフォンを手に取り、昼間撮った写真を眺める。壇上へ立つユナ。賞状を受け取る瞬間、レストランで嬉しそうにデザートを食べている姿。どれも綺麗に撮れていた。
「本当に立派だった。直にもちゃんと見て欲しかったな」
ぽつりとつぶやく。そんな時、不意に玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
「あ、お帰り」
直が帰ってきた。しかし足音が妙にのろのろしている。加えて酒臭い。リビングへ入ってきた彼はネクタイを乱暴に緩め、ダイニングの椅子へと座り込んだ。私は眉を寄せる。
「まさか飲んできたの?」
「付き合いだよ。仕事の一環」
短い返答だ。明らかに機嫌が悪い。飲みの席が職務に入るのかという議論は一旦横に置いておくとしても、何かあったのだろうか。
私は深く考えず、テーブルへ置いていた賞状へ視線を向けた。額縁でも買ってきて飾ろうかと考えていたのだ。
「今日のユナ本当に立派だったよ。ねえ、写真見る?」
その瞬間だった。直が賞状を掴む。ビリビリと紙が裂ける音が響く。
私は一瞬何が起きたのか理解できなかった。直は無言のまま賞状を両手で引き裂いていく。
「ちょ、ちょっと何してるの?」
私は慌てて立ち上がる。だが彼は止まらない。破いた紙をテーブルへ叩きつけ、苛立った様子で吐き捨てた。
「こんなのたまたまだろ?出しゃばるなよ」
酒臭い息が部屋に広がる。何やら目つきもおかしい。
「お前ら最近調子乗ってるよな。何が?誰のおかげで生活できてると思ってるんだ?」
怒鳴り声がリビングにこだました。私は言葉を失う。意味が分からない。ユナが表彰されて、私はそれを喜んだ。たったそれだけの話だ。
「俺が毎日毎日汗水垂らして働いてるおかげで、お前らはのうのうと生きていけるんだろうが。こんなのが金になるのか?ならないよな。余計なことするんじゃねえ」
直は荒い呼吸を繰り返しながら、破いた賞状をテーブルの上から払い、床へ投げ捨てる。そしてぐしゃりと足で踏みつけた。
頭が真っ白になる。彼は私を睨みつけた後、ふらつく足取りのまま寝室へ向かった。扉が乱暴に閉まる。後には無残に散らばった紙切れだけが残された。
私はしばらく動けなかった。怒り、困惑、嫌悪など色々な感情が入り混じる。最も大きかった感情は恐怖だった。今まで直が怒鳴ることはあっても暴力はなかった。しかも壊したのはユナの賞状だ。娘の努力も誇りも、私が嬉しく思った記憶も全部踏みにじったのである。
私は床へしゃがみ込み、破れた賞状を拾い集める。止められなかった私に何の資格もないと、涙をこらえる。その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝、直は何事もなかったように支度を始めた。
「ねえ、昨日のことなんだけど」
「ごめん。急いでるから」
体を背けながら言う彼は、こちらを見ようともしない。いつものように早々に出勤していった。私はあ然とする。謝罪も説明もないとは。昨夜の出来事をなかったことにする気なのだろうか。
その後起きてきたユナへ、私は事情を説明した。彼女は破れた賞状の残骸を見下ろし、しばらく黙り込む。さすがにショックを受けるだろう。私はそう考えていた。
だがユナは淡々と言った。
「まあ、やられちゃったものはしょうがないか」
「ユナ、ママのせいじゃない。悪いのはパパだけでしょ」
彼女は破れた紙をまとめ、ぱさりとゴミ袋へ入れる。怒りも泣き言もない。その姿が逆に辛かった。まだ幼い子供がこんな風に感情を飲み込んでいいわけがない。私は胸の辺りが痛くなる。
今日は絶対に直を捕まえて話をしなければ。自分に言い聞かせるように強く決意した。
そしてその日の夜、帰宅した直は開口一番大声をあげた。
「ユナ、ごめん。俺、ユナの大事な賞状破っちまった」
リビングにいた私たちは同時に振り向く。直はハキハキと、間違いなほど明るく謝罪を口にした。昨日とは別人だ。しかも両手には紙袋を下げている。
「昨日俺すごい酔っ払ってて、本当に覚えてなくてさ。つい手が滑って、気がついたらビリビリになってて。わざとじゃないんだ」
絶対嘘だと私は感じた。覚えていない人間の態度ではない。じっとりと見つめる私の視線には構わず、直は袋から箱を取り出す。有名ブランドの財布とバッグだ。見た瞬間高額だと分かった。
「これ、お詫び。今時は小学生でもこれくらいのブランド物は持ってるんだろう。ユナに似合うと思って買ってきたんだ。あと、受賞のお祝いな」
「あ、そう。どうも」
「ユナだって、紙切れ一枚より実用性のあるものの方がいいだろ」
ユナは微妙な空気を醸し出しながら受け取る。私も黙ったまま眺めていた。なんだろう。直の態度が気持ち悪かった。まるで高級品を与えれば黙ると考えているようだ。
直は満足そうに頷く。
「よし、じゃあこれで解決だな。風呂入ってくる」
軽い足取りでリビングを出ていく彼。リビングに沈黙が落ちる。ユナは紙袋を見下ろした後、小さく息を吐いた。
「ママ」
「うん?」
「パパ、何か変」
彼女の意見に私は全面的に同意だ。何とも言えない不快感を覚えながらも、一応この場は収まったと思うことにした。
季節は進み秋に近づいている。昼食の片付けを終え、私はキッチンでグラスを洗っていた。ユナはリビングで読書中。直は仕事で不在だ。休日の昼間らしい穏やかな時間だった。
その時、スマートフォンが鳴る。画面へ視線を落とした私は、ぴたりと動きを止めた。表示されていた名前は「加宮」。実家の旅館からだった。
私は眉を寄せる。父と連絡を取ることはほぼない。向こうから電話が来ることなどなおさらだ。嫌な予感がする。私は手を拭き、通話へ出た。
「はい」
「あみお嬢さんか」
聞こえてきた声に、私は息を飲む。板長だった。加宮で長年料理を仕切っている料理長。年齢は80代で、私とつきが子供の頃から働いている。職人気質で口数は少ないが、従業員の中では数少ない優しい大人だった。
私は自然と姿勢を正す。
「そうだけど、どうしたの?」
数秒の沈黙の後、板長は低い声で告げた。
「旦那さんが亡くなった」
私は目を見開く。彼の言う「旦那さん」が指す人物は一人しかいない。
「どういうこと?」
「急死だ。庭で倒れて、そのまま」
頭が真っ白になる。つまり父が亡くなったと言っているのだ。まだ60代だったはず。父は昔から無駄に生命力が強かった。酒を浴びるほど飲み、怒鳴り散らし、暴れ回っても平然としているような男だった。だから亡くなったという現実がどうしても結びつかない。
板長は続ける。
「旅館の方で葬儀の準備を進めている。お嬢さん、戻って来られるかい?」
私はしばらく返事ができなかった。無言でスマートフォンを握りしめる。何秒経っただろうか。
「分かった。明日向かう」
絞り出すようにそう答えた。電話越しの板長から、ほっとしたような空気を感じる。
翌日、私は一人で実家へ向かった。直は「俺も行こうか」と口では言った。だが本気で同行する気はないことは分かる。仕事を理由に断る未来まで見えていたので、私は最初から「大丈夫」と答えた。ユナも学校がある。だから私だけで行くことに。
新幹線に揺られながら、窓の外をぼんやり眺めていた。実家へ帰るのは約17年ぶりだ。本音を言えば帰りたくない。あの旅館も父も、息が詰まるような空気も全部遠ざけたかった。だがそんな私でも、父の死にはさすがに動揺している。
加宮へ到着した時には、すでに葬儀の準備が進んでいた。相変わらず大きな旅館だ。海風の匂いも、玄関前の松の木も、磨き上げられた廊下も、記憶の中と何も変わっていない。
父は旅館への執着だけは異常だった。設備投資も惜しまない。いつ何時でも立派かつ華やかに見えるように整えていた。従業員への給料も、景気が悪い時期ですら削らなかった。そのせいで経営陣が頭を抱えることも多かったらしい。
館内へ入った瞬間、従業員たちの視線が集まる。私は足を止めなかった。冷たい視線が全身に突き刺さる。恨みと警戒と不満が感じられた。当然だと冷静に思う。旅館の主人の娘で、本来なら後取り候補だ。それなのに家を飛び出し、10年以上戻らなかった。父がどれほど旅館を大事にしていたか、従業員たちは誰より知っている。だからこそ私の存在は気に入らないのだ。旅館を捨てた親不孝な娘に見えているのだろう。
だが別に構わなかった。事実だからだ。私は加宮から逃げた。その選択を後悔したことは一度もない。
通夜も葬儀も滞りなく進んだ。父は人望があった。正確には旅館の主人としてのカリスマだろうか。参列者は多い。地元の有力者も次々訪れる。泣き崩れる従業員までいた。人間というのは多面的な生き物だ。娘として見れば最低な人間でも、他者からは違う側面で判断される。
葬儀の合間、板長がゆっくりと私へ近づいてくる。
「板長、連絡ありがとう」
「いや、こちらこそ急に呼びつけて悪かった。疲れただろ」
「そっちこそ」
ふっと柔らかく笑う板長。その笑みには疲労と気遣いが滲んでいた。彼は昔からそうだ。不器用な優しさを持っている。幼い頃に怒られた私たち姉妹に、こっそりお菓子を持ってきてくれたこともあった。
板長は周囲を確認した後、小さく言う。
「つきお嬢さんにも連絡したんだがな」
「お姉ちゃんはなんて?」
「忙しいそうだ。来るのは早くても1ヶ月後になると」
会社では幹部クラスのつきが、突然全部放り出して帰国など簡単にはできないだろう。
「そっか」
「悪く思んでやってくれ」
「分かってるよ。それを言うなら私だって、別にこの葬儀で役に立ったわけでもないし」
私は祭壇へ視線を向ける。家の父はかなり偉そうな笑みを浮かべていた。最後まで腹の立つ人だ。
葬儀が一段落し手持ちぶさたになっていた時、背後から声がかかる。
「あの、あみ様でしょうか」
振り返ると、そこには黒いスーツ姿の男性が2人立っていた。一人は細身の中年男性で眼鏡をかけている。もう一人は恰幅のいい年配男性。どちらも仕事のできそうな空気をまとった。
「はじめまして。あなた方は…」
眼鏡の男性が名刺を差し出す。
「お父様の顧問弁護士を務めております」
さらに隣の男性が頭を下げた。
「加宮の事務所です」
私は眉を寄せる。弁護士と事務が揃い踏み。猛烈に嫌な予感がした。
その後、2人から聞かされた事実に、私は衝撃を受けた。
数時間後、自宅へ戻った頃には日が傾きかけていた。玄関を開けた瞬間、慣れ親しんだ家の匂いがする。昨日までならそれだけでほっと肩の力が抜けたはずだ。けれど今の私は、靴を脱ぐ気力すらしばらく湧かなかった。
「ああ、疲れた」
口から漏れた言葉は、我ながら情けないほど乾いている。葬儀にも、17年ぶりに足を踏み入れた実家にも、従業員たちの視線にも疲れた。だが何よりも大ダメージを食らったのは、葬儀後に弁護士と事務から聞かされた話だ。
「知事には2億の借金がある」
最初に聞いた時、さすがに耳を疑った。
「2億?」
「はい。旅館の改修費、設備投資、人件費の補填などが主な理由です」
実は加宮はここ数年赤字続きだったらしい。老舗旅館で知名度があり、固定客もいる。地元では名門扱いでも、時代の流れには逆らえなかった。団体客の減少に人件費の高騰、施設の老朽化、観光需要の変化など。父は旅館を守るため借金を重ねていたという。
ちなみに海外からの客は増えたが、頑固な父は英語や中国語のマニュアルを整備しなかった。「そんなものなくても、おもてなしの心があれば対応できる」と言っていたそうだ。対応できる従業員も少なく、トラブルが続出。海外客からは「選んではいけない旅館」と静かに言われているようだ。
私は正直呆れた。
「何やってんのよ、あの人」
葬儀場の控室で思わずそうつぶやく。弁護士と事務は責めるでも慰めるでもなく、淡々と書類を並べていた。
そしてもう一つ、父の遺言だ。そこにはこう記されていた。
「この加宮の今後については、娘たちに全て任せる」
私はその文面を読んだ瞬間、笑みを抑えた。勝手なことばかり言って。生きている間は娘たちを縛りつけ、逃げ出した後は放置。亡くなったら亡くなったで、旅館も借金も娘たちへ丸投げ。父親としてはどこまでも最低だ。後継者として厳しく仕込まれた記憶はあるが、愛情をかけられた覚えは薄い。そのため、どうしても旅館を継がなければという使命感や義務感は一切湧いてこなかった。
私はリビングのソファーへ鞄を置き、電気をつけた。テーブルに弁護士から渡された書類の封筒を置く。借入金の詳細、旅館の経営資料、遺言書のコピー、今後の手続きについての説明書。普通なら頭を抱える場面だろう。現状を冷静に並べれば、なかなかの地獄である。
だが私はそこまで悲観していなかった。もちろん猛烈に面倒だし腹も立つ。知事に文句を言えるものなら、家の前で3時間ほど説教をしたい。それでも、とある理由から絶望してはいない。
とりあえずお姉ちゃんに相談しないと。帰国までに状況を整理しておく必要がある。
私はスマートフォンを取り出し、つきへメッセージを送った。
「葬儀終わった。借金2億だって。旅館は赤字。父さんの遺言、私たちに丸投げ」
送信して数分、つきから返事が来た。
「了解」
短い。さらに数秒後。
「資料は全部送って」
相変わらず頼りになる。私は笑いそうになった。
その後の数日間、私は書類整理に追われた。直には父の葬儀が終わったこと、旅館関係で手続きが必要だと話した。だが細かい金額や経営状況までは伝えていない。はっきり言って彼は部外者だ。加えて説明するにしても、まだ私自身が整理しきれていない。それに直へ話せば、いつものように哀れみを向けられる気がした。「かわいそうなあみ。頼れる相手は俺しかいない」など。そんな扱いをされるのはうんざりだった。
1週間後の休日、私はキッチンで昼食を作っていた。メニューは焼きそば。簡単でユナの好物だ。ダイニングではそのユナが宿題をしている。
「ママ、後で理科のプリント見て」
「いいよ。もう少しでお昼ご飯できるからね」
「うん」
何でもない会話をしていた時、寝室の方から直が現れた。きっちり身支度をしている。髪も整え、腕時計までつけていた。彼のお気に入りの高級ブランドのものだ。出かける予定でもあったのだろうか。
「あ、直、お昼食べる?」
彼は返事をしなかった。代わりに手に持っていた紙をテーブルへ叩きつけた。私はフライパンの火を弱め、振り返る。
「何これ?」
「離婚届けな」
リビングに沈黙が落ちた。ユナの鉛筆が止まる。私は一瞬聞き間違いかと考えた。
「は?なんですって?」
直は口の端を歪める。
「貧乏人はいらん。離婚で」
こちらを馬鹿にしきった言い方に、ゾッと背筋が冷えた。
「ちょっと待って。何の話?貧乏人って…」
「届けなくていいよ」
直は勝ち誇ったように腕を組む。
「見たからな。書類。お前の部屋に置いてあったやつ。お父さんの遺言書のコピーとか借金の詳細とか。葬儀から帰ってきてから様子がおかしいと思ってたんだ」
私はゆっくり瞬きをする。私の部屋に置いていた封筒の中身。弁護士と事務から渡された資料を勝手に見たというのか。夫婦だから許されるという話ではない。人として最低限の線を超えている。
「あなた、親しき中にも礼儀ありって言葉知らないの?」
「何言ってんだ?夫婦なんだから、お互いの事情を把握しておくのは当然だろう」
全くもって当然ではないと思うが、直は悪びれない。むしろ重大な秘密を暴いてやったと言わんばかりの態度だ。
「まさか借金2億とはな。いや、びっくりしたよ。お前の実家、老舗旅館だなんだって言ってたけど、蓋を開けたら火の車じゃん」
ユナが黙って彼を見ている。その視線は子供のものとは思えないほど醒めていた。直は気づいていない。
「で、どうするつもりだったわけ?俺に黙って借金背負う気か」
「まだ整理中だから、話す段階じゃなかっただけ」
「へえ、便利な言い訳だな」
私はフライパンの火を止めた。焼きそばの香ばしい匂いが部屋に広がっている。
「ま、このまま放り出すのはかわいそうだからさ。選択肢をくれてやる」
また「かわいそう」という単語が出てきた。思わず眉をひそめる。
「今後一生、俺に絶対服従すると誓え。俺の言うことに逆らわず、俺に恥をかかせない。今の教育方針にも口を出すな。親戚付き合いも俺の指示通り。そう誓うなら、借金の返済を手伝ってやってもいい」
自身の要求を指折り数えて告げてくる。あまりの言い草に、私はポカンとしてしまった。
「専業主婦が一人で2億なんて返せるわけないだろ。お前、自分の立場分かってる?俺が手を差し伸べてやるって言ってるんだよ。感謝しろよ」
ユナが鉛筆を置いた。音は小さかったが、私の耳にはっきり聞こえる。
「ま、嫌なら離婚でいい。俺まで巻き込まれたくないからな」
「離婚するなら、ユナはどうするの?」
直は一瞬だけ面倒そうに眉を寄せた。
「そんなの後で決めればいいだろう。ま、借金まみれの母親について行くなんてかわいそうだし。俺が引き取ってやってもいいけど」
その瞬間、ユナの目つきが変わった。だが彼女は何も言わない。
直は離婚届をテーブルに残し、玄関へ向かう。
「考えとけよ。俺は優しいから、今すぐ答えろなんて言わないし」
「どこに行くの?」
「用事」
こちらをまともに見ず、彼は出ていった。バタンと玄関の扉が閉まる。リビングには焼きそばの匂いと離婚届だけが残った。
私はキッチンを離れ、椅子に腰を下ろす。怒りで頭が真っ白になるなどということはなかった。むしろ逆だ。頭の中は異様なほど醒め切っている。そういうことか、と納得感が広がっていく。
直は昔からずっと私を見下していたのだ。最初のうちはうまく隠していた。あるいは本人も無自覚だったのかもしれない。けれど根っこの部分は変わらず、10年以上経て本性が表に出ただけだ。
外見で人を判断し、勝手に性格や意思を決めつける。弱そうな相手を自分の価値観で支配しようとする。私が昔から嫌い抜いてきたタイプの人間、そのものだった。
「守ってあげたい」「かわいそう」「俺が支える」という言葉も、一見優しそうに聞こえる。だが実態は違う。対等だと見ていない。自分より下で支配できる存在だと思っているから、あのような言動が平気で出てくるのだ。
直は私が逆らう可能性なんて最初から想定していない。
天井を見上げ、小さく息を吐く。直と出会ってから長い年月が流れた。娘も生まれて、家族として暮らしてきた。それなのに彼は私のことを何も知らない。
その時、足音が近づいてくる。ユナだった。彼女は私の隣へ来ると、何も言わずそっと腕へ寄りかかってきた。小柄な体からじんわりと体温が伝わる。
「ごめんね、ユナ」
「なんで謝るの?」
「嫌なもの見せちゃったから」
ユナは数秒黙った後、淡々と言った。
「私はママについてくよ」
私は目を閉じる。泣きそうになるけれど、泣いている場合じゃない。守らなければとすぐに思った。何よりもまずユナを守りたい。それが私の一番の役割だ。
私はゆっくりユナを見る。彼女も真っすぐな目でこちらを見返していた。
「あと3年だけ、一緒に踏ん張ってくれる?」
「3年?」
「うん」
真意は語らなかった。だがユナは深く追求せず、頷いてくれる。私を信頼してくれていることがよくわかった。
私は離婚届を手に取る。何の変哲もない真っさらな紙。普通ならもっと葛藤するのかもしれない。泣いて怒鳴って引き止めて話し合う。直が想定していたのは、そういう私の行動だろう。
私はボールペンを取った。不思議なくらい迷いはない。むしろどこかすっきりしている。長年まとわりついていた鬱陶しい霧が一気に晴れたような感覚だった。
さらさらと署名欄へ自分の名前を書く。書き終えた後、しばらく紙を見つめる。そして折りたたみ、ポケットへ入れた。
ユナが尋ねる。
「それでママ、どうするの?」
「引っ越ししよう。行き先はもう決まってるから。今から」
「うん。今から」
力強い私の返事に、彼女は少しだけ安心したように見えた。
「パパが帰ってくる前に済ませよ。荷物まとめよっか」
「うん」
そこからは早かった。私はスーツケースを広げ、貴重品を集める。通帳、印鑑、身分証、現金、必要書類。さらに最低限の着替えも詰める。直との思い出の品は全部ここに置いていこう。
ユナも自室へ向かい、自分で荷造りを始めた。彼女は驚くほど冷静だった。途中、私は何度もユナの様子を見に行った。彼女は淡々と荷物をまとめている。泣き言もなく、「どうして」とも聞かない。私よりも強く覚悟を決めている様子だった。
1時間後には荷物はほぼまとまっていた。私は最後にリビングを見回す。結婚してから家族3人で過ごした家。色々な記憶がある。楽しかったこと。笑い合った思い出。喧嘩の苦いやり取りに、仲直りの後の温かな空気も覚えている。全部嘘だったとは思わない。けれどもう終わりだ。
私は玄関の鍵を閉める。ユナが隣へ並ぶ。そして私たちはそのまま役所へ向かった。
休日窓口で離婚届を提出する。職員が書類を確認し、受理の手続きを始めた。仕事だから慣れているのだろう。その無関心さが今はありがたかった。
三木あみは、この瞬間、法的にも直の妻ではなくなった。苗字は旧姓の「三木」に戻る。
役所を出た後、私はスマートフォンで新幹線のチケットを手配する。ユナが隣から覗き込んできた。
「どこ行くの?そういえば行き先は決まってるって言ってたけど」
「実家」
私はなるべく感情を込めずに答えた。ユナは一瞬だけ目を丸くする。
駅へ向かい、人々の雑踏を抜けてホームに降りる。吹き込む風がほてった肌へ当たった。果たしてこの高揚は緊張のためか、それとも今後のことにワクワクしているからなのか。
私はユナの手を握る。小さいけれどしっかりした手だ。
新幹線に乗り込み、ようやく一息つく。駅で買ったお弁当を広げたところで、キッチンに焼きそばを放置してきてしまったことを思い出した。だがもうどうでもいい。直がきっと捨てて片付けるだろう。
車窓へ流れる景色を見ながら、頭の中で何度も情報と今後を整理する。やるべきことは山ほどあるのだ。
ユナは座席に持たれ、お茶を飲んでいる。疲れているはずなのに、落ち着いた様子でお弁当を口に運んでいた。
「まあまあ、あげる」
彼女が差し出したのは、唯一の苦手な食べ物である人参の飾り切りだ。苦笑しながら受け取る。
「カレーとかシチューに入ってる人参は食べられるのにね。煮物はなんかダメなの?」
唇を尖らせるユナ。私も黙々とお弁当を食べる。今のうちにお腹を満たして、体力を温存しておかなければならない。
夜遅く、私たちは加宮の最寄り駅へ到着した。駅前は人も少なく、冷たい海風が吹いている。旅館へ続く道を、私とユナは並んで歩いた。観光地の街灯が明るいのが救いだ。
その時だった。鞄の中でスマートフォンが点滅していることに気づく。そういえば新幹線に乗る前、マナーモードに設定していたのだ。画面を見て私は苦笑した。着信履歴がずらりと並んでいる。まさしく鬼電だった。
マナーモードを解除した瞬間、鳴り響く着信音。しつこい。ユナも呆れたようにスマートフォンを見ていた。仕方なく私は道端で立ち止まり、通話ボタンを押す。
「おい、お前どこ行ったんだ?」
開口一番、怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
「なんで家に誰もいないんだよ。焼きそばも置きっぱなしだし。娘も連れて行ったのか」
「ねえ、うるさいんだけど」
「はあ?ふざけんな。お前がそんな口を聞ける立場だと思ってるのか。さっさと帰ってこい」
直は勢いで喋り続ければ、私が従うと思っている。ふと私は空を見上げた。満点の星空が広がっている。きらめく光たちが、私に自然と勇気を与えてくれる。
「あのさ、私、離婚届を提出しただけだよ」
一瞬、電話越しに沈黙が落ちた。
「だから、もう私たち夫婦じゃない。その家に帰る理由もないの。でも焼きそばを放置しちゃったことはごめん。適当に捨てておいて」
「は?」
「借金のことは心配しなくていいよ。こっちで何とかするから」
「ちょ、ちょっと待て。お前何言ってるんだ?」
悪態をつかれているような空気が伝わってくる。直の反応は予想通りだった。やはり彼は、私とユナが自分から離れるわけがないと本気で信じていたのだ。
「何を言ってるんだって言われても、言葉通りの意味だよ」
「いや、待てよ。ふざけるのも大概にしろ。俺の手助けもなしに借金を返すつもりなのか?無理だろ。どう考えても」
異様な執着心を見せる直が、私にとっては滑稽なことを言っているようにしか聞こえない。借金のことを持ち出して離婚を突きつけたのは直だ。
「あなた、貧乏人が嫌なんでしょ?なんでそんなに借金のことを気にしてるの?お望み通り離婚したんだから、もうあなたには無関係だって言ってるじゃない」
「だって、それは…」
どうして私がこんなにも落ち着いているのか。彼は理解できないのだろう。直の中で私は人生完全終了状態の人間のはずだった。それなのに泣きついてこず、助けを求めず、絶望しない。離婚届を提出し、自分から消えた。その事実が直の想定を全部狂わせている。
「強がるなよ。強がりだろ」
「強がりじゃない。あなたこそ、借金を片付けずに済んだこと、喜ばないの?」
「うるさい。お前一人でどうするつもりなんだって聞いてんだよ」
ふと、袖を引かれた。隣で黙っていたユナだ。スマートフォンを貸して欲しいと目で訴えてくる。私は彼女に電話を代わった。
「もしもし、パパ?」
「あ、ユナ。やっぱりあみと一緒にいたんだな。ああ、よかった」
ユナの声が聞こえた瞬間、直の口調が変わる。分かりやすい。子供だから私より手なずけやすいと思っているのだろう。
「あのさ、パパは、価値をやってくれる人がいなくなって困ってるだけでしょ」
「え?」
「条件に絶対服従とか気持ち悪いこと言ってたし。それなのに、いざ離婚したらしつこくすがってくるって、ダサいにも程があるよ」
私は思わず吹き出しそうになった。容赦がない。ユナにばっさりと切り捨てられた直は、完全にうろたえていた。
「何言ってんだよ、ユナ」
「え、違うの?じゃあ、ただ調子に乗って散らかしている恥ずかしい人間ってだけ?」
わざと小首を傾げる彼女。
「だから、違うに決まってるだろ」
「じゃあ何?」
「俺は家族のことを考えてるだけだ。借金だって、家族一丸になれば乗り越えられる。俺はあみの覚悟を試したくて、離婚届を…」
「え、気持ち悪い。人を傷つけるようなことを言って、自分の思う通りにコントロールしようとしたってこと」
直は言葉に詰まっていた。即座に言い返せないのは、図星だからか。ユナはさらに続ける。
「パパにとっては、自分の価値観が絶対なんだもんね。ママのこともずっと見下してた。かわいそうな存在だと思ってたでしょ。そういうの、ちゃんと伝わってるからね」
「違う」
「ママは毎日パパより1時間半も早く起きてご飯の準備をして、毎日家事をして、家を守ってくれてた。パパが着てるシャツだって、ママが毎回アイロンをかけて準備しておいてくれてるんだよ」
私はユナを見た。彼女の頬は静かに紅潮していた。
「パパが安心して仕事ができるのは、ママが専業主婦をしてくれてるから。逆も言えるよね。ママはいつもパパに感謝してたと思う。どうしてそんな簡単なことも分からないの?」
まだ10歳なのに、こんなにも冷静に、ちゃんと私のことを見てくれてたのだ。じわりと胸が熱くなる。
直は焦ったように声を荒らげる。
「ユナ、色々言ってるけど、本当はパパと一緒がいいよな。パパは分かってるぞ」
「は?別に」
「またバッグとか買ってやる。化粧品がいいか?最近は小学生でも化粧をするもんな」
私は呆れて目を閉じた。彼は本当に分かっていない。物を与えれば人をつなぎ止められる。そう信じていることが哀れだった。
「極論を言えば、私はユナのことを買収できると思ってるんだ」
ユナは心底どうでも良さそうに答えた。
「だから、いらないよ。うん。ていうか、この前もらったやつも全然私の好みじゃないし、部屋に置いてきた。後でパパが適当に処分しておいて」
「え、でも学校でほら、自慢とか…」
彼は高級ブランドの所持品が学校でのステータスになると思っている。しかし、私はそれが元でユナの学校で起こったトラブルを知っていた。
とある女子生徒が高級ブランドのバッグを学校に持ってきて自慢したら、その日のうちに盗難被害にあったのだ。犯人は彼女の友人の一人だった。日頃から高価なものを自慢され、妬みと羨ましさが募っていたらしい。この事件を解決し、被害者と加害者の女子同士の仲を取り戻したのがユナだ。以来、学校では極端に高価な持ち物は使用禁止になっている。
ユナは事件について直に簡単に説明していた。
「子供同士だからって甘く見ちゃだめ。盗んだり傷つけたり、勝手に売っちゃったり、そういうことをやる子、結構いるんだから」
容赦なさすぎる言葉だが、事実だ。直は絶句している。
「なんと言われようと、私はママの方がいいの。これ以上邪魔してこないでよ」
ユナははっきりと拒絶を突きつけた。長い沈黙が落ちる。ユナからスマートフォンを返してもらった私は、ゆっくり口を開く。
「私の見る目がなかったわ」
「あ、あみ…」
「あなたのこと、何も分かってなかった。あなたが私のことを理解していないのと同じようにね」
私は風に乗って運ばれてくる海の匂いに気がついた。実家は近い。こんなところで立ち止まっている場合ではない。
「私、もうあなたのこと大嫌い。2度と関わりたくない」
次の瞬間、直が逆切れした。
「ふ、ふざけんなよ。勝手なことばっかり言いやがって」
「最初に勝手なことを言ったのはそっちじゃない。私たちは従っただけなのに、何が不満なの?」
「うるさい。あ、もう分かった。俺たちはもう他人だ。後で泣きついてきても知らないからな」
罵声をあげる彼の相手をするのがもう面倒で、私は途中で通話を切った。ユナが呆れたように言う。
「パパ、想像以上にダサかったね」
「ね」
私は笑う。最後に言いたいことを言って、かなりすっきりした。それから2人でしばらく歩き続ける。
やがて巨大な建物が見えてきた。加宮だ。ライトアップされた外観はキラビヤで派手だった。父が増築を繰り返したせいで、和風旅館なのに手前に競り出してくるような謎の迫力がある。
「初めて来たけど、大きいね。無駄に」
正面玄関ではなく、私は裏口へ回った。従業員用の出入り口。ひっそりとした場所だ。扉を開けると、ちょうど通路を歩いていた仲居がこちらを見て硬直した。
「え?」
「あ、こんばんは」
「き、あなた誰ですか?」
甲高い悲鳴に、ユナが顔をしかめる。仲居の反応は完全に不審者扱いだった。無理もない。見たところ彼女はまだ20代で若い。私はつきのことなど全く知らないのだろう。
騒ぎを聞きつけ、奥から板長が出てくる。白衣姿で、片手に調理包丁を握っていた。武器のつもりなのだろうか。しかし板長は私とユナを見て目を見開く。
「え、あみお嬢さん…」
「ただいま」
手を上げ、なるべく気楽に挨拶をした。彼はユナにも視線を向ける。彼女が軽く頭を下げた。
「こんばんは」
「もしかして、あみお嬢さんの娘さんか?」
「そう」
その後、私たちは堂々と館内へ入る。従業員たちがざわつき始めていた。
「板長、ちょうどいいからさ、従業員全員集めてくれる?」
「は、今からか?」
「今から。あと10分で消灯時間でしょ」
板長は私をじっと見つめる。何かを探るような目だったが、数秒後小さく頷いた。
それから30分後、大広間には旅館の従業員たちが全員集まっていた。仲居、料理人、清掃担当、フロント、事務。全員が明らかに困惑している。当然だ。突然戻ってきた放蕩娘が、夜中に集合をかけたのだから。
私は大広間の壇上に立つ。ユナはすぐ隣にいた。従業員たちの視線が突き刺さる。冷たい。警戒しているし、不審感もある。それは正しい反応だった。けれど私は逃げなかった。
「急に集めてごめんなさい」
ざわめきがぴたりと止まる。
「単刀直入に言います。今日から一時的に、この旅館の全権限を私が預かります」
空気が凍る。
「今、赤字経営なのは理解しています。3年以内に加宮の業績を回復させる。それが私の目標です」
重苦しい沈黙が一帯を支配していた。誰も動かず、声を出せない。完全に呆気に取られていた。
その中で、パチパチと拍手が響く。ユナだった。彼女は真顔のまま一人で拍手している。私は思わず笑ってしまった。従業員たちの視線は「意味不明なことを言い出した人間」を見る目になっていた。それも当然だろう。
「何か意見があるのなら、今のうちに言っておいてもらえると助かります」
私が一言告げると、ざわめきが蘇る。真っ先に我に返ったのは事務長だった。
「じゃ、ちょっと待ってください」
額に汗をかきながら前へ出てくる。
「確かに、旦那さんの遺言と借金問題については、あみさんへ託されましたか」
その言葉を聞いた瞬間、空気が変わった。
「借金?何の話?」「やっぱりそうだったのか」など、従業員たちが困惑や疑問を口に出し始める。どうやら全員が事情を知っていたわけではないらしい。反応を見ると半々くらいだ。経営陣や古株は把握していた。だが現場全体には伏せられていたのだろう。
板長は腕を組んだまま難しい顔をしている。
私は大広間を見渡した。従業員たちが父を慕っていたことくらい分かっている。だからこそ、彼らが何を恐れているのかも理解できる。旅館が潰れ、職を失い、父が命そのもののように守っていた加宮が終わること。一番避けるべき結末はそれだった。
私はゆっくり口を開いた。
「借金については、心配無用です」
再び幻想が収まる。
「2億の件なら、どうにでもなりますから」
事務は完全に固まっていた。従業員たちもポカンとしている。2億。普通の人間なら人生が終わる金額だ。「どうにでもなる」などと考えなしに発言していいわけがない。
その時だった。大広間の入り口が勢いよく開き、全員が一斉に振り向く。そこに立っていた人影を見て、私は思わず目を見開いた。
黒いスーツを身につけ、長い髪を揺らしている女性。冷え切った美貌を携えた無表情な人。つきだった。
「え?あれって、つきお嬢さん?」
「確か海外で仕事してるって…」
私はつきを見る。彼女がこのタイミングで登場するのは完全に想定外だった。
「お待たせ。あみ」
「お姉ちゃん、仕事は?」
つきはキャリーケースを引きながら平然と答える。
「早みのためなら、1ヶ月かかる仕事も1週間で片付けられるのよ」
真顔だった。多分本当にやったのだろう。昔から私に対しては、彼女は妙に執着深い。だが頼りになることは間違いない。
つきはすっと自然な動作で私の隣へ立つ。従業員たちを見渡し、淡々と言った。
「父の遺言に従い、私も一時的に加宮を預かります」
空気に緊張が走る。逃げた娘が一人戻ってきただけでも衝撃なのに、もう一人まで帰ってきた。一晩の間に何度も衝撃を与えてしまい、その点だけは申し訳ないと思う。
しかもつきは、従業員たちからすればある意味私以上に未知の存在だった。幼少期から頭が良かった彼女。父と真正面から殴り合う勢いで喧嘩していた。高校卒業後は自力で学費を捻出して国立大学を出て、海外へ飛び出し、そのまま世界規模で仕事をしている。地元では半ば伝説扱いだ。
板長が、ギリギリ聞こえるくらいの小さな声で呟いた。
「本当に帰ってきやがった」
私は思わず額を押さえた。相変わらず彼女は極端すぎる。咳払いをして気を取り直し、つきに尋ねる。
「借金のことだけど、半分する」
つきは即答した。
「そうね。それが一番いいでしょ」
淡々と話し合う私たちの空気に、周囲はついていけていない。事務が震える声で確認する。
「半分とは…」
「言葉通り、半分ずつ出すつもり。たった2億でしょ。1億ずつ出せば終わる話だから」
大広間が完全に沈黙した。
私は昔、モデル活動でそこそこ稼いでいた。若い頃から貯金も強い。さらに父譲りなのか、お金をただ寝かせておくのが嫌いだった。投資、資産運用、海外ファンド、不動産。遊び半分で始めたらどんどん増えた。自分で言うのもなんだが、向いていたようだ。結果、1億くらいなら簡単に出せる。本来はユナのために取っておこうと思っていたお金だ。
そしてつきに至っては説明不要である。海外企業の幹部クラスで、年収も普通のサラリーマンとは桁が違う。貯金の使い道も、私やユナに貢ぐくらいのもの。
姉妹揃って金銭感覚が若干壊れているせいで、2億という数字への危機感が世間一般とずれていた。借金の片付け方を軽く説明すると、みんなポカンとしている。仲居の一人など、口が開きっぱなしで顎が外れそうだった。板長だけがふっと笑っている。
事務長はまだ現実へ追いついていない様子だ。
「あの、本当に…」
「え、何か問題ある?私に任せてきたの、そっちでしょ?」
丁寧な言葉遣いが外れてしまった。だがもういいだろう。
「え、いえ…」
事務長が恐縮したように身を縮める。つきが大広間を見渡す。その口調はかなり鋭く、威圧感があった。空気が一気に引き締まる。先ほどまで困惑していた従業員たちも、自然と姿勢を正した。
昔から彼女はそうだった。感情表現は薄いし、愛想もないのに、なぜか人を従わせる魔力の持ち主なのだ。
「いくつか今後の計画を練っておいたから、明日から話し合いましょう」
「あ、はい」
「今日は解散で。みんなお疲れ様」
その一言で、従業員たちはざわざわしながら散っていく。混乱は続いているが、うっすらと漂っていた絶望感は消えていた。私は彼らの背中を見送りながら、小さく息を吐く。
すると隣でユナがつきを見上げる。
「ママのお姉ちゃん」
「そう。あなたのおばさんね」
「思ったより怖いね」
「よく言われる」
つきはやはり真顔だった。ユナは数秒黙った後、ぽつりと言う。
「でも、ママのこと大好きなのは分かった」
無表情のつきは、じっとユナを見る。
「あなた、頭がいいのね」
「よく言われる」
シュールなやり取りに、私はとうとう声を上げて笑ってしまった。
広間を出た私たちは、旅館の裏手にある母屋へ向かう。加宮の主人一家が代々暮らしてきた家だ。旅館本館とは細い渡り廊下で繋がっている。
家の外観は幼い頃から見慣れている景色のはずなのに、17年も離れていたせいか、他人の家のようだった。玄関の扉を開けた瞬間、むっとするような誇りっぽい空気が流れてくる。知事が亡くなって以来、ほとんど人は出入りしていないようだ。
「うわ、空気重いねえ。窓開けるわ」
つきはキャリーケースを置くなり、すぐ窓を開け始めた。手際がいい。長時間のフライトと新幹線での移動を経て旅館へ直行したという彼女。どう考えても私よりつきの方が疲れているはずだ。それなのに、まるで平常運転で動き回っている。
「お姉ちゃん、疲れてないの?」
「疲れてるけど」
絶対嘘だ。
「本当に疲れてるよ」
言いながら掃除機を引っ張り出していた。説得力ゼロだ。ユナがつぶやく。
「おばさん、体力お化けだね」
「昔からこうなんだよね。つきは中学生時代、徹夜で父と喧嘩した後、もう一晩追加で徹夜をして翌日の定期試験に臨んでいた。正直、人間なのか怪しい」
つきは黙々と掃除を進めていく。私とユナも手伝った。窓を開けて空気を入れ替え、シーツを確認し、床を拭く。壁掛け時計は日付が変わる5分前を指していた。
時折、ユナはつきに話しかけている。些細な確認やちょっとした世間話を交え、交流を深めていく。2人は不思議なくらい波長があっているようだ。
「お風呂沸かしておいたから、先に入っちゃって」
「お言葉に甘えて」
私はユナと一緒に風呂へ入る。昔ながらの広いタイル張りで、窓の外から虫の声が聞こえる。ユナは湯船に浸かりながらぼんやり天井を見上げていた。
「疲れた?」
「ママ?」
「ごめんね。急に連れ回して」
「別にいいよ。自分で決めたことだもん」
本当に文句一つ言わない。私はユナの髪を洗いながら、小さく息を吐く。今日一日で人生が激変した。普通なら頭がおかしくなっても不思議ではない。それでもユナのおかげで、私もずっと冷静でいられた。後で何かしてあげなければ。
風呂から上がると、つきがコンビニ袋を大量に抱えて戻ってきた。
「え、いつの?」
「さっき。気づかなかった?2人ともお風呂だったからね。ほら、お腹空いてるでしょ」
テーブルへ並べられるお弁当。ドレッシング付きのサラダ。レジ横で売っているホットスナック。お茶はみんな種類が違うし、デザートまである。豪華だ。
「買いすぎじゃない?」
「ユナ育ちでしょ」
「そうだけど」
「明日の朝ご飯も買っておいたから、カバン」
3人で食卓を囲む。久しぶりの実家なのに、何の感慨も湧かなかった。「懐かしい」「帰ってきた」そういう感情が全くない。あるのは現実感だけだ。私は確かにここで育ったはずなのに。玄関で泣いて、庭で怒鳴られて、縁側で姉と笑って、母と過ごした。だが全て、他人の記憶を覗いているようだった。
つきが弁当を食べながら言う。
「お母さんの部屋だけは綺麗だった」
思わず私は箸を止める。
「え、さっき見たの?」
「隅々まで掃除されてた。今夜はそこに布団敷いて寝ましょう」
どうやら父は、母の部屋だけはこまめに掃除していたらしい。母が亡くなって20年は経つ。ずっとそうやって一人で、自分の妻を弔っていたのだろうか。
普通なら美談なのかもしれない。亡き妻を愛し続ける夫。実際、他人が聞けば感動するだろう。けれど私は白けていた。父が母へしたことを知っているからだ。裏切りと重ねた嘘。母を泣かせた過去を全部見ていた。
父は多分、罪悪感を抱えていたのだろう。だから母が亡くなった後になって、罪滅ぼしのように部屋を守り続けた。率直に言って遅すぎる。生きている時に大事にしなければ意味などない。そう強く思った。この世を去った後で綺麗事を積み重ねても、失った時間は戻らないのだから。
ユナがつきを見上げた。
「ねえ」
「何?」
「おばさんって、彼氏いるの?」
私は吹き出しかけた。真顔で答えるつき。
「いない。結婚もしたことないよ」
「なんで?」
「弁倒だからね。仕事をするにも邪魔だし」
「ああ、分かる」
分かるのか、と思いながら私は唐揚げを頬張った。ユナは腕を組み、真剣な顔になる。
「でも、おばさんモテそう」
「そうでもない」
果たしてどうだっただろう。私は記憶をたどった。つきは異性よりも同性にモテるタイプだ。高校の時は生徒会長だった彼女は、バレンタインには大勢の女子生徒からチョコレートをもらっていた。私も消費に付き合わされたことを思い出す。大して男子からは、ひっそりとした憧れの視線を向けられていた。ファンクラブのようなものができていた記憶もある。本人が全く興味がないだけで、恋愛のチャンスはいくらでもあっただろう。もちろん、この先もそうだ。
「おばさん、ママに似てるし」
「あみの方が、先輩は可愛いでしょ」
「それは確かにそう。顔だけで言えば、あみはお母さんに。だから私はお父さんに」
テンポ良く会話が続いていく。私は呆れ半分、笑い半分で眺めていた。初対面とは思えない。思えば昔からつきは子供にも好かれるタイプだった。本人にその自覚はない。だが子供は敏感だ。本当に危険な人間がそうでないか、きちんと見抜く。
食事を終えた後、私たちは母の部屋へ向かった。扉を開けると、明らかに空気が違った。他の部屋よりずっと綺麗だ。机もタンスも写真も、誇り一つかぶっていない。きちんと整えられている。
私は何とも言えない気持ちになった。つきは黙ったまま布団を敷き始めた。ユナはもう限界だったらしい。布団へ入った瞬間、数分で寝息を立て始める。
私はその姿を見つめる。穏やかな寝顔だ。今日だけでどれだけ環境が変わっただろう。明日以降、ユナの転校手続きも進めなければならない。私の決意は不変だ。何よりもまず我が子を守る。
隣でつきがぽつりとつぶやく。
「あみの小さい頃にそっくりね」
「私、あんなに賢くなかった」
「そこじゃないよ。なんというか、生きざまが似てる」
「生きざまか」
ユナの髪を撫でるつき。動きが優しい。昔、私にもこうしてくれたことを思い出す。父に怒鳴られた夜や、泣き疲れて眠った時、姉はいつも無言で隣にいて、味方だと教えてくれた。
私は布団へ横になり、天井の木目を見上げる。実家で姉妹水入らずの夜を過ごすなんて、何年ぶりだろう。目を閉じると、半分開けて網戸にした窓から、波の音が夜闇に強く聞こえてきた。
翌日から、私たちは猛烈に動き始めた。本当に息をつく暇もない。何もしなくても、朝になればやることが山のように積み上がっている。そしてそれを必死にこなしていると、気づけば一日が終わっていた。
私はまずユナの転校手続きを進めた。地元の小学校へ事情を説明し、必要書類を揃える。制服と教材の準備をした後、実家の中を改めて見て回り、生活環境の確認をした。
ユナは意外と落ち着いていた。むしろ周囲を冷静に観察しているようだ。
「こっちの学校、校庭広くていいね。制服も毎朝着替えに迷わなくて済むし」
我が娘よ。
一方、その頃、つきはもっと恐ろしい速度で動いていた。彼女は今回のために、全ての業務をリモートワークに切り替えたらしい。つまり仕事量は単純計算で倍になっている。さすがのバイタリティだ。
最初につきが着手したのは借金問題。普通の人間なら頭を抱える案件。彼女はあっという間に処理し始めた。つきは一人で銀行との交渉を重ね、資産整理と契約確認を進める。弁護士とのやり取りを経て、銀行と役所を往復していた。私がしたことと言えば、彼女が指定した口座にお金を振り込んだぐらいだ。
そして、被告から10日後のこと。
「あ、そういえば返済終わったから」
つきは朝食の席で味噌汁を飲みながら、のんびりと報告してきた。私は卵焼きをつまんでいた箸を空中で止める。
「え、終わった?」
「うん、終わった」
「あ、早」
当日中に同額の報告を受けた事務は、本気で泡を吹いて倒れそうになっていた。つきのとんでもないスピード感に、振り落とされそうになっている。
もちろん彼女の行動は借金返済だけで終わらない。本格的に旅館への改革へと着手した。私も隣に加わって、アイデアを出したり話を進めたりする。だが主な役割は、誤解されやすいつきと周囲の中を取り持つことだ。
彼女がまず切ったのは無駄な支出だった。使われていない設備、赤字イベント、見栄だけの広告、父の趣味全開の高級調度品など。「いらない」これら全て容赦なくばっさりと切り捨てる。その一方で、残すべき部分は徹底して守った。料理の味、接客の基礎、自慢の庭、そして何よりも大事な温泉の設備や地元とのつながり。加宮が長年積み重ねてきた核の部分だけは、絶対に切り捨てなかった。
私がつきから任されたのは、客室の見直しや予約システムの改善だ。一般的な客室とラグジュアリーな客室。その違いを明確にする。今は単に客室の広さと露天風呂の有無などで区別しているだけだ。ラグジュアリーを謳うなら、ふさわしいレイアウトを整え、家具もアップグレードする。もちろん一般的な客室にも手は抜かない。歪んだ畳を取り替え、襖を張り替えて、どんなお客様にも居心地よく過ごしてもらえる空間を作り上げる。幸い、私にはこういった部屋の設えについてセンスがあったようだ。
次に予約システムの改善をする。電話での予約だけではなく、ホームページ上からも簡単にできるようデザインした。そもそも今までの加宮のホームページは、数年前まで在籍していたパソコンが得意な従業員が作ったものだという。作成者が辞めた後はほぼ手つかずで、カレンダーなんて3年前で更新が止まっていた。私は若い従業員の何人かに声をかけ、ホームページを定期的に更新するよう担当者を決めた。
残りのやるべきことは、従業員の配置整理と古いマニュアルの修正。そして人間関係の構築だ。ここが一番厄介だった。
当然ながら、私たち姉妹を快く思わない従業員も多い。特に古株。17年逃げた娘たちへの不審感は根深かった。陰口なんて日常茶飯事だ。わざわざ私たちに聞こえるように言う人間までいた。
嫌がらせもされた。会議資料を隠される。頼んだはずの備品を発注されていない。予定が共有されておらず、丸一日を棒に振った。ある日は重要な取引先との打ち合わせ、わざと事前に送迎車をパンクさせられた。でも事態を察した数秒後、つきはさっさと別の車を手配していた。引き先の社長にこのエピソードを話すと、大笑いされ、謎に気に入られてしまったのだ。ピンチは常にチャンスだと、改めて思い知る。
つきは基本的に動じない。嫌がらせを受けても表情は不変。「暇なのね」その一言で終わる。けれど私は知っている。つきは目標を達成するためなら、自分を削ることも厭わない。実家に戻ってきてから、彼女がまともに眠れた日はいくつあったのか。おそらく片手に満たないほどだろう。海外とのオンライン会議を続けながら、旅館改革まで進めている。常人離れした働き方だ。
私も渡してかなり資産を投じた。古くなった設備更新、客室の修繕、厨房機器の入れ替え。数字だけ見ればバカバカしくなる金額だが、不思議と惜しくはなかった。私たちの目標は明確だ。3年での業績回復。それを達成するためなら、どんなことだってする。
旅館の中で動き回っているうちに思い知った。従業員たちは父を本気で慕っている。私たち娘から見れば、父は間違いなく最低な男だった。だが加宮へ人生を捧げていたのは事実だ。だからこそ、中途半端に手を出して壊すことは本意ではない。
最大限まで押し上げてから、叩き落とす。その方が衝撃が大きいことは分かっている。やるなら徹底的にやらないとね。あの人だって、そうやってきたんだから。
一人になった時に、私はなんとなく呟いた。脳裏にあるのは父の姿ではない。私とつきが見本にしているのは、全く別の人物だった。
やがて、働き続ける私たちの姿を見て、周囲の空気も少しずつ変わり始める。最初は敵しかなかった従業員たちが、徐々に手を貸すようになった。板長などは最初から完全にこちら側だった。
「旦那さんよりよほど働くな」
「比較対象が終わってるから。あの人は口であれこれ指示を出すのが主だったでしょ」
「あと、照れるからなのか、動くのは人が見ていないところでだったし」
「違いない」
そんな軽口まで飛ぶように。ユナもいつの間にか旅館の一員になっていた。彼女が最初に始めたのはSNS発信だ。
「今の時代、発信力ないとやっていけないよ」
効果はてきめんだった。旅館の日常から始まり、季節の料理や庭園、温泉の効能、従業員紹介など、ユナは絶妙な距離感で発信していく。しかも彼女は文章がうまい。変に媚びないけれど読みやすい。あっという間にフォロワーが増えた。
さらにユナは接客センスまで高かった。難しい客が来た時のことだ。ヒートアップ寸前だった空気を、ユナが柔らかく変えてしまったことがある。
「お待たせしてすみません。よかったらお庭を見ながらお茶を飲みませんか?お菓子もご用意しますよ」
その一言で、怒っていた老夫婦の空気が柔らかだ。従業員たちも徐々にユナに心を開いていく。「若旦那」なんて呼び方までされ始めた。
不思議なことに、みんなで問題を乗り越えるうちに、旅館全体の空気がどんどん明るくなっていく。従業員たちとの会話が増え、お互い協力しようという意識も強まっていた。
父が生きていた頃の加宮は、よくも悪くも父中心だった。誰もが父を見て動いていた。しかし今は違う。全員で支え合わなければ回らない。その状況が逆に、人の距離を近づけていた。
とはいえ、私は相変わらず冷めた目で周囲を観察していた。感動していたわけではない。人は変わるものだ。昨日まで敵だった人間が味方になることもある。逆もあり得た。だから私は、つきとユナ以外、誰も信用しなかった。
加宮へ戻ってから数ヶ月が過ぎた頃、私は父の部屋を片付けていた。相変わらず広い部屋だ。無駄に高級な机には大量の資料が詰まれ、書類と古い帳簿が同じ棚に並んでいる。父は整理整頓が苦手だったくせに、妙なところで几帳面でもあった。必要な書類はきちんと保管している。だがその保管方法が、本人以外には理解不能だ。
私は古い棚を漁りながらうんざりしていた。
「なんで全部ぐちゃぐちゃなのよ」
書類の山をどける。古い旅館計画書だ。調査資料や観光統計まである。しかも「気に入らん」「却下」「センスがない」など、父のメモ付きだ。偉そうで腹が立つ。
その時だった。棚の奥から古びた筒状のケースが転がり落ちる。
「おっ」
私はケースを拾い、中身を広げた。それは地図だった。しかもかなり詳細な地形図だ。旅館の裏手の山の部分へ、赤ペンで大量の書き込みがされている。さらに横には見慣れない資料まであった。専門用語が並んでいるが、「地層分析」や「地下水脈」などと読み取れる。
「何これ?」
吸い寄せられるように資料を読み進めていく。どうやら父は地質学関係の専門家とも連絡を取っていたらしい。父が使っていた古いノートパソコンを開く。パスワードは自分の誕生日だ。するとメールのコピーや調査依頼、分析結果などの追加資料がたくさん出てきた。専門家とのやり取りは、亡くなる数年前から続いている。
嫌な予感がした。いや、正確には「父らしい予感」だろうか。父は昔からそうだった。何か面白そうな匂いを嗅ぎつけると、周囲へ何も言わず突っ走る。後先考えず、説明もしない。ただ勘だけは鋭い。
私は資料を抱え、つきの元へ向かった。彼女は旅館事務所で、最新型のノートパソコンの画面を睨んでいた。本職の方の海外会議中らしい。相手が英語で何か喋っている。つきは無表情のまま淡々と返答していた。
「あと5分」
私に気づいた彼女がぽつりと告げる。音を立てないように、そっと机へ資料を置いた。そしてきっかり5分後。つきはパソコンを閉じ、こちらを見る。
「で、何?」
「あのね、お父さんの部屋から何か変なの出てきた」
その瞬間、彼女の目が資料へ向いた。つきは資料を広げ、無言で読み始めた。ページをめくる速度が異様に早い。そしてある箇所で、ぴたりと手が止まる。
「なるほどね」
「何?」
「父さん、多分温泉掘ろうとしてた」
私はぎくりとした。
「え、温泉?」
「そう。新しい源泉を見つけてたみたい」
つきは地図を指さす。旅館裏手のさらに奥の私有地だ。父が赤をつけていた場所だった。
「炭酸泉の可能性があるみたいね」
温泉が好きな人なら一度は聞いたことがあるだろう。効能は血行促進、美容効果、疲労回復など。しかも天然炭酸泉は貴重だ。私は資料を見直す。確かに専門家の分析結果にも、地下成分について書かれていた。父は旅館再建のために、新しい温泉を掘ろうとしていたのだ。
「本当に、最後まで旅館のことしか考えてない人だったんだね」
つきは立ち上がる。
「行く」
「え、どこへ?」
「現地調査」
そこから彼女は専門家へ連絡し、地質調査をどんどん進める。事務はもはや慣れたようで、スルーしていた。
3日後、旅館の敷地で試掘が始まった。私は現場へ立ち合っていた。ユナもヘルメット姿で見学している。従業員たちが慌ただしく動き回る。
「何かワクワクするね。宝探しみたい」
実際、私も初めて見る。今の加宮の温泉は、早々に引かれたものだと聞いていた。つきだけが真顔で工事の様子を見守っている。
数時間後、作業員の一人が叫ぶ。
「出た!」
現場がざわつく。私は思わず前へ出た。地面から湧き出す湯と、独特の細かい泡が見えた。専門家が興奮気味に説明を始める。
「天然炭酸泉です。しかも成分濃度が高い」
私は呆然とする。本当に掘り当てたのだ。つきは腕を組み、淡々と言った。
「やっぱり、おじいちゃん執念すごいね」
本当にそうだと同意する。父は亡くなる直前で、旅館を生かす道を探していたのだ。
つきは今後のプランを並行して進み始めた。炭酸泉を前面に売り出し、さらに炭酸泉を堪能するための別館も建てるという。
「待って。別館必要でしょ?建築費用、大丈夫?」
「うん、余裕」
つきは机へ大量の資料を並べる。建築と資産計画と観光戦略。全部すでに作ってある。彼女は本当に人より数歩先を生きている。
そこから怒涛の日々が始まった。行政手続きをして温泉権利を取り、建築確認と設計について話を詰め、業者選定をする。私もつきの指示のもと走り回った。忙しないが、嫌ではない。次第に従業員たちの目つきが変わり始めていた。最初は懐疑的だった人間たちまで、自分から動くようになっていく。
そして1年後、加宮別館は完成した。海と山に囲まれた奥座敷にある天然炭酸泉。限られた客しか入れない隠れ家という触れ込みだ。観光雑誌が飛びつかないわけがない。掲載された瞬間、予約が殺到した。ネットでも話題になり、ユナが発信した動画まで拡散された。人の若いスタッフに「若女将」なんて妙なあだ名までついている。
私は苦笑しながら完成した別館を見上げた。まだ新しい木の香りが漂い、湯けむりが立ち上り、穏やかな明かりが道を照らしている。父が見たかった景色は、多分これだったのだろう。認める気にはなれないが、彼が旅館を愛していたことだけは本物だった。
加宮へ戻ってきてから、気づけば2年以上が過ぎていた。別館は軌道に乗り始め、本館の稼働率も回復している。従業員たちの空気も変わった。以前のようなギスギスした雰囲気は薄れ、館内には活気が戻っていた。
ある日、仲居の一人が慌てた様子で私の元へ駆け込んできた。
「あみさん、どうしたの?」
「不審者がうろついてるみたいで、部屋からこっちを覗き込もうとしてるんです」
私は眉を寄せる。最近、別館の人気もあって、無断の侵入者がちらほら見られた。こっそり温泉にだけ入っていこうとするのだ。山奥だから気づかれないとでも思っているのだろう。ただ、もちろん全て未遂で終わっている。加えてSNS映え目的の迷惑客もいた。防犯の点については、これからさらに強化していかなければならない。
私は帳簿を閉じ、立ち上がった。
「どこ?」
「裏手です」
サンダルを突っかけ、旅館裏へ向かう。冷たい海風が吹いていた。裏手の通路を抜けた先に立っていた人物を見て、私は思わず足を止める。
直だった。しかも驚くほどやつれている。スーツはよれよれで、髪も乱れ、ほおも少し痩せていた。以前の自信に満ちたエリート会社員の空気は消えている。
直は私に気づくと、ぱっと表情を明るくした。
「あみ!何してるの?会いたかったんだ。出てきてくれてありがとうな」
距離をぐんぐん詰めてくる。私は即座に下がった。直はその反応に傷ついたような顔をする。どうして被害者面ができるのだろう。
「俺、ずっと考えてたんだ」
「何を?」
「やっぱり、お前には俺が必要だって」
相変わらず上から目線の発言だ。私の思考と態度がどんどん醒めていっていることに、直は気づかない。むしろどこか自信ありげだった。
「雑誌で見て知ったよ。旅館も大成功してるじゃないか。正直見直した。借金も返済したんだろ。褒めてやる」
私は思わず笑いそうになる。「褒めてやる」とは何様なのだろう。
「やっぱり、お前は俺の隣にいるのにふさわしい人間だ」
ゾワリと鳥肌が立つ。生理的に無理だ。彼は他人を、自分を飾り立てる付属品ぐらいにしか思っていない。
その時、背後から小さな足音が聞こえる。ユナだった。彼女はかばうように私の前へ出る。直の動きが止まった。
「ユナ…」
「何しに来たの」
その声には一切の温度がない。直は焦ったように笑う。
「パパ、お前たちのことをずっと心配してて、迎えに来たんだ」
「何言ってるの?どうせ浮気相手に捨てられたから、元通りにしたいだけでしょ」
彼の顔色が一瞬で変わった。
「は?」
「バカバカしい。私とママが何も知らないとでも思ったの?」
「何って…」
真実を追求され、途端に挙動不審になる直。分かりやすい。ユナは呆れてため息をつく。
「私、何回も見たよ。パパと知らない女の人と一緒に歩いてたじゃん」
実は恥ずかしいことに、私も彼女から聞かされて、直の浮気を初めて知った。それは実家へ移ってしばらくした頃だった。
「パパ、女の人といたよ」
「え?」
本当は黙っておこうと思ってたんだけど、でもママ全然気づいていないみたいだったから。ユナも最初は偶然かと思ったという。学校の都合で早めに下校することになった日、仕事中の直が綺麗な女性と並んで歩いている場面を目撃した。2人は親密な空気を漂わせ、直は笑顔を晒していたらしい。
「その日だけじゃなくて、ちょくちょく同じ女の人と一緒にいるのを見かけたの。この前はパパ、デパートで女の人にアクセサリー買ってもらってた」
「ユナ、教えてくれてありがとう。娘に気を使わせてしまうなんて、私は母親失格だ」
その後、ユナからもらった情報をもとに、色々と調べた。ネット上で相手の正体を知るのは簡単だった。
私は一歩前へ出る。
「あなたの浮気の女性って、あの女社長でしょ」
直の体がびくっと揺れた。図星のようだ。ユナが表彰された自由研究のコンクール。あの日、ロビーで彼女へ話しかけていた女社長だ。独身で、経営者で、投資家。そして複数の男性を支援していることで有名な人。常に複数の男性を囲っている女社長の手法は、業界内では公然の秘密らしい。
「調べたよ。彼女、男性に投資するのが好きなんだってね」
実際、彼女の周囲には、彼女の支援で事業を成功させた男性たちが大勢いた。飲食、アパレル、映像関係にIT企業。夢を語る男へ金を出し、その成長を見るのが好きなのだという。しかも見返りを強制しない。だから一部では女神のように扱われている。
私は直を見る。
「そんな相手と、あなたどこで出会ったの?」
「バーで…彼女、一人で飲んでて。彼女、前がいいんだ。すぐに奢ってくれるし、何でも買ってくれる」
口元がもごもごとしている。情けない表情だ。私はすぐ理解した。直は社長に対しても、私と同じ勘違いをしていたのだろう。すなわち「かわいそうな人間」だと。出さなければ男に相手されない、寂しくて弱い女。といったところだろうか。自分が優位に立てると思い込んでいた。だが違った。女社長側は多分、最初から全部見抜いていたのだ。
自分を鼻から舐めているこの男性が、渡した金をどう使うのか。その観察対象だったのだと思う。自身の夢へ使い努力するのか。人を助けるために使うのでもいい。あるいは自分の虚栄心を満たすのだろうか。女遊びをするとか、自己顕示を示すとか、そういう方向へ転がるのか。
直は観察者だった。自分の立場を、相手を利用する側だと誤解していた。だから捨てられた。単純な話だ。
「もしかしてパパ、浮気相手に貢ぐつもりで会社をやめたりした?でもあっさり捨てられて、今のそのボロボロの状態とか」
ずばり切り込むユナ。黙り込んでしまった直を見ると、正解らしい。
「どうせ私へのバッグと財布買ったお金も、その人に出してもらったんでしょ」
「え、どうしてそれを…」
「ちょっと考えれば分かるよ。パパ、全然似合わない高級腕時計とかするようになってたじゃん」
確かに彼の身なりは徐々に派手になっていっていた。私はそれを直自身の給料から好きで買っていると思っていたのだが、違った。自分が思っている以上に、私は鈍いのかもしれない。同時に、直をちゃんと見ていなかったことの反省にもなる。
「私の賞状を破った時、機嫌が悪かったのって、どうせその日にデートを断られたからでしょ。そりゃそうだよね。当日、あの人にはコンクールの審査員っていう大事な仕事があったんだから」
確かに、デートを断られたのはプライドの高い彼には相当応えただろう。だからと言って、ユナに当たっていいことにはならない。
私は真正面から直を見つめた。
「私とあなたがよりを戻すなんて、絶対にありえない。言ったでしょ?私、あなたのことが大嫌いなの」
「あ、あみ…」
「それに、忘れてるみたいだけど。私、あなたに慰謝料を請求できる立場なんだよ」
ひゅっと息を飲む音が、彼の口からこぼれた。私はわざと悪ぶった笑みを浮かべる。
「でも、今のあなたに払えるとは思えない。かわいそうだから、見逃してあげる」
「そうだね。今のパパ、とってもかわいそうで、見ていられないもん」
「あ、もうパパじゃないか。ただのおじさんだ」
直が絶対に嫌がるであろう「かわいそう」を、皮肉たっぷりに返してあげる。私の意図を察し、くすっと微笑むユナ。
「うわ…」
直はぶるぶると細かく震えたかと思うと、ダッシュでその場から去っていった。自分以外の全てを見下していた人間の最後は、どうしようもなくダサかった。
気づけば加宮へ戻ってから3年が経とうとしている。本当にあっという間だった。毎日忙しくて、何かと問題が起きて、常に走り回っていた。けれどその結果、加宮は見事に息を吹き返す。別館は予約が取れない人気施設になり、本館の稼働率も安定。SNS経由の若年層客まで増えた。従業員の離職率も改善し、料理評価も上昇した。観光雑誌では「再生した老舗旅館」として特集まで組まれている。数年前まで借金2億を抱えていた旅館とは思えなかった。
そんなある日、私はつきと共に事務所で会議室にいた。事務は資料を見ながら何度も頷いている。
「いやあ、本当にここまで持ち直すとは」
彼の目元が少し赤んでいた。無理もない。父が亡くなった直後の加宮は、正直かなり危なかった。私はつきの存在もあって、従業員同士の空気は最悪だった。経営状態も悪化し、借金問題まで抱えていた。そこから立て直したのだから、感動するのは当たり前だろう。
事務は深々と頭を下げる。
「あみさん、つきさん、本当にありがとうございます」
私は苦笑する。つきはいつもの無表情だった。そして彼女は、何でもないことのように言った。
「そうそう。来月から、加宮の経営はここの会社へ任せることになるから」
一枚の資料を差し出す。話の急展開に、事務ははっとしながら資料を受け取り、目を通した。やがて彼は見事に固まった。
「え…」
そこに記されていたのは、大手ホテル運営会社の名前だった。国内外に複数の高級ホテルを持つ有名企業で、業界では超大手だ。
私は事務長の反応を眺めながらお茶を飲む。つきは淡々と続けた。
「経営権は来月から完全移行。うん、大丈夫。担当者は頼りになる人だよ。把握しておいてね」
目を白黒させている事務長。彼にとっては突然すぎる宣告だろう。だが私とつきの中では、最初から決まっていたことだ。加宮を立て直し、3年以内に軌道へ乗せる。その約束はもう果たしている。だから終わりだ。
つきは椅子へ持たれながら続ける。
「私たちはただの代理だもの。だって、こうするのは当然でしょ」
私は隣で頷く。旅館へ骨を埋める気など、私たちには一切ない。今後、つきは本職の仕事に戻る。そして私はユナを連れて、つきと共に海外へ渡る予定だ。ユナも今通っている中学校から海外の学校へ転入手続きを行っている最中である。
この3年間はあくまで期限付き。最初からそう言っていたのに、一体いつから私たちがずっと旅館にいるものだと勘違いしていたのか。
事務が叫んだ。
「そんな、お2人が去るなんてだめです」
彼は勢いよく立ち上がる。
「加宮にはお2人が必要なんです。何よりも、加宮を愛してくれてるお2人が」
何を言っているのか理解できない。つきはこちらを見ていた。目が合うと同時に、吹き出す。
「ぷっ」
小さなものだったが、久々につきがちゃんと笑っていた。事務は完全に固まっている。私は笑いすぎて涙で滲んできた目尻を押さえた。
「誰が加宮を愛してるって。え、そんなわけないでしょ。大嫌いですよ、こんな旅館」
断言すると、空気が硬直した。事務長だけではない。たまたまお茶を運びに来ていた仲居まで、同時に固まっていた。彼女は慌てて立ち去る。この話も、今には広まるだろう。だがもうどうでもいい。
つきも腕を組みながら言う。
「私も嫌いでしょ」
「うん」
事務は呆然としていた。ここまで旅館へ尽くしてきた姉妹が、旅館を嫌っているなんて信じられないのだろう。
「え、でも、お2人は旦那さんの意思を受け継いで…」
私は笑みを消し、ゆっくり続ける。
「私たちが今まで業績回復のために頑張ってきたのは、母の遺言を遂行するためです。父のことは、全く関係ないんですよ」
そう、全部母のためだった。元々彼女こそが加宮の正当な後継者だ。だが、昔気質の祖父母は、女に生まれた人間に旅館を継がせるつもりはなかった。「どうして男として生まれてこなかったんだ」と子供の頃から詰められ、そのくせ放置もされず、厳しく教育を施されたという。
父は元はただの旅行客だった。祖父が彼と意気投合し、知事に旅館を継いでもらうため、無理やり母と結婚させたのだ。母とつきは、好きでもない相手との間にできた娘。それでも母はたっぷりの愛情を注いでくれた。感謝しかない。
やがて病に侵された母は、己の心の内を私たちに語って聞かせてくれた。
「実は、祖父母が現役の頃にも、大きく業績が傾いた時があるという。当時の借金は約3億。実は私がさりげなく2人を陥れて、借金を作らせたの。こんな旅館、なくなってしまえばいいって思ってたから」
母はさらりと真実を告げた。おそらく祖父母は全く気づいていないだろうとも言っていた。しかし、自分の憎しみだけで行動していた母は、何の罪もない従業員たちを巻き込んでしまっていたことに気づき、反省する。そして今度は父をうまくコントロールして、借金を全額返済させたのだ。
「3年かかったわ。もっと時間が必要かと思っていたけど、あの人、案外操りやすいから。だから、あなたたちも、今後旅館に何かあったら、3年は頑張ってみて。旅館のこと大嫌いでも、そう。大嫌いなままでいいだって。私も同じだから。生かすも殺すも、全部あなたたち次第よ」
にっこり笑って、すっかり痩せた手で私の髪を撫でてくれる母。この言葉は胸の中にしっかり刻み込まれた。今更ながら、旅館の娘として生まれてしまったことは変えられない。それならせめて、最低限の義務だけは果たそう。加宮を守ったという実績を作る。私とつきは、お互いにもそう誓い合っていたのだ。
「まあ、こういう事情があったんです」
かいつまんで事務に話すと、彼は絶句していた。こっそり話を聞いていた仲居も、途中から姿を消している。おそらく早速話を広めに行ったのだろう。
加えて言うなら、父は母が亡くなった時、愛人のところに行っていた。母に対する罪悪感は、そこから生まれているのだろう。旅館に対する執着は尊敬する部分もあるが、それと人間的な好き嫌いはまた別の話だ。
「誰に何と言われようと、私たちは来月には加宮を出ますから。それに、本当はもう、私たちがいなくてもここは大丈夫なはずですよ」
静かに突き放すつき。私たちがいなくても大丈夫というのは、紛れもない本心だろう。私も同じ気持ちだ。代表の人間に依存しなくても続けていけるような経営形態を、3年かけて整えておいたのだから。
事務はもう何も言わなかった。
そして、ついに出発の日が来た。空はよく晴れていた。旅館前には朝から大勢の従業員が集まっている。みんなどこか落ち着かない様子だった。この数週間、彼らは本気で私たちを引き止めようとしていたけれど、私もつきも一切首を縦に振らなかった。約束の期限を守り、私たちの役目はそれで終わりなのだ。
私は旅館の前へ立ち、建物を見上げる。大きな看板に、磨かれた玄関と立派な庭。そして、働く従業員たちの気配が残っている。初めて帰ってきた時とは、空気が全然違っていた。「生き返った」そんな表現がしっくり来る。
ユナが隣でつぶやく。
「私は加宮、好きだよ」
「うん。あなたにはあなたの感情があるんだから。それでいい」
本当につきはぶれない。
その時だった。遠くから誰かがこちらへ走ってくる。
「ま、待ってください!」
振り返ると、そこにいたのは若い板前だった。板長の弟子だ。この3年間で料理長候補として頭角を現してきた青年である。息を切らしながら慌てた様子で駆け寄ってくる。しかもなぜか、バラの花束を抱えていた。
私は嫌な予感がした。従業員たちもざわつき始める。青年は私の前へ立つ。真っ赤な顔をして、ぐいっと花束を差し出してきた。
「あみさん…」
「何?」
「俺と、これからも一緒に加宮を盛り立ててくれませんか?」
周囲の空気が一気に盛り上がる中、私は花束を見下ろす。真っ赤なバラとは分かりやすい。つまりプロポーズだ。後ろでは従業員たちが完全に湧いていた。
この空気は何だろう?私は青年をじっと見つめる。彼は緊張でガチガチになっていた。多分本気なのだろう。けれど私は冷静に口を開く。
「あなたさ、最初の頃、私への嫌がらせとして、食事に虫を入れてたよね」
空気が凍る。従業員たちの歓声が一瞬で止まり、彼の顔色が変わった。
「あと、私の下駄を隠したり、会議資料を外に漏らしたりしたこともあったよね」
淡々と追求する。青年の目は極限まで見開かれていた。周囲の従業員たちも、気まずそうに視線をそらし始める。彼は最初、かなり露骨に私たちへ敵意を向けていた。嫌がらせも幼稚なものばかりを繰り返していたのだ。
「私は気にしていなかったけど、忘れてもいない。私、そういうことをしてくる人間を好きになるほど暇じゃないから」
当然、恋愛感情など皆無だ。
隣でつきがぽそりとつぶやく。
「タイミング最悪。ここで迫れば断れないだろうって、汚い魂胆が見え見え。あみはちゃんと断れる子なのにね」
痛いところを突かれた青年は、呆然と立ち尽くしている。私はもう振り返らず、ちょうど到着したタクシーへ向かう。運転手がトランクを開けてくれ、荷物を積み込んだ。従業員たちは誰も引き止めてこない。私たちは本当に去ると、ようやく理解したのだろう。
ユナが先に乗り込み、つきも無表情のまま続いた。私は最後に一度だけ加宮を見た。
「バイバイ。お父さん、お母さん」
小さくつぶやき、迷いなくタクシーへ乗り込む。扉が閉まり、私とつきとユナは揃って去っていった。
私たちが海外へ渡ってから数ヶ月後、加宮で事件が起きた。深夜の閉館後、一人の男が裏口から旅館へ侵入した。その人物はガソリンを撒き散らし、本館へ火を放ったという。
犯人は直だった。
「全部あいつらのせいだ。みんな燃えちまえ」
そう叫びながら暴れていたらしい。
私が事件を知ったのは、しばらく経った後だ。日本のニュース情報番組を何気なく見ていた時で、言葉を失った。ユナも隣で固まっていた。
加宮本館は炎上。火の勢いは強く、館内の一部は焼け落ちてしまった。だが幸いにも、怪我人はゼロだったのだ。それは私とつきが3年間かけて整備した防災体制のおかげだった。避難経路、夜間マニュアル、緊急連絡網、消火訓練。従業員たちは混乱しながらも、冷静に宿泊客を避難誘導したという。結果として、人的被害は一切出なかった。そこだけは本当に良かった。
直はその場で取り押さえられ、逮捕される。連行される際、彼は何度も私とユナの名前を叫んでいたらしい。けれど私たちはもうとっくに日本にいないし、戻る予定もない。直はその現実を知って、呆然自失になった。ニュース映像に映った彼は、以前の面影など全くなかった。自信満々で他人を見下し続けていた人間の末路は、あまりにも惨めだ。
事件後、加宮はしばらく別館のみで営業を続けた。幸い、別館側への延焼は防げている。本館の修理も進められた。だが世間の反応は厳しい。「放火事件のあった旅館」という印象は強烈だ。ネット上では噂が広がり、客は徐々に遠のいていく。どれだけ設備を直しても、悪評だけは簡単に消えない。
最終的に、新たな経営担当者の提案により、加宮は正式に企業傘下の旅館へ完全吸収されることになった。ブランドを統合し、名称変更をする。長年続いた「加宮」という名前は、そこで消滅した。地元では惜しむ声もあったらしいが、私はその話を聞いても何も感じなかった。率直に、終わったのだと思った。母の望みは、今ようやく叶ったのだ。
現在、私たちは海外で暮らしている。最初は慣れないことも多かったが、不思議と苦ではなかった。むしろ日本にいた頃よりずっと呼吸がしやすい。
つきは相変わらず猛烈に働いている。海外各地を飛び回り、毎日のようにオンライン会議をこなし、休日すらほぼ存在しない。それなのに本人は常に涼しい顔をしている。
ユナは新しい学校へすぐ馴染んだ。実は日本にいる頃から、この日のために英会話を勉強していたのだ。おかげで今は現地の友人たちと普通に会話している。たまに私の方が置いて行かれるくらいだ。
そして私も、新しい仕事を始めた。モデル活動だ。まさかこの年齢になって再開するとは、自分でも思わなかった。だが海外では、年齢に対する価値観が日本よりずっと自由だ。若さだけではなく、その人自身の雰囲気や生き方を評価してくれる。今の私は、昔よりずっと自由でいられると実感した。
私は窓の外へ視線を向ける。あの日、加宮を去った選択は、きっと間違っていなかった。



