母が息を引き取る間際、私にこう言い残しました。「私が死んだら、この子を連れてこの屋敷から逃げておくれ。」その夜、私は五歳の娘の手を握りしめ、闇の中を裏木戸へと急ぎました。息が白く濁り、闇に溶けていきます。二人が木戸を抜けたその瞬間、屋敷を見張っていた者の一人が気づき、「誰だ、そこにいるのは!」と鋭く声を張り上げました。続けて、槍を手にした男たちが二人、三人と裏庭へ駆け出してきます。私は娘を抱き上げるようにして垣根の切れ目をくぐり、竹の影に身を滑り込ませました。左右に揺れ動く松明の光、足音が土を踏みしめる音がすぐそこまで迫ってきます。娘が震える声で呼びかけても、私は答える間もなく、ただ娘の手を痛いほど強く握り返すばかりでした。
父はまだ存命でありながら、なぜ母は死の間際に幼い娘を父ではなく私に託し、夜逃げまでさせねばならなかったのでしょうか。
物語は五年前、実り豊かな秋に遡ります。旗本・川村茂真の屋敷は、日立ちの軍でも指折りの豪家で、蔵には米が積み上げられていました。跡取りは五歳の一人娘・千代のみ。男子がおらぬことを言い立てる者もおりましたが、ある日、客を訪れた当家の者がその言葉をかけると、茂真は静かにこう答えました。「男でも女でも、我が子が一人あれば十分ではないか。家を継がせることより、目の前で笑う我が子一人の方がよほど大切に思われる。」
父の腕に抱かれると、千代はいつも弾けるように笑い、その笑い声が門の外まで聞こえたものでした。母・志乃は、奥形市の罠のある家の姫として育ち、千代を産んだ後から高熱症で季節ごとに床に伏すことはありましたが、それでいて家の采配も人通りこなす、そういう病でした。「今日は熱もいくらか下がったようだ。」茂真が訪れるたび、志乃は「大事ございません」と微笑んで見せ、その笑う顔を見てこそ心も落ち着くのだと夫は幾度も申しました。夜の折り、千代を膝に乗せた茂真が絵本を読み聞かせる声に志乃が耳を傾ける。そうした穏やかな夜が幾度もありました。
もう一人、欠かせぬ人物が乳母のお服でございます。千代が生まれた頃、お服自身も我が子を悪い流行りで失っており、張り裂ける胸を抱えて泣き暮らしていた彼女の元に、志乃の出産が思わしくないという事情が伝わったのは、天が二人の悲しみを結びつけた巡り合わせでございましょう。自分の子を失った悲しみを胸の奥に封じたまま、お服は生まれたばかりの千代に乳を含ませ、そうして五年、千代はお服の腕の中で眠るのを何より安らかと感じる子になりました。
庭を黄色い蝶が舞う昼下がり、「あ、見て、蝶々!」と千代が声を上げて追いかけ、お服が裾をからげて後を追う光景は、屋敷の見慣れた眺めでございました。縁側でこれを見守る志乃が「お服や、そのままでは私の方が先に疲れてしまいそうだよ」と声をかければ、お服は額の汗を拭いながら「この程度など何でもございません」と朗らかに答えたものでした。主従の間柄で始まった二人の縁は、そうして互いを心から信じ合う中へと深まっていったのでございます。
ある日、江戸より思いもよらぬ知らせが舞い込みました。最国の軍で共作による不正が深刻となり、地方の大官が救済金をかめ取っているとの噂が伝わったのです。上はこれを正すため、政連で知られた茂真を勘定奉行に任命しました。決して断ることのできないお役目でございます。茂真はこの辞令を受け取り、しばらく一人書斎に座り込んでおりましたが、やがて妻の部屋を訪れ、重い口を開きました。「妻よ、あるいはそれより長く屋敷を開けねばならぬようだ。」志乃の表情はしばし曇りましたが、すぐに落ち着いた声で答えました。「お役目が先でございましょう。私のことはご案内なさらず、どうぞお立ちくださいませ。」「それでも、そなたの体がこのようなのに。」茂真が重ねて尋ねると、志乃は夫の手をそっと握り、「旦那様がおられずとも、この屋敷にはお服も千代もおりますから、心配はございません。ただ一日も早くお戻りになることだけを願っております」と微笑んで見せたのでございます。
茂真は出立にあたり、屋敷の管理を実弟の十次郎に託しました。血を分けた身内であればと、疑う理由など何もなかったのでございます。秋の朝霧の中、茂真は旅立ちました。五歳の娘が父の袴の裾を掴んで離そうとせず、「父上、いつ帰ってくるの?」と尋ねると、茂真は娘の頭を撫でながら「初雪の降る前には必ず戻る。そなたは母上の言いつけをよく聞き、乳母の言うこともよく聞くのだぞ」と申しました。「うん。父上も早く帰ってきて。」千代が小指を差し出すと、茂真はその小さな指に自らの指を絡めて笑い声をあげ、それからお服に「妻と千代を頼む」と低く押し伝えたのでございます。「滅相もございません。何があろうと二人のお側を離れませぬ。」お服が深く頭を下げると、茂真はようやく身を翻し、馬にまたがりました。
十次郎は兄より六つ下で、幾度も剣の道に挑んでは果たせず、ついに武家奉公を諦め、商内に手を出した末に借財を雪だるまのように膨らませておりました。この事情を兄には打ち明けられぬまま、表向きは何事もない風を装って過ごしておりましたので、妻の富士と共に兄の難儀な立場につけ込もうとする心が全くないわけではなかったのでございます。「兄上よりそのようなお下知があったとは、何ということでございましょうか。」十次郎が案じ顔で書斎に入るなり、茂真は苦い笑みで答えました。「上様の御下知とあらば、是非もない。ただ病がちな妻と幼い娘を残していかねばならぬのが心にかかるばかりよ。」「兄上はどうぞお役目の身に専念なされませ。姉上と千代のことは、我ら夫婦が日々見守ります。」十次郎がうやうやしく頭を下げると、茂真はこれを聞いて心が軽くなり、「かたじけない。そなたたちを頼りにする」と申したのでございます。
十次郎夫婦は初めのうちこそ約束通り屋敷を訪れ、富士は自ら薬の様子を見て志乃の薬を整え、「姉上様、今日はお顔色がよろしいようですね」と笑いかけました。お服もまた特に疑うこともなく、この二人を殿様の身内として頼りにしておりました。されど、この睦まじく見える表向きの裏には、全く別の企みが潜んでいたのでございます。十次郎は蔵の管理を任されたのを良いことに、米と金の一部を密かに抜き取り、借財の返済に当て始めました。富士もまた、志乃が実家より自らした田畑の証文に密かに目をつけ、さらにある日、志乃の古い証文の控えを整理するその機会に、幾度も目にする機会がございました。丸みを帯びたその線の運びは、富士の記憶にうっすらと残ることとなったのでございます。これが後の災いの種になろうとは、その時の富士にはまだ知る由もございませんでした。
月日が流れ、志乃が送った文に返事は来ませんでした。二、三と送っても音沙汰なし。志乃の胸には不安が募り始めました。「お服や、殿様はどうしてこうも返事をくださらぬのだろう。」志乃が案じ顔で訪ねると、お服は首をかしげながら「お国元でお忙しく、手が回らぬのでございましょう」と答える他ございませんでした。そのうち、薬の匂いが変わったことに気づき、「若様、近頃お薬の匂いが違うようですが」と尋ねると、「良い薬種に変えたのだよ。値は少々張るが、体にはその方がよかろう」と、何食わぬ顔で言いくるめられました。ほどなく、原案先生までもが「姉上様が向かわれている」と来訪を断るようになりました。「姉上様が向かわれていると医者に伝えたのだよ。」富士は申しましたが、それが真であるはずもございませんでした。蔵の米の数量も帳簿と合わず、「義兄上、蔵の米がどうしてこう減っているのでしょう。」志乃が尋ねても、「兄上が外でお使いになる金でございます」と言い抜かれるばかり。さらに実家より受け継いだ田の証文までもが見当たらず、留守にした部屋には引き出しが乱れ、文箱の蓋も向きがずれているという、何者かが入り込んだ跡がございました。お服に確かめると、「若様がこの部屋の近くをうろついておられるのを見ました」との答え。「もしや印鑑をお探しなので?」その言葉に志乃の顔は蒼白になりました。あの印鑑こそ、財産を動かせる唯一の鍵であったからでございます。彼女はその夜のうちに、印鑑を誰も思いもよらぬ場所へ移しました。
そんなある夜更け、水を飲もうと廊下を歩んだ志乃は、叔父の部屋の前で見慣れぬ封筒を目にしました。障子から漏れる灯りの下。それは数日前に夫へ送ったはずの、封の切られたあの文でございました。夫が返事をよこさなかったのではない。自分の文が屋敷の外へ一通も出ていなかったのだ。その事実を悟った瞬間、志乃の指先がわなわなと震え始めたのでございます。この夜以来、志乃は眠りについても、はっと飛び起きることを幾度も繰り返すようになりました。軽々しく夫婦を問い詰めれば、返って災いを招くだけと知る志乃は、この事実をただ一人、お服にだけ打ち明けました。「お服や、私の文は一通も殿様の元に届いてはいないようだ。」お服の顔色は立ちまち変わりました。「お服や、私はこの屋敷の中で、誰一人心から信じることができぬ。頼れるのはそなた一人だけだ。」その言葉にお服は、「支那の真のおける業承商人を通じて、別の道から文を送ってみましょう」と申し出ました。しかし、その業商人は村を出るか出ないかの別れ道で十次郎の手下に捕らえられ、文はついに届きませんでした。この屋敷の内外に誰かの目が張り巡らされている。お服はそれを身を持って思い知ったのでございます。
そんなある夜、志乃は隣の座敷から漏れ聞こえる低い声に耳を済ませました。十次郎と富士が交わす話声でございます。「姉上さえいなくなれば、住むことよ。」富士が鋭く言い放ちました。「千代が生き延びれば、結局あの子のものになるだけのこと。あの子一人のために、一生肩身の狭い思いをして暮らせと申しますか?私は死んでもそのようには生きられませぬ。」この一言を聞いた志乃は、全身が氷のように凍りつくのを感じました。自らの命も、その後に幼い娘にまで及ぶかもしれぬという恐れが、彼女を追い詰めたのでございます。
その翌晩、志乃はお服と千代だけを部屋に呼び入れました。千代が眠りに落ちた後、志乃は娘の寝顔をいつまでも撫でながら、力を振り絞るように口を開きました。「お服や、私が死んだら、その夜のうちにこの子を連れてこの屋敷を出ておくれ。」お服は驚き、「大御所様に助けを求めましょう」と申し出ましたが、志乃は力なく首を振りました。「まだ推測に過ぎぬ。そうなれば千代が一層危くなるだけよ。」志乃は震える手で最後の文を書き、自らの印鑑で封じました。「この封書と真の印鑑を、千代の冬の羽織の裏地に縫い込めておくれ。誰にも見つからぬように。逃げるそなたに多くの金は持たせてやれぬ。宝を持てば狙われると見よう。されど身一つで立てば、後に誰もそなたを疑うことはできまい。そしてもう一つ、心に留めておくれ。誰が殿様の使いであると申しても、決して安易について行ってはならぬ。今この時より、誰の言葉もそのままには信じてはならぬのだよ。」お服はその重みを十分に受け止めながらも、深く頭を下げ、その命を胸に刻みつけたのでございます。
その夜、志乃の容態は急に悪くなり、息遣いが次第に浅く速くなり、指先が冷たく硬くなっていくのをお服は傍らで見守らねばなりませんでした。夜明けが近づく頃、志乃は静かに息を引き取りました。その顔は不思議なほど穏やかであったと申さねばなりません。目を覚ました千代が母の体を揺って尋ねる声に、お服は込み上げる思いを懸命に堪えながら、娘を胸に抱き寄せました。夜が明ける前、小暗い吹きさらしの縁の下、お服は千代に厚手の着物を急いで着せかけ、小さな風呂敷包み一つを手に取ると、手が震えて帯を結ぶことすら幾度もやり直しながら、人々の目が奥座敷に注がれるその隙をついて裏木戸へと歩を進めました。「ねえ、お母様を置いてどこへ行くの?」千代が涙声で尋ねましたが、お服は答える余裕もなく、幼子の手を一層強く握るばかりでございました。そして、あの木戸を抜けた瞬間、追手の叫びと槍の光に追われて竹の影と逃げ込んだ一連こそ、冒頭でお話しした夜の光景でございます。
お服は息を殺し、千代の口をそっと袖で覆いながら、湿った土を踏みしめて奥へ奥へと進みました。追手はすぐ近くの木を通り過ぎ、「こちらには誰もおらぬぞ」という男の声が遠ざかっていった時、お服はようやく詰めていた息を吐き出したのでございます。
日が登ると、川村家では思いもよらぬ騒ぎが持ち上がりました。もぬけの殻となった千代の部屋を見つけた下女の叫びに、富士の顔色は立ちまち変わりました。されど、それは驚きの故ばかりではございません。彼女の頭の中にはすでに別の恐れが稲妻のようによぎっていたのでございます。「姉上が息を引き取る前に、何かを書き残されたに違いない。」十次郎を呼び立てて二人で志乃の部屋を改めると、まだぬくもりの残る布団と共に志乃の亡き骸が横たわり、あの印鑑が消え失せておりました。「まで持ち去った。このままでは、蔵も何もかも明るみに出てしまう。」富士はすぐさま志乃の手箱を開け、感ざしの悪い銀の装飾品を取り出して自らの田元に隠し、箪笥をわざと力づくでこじ開けたような跡までこしらえました。「これで盗人が入ったように見えましょう。」富士は家来たちを呼び集め、「夜のうちに乳母が奥方様の宝を持ち去り、姫を連れて出奔した。そのように心得よ。もし違うことを口にする者がいれば、決して容赦はせぬ」と、言わせぬ調子で申し渡したのでございます。家来たちの中には長らくお服と親しくしていた者もおり、どうにも納得のいかぬ顔をしておりましたが、若様の凄まじい剣幕に逆らう者はございませんでした。噂はまたたく間に広まり、富士は震える十次郎の手に筆を握らせ、偽りの急報を江戸へと走らせました。十次郎の真の狙いは、兄が戻る前に必ずお服を捕らえ、志乃が残した封書と真の印鑑を消し去ることでございました。険しい人相の男には「素直に従わず抗うようであれば、無理に生かして連れ帰るには及ばぬ」とまで申し渡していたのでございます。この命を口にした瞬間、十次郎の胸の奥にわずかな寒気が走りましたが、「これも我が身と妻を守るためだ」と自分に言い聞かせる他なかったのでございます。
一方、富士は真の印鑑がお服の手にあるとなれば、いずれ財産の始末をどうつけるかに必ず尋ねるであろうと考え、以前ちらりと目にした古い証文の印の記憶をもとに、口の硬い彫り師に密かに似た印を彫らせました。しかし、細部の丸みまでは映しきれず、その印で一枚の譲渡証文をこしらえさせたのでございます。「いざとなれば、これを差し出せば良い。」その印が後に自らの首を絞める証になろうとは、まだ誰も知る由もございませんでした。
お服は街道を避け、千代の手を引きながら山道やあぜ道を急いでおりました。五歳の子が長くは歩けぬことを知っておりましたので、おぶっては下ろしを幾度も繰り返し、凍え込む夜には娘を懐深くに抱き入れ、自らの体温だけで凍えぬようにと一晩中身じろぎもせずに座り続けたこともございました。土地に明るいわけでもございませんでしたが、幼子を守らねばというその一心だけが彼女に細い道を選ばせ、追手の目をかいくぐらせていたのでございます。「足が痛い。」千代が疲れた声で尋ねると、お服は足を止めて、「お嬢様、今しばらくご辛抱くださいませ。天がお助けくだされば、必ず道が開けましょう」と、無理に明るい声で答えました。持ち合わせの金も少なく、昼は一目につかぬよう祠やらの影に身を潜め、人通りの絶える夜にのみ動くようにしておりました。殿様が正しくどの軍に留まっておられるかも定かではなく、頼れる道はすでに見張られており、幼子を連れての身では迂闊に表に立つわけにもいかなかったからでございます。夜が更けて千代が背中でうとうと眠りに落ちると、お服はようやく堪えていた涙を声もなく流すのでございました。「奥方様、私はこれで良いのでございましょうか。」
数日後、見知らぬ男が二人近づいてまいりました。「殿様が我らを使わされました。姫様をお迎えに参りましたので、大人しくお渡しくだされ。」お服は一瞬嬉しさに身が震えましたが、すぐに志乃の言葉が脳裏をよぎりました。お服はとっさに、「殿様がお立ちになった朝、何とお約束になりましたか。それをお答えいただければ従いましょう」と静かに問い返しました。男たちは顔を見合わせ、「そのようなこと知る由もない。幼子を連れた分際で、何を証などというのか。大人しく差し出せ」と声を荒げました。その苛立ちこそ何よりの証でございます。お服はためらうことなく娘を抱き抱え、細い道へと駆け出しました。志乃が命をかけて残したあの一言が、まさにこの瞬間、千代の命を守り抜いたのでございます。
数日後、お服と千代は人の往来もまばらな深い山里に流れ着きました。元の名を捨て、当家の名を借りて、ただの百姓家の下働きとして生きねばならぬ身の上でございました。見知らぬ女と幼子の出現に、村人たちが見慣れぬ視線を向けてくるのをお服は全身で感じねばなりませんでした。「どちらから参られました?」と尋ねる声にも、「病いでなくし、実家筋の当家を頼って参った」という筋書きを語って聞かせておりました。冬が深まるほどに指はひび割れましたが、お服はその痛みすら口にせず、昼には村の女たちの着物を縫って糧を得ました。嘘の下手な彼女ではございましたが、娘を守らねばならぬという切なる思いが、その不器用さすらそれらしく見せていたのでございます。
千代には絹の着物を脱がせ、木綿の着物を着せました。「乳母の着物、どうしてチクチクするの?」と尋ねられても、「綺麗な子ではいずれ父上様の元へ戻った時」と慰める他ございませんでした。お服がどうあっても手放さぬもの、それは志乃の封書が縫い込まれた冬の羽織でございます。他の着物がいかに古びようとも、この綿入れだけは毎晩そっと取り出しては糸の綻びを確かめ、大切に抱いて眠るのでございました。「ねえ、お母様に会いたい。お母様はいつから帰ってきてくれるの?」千代が布団の中でしゃくり上げながら尋ねるたび、お服は幼子を胸にしっかりと抱きしめながら、「奥方様は今、天でお休みになっておられます。お嬢様が健やかにお過ごしになる姿をご覧になれば、奥方様もさぞお喜びになりましょう」と、喉に込み上げるものを堪えて答えるのでございます。娘の前では決して涙を見せぬよう心がけておりましたが、幼子が寝た後、真っ暗な小屋の中で独り声を殺して泣く夜が幾度もございました。
そんなある日、村に張り出された高札を目にすることになりました。「殿様の乳母だったという女が奥方様の宝を盗み、幼いお姫様まで連れて逃げたそうな。あんな恩知らずを見たことがない。」人々の声にお服はその場で全身が凍りつくような思いに襲われました。殿様までもが自分を盗人と信じておられる。それが何より痛ましい衝撃であったのでございます。
一方、茂真は偽りの急報を受けて見分を急ぎ切り上げ、昼夜をはかたず馬を駆けさせました。国元まで十日余りを用しましたが、その十日は十年より長く感じられたことでございましょう。ようやく屋敷にたどり着いた時、彼を迎えたのはすでに終わった妻の亡骸と、もぬけのとなった娘の部屋でございました。門をくぐるなり漂ってきた線香の残り香が、何より雄弁にことの次第を物語っておりました。生涯乱れた姿を見せたことのない彼が、この日ばかりは幼子のように声を上げて泣いたのでございます。十次郎と富士はあらかじめ用意していた話を並べ立て、茂真は初め衝撃の中でそのまま受け入れる他ございませんでした。しかし、ほどなく一つの疑問が頭をもたげます。お服が娘を連れ去って、一体何を得るというのだ。財産に目がくらんだのなら、なぜわざわざ娘まで連れて行かねばならぬのだ。むしろ足手まといになるだけではないか。この単純な問いだけで、彼の心には拭いきれぬ疑いの種が残ったのでございます。それでも今は娘を見つけることが先決。茂真は国中に探索の命を下し、この任務を十次郎が自ら申し出て引き受けました。こうして、娘を生かそうとする父の探索と、亡き者にしようとする叔父の追跡とが、同じ名の元に始まってしまったのでございます。
茂真は自らも屋敷の証文と帳簿を改め始めました。古く使える下男を呼び、「私が留守の間、奥方様が文を書いておられるのを見たことがあるか」と尋ねると、「はい、幾度も封書をお書きになるのを見ております」との答え。それならば、なぜ自分の元に一通も届かなかったのだ、との疑いが深まります。原案先生を尋ねると、「若奥様より、奥方様は開放に向かっておられる故、診ることも良いと、その旨を受け取りました」と答え、持ち帰った薬を確かめると、「これは処方した薬ではございませぬ。見かけこそ似ておりますが、効能がはるかに劣る安価な薬にすり替えられております」と声を潜めました。蔵の帳簿を照らし合わせれば米の数量が大きく食い違い、「弟よ、この米がどうしてこう減っているのだ」と問い詰めても、十次郎はあらかじめ用意していた答えをすらすらと並べ立てるばかり。以前馬の世話をしていた下男は、「奥方様が時に渡された封書は、若様の手の者に持ち去られました」と申し出ました。妻の文が消えたことも、自分の文が届かなかったことも、全てが一つの方角を差し示している。推測に過ぎなかった疑いは、今や確信へと近づいていったのでございます。されど、確たる証がないということが彼を一層苦しめました。
兄が調べを始めたと知った富士は、夫を問い詰め、「あなた、兄上がただならぬ気配に気づかれた様子です。このままにしては危のうございます。お服の口さえ封じれば、確かめる術はございます」と主張します。数日後、薬を買いに出た折、千代が十次郎の手下に見つかり、「そっちだ!」の掛け声と共に、山合にこだまする中、山道での追跡の末、お服は足を踏み外し足を痛めてしまいました。痛みに耐えながらも、彼女は娘を懐から離しませんでした。「大丈夫?足から血が出てる。」千代が案じ顔で尋ねると、お服は「大事ございません。お嬢様、これしきのこと何でもございません」と笑って見せたのでございます。それでも、持ちこたえ、追手を振り切ったその夜、彼女はついに覚悟を決めました。いつまでも身を隠していては、いずれ捕まってしまう。とはいえ、江戸に近づく道そのものが見張られている以上、迂闊には動けません。夜を徹して思案した末、お服はかつて川村家に長く使え、今は在所へ隠居していた元の用人を頼ることを思い立ちました。彼女は方々を尋ね歩いて、その老人を探し当てました。突然訪ねてきた見知らぬ女に、老用人は初め警戒の色を隠しませんでしたが、お服が志乃の最後の様子とこれまでの経緯を語り聞かせるうち、その顔色は次第に曇っていきました。「そのようなことが屋敷で起きていたとは。殿様がお戻りになってからずっと胸騒ぎがしておりましたが、まさかここまでとは。」老人はそうつぶやき、ことの重大さを悟った様子でございました。お服は深く頭を下げ、命をかけてこの文を届けてくれるよう頼み込みました。老用人はしばし黙り込んでおりましたが、やがて静かに頷き、「御恩ある殿様のためとあらば、この老いぼれの命など惜しくはございません」と申し出たのでございます。文には、志乃が残した言葉の中でも、茂真と奥方様の二人だけが知り得るはずの秘めた一節をそっと忍ばせたのでございます。
数日後、茂真は見知らぬ者の手を通じて短い文を受け取りました。「姫は生きております。奥方様が自らこの子を連れて逃げるようお命じになりました。どなたも連れず、殿様を一人でお越しくださいませ。」茂真の手はかすかに震えました。同じ文字を読み返し、「これは誠に乳母が使わしたものか、それとも誰かの罠ではないか」と幾度も思案を重ねたのでございます。これまで経験してきた数々の疑念を思い返せば、たやすく信じられぬのも無理からぬことでございました。しかし、文の末尾に記された、志乃が生前、夫とただ二人でいる時に交わしていた秘めた約束。これは、夫婦でなければ誰も知り得ぬことだ。彼はそう呟いたのでございます。夜が明け切る前、彼は誰にも知らせぬまま静かに支度を整え、最小限の供の者を遠くに控えさせ、ただ一人馬を借り、文に記された場所へと向かいました。もしこれが罠であるならば、自らの命一つで済むことであって、千代までも危険な目に合わせるわけにはいかぬという覚悟でございました。
千代はその日、いつになく落ち着かぬ様子でおりました。「本当に父上、来るの?」と幾度も尋ねる幼子に、お服は「そうですよ」と繰り返しながら、窓の隙間から外を伺っておりました。遠く馬の蹄の音が聞こえてくると、お服は千代の手を強く握りしめたのでございます。小屋の戸が開く音に、千代ははっと顔を上げ、「父上!」と声の限りに叫びながら駆け寄りました。茂真はその場に膝をつき、両腕を広げて娘を抱き寄せました。「千代、我が子よ。父の来るのが遅れて、誠に済まなかった。」「父上、私、父上に会いたかった。乳母が毎日毎日、父上はもうすぐ来るよと言ってくれたの。」千代が父の首に抱きつきながら答えると、茂真の目からも大粒の涙がこぼれ落ちました。「どこか痛むところはないか。」彼は娘の体のあちこちを確かめながら幾度も尋ね、「大事ないよ。乳母がよく守ってくれたの」との答えに、ようやく詰めていた息を吐き出したのでございます。
しばらく娘を抱いていた茂真は、やがてお服を見つめました。「なぜ、財産を求めるならば、五歳の子など連れて逃げねばならなかったのだ。それがどうしても腑に落ちぬ。」お服はその場で一層深く頭を下げました。「殿様、私はいかなる悪事も働きもいたしませぬ。ただ奥方様がそう命じられたのでございます。」「妻が命じたと?一体いかなる次第で、そなたが今口にすることを私がどうして信じられよう。」まさにその時、千代が父の袖を掴みながら口を挟みました。「父上、乳母が私を連れて行ったのではないの。お母様が乳母に、娘を連れて行けと言ったの。私、少し目が覚めた時、お母様の声が聞こえたの。」五歳のこのおぼろな記憶にすぎませんでしたが、この短い一言が茂真の心を大きく揺さぶりました。お服はここでいよいよ時が来たと悟り、千代の冬の羽織をそっと脱がせました。懐から小さな針を取り出し、裏地に縫い込んでおいた糸を一目一目ほどいていきます。彼女の指先はかすかに震えておりました。この時のために幾月も一日とも欠かさず守り続けてきたものでございましたので、今その重みをようやく下ろせるということに、思いが込み上げていたのでございます。「殿様、この中に奥方様が最後にお残しになったものがございます。」糸が解けると、古びた裏地の間から封書が一つ現れました。茂真はその封書を目にするなり、震える手でそれを受け取りました。「これは妻の印ではないか。」「そうです。そしてこちらは、私が別に守り持っておりました真の印鑑にございます。」茂真はその印鑑を受け取り、しばらくの間じっと見つめました。五年を共に過ごした妻の手のぬくもりが残る品でございましたので、その感触一つだけで胸が締めつけられる思いでございました。彼は震える手で封書を静かに解き始めました。中には、消えた文、変えられた薬、帳簿の不符、印鑑を探る叔父の姿、そして自分が去った後は千代も無事では済まぬであろうという切迫した確信。それ故、乳母に娘を連れて逃げるよう命じたという次第が、余すところなく記されておりました。読み進めるほどに、茂真の指先は震えを増していきました。妻がただ一人で全ての真実を背負ったまま、病の身で死を目前にしながらも、ただ娘の命一つだけを思って書き綴った文であったからでございます。その最後の一節にはこうございます。「千代が生きてそなたの元へ帰ったならば、どうか乳母を罰しないでおくれ。あの女は我が娘を盗んだのではなく、私の最後の頼みを命がけで守り抜いてくれただけなのです。」
茂真は封書を握りしめたまま、その場に崩れ落ちました。「私は、これも知らずにこの者を盗人と思い込み、追い立てていたというのか。」彼は両手で顔を覆い、しばらくの間声を上げて泣きました。妻が死に行く中であれほどまでに自分に伝えたかった真実を、当の自分は何一つ知らぬまま、剣と違いのところを彷徨っていたという事実が、彼を耐え難いほどに苦しめたのでございます。しばらくして顔を上げ、お服に深々と頭を下げました。「私はそなたを疑っていた。誠にすまぬことをした。」お服は慌てて身を低くしながら答えました。「殿様はただ目に映るものだけをお信じになったに過ぎませぬ。私は殿様を恨んだことなど一度もございません。ただ奥方様が残されたお言葉を守り抜くことだけが、私にできる唯一のことでございました。」しかし、もはや茂真の胸のうちには、疑いではなくはっきりとした確信が一つ座っておりました。この一連の全てを仕組んだ真の下手人が誰であるのか、彼はもはや明らかに悟ったのでございます。
茂真はすぐさま十次郎を捕らえようとはいたしませんでした。志乃の封書だけでは、この一件を完全に立証するのは難しいと冷静に判断したのでございます。軽々しく動けば、返って十次郎夫婦に証拠を隠す時を与えるだけになりましょう。妻を失い、娘の命すら危うくされたこの数ヶ月を思えば、今すぐにでも弟の胸ぐらを掴み取り詰めたいという衝動が幾度も込み上げてまいりました。彼はお服に申し渡しました。「お服や、そなたと千代は当分の間、なおここに止まらねばならぬ。私が改めて人を使わし、安全な場所へ移してやろう。」「かしこまりました。殿様の御命の通りに従いまする。」父の袖を離そうとせぬ千代に、「すぐにまた会えるよう、必ず迎えに来る」と茂真は約束し、お服と娘を密かに別の場所へ移した後、再び一人屋敷への道をたどりました。懐には、志乃が命をかけて守った真の印鑑がございました。それは今や、弟夫婦の偽りを暴くための何より重要な鍵となっていたのでございます。彼は幾度も心を引き締めました。今この瞬間、少しでも取り乱した様子を見せれば、弟夫婦に気づかれ、証拠を消されてしまうに違いないからでございます。
屋敷に戻った茂真は、何食わぬ顔で弟夫婦と対面いたしました。「弟よ、千代がついに見つからぬということであれば、妻が実家より自らした財産もそろそろ考えねばならぬようだ。」十次郎と富士の目がきらりと光ります。「そなたたちがこの数ヶ月、真心を尽くしてくれたことはよくわかっておる。」茂真が重ねて言うと、富士の警戒はすっかり解け落ちました。「もし妻が生前、あの財産を誰かに譲るという証文でも残しておらなんだか。」何気ない調子で尋ねると、富士は待っていたとばかりに一枚の証文を差し出しました。「実は、姉上様が生前このような証文を残されておられました。実家の財産の一部を我らに譲るとお認めになった証でございます。姉上様がご在命中、我ら夫婦の真心に感じられ、自ら残されたものにございます。」茂真はすでに真の印鑑を懐に忍ばせております。二つの印を比べれば、押された形はわずかに違っておりました。かつて富士が古い証文の控えで目にした志乃の印影は丸みを帯びておりましたが、記憶を頼りに彫らせたものは細部までは映しきれなかったのでございましょう。真の印鑑は線の端が丸く収められておりましたが、証文に押されたそれは角が立っていたのでございます。茂真は全身の血が冷たく引いていくのを感じました。「これは偽物であるな。」彼は懸命に表情を隠しながら、証文を静かに畳みました。「承知した。私も今一度考えた上で決めよう。」十次郎と富士はそんな兄の何食わぬ顔を見て、安堵の色を隠せませんでしたが、自分たちがすでに自らの墓穴を掘っていることに、彼らは思いもよらなかったのでございます。
翌日、茂真は屋敷を後にし、自ら大御所様の元へと足を運びました。これまでに集めた全ての証、志乃の封書、真の印鑑、偽の印を押された証文をうやうやしく差し出し、「この一件、どうか厳しくお調べいただきたい」と深く頭を下げたのでございます。役人は書き付けに一通り目を通した後、「まずはその証文と真の印鑑と、この場で突き合わせて改めましょう」と申しました。呼び寄せられた十次郎と富士の前で、役人は懐から取り出した小さな虫眼鏡を手に、両方の印を照らし合わせました。「こちらの線は丸く収まっておるが、こちらは角が立っておる。明らかに彫りの手が違うものと見える。」役人がそう言い切ったその瞬間、その場に居合わせた十次郎の顔から見る見る血の気が失せていきました。これが第一の鍵。証文が偽物であるという何よりの証でございました。続いて呼ばれた原案先生は、これまでの診療と治療の記録を詳しく証言いたしました。「志乃様は元来病がちであられたことは確かでございますが、それがしが引き続き診療を続けておれば、これほど急に病が悪化するような容態ではございませんでした。誰かが意図してそれがしの訪れを止め、処方とは違う薬を用意させたものと明白に存じます。」役人が重ねて尋ねました。「それでは、これは明白に人為によるものと申すか。」「病人に必要な治療を断つということもまた、罪深き恐ろしき所業ではございます。」この証言により、富士が医師の訪れを取りやめさせ、処方された薬を安価な薬種にすり替えていた事実が明白に露見いたしました。直接毒を持ったわけではないにせよ、病人に必要な治療を意図的に断って死を早めた事実が明らかになりました。これが第二の鍵でございました。さらに、十次郎夫婦の屋敷を検分すると、志乃が夫へ送ろうとして横取りされた文の数々、茂真が妻へ送りながらついに届かなかった文の一部、盗まれたと言われていた装飾品、兄の屋敷から抜き取った米と材の秘密の帳面が次々と出てまいりました。役人たちが一つ二つと品を取り出しては目録に記すたび、見守る十次郎の顔色は見る見る土気色になっていったのでございます。この財産の検分の様子は、たちまち近隣の村まで知れ渡りました。「あの実直で通っていた十次郎様が、まさかそのような大それたことを。」誰もが顔を見合わせ、ひそひそと言葉を交わし合ったのでございます。お服が盗んだと言われていたそれらの品が、実は初めから十次郎夫婦の手中にあったことがこれで明らかになったのでございます。お服が身に帯びていたものといえば、わずかな路銀と奥方様の最後の封書、そして真の印鑑のみでございました。これが第三の鍵。乳母の無実を証明し、十次郎夫婦の欺瞞を暴いた、何よりも動かぬ証でございました。
三つの鍵が揃うと、十次郎は最後まで妻に罪を着せようといたしました。「それがしはただ妻の言うことに従っただけでございます。全ての企みは妻の心より出たものでございます。」この情けない言い分に、富士の顔がさっと赤黒く染まりました。「あなた様が指図なされたことを、どうして私一人がやったと申されますか。」激しく言い返しました。「それだけではございませぬ。あの追手に『合わせよ、殺せよ』と文で指図しておられたのは、あなた様ご自身ではございませぬか。」険しい人相の男に「生かして連れ帰るに及ばぬ」と申し渡していたことを知る下男の証言もまた残っており、十次郎のこの卑怯な言い逃れは通りませんでした。夫婦であったはずの二人が互いの罪を暴き合う姿を、役人たちは黙って見ておりました。二人はもはや互いをなじり合うばかりで、逃れる道はどこにも残されておりませんでした。結局、二人は法に従い、切りの上頭を申し渡されることとなったのでございます。もはや川村の家につるものではないと、とばりから名を除かれ、それぞれ遠い島へと送られることとなった次第でございました。
大御所の発表が村中に知れ渡ると、しばらくの間お服を指弾していた人々も、今は皆、口を揃えて詫びました。「噂だけで人を罪人に言い立てておったことを、誠に恥じる次第でございます。」都殺の前でお服を非難していた者たちまでもが、頭を下げるようになったのでございます。「私が乱に口にすべきことではなかった。」ある女がお服の手を取って詫びると、お服はただ静かに頷くばかりでございました。すでに過ぎ去った誤解を言い立てるより、今は真実が明らかになったことに、ただ感謝する思いの方が勝ったのでございます。
茂真はお服を書斎に静かに呼び入れました。「私は、そなたを捕らえようと追手を放ったのだよ。」「殿様はお嬢様を探しておられたのでございましょう。」お服が淡々と答えると、茂真は首を振り、力を込めて申しました。「いや、そうではない。そなたは我が娘を連れ去ったのではなかった。我が娘を生かして、再び連れ戻してくれたのだ。それを今ようやく悟った。なんという愚かな父であったことか。」お服はその言葉に目頭が熱くなりました。「殿様、私はただ奥方様とのお約束を守り抜いただけにございます。それ以上でもそれ以下でもございません。」茂真はお服に多くの金銭と屋敷を与えようといたしましたが、お服は手を振って辞退いたしました。「殿様、私はそのような報いを望んでお嬢様を守ったのではございません。ただ奥方様の最後の御命を受けたにございますのに、どうしてこのような大きなものをいただけましょうか。」「それでも、私が返さねばならぬ恩は残っておる。そなたがおらねば、千代は今この場にいなかったのだから。」茂真は言葉を継ぎました。「それに、そなたがこの数ヶ月耐え抜いた苦労を、一体何を持って償えようか。濡れ衣を着せられ、それでもなお娘を一瞬たりとも手放さなかったそなたに、私はせめてこれくらいのことをさせて欲しいのだ。」茂真はついに折れず、お服の名で小さな家と田畑をこしらえてやりました。お服が誰の下にも縛られず、自らの力で生きていけるようにという、彼の真心からの計らいでございました。
全てが片付いた後、お服が暇を告げると、千代がお服の裾を掴んで泣き出しました。「どこへ行くの?」「お嬢様は父上様とご一緒にお暮らしにならねばなりませぬ。」と慰めても、千代は一層激しく涙をこぼし、その場に座り込んでしまいました。「いやだ、乳母も一緒にいて。一緒にいなきゃだめ。」茂真の心もまた大きく揺さぶられました。五年を共に過ごした娘が、どうして一瞬で立ち切れましょうか。彼はしばしの後、静かに口を開きました。「お服や、千代が育ち、自らそなたの元を離れる日が来るまでの間だけでも、この子の傍らにいてくれぬか。」お服は驚いた目で殿様を見つめました。「殿様、私はただの乳母に過ぎませぬのに、どうしてそのようなお言葉をいただけましょうか。」「身分が何ほどのものであろうか。そなたはすでに、我が娘にとって二人目の母同然の者ではないか。」お服は涙を拭いながら頷き、「そのように仰せくださるのなら、お嬢様のお側に残りとうございます」と答えたのでございました。千代はその言葉を聞くなり、涙に濡れた顔のまま、ぱっと明るく笑って見せたのでございます。
以後、お服は身分の上では乳母のままではございましたが、屋敷の中で単なる飯使いのように扱われることはもはやなく、志乃が自らした株も元の通り、娘の文として保たれたのでございます。屋敷に戻った千代は初めのうちこそ、夜中に幾度も目を覚まし、母の名を呼んでは泣くことがございましたが、日ごとにその回数も少なくなり、代わりに乳母の膝で眠るのを何より安らかと感じるようになっていきました。茂真もまた、娘の傍らに座って絵本を読み聞かせる時を、以前にも増して大切にするようになったのでございます。
藤頭のあの夜、闇の中を裏木戸へと逃げ出した二人が、幾度かの春を迎え、再び屋敷の庭を歩くようになりました。かつてはお服が千代の手を強く握り、追手の槍の光に怯えながら竹の影と逃げ込んだあの道でございましたが、今度は千代が先に立って乳母の手を引き、花の咲き乱れる庭を駆け回るのでございました。小暗い夜の代わりに、今は柔らかな陽の光が二人の顔を撫で、竹の影の代わりに、庭に咲き誇る筒の花が二人を迎えていたのでございます。「乳母、お花がこんなにたくさん咲いてるよ。」千代が満開の筒の前で声を上げると、お服はその後ろをついて行きながら、頼もしげな笑みを浮かべました。この光景を遠くから見守る茂真の口元にも、久方ぶりに穏やかな笑みが広がったのでございます。闇に怯えながら手を引かれていたあの幼子が、今は陽だまりの中で誰かの手を引く側になっている。その姿だけで、この屋敷に流れた幾月の重みが知れようというものでございました。
千代は時折、母の使っていた部屋の前で立ち止まることがございました。そのたびに、乳母が静かに歩み寄り、傍らに寄り添うのでございます。「乳母、お母様が乳母に、娘を連れて行けって言ったんでしょう。それで私、逃げたんだよね。」「そうですよ、お嬢様。」「それなら、乳母はお母様の言うことをよく聞いたんだね。」千代が屈託なく笑いながらこう申すと、お服は涙を隠しながら微笑み返しました。
ある晴れやかな春の日、茂真と千代、そしてお服の三人が連れ立って、志乃の墓を訪れました。道すがら、千代はあの野花を一輪ずつ摘みながら、「これはお母様が好きだった花だよね」と幾度も振り返ってお服に尋ねました。お服がその度に「そうですよ」と頷くと、千代は満足げに頬を緩め、墓の前に着くと、その手にした花をそっと備えました。「お母様、私、元気にしています。乳母と父上と一緒に。」お服はその傍らで静かに手を合わせました。「奥方様、お嬢様を殿様の御手に無事お返しいたしました。これでようやく、乳母のお役目を果たせたように存じます。」茂真もまた墓前に手を合わせ、しばらくの間言葉もなく佇んでおりました。「妻よ、そなたが命をかけて守ろうとしたものを、私はようやく受け取ることができた。これからは、この手で守り抜く。」と、心の中で誓ったのでございます。そよ風が墓の周りの草花を柔らかく揺らしながら通り過ぎていきました。まるで、あの世で志乃がこの光景を見守り、微笑んでおられるかのような、温かな風でございました。
お服がこの屋敷から盗み出したものなど、何一つございませんでした。あの夜、彼女が胸に抱いて連れ出したものはただ一つ、死に行く母が最後まで守り抜いて欲しいと願った、五歳の幼子の命だけであったのでございます。人の真価は身分ではなく、誰も見ていないところで守った約束にこそ現れるのではございませんか。



