「お前たちはもう家の風呂に入るな。他人が入った後の風呂など気持ち悪くて入れん。」…

「お前たちはもう家の風呂に入るな。他人が入った後の風呂など気持ち悪くて入れん。」...

「家がないのはお前たちな。」

その言葉を聞いた瞬間、3人の笑い声が止まった。義父の得意げな目、義母の歪んだ口元、勝雪の何も考えていない笑顔。7年間、この家で私と娘を踏みにじってきた人たちが、私が離婚を切り出すと、まるで勝利を確かめたかのように笑った。

「お前たちはもう家の風呂に入るな。他人が入った後の風呂など気持ち悪くて入れん。」

義父がそう言い放ったのは、同居して5年目の秋だった。まなみがいる前での言葉だった。勝雪は黙って視線をそらした。

「父さんの言う通りだ。君たちマジで図々しい。今日から絶対に家の風呂は使わないで。だけど掃除は毎日しっかりするんだよ。」

勝雪は笑顔でそう言った。私は何も言えなかった。

私の名前は長田まこ。42歳。会社の経理部に勤めて20年になる。新卒で入社した日のことは今でも鮮明に覚えている。緊張で震える手で名刺を受け取り、先輩たちの背中を必死に追いかけたあの春の朝。あれから20年。気がつけば後輩たちに仕事を教える立場になっていた。

数字を扱う仕事は私に合っていた。感情に左右されず事実だけが積み上がっていく感覚が、どこか自分の気質と重なる気がしたのだろう。職場では「長田さんに任せれば安心」と言われることが増えた。口数が多い方ではないが、仕事の正確さだけは誰にも負けないと思っている。それだけが自分を支えるものだった。

私生活にはずっと自信が持てなかった。両親が相次いで亡くなったのは私が30歳になったばかりの頃だ。父が先に行き、1年も経たないうちに母も後を追うように亡くなってしまった。2人とも病気だった。それぞれ長い病の末に静かに息を引き取った。手を握りながら見送った感触は今でも消えない。

葬儀が終わり、慌ただしさが落ち着いた頃、残ったのは深い空白。毎日仕事へ行き、帰宅して眠るその繰り返し。冷蔵庫を開けるたびに、誰かのために料理をしなくなったことに気づく。家の中がやけに広く感じられたのを覚えている。

そんなある夜、職場の同僚が気遣って食事に誘ってくれた。小さな居酒屋の座敷で、同僚が仲のいい友人たちを連れてきていた。隣のテーブルにいた男性グループと成り行きで話が弾み、気づけば移動して同席していた。その中に後の夫となる勝雪がいた。

長田勝雪、当時37歳。洗練された雰囲気を持ちながら、どこかのんびりとした空気をまとっている。最初の印象は不思議な男性だった。

話しているうちに勝雪が柔らかく笑ってこう言った。

「まこさんってすごくしっかりしてますね。20年も同じ会社で頑張ってきたって、なかなかできないことですよ。」

褒め言葉に慣れていなかった私は返す言葉が見つからない。俯いて「そんなことないです」というのが精一杯だった。それでも胸の中に小さな温かさが灯ったのは確かだ。

その後、2人で会うようになる。勝雪は私のことを否定しない人だった。どんな話をしても柔らかく頷いて聞いてくれた。自分に自信が持てないと打ち明けたこともある。

「これだけ丁寧に生きてきたってことじゃないですか?」

そんな彼の言葉の意味をうまく理解できないまま、ただ泣きそうになった。勝雪は両親への愛情が深い人であることも知る。遠方に住む両親の話になると目が細くなった。

「親父もお袋も元気でいてくれるうちに、できるだけ一緒にいてやりたいんだ。」

そう語る姿に私は胸を打たれた。両親をなくしたばかりの私には、その言葉が眩しく映ったのだ。

「まこさんならきっと僕たちの家族になれるよ。」

「家族」という言葉があの頃の私には薬のように染みた。私は寄りかかれる場所をずっと探していたのかもしれない。

付き合い始めて1年半が過ぎた頃、結婚の話になった。義両親への挨拶のために遠方の実家を訪ねた時のことは今でも記憶に残っている。義母の秀子さんは台所で腕を振るい、義父の泰雄さんは豪快に笑いながら私を迎えてくれた。

「遠いところをよく来てくれた。うちの勝雪のことをよろしく頼む。」

そんな会話をしながら食卓を囲む。あの夜だけは本当に温かかった。式はあげなかった。親族だけで少し豪華な食事会を開き、それで婚姻届を提出。義両親も来てくれて、乾杯の声が上がった時、私は初めて「家族ができた」と感じた。

結婚した翌年、長女のまなみが生まれる。小さな手が私の指を握った瞬間、世界が丸ごと塗り替わった。泣きながら「良かった」と繰り返す勝雪の横顔を見て、この人と家族になれてよかったと心から思った。

3歳が開けて保育園が決まり、仕事に復帰。保育園ではまなみが笑顔で私を待っていて、帰宅後に夕飯の支度、勝雪の帰りを待って3人で食卓を囲む。疲れていてもまなみの笑い声を聞くと気力が戻った。勝雪も穏やかで、家の中に争い事はなかった。あの頃が1番幸せだったと今は思う。

義両親との同居が始まったのは今から7年前のことだ。まなみが3歳になる年の春、ようやく言葉が増えてきた時期で、朝起きるたびに「ママ、おはよう」と小さな声で言うのが習慣になっていた。その声を聞くことが1日を始める理由と言っても過言ではない。

勝雪と私は結婚当初から2人で2LDKのマンションに住んでいた。まなみが生まれる少し前に将来のことを話し合い、今の戸建てに引っ越すことにしたのだ。まなみの保育園が近く、部屋数にも余裕がある。2人で話し合い、納得して決めたことだった。

引っ越してから最初の1年は落ち着いた日々が続いた。週末は3人で近所の公園へ出かけ、まなみが砂場で遊ぶ横で勝雪と他愛ない話をする。特別なことは何もなかったが、それがちょうど良かった。

義両親が家に遊びにやってきたのは、そんな穏やかな日常のさなかのこと。事前に勝雪の両親が久しぶりに遊びに来るとは聞いていた。普段は遠方に住んでいるため顔を合わせる機会は年に数回程度。「孫の顔を見に来る」そういう話だった。

義母は玄関に入るなり家の中を見渡した。その視線はまなみではなく、廊下の幅や天井の高さを測るように動いている。義母は靴を脱ぎながら壁をそっと指で叩いた。

「いい壁ね。しっかりしてるわ。」

まなみが「おばあちゃん」と駆け寄っても、義母は軽く頭を撫でるだけで視線は天井へ向いたままだった。様子を見ていたまなみが首をかしげながら私の後ろに回り込む。胸が少し痛んだが、気のせいかもしれないと思うことにした。

義父は上がるなりリビングをゆっくりと一周した。窓の鍵を開け閉めして確認し、押入れを開けて奥行きを測るように腕を差し込んだ。

「収納が多いな。いいじゃないか。」

誰に言うでもない独り言のようだが、品定めをする商人のような目である。台所に入った義母が引き出しを1つずつ開けて中を確認しているのが見えた。私は何か言おうとして勝雪の方に振り向く。勝雪はソファーに深く腰をかけ、スマートフォンを眺めながらふふふっと笑っている。両親の行動が見えていないはずはないのに、それでも何も言わなかった。

夕食の準備を始めると、義母がいつの間にか隣に立っていた。冷蔵庫を開けて中を確認し、「整理した方がいいわね」と言いながら棚を勝手に並べ替える。私が黙ってフライパンを握っていると、義母は「こっちの方が使いやすいでしょう」と調味料の位置まで動かした。自分のキッチンが少しずつ他人のものになっていくような感覚に陥る。

食卓についてからも義父は箸を置いて部屋を見回す動作を何度も繰り返す。

「日当たりはどうだ?南向きか?ちょっと2階も見せてもらえる?」

食事中に2階を見たいと言い出す義母に、勝雪は「どうぞどうぞ」と立ち上がった。私はとっさに「2階は私たちの部屋もありますので」と言いかけたが、すでに2人は階段を登り始めていた。

2階から足音が聞こえてくる。ドアが開く音、また閉まる音。部屋から部屋へと移動する気配が天井越しに伝わってきた。まなみが私のエプロンを引っ張る。

「ママ、お部屋入っていいの?」

小声で聞いてくるまなみに、私は答えられなかった。その夜、両親が泊まっていくことになったのは勝雪の提案だ。

「せっかくだから泊まって行きなよ。部屋も余分にあるしさ。」

私とまなみが風呂に入っている間に決めたらしく、確認はなかった。寝室の配置を話し合う3人の声が1階から聞こえてくる。私とまなみはいつもより早く2階に引き上げた。

翌朝、義父は早起きして庭に出ていた。ブロック塀を手で押さえて強度を確かめるように揺らし、メモ帳に何かを書き留めている。何かがおかしい。そう思う気持ちはあった。ただその正体が何なのか、この時の私にはまだ分からなかった。

帰り際に義母が言葉を発した時、それはおそらく決定事項だったのだろう。

「こんなに大きな家なら、あと2人くらい住んでも問題なさそうね。」

笑いながらの言葉だったので私も軽く受け流した。多少の不審感はあったが深くは考えなかった。しかし翌月、事態が急変する。仕事を終えて保育園にまなみを迎えに行き帰宅すると、家の前に見覚えのない大型トラックが止まっていたのだ。

作業員が次々と荷物を運び込んでいる。何が起きているのか理解が追いつかなかった。まなみを抱えたまま玄関を開けると、義父が上がり框に立っているではないか。

「あ、お父さん、どうされたんですか?」

「ああ、まこさん、今日からお世話になるぞ。」

口調は穏やかなのに、背筋に冷たいものが走る。玄関に立つ義父の背後には見知らぬ作業員がダンボール箱を抱えて次々と入ってくる。靴箱の横に積み上げられていく荷物は1つや2つではない。箪笥の引き出し、布団、台所道具らしき箱。それは明らかに数日の滞在では収まらない量だった。義父の目は笑っていない。穏やかな声と値踏みするような視線が奇妙にちぐはぐだった。

告知でも相談でもなく、これは通告だったのだ。すでに決まったことを事後的に知らせているだけ。私は玄関に立ったまま声が出なかった。まなみが私のスカートを掴んで作業員たちを黙って見上げている。勝雪に電話をかけるとすぐに繋がった。ただ彼から帰ってきた言葉は予想外のものだった。

「前もって言ったらまこはダメって言うと思ったから、黙ってたんだ。」

私はスマホを耳に押し当てたまま立ち尽くす。その間にも義両親の引っ越しは着々と進んでいた。義両親が前の家を完全に引き払ったことを知ったのはその夜の話し合いの席だ。引き戻す手段はなく、まなみの手を握りながら私はただ黙っていた。

翌朝、仕事に出かける時には1階の和室で義両親はまだ寝ていた。勝雪は有給休暇を取ったらしく姿を見せない。リビングは義両親が運び込んだダンボール箱で溢れている。私が気に入っていた陶器とガラスでできたテーブルは隅に追いやられてしまった。ため息をつきながら、まだ眠たそうなまなみに朝食を食べさせた。

まなみを保育園に預け、仕事へ向かう。その道中で以前義両親が家に来た時の行動を思い出していた。あの時から彼らはこの家に住むことを考えていたのだろうか。一時的なものなのか。この先もずっとなのか。もう一度ちゃんと話し合わなくちゃ。そう思ってその日は仕事を乗り切った。

定時になり、まなみを迎えに行って仕事から帰る。玄関には義両親の靴がある。すぐに話をしようと思い、まなみの手を引いてリビングのドアを開けた。その瞬間、何とも言えない違和感を覚える。自分の家なのに自分の家ではない感覚。そう、家の中が変わっていたのである。まずリビングのカーテンが変わっていた。紺色の厚い生地で光をほとんど遮っている。私が選んだ淡いベージュのカーテンはどこにもなかった。カーペットも剥がされ、義母の趣味であろう濃い柄の敷き物に変わっている。お気に入りの白い棚は姿を消し、重厚な木製の家具が占領していた。まなみが喜んで選んだクッションもどこかに片付けられてしまったようだ。1階は1日にして別の家になっていたのだ。

私とまなみは変わり果てた我が家に呆然とするしかなかった。するとキッチンの方から満足げな義母が歩いてくる。

「あら、お帰り。安っぽい家具は排除したよ。雰囲気が変わっていいだろう。私たちが住むんだから、私たちが落ち着ける空間でないと困るからね。」

当然のことを言っているかのようだ。不満を持つこちらがおかしいかのような不思議な確信に満ちている。義母の後ろから勝雪もやってきた。

「大変だったんだよ、これ。全部取り替えるの。まこも仕事休んで手伝ってくれたらよかったのにねえ。」

「母さん、本当にね」などと言いながら勝雪と笑い合っている。冗談じゃないと思った。義母がリビングを出た隙に、私は勝雪を問い詰める。

「ねえ、勝雪。お母さんたちの引っ越しのこともそうだけど、どうして何でもかんでも勝手に進めてしまうの。せめて相談してほしい。」

「何言ってるの?まこは嫁なんだから、母さんたちに従うのは当然なんだよ。」

優しい表情。穏やかな口調だが、驚くほど冷たい言葉だ。

「母さんも言ってたけど、君は相当頭が悪いみたいだね。」

結婚してから1度も聞いたことのないセリフである。私が知っていた勝雪はどこへ行ったのだろう。人の尊厳を奪うような言葉をあの勝雪が笑顔で並べている。怖い。そう思ったが口に出すことはできなかった。

その日から1階はすっかり義両親のスペースになった。リビングはもちろん、併設された和室も自由に使えない。和室に安置していた両親の仏壇は、こともあろうに物置に押し込められていた。あまりに非常識な行動が恐ろしくなり、反論することもできない。半泣き状態で仏壇を自室に移動させる。そしてまなみと一緒に「お父さん、お母さん、ごめんね」と言いながら手を合わせた。

私とまなみは自然と2階で過ごす時間が長くなった。勝雪もほとんどの時間を義両親と一緒に過ごすことが多かった。その頃から小さな嫌がらせが積み重なり始める。義父はリビングのテーブルに工具や刃物を出しっぱなしにした。果物ナイフが食卓に置かれたまま夜を超えることも珍しくなかった。まなみがいる前での出来事だったが、注意しても聞き入れてもらえない。恐る恐る「危ないので片付けていただけますか」と伝えると、義父は鼻を鳴らした。

「その子の躾がなっていないから心配になるんだろう。お前がちゃんと躾をしていれば問題ないことだろうが。」

返す言葉が出なかった。子育ての話にすり替えられれば、こちらが悪いような気になってしまう。3歳の子が好奇心で刃物に近づきたがるのは当然のことだ。それでも声が出なかった。

私とまなみは2階を小さな居場所として整えた。ミニテーブルを置き、夕食後はそこで本を読んだ。まなみが眠るのを待って私も横になる。1階から時折漏れてくる義両親と勝雪の笑い声を聞きながら天井を見つめた夜が続いた。それでもまだ耐えられると思っていた。他人同士が1つ屋根の下で暮らすのだから、誰かが我慢しなければ。結婚とはそういうものなのかもしれない。自分に言い聞かせ、朝になれば仕事へ出かけた。

まなみの保育園の送迎も私だけがこなしている。勝雪は「仕事があるから」と言ったが、帰宅すると1階でくつろいでいることの方が多い。義両親もいることで、家の中に居心地の良い場所を見つけてしまったようだ。仕事をして、まなみを迎えに行き、食事の支度をして、まなみを風呂に入れ寝かしつける。義両親の分の食事も作った。1階の食卓は義両親と勝雪のためのもので、私とまなみはいつも後から残りを食べる。義両親と勝雪が温かい食事を食べることが最優先だった。

温かい料理が冷めた頃に私たちの番が来る。煮物の汁は干からびていることが多く、メインのおかずも水気が切れしか残っていない。それでもまなみには少しでも多く食べさせたくて、自分の皿にはほとんど箸をつけなかった。

ある夜、まなみのために余分に作ったおかずを小さなタッパーに入れて冷蔵庫の奥に隠した。義母に見つからないように工夫して隠したつもりだった。しかし翌日、夕食前にそっと取り出そうとすると、冷蔵庫の棚の中身が入れ替わっていることに気づく。タッパーは見当たらない。義母に聞くと、振り返りもせずに言った。

「賞味期限が切れそうだったから捨てたわ。食べ物を粗末にするんじゃないわよ。」

作ったのは夕べのことだ。賞味期限なんて話ではない。口の中に言葉が浮かんだが飲み込んだ。それからはまなみの分だけ多めに持った皿を自分の荷物袋の中に隠すようにした。2階に持ち上げて、まなみと2人で食べる。まなみが「ママのご飯美味しい」と言う度に鼻の奥がツンとした。この子には温かいものを腹いっぱい食べさせてやりたい。娘には弱いところを見せたくない。母としてそんな思いで胸はいっぱいだった。

同居が始まって3年が過ぎた頃、義両親の要求はさらに大きくなっていった。まなみが小学校に上がる前の春のことだ。保育園の時は時短勤務を認めてもらっていたが、義母はそれが気に食わなかったらしい。ある朝、台所で朝食の支度をしていると背後から声がかかった。

「あなたいつまで時短で働くつもり?子供が小学校に上がったらもっと仕事をして、家にお金を入れなさい。勝雪だけに負担をかけるのは申し訳ないと思わないの?」

「勝雪の負担」という言葉が引っかかる。結婚当初から毎月決まった金額を勝雪名義の共有口座に振り込んでいた。まなみが生まれて時短になってからも15万円は欠かさず入れている。負担をかけているという自覚は私にはなかった。ただ言い返す言葉は出てこない。これまでの経験から、義母には何を言っても聞き入れてもらえないと理解していたからだ。

まなみが小学校に入学すると同時に、私はフルタイムに戻った。放課後を学童で過ごしたまなみを、外が暗くなる頃に迎えに行くという生活が始まった。義両親や勝雪が代わりに迎えに行ってくれることはない。まなみに寂しい思いをさせてしまうのが心苦しい。そしてその変化を待っていたかのように義母が切り出してきた。

「今まで勝雪に負担をかけてきたんだから、しばらくは25万振り込みなさい。それが筋というものでしょ。それでも足りないくらいよ。」

25万円という金額に驚く。フルタイムに戻ったとはいえ、手取りを大きく超える金額ではない。交通費や昼食代を引けば手元に残るのはわずかだ。今までもかなり無理をして15万を振り込んでいたと思う。まなみの靴が傷んでもすぐに買ってやれない月もあった。

「あの、それは少し厳しいかと…」

「なあに、私に口答えするの?とんでもない嫁だね。ああ、やだ、嫌だ。」

義母の他を言わせぬ圧力。しかしこんな理不尽に屈してはいけないと、25万円の振り込みを拒む。ところが首を縦に振らない私に、義母からの要求はエスカレートする。

「25万入れないなら、共有のお金とその子の養育費はごっちゃにしないで。学校でかかるお金や給食費はあなたが別で払ってちょうだい。あなたの子供なんだから、そっちで全部面倒を見るのが当然でしょう。」

「その子」という言葉が耳の中でしばらく響く。孫であるまなみを義母は1度も名前で呼んだことがない。「その子」か「あなたの子供」か。まるで他人の子供を預かっているような言い方だ。

教育費は別で出せという義母の言葉に従えば、共有の15万円を振り込んだ上にまなみの教育費や生活費も全て自分で賄わなければいけないということだ。計算すると毎月の出費は赤字に近かった。まなみに苦労をかけるつもりはないし、惨めな思いもさせたくない。あの子にはできるだけ不自由をさせたくなかった。独身時代に積み上げてきた貯金を少しずつ崩していくしかないだろう。それに私がまなみの養育費を負担すれば、これ以上義両親は何も言ってこないと思っていた。しかしその考えは甘かった。義両親は私のまなみへの教育方針に容赦なく口出ししてくる。まなみの将来を考えて塾やピアノに通わせれば「無駄だ」と言い放った。

「そんな子供にかける金があるなら、俺たちによこしたらどうだ?それが嫁の勤めというものだろ。無駄な出費ばかりしやがって。」

義父が声を荒げた時、勝雪は黙っていた。

「給食だって食べなければ払わなくていいんじゃないの?子供なんて黙ってても育つんだから、我慢させなさい。その分私たちに回しなさいよ。」

私は背筋が恐ろしくなって目を伏せる。

「素直に25万振り込めばいいのにね。そうしたらあの子供だって苦労せずに住むのにね。ダメな母親。」

まなみを盾に取られ、私は25万の振り込みにしぶしぶながら承諾した。確かに時短の間は勝雪の方が多く入れてくれていたのは事実である。その分の補填をするためだと思えば仕方のないことだと自分に言い聞かせた。それにまなみにも好きな習い事をさせてあげられる。だがそれも幻想に散った。結果的に毎月25万の共有の振り込みをする上に、まなみの養育費も私が負担をする。さらにはまなみの習い事も取り上げられ、2階で使用できる部屋も1部屋のみとなった。2階の他の部屋は勝雪や義両親の荷物置き場となっていた。

「一室もらえただけラッキーだよ。普通は嫁なんて自分の部屋は与えられてない人が多いらしいじゃん。うちの両親が優しいから。そんな温情でこの家に住めてるんだって、感謝してよ。」

穏やかな優しい表情で勝雪は言う。彼には自分がまなみの父親だという自覚はあるのだろうか。自分の両親と住み始めたことで子供に戻ってしまっている気がする。けれどその時はまだ時間が解決してくれると思っていた。

まなみの運動会があったのは入学した年の秋のこと。前日の夜、まなみが連絡帳に「明日は運動会、ママ来てね」と書いてきた。歪んだ字で一生懸命書かれたその文字を見て胸が詰まる。勝雪には前の月から運動会のことは伝えていた。その時に義両親も同席していたが、義母は「そんな行事にいちいち付き合ってられない」と言い、義父も無言でテレビに目を戻した。勝雪は「俺も都合が悪い」とだけ言ってそれきりだった。

今日までの間に状況が変わることを期待して、まなみには何も言っていない。運動会前日でやや興奮気味のまなみが布団の中で待っていた。

「明日パパは来る?」

聞いてきた彼女に、私は「ママが行くよ」とだけ答えた。まなみは「うん、楽しみ」と言って目を閉じる。それ以上は何も聞かなかった。

翌日は仕事を半日休み、お弁当を作って学校へ向かった。グラウンドで私を見つけた瞬間、まなみは人並みをかき分けてこちらへ走ってきた。「ママ」と言って手を振る顔があんなに晴れやかだったことは今でも忘れない。お弁当は私とまなみの2人で食べた。まなみは「パパは?」とは一言も言わずに嬉しそうに頬張っていた。

運動会が終わって、まなみと一緒に家に帰ると、勝雪と義両親がいつものように過ごしている。とても「都合が悪い」という状況には見えない。

「パパ、今日ね、3番だったよ。」

まなみが元気よく言うと、勝雪はにっこり笑いながら言い放った。

「あは、1番じゃないんだ。まなみは足が遅いんだね。ママに似ちゃったんだね。かわいそう。」

言われたまなみは一瞬ポカンとした表情を浮かべた。頑張った娘に対して何ということを言うのか。私はすぐにまなみをフォローする。

「たくさん走った中での3番だもんね。頑張ったよ、まなみは。」

しかし勝雪は笑いを浮かべたまま私の言葉を否定する。

「うわ、出来の悪い子に現実を教えないなんて最低の親だね。まこは僕に似てたら少しはマシだったのかな。でも半分まこの血じゃ抗えないのが残念だ。」

私はもうそれ以上何も言えなかった。まなみは何かを察して私の手をギュッと握ってくれている。そんなやり取りの中、義父が新聞から目を離さずに言った。

「うるさい。静かにしろ。その子が何番だろうが俺には関係ない。よそでやってくれ。」

私の手を握るまなみの力がすっと弱くなった。まなみはかけっこで3番になったことを誰かに褒めてもらいたかっただけだろう。それが当然の気持ちである。私はまなみの方をそっと引き寄せ、もう1度「3番すごいね。頑張ったね」と耳元で言った。義母は少し離れた場所で「子供の行事なんて時間の無駄」と呟いていた。

その後も勝雪は全てにおいて義両親に同調するばかり。まなみの行事に足を運んだことは1度もなかった。

まなみの6歳の誕生日にはケーキを買って帰った。イチゴのショートケーキでロウソクを6本立てて、2階の部屋でひっそりと祝う。ハッピーバースデーを2人で歌い、まなみがロウソクを吹き消した。その時のまなみの笑顔は何者にも変えられなかった。2人だけの誕生日パーティー。同居する前までは3人で祝っていた。勝雪はもちろん、義両親もまなみの誕生日を知っていたはずだ。それでも何もなかった。プレゼントも言葉も、ケーキの一かけらさえも。まなみは何も言わなかった。そんな彼女の横顔を見て胸の奥が静かに痛んだ。

同居から4年が過ぎた頃、家の中に変化が生まれた。勝雪が昼間から家にいることが増えたのだ。最初は「有給休暇が溜まってたから」と言っていた。次第に「体調が優れない」と言い始め、やがて何も言わなくなった。仕事のことを聞いても「心配しなくていい」と話を打ち切る。義母は「勝雪を少し休ませてあげなさい」と言うだけだった。

勝雪が会社を辞めていたことを知ったのは随分後のことだ。共有口座への入金がいつしか私の分しかなくなっていたのである。確認すると、勝雪は「しばらく僕の分はない」とだけ言った。理由も時期も何も教えてくれない。家計の全てが私の肩にかかっていた。義両親の食費も光熱費も家の維持費も。それでも毎月25万円を振り込む私に、彼らから感謝の言葉は1度もない。

同居から5年が過ぎる頃には、嫌がらせは日常の一部になっていた。義母は近所付き合いが好きな人だった。顔が広く、町内のあちこちに知り合いがいる。その人脈を義母は存分に活用していた。近所の奥さんから「大変ね」と声をかけられた時、最初は意味が分からなかった。話を聞くうちに、義母がおかしな話を吹聴して回っていることを知る。「嫁が家事をしない」「お金にだらしない」「子供の躾もできていない」。どれも事実とはかけ離れた話だったが、何でも大げさに話す義母の言葉は信用されてしまった。私が挨拶をしても、よそよそしく目をそらす人が増えていく。

買い物に行く時も気が抜けなかった。義母が「一緒に来なさい」と言い出すと断れない。スーパーの入り口をくぐった瞬間から「あれを買え」「次はこれ」と矢継ぎ早に義母の指示が始まる。さらに彼女は私がかごに入れるものを1つずつ確認する。

「それじゃない。こっちのメーカーにしなさい。何度言ったら分かるの?」

平日の昼間、客が多い店内で周囲の視線が集まっても、義母は構わない様子で声を張り上げた。別の棚の商品を持っていくと、今度は「家にあるからいらない」という。では何が必要なのかと聞くと「自分で考えなさい」と言い放つ。こうした押し問答が毎回繰り返された。私がダメな嫁であることを義母は周囲にすり込みたかったのだろう。

風呂と洗濯の禁止の話が出たのは同居から5年目の秋口だ。夕食後、突然義父がリビングで腕を組みながら言った。

「お前たちはもう家の風呂に入るな。他人が入った後の風呂など気持ち悪くて入れん。」

一瞬耳を疑った。まなみがいる前での言葉だった。勝雪は黙って視線をそらす。近所にスーパー銭湯があった頃は義父は毎日のように通っていた。しかし、そこが移転のために閉鎖すると、急に私たちに風呂の使用禁止を言い出したのだ。

「父さんの言う通りだ。君たちマジで図々しい。今日から絶対に家の風呂は使わないで。だけど掃除は毎日しっかりするんだよ。」

勝雪は味方ではない。もう何年も前から気づいてはいたが、その日から私とまなみは毎晩少し離れた銭湯へ通うことになった。最寄りの銭湯まで徒歩15分。まなみの手を引いて暗い道を歩く。冬になると帰り道でまなみの耳が赤くなった。温まったはずの体が家に着く頃にはすっかり冷えていた。

洗濯機も同じだった。

「俺と同じ洗濯機で洗うな。自分たちのものは自分で洗え。」

文句を言える立場ではないと私はもう分かっている。私とまなみの衣類は毎日手洗いだ。「水道代を節約しろ」と言われ、お湯も使えなかった。真冬でも水で洗う。まなみの体操服や靴下をかじかむ手で擦り洗いした夜が何度あったかわからない。それでもまなみは文句を言わなかった。

「ママ、手が冷たくなってる。」

そう言いながら小さな手で私の手を包んでくれたこともある。まなみの優しさだけがあの頃の私を支えていた。

そして今、義両親と同居して7年の月日が経過した。私とまなみは相変わらず2階の一室で息を潜めるように生活している。毎日のように浴びせられる義両親からの圧力。「住む家があるだけありがたいと思え」と何度言われただろう。1階は水回り以外、私たちが足を踏み入れることは許されなくなっていた。当然ながら勝雪が守ってくれることはない。結婚当初彼を優しい夫と思えていたのは、単純にまだ同居していなかったからだったのだ。

ある時、勝雪に同居の経緯を尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「遅かれ早かれ同居する予定だったよ。そのつもりで結婚したんだもん。君はそこそこ貯金もあるし、親もいないし、都合がいいなって思ったんだ。」

勝雪はいつもの穏やかな笑顔で悪びれもせずに言い放つ。私の中にショックを受ける容量が残っていなかったのだろう。気づけば冷静に次の質問を口にしていた。

「だったら一言欲しかった。急に同居なんて心の準備もできてなかったし。」

「どうして?僕の両親なんだから。君はただの嫁でしょ。」

勝雪にとって嫁とは何の権限もない立場であるということが分かった。それでも私が苦労するだけなら、まなみにとって良い父親であればいいと思って今日まで結婚生活を続けてきた。しかし勝雪はもはや夫でも父親でもないように思う。

無職になってから勝雪の金の使い方は大きく変わった。「私の財布から少し借りるね」と言って金を持っていくのが習慣になり、最初は数千円だったものがいつの間にか1万、2万と増えていった。「借りる」と言っておきながら、返ってきたことは1度もない。

ある夜、勝雪が上機嫌で2階へ上がってきた。珍しいこともあるものだと思っていると、茶色い紙袋をまなみに差し出した。

「はい。お土産。僕って優しいでしょう。」

袋の中にはパチンコの景品らしいお菓子が数個入っていた。まなみは受け取りながら私の顔をちらりと見る。その目が「これ、ママのお金だよね」と言っているようだ。9歳の子にそこまで見抜かれている。パチンコに負けた日の勝雪は別人のように荒れた。八つ当たりの矛先は決まって私である。

「君がいるから僕の運が逃げるんだ。責任とってよ。」

まなみが同じ部屋にいても声のトーンを落とすことはなかった。他にも責任の話になれば必ず私のせいになる。義父がご近所と揉めても、義母がスーパーで迷惑行為をしても、私のせいなのだ。義両親は自分たちの素行不良を棚に上げて、勝雪と一緒に私を責める。

「あんたは大邪魔虫の疫病神だよ。運気が下がるったらありゃしない。」

「こんな出来損ないのまこさんと結婚したのに、勝雪はよく頑張ってるわ。」

勝雪はその言葉を誇らしげに受け取った。

「僕がこんなに頑張り屋さんで優秀なのに、嫁は何やってもダメで、子供も目に余るほどの劣等。僕の人生どこで狂っちゃったのかな?ああ、僕って不幸でかわいそう。」

義母がそういう勝雪を「お前は偉いよ」と言いながら慰める。その姿に私は鳥肌が止まらなかった。

義両親と同居をしたこの7年で何度も離婚を考えた。もう彼らと一緒に生活する自信がなかった。しかしすぐに決断していいものなのか。誰かに相談したくても相談する相手がいない。それにまなみを父親のいない子にするのが申し訳なかった。父親らしい態度を取られなくても、まなみはいつも「パパは?」と気にかけている。どんな親でも彼女にとっては唯一の父親なのだ。両親を失っている私にはその重みがよくわかる。その時、ふとまなみに私の両親のことを話そうと思った。まなみは会ったことがない祖父母。彼女には彼らのことを知っておいてほしかった。

夕食が終わって寝る前に、私はまなみに語りかけた。

「ねえ、ママのお父さんとお母さんの話をしてもいい?」

まなみは興味深そうに深く頷くと、パジャマ姿で私の前に座り込んだ。

「ママのお父さんはとても不器用な人で、誕生日に買ってくれるプレゼントはいつも微妙にずれてておかしかった。でもね、選ぶのに何週間もかけて悩んでくれる優しい人だった。」

私の話にまなみが目を細める。自分の中でイメージを膨らませているのだろう。私は話を続けた。母は料理が得意で、落ち込んでいる時は決まって好きなものを作ってくれたこと。進路で悩んだ時は自分のことのように一緒に悩んでくれたこと。病気になっても自分のことより私のことを心配してくれたこと。

「2人とも今はもういないけど、まなみにとって大切なおじいちゃんとおばあちゃんなの。だからまなみにはいつまでも覚えていてほしい。」

まなみは最後まで私の目を見て黙って聞いていた。話を終えると「会いたかったな」と静かに言った。その一言が胸にしみる。

「ちょっと待ってて。」

仏壇の引き出しから小さなケースを取り出す。成人式の日に両親が2人でプレゼントしてくれたネックレスだ。細いチェーンに小さな石が1つ。派手さはないが、選ぶのに随分悩んだと後から母が話してくれた。まなみの前でそっと開けると、彼女の目が丸くなった。

「綺麗。」

「ママの宝物なのよ。まなみが20歳になったらあげるわね。」

まなみはしばらくじっと見つめてから、嬉しそうに「うん」と頷いた。私の宝物が娘に継承される。まるで両親の心を受け継ぐようで胸がいっぱいになる。その夜は珍しく2人とも穏やかな気持ちで眠れた気がした。

その翌週、仏壇の花を変えようとしてわずかな違和感に気づく。仏具の配置が微妙にずれていたのだ。私は嫌な予感がして引き出しを開けた。ネックレスの入ったケースがない。最初は見間違いだと思った。隣の引き出し、その隣、棚の上、部屋の中を順番に確認した。

「ネックレスないの?」

まなみも一緒になって探してくれた。2人で部屋をひっくり返しても見つからない。わけが分からず途方に暮れていると、勝雪が2階に上がってきた。

「何してるの?探し物?」

関心のあるような雰囲気ではない。しかし彼の次の言葉で私たちは凍りついた。

「ネックレスなら売ったよ。」

血の気が引いた。

「どういうこと?」

「君が仕事に行ってる間にさ、お金が必要になって売ったらいいお金になったよ。ありがとうね。」

勝雪は笑っている。両親が選んで私が20年間大切にしてきたものだと、この人は知っていたはずだ。それを売られた。まなみに20歳になったらあげると約束したのに。まなみは勝雪の背中を黙って見ている。勝雪が階段を降りていく足音が遠ざかる。部屋に静けさが戻ってきた頃、まなみが私の隣に来て座った。2人とも何も言えなかった。まなみの肩が小さく震えている。私の方にもいつの間にか涙が伝っていた。声を出さずに2人で泣いた。気がつけば日が傾いて部屋の中は暗くなっている。だけど動けない。するとまなみがぽつりと言った。

「ねえ、ママ、私もうパパいらない。」

怒りでも悲しみの願いでもなく、静かな諦めの言葉。絶望と失望。9歳の子がそんな顔をしてはいけない。私はその肩をそっと抱き寄せた。その夜が私の中で何かが終わった夜だった。

翌日は土曜日だった。私もまなみも休みで、一緒に公園に行く約束をしている。しかし昨日のことがあったからか体が重い。私は布団の中で思考を停止させていた。

「ママ、おはよう。いい天気だよ。」

まなみの元気な声。あんなことがあったのに彼女は晴れやかな笑顔を見せた。気持ちをすっかり切り替えたのだろう。「パパいらない」という言葉はまなみの本心だ。言ったことで何かが切り替わったのだろうか。

「おはよう。ママも頑張るね。」

私だっていつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。朝食の後、約束通りまなみと公園に向かった。近所の公園に到着すると、すぐに遊具の方へかけていったまなみ。しばらくして見知らぬ女の子と並んでブランコを漕いでいる。まなみが手を振りながらこちらへ叫んだ。

「ママ、ルナちゃん。最近うちの学校に来た子。」

ルナちゃんはまなみの隣で少し照れたように会釈をした。まなみがすぐに打ち解けるのはいつものことだが、転校生をこんなに早く連れてくるのは珍しい。ベンチに腰を下ろして2人を見ていると、公園の入り口に人影が現れた。凛とした立ち姿の女性で、背筋がまっすぐに伸びている。「ルナ」と名前を呼んだことからルナちゃんの母親だと分かった。私に気づくと軽く会釈をした。感じのいい人だ。ただまとう空気がどこか違っていて、自然と一歩引いてしまう。私にはあまり縁のないタイプの人だと思いながら軽く頭を下げるだけにした。

しばらくすると、ルナちゃんの母親が私の座るベンチの方へ近づいてきた。隣に座るのかと思っていると、不意に私の顔を覗き込む。

「あなた、大丈夫ですか?」

開口一番そう聞いてきた。思いがけない言葉に返事が出てこない。「大丈夫です」と言おうとしたが喉のところで止まる。

「ああ、私はルナの母で金沢えりと申します。まなみちゃんのお母さんですよね。我慢しなくていいんですよ。」

ずっと積み上げてきたものがその一瞬で崩れた気がする。気づいた時には視界が滲んでいた。どうしてこんなに涙が出るのかわからない。えりさんが隣に座って私の背中を優しく撫でる。すると7年間の思いが溢れるように口から流れた。誰にも話すつもりはなかった。それなのに言葉が出てくる。義両親のこと、勝雪のこと、7年間のこと。誰にも言えなかったことが初めて人の前に出てきた。えりさんは頷きながら黙って聞いてくれた。

話を終えてから急に恥ずかしくなった私は、ひたすら平謝りだ。

「すみません。この話、忘れてください。」

えりさんは微笑み、それから口を開いた。

「こんな話じゃないですよ。大切なことです。それにあなたは何も悪くない。」

その言葉がまっすぐに届いた。返す言葉が見つからないまま、ただ頷いた。

「ママ。」

えりさんと話してから20分くらい経った頃、まなみの声が遠くから聞こえてきた。ルナちゃんと2人でこちらへ走ってくる。えりさんが立ち上がりながら言った。

「まこさん、それじゃあ連絡しますね。」

ルナちゃんの手を引いて帰っていく背中を見つめる。まなみが隣に来て私の顔を見上げた。

「ママ、ルナちゃんのママと何話してたの?」

「まなみは可愛いねって。」

「えー、もう。」

まなみが笑いながら私の腕を引っ張った。その温かさが素直に染みた。ある日の夜、私は1階に降りた。リビングでは義両親と勝雪が横並びにテレビを見ている。勝雪は無職になってから体付きが変わり、以前着ていた服がどこも窮屈そうだ。義父はソファーに深く沈み込み、義母は菓子の袋を膝に乗せている。何度見ても趣味の悪いインテリアだと思う。かつて自分が選んだ家具が1つも残っていない空間を見渡して、私は息を吸った。

「少しお時間よろしいでしょうか?」

3人が振り向いた。吐き気がするほど嫌な顔がそこにあった。

「勝雪さんと離婚したいと思っています。」

一瞬沈黙が落ちる。勝雪が最初に吹き出した。

「マジで言ってるの?僕と離婚できるのかな?無能の君が。」

「そうよ。離婚してどうするの?あなた今まで勝雪に養ってもらってたんでしょ?」

「養ってもらっていた」という感覚は皆無もない。7年間誰がこの家を回してきたというのか。食費も光熱費も、義両親の分まで含めて全部私が出してきた。その事実をこの人たちは知らないのか、知っていて言っているのか。

「大体さ、君に離婚を切り出す権利があると思ってるの?嫁の分際で。」

言い返したい言葉はいくつもあったが、今はまだその時ではない。義父がソファーから身を乗り出し、口の端を上げた。

「ま、いいんじゃないか。邪魔虫が消えるとさ、ざまあみろってもんだ。」

義母は義父に便乗して菓子袋を膝に置き直しながら、おかしそうに続けた。

「普通なら実家に帰るとか言うんでしょうけど、帰る家もなくてかわいそう。」

3人の笑い声が重なった。私を哀れむ笑いではない。自分たちの勝利を確かめ合うような、そういう笑い声だった。私は3人の顔を順番に見る。義父の得意げな目。義母の歪んだ口元。勝雪の何も考えていない笑顔。それから口を開いた。

「家がないのはお前たちな。」

笑い声が止んだ。勝雪だけが眉間にしわを寄せる。義両親は相変わらずの間抜け面だ。

「ふざけるな。家がないのはどう考えてもお前だ。」

「そうよ。ついに頭がどうにかなっちゃったのね。不幸だわ。」

2人の声が重なった。勝雪は「意味が分からない」と言いながらこちらを見ている。3人の目にまだ余裕があった。この家は自分たちのものだという確信がその目に宿っている。私は何も言わず、踵を返して階段を上がる。2階ではまなみが待っていた。私の顔を見て、何も聞かずに隣へ来た。1階の笑い声はもう聞こえない。私の中ではすでに動き出していた。奪われたものを全て取り戻す。この家で笑い続けてきた人間たちにその意味を教える番が来た。7年分の答えを必ず返す。

引っ越しの準備は速やかに進んだ。ダンボール箱を広げ、まなみと2人で使っていた2階の部屋を少しずつ片付けていく。7年間この部屋に押し込められてきたはずなのに、いざ荷物をまとめ始めると思いの外時間がかかった。まなみの書いた絵、2人で読み上げた絵本、銭湯帰りにまなみが拾った小石。どれも小さなものだったが、この部屋で積み上げてきた時間の重さがある。

ドアの向こうに気配を感じたのは午前中のことだ。廊下に勝雪が立っていた。腕を組み、こちらを眺めながら薄く笑っている。作業の邪魔をするでも、手を貸すでもなく、ただ見ていた。

「本当に出て行くんだ。哀れだね。行くところもないのに。」

私は答えず、ダンボールにガムテープを貼る手を止めない。

「この家に残ってれば、火夫婦くらいには慣れたかもよ。残念だね。」

勝雪を無視して次の箱を組み立てる。作業を続けながらずっと引っかかっていることがあった。勝雪が今無職である以上、この家の収入は私の給料だけだったはずだ。私がいなくなれば、毎月入っていた金が丸ごと消える。正直、離婚を切り出したらもっと金のことで揉めると思っていた。ところが拍子抜けするほど3人はあっさりと離婚を受け入れたのだ。何か考えがあるのだろう。ただそれが何であれ、思い通りにはさせない。

勝雪はしばらく廊下に立っていたが、やがて興味を失ったように1階へ降りていった。私たちはその後も黙々と引っ越しの準備を進めた。

引っ越しまでの数日間、私は義両親とも勝雪ともできる限り顔を合わせないようにした。朝は彼らが起き出す前にまなみを送り出し、夜は物音を立てずに2階へ戻る。7年間の経験が皮肉にも、息を潜めて生活する術を身につけさせていた。

顔を合わせなくても嫌がらせは続く。ある朝、まなみが学校へ行こうとすると、玄関に自分の靴がないことに気づく。外を確認すると、庭の隅に放り投げられていた。まなみの靴と私の靴が、雨上がりの翌朝で靴の中まで濡れている。まなみは何も言わなかったが、寂しげなその顔を見ていられなかった。その日から靴も2階に持ち上げることにした。

階段には生ゴミの袋が置かれるようになる。縛り口が緩く、汁が染み出している。朝に片付けると、夜にはまた新しいものが置いてある。まなみがつまずかないよう、毎晩確認してから眠った。

近所への噂が届いたのは引っ越しの2日前のことだ。「長田さんの嫁が浮気をして出ていく」という話が町内に広まっていたのである。義母の仕業だとすぐに分かった。最後の最後までこの人たちは変わらなかった。もう怒りも呆れる気力もない。ただしっかりと記録だけはしておこうと思った。

引っ越し当日の朝は目の覚めるような快晴だった。まなみはこの家にも義両親にも、実の父にさえ未練を残さない笑顔で学校へ向かった。

「まなみ、夕方には迎えに行くからね。」

そう言って送り出すと、「行ってきます」と今までで1番元気な声で答えてくれた。ダンボールはすでに業者に依頼済みで、2階の部屋はガランとしている。あるのは私の手荷物くらいだ。7年間、まなみと2人で使った布団も、両親の仏壇も新居へ移動している。まなみ同様、何の未練もない。あるとすれば、この家そのものへの思いだろうか。

すると勝雪が2階に上がってきた。手に1枚の紙を持っている。

「離婚届。書いといたよ。あとは君がサインして出しといてね。」

受け取り確認すると、勝雪の署名と捺印が済んでいた。証人の欄には義両親の名前。

「僕は優しいからさ。離婚の言い出しっぺが君でも、慰謝料請求なんて野暮なことはしないよ。感謝してね。」

最後まで穏やかな笑顔だった。この人は自分が今どういう立場に置かれているか、本当に何も分かっていないのだろう。私は離婚届を受け取り、鞄にしまった。

「お父さんたちは今日は留守なの?」

「ああ、外出してるよ。夕方まで戻らない。」

「さ、最後に少しだけ1階を見せてもらえる?曲がりなりにも7年住んだ家だもの。ちゃんと心に残しておきたいの。」

勝雪は警戒するでもなく疑うでもなく、興味なさそうに「どうぞ」と言った。1階のリビングに足を踏み入れたのは離婚宣言の日以来だ。自分の家なのにおかしな話だと思う。義両親が来てからというもの、ほとんど立ち入ることを許されていなかった空間。窓際に立ち、庭を見下ろした。結婚した頃、あの庭に花を植えた。亡くなった両親が好きだった花を選んで、まなみが生まれた春に2人で植えたのだ。今は義父の趣味である下手くそな盆栽が所狭しと並んでいる。あの花の面影はどこにもなかった。お気に入りのインテリアはすっかり義母のカラーに塗り替えられている。カーテンもカーペットも家具も、私が選んだものは1つも残っていない。7年かけて、この部屋から私の痕跡は全て消えた。

視線を上げた時、天井近くに小さなものが目に入る。お札だった。引っ越した時に神社で買って飾った、家内安全のお札。隣には同じ時に買ったお守り袋もかけてある。天井近くの高い場所に飾っていたせいか、7年間誰の手も触れていなかったらしく、そのままの状態で残っていた。この部屋で唯一残っている、私が飾ったものだ。

「何見てるの?」

「お守りを持っていくわ。この家に住んだ思い出としてね。」

脚立を持ってきて、お守り袋をそっと外す。手のひらに乗せると、わずかな重みを感じた。

「ああ、構わないよ。そんな古いもの、誰も気にしてないから。」

私は何も返さず、お守りを鞄に入れる。玄関で靴を履き、ドアの取っ手に手をかけた時、勝雪が後ろから声をかけてきた。

「これから親子2人でボロアパート生活。頑張ってよ。絶対に泣きついてこないでね。」

彼には答えず、ドアを開けて外に出る。春の風が顔に当たった。7年ぶりにこの家から出る。歩き始めながら、心の中でだけ呟いた。

「泣きついてくるのはどっちかしら。」

春風が私の背中を押す。私は前だけを見て歩く。新居での生活は驚くほど穏やかだった。義母の笑い声も、義父の怒鳴り声も、勝雪の嘲笑も、何も聞こえない。夕飯をまなみと2人で作って2人で食べる。彼女の「美味しい」という声が部屋いっぱいに広がった。残りを分け合う必要も、隠す必要もない。

役所と掛け合った結果、まなみは転校しなくて済んだ。せっかくの友達と離れ離れになるのはさすがにかわいそうである。少し早めに起床する必要はあるが、まなみは全く問題なさそうだった。

「最近はルナちゃんと仲がいいの。ルナちゃんも少し遠くから通ってるんだって。」

嬉しそうに話すまなみの顔に癒される。ルナちゃんにもパパがいないことは、えりさんから聞いていた。まなみにも心強い仲間ができたようで嬉しく思う。

穏やかな夜が続く。ただ私の中にはわずかな緊張があった。まだ終わっていない。離婚届は鞄の中だ。提出する前にやるべきことがある。

1週間が経った朝、スマートフォンが鳴った。

「来たわね。」

電話に出ると、聞こえてきた勝雪の声にいつもの穏やかさはなかった。

「まこ、説明してあるんだけど…」

声が微かに震えている。私はずっとこの声に怯えてきたのだと思う。穏やかなのに冷たい、笑っているのに刃のような勝雪の声に。それが今、電話口で震えている。

「君はいつも僕をがっかりさせるよね。本当に情けないよ。」

私は少し黙った。勝雪はいつもこうして私を攻め続けてきた。ただ怒鳴り返したい気持ちは不思議と湧いてこない。胸の底が冷えている感覚である。

「何のことですか?」

「届けないで。弁護士から書類が届いたんだ。まこ、一体何をしたのさ?」

それを言うなら、自分は7年間私に何をしてきたのか思い返してほしい。確かに勝雪は義両親ほど何もしていないだろう。そう、守ってすらくれなかった。義両親に同調して、ただ私を嘲笑っていただけだ。言い返したいことは山ほどある。しかし言葉にする必要はなかった。

「指定された日に、指定された場所へお越しください。そちらに書いてあるはずです。」

「本気で言ってるの?」

「では、当日に。」

私は電話を切り、画面を伏せて置いた。手が震えていないことに自分でも少し驚く。間を置かず着信が鳴った。画面に「義母」と表示された名前だけを見て、そのまま何もしない。着信が鳴りやむまで、ただ見ていた。続けて義父からも2回かかってきたが、同じように画面が暗くなるまで待った。

静かになった部屋で窓の外を見る。空は晴れていた。この1週間は平穏だった。義家族の声が聞こえない部屋で、まなみと2人よく眠れていたと思う。本当の平穏を取り戻すためにもう少しだけ戦わなければ。着信履歴が並ぶ画面を眺める。かつてあれほど恐ろしかった名前が、今は小さく見える。

指定した日時は10日後だった。その日は指定の時刻より30分早く、私はその場所に着いた。落ち着いた外観のビルの3階。受付で名前を告げると、スーツ姿の女性に会議室へ案内される。磨かれたテーブル、整然と並んだ椅子、窓から差し込む午前の光。背筋が自然と伸びるような空間である。

椅子に座って待っていると、ドアが開いた。

「まこさん、今日はよろしくお願いします。」

紺のジャケットを着たえりさんが書類を抱えて入ってきた。公園で隣に座ってくれたあの人と同じ人だとは思えないような。いや、まっすぐな目だけはあの頃と変わっていない。

「こちらこそ。あなたがいたから決心できたわ。」

えりさんは優しく微笑んで席につく。ここはえりさんが所属する弁護士事務所の会議室だ。弁護士歴10年。それが金沢えりという人の正体だった。少し前のことを思い出す。あの公園の日から、私たちは頻繁に連絡を取るようになった。えりさんは多くを急かさず、「話せる時に話せることだけ話せばいい」という空気を作ってくれた。ある夜、えりさんが打ち明けてくれた。

「私も同じような経験をしたのだから、あなたの話が痛いほど分かった。」

えりさんは昨年、10年連れ添った夫と離婚していた。義両親からの圧力、夫の無関心、積み重なる孤立。ルナちゃんを連れてこの町でやり直すために引っ越してきたのだという。その話を聞いて、私は離婚を決意する。翌日、1階に降りて勝雪に切り出したのだ。

その後、これまで書き続けてきた日記と記録を全てえりさんに見せた。7年分の日付と出来事がびっしりと書かれたノートだ。

「よく7年も耐えてきたわね。お疲れ様。」

そう言って背中を撫でてくれたえりさん。彼女の手のひらの温かさで、ようやく少し肩の荷が下りた気がした。

「離婚できればいいとか、そんな小さなことで終わらせないで。これまで耐えた分を全部取り戻すのよ。」

自己肯定感の低かった私が、初めて自分のために戦おうと思えた瞬間だった。

「それにしても来ないわね。」

えりさんが時計を見てため息をつく。その時、廊下に騒がしい足音が聞こえてきた。約束の時刻より20分遅れて、義家族がやってきた。最初に入ってきた義母が会議室を見渡して声を発する。

「随分大げさなことをするのね。」

義父が続いて入り、椅子を引きずる音を立てながら座った。勝雪は入り口で一度私を見て、それからえりさんを見て、黙って席についた。

「本日はお越しいただきありがとうございます。長田まこさんの代理人、金沢えりと申します。」

3人の視線がえりさんに集まる。義母は値踏みするようにえりさんを頭の先から爪先まで見渡し、義父は腕を組んで鼻を鳴らした。勝雪だけが何かを思い出したような顔をして、少し目を細めている。「代理人」という言葉の意味を薄々理解したのかもしれない。

「代理人弁護士ってこと?」

「はい。まこさんの弁護士です。」

義母は隣の義父と顔を見合わせてから口元を緩めた。弁護士と聞いて怯むかと思ったが、2人の表情には緊張は見られない。むしろ「面白い余興が始まるとでも言いたげな」余裕のある顔だった。証拠などないと高をくくっているのだろう。

「あら、そう。ま、弁護士だろうと何だろうと、言いたいことは言わせてもらうわよ。」

そう言うなり、義母は畳みかけるように話し始めた。この7年間、私がどれだけ苦労をしてきたか。家事もろくにできないし、料理は味がない。掃除も洗濯も文句の付け所ばかりだったのよ。言葉の1つ1つが事実とは正反対だった。毎晩食事を作り、冷水で手を洗い続け、銭湯への夜道をまなみと2人で歩いてきた7年間が、義母の口から全く別の物語に塗り替えられていく。義父も続いた。テーブルに肘をつき、重々しい声で言い放つ。

「嫁としての自覚というものがなかった。家族への敬意が微塵も感じられん。そういう態度がこの家の空気を壊してきたんだ。」

「子供の躾もなっていなかったわ。挨拶もまともにできない子に育てて、恥ずかしくないのかしらね。」

会議室に義両親の主張が響いた。えりさんは表情を1つ変えず、ペンを走らせ続けている。私もただ聞いていた。この場で反論する必要はない。時が来れば全て証明されるのだから。

勝雪に至っては、被害者そのものの顔をしていた。

「僕はまこのために両親と同居することにしたんです。育児や家事の負担を減らしてあげようと思って。」

彼はこれでもかというほどに悲しそうな笑顔を作った。「僕がかわいそう」とアピールしているのだろう。そして彼の被害者アピールはなおも続く。

「なのにまこは心を閉ざして、まなみを連れて2階に引きこもってしまった。僕は父親なのに、娘の運動会にも参加させてもらえなかった。どれだけ悲しかったか。」

声のトーンがわずかに落ちる。目には薄っすらと涙が浮かんでいるような光があった。7年間、あの穏やかな笑顔の裏にこういう計算が隠れていたのかもしれない。手を上げない。暴言も最低限に抑える。全てが「僕は何もしていない」と言い張るための長年の布石だったとしたら。被害者の顔は一朝一夕では作れない。おそらくこの人はずっと練習してきたのだ。かわいそうな自分を演出するために。

「そうよ、先生。私たちは孫のことをとても可愛がっていたのに、あの子は私たちに懐こうとしなかったの。この女が子供に変なことを吹き込んだに決まってるわ。」

義母も息を合わせて事実と異なる内容を並べ立てる。次から次へとよく出るものだと感心すらする。

「食事だって、僕の両親には残り物しか与えなかった。証拠もないでしょうけど、本当のことなんです。」

勝雪の発言には思わず笑いそうになった。残り物を食べている人間がこんなに太るだろうか。好きなものを好きなだけ食べてきた証拠である。

3人が交互に言いたいことを並べ立てる間、私は黙って聞いていた。えりさんもメモを取りながら表情を変えずにいる。一通り話し終えたところで、えりさんが口を開く。

「それが事実であれば、まこさんは大変なお嫁さんですね。」

義母の顔がパッと明るくなった。弁護士に同意してもらえると思ったのだろう。自分たちの主張が認められた。そう確信したような顔だ。

「そうなのよ。さすが弁護士の先生は話が早いわ。」

「あんた、こっち側の弁護士になれよ。その方があんたも儲かるだろう。」

えりさんは軽く頷いてから、書類を1枚テーブルに置く。義母はそれを同意と受け取ったのか、さらに嬉しそうな顔をしている。その読み違いに気づいていないのがこの人たちらしかった。

「先日お送りした内容、お読みいただけましたよね。」

「あんなもの読めるわけないでしょう。腹が立ったからゴミ箱に捨てたわ。」

「では、改めてご説明します。」

えりさんの声のトーンは変わらない。ただ目が少し細くなった。怒っているのではない。相手が自ら墓穴を掘るのを確認したような目だった。

「まず、これまでの精神的被害についてです。7年間にわたる継続的な言動が、まこさんに深刻な精神的苦痛を与えてきた事実があります。」

義母の顔が一瞬歪んだ。自分たちが加害者側だと指摘されたことが理解できないのか、認めたくないのか。

「精神的被害って言わないでよ。言ったでしょ。苦痛を受けてたのはこっちよ。」

えりさんは義母の言葉を遮らず、最後まで聞いた。それから手元の書類に視線を落としながら切り出す。

「その点については後ほど。まず金銭面からお話しします。」

書類がテーブルに並べられた。えりさんが1枚ずつ丁寧に置いていく間、義家族の視線がその紙面を追っている。数字が並んでいると分かった瞬間、義母の口元が微かに動いた。何かを言いかけてやめた。

「共有口座への入金記録です。同居が始まってから最初の3年間は、旦那様とまこさんがそれぞれ月15万円。その後2年間は旦那様15万、まこさん25万。さらに残りの2年間はまこさんのみ25万の入金が続いています。」

数字として並べられると、改めて重かった。あの頃の自分がどれだけ無理をしていたか。まなみの靴を買えなかった月のことをふと思い出す。それでも振り込み続けた。疑うことをなく、家族のためだと信じて。

「それは全部生活費に使ってる。残りなんてないよ。」

迷いのない口調だったが、勝雪の目が書類から微かにそれた。

「生活費のご説明の前に、一点確認させてください。共有口座への入金方法ですが、旦那様はカードで、まこさんは通帳でご入金でしたね。」

「そうね。勝雪は通帳が面倒だって言ってたから。」

勝雪の表情が一瞬止まる。10年近く前に決めたことだ。すっかり忘れていたのだろう。あの頃はまだ私への関心が多少はあった頃だ。その小さな取り決めが、今この場で意味を持つことになるとは思ってもいなかっただろう。

「通帳には全ての履歴が残っています。入金の記録も、引き落としの記録も。」

書類がもう1枚テーブルに置かれた。義父がそれを手に取り、目を細めながら眺める。数字の意味を理解しているのかいないのか、すぐに放り出した。義母はその書類を横目で見ながら腕を組んだ。2人とも余裕を装っているが、先ほどまでの上機嫌さが影を潜めている。

「口座の収支を確認したところ、毎月20万円ずつ、7年前から不明な移動がありました。生活費の内訳としてご説明いただけますか?」

短い沈黙が落ちた。3人が一瞬だけ顔を見合わせたのを、私は見逃さない。言葉を合わせているのか、それとも動揺を隠しているのか。どちらにしても、その一瞬が全てを物語っていた。

「だから、光熱費とかスマホ代とか、色々かかってるんです。」

「光熱費とスマホ代については、まこさんが別途お支払いになっています。こちらに領収書があります。」

書類がさらに追加された。並べられる領収書を見て、義母が身を乗り出す。内容を確認するより先に感情が動いたのだろう。

「そんなの今回の話に関係ないでしょう。」

その声が会議室に響いた。感情が先走っている。追い詰められると声が大きくなる。この7年間で嫌というほど知っていた。

「大いにありますよ。共有財産は、離婚時の財産分与の対象になりますので。」

「財産分与?何それ?そんな話してないよ。大体もう離婚したんだから関係ない。僕はまこのことを考えて、慰謝料だって請求しなかったんだ。この話は終わりだ。」

勝雪の言葉が会議室に響く。私はテーブルの上で手を重ねる。この瞬間のためにずっと待ってた。離婚届を提出していなかったのはうっかりではない。勝雪がこう言い出すことを最初から分かっていたからだ。勝雪は私が何も持っていないと思っている。証拠もなく、お金もなく、帰る家もない女だと。その確信が今の余裕を作っている。けれどその余裕はあと数秒で崩れる。私はゆっくりと勝雪に向かって言った。

「本当に残念だけど、まだ夫婦なのよ、私たち。」

「は?」

「そう言われると思って、まだ提出していないの。」

私はサイン済みの離婚届を取り出してテーブルに置く。勝雪の顔色が変わった。

「くそっ。」

余裕を失った勝雪の顔は、思ったより幼く見えた。義両親に守られ、私に養われ、それが当然だと信じて生きてきた人間の本当の顔。義母が勝雪と小声で話し合い、勝雪は唇を噛んだまま黙っていた。彼はテーブルの上に置かれた離婚届から目を離せないでいる。

「では、話し合いを続けましょう。財産分与の件については、現在調査を進めています。」

「調査」という言葉に3人の目が動く。義父が身を乗り出す。

「調査だと?何を調べると言うんだ?」

「それはまた改めて。次に、まこさんへの慰謝料請求についてです。」

「慰謝料?精神的被害って言いたいの?それはこっちのセリフだよ。」

勝雪が声を荒げ、同居はまこの負担を減らすためだったとまた繰り返す。運動会に行けなかった、娘が懐いてくれなかった、食事も残りを与えられた。義母がご近所にまこの話をしていたのは心配していたからだと言い張る。

「加害者と被害者の区別もつかない弁護士なんて、信用できん。」

義父はそう言って机を叩いた。

「まなみを返してほしい。大事な娘なんだ。」

その言葉を聞いた時、私は声を出して笑いそうになった。7年間、まなみの誕生日も行事も無視してきた男が、今この場で「大事な娘」と言っている。

「時間の無駄だから帰る。僕たちは暇じゃない。」

勝雪が時計をちらりと見た。今日の午後、勝雪の行きつけのパチンコ店で新台が入れ替わることを私は知っていた。義父も同行する予定なのだろう。同じように時計に目をやっている。

「行きましょう。話にならないわ。」

3人が立ち上がりかけたところで、えりさんが言った。

「次回の日程を確認してからお帰りください。」

来月の日付が書かれた書類が3人の前に置かれる。

「次の機会に調査結果をお持ちします。今日よりも少し込み入った話になると思いますので、お時間の調整をお願いします。」

義母が書類を睨んでから、乱暴に鞄に押し込む。3人は無言で挨拶もせず、会議室を出ていった。足音が遠ざかってから、えりさんが息を吐いた。

「次の決戦は来月よ。」

私は頷きながら、テーブルの上の離婚届を見た。まだ終わっていない。

「でも、終わりが見えてきたわね。」

それだけで十分だった。

あの会議室での話し合いから数週間が経過。えりさんは勝雪側へ電話と書面で何度も連絡を入れていた。協議の日程を改めて提示し、回答期限を設定、丁寧に手続きを進めようとしたという。勝雪は電話に出なかった。折り返しもない。義母は「そんなの知らない」と言い放ち、義父は「弁護士ごっこに付き合う暇はない」と一蹴したと後から聞いた。3人ともまだ高をくくっていたのだろう。えりさんは連絡の日時と回数と内容を全て記録していた。期限が過ぎた日の夜、えりさんから短いメッセージが届く。

「先方からのご連絡がないため、法的手続きへ移行します。」

それから間もなく、勝雪の元に家庭裁判所からの呼び出し状が届いたという。

調停の日、私はえりさんと並んで調停室に入った。義家族たちもしぶしぶとした様子で入室してくる。前回の会議室とは空気が違う。調停委員が中央に座り、双方が向かい合う形で席につく。公的な手続きの中に置かれると、さすがに義家族の態度も大人しくなっていた。それでも勝雪は入室早々に言った。

「何度も言うけど、こんなの大げさなんだって。早く終わらせてよ。」

義両親も隣で頷いている。まだ余裕が残っているらしいが、それは今日完全に消える。

「銀行からの回答が届いています。」

書類がテーブルに置かれた。共有口座の正式取引履歴だった。毎月20万円の出金が7年分、整然と並んでいる。

「だから、あれは生活費だって何度も言ってるじゃないか。」

「では、こちらをご覧ください。」

別の書類が重ねられた。義母名義の口座の取引履歴である。共有口座から出金された日時と、義母口座への入金日付が、一瞬の狂いもなく一致している。調停委員の視線がその書類に落ちた。室内に静けさが広がる。

「それは、勝雪から預かってただけだ。」

「では、その資金の使用用途をご説明ください。」

義母の口が動いたが、言葉が出てこない。

「お母様の口座残高も確認しています。ほぼ全額が手つかずの状態で残っていますね。」

「生活費として使った」という言い訳が完全に崩れた瞬間だった。7年間私から絞り取ったお金が、義母の口座にそのまま眠っている。生活費でも何でもなく、ただ溜め込まれていた。その事実が白い紙の上に数字として並んでいる。

「調査の結果、共有口座への10年間の入金金額は3720万円です。そこから実際の生活費を差し引いた1900万円余りが、不当にお母様の口座へ移動していることが確認されています。」

勝雪の顔がみるみる青ざめる。私があの家を出て行く時、金のことで揉めなかった理由がようやく分かった気がした。義母の口座に移して積み上げたお金があったから、私がいなくなっても問題ないと思っていたのだろう。

「また、勝雪さんは早期退職金として300万円も受け取っていますね。これも財産分与の対象になります。」

「なんでだよ。そんなの聞いてない。退職金は僕のお金でしょ。」

わめく勝雪を尻目に、えりさんが新しい書類を並べながら話を続ける。

「先ほどの1900万円余りの不当利益に加えて、退職金分として150万円を請求します。」

「ふざけるな。」

勝雪の声が微かに震えている。隣では義父が拳をテーブルに叩きつけ、義母が「そんな大金どこにあるんだ」と甲高い声を上げた。3人が一斉に声を出し、騒然とする。

「それだけではありません。」

しかし、たった一言「それだけではありません」で3人の声が止まった。えりさんは3人を見渡してから、ゆっくりと書類に手を伸ばす。

「まこさんへの長年にわたる精神的苦痛を伴う嫌がらせについて、慰謝料の請求もあります。そして、もう1点。」

書類がまた1枚置かれた。えりさんの動きは極めて落ち着いている。その静けさがどんな騒音よりも重く3人にのしかかっていくようだった。

「勝雪さんの交際相手に関する調査結果です。」

勝雪の顔色がまた変わった。先ほどの青ざめとは違う。今度は隠していたものを見破られた人間の顔だった。視線が泳ぎ、手が膝の上で小さく動いている。彼がこんな顔をするのを私は初めて見た。

「まこさんが出ていく際、近隣に『嫁が浮気をして出ていく』と流布されてましたね。調べたところ、浮気をしていたのは勝雪さんの方でした。数年前からのことです。」

勝雪は浮気をしていた。ただ、怒りもなければ涙も出ない。

「そ、そんなの関係ないじゃない?」

「まこさんがその事実を知ったのは最近です。時効はその瞬間から始まります。」

「証拠なんてないだろう。」

私はその言葉を待っていた。離婚を切り出した夜からずっと、この瞬間を想定していたのだ。だから準備した。ずっと誰も気づかなかった場所に仕込んでおいた。私とまなみを守るために。

「証拠ならあるわよ。」

私は鞄から小さなお守り袋を取り出す。調停委員の視線がその動きを追っていた。義家族の目も吸い寄せられるように袋に集まる。これを家から持ち出す時、勝雪は「そんな古いもの、誰も気にしてないから」と笑っていた。彼の言葉通り、7年間誰も気にしなかったお守り袋。だから中に何が入っているかなんて、誰も知らなかっただろう。あの家に引っ越した時に買ったお守り。7年間誰も触れなかった、天井近くに飾っていたもの。義両親が来る前からずっとそこにあった。お守り袋の口を開けると、中から小型のボイスレコーダーが出てきた。義家族を信用できなくなった頃から、こっそりと押し込んでいたのだ。天井近くという場所が幸いしたのかもしれない。

再生ボタンを押すと、聞き覚えのある声が流れ始める。私が離婚宣言をした後の会話だろう。まず流れたのは勝雪の声だった。

「あの人がいなくなっても、これまでに貯めた金があるから問題ないでしょう。」

義母の声が続く。

「そうね。お金がなくなる頃には、あの子供が大人になってるでしょうから。そしたらあの子に私たち全員の面倒を見てもらえばいいのよ。」

「この家が手に入ると思って、まこを嫁にしただけだし、未練は全くないね。あいつは面倒な親もいないし、都合が良かったんだけどな。」

そして最後に勝雪の声がもう1度。

「そうそう。明日はさゆりちゃんとデートだから。もう離婚するし問題ないと思うけど、念のため口裏合わせ頼むよ。旦那の浮気に何年も気づかないなんて、本当にまあ、ダメな嫁だな。」

義母の笑い声で音声が途切れた。室内が完全に静まり返った。設置してから日は浅いが、これだけの証拠が取れていた。義母は口元を手で覆い、義父は視線をテーブルに落としたまま動かない。勝雪だけが呆然と私を見ている。

「ここは音声だけではない。えりさんが裏付け調査をしている。勝雪さんと女性がホテルで会っているのも確認済みだ。」

「私たちはずっと書面上だけの夫婦だった。もう終わりにしよう。」

「ちなみに、家の売却手続きも進めているから、可能な限り早めに出ていってもらえると助かるわ。」

「あ…」

間の抜けた声だった。この家はいずれ自分たちのものになる。そう信じて疑わなかったのだろう。ところが売却すると言われた。もらえるはずのものがもらえない。その単純な事実が今ようやく頭に届いたのだろう。口を半開きにしたまま、私とテーブルの上を交互に見ている。

「知ってると思うけど、あの家は私が買ったものよ。名義も私だから。」

そう。あの家は元々私のものだった。両親と一緒に暮らすために、独身時代に自分の名義で購入した家。両親を続けて亡くし、売却しようか迷っていた頃に勝雪と出会い、結婚が決まった。そしてまなみの誕生に伴って住むことにしたのだ。勝雪は結婚当初から「俺が買った」と義両親に触れ回っていたようだが、登記簿に書かれた名義は最初から私だった。悪意に塗り替えられたあの家をこのまま維持するつもりはない。売却して綺麗にする。それが私の出した答えだった。

「わしらの老後はどうなるんだ?」

「そうよ。私たちはどうすればいいの?」

義両親の声が情けなく揺れていた。散々人を踏みにじってきた人間の最後の言葉。

「せめて孫をくれ。子供がいると手当てもらえるんだろう。」

「そうだ。まこ君は亡くなった両親の遺産をたくさん持ってるんだよね。それっていずれまなみのものになるんだろう。やっぱり俺たちにはまなみが必要だ。」

調停委員が顔を上げた。長年この仕事をしてきた人でも、さすがにこの発言は想定外だったのだろう。ペンを持つ手が止まっていた。えりさんが義父を見る。感情を乗せない目だったが、その静けさが何よりも雄弁だった。私は怒りより先に、深い疲労を感じた。勝雪はいつからまなみを娘として見なくなったのだろう。義両親の中に、まなみを孫として見る気持ちが1度でもあったのだろうか。その答えは今この瞬間に出た。

私は深く息を吸ってから言った。

「まなみは絶対に渡しません。あの子は私の娘です。」

室内が静まり返る。調停委員が書類を整えながら口を開いた。本日の協議内容を淡々と確認していく。不当利益の返還、財産分与、慰謝料、親権、養育費。それぞれの請求事項が、感情を排した言葉で読み上げられた。

「以上の内容を踏まえ、請求金額は合計2370万円となります。また、お子さんの養育費として月5万円。まなみさんが18歳になるまでのお支払いをお願いします。」

その請求内容に、義家族たちの嘆きは止まらない。

「いやよ、そんなのいや。せめて孫だけはくれ。あの子供は俺たちの希望だ。」

「まなみをくれ。俺の娘だ。あの子なら俺を助けてくれる。」

3人で声を上げたが、誰も取り合わなかった。調停委員は表情を変えず、えりさんは書類をまとめ、私は黙って前を向いている。彼らの声は次第に小さくなり、やがて廊下へ出るように促された。追い出されるように部屋を出ると、廊下に人影が見えた。まなみだった。ルナちゃんと並んで壁際に立っている。学校帰りにここで待つよう、事前に頼んでいたのだ。

勝雪はまなみを見た瞬間、ふらふらと歩み寄る。震える手をまなみに差し出した。

「ま、まなみ。お前はパパを助けてくれるよな?パパが必要だろ。」

まなみは勝雪を見た。怒っているわけでも、泣いているわけでもなかった。ただ哀れむような目をしている。まなみは勝雪の目を見て、はっきりと言い放った。

「私はパパいらないよ。ママがいればいい。」

勝雪がその場に立ち尽くす。絶望という言葉がその顔に滲んだ。義母が何か言いかけて止まる。義父は視線を落としたまま動かなかった。廊下に、しばらく誰も何も言わない時間が続いた。

まなみはそんな大人たちに目もくれず、身を翻す。そしてこちらに来ると、私の手を取った。

「ママ、帰ろう。私たちのお家に。」

まなみの言葉が胸の奥に優しく落ちる。えりさんとルナちゃんが手をつないで後ろから続く。4人で廊下を歩き、エレベーターに乗り、ビルの外に出た。秋の風が頬に当たった。振り返ると、ビルのエントランスに義家族の姿が見える。3人とも動いていなかった。もうどこへ行けばいいのか、何をすればいいのか分からないのだろう。私にはそれがただの背景のように見えた。長く見る必要もないと思い、視線をそらす。まなみが私の手を引いた。ルナちゃんがまなみの隣で「今日ね、新しいパン屋さん見つけたの」と言った。えりさんが「寄っていきましょうか」と笑った。

「ママ、大好きだよ。」

私たちは歩き出す。地獄だった7年が今日終わった。そしてここから、私たちの時間が始まる。

調停の結果が確定したのは、それから1ヶ月後のことだった。離婚が正式に成立し、親権は私のものになった。財産分与、不当利益の返還、慰謝料。えりさんが積み上げてきた請求が、数字として確定した。勝雪が長年隠し続けた口座の残高も退職金も、全て分与の対象となったのである。

勝雪と義両親は、しぶしぶながらあの家を出ることに。期限までに出なければ強制執行だとえりさんが伝えると、3人は期限ギリギリに荷物をまとめて出ていったらしい。家は売却した。不動産会社に依頼し、手続きは全てえりさんが窓口になってくれた。売却が完了した日、私はえりさんからの短いメッセージを受け取る。

「ありがとうございました。お疲れ様でした。」

私は感謝の気持ちでいっぱいになった。勝雪はその後、義両親と3人で郊外の狭いアパートに移ったという。無職のまま、生活保護も申請しているらしかった。義母がかつて笑いながら言った言葉を思い出す。

「帰る家もなくてかわいそうね。」

その言葉が、そのまま3人に帰っていった。

冬になった。まなみと2人の食卓に温かいシチューが並んでいる。「美味しい」と言いながら頬張る彼女の横顔を見て、私は静かに笑った。仏壇に両親の写真を飾り直したのは、新居に越してすぐのこと。線香に火をつけながら、小さな声で言った。

「やっと終わったよ、お父さん、お母さん。」

写真の中の2人は、いつもと同じ顔で笑っていた。

週末、えりさんとルナちゃんと4人で近所のパン屋さんへ行った。子供たちが並んでショーケースを覗き込み、「あれがいい、これがいい」と騒いでいる。えりさんが隣に来て小声で言った。

「顔色良くなったわね。最初に会った時と全然違う。」

「だとしたら、えりさんのおかげよ。ありがとう。」

公園のベンチで初めて声をかけてもらった日のことを思い出した。あの日の私は、知らないうちに限界だったのだろう。

「ママ、これにしよう。」

パンを指さすまなみの顔が眩しかった。私は今、本当に幸せだ。

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