「この資料を来週使うから、それまでに仕上げられなかったら、あなたもう来なくていいからね。」
冷たい声がオフィスの空気を一瞬で凍らせた。俺は机の向こうで固まる同僚の姿を見つめながら、思わず拳を握りしめた。彼女は正社員としてここに居場所を築こうと必死に頑張っているのに、どうしてこんな理不尽な集中を受けなきゃいけないんだ。
助けを求めるようにこちらを見たのは、かつての俺の忘れられない人だった。彼女は俺の高校時代の元恋人。卒業以来連絡も取れず、顔を合わせることすらなかったのに、この会社で再会することになるなんて思いもしなかった。再会の喜びを味わう暇もなく、彼女は驚くほどの過酷なノルマを突きつけられ、日々追い詰められていた。
「全部背負い込むな。手伝うから、少し資料を貸してくれ。」
彼女が戸惑いつつも差し出した書類の山は、膨大な翻訳データと複雑な契約関係の文書だった。普通にやったら1ヶ月はかかるだろう。しかし俺は作業の段取りを全て見直して、重複や無駄を徹底的に削った。翻訳のテンプレや使える辞書を駆使し、優先順位を整理して大枠を先に固める。締め切りまで1週間と宣告された作業は、意外にもあっさり道筋が見えてきた。
「もう終わったよ。」
気づけば、たった1時間も経たずに主要な資料がほぼ完成してしまっていた。徹夜を覚悟していたはずの彼女は、ただ呆然とパソコン画面を見つめ、「嘘みたい」と震える声でつぶやく。その瞳には安堵と驚きが入り混じった涙が浮かんでいた。
俺と彼女のこの再会が、俺たちの人生を大きく動かすきっかけとなるのだった。
俺の名前は立花レオン。今は桜連という自動車メーカーの日本法人に派遣社員として入社したばかりだ。桜連は海外本社を持つ大手企業で、その日本法人も規模はかなり大きい。いわゆる外資系で、社内には外国人の幹部社員が在籍していたり、会議や書類が英語メインで進んだりもするらしい。もちろん日本国内向けの販売企画やサービスを担う部署もあり、一口に車の仕事と言っても役割は多岐に渡る。
俺が配属されたのは、海外からの案件と国内営業をつなぐ中間的な部署。どうやらそこでは翻訳や通訳、さらには雑用に近いサポート業務まで求められるようだ。
「それでは立花さん、今日からよろしくお願いしますね。」
人事部の担当者が丁寧に頭を下げながら言った。俺は研修に連れて行かれ、業務についての簡単なオリエンテーションを受けた。部屋の明るさといい、生き生きとした社員たちの雰囲気といい、一見するとホワイト企業という印象を受けるけれど、企業というのは外から見える姿と中身がまるで違うことも珍しくない。
「こちらが海外関連の書類や翻訳を担当するチームになります。立花さんにはこの女性上司、日室マネージャーの指示を仰ぎながら補助業務を覚えていただく予定です。」
人事担当者が俺の隣でそう紹介すると、やや奥まったデスクから鋭い視線を持った女性が立ち上がった。黒髪をコンパクトにまとめた様子は一見スマートだが、その目つきと佇まいにはどこか突き刺すような冷たさがある。
「この部署の中間管理職です。よろしくお願いします。立花と申します。」
深く頭を下げると、日室マネージャーは笑みらしきものを作りながら「あらあら、若いわね。うちは忙しいわよ」と声をかけてきた。その口ぶりには最初からこちらを軽んじるような響きが混ざっている。彼女の目が怪しく光っているのは気のせいではないだろう。
「こちら白崎さん。業務上のサポートを受ける時は彼女に相談してもらって構わないわ。とりあえず、えっと、翻訳の下準備やら資料整理やら雑用が山のようにあるし、あなたも手を動かしてちょうだいね。」
その瞬間、紹介された女性の顔を見て、俺は思わず息を飲んだ。肩にかかる髪とどこか凛とした雰囲気をまとった横顔。少し疲れたようにも見えるが、それでも周囲を引きつける美しさがある。まさかここで再会するなんて思わなかった。白崎——かつて俺が本気で付き合っていた、忘れられない元恋人の名前だ。
「白崎です。よろしくお願いします。」
彼女はかすかに微笑んで一礼する。だがその瞳には驚きと戸惑いが混ざっているように見えた。俺の方も内心では心臓が一つ大きく跳ね上がるのを感じている。高校卒業以来、一度も顔を合わせたことがなかった相手。そんな彼女が今、この会社の社員として俺の目の前にいるなんて。
「こちらこそよろしくお願いします。」
自分が動揺しているのを隠そうと、なんとか笑みを作って答えた。その場を取り繕うように、日室マネージャーが「それじゃあ仕事に移って」と手を叩き、何事もなかったかのように話を切り上げる。周りの社員もすでに業務に集中しているのか、ちらりとこちらを見ただけでそれぞれ席に戻っていった。
俺はふと、皆が細く息を吐き出す様子を見た。表情をぐっと引き締め、デスクの書類を手際よく整理し始める姿は、昔の記憶にある彼女の面影をどこか思い出させる。懸命に頑張ろうとする意思の強さは、あの頃と変わっていないのかもしれない。自分の中に芽生える戸惑いを抱えながら、俺は改めて小さく頭を下げた。彼女もそれに気づいたように、そっと視線を伏せたままかすかに会釈してくれた。
そうして俺と皆の再会は、他の誰からも祝福されることなく、ただ業務という名の喧騒の中で静かに幕を開けたのだった。
それから数日、俺は海外部門の補助的な業務をこなす中で社内の様子を少しずつ掴み始めた。気づいたのは、この部署は仕事量がとにかく膨大だということだ。定時で終わるなど到底無理なほどのタスクが毎日のように舞い込む。しかもどの案件も海外との時差やら契約先との細かいやり取りやらが発生するため、いつまで経っても後が落ち着くだけという状態にならない。特に負担が大きいのが皆だった。日室マネージャーからの指示が彼女に集中しがちな上、他の社員も自分の業務を優先したくて、何かと皆に押し付けているように見える。派遣社員の俺と違って、皆は正社員として責任もあるのだろうが、それにしても明らかに一人では処理しきれない量を背負わされていた。そんな状況は外から見ていてもあまりに理不尽だった。
ある日の夕方、オフィスの隅でうずくまるようにデスクワークを続ける皆にそっと声をかけた。
「大丈夫ですか? すごい量の書類があるみたいですけど。」
「平気です。ありがとうございます。」
彼女は俯きがちにそう返すものの、疲労の色は隠せていなかった。何があったのか聞こうとしたところで、ヒールの鋭い音がデスクに近づく。日室マネージャーだ。
「白崎さん、あなたにはがっかりだわ。こんなに仕事が遅いなんて思わなかった。ほら、この書類。あと1週間後には海外の取引先に提出しないといけないんだから、もう準備はできてるんでしょうね。」
「すみません。まだ一部の翻訳が残っていて。」
「はあ。あと3日で仕上がらなかったら、ここから去ってもらうことになるかもしれないわね。」
さらりと口にされたその言葉に、皆ははっきりと青ざめた表情になった。そんなことを言われて怯えない方が不思議だ。
「そ、それってどういう、どういう意味か、わざわざ説明しないと分からない? あなたの立場と自覚してる? 新人扱いが嫌なら成果で示しなさいよ。もちろん、無理だと思うなら辞めるって選択もあるわ。」
言い放つマネージャーの横顔には、ゾっとするほど冷たい怒りが宿っている。皆は唇を噛んだまま、何も言えなくなってしまったようだった。さすがにこれは見ていられない。もし3日で終わらなかったら首なんて暴言を堂々と吐いているのだから。
その夜、皆だけが残って大量の資料を抱えていた。日室マネージャーの言葉にプレッシャーを受けているのが分かる。誰も手伝ってくれないのか、周囲のデスクはガランとしていて、退社時刻もとっくに過ぎている。
「立花さん。」
あのデスクにかけ寄った俺に気づくと、皆は一瞬手元の書類を隠すように身構えた。まるで日室マネージャーの鋭い視線が今にも飛んできそうだと警戒しているかのようだ。社内では他人の手を借りていると見られるだけでも、あの上司に何を言われるかわからない。そんな不安が皆の仕草に痛いほど現れていた。
「いえ、ちょっと量が多くて、まだ全然片付かなくて、でも大丈夫です。ありがとうございます。」
彼女はそう言いながらもうまく笑顔を作れず、瞬きが増えているのが分かった。明らかに無理をしている。首をちらつかせるような脅しまで受けているのに、誰にも頼れないというのはどれだけ心細いだろう。見ていられなくて、思わず昔の距離感で言葉をかけてしまう。
「一人で抱え込んで倒れたりでもしたらどうするんだ? 大丈夫そうには見えないんだけど。」
「でも、手伝ってもらったらあなたまで目をつけられるかもしれないし。」
「それは気にしなくていい。俺は派遣だし、雑用は仕事のうちさ。なんとかするから、資料を少し渡して。」
そう言うと、皆は困ったように目を伏せたが、思い切ったように分厚いファイルを俺の方へ差し出した。英語の契約書類が山盛りだ。翻訳とまとめ作業がまだ残っているらしく、ざっと見積もっても相当な時間がかかりそうに思える。
「きっと全部仕上げるのにあと何日もかかる。これじゃ3日の期限なんて……」
消え入りそうな声で皆が呟いた。だが俺は書類を一通り斜め読みして容量をざっと掴むと、コピーの隣の開いたスペースに移動してノートパソコンを開いた。
「ちょっと待ってろ。作業の段取りを考えるから。」
皆の戸惑いを背中に感じつつ、まずは契約書の文面をデジタルデータで取り込み、使えそうな翻訳ツールや会社の共有辞書を確認する。次に同系統の契約書の例を素早く検索し、主要な規定や数字部分を抽出、不要部分を切り捨てることで、まずは要約を先に作り、そこをテンプレートにして細部の文言を埋め込んでいく。そうすれば驚くほど時間を短縮できるはずだ。こういった作業には自信があった。似たような契約書と向き合う機会など腐るほどあったから、グダグダ言うよりとにかく手を動かす。
すると最初は不安げだった皆も、俺の手際を目の当たりにして「あの、これも」と少しずつ協力を申し出てくれるようになった。気づけば二人してパソコンと資料に没頭している。ひたすら翻訳し、検証し、誤字脱字をチェックし、次へ進む。時計をふと確認すると、作業を始めてから1時間も経っていない。
「よし、これで一通り、正談に必要な要点は揃ったはずだ。」
体裁を整えて、俺が仕上げたファイルを最終的にPDF化して整合性をチェックする。もちろん細かい修正は後回しにした部分もあるが、3日どころか今日1日で全ての土台が完成してしまいそうだ。
「これでOK」と俺が告げると、皆は作業中も動かさなかった手をゆっくりと止め、モニター画面の翻訳内容をまじまじと見つめた。
「もう終わったの? 嘘みたい。」
頑張ってタイピングを続けていた彼女の声が震えている。
「ただ完全に仕上がったってわけじゃないけど、締め切りに間に合わないどころか余裕はできると思う。こっから先、誤字チェックや補足資料を整えれば、上司のレビューも早く終わるはずだ。」
ほっとした様子で皆が微笑む。その瞳はどこか潤んでいて、安心感による涙が浮かんでいるようにも見えた。
「レオン君、どうしてこんなに手際がいいの? すごい。」
彼女は驚きと感謝が混じった表情で俺を見つめる。
「まあ、仕事の要領がいいだけさ。別に大したことはしてないよ。」
俺は肩をすくめながら、なるべく平然を装った。
「でもありがとう。あなたがいなかったら絶対無理だった。首になるかもって本気で思ってたから。」
その言葉には救われたような切実さが滲んでいた。あの高校時代に見せた負けず嫌いの彼女が、今はこんな風に追い詰められていたなんて。そう考えると腹立たしさと同時に切なさが込み上げる。
自然と脳裏に浮かぶのは高校の教室での記憶だ。俺はあの頃、家の事情で周囲から貧乏だと噂されていた。実際のところかなりギリギリの生活を強いられていたのは間違いない。クラスの連中も最初は興味本位で「こいつ貧乏らしいぜ」なんて影で囁いていた。だが皆だけはその輪に入ることなく、当たり前のように俺に手を差し伸べてくれた。
「立花君、これノート映す? 私のやつ整理してあるから、よかったら参考にして。」
最初はそんな些細なことからだった。声をかけてくれた時も、「私が助けてあげる」みたいな哀れみは一切なかった。ただ同じクラスメイトとして、分からないことがあったら補えばいい。そんなニュートラルな優しさ。俺はそれに救われたし、同時に彼女の持つ不思議な強さに目を奪われた。皆は当時から地道な努力を惜しまないタイプだった。成績だけでなく部活や委員会活動でも、とにかく全力を注ぐ。何かをやると決めたら、どんな壁があっても諦めずに乗り越えようとする。その負けず嫌いな一面に、俺は次第に惹かれるようになった。
オフィスの明かりを背に、俺と皆は並んで歩き出す。夜のとばりが降りた町は少し冷え込んでいて、仕事終わりの疲労感が体を包んでいた。残業続きで気分が沈んでいても不思議じゃない時間帯だけれど、今は久しぶりの再会を噛みしめるかのようにゆっくりと足を進めていた。
「ごめん。こんな時間まで付き合わせちゃって。」
ふと皆が申し訳なさそうに口を開く。
「気にするなよ。雑用要員の俺が役に立てたなら、むしろ嬉しいし。」
自然とそんな言葉が口からこぼれる。
「ありがとう。でも本当助かったんだ。あんな量の翻訳、一人じゃ絶対無理だった。」
そう言って彼女は小さく笑った。そして俺たちは自然と昔話をする流れになった。高校の頃の記憶、教室での出来事や放課後の廊下、部活の話、そして二人の仲間としての思い出。お互い少し照れくさそうに笑いながら、あの頃に戻ったような気持ちになる。
「ねえ、レオン君、高校卒業してから何してたの?」
不意に皆が切り出す。暗がりの街灯に照らされた彼女の横顔には、戸惑いと好奇心が混ざったような表情が浮かんでいた。
「急にいなくなったと思ったら、その後のことは全然聞けなかったから、正直気になってた。」
そう言われて胸が少し痛む。俺が卒業間際に突然姿を消した時、きっと彼女は不安になったはずだ。あの時何も説明できなかった自分が、今こうして目の前にいる。どんな思いで再会を受け止めているんだろう。
「まあ、親の都合っていうか、家の事情で色々あってさ、家業の勉強みたいなことを海外でしてたんだ。」
彼女は少し寂しそうに瞬きをしたが、それ以上は何も尋ねなかった。
「そっか。レオン君ならきっと頑張ってたんだろうな。私には想像もつかないけど。」
そうつぶやく彼女の声はどこか温かさを含んでいた。責めるような調子はなく、ただ「色々あったんだね」という優しい響きがあった。
「皆の方こそ、高校卒業してからどうしてた? 今こうして車の業界にいるのは意外だったよ。」
俺が問い返すと、皆は少し照れたように肩をすくめ、遠くのネオンを見つめながら口を開いた。
「大学を出ていくつか企業を見たんだけど、やっぱり自動車メーカーがいいなって思ったんだ。高校の頃、レオン君が『いつか世界中を走れる車を作りたい』なんて言ってたのを覚えてる? あの言葉、私にはすごく印象に残ったの。」
思いもよらない答えに胸がじんと熱くなる。あの頃確かにそんなことを口にしていた気がする。それを彼女が覚えてくれていたなんて。
「俺、そんな大それたこと言ってたかな?」
「言ってたよ。『生きる場所が変わっても移動は必要だし。世界中のどこへでも行ける車があったら最高だろう』って。それを聞いた時、なんか私まで世界を意識するようになったんだよね。ずっと家の中で辛いことがあって、でも世界に目を向ければ道は開けるっていうか。そんな勇気をもらえたの。」
彼女の口調は淡々としているけれど、その瞳にはあの頃の熱が宿っているようだった。
「私、あの時正直前を向くのが怖かったんだ。家の中でギスギスした雰囲気とか、誰にも理解されない孤独を感じていて、でもレオン君が何気なく『車でどこへでも行ける未来があるはず』とか言ってくれるだけで、世界は広いんだって思えたの。」
そう話しながら、皆は遠くを見つめるように目を細めた。彼女は高校時代、クラスメイトの前ではいつも笑顔を絶やさず、勉強も部活も一生懸命こなしていた。明るくて面倒見がいいし、学校行事にも率先して参加する姿を見て、周りは「何でもそつなくこなすし、悩みなんてないんだろう」と勝手に思い込んでいた節がある。俺も最初のうちは皆が抱えているものなんて知る由もなかったけれど、ある日俺たちが偶然校舎の裏で話し込む機会があって、ふとした拍子に彼女がポロリと家庭の話題を漏らした。「家にいても誰も話を聞いてくれないんだ」と、普段は決して見せない弱い部分がちらっと覗いた。
最初はお互いに気まずい沈黙があったけれど、俺は反射的に「そっか、大変なんだな」と言いながら彼女の肩に手を置いた。どう言葉を返せばいいか分からなかったけれど、黙って話を聞き続けるしかできなかった。すると皆も意を決したように、自分の家庭のことを少しずつ語り始めてくれた。家の中の冷たい空気、ちょっとした言い争いが絶えない両親の姿。学校では見せない彼女の孤独がそこにはあった。だが口に出してしまえば意外と気持ちは整理できるのか、皆は話していくうちに自分の中のモヤモヤに気づいていったのかもしれない。最後には「ごめん。変な話しちゃって」と照れ臭そうに笑った。そんな彼女に俺は不器用ながら「そんなの気にしないよ。いつでも話してくれたらいい」と伝えた気がする。自分自身、当時は何でもないふりをして生きるのがどれほど辛いかを痛感していたからだ。家庭の都合を周りに話せないまま、学校では平然と取り繕わなければならない。そんな窮屈な感覚は、彼女が抱えているものとも通じるところがあると感じていた。
「演じるのってしんどいよな。」
そう呟いた時、皆は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。それだけで俺たちは、一言では説明しきれない生きづらさを共有していると分かって、少しだけ心が軽くなったような気がした。誰にも本当の弱さを見せられない。それでも周囲には「大丈夫」と笑って見せなきゃいけない。そんな苦しさを抱える同士だったからこそ、あの時の俺たちは自然に惹かれ合ったのかもしれない。俺たちの間には言葉にしなくても伝わるものがあった。自分の中に溜まったモヤモヤを吐き出せる相手がいる。それだけで頑張る理由が一つ増えたのを、あの頃の俺は確かに実感していた。
だから付き合うまでに時間はほとんどかからなかった。周囲のクラスメートたちは「え、なんであんな地味なやつと」なんてひそひそ噂していたけど、皆はどこ吹く風という感じで全く気にしていなかった。「それよりも私がいいと思ったんだからいいじゃない」と、むしろ開き直るように微笑んでいたのを覚えている。そんな姿勢が嬉しくもあり、どこか申し訳なくもあったけれど、彼女の揺るぎない強さが当時の俺をどれだけ救ってくれていたかを、今に至るまで忘れたことはない。
そんな回想に浸りながら歩いていると、いつの間にか駅前の広い通りに差しかかっていた。人通りがまばらになり始める時間帯。ビルのネオンが青白く照らす歩道の上を、俺と皆は肩を並べて進んでいく。すると不意に彼女が口を開いた。
「ねえ、レオン君、今って付き合ってる人いるの?」
「え?」
思わぬ質問に思わず声が裏返りかける。皆はそんな俺を横目で見ながら、少しだけ視線を落とした。
「ごめん、変なこと聞いて。でも卒業間際にあんな風に別れを切り出されたでしょ。ちゃんと話してくれなかったから、わけわからなくて。」
言葉をつまらせる皆の横顔には、どこか言い知れぬ寂しさが宿っていた。俺はどう答えていいか分からず、足を止めかける。
「あの時は、その、別れようって一方的に言われても、私としては理由が分からなくて。もしかして私何かしちゃったのかなって、今でも思うことがあったんだ。」
振り返ると、皆の瞳がじっと俺を見つめている。その視線には不安と期待が混じったような複雑な感情が込められていた。まるであの時の真相を教えて欲しいと言わんばかりに。
「いや、そうじゃない。皆が何か悪いわけじゃなくて……」
それ以上の言葉が出てこない。下手をすれば余計に彼女を傷つけるだろう。気まずい沈黙が流れ、俺はなんとかごまかすように視線をそらしてしまう。
「そっか。」
皆の小さなため息が聞こえた。彼女はそれ以上は問い詰めず、「駅、あっちだよね」と小声で言って先を歩き出す。俺は追いかけるように後を追い、ふと空を見上げた。街灯がまばらに照らす夜空には、うっすらと月が浮かんでいる。結局はっきりとした答えを言えないまま、俺たちは駅前の改札口へと向かった。少し離れた位置で切符を買う彼女の姿を横目で見ながら、喉の奥がひどく乾いているのを感じる。もし真実を言ってしまえば、俺と彼女はもっと大きな壁にぶつかることになるかもしれない。それを回避するように、臆病な俺は歯を食い縛るしかなかった。
「じゃあまた明日、会社でね。」
そう言い合って別れた後、俺は改札を通りながら深い息を吐き出す。なぜこんなにも胸が苦しくなるのか。皆が俺に向けていたあの眼差しが、今も脳裏に焼きついて離れない。夜の電車に揺られて家を急いだ。
翌朝、いつも通りオフィスに向かうと、早速日室マネージャーの鋭い声がフロアに響いていた。皆のデスクにずらりと並んだ書類を片っ端からめくっては「本当にこれで全部終わってるわけ?」と疑いの目を向けている。けれど数分もしないうちに、彼女の眉間の皺が深くなるのが見えた。
「どういうこと? ここまで仕上がってるなんて。」
つぶやく声は悔しさを含んでいるようだった。皆の方はといえば、緊張しつつも堂々と座っている。昨夜ギリギリまで作業した甲斐があって、まだ細部のブラッシュアップこそ残っているが、大枠の要件は完璧に整っていたのだ。
「す、すごいじゃないか。白崎さん。一晩でここまで完成させたの。」
近くにいた数人の社員が驚きの声をあげる。いつも雑用ばかりを押し付けられていた皆が、わずかな時間であの大量の翻訳やまとめをやりきった。それだけでも衝撃だったのだろう。皆は小さく笑みを見せながら、きちんとロジックを説明し始めた。
「ありがとうございます。でもやり方次第で時間を短縮できる部分が多くて、それに資料の優先順位を最初に見極めるだけでも、余計な重複作業を省けますし。」
それは昨日俺と一緒に見直した方法だ。彼女はそれをしっかり吸収し、自分の言葉で堂々と話している。周りの社員は思わず感嘆の息をもらし、日室マネージャーでさえ言葉を失いかけているようだった。
「ふん。でも今度はこれもやってもらわないと困るわよ。」
しばし硬い沈黙の後、日室マネージャーは用事を振る舞うふりをしながら、新たな書類の束を皆のデスクに置いた。やたら細かい会計資料らしく、一見しただけでも頭が痛くなりそうだ。
「このプロジェクトの経費関連ね。来週までにまとめて提出してもらわないと。いいわね。」
大勢の社員が見ている前で、皆が先輩社員としていないかと様子を伺うところが、彼女は落ち着いた表情のままファイルにさっと目を通すと、不敵な笑みを浮かべた。
「分かりました。まずはデータを一つに集約して、不要な部分を洗い出せば早めに着手できるはずです。ありがとうございます。頑張りますね。」
そう言うや、彼女は早速パソコンを立ち上げて作業を始める。昨日までは身を縮まらせながら苦闘していた皆が、今日はまるで別人のように頼もしい。俺は少し離れた場所でその姿を眺め、内心「うまくやり方を活用してくれているらしい」と安心した。
「いろいろやるな、あの白崎って子。いつも雑用ばかり押し付けられてたのに、すごくないか?」
周囲からそんな囁きが聞こえ始める。皆の机のそばを通る社員たちが、変わり始めた空気を敏感に察しているのだろう。彼女に失礼な態度を取っていた者たちも、なんとなく居心地の悪そうな顔をしていた。
それから数日後、思わぬ展開が待っていた。日室マネージャーの上司である柴崎課長が、何人かの社員を集めてこう言い出したのだ。
「実は大口取引先から新しい案件の打診が来ていてね。英語ができて、資料作成なんかもきちんとこなせる人材が必要なんだ。そこで白崎さんを担当に抜擢しようと考えているんだが。」
柴崎課長が切り出したのは、この会社の中でも屈指の規模を誇る海外案件に関わる重要なミーティングの場だった。話題に登っている大口取引先は、ガルドナー・インターナショナルという外資系の巨大企業。自動車関連の部品や設備、さらにはテクノロジーを世界中で扱っており、近年は業務提携による新技術開発にも力を入れているらしい。これまでも桜連とは定期的に取引があったが、今回打診された案件はさらに規模が大きく、社内でも特に注目度が高いものだという。理由は、その企業が世界中の自動車メーカーとのパイプを持っており、新たに電気自動車関連の大規模プロジェクトを立ち上げる可能性があるからだ。もしこの会社との提携が深まり、共同プロジェクトでも生まれようものなら、桜連の日本法人としては大きなビジネスチャンスを獲得できる。だからこそ社内でも目の肥えた相手だ。英語力はもちろん、戦略資料やプレゼン資料のクオリティにも厳しい目を向けるだろうし、議論のスピード感も早い。
「そういう対応をきちんとやり切れる人材が必要なんだが、うちはそう多くはいなくてね。今回の案件はうちとしても是が非でも成功させたい。そこで候補に上がったのが白崎さんだ。ここ数日の働きぶりを見て、これなら任せてもやっていけるという判断らしい。英語の翻訳だけでなく、現場レベルの書類仕事やコミュニケーションまでそつなくこなし、しかも熱意がある。組織として人を育てる意味でも、若手抜擢は一石二鳥なのだろう。ただし、相手が相手なだけに相当なプレッシャーがかかると思うよ。彼らは常に世界トップクラスのパートナー企業と仕事をしているし、少しでも不備があればすぐに撤退を考えるくらいの冷徹さもあると聞く。そこは覚悟しておいてほしい。」
もし成果を出せないなら痛いしっぺ返しが待っているというニュアンスも漂うが、それだけガルドナー・インターナショナルが特別な存在なのだ。失敗は許されないけれど、成功すれば大きなブレイクスルーにつながる。その発言にオフィス内はざわめいた。「あの白崎が」と驚く声もあれば、「彼女ならできるはず」と肯定する意見もある。いずれにせよ、新人扱いされてきた彼女が大口案件に携わるというのは、異例の大抜擢に近い。
「やらせてください。」
会議室のテーブルを前に、固唾を飲む社員たちの視線を受け止めながら、皆ははっきりとそう口にした。大きく息を吸い込んで、まっすぐ課長を見つめる。
「英語力もまだ十分じゃないかもしれませんし、作成にも不安はあると思います。でも、ここで引き受けられなかったら、もう二度とチャンスが巡ってこないかもしれない。だから私に任せてください。絶対成功させてみせます。」
静かだったオフィスに、彼女の熱意溢れる声が響く。これまで雑用ばかりを押し付けられていた姿を知る者ほど、その決意の強さに圧倒されたようだ。
「本来なら経験豊富な人をつけるところだけど、白崎さんには連日の仕事で成果を出してもらっているし、何より熱量がある。分かった。上には俺からも言っておこう。正式な担当が決まり次第、また詳しいスケジュールや方針を話し合おう。」
その言葉に皆は深く頭を下げた。表情には決意と緊張感が入り混じっていて、手の震えまで伝わってきそうだ。だがその瞳には迷いの色はなかった。彼女はしっかりと顔を上げると、「ありがとうございます」と小さく、しかし力強い声で感謝を伝えていた。日室マネージャーは何かを噛みつぶしたような表情を見せたが、課長の推薦を強く否定するわけにもいかないようだった。
その日の退社間際、ようやく落ち着いた皆が俺の席までやってきた。
「レオン、本当にありがとう。全部レオンが教えてくれた方法のおかげだよ。」
そう言いながら、彼女ははにかんだ笑みを浮かべる。
「俺はちょっと手伝っただけさ。皆がちゃんと吸収して頑張ったから、結果が出ただけだろ。」
「それでも本当に感謝してる。今はちゃんと前を向けそう。」
静かな声に込み上げた意思の強さが感じられて、俺はなんだか胸が熱くなった。
それから数週間、ガルドナー・インターナショナルとの契約に向けて、皆は息つく間もなく準備を進めていた。日々の業務に加え、先方との英語メールやオンライン会議でのやり取りも担当することになったからだ。俺も影ながらフォローしつつ、彼女が抱える膨大な情報を整理するのを手伝っていた。とはいえ、最近の皆には余計なサポートをしなくても十分なほどの自信が芽生え始めている。日室マネージャーが押しつけてきた雑用が、逆に一通りの知識を習得するチャンスになった形だ。もちろん、その上司がそうした成果を喜ぶはずもないが。
そして迎えた契約交渉当日。まだ朝早い時間帯だというのに、社内には異様なほどの緊張感が漂っていた。大口取引先であるガルドナー・インターナショナルのメンバーがほどなくして来るというのだから、みんな落ち着かないのも無理はない。そんな中、皆が資料を抱えて会議室に向かおうとする時、俺は廊下で彼女を呼び止めた。
「おい、皆、大丈夫か?」
「うん。レオン君が手伝ってくれたおかげで、資料もほぼ完璧に仕上がったし、頑張ってくるよ。」
そう言って彼女はやや強張った笑顔を見せた。目の下に薄い隈ができているのが気になるが、今は余計な口出しはしない。むしろ励ましてやる方が先だ。
「俺は会議には参加できないけど、すぐ近くにいるからさ。もし終わったら、お疲れ様会でもしよう。これまでめちゃくちゃ頑張ってきたんだから。今日成功させて、思いっきり息抜きするんだぞ。」
「うん。そうだね。ありがとう、レオン君。」
彼女は書類をぎゅっと抱きしめるようにしてかすかに頷き、会議室の扉を開けて入っていった。何度も準備を重ねてきたが、いざ本番となれば緊張しないわけがない。けれど皆なら、と俺は信じている。
ほどなくして海外から訪れたガルドナー・インターナショナルの責任者たちが会議室へ案内される。参加メンバーは数名いて、通訳や役員らしき人間も同行していた。社内でも役職の高い連中が同席しているが、その中心にいるのは堂々と振る舞う日室マネージャー。皆はその隣の席に控え、必要な時に資料を提示する立場で臨むようだ。
会議の序盤はとてもスムーズだった。お互いに事前にすり合わせた資料を再確認しつつ、予想されるリスクや納期について確認し合う。ガルドナー側も笑顔で頷き、通訳を通して問題なさそうだと評価しているようだった。社内に緊張が張り詰めていたのが嘘みたいに、穏やかな空気が流れていた。
しかし、しばらくして暗雲が立ち込める出来事が起こる。序盤は順調に見えた交渉の流れだったが、先方の責任者の一人が難しいそうな表情でこう切り出したのだ。
「ところで、この追加仕様の件ですが、御社の資料を拝見すると、現地工場の組み立てライン改修や新型バッテリーの検証テストに伴うリスク分析が含まれていないようですね。事前に稼働停止期間の見積もりや外部サプライヤーとの連携手順を調べていただく約束だったと思うのですが、その進捗はいかがでしょうか?」
会議室の空気が一瞬張り詰める。慌てて通訳を通して内容を確認した日室マネージャーは、さっと眉を潜めながら、あたかも想定内だという風に頷いた。
「もちろん調べていますよね。白崎さん、あなたが担当していたはずでしょ。工場レイアウト変更からロボット導入時の動作検証、さらにはサプライヤーとの納期調整まで、私がここからここまでの情報を集めて分析するよう、きちんと伝えたわよね。」
そのまま隣に座る皆を横目で見ると、彼女は一瞬戸惑った表情になり、すぐに慌てたように顔を伏せた。
「え、そ、そんな話は……すみません。私は依頼を受けた覚えがなくて。」
彼女が言葉を選びながら答えると、日室マネージャーはすぐに表情を曇らせ、席を少し乗り出した。
「どういうこと? この件は、組み立てラインの稼働停止が売上目標のサービス水準にどう影響するか。そして新バッテリーの導入による外部調達のリスクとコスト見積もりまで含めて、あなたが集計するよう言ったでしょう。それを聞いていないなんて、仕事を何だと思ってるの?」
日室マネージャーは目を鋭く吊り上げ、皆を睨みつける。傍から見れば、まるで無能な部下が重要な任務を放置していたという構図に見えるだろう。
「すみません。すぐに調べます。でも、範囲がここまで必要だとは聞いていませんでしたし、今から調べます。」
「あなたね、この案件がどれだけ大事か分かってる? そんな悠長に対応してたら、先方に失礼でしょ。」
怒りを露わにする上司に、皆は頭を下げるしかなかった。困惑する先方からは「では、契約交渉の進行を一旦止めた方がいいのでしょうか」と英語で訪ねてきて、余計に場がギクシクする。するとマネージャーは自分のミスを隠すように、わざとらしく肩をすくめながら先方に向き直った。
「申し訳ございません。うちの出来の悪い部下が失礼を。この件については私が責任を持って回答いたしますので、それ以外の項目を先に進めていただけませんか?」
先方も呆れ顔をしながら通訳を返して「承知しました」と答える。気まずい雰囲気の中、マネージャーはちらりと皆を見やり、冷たい口調で言い放った。
「もういいわ。ここにいても邪魔だから。あなたは一度席を外しなさい。私が一人で何とかするから。」
「で、でも……」
「いいから、すぐに出ていって。あなたに任せると話が進まない。」
そうして皆は、まるでお荷物扱いされるように会議室から追い出されてしまった。皆はとぼとぼとオフィスの一角へ向かい、机に広げられたファイルを手に取るも、震える指でうまくページをめくれない。俺はいても立ってもいられず、そっと声をかける。
「皆、どうしたんだ? 大丈夫か?」
俺の顔を見ると、彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。まるで屈辱と無力感を同時に味わっているようで、ほんのり赤くなっているのが切ない。
「レオン君、私本当に知らなかったの。このリスク分析の件なんて、一言も聞いてなくて。でも、みんなの前で使えない部下みたいに怒られて……」
俺はファイルを広げながら、日室マネージャーの指示範囲を確認してみた。すると確かに、リスク分析の範囲についての言及がある部分には曖昧なメモすらなかった。どうやら彼女の言う通り、マネージャーがわざと隠していたか、あるいは説明不足のまま放置していた可能性が高そうだ。
「どう考えても、日室さんがわざと言わなかったんじゃないか。皆に責任を押し付けるために。」
そう言うと、皆は唇を噛みながら、そんな声を詰まらせる。悔しさで胸が張り裂けそうなのだろう。
「ひどいよね。私のことが気に入らないなら、私だけに嫌がらせすればいいのに。こんな大事な交渉の場面でまで……」
悔しさを隠しきれない皆の声は震えていた。高校時代から夢見ていた、自分の手で車を作り、世界と繋がるという思いを胸に、彼女はずっと頑張ってきたのに。こんな形で踏みにじられるなんて、あんまりだ。
俺は皆の肩にそっと手を置き、彼女の目線に合わせるように軽く腰を落とした。
「俺が何とかする。ここで引き下がったら意味がないだろう。皆の頑張りが水の泡だ。」
「で、でも、あの人何してくるかわからないよ。レオン君が表に立ったら、今度はあなただって危ないし。」
皆は心底不安に唇を噛む。だがここで知らん顔しては何も変わらない。俺は彼女の肩をもう一度軽く叩いてみせる。
「大丈夫。きっとうまく行くから。俺のことは気にしなくていい。それより、お疲れ様会の場所を予約しといてくれ。思いっきりリフレッシュしよう。」
そう言うと、皆はまだ涙を浮かべたまま、かすかに笑みを返してくれた。
「うん。分かった。でも、無理はしないでね。約束だよ。」
彼女を安心させるように頷いた後、俺は資料を抱えて会議室へと向かう。ドアの前で一度深呼吸し、気を消して中に足を踏み入れた。
「失礼します。」
さほど広くもない会議室だが、そこには重役クラスや海外からの取引相手がずらりと並び、張り詰めた空気が漂っていた。そんな中、席の中央で仕切っていた日室マネージャーが厳しい目つきで俺を睨みつける。
「今は大事な交渉中よ。派遣のあなたが入ってくる場じゃないでしょう。さっさと出ていって。」
鋭い声が飛んできたのはもちろん日室マネージャーだ。テーブルの先にはガルドナー・インターナショナルの重役らしき外国人たちが座り、通訳を交えて話し合いが行われている。
「申し訳ありませんが、少しだけお時間をいただけますか? どうしてもお伝えしたいことがありまして。」
俺が丁寧に言葉を選んで頭を下げると、マネージャーは露骨に眉を潜めた。
「どうしてもですって。あなたの用事なんて聞く耳持たないわよ。空気を読めないの。ここから出ていかないなら、首にしてやるわ。派遣契約を打ち切るのは簡単なのよ。」
その一言に、先方の取引担当者が英語で何かを言いかける。通訳が戸惑った様子で言葉を補おうとしたが、その前に先方の偉い人物らしき男が低い声で問いかけた。
「失礼ですが、今、彼を首にするとおっしゃいましたか?」
にわかに空気がぴりつく。相手の鋭い視線は日室マネージャーに向かっている。マネージャーは強引に笑みを作り、言葉を継いだ。
「あ、いえいえ、お気になさらず。失礼しました。こちらの派遣員が不粋に押しかけてきただけですから、今すぐ退出させますので、相談の続きを。」
しかし先方の重役はマネージャーの言葉を制するように手を上げて、通訳を促した。
「いえ、これは見過ごせません。本当に彼を首にするおつもりですか? 彼が何者なのか分かっていますよね。彼はドイツ本社のCEOの息子、レオン・アイゼンベルクさんですよね。」
その瞬間、場の空気ががらりと変わった。まるで時が止まったように会議室が凍りつく。ガルドナー側の複数のメンバーが、俺を知っているかのように静かに頷いている。
「嘘でしょ?」
日室マネージャーの顔から血の気が引いていくのがはっきり分かる。彼女は絶句したまま、困惑の色を隠そうともせずに唇を震わせていた。俺はまっすぐテーブルの中央に立ち、深く頭を下げる。
「本社CEOの息子だからって偉そうにするつもりはありません。日本法人の現場を知りたくて、派遣として働かせてもらっていました。勝手な事情ですみません。」
先方の重役たちは互いに視線を交わし合い、どうやら以前から俺の存在を把握していたらしい。通訳を通してこんな言葉が返ってくる。
「ドイツ本社からあなたのことは聞いていました。極秘に日本を訪れるかもしれないとは伺っていましたが、まさかここでお会いするとは思いませんでしたよ。」
日室マネージャーは呆然としながら椅子から立ち上がり、何度か口を開きかけるも言葉が出ない。それもそのはずだ。自分の部下を首にすると豪語した直後に、そいつが実はドイツ本社のCEOの息子と判明したのだから。
「そ、そんな……派遣社員だと思ってたし、全く聞かされていなかった。」
上ずった声で言い訳を繰り返すマネージャーの様子を、ガルドナーの面々は半ば呆れ気味に眺めている。社内の偉い連中も一様に凍りついた顔だ。俺は気を消してゆっくりと口を開いた。
「先ほどの交渉で不足していたリスク分析データにつきましては、改めて私からご用意させていただきます。実は私はドイツ本社の資料や最新プロジェクトの資料を直接取り寄せられる立場にありまして、そのネットワークを生かせば、外部サプライヤーとの契約情報や工場ライン改修の詳細データなども早急に揃えられます。白崎が中心となって整理していた国内データともすり合わせることで、提出が遅れた要因を速やかに補い、より精度の高いリスク分析をお見せできるはずです。次の打ち合わせまでに万全の資料をまとめますので、少しだけお時間をいただけませんか?」
そう言いながら、俺は手元のファイルをテーブルに置いた。中には先日まで皆が懸命になってまとめようとしていた関連資料や、俺がサポートして作成した下準備データが詰まっている。
「率直にお話しくださって感謝します。分析資料を拝見できるのを楽しみにしていますよ。」
先方の重役は落ち着いた笑みを浮かべながら俺のファイルを受け取り、通訳を通して穏やかにそう告げる。一方、日室マネージャーは何か言いたげに視線を彷徨わせながらも、完全に追い詰められた表情をしていた。俺はちらりと彼女を見やると、冷静に言葉を続ける。
「白崎が担当として頑張ってきたことは事実です。もし資料が不十分な点があるなら、それはマネージャーとして指示を怠った方にも責任があると思います。どうか彼女の頑張りまで踏みにじらないでください。」
会議室にはぴりついた沈黙が漂う。通訳を通した先方の発言を受けて、つい先ほどまで偉そうにしていた社内の役員たちもオロオロと視線を交わし合っている。結局、日室マネージャーは何も言えないまま俯いていた。しばしの間を置いて、ガルドナー側の重役が再び口を開く。
「私たちはあなたの能力を信頼しています。不足しているデータをきちんと提示していただけることを前提に、この交渉を続けましょう。近いうちに改めて打ち合わせを設定していただけますか?」
その言葉に、社内の偉い連中は同時に安堵の吐息を漏らした。どうやら先方はまだこの話をなかったことにはしないでくれるらしい。
「ありがとうございます。次回までに完璧なデータを揃えておきます。」
俺は深く頭を下げると、会議室全体に緊張が溶けていくのを感じた。けれど、傍らに立つ日室マネージャーだけは青ざめた顔のまま、上の空で立ち尽くしている。派遣契約を打ち切るどころか、自分の立場すら危うくなるかもしれない。そんな危機感が彼女にも見え隠れしていた。
さっきまでゴタゴタしていた交渉は、とりあえず次回に向けて準備を整えるという形で終了することになる。ガルドナーの重役も「今日はこの辺で失礼します」と穏やかに言い残し、退出していった。先方が部屋を出るなり、社内の管理職は一斉にマネージャーへ苦い視線を向けるが、今はまだ何も言わずに罰が悪そうに散っていく。やがて会議室に残ったのは、俺と日室マネージャーだけになった。彼女は乾いた唇を何度も噛みながら、恨めしげにこちらを見る。
「どういうつもりなの? そんな立場なら最初から言いなさいよ。私をはめたの?」
震える声で詰め寄ってくるが、俺はただ首を横に振った。
「はめる気なんてありません。ここでは普通に働きたかったんです。けど、あなたが白崎さんの努力を踏みにじったことは事実だ。そして俺のことも勝手に首にすると言いましたよね。」
「ああ……」
マネージャーは言葉を失い、床に視線を落とすしかなかった。そのまま俺は何も言わず会議室を後にする。ドアを閉めた背後から、彼女が低く息を吐き出す気配が伝わってきた。
廊下に出ると、少し離れた場所で皆が立ち尽くしていた。まだ半信半疑の様子で、俺の姿を見つけると声をかける。
「レオン君、今の、本当に?」
「ああ、向こうの取引先が俺のことを知ってたみたいだ。自分でもおかしな展開だと思うが、もう隠しても仕方がない。」
皆は目をまたかせながら、ふと小さく微笑んだ。
「そっか。やっぱりすごい人だったんだね、レオン君は。」
「別にすごいわけじゃないよ。ただ少し事情があって、この会社の中身を知りたかっただけさ。」
俺が日本に戻ったのは、この会社のことを知りたかったからだ。俺は父が桜連のCEOということもあって、生まれた時からある意味有名人のように扱われてきた。父はドイツ人で母は日本人だから、俺はハーフとして子供の頃から周囲の好奇の目にさらされてきた。どこへ行っても「社長の息子だ」「あの大企業の後継ぎだ」なんて噂を立てられる。別に好きで生まれたわけじゃないのに、ちょっと目立つことをするとすぐに騒がれ、プライベートなんてほとんどなかった。
そんな俺にとって唯一の味方だったのは母だった。多分俺が精神的に限界に近づいているのを感じ取っていたんだろう。
「日本の高校に行ってみない? 少し離れたところで暮らせば、自由になれるかもしれないわよ。」
そう言ってくれた母の言葉には、俺を思う気持ちが滲んでいた。父は当初こそ渋い顔をしていたけど、高校を卒業するまでという条件で日本を了承してくれた。だから俺は高校の3年間だけ、日本で普通の学生として過ごすことができた。あれは俺にとって人生で初めての自由だったように思う。母の旧姓を名乗ることによって、誰も俺を社長の息子扱いなんかしないし、何をやってもまずは「立花レオン」という一人の人間として見られる。そんな当たり前のことが俺には新鮮だったんだ。
本当は彼女を作るつもりなんてなかった。いずれドイツに戻ると分かっていたし、下手に深く関わってしまうと別れるのが辛くなると分かっていたから。けど皆にはどうしても惹かれてしまった。多分、互いに抱える孤独や壁のようなものが似ていたのかもしれない。あんなにも自然に距離が縮まり、誰よりも掛けがえのない存在になってしまった。でも卒業の時が来たら、嫌でも離れなきゃいけない。別れを切り出した時の皆の表情が、今でも脳裏に焼きついている。俺は自分の立場を痛いほど分かっていて、ドイツに戻らなくてはならなかった。だからあの時は泣く泣く距離を置くしかなかったんだ。
そして今、父のいるドイツ本社と話し合って、俺は日本法人に派遣社員として潜り込むことになった。どうやら日本法人には、ブラックとまでは言わないが離職率が異様に高い部署が存在しているらしい。書面上の報告やヒアリングで問題の本質にたどり着ける気がしない。そう判断した父と上層部が、俺の潜入調査を案として出してきたんだ。正直こんな形で日本に戻って来るとは思わなかったけど、現場を知らなきゃ分からないことが山ほどあるのも事実だ。上だけの資料じゃ、何が原因で人が辞めていくのかなんて掴みきれない。だからこそ、本社CEOの息子という身分は隠したまま、普通の派遣員として働く道を選んだ。
そんな経緯を抱えながら、今こうして皆と再会したのは運命のいたずらなのかもしれない。あの時一方的に別れを告げて以来、もう二度と会うことはないと思っていた彼女と、今度は会社の現場で顔を合わせることになったのだから。けれど、潜入社員としての身分が明るみに出た以上、俺は早急に上層部へ事情を説明しなければならなくなった。ほどなくして役員たちから呼び出しがかかり、緊急の会議が開かれることになる。俺は「またゆっくり話すから」と皆に伝え、一旦彼女と別れて重々しい会議室へと足を運んだ。
会議には桜連日本法人の何人かの役員、そして例の日室マネージャーも同席していた。そこには、俺が調査として見てきた数々の問題が一気に噴出したかのような空気が漂っている。役員たちは俺に向き直ると、日室マネージャーの部署の態度や、あまりに不自然な離職率の高さについて口々に質問を投げかけてきた。
「日室さん、あなたは実際に何をやっていたんです? 部下からの報告によれば、度々無理を押し付けていた上、業務指示も曖昧で、責任を部下に押し付けていたと聞くが。」
役員の一人がそう厳しい声で問い詰めると、日室マネージャーは唇をきつく結んだまま、しばらく何も言えなかった。だが、沈黙が長引いて全員がじれ始めた頃、彼女は浅い息をついて口を開く。
「私は一生懸命だったんです。結果を出さなければ、私が切られると思って。昔から女性が働くのは大変だって痛感させられてきましたから。仕事で少しでもミスがあれば、『やっぱり女性はダメ』なんて陰口を叩かれてきたことも何度もある。それが悔しくて、これ以上侮られないという思いで、がむしゃらに走っていました。」
思わぬ告白に、会議室の空気が微妙に揺れる。日室マネージャーは俯きかけた顔を上げ、悔しそうに続けた。
「だからと言って、やったことは正当化できません。私が追い詰められる代わりに、部下を犠牲にしてしまったのも事実です。嫌がらせじみたことをしたとも思っています。でも、そうするしか方法が分からなかった。勝ち残るには、他人を蹴落とすしかないんだって。」
彼女の声が震えていた。言い訳がましいと受け取る人間もいるだろうけれど、その内側にある種の悲哀が滲んでいるのが誰の目にも明らかだった。
「それでも、残念ですが、あなたをこれ以上この会社に置いておくわけにはいきません。」
役員の一人が無情な宣告を下す。彼女は顔を歪めながら頷き、もう弁解の言葉も口にできないようだった。
「分かりました。」
全てを背負うようにそう呟くと、彼女は視線を床に落としたまま小さく頷いた。こうして日室マネージャーの解雇が正式に決まる。会議は早々に終わり、やがて彼女が会社を去る日が訪れた。
日室さんが退職の手続きを終えてエントランスへ向かう時、見送りに出る者は誰一人いなかった。普段なら退職者に挨拶くらいはするものだが、あまりに負のイメージが強すぎて、みんなが彼女との関わりを避けているのが見て取れる。そんな中、足早に歩き去ろうとする彼女の前に、ただ一人皆だけが立ちはだかった。慌てて腕を伸ばし、出口までの道を塞ぐようにして小さく会釈する。
「お世話になりました、日室さん。」
思わぬ言葉に、元マネージャーはそうっと眉を潜める。
「恨んでるんじゃなかったの? 私のことが大嫌いだったんじゃないの?」
皆は俯いて小さく息を吐き出す。その瞳には何か温かいものが宿っているのが、少し離れた場所で見ている俺にも分かった。
「ええ、正直本当に嫌いでした。毎日追い詰められて、首だなんだって脅されて、何度も泣きそうになった。でも、あの時踏ん張って一生懸命に学ぼうとしたからこそ、今の私があるとも思ってるんです。だから、ありがとうございました。」
最後の言葉を聞いた瞬間、日室さんの肩がかすかに震える。その目には驚きが浮かんでいたが、やがて苦しさ混じりに小さな声をもらす。
「あなたって、なんて言うか、バカ正直というか、甘いわね。こんな風に言えるなんて。」
皆は唇を噛み、もう一度頭を下げた。その姿をしばらく見つめていた日室さんは、肩の力を抜くように小さく息を吐いてから、ぽつりとつぶやく。
「でも、あなたは強いわ。少なくとも私よりずっと強い。何があっても逃げなかった。私なんかのせいで、たくさん苦しい思いをしただろうに。」
そう言うと、彼女は皆に向かってごくわずかに頭を下げる。そして悔しさとわずかな安堵が入り混じった表情を浮かべると、力なく笑った。
「私もここを出て、一からやり直すわ。もう一度、自分が間違っていたところを見直して、それでもう一度、どこかで……」
そこまで言った彼女は、言葉を失うように口を閉ざした。きっともう遅いと思っているのかもしれない。それでも本当に悔い改めて立ち直る可能性はゼロじゃない。誰も声をかけないまま、日室さんは皆の横を通り過ぎ、重い扉を押し上げて外へと出ていく。その後ろ姿は寂しげだが、どこか穏やかにも見えた。
皆、俺がそっと近寄ると、彼女は振り返り、少しだけ微笑んだ。
「ねえ、レオン君。あの人のこと、私何度も恨みかけたけど、最後くらいはちゃんと挨拶しておきたかったんだ。変かもしれないけど、あの厳しさのおかげで、私は随分強くなれたから。」
そう言って皆が柔らかく笑うと、俺の胸の奥がじんと熱くなる。だがそのまま言葉を継ぎかけた彼女は、一瞬迷うように瞬きをし、少し震えた声で続けた。
「それともう一つ、伝えたいことがあるの。私が自動車業界に進もうと思ったのは、もちろん車が好きだからっていうのもあるけど、レオン君にまたどこかで会えたらいいなって、そう思ってたからでもあるんだ。」
ドキリと胸が鳴った。まさか彼女がそんな風に思っていたなんて、想像もしなかった。皆は気恥ずかしそうに視線をそらしながら、口を結んだまま言葉を探すように呼吸を整える。
「あなたの正体を聞いて、正直すごく驚いた。自分には不釣り合いかもしれないって分かってる。だけど、言わずに後悔したくないの。例えいつかドイツへ戻ってしまうことがあっても、私の気持ちだけは覚えておいてほしい。」
まっすぐな瞳でそう告げる皆に、俺は思わず抱きしめたくなる衝動をこらえる。けれどその瞬間——
「レオン。」
不意に背後から父の声が響いた。振り返ると、廊下の奥からスーツ姿の父が堂々とした足取りでこちらへ向かってくる。いつ日本に来たのかと思うほど突然の登場に、俺は心臓が跳ね上がった。
「父さん、なんでここに?」
「報告を受けたよ。日本法人の問題をよく納めたそうじゃないか。さすが私の息子だ。高校の時に日本で学びたいなんて言い出した時はどうなることかと思ったが、こうやって結果を出すのを見ると、やはり血は争えんな。」
父は誇らしげに言ってくるが、その視線は自然と俺の隣に立つ皆へ移っていた。皆が戸惑いながら一礼し、「初めまして」と小さく声を落とすと、父は目を細める。
「おお、君の隣の方は?」
「あ、日本法人の社員で、白崎皆と言います。」
皆が慌てて自己紹介をすると、父は機嫌よさそうに眉を上げながら、どこか楽しそうに口元を緩めた。
「ふん。さっき遠めに見ていたが、随分親密そうに話していたな。何かあるのか? レオン。」
低く、しかし含みのある声で探りを入れる父の姿に、俺は一瞬ためらったが、意を決して答えた。
「父さん、実は日本法人をもう少し立て直したいんだ。離職率を高めていた問題は解決できたんだけど、それで終わりじゃない。現場にはまだ改善すべき点がたくさんあるから、俺はもうしばらく日本に残りたい。それと、彼女、皆のことも大切にしたいんだ。」
父の表情がわずかに動くけれど、俺は言葉を止めない。
「僕は彼女が好きだ。できれば日本で、彼女と一緒に過ごしたいと思ってる。」
ちらりと横を見れば、皆が目を見開いて、今にも涙をこぼしそうな顔をしていた。そのまま彼女は恐る恐る父に向き直る。
「えっと、私はまだ力不足かもしれませんけど、レオン君が日本法人を良くしていくために、一生懸命サポートしたいと思っています。だから、その、よろしくお願いします。」
彼女が深く頭を下げると、父は少しだけ驚いたように目をまたたかせた。すぐに思い出したように、「ああ、そういえば」とつぶやく。
「そうだ。ガルドナーの重役が、やたらと優秀な資料をまとめる女性がいると言っていたな。確か名前はミナと。君のことだったのか。」
「はい。多分……」
皆が気恥ずかしそうに答えると、父は意味ありげに頷きながら俺を見やる。
「なるほど。レオン。君はこういう人がそばにいる方が、実力を発揮しやすいのかもしれないな。分かった。日本法人での立て直しは任せる。ただし、ドイツ本社への連絡は怠らないでくれ。そちらも大事な案件を抱えているからな。」
その言葉に、俺は安堵の息をつく。父はさらに皆へ向けて言葉を続けた。
「レオンのこと、よろしく頼む。こいつは昔から抱え込みやすい性格でな。最近こんなに生き生きした顔を見るのは久しぶりだよ。」
「あ、はい。」
「父さん、ありがとう。」
そう答えて俺がしっかり頷くと、皆は泣きそうなほどうるんだ瞳で俺を見上げた。お互いの手が自然と重なり合い、二人の距離がほんの少しだけ縮まっていく。ありったけの決意と、抑えきれない嬉しさ。それが同時に胸のうちで熱を帯びていた。
それから数ヶ月、日本法人は見違えるほど組織改革が進み、売上も順調に伸び始めた。以前は不自然に高い離職率が悩みの種だったが、今では社員一人一人がやりがいを感じられるような仕組みづくりに注力している。改善すべき課題はまだ山ほどあるが、それでも確かな手応えを感じる日々だった。皆との関係も、あの時手を重ね合った瞬間からさらに深まったように思う。仕事に追われてすれ違うこともあるけれど、どちらかが疲れている時はお互いを支え合い、休みの日には隣町のカフェでゆっくり過ごす。そんな何気ない時間が、今の俺には掛けがえのない宝物だった。
父に言われたように、俺は抱え込みやすい性格をしているのだと思う。誰にも言えず一人で悩み続けたり、どうしても弱音を吐けなかったり。だけど、そんな俺を皆は受け止めてくれたし、社内の仲間たちは一緒に悩みを共有してくれる。いつしか弱いところを見せることは恥でも何でもなく、誰かと助け合うために必要なことだと実感できるようになっていた。
こうして俺は彼女と共に、今を積み重ねながら日々を生きている。かつては見失いかけていた、誰かと分かち合い、誰かを支えるという当たり前のことが、これほどまでに尊く掛けがえのないものだとは思わなかった。だからこそ、これからも俺は自分を偽らないで、手を伸ばす生き方を守りたい。辛いことも嬉しいことも、誰かと分かち合えるのなら、今の俺たちはどこへだって進んでいける。そんな確信を胸に、今日も変わらず皆とこの会社の未来を作っていくつもりだ。



