修学旅行の費用、まだ?明日までに50万円払わないと沖縄に行けなくなっちゃうんだよ。
最初、何を言われているのかまったく分からなかった。数秒間黙っていると、電話の向こうから鋭い舌打ちの音が聞こえてきた。
「あの、どちら様ですか?」
「は?何言ってんの?ごまかそうったって、そうはいかないんだから。」
「いや、本当に……」
私は瞬きを繰り返した。よく聞くと、その苛立った声に覚えがあるような気がする。頭の中で、かつての幸せだった時代と、あっけない崩壊が駆け巡った。
「えっと、まさか本当に美優なの?」
「だからそう言ってんじゃん。何?事故で頭もおかしくなっちゃったの?とにかく今すぐお金振り込んでよ。可愛い娘が修学旅行に行けなくて恥をかいてもいいわけ?」
「可愛い娘」という言葉に、私は頭がすっと冷えた。
「離婚したから、払う義務はない。」
気づけばそう答えていた。
私は高道美織、42歳。現在は在宅でハンドメイド作家として活動している。ビーズを使ったアクセサリーや小物を中心に制作し、ネットショップや委託販売で生計を立てていた。細かい作業が多く、集中力も根気も必要な仕事だが、不思議と苦にはならない。むしろ自分の手で何かを創り出す時間は、私にとって何よりも落ち着けるひと時だった。
この働き方を選んだのは、数年前の事故で足を痛めたことがきっかけだ。今では家の中でも外出時でも杖が欠かせない生活になっている。長時間の移動や立ち仕事はどうしても負担が大きい。自宅で完結できる今の仕事は、自分の体にも合っていた。
もちろん、好きなことを仕事にするのは簡単ではない。売れない時期もあったし、収入が安定しない不安も経験してきた。それでも少しずつリピーターが増え、作品を気に入ってくれる人が現れ、今ではなんとか生活できるだけの基盤を築けている。
性格は昔から真面目だとよく言われる。困っている人を見ると放っておけないのだ。頼まれごとを断るのが苦手で、つい自分のことを後回しにしてしまう。5人兄弟の中で育ったせいか、誰かのフォローに回るのが当たり前になっていた。
その一方で、思ったことをそのまま口に出してしまう癖もある。身内相手ならともかく、時にはそれが問題になることもあった。もう大人なのだからと、一旦言葉を飲み込んで感情を落ち着ける技術を身につけた。ただ、そうすると本当に言いたかったことを見失い、周囲に沈黙をもたらしてしまうのが悩みどころだ。
今の生活は静かで穏やかだ。自然なペースで働き、自分のために時間を使う。過去に何があったとしても、それに縛られ続けるつもりはない。誰かの都合で振り回される人生はもう終わった。そう思っていた。あの連絡が来るまでは。
実は私は2度結婚を経験している。今の夫は5歳年下の37歳。とあるお嬢様学校で数学教師をしており、日々生徒たちに囲まれて忙しく過ごしている。
彼を一言で表すなら、のんびりした人だ。時間の流れが周囲よりゆっくりしているのではないかと感じるほど、せかせかした様子がない。家の中でも常に落ち着いていた。私が作業に集中している間も、無理に話しかけてくることはない。それでいて、必要な時には自然と手を差し伸べてくる。例えば荷物を運ぶ場面。何も言わなくても、気づいた時には隣に来てひょいと持っていく。大げさな気遣いはしないが、こちらが困る前に動く。そんな人だ。
彼は教師という仕事柄なのか、物事を筋道立てて考える癖がある。感情に流されず、状況を整理してから言葉を選ぶ。私が勢いで何か言いそうになった時も、横から淡々と現実を突きつけてくるため、思わず言葉を飲み込むことも少なくない。
見た目は真面目な印象を与えるが、意外と抜けているところもある。朝出かける直前になって「鍵どこだっけ」「スマートフォン忘れた」と探し始めることもしばしばだ。そういうところを見ると、年下らしい一面だと感じる。
彼はいわゆる実家が太いタイプだ。義両親は地主で、義実家は資産家。裕福な家庭でたくさん可愛がられて育っているが、それをひけらかすことは一切ない。むしろお金の話題にはあまり触れたがらず、堅実な生活を好んでいる。
そんな彼と過ごす日々は穏やかで安定していた。大きな波もなく、気を張る必要もない。1度目の結婚生活とは非常に対象的だった。
最初の結婚は10年ほど前のこと。当時同じ会社の同じ部署で働いていた大林安弘という男性が相手だった。元々はよく仕事のやり取りをする同僚という関係に過ぎなかった。安弘は明るくお調子者で、目上の人間に気に入られるムードメーカータイプ。デスクでの仕事より、会社間の人間関係の構築や橋渡し、取引先との渉外役として重宝されていた。
対して私は、目の前の職務に集中し、1つ1つ着実に片付けていくタイプだった。安弘とは業務上の連絡や相談が中心で、プライベートに踏み込むことはほとんどなかった。
だが、距離が変わるきっかけは思いがけないところから始まった。
交際がスタートしたのは、結婚よりさらに2年ほど前に遡る。ある日仕事中のことだった。隣の席から深いため息が何度も聞こえてくる。「あー、悩んでいます」というアピール。最初は気にしないようにしていたが、あまりにも頻度が多く、無視できなくなった。
「大林さん、何かあったの?」
そう声をかけると、安弘は驚いたように顔を上げた。繰り返されたため息は無意識だったらしい。私に突っ込まれるとは思っていなかった様子。彼は困ったように口を開いた。
「いや、仕事とは無関係だし、大したことじゃないんだけどさ。ごめん、ため息うるさかった。ちょっとね。」
「でも、大したことじゃないなら、むしろ誰かに話すことで気分が軽くなったりするんじゃない?」
気楽に促すと、安弘は頭を掻いた。
「実はうちの娘が欲しいぬいぐるみがあるって、ずっと駄々をこねてて。」
「え、ぬいぐるみ?」
「そう、なんか今超人気らしくて。俺たちの時代もそういうのあったよな。消しゴムとかカードとか。」
どこか遠い目をして、疲れきった様子で話す彼。よく見ると目の下にはくっきりとした影があり、明らかに寝不足が続いていると分かる。安弘がシングルファザーであることは、部署の人間なら誰でも知っていた。娘の名前は美優。まだ小さく、保育園に通っている年齢だったはずだ。
詳しく話を聞くと、子供たちの間で特定の熊のぬいぐるみが流行しているらしい。気になったので、私はその場で検索してみた。多くは手のひらサイズで、保育園のバッグにつけられるような感じだ。中には子供の背丈ほどの大きさのものもあるらしい。だが、目玉が飛び出るほど高額だった。フリマアプリには定価の10倍以上の値段で出品されている。
「同じ保育園のママたちに聞いてみたら、少し前なら雑貨屋やおもちゃ屋で普通に売ってたけど、今はもうどこにもなくて、みんな血眼になって探してるんだって。」
「す、すごいね。」
「ああ、俺からすると普通の熊のぬいぐるみにしか見えない。まあ、一時的なブームだとは思うけど。大林さん、流行りに気づくのがちょっと遅いってママさんたちに笑われたよ。」
美優が通う保育園では、流行に敏感な親御さんが多かったようだ。男女問わずほとんどの子が持っている中、美優だけが持っていない。そのため、羨ましがって毎日のように欲しいと訴えているのだという。
「ネットも見たし、ホビーショップも回ってるんだけど、どこにもないんだ。かと言ってフリマアプリにずっと張り付いてるわけにもいかないし、ほとんど狂った値段だろうこれ。」
彼は私の手元のスマートフォンを覗き込む。画面上では、通常1200円の小さなぬいぐるみが5万円で出品されていた。だが、アプリを一旦閉じてから再び開くと、すぐにソールドアウトが表示される。売れてしまったのだ。
安弘は再びため息を落とし、ぼそりと続けた。
「夜も寝ないで泣くから、こっちも寝不足でさ。」
少食していた理由はそれだった。何と言っていいのか分からない。私は結婚もまだの身だ。小さな女の子の執着パワーがいかほどのものか、想像もできない。結局、私の口からこぼれたのは雑な慰めだった。
「大変だね。手に入るといいね。」
「うん。応援しててくれ。」
その時はそれ以上踏み込むつもりはなかった。ただ、事情を知った以上、何も言わないのも気が引けたのだ。
数日後の休日、私は買い物のために近くのショッピングモールへ出かけていた。特に目的もなく雑貨屋の店内を歩いていた時、ふと目に止まるものがあった。ガラスケースの中に飾られた1体の熊のぬいぐるみ。黒くて吸い込まれそうな大きな瞳と目が合う。どこかで見たことがある気がした。柔らかな色合いと丸みを帯びた形。思い出すまでに時間はかからなかった。安弘が話していたあのぬいぐるみである。手のひらサイズではなく、両手で抱っこできるくらいの大きさだ。
近くを通りがかった店員に声をかけて確認する。
「すみません。これって販売しているものですか?」
店員は一瞬迷ったような様子を見せた後、答えた。
「はい、一応販売は可能です。ただ、ディスプレイ用でして。」
「あ、そうなんですか。」
「1ヶ月ほど飾っています。手触りや質感を確かめてもらうために。」
話を聞くと、すでに何人もの子供が触れているとのこと。新品として箱に入っているものではない。私はぬいぐるみを手に取った。綿の詰まったしっかりとした重みが伝わる。裏返して尻を見ると、お菓子のカスがいくつかくっついている。これにはさすがの店員も慌てていた。
「もしお求めなら、少々お値引きさせていただきます。」
確かに新品未使用の綺麗な一品とは言えないが、それでも手に入らない状況を考えれば十分ではないか。少し考えてから、私は購入を決めた。もし美優に不要だと言われたら、その時は別の使い道を考えればいい。例えば、うちの子にしてしまうとか。当時から私は手芸が好きだった。この熊に似合う洋服やアクセサリーを作ることなど朝飯前である。
そして休み明け。昼休みの時間を見計らって、私は安弘に声をかけた。
「大林さん、ちょっといい?」
「え?何?あ、さっきの処理、何かあった?」
「うん。仕事のことじゃなくて、実はこれ。」
デスクの下から雑貨屋の紙袋を取り出し、すっと差し出す。全く心当たりがないようで、安弘は首をかしげていた。だが、袋を開けた瞬間、動きが止まる。
「え、これって……」
言葉が途切れる。そのままぬいぐるみと私を交互に見つめている。
「この前話してたやつ。出先でたまたま見つけたから、よかったら。」
そう伝えると、次の瞬間、彼の表情は困惑から一変した。全力で光を放つように、ぱーっと明るくなった。
「本当にいいの?これ、美優が欲しがってたやつ。しかも手のひらサイズじゃなくて、ガチのぬいぐるみじゃん。」
「そうだね。ガチのぬいぐるみね。」
私は思わず笑ってしまった。安弘はぬいぐるみを両手で大事に抱えながら、何度も確認するように撫でさすった。
「助かるよ。これであの子も落ち着くと思う。しかも保育園の子たちが持ってるやつよりも大きいし、大満足するはずだ。」
保育園でもそういうおもちゃのグレードでマウントを取り合うようなことがあるのか。ほっとした様子が安弘からはっきり伝わってきた。
「ありがとう、美織さん。」
「どういたしまして。」
その日の彼は久しぶりに明るく動き回り、テキパキと仕事を片付けていた。女子社員からも「なんだか顔が晴れ晴れしてるな」と声をかけられていたほどだ。
翌日、朝一番で安弘が改めて話しかけてきた。
「昨日、あのぬいぐるみ、美優に渡したんだ。」
「そう。気に入ってくれた?」
「ああ、ものすごく喜んでさ、ずっと抱えて離さないんだよ。保育園にまで持っていこうとしたのは、さすがに止めたけど。」
彼は嬉しそうに笑いながら続ける。それを聞いて、私も自然と頬が緩んだ。
「それならよかった。」
「本当に助かった。あのままだったらどうなってたか、もう夢にまで見るくらいだったから。」
「え、夢?」
「ああ、でかいぬいぐるみに取り囲まれて圧迫される夢。」
安弘はそこで一度言葉を切り、こちらをまっすぐ見る。
「お礼させてほしい。まず、ぬいぐるみの代金を払うよ。昨日聞きそびれたけど、いくらだった?」
「いや、いいよ。元々展示品で値引きされていたものだし。」
「いや、こういうのはきっちりしておかないと。あと、食事でもどうかな?俺、奢るから。」
突然の申し出だった。まじまじと彼の顔を見返してしまう。そこまで感謝されるほどのこととは思っていなかったのだ。小さな女の子の笑顔が守れたのなら、それでいい。だが、安弘は何かしらの誠意を私に示さないと納得できない様子だった。
「わかった。じゃあ、店は私が決めていい?」
「ああ。でも、あまり高いところはなしで。」
「はいはい。分かってるって。」
おちゃらける彼に対し、軽く笑う。それが全ての始まりだった。
私が選んだのは個人経営の喫茶店。ケーキと紅茶を奢ってもらった。その後、彼の方から何気なく食事に誘う機会が増える。最初はぬいぐるみのお礼という名目だったが、回数を重ねるうちに、それ以上の意味を持ち始めた。
食事の席で、私たちはおしゃべりに花を咲かせた。仕事の話から始まり、日常の出来事やちょっとしたハプニングなどで笑い合う。穏やかな時間を過ごす。そして、安弘は美優のことをよく語った。苦労も多いが、それ以上に大切な存在だということが伝わってくる。その姿を見ているうちに、私は少しずつ心を開いていった。同僚としての距離感も、気づけば変わっていく。
安弘から向けられる静かな好意には、私も気づいていた。同時に、自分の中でも彼に対する愛情がゆっくりと育っていくのを自覚した。
そんな日々が続いたある日のこと。安弘から仕事帰りに食事に行かないかと誘われた。美優はどうしているのかと尋ねると、今日はシッターさんを頼んだらしい。随分改まった様子だったので、私もにわかに緊張し出す。場所は以前にも2人で行ったことのある洋食屋だった。派手さはないが、料理が美味しく、店員の接客も温かい。安弘は妙にそわそわしていて、注文したハンバーグにもなかなか手をつけなかった。
「大林さん、どうしたの?何か落ち着かないけど。」
「え、そう見える?」
「見える。書類の締め切り前より分かりやすい。」
「うわ、そんなにか。」
照れくさそうに笑い、グラスの水を一口飲む彼。そしてこちらへ向き直る。
「美織さん、俺と付き合ってほしい。」
あまりに真っすぐな告白だった。予想していなかったわけではない。恋愛感情を抱いているのはお互い認識していたはずだ。安弘と過ごす時間はとても楽しい。いつまでもこんなやり取りを続けていたら幸せだろうと思っていた。それでも、実際に言葉にされると、胸の辺りがじんわりと温かくなる。
私が返事に迷っているように見えたのか、安弘はさらに続けた。
「もちろん、俺には美優がいる。シングルファーザーだし、普通の交際とは違うと思う。気軽に言っていいことじゃないって分かってる。でも、俺は美織さんと一緒にいたい。美優に対して急に母親みたいに接してほしいなんて言わない。まずは俺と美織さんの2人の関係として始めたいっていうか……」
次第に発言が小さくなる。彼の顔は真っ赤に染まっていた。安弘は父親としての責任をきちんと背負っている人なのだ。私は改めてそう感じる。
「分かった。私でよければ、よろしくお願いします。」
「ほ、本当に?」
「うん、本当に。これからは外では安弘さんって呼ぶね。」
安弘は両手で口元を覆い、しばらく天井を見上げていた。涙をこらえているようだ。大げさな反応に、こちらが照れてしまう。
「よかった。断られたら、せっかくのハンバーグの味が一生分からなくなるところだった。」
「ちゃんと味わって食べてね。」
「もちろん。あ、今日は俺が払う。告白成功記念だから。」
相変わらず調子のいい人だけれど、そんなところも含めて、私は安弘といる時間を心地よく感じていた。
正式に交際を始めてから少し経った頃、私は美優に会うことになった。安弘は急がなくていいと言っていたが、美優という存在を避けたまま交際を続ける方が不自然だ。彼にとって何より大切な一人娘。そこから目を背けるつもりはない。
初めて会ったのは休日の公園。春先で風は柔らかく、遊具の周りには親子連れが多かった。ベンチの近くで待っていると、安弘が小さな女の子の手を引いて歩いてくる。彼女こそ美優だろう。美優は両腕いっぱいに例の熊のぬいぐるみを抱えていた。大事にしすぎているのか、ぬいぐるみには小さなリボンや手作りらしき飾りがつけられている。
「こんにちは、安弘さん。それと、美優ちゃんも。」
「ああ、お待たせ。美優、こちらが美織さん。お父さんがお付き合いしている人だよ。」
美優は安弘の後ろに半分隠れながら、私を見上げた。髪はふわふわで、丸い顔が幼い。まだ父親の袖をぎゅっと掴んで安心するような年齢だ。
「こんにちは、美優ちゃん。」
「あ、こんにちは。」
小さく挨拶を返した後、彼女はぬいぐるみを抱き直す。
「ほら、このくまさんを見つけてくれた人だよ。」
「え、くまちゃんの、あ、お父さんが言ってた人。」
安弘が小さく頷く。すると美優はぱっと明るくなり、彼の背後から出てきた。
「ありがとう。」
「どういたしまして。気に入ってくれた?」
「うん。お名前もつけたの。もこちゃん。」
「もこちゃん、可愛い名前だね。」
誇らしげに胸を張る姿に、思わず笑みがこぼれた。その日、美優は想像していたよりもずっと早く私に慣れた。公園の砂場で遊び、滑り台に登り、途中で疲れると私の隣に座る。そしてぬいぐるみを膝の上に乗せて、おしゃべりを楽しんだ。
「美織ちゃんの名前、美優に似てるね。」
「そうだね。『み』が一緒だ。漢字は分かる?」
「分かるよ。『美しい』って書くんでしょ。」
最初は「美織ちゃん」というのが私への呼び名だった。彼女からしたら、新しい友達ができたくらいの感覚なのだろう。
それから3人で過ごす時間が増えていった。休日には公園へ行き、ショッピングモールを歩き、時には安弘と美優の家に招かれた。美優は私が持っていく小さな紙飾りやぬいぐるみ用のリボンを喜んでくれる。手芸が好きな私にとって、彼女が目を輝かせて受け取ってくれる瞬間は何より嬉しかった。
安弘の家は、男手一つで子育てをしている苦労がにじむ空間だった。洗濯物が畳まれないままソファーに置かれていたり、食器棚の中身が乱れていたり、子供のおもちゃが廊下に転がっていたり。
「このブロックのおもちゃ、踏んだら痛いやつでしょ。なんでこんなところに落ちてるの?」
「あ、それ昨日も踏んだ。大人の足裏に突き刺さる凶器。」
「パパが片付けないからだよ。」
「いやいや、遊んでたのは美優なんだから、美優が片付けないと。」
そんなやり取りが楽しかった。私は自然な流れで大林家の食事作りを手伝うようになる。美優の髪を結ぶこともあった。保育園で使う袋のほつれも直した。安弘はその度に申し訳なさそうにしながらも喜んでいる。
「本当に助かる。美織が来てくれると、家の中が明るくなるよ。」
この頃には、彼も私を呼び捨てにするようになった。
「大げさだよ。」
「ああ、俺と美優だけだと、どうしても回らない部分があるからさ。」
当時の私はその言葉を素直に受け止めていた。頼られることが嬉しかった。自分の存在が誰かの暮らしを支えているのだと感じられる。
私たちは3人でテーマパークへも出かけた。美優は朝からはしゃぎっぱなしで、安弘は地図を片手にうろうろしていた。私は美優の手を引きながら、迷子にならないように歩く。
「美織ちゃん、次あれ乗りたい。」
指さす先には大型のアトラクション。
「身長制限あるか見てからね。」
「大丈夫。俺が調べる。」
「あなた、さっきも調べるって言って逆方向に歩いたよね。」
「人は失敗から学ぶんだよ。」
3人で笑い合う時間は、未来の予行練習のようだった。
そして、交際からしばらく経った頃、安弘は私にプロポーズした。場所は夜景の見えるレストランでも高級ホテルでもない。彼の家のリビングだった。美優が眠った後、私が帰ろうと荷物をまとめていた時、急に呼び止めてきたのだ。
「美織、帰る前に聞いてほしいことがある。」
「何?」
安弘は緊張した面持ちで私の前に立つ。
「俺の妻に、そして美優の母親になってほしい。」
私は目を見開き、息を飲んだ。いつかはそういう話になるかもしれないという予感はあったけれど、実際に言われると重みがまるで違う。
「美優にとっても、美織は大切な人になってる。俺にとっても同じだ。俺たちと正式に家族になってほしい。」
「家族?」
「もちろん、美優の母親になるなんて軽く頼めることじゃない。でも、俺は美織とならちゃんとやっていけるって信じてる。」
安弘の言葉は、ひたすらまっすぐだった。不安がなかったわけではない。血のつながらない子供の親になる。それがどれほど深刻で責任の重いことか、分からないほど幼くはなかった。しかし、私は美優の笑う姿を知っている。安弘が娘を大切にしている姿も見てきた。3人で過ごす時間の温かさも、確かに積み重ねてきたのだ。
「私でよければ。」
気づけばそう返事をしていた。
「美織、ありがとう。でも、約束して。美優のことを私に丸投げしないで。私も頑張るけど、父親はあなたなんだから。」
「ああ、約束する。美優は俺の大事な娘だ。美織一人に全部背負わせたりしない。」
安弘は両手で私の手を包むように握る。温かい手だった。その温度を、私は信じた。
後日、美優にも結婚の話を伝えることに。大林家のリビングで3人揃って座った時、美優は幼いながらに何か特別な話があると察していたらしい。膝の上には相変わらず熊のぬいぐるみが。
「美優と美織は結婚しようと思う。」
「結婚?」
「そう。美優ちゃんと家族になれたら嬉しいなって。」
美優は一瞬どんとした後、きつくぬいぐるみを抱きしめる。
「じゃあ、美織ちゃんと一緒にいるの?」
「うん。そうなるね。」
「本当?」
「本当だよ。」
何度も頷くように繰り返す安弘。言葉の意味を理解したのか、美優は私の膝に飛びついてきた。小さな腕でしがみつく。
「お母さん。」
初めてそう呼ばれた。目の前の小さな子が私を必要としてくれている。そう感じた瞬間、私は彼女を大切にしようと決めた。
結婚式の準備は慌ただしく進んだ。盛大な式ではない。身内と数人の友人、会社で親しくしている同僚や上司を招いた、こぢんまりとした式だった。当日の式場は温かな空気に満ちている。美優はフリルとレースたっぷりのドレスを着て、安弘の横で得意げにしていた。彼女が手にする熊のぬいぐるみには、私が作った小さなリボンが結ばれている。
同僚たちは安弘らしい賑やかな挨拶に笑い、上司は目を細めて祝福してくれた。兄弟たちも、最初こそ相手が子持ちだと聞いて心配していたが、美優が私に懐いている姿を見て安心したようだった。
「美織、これからよろしく。」
「こちらこそ。」
「ちゃんと幸せにしてよね。」
「任せて。」
胸を叩く安弘。ふと美優がこちらを見上げてくる。
「お母さんもお父さんも、美優とずっと一緒。」
「そうだよ。これからは3人で頑張ろうね。」
「うん。」
その時の私は本気で信じていた。安弘との結婚は幸せな未来へ続いているのだと。熊のぬいぐるみが結んでくれた縁は、きっと温かな形で育っていくと疑いもしなかった。
結婚して家族になって4年。ここ最近、私はずっと同じ問いを抱え続けていた。どうしてこうなってしまったのだろう。思わず頭を抱える。
結論から言えば、家の中の空気は確実に変わっていた。ぎすぎすしているのだ。原因ははっきりしている。美優、今年で小学5年生。背も伸びて、言葉遣いも一気に大人びてきた。友達に気を使い始め、異性よりも同性同士で集まって遊ぶようになる。この年代は成長の一環として態度が変わる時期だと聞いたことがある。いわゆる反抗期だ。
正確な始まりがいつだったのかは分からない。去年あたりから、美優は私をさりげなく避けるようになった。目が合っても無言で通り過ぎる。返事も「うん」とか「そう」とか短いものばかり。その変化には気づいていたが、深く突っ込まずにいた。成長すればそういうこともあるだろうと、余裕に構えていたのが良くなかったのだろう。
ある日、夕食の準備をしていた時のことだ。
「美優、ご飯できたよ。食べよう。」
リビングにいる美優に対し、いつも通りの呼びかけをする。だが、帰ってきたのは聞き慣れない言葉遣いだった。
「今宿題やってるんだけど、見れば分かるでしょ。」
美優は手元のタブレットから目を離せないまま、ぶっきらぼうに言い放つ。自分の眉がぴくりと動くのを自覚した。
「冷めちゃうよ。温かいうちに食べよう。それとも、宿題そんなに難しいの?」
「うるさいってば。覗いてこないでよ。」
ばんと音を立てて、美優はタブレットをローテーブルに置く。途端にタブレットの画面が暗くなった。この端末は学校からの貸出し品のはずだ。卒業時には返却しなくてはならない。タブレットの破損を心配するほどの力の強さだったが、美優はそれ以上に厳しい視線で私を睨んだ。
「どうせお母さんが見ても分からないでしょ。邪魔しないでってば。」
「ごめん。でも、ご飯は後で食べる。お母さんは1人でさっさと食べちゃえばいいじゃん。」
語気が一段強くなる。こちらが何か攻めたわけでもないのに、棘が混じる。今日は安弘の帰りが遅い日だった。なので、夕食の席には私と美優しかいない。できるなら一緒に食事を取りたかった。しかし、今の美優の様子を見ると、それは無理そうだった。
「分かった。じゃあ、先に食べるね。」
「初めからそうしてよ。じゃあ、私、自分の部屋で続きやるから。」
彼女はタブレットを持って自室に引っ込む。その時点では、宿題が難しくて機嫌が悪いだけだと片付けた。
だが、同じようなやり取りはその日を境に増えていった。呼び方も変化する。それまでは「お母さん」だったのが、いつの間にか消えていたのだ。
「あんたさ、これやっといて。明日までに。」
ある日、ごたごたしていた仕事を片付けて疲れきって帰宅した時、1人留守番していた美優に出迎えられ、いきなりそう言われた時は耳を疑った。ぽいっと可愛いキャラクターの布袋が投げつけられる。中身は学校で使っている上履きだった。月に2、3回持って帰ってくるのがルーティーンだ。洗って干して乾かして、再び学校に持っていくのだ。だが、それは大抵土日祝日など休みの前の日のこと。今日は火曜日、明日も普通に学校がある。どう考えても、今から洗って干したとして、明日の朝までには乾かない。
しかし、それよりも私には気になることがあった。
「今、何て言った?」
「だから、やっといてって。洗っておいてって意味ね。」
「いや、そうじゃなくて。『あんた』って。」
「あんたはあんたでしょ?何か問題ある?」
開き直りではない。それが自然のような口ぶりだった。
「それは親に対する口の聞き方じゃないわ。直しなさい。」
「なんで?だって、別に本当のお母さんじゃないし。いいでしょ。あんたはあんたで。」
淡々と述べられる。遠慮はなかった。頭をがつんと殴られたような衝撃を感じる。その場で何か返そうとしたが、言葉が出てこなかった。代わりにこぼれたのは、ため息にも似た息。美優はそれを了承と受け取ったのか、さっさとキビスを返し、部屋に戻った。
私は結局、上履きをお風呂場で洗ってドライヤーを当てまくって、必死に乾かした。なんとか翌朝には間に合ったが、美優からは礼の一つもなかったことを覚えている。
その日から、彼女の態度は一気に変わった。常に命令口調で見下す視線をよこし、こちらの行動を当然のように指示してくる。
「あれ、明日までに用意して。ついでに、そこのお菓子のゴミも捨ててきてよ。あ、それと、来週のお弁当、もっとちゃんとしたの作ってよね。みんなに恥ずかしくなっちゃう。」
要求の内容は家庭内の役割として無理なものではない。だが、いちいち言い方がきつかった。ドラマに出てくるお嬢様のようだ。上から目線の口調を、一体どこで学習してくるのか。私は言われるたびに戸惑った。
「美優。人に頼み事があるなら、そんな風に言うのはおかしいわ。」
「は?別におかしくないでしょ。全部あんたの仕事なんだから。」
「ああ、子供の言うことも聞いてくれない母親なんて、いる意味ないじゃん。」
吐き捨てる美優。私は彼女に乱暴な発言をぶつけられる度に傷ついていた。親子としての絆をしっかり築いてきたつもりだったのに。それも私の一人よがりだったのだろうか。
私は一度きちんと話をしようと試みた。夕食後、美優が自室へ行く前に呼び止める。
「美優、ちょっといい?話があるんだけど。」
「何?私、暇じゃないけど。」
「最近のあなた、本当にちょっとおかしいわ。一体何があったの?私のことが気に食わないなら、それでいい。でも、ちゃんと話して知りたいの。あなたのこと、大事な家族なんだから。」
真正面から問いかける。だが、美優は軽く肩をすくめるだけだ。
「別に、このくらい普通でしょ。普通、母親を『あんた』って呼んでるごとにあれこれ命令してこき使うのが、あなたにとっての普通なの?」
「そうだよ。それが私にとっての普通だから。何、気にしすぎじゃない?」
私は絶句した。話し合いにもならない。だが、ここで諦めたらいけないと気合を入れる。私は美優の母親なのだ。まっすぐに彼女を見つめた。眼力だけで気持ちを伝えることができたなら、どれほど良かっただろう。そううまくいかないのが人間関係だ。
「他人が構ってこないでよ。あんたは言われたことだけやってればいいんだから。」
ふんと鼻息で返事をして背中を向ける美優。スリッパの音を鳴らしながら自室に戻っていく。私はかける言葉を完全に失ってしまった。
「他人」――はっきりと線を引かれた。絶望で目の前が真っ暗になる。それでも、私はすぐに関係を切り捨てる気にはなれなかった。美優自身が拒絶しようと、私たちは親子だ。反抗期の時期を過ぎれば落ち着くかもしれない。そう考えて、様子を見ることにした。今思えば、楽観的もいいところだ。
だが、状況は家庭の中だけにとどまらない。ある日、近所のスーパーで声をかけられた。美優と同じ学校に通う子の母親だった。
「ねえ、美織さん。美優ちゃんも大丈夫?無理しすぎてない?」
いきなりの問いに、意味が分からず聞き返す。
「どういうことですか?」
「えっと、その、うちの子が言ってたの。美優ちゃん、家でかなり厳しくされてるって。」
言いにくそうに言葉を選びながら話してくる。断片的な内容をつなぎ合わせると、こういうことだった。美優は学校で友達に「お母さんは家ではすごく厳しい。頑張ってるのに叱られて辛い」と話しているという。細かいことで怒り、自由を与えないひどい母親像を、生き生きと語っている。
「今初めて知った。私は目を見開いた。そんなことしていませんよ。絶対にするわけがありません。」
はっきり否定する。相手は曖昧に笑った。
「そうよね。美織さん、いつも優しいし、私もまさかとは思ったんだけど。」
「ええ。でも、まさか美優が学校でもそんなことを言ってるなんて。」
「学校でも、ってことは、家でもしかして。最近、反抗期なのか、私のことを『あんた』って呼んでくるんですよ。」
そう言うと、彼女は食いついた。
「そうなの?実はうちの子もそうなのよ。どこで覚えてきたのか、生意気に命令してくるの。」
「そうそう。『ジュース買ってきて』とか『お菓子買ってきて』とか。」
「嫌だわ。うちと一緒じゃない。うちの子なんかね、『代わりに宿題やって』とか言うのよ。」
おそらく彼女も話題に飢えていたのだろう。お互いの子供に関する共通のトピックを出すと、買い物中ということも忘れて話が弾んだ。しばし話し込んだ後、別れた。その場はそれで終わり、美優の振る舞いについて深く追求されることはなかった。
幸い、私にはこれまで築いてきた関係がある。PTA活動にも積極的に参加し、学校行事にも顔を出してきた。先生方とも必要な連携は取れている。だから、簡単に周囲の大人からの信頼が崩れることはなかった。美優の話を間に受けているのは、まだ判断力の未熟な子供が中心だった。
それでも、気分のいい話ではない。美優は家の中での不遜な態度にとどまらず、外でも根も葉もない話を広げている。理由が分からず、きっかけも思い当たらない。私は何度も考えた。どこで間違えて、距離が開いたのか。果たして、ただの反抗期で片付けてもいいものだろうか。答えは出ないまま、日常は進んでいく。
ある日、思い切って安弘に話を持ちかけた。美優は父親である彼には今まで通りの態度で接している。「お父さん」と甘えた声で呼び、体をすり寄せ、ニコニコと笑いかけていた。そのため、余計に私への態度の違いが際立っている。
「最近の美優なんだけど、どう思う?」
夕食後、リビングで安弘に切り出す。彼はスマートフォンに視線を落としたまま、ぴくりとも動かない。
「どうって?」
「あなたは気づいてないかもしれないけど、私への態度がおかしいの。普段の言い方もきついし、呼び方も……」
「ああ、そのうち戻るんじゃない?反抗期ってやつだろ。」
画面から目を離さずに答える彼。軽い口調だった。
「でも、話し合いもできない状態で……」
「今はそういう時期なんだって。こっちが構うと余計にこじれるから、放っておくのが一番。」
「放っておくって……」
「大丈夫だって。美織、気にしすぎ。」
安弘はごろりとソファーに寝転がった。視線はスマートフォンに釘付けで、一度も私を見ていない。会話はそこで終わった。それ以上話を広げる空気ではなかった。
私はふと気づく。安弘は最近、家でもスマートフォンを手放さなくなっていた。帰宅してから寝るまで、画面を眺めている時間が大半を占める。積極的に家事を手伝うことも減った。洗い物も掃除も、いつの間にか完全に私の担当になっている。美優のことも、全部押し付けないと約束したはずなのに。
今振り返れば、私は当時、家の中のバランスを必死に保とうとしていた。良き母親、良き妻として、どちらもきちんとこなせば、いずれ元に戻る。そんな考えにすがっていたのだ。けれど、私の努力は誰にも届いていなかった。
ある日のこと、珍しく美優の方から話しかけてきた。
「ねえ、そろそろスマートフォン買って。」
食卓でのことだった。今日もまた安弘は残業で帰りが遅い。
「急にどうしたの?」
「急じゃないし。クラスの子、もうほとんど持ってる。持ってないの、私くらい。」
「そうなんだ。でも、お母さんはちょっと早い気がするな。」
「は?」
短い一言に、明らかに機嫌を損ねたような色があった。
「もしどうしても欲しいなら、ルールを決めよう。使う時間とか、夜は預けるとか。そういうのを守れるなら、考える。」
「ルール?」
「うん。トラブルも多いし、危ないこともあるから。」
私が言い終わる前に、美優はぱんと箸を置いた。彼女はじろりとこちらを睨みつけてきた。
「何それ?意味わかんない。みんな自由に使ってるのになんで私だけ制限されるの?」
「制限じゃなくて、あなたを守るために必要なことだよ。」
「嘘つかないで。どうせ私を縛りつけたいだけでしょ。見張って、自分の思い通りにしたいんだ。」
鋭く返される。だが、私も一歩も引かず、真摯に訴える。
「そんなわけないでしょ。美優が知らないだけで、みんなスマートフォンを使う時のルールを家では決めてるはずだよ。」
「みんなって誰?じゃあ、連れてきてよ。そのルールを決めてる『みんな』とやら、今すぐに。」
「それを言うなら、私だって、あなたが言う『自由にスマートフォンを使ってるみんな』を連れてきてほしいんだけど。」
まるで子供同士の幼稚な言い合いだった。美優がちっ、と舌打ちをして、場の温度が一気に下がる。
「あんたは結局、私のことなんてどうでもいいんだよ。スマートフォンくらい持たせればいいのに。それもしない。私がクラスで仲間外れにされてもいいってことでしょ?」
「そんなこと言ってない。」
「言ってるのと同じ。」
お互いに声がどんどん大きくなる。ぎいっと美優の椅子が引かれる音が響いた。
「血も繋がってない子供だもんね。そりゃ、どうでもいいよね。」
その言葉は私の心にまっすぐ突き刺さった。何か言い返そうとしたが、口はぱくぱくと無意味に開閉するのみで、音が出てこない。美優はテーブルの上にあったティッシュボックスを掴み、こちらへ思い切り投げつけた。それは見事に私の腕に当たった。軽いものとはいえ、突然の美優の行動に体が固まる。続けて、テレビのリモコンが飛んできた。今度はしっかりとした重みがある。私はとっさに避ける。元々大きく狙いが外れていたリモコンは壁に当たって跳ね、床に落ちた。
「危ないでしょ。」
思わず怒鳴るような声が出た。
「知らない。」
吐き捨てて、美優は自分の部屋へ駆け込んだ。ドアが強く閉まる音が家中に響く。私はしばらくその場から動けなかった。倒れたティッシュボックスとリモコンを拾い上げる。手の動きは鈍かった。どうしてこんなことになってしまったのか。私は何か間違いを犯したのだろうか。問いは頭の中で繰り返されるが、答えは出ない。
その夜、帰宅した安弘に今日の出来事を話した。彼は美優の言動に少し目を見張ったものの、最終的には彼女を擁護する。
「スマートフォンくらい持たせてやればいいんじゃない?今の時代、持ってない方が浮くって。俺たちの頃と違うんだよ。」
「だからって、何も考えずに持たせるのは違うでしょ。」
「いやいや、それは美織の方が考えすぎなんだって。」
話をとど切り上げて、休みたい空気を醸し出す安弘。仕事で疲れているところに、それ以上突っ込むのは私も気が引けた。
その後、美優はしばらくスマートフォンのことを口にしなくなった。だが、約2週間後のとある休日、午後になって玄関の鍵が開く音がする。一緒に出かけていた安弘と美優が帰ってきたらしい。
「ただいま。」
声が明るい。リビングに入ってきた美優の手には、携帯ショップの紙袋が握られていた。胸の中に嫌な予感が広がる。
「それ、何?」
訪ねると、美優は得意げに紙袋を掲げた。
「スマートフォン。お父さんが買ってくれた。」
その言葉と同時に、中身の箱を取り出して見せてくる。新品のスマートフォン。私はあ然とした。買いに行ったことなど聞いていない。思わず、私は美優に続いてリビングに入ってきた安弘を睨んだ。
「なんで勝手に買っちゃうの?私に一言も相談もなしに。」
「相談なら、美優がしただろ。でも、お前は聞かなかった。だから、俺が買っただけだよ。いいだろ。料金は俺が払うし。」
「そういう問題じゃない。」
問い詰める声が大きくなってしまう。相談はちゃんと聞いたし、私は条件を提示して「考える」と答えたのだ。だが、美優はそれが気に入らず、頭から拒否されたと感じた。その後、自分の願望を通すために彼女がどういう行動に出るか、もっと考えるべきだったと後悔する。
「うるさいな。ルールが気になるなら、後から決めればいいだろう。」
「じゃあ、あなたもちゃんと協力してよ。」
「なんで俺が。そんな娘を見張るみたいな真似、したくない。信用してないみたいだろ。」
安弘と話している間に、美優はスマートフォンを握って自室にこもってしまった。早々にメッセージアプリを入れ、クラスの子たちと連絡を取り始めたようだ。楽しそうなおしゃべりの声が、扉の向こうから漏れ聞こえてくる。
その日から、美優はスマートフォンを手放せなくなった。食事中も片手で画面を操作する。声をかけても反応が遅い。
「ちょっと美優、ご飯はやめよう。」
「すぐに返事しないとダメだから。あんたには分からないと思うけど。」
注意すると、不機嫌な態度を見せる。やがて、部屋にこもる時間も増えた。学校から帰ってきた後や休日は、丸1日ドアを締め切り、外に出てこない。気になって部屋の扉の前に立つと、時折り話し声が漏れてくる。電話か通話アプリなのかは不明だ。楽しそうに笑っている時もあれば、強い口調で話している時もある。相手が誰で、内容が何なのか分からないまま、時間が過ぎていく。
「美優、誰と話してるの?」
ドア越しに声をかける。
「あんたには関係ないでしょ。」
「危ないことしてないか確認したい。一度、スマートフォンを私に貸して。」
「してないし。いちいちうざい。」
もはや会話にもなっていない。私が構うほど、美優は強い拒絶を示した。何度も同じやり取りを繰り返し、その度に親子の溝は深くなっていく。私の中で心配は増す一方だった。無理やり手を出し、制限するべきだろうか。悩みはつきなかった。安弘は何も言わず、見て見ぬふりをしている。味方もいない状況で、私はどうすればいいのか分からなくなっていた。
美優が小学6年生に上がった頃、彼女は突然、中学受験をすると言い出した。困惑する私に向かって突き出してきたのは、国内有数のお嬢様学校のパンフレット。中高一貫で、家柄も確かで、頭のいい子ばかりが通っているイメージだ。
「この学校、制服がとにかく可愛いんだよね。だから、受験する。」
私はパンフレットをぱらぱらとめくり、目を通した。この学校には特進や普通などの成績ごとのクラスわけがある。特進からは国立大学の合格者を毎年何十人と排出しているようだ。だが、普通クラスだからと言って、勉強が簡単なわけではない。パンフレットの最後の方には、去年の入試問題のコピーが挟まっていた。高校生レベルの問題で、私も正直すぐには解けない。このレベルの学校の受験は、何年も前からしっかり勉強して、面接のイメージも掴み、万全な準備をして臨むものだ。
美優の成績は中の下。宿題はいつも答えを写して終わりにしているし、テスト前の予習復習も好まない。率直に言って、とても受験を突破できるとは思えず、私は黙り込んでしまった。美優からしたら、受験がゴールなのだろう。入学した後にやりたいことを晴れ晴れと語っている。私は口を挟まなかった。この頃、美優の暴言や暴力は悪化していた。下手なことを言って、また手を上げられてはたまらない。私はもうすっかり彼女との対話を諦めていた。
数ヶ月後、夏休みも終わりかけで、飽きることなく日差しが降り注ぐ、とても暑い日だった。
「あんた、これ、今すぐ出してきて。」
そう言って、彼女は封筒を押し付けてきた。
「何これ?」
「受験の願書。今日締め切りなの。当日消印有効ってやつだから。ていうか、なんであんたが準備しておかないのよ。」
「私には関係ないからだ。受験の話なら、美優と安弘との間で進めていると思っていた。」
うっかりを口に出しまいそうになる。美優は私の腕をぺちんと平手で叩く。爪が当たって、少し皮膚が避けた。彼女に背中を押されるまま、私は炎天下の中、自転車をこぎ出す。とりあえず、郵便局の窓口に直接出せばいいだろうか。そんなことを考えながら自転車を漕いでいると、ふと通りかかった公園で気になる人影を見つけた。ベンチに座り込み、ぐったりとうなだれている和服の女性。
私は思わず公園の前に自転車を止め、声をかけに行った。
「あの、大丈夫ですか?」
「あ、うん。ちょっと気分が悪くなってしまって。」
顔を上げた老女は青ざめていた。汗もほとんどかいていないように見える。熱中症だろうか。私はすぐ近くの自販機で水とスポーツドリンクを買い、彼女に手渡す。ハンカチも濡らして冷やし、首元や手のひらを冷やすように促した。
「ああ、ありがとうね。」
彼女は知恵と名乗った。公園前のバス停でバスを待っている間に気分が悪くなり、ここで休憩していたのだという。確かにバス停には屋根がない。このベンチはちょうど木陰になっている。迎えは呼んだから大丈夫と、知恵さんは微笑む。
「あら、あなた、怪我をなさっているの?」
彼女が示す指の先には、出かけに美優につけられた腕の傷があった。そこで私は思い出した。自転車のかごに入っている願書を提出してこなければ。だが、知恵さんを放っておいて良いものか。迎えが来るまで、付き添っていた方がいいのだろうか。腰を上げるのを迷っていると、それを察したのか、彼女の方から「どうぞ、行ってちょうだい」と言われた。
「この恩は忘れないわ。」
上品な笑みを浮かべ、知恵さんは私を見送ってくれた。
私は自転車にまたがり、郵便局に向かって勢いよく出発する。10分ほど来ただろうか。郵便局前の赤いポストが視界に入り、ほっと息を吐く。全身汗でびしょびしょだ。家に帰ったら、まずシャワーを浴びたい。だが、その願いは叶わなかった。郵便局の駐輪場に入ろうとした時、運転操作を間違えたトラックが私に向かって突っ込んできたのだ。勢いよく追突され、全身に衝撃が襲う。
唯一幸いだったのは、あまりのショックで一瞬気を失ったこと。次に目覚めた時、私は病院のベッドの上だった。全身しっかりと固定されていて、動かせない。数分後、私の覚醒に気づいた医師と看護師がやってくる。軽い検査の後に、現状について説明してくれた。私の体で一番大きな怪我は両足の骨折で、しばらく車椅子が必要らしい。元通り歩けるようになるかは、リハビリ次第だと告げられる。
医師はベッドの横の棚に置かれた、血濡れの封筒と割れたスマートフォンと財布を指さした。
「ご家族には連絡を取ったのですが、今日まで一度もいらしてません。」
申し訳なさそうに言われる。それと同時に、私は自分が1週間以上昏睡状態だったことを知った。
翌日、看護師が小さな手紙を持って私の元にやってきた。
「この手紙、受付で大村さんの娘さんを名乗る方に渡されました。美優さんと言っていましたが、会ってますか?」
「そうですね。美優は私の娘です。すみません、読み上げてもらえますか?」
彼女は手紙を開いた。内容としては、こんな感じである。
「願書の締め切りはもっと先でした。宛先の住所もでたらめだよ。騙されちゃって、まぬけ。しかも事故に合うとか。もしかして天罰ってやつ?全身ぐちゃぐちゃって聞いたよ。いい気味。」
もしも今、私の手が動くなら、嘆きながら顔を覆っていたところだ。なんて頭の悪い内容なのだろう。こんな手紙をわざわざ読ませてしまって、看護師にも申し訳ない。
「あら、写真も入ってますね。」
「やっ!」
悲鳴を上げた彼女の手から写真が滑り落ちた。ひらひらと舞い、私のベッドの上にやってくる。わずかに首と眼球を動かし、確認した。それは、美優が「もこちゃん」と呼んでいた熊のぬいぐるみの写真だった。裂かれ、腹を開かれ、中の綿が飛び出している。「今のあんたって、こんな感じ」という手書きのメッセージ付きだ。これには看護師が怯えるのも無理はない。可愛らしいぬいぐるみの姿としては、かなりグロテスクだ。私も目の前が真っ暗になって、ふっと意識を失ってしまった。やはり、もう私が出会った頃の美優はどこにもいない。そう思い知らされたからだろう。
数日後、看護師は今度は安弘からの手紙を預かったらしい。大きな封筒の中身は、離婚届だった。
「お前が浮気していることは分かってる。事故にまであって、そんな体じゃ、もう何の役にも立たないだろう。離婚してくれ。」
安弘の一方的な言葉が添えられていた。書かれていたのは、チラシの裏である。私は吐き気を催したが、固形物を取っていないため、胃液しか出てこない。目の前でまた看護師が慌てている。情けなくて、申し訳なくてたまらなかった。
全部忘れて、消えてしまいたい。そう強く願ったことを覚えている。
だって、私が5年も前のことをこうも長く回想していたのには理由がある。突然、美優から電話がかかってきたのだ。私は家で仕事中だった。うっかり画面を見ずに電話に出てしまったのが、いけなかったのだろう。
「修学旅行の費用、まだ?明日までに50万円払わないと、沖縄に行けなくなっちゃうんだよ。」
最初、何を言われているのかまったく分からなかった。数秒間黙っていると、電話の向こうから鋭い舌打ちの音が耳に届く。
「あの、どちら様ですか?」
「は?何言ってんの?ごまかそうったって、そうはいかないんだから。」
「いや、本当に……」
私はまたを繰り返した。よく聞くと、苛立ったその声に覚えがあるような気がする。また瞬時に、脳内で回想が始まった。かつての結婚、幸せだった家族時代、そしてあっけない崩壊。忘れかけていた全ての過去が駆け巡る。
「えっと、まさか本当に美優なの?」
「だからそう言ってんじゃん。何?事故で頭もおかしくなっちゃったの?とにかく今すぐお金振り込んでよ。可愛い娘が修学旅行に行けなくて恥をかいてもいいわけ?」
「可愛い娘」。うぬぼれきった自称に、私の頭はすっと冷えた。
「離婚したから、払う義務はない。」
気づけば、私はそう答えていた。
「は?何それ?なんでそんなこと言うの?」
「事実だから。ていうか、どうして今更私に電話をかけてきたの?あなた、私の番号を知ってたっけ?」
「これ、お父さんのスマホだよ。こっそり見たら、あんたの今の電話番号があったから。」
確かに、今の番号を安弘に知らせていた記憶はある。だが、教えたきり、一度もかかってこなかった。私の方も、安弘からの直接の電話に出るかと尋ねられたら、答えは「今」だろう。美優がまさかそれを見つけるとは、予想外だった。
「あのさ、私、知ってるんだよ。離婚しても、籍がなくても、親には養育の義務っていうのがあるんでしょ。だから、養育費を払わなくちゃいけないの。」
「よく知ってるのね。」
半ば本気で感心した。馬鹿にされたと思ったのか、美優はさらに息を荒くして続ける。
「あんた、本当に浮気までしてたくせに。お父さんへの慰謝料も、私への養育費の支払いも、全部すっぽかして逃げたんでしょ。本当に信じられない。」
「はい。それこそ何の話?」
私はぽかんと目を丸くした。
「いい加減にしてよ。少しくらいの義務は果たして。ずっと母親だけはしてたくせに、お金のことから逃げるんだ。いじ汚い。」
叫び続ける美優。喉が痛くならないのだろうか。明後日の方向に心配してしまう。同時に、私は頭の中で状況を整理し始めていた。彼女の言うことは、私の認識とは大きく異なっている。私はふーっと息を吐いた。
「私、あなたの養育費は、離婚した時に一括で安弘に渡してるんだけど。」
「は?どういうこと?」
「それで、たった5年だけど、あなたの親としての責任は全部果たしたつもり。今更あれこれ言われて困惑してるのは、こっちよ。」
美優が絶句している気配がある。おそらく、私の推測は当たっているはず。安弘は彼女に嘘を伝えているのだ。
私の意識は、再び過去へと引き戻される。病院の白い天井を見上げていたあの頃へ。目を開けるたびに同じ光景が広がっていた。消毒液の匂いで満ち、機械の規則的な音が響く小さな部屋に、私はいる。体を縛る固定具の圧迫感が苦しい。
事故から目覚めて1週間。私はまだ車椅子でしか移動できなかった。両足の感覚は鈍く、力も入らず、思うように動けないことに苛立ちが募る。しばらくは看護師の手を借りながら、日常動作を取り戻していった。
安弘と美優が訪ねてこなくても、生活面で困ることがなかったのは、兄弟たちが支えてくれたからだ。5人兄弟のちょうど真ん中。兄弟と姉妹に挟まれた私。連絡を受けたみんなは、荷物を持って代わる代わる訪ねてきてくれた。「これ必要だろ」「洗剤持ってきたよ」「暇だろから、おすすめの本も置いてく」など、必要なものを逐一揃えてくれる。全員、安弘と美優の所行に驚き、顔色を変えていた。「絶対に許せない」と怒りがそのまま言葉になるところは、みんなそっくりだ。私はそれを否定も肯定もせず、ただ聞いている。自分のことなのに、現実味がなかった。
何もすることがない時、私は病院の中庭へ出るようになった。看護師に車椅子を操作してもらい、外の新鮮な空気を全身に浴びる。いつも付き添ってくれる看護師の彼女は、私が気分転換をしたいことも分かっているので、「20分後に迎えに来ますね」と言って仕事に戻っていった。念のため、私の手に冷たいペットボトルを握らせるのも忘れない。
木陰のベンチの前で、私はぼんやりと空を見上げた。そよ風が吹き、髪が揺れる。夏も終わりかけの空気が頬に触れた。それだけで、少しだけ気分が楽になる。
私はふと、膝の上に置いていた封筒に視線を落とした。安弘が一方的に預けていったものだ。封筒を開き、中身を取り出す。そこには、離婚届の他に写真が1枚入っていたのだ。夜の街中で、自分と見知らぬ男性が腕を組み、親しげに歩いている写真。全く記憶にない場面である。つまり、捏造されたもの。これを根拠に、安弘は私を責めた。説明する間も与えず、「離婚してくれ」と結論だけを押し付けてきた。
添えられたメッセージが耳の奥でこだまする。彼の文章のせいで、なんだか頭が痛くなってきた。安弘と美優にここまで拒絶されて、黙って終わるのか。そんな問いが浮かぶ。確かに、2人に対して私は完全に愛想が尽きていた。だが、今までの時間を全て無意味だと判断するには、ためらいがある。築いてきたものは、そんな簡単に捨てられるものだったのか。胸がざわついて、思考がまとまらない。
その時だった。
「あら、お嬢さん。もしかして、あの時の……」
落ち着いた声が耳に届く。顔を上げると、見覚えのある女性が立っていた。和服の佇まいで、無駄のない所作の美しい人。あの日、公園で出会った老女だ。
「知恵さん、覚えていてくれたのね。こんにちは。」
「美織さん。こんにちは。」
彼女は私の車椅子姿を見て、目を細めた。今日は定期検診で訪れたのだと教えてくれる。そこでふと、私は知恵さんの後ろに立つ1人の男性に視線を向けた。背が高く、薄手のジャケットを羽織り、スマートな印象だ。
「あら、この子は孫の慧士よ。今日は付き添いで来てくれたの。この前、私、軽い熱中症になっていたみたいで、帰ってから随分心配されちゃって。」
「当然です。おばあ様、ご自分の年齢を考えてください。ニュースでは毎日のように熱中症で救急搬送される老人が報道されてるじゃありませんか。」
「嫌だわ。もう、あの時はたまたまよ。前の日の夜遅くまで本を読んで、寝不足だったの。これからは気をつけるって言ったじゃないの。」
気楽な家族のやり取りが、目の前で展開される。慧士は敬語で知恵さんに対して話しかけていたが、丁寧な口調が全く嫌味に聞こえない。2人の間には、親しみに溢れた雰囲気があった。
「それで、おばあ様。もしかして、この方が……」
慧士の視線が私に向けられた。思わず少し緊張する。
「え、あの時助けてもらった、私の命の恩人のお嬢さんよ。まさか、こんなところで再会できるなんてね。」
「お嬢さんなんて、私、もうそんな年じゃないですよ。」
「あら、私より年下なら、みんな可愛らしいお嬢さんだわ。」
ふふっと微笑む知恵さんの表情は、まるで10代の少女のようだった。私たちのやり取りを見守っていた慧士は、ぺこりと頭を下げる。
「先日は祖母を助けていただいて、ありがとうございます。孫の高道慧士です。」
「いえ、当然のことをしたまでです。私は大林美織と言います。」
挨拶をし合うと、空気が少し和んだ。
「それで、美織さんは、今どういう状況なの?ひどく大怪我のようだけど、それに、顔も何か悩んでいるご様子ね。」
「あ、実は……」
一瞬、他人の2人に家庭内の問題を打ち明けていいものか悩んだ。だが、2人のまなざしには確かな気遣いが宿っている。安弘と美優からは、しばらく感じたことはなかった。この人たちなら、きっと大丈夫。私は心の中で自分に言い聞かせた。
「あの、これは私の身の上話になっちゃうんですけど……」
安弘との結婚、新しい家族の始まりから、夫と娘との不和、そして事故に遭い重症。家庭崩壊の危機であることまで、喋ってしまう。途中で言葉が詰まる場面もあったが、2人は黙って最後まで聞いてくれた。
「それ、かなり最低では。」
慧士が一言、冷静に言ってくれたので、私も多少気分がすっとした。
「証拠もないのに決めつけて、大怪我した相手に一方的に離婚届って。筋が通っていないわね。それに、娘さんの言動も、おかしいわ。血のつながらない子供を育てるって、本当にすごいことなのよ。」
2人とも、一言一言にしっかりとした重みがある。私は手元の封筒に視線を落とした。
「ここまでされたんです。向こうが言っていることを全部受け入れて、もう関わらない方がいいのかもしれません。でも、逃げたくないんですね。」
じっとこちらを見つめてくる慧士。
「美織さんが何も言わなければ、向こうの嘘がそのまま真実になりますよ。」
その通りだった。私はあまり力の入らない手を、ぎゅっと握りしめようとする。指先がわずかに曲がり、拳を掴むような形になった。自分の体が今まで通りに扱えないのは、明らかに不利だ。こんな状況の自分に、一体何ができるというのか。
「美織さん。あなたがご家族と戦う気があるなら、手を貸すわ。」
「戦う」。与えられた選択肢に、思わず息をのむ。確かに、ここまでやられて、やり返さない方が不自然だ。私は1人ではない。頼もしい兄弟たちに加え、今、目の前にも2人も味方がいる。馬鹿にされたままでは終われはしない。私はすっと息を吸い込んで、顔を上げた。
「私、やります。終わらせるなら、自分の手で。」
しっかりとつぶやきながら、拳を立てる。知恵さんは満足げに頷いた。
「いい顔になったわね。その意気よ。」
直後に看護師がやってきて、私は病室に戻された。別れ際、慧士と知恵さんはそっくりな顔で手を振ってくれた。
翌日、病室のドアがノックされる。
「失礼いたします。知恵様のご紹介で参りました。弁護士の九内と申します。美織さんのご事情は、伺っております。」
入ってきたのはスーツ姿の男性だった。きっちりと背筋を伸ばした挨拶の後、名刺を手渡される。なんだか随分と大きな流れに乗ってしまった気がする。だが、もう止まらない。私は気合を入れた。
「よろしくお願いします。」
「では、まず事実関係を整理しましょう。」
ベッドに備え付けのテーブルの上に、書類が並べられる。ここから私の戦いが始まるのだ。
数日後、私は本格的にリハビリを開始した。最初は立つことすら難しかった。平行棒にしがみつき、看護師に支えられながら、一歩踏み出す。足に体重をかけるたび、鈍い痛みが走る。思うように動かない体に、何度も歯を食い縛った。それでも、前に進むしかない。元に戻るために必要な過程です。理学療法士の言葉は淡々としていたが、的確だった。これくらいきっぱり言ってくれた方がいい。私は無言で頷き、もう一歩を踏み出す。汗が背中を伝い、息が荒くなる。でも、どんなに大変でも、今はやるのだ。
リハビリの合間、ベンチに腰を下ろして休んでいると、見慣れた姿が視界に入る。慧士だった。
「お疲れ様です、美織さん。」
「こんにちは。今日も付き添いですか?」
「ええ。祖母はもう1人でも大丈夫って言うんですけど、心配で。」
軽く肩をすくめる仕草に、自然と頬が緩む。
「順調ですか?」
「どうだろう?でも、看護師さんも理学療法士の先生も、みんな協力してくれるし、怠けてはいられません。」
慧士はたまにこうして私の様子を見に来てくれた。知恵さんに何か言われていたのかもしれない。
「リハビリでも何でも、計画立ててやるのって大切ですよね。私、編み物が趣味なんですけど、大きな作品では最初にいつもスケジュールを立てるんです。どれくらいで完成させられるかなって。」
「へえ、編み物、器用なんですね。俺、不器用な方なので、羨ましいです。どんなものを作るんですか?」
「編みぐるみです。でも、一番得意なのはビーズを使ったアクセサリーですね。最近はあまり作れていないんですけど。」
「すごいですね。祖母は刺繍が得意なんですけど、俺にその血は受け継がれなかったみたいで。あと、計画を組むのが大事っていうのは、完全に同意です。」
彼と話す時間は、不思議と心が落ち着いた。無理に励ますことも、同情することもない。ただ事実を受け止め、必要な言葉だけを返してくる。安らぐひと時を過ごすと、気持ちも整う。
事故から1ヶ月。体も心も、少しずつ前を向き始めていた。そして、とうとうその日が来た。病室のドアの向こうから、重たい足音が響いてくる。遠慮も配慮もない歩き方。次の瞬間、ドアが乱暴に開かれた。
「おい、お前、まだ離婚届、出してないのかよ。」
怒鳴り声が室内に響く。安弘だった。
「会社も勝手にやめやがって。そのせいで、わざわざ病院まで来るはめになったじゃないか。」
突然の登場だったが、私はあまり驚かなかった。むしろ、来るべきものが来たという感覚に近い。ベッドの横には九内弁護士が座っている。ちょうど打ち合わせの最中だったので。私は軽く視線を送り、彼と目くばせをかわした。準備はできている。
「あなた、随分と元気そうね。私はゆったりと背もたれに体を預けた。焦りは見せない。今の私が役所に行けるように見える?余裕たっぷりに、わざと軽く笑って見せる。会社をやめたことだって、どうしてあなたに話さなくちゃいけないの?あなたはもう、私のことなんて興味もないと思っていたわ。」
「お前、何を生意気な。」
「部長も同僚のみんなも、私がやめると伝えたら、必死に引き止めてくれたわ。とても嬉しかったのだけど。あなた、もしかして、会社で何か言われた?」
安弘は一瞬、言葉に詰まる。私たちはいわば職場恋愛だった。周囲はみんな、結婚に至るまでの経緯を知っている。事故にあった妻を放置して離婚を突きつけたということが広まれば、居心地の悪い思いをするのは彼の方だ。
「九内さん、連絡しておきました。」
そこで初めて、安弘は室内にもう1人いることに気づいた様子だった。
「え、誰だよ、こいつ。」
「私、弁護士の九内と申します。」
静かに名乗りながら、スマートフォンをしまう九内弁護士。
「べ、弁護士?」
安弘は眉をひそめた。今の私に、そんな専門職を頼る余裕があるとは思わなかったのだろう。私はベッド横の棚に手を伸ばし、あらかじめ用意しておいた書類を取り出す。その上に、ぽんと彼が突きつけてきた離婚届を重ねた。
「ちょうどいいわ。話し合いをしましょうか。」
「は?何の話だよ。」
「決まってるでしょ?私たちの今後について。あなたも、そのつもりで来たんじゃないの?」
まず、安弘が同封してきた写真を取り出し、彼の前に差し出した。
「この写真、捏造でしょ?私は浮気なんてしてないもの。」
「はあ?何言ってんだ?お前は浮気してるんだろ?だって、こんな写真を撮って俺に教えてくれたのは、美優なんだぞ。娘の言うことを疑うのか?」
即座に、私の予想通りの反応が返ってくる。なんだ、やっぱりね。そんなことだろうと思った。
「なんだよ、その言い方。」
「あなたこそ、親のくせに、娘が起こした問題についてどうして把握していないの?」
「何の話だよ。」
嫌そうにこちらを睨みつけてくる安弘。怖くも何ともない。私は淡々と話し始めた。
「5年生の終わり頃だったかな。美優のクラスの担任から連絡があったの。AIで画像加工して、クラスメイトの写真を悪用してばらまいた、いたずらをしたって。」
ぽかんと目を見開く安弘。事件の起こりは、学校でのパソコンの授業だったらしい。授業のテーマは「AIを活用しよう」というもの。美優はそれで初めてAIを使った画像加工に触れた。彼女にとっては、新しいおもちゃを手に入れた程度の感覚だったのだろう。我が家には家族共有のパソコンが1台あった。リビングの目のつく場所に設置してあるが、隠れて操作をしようと思えばできてしまう。美優は学校にスマートフォンを持ち込み、クラスメイトの写真をこっそり何枚も撮って、家のパソコンに取り込んだ。それをAIで面白おかしく加工して、学校のあちこちに貼り付けたのだという。かなり悪質な遊び。いや、犯罪だ。担任教師から知らされた私は青ざめた。全く把握していなかった。
即座に美優を問い詰めたものの、反省の色は皆無である。
「別に、ただの遊びじゃん。友達にも文句言われたし、もう飽きたからやらない。」
私はクラスメイトの親御さんたちに謝罪に回った。すると、「美優ちゃん、かなり問題みたいで大変ですね」と、逆に気遣われてしまった。念のため、私は家のパソコンのパスワードを変更しておく。その後、美優がパソコンに近づく気配はなかったため、油断していた。捏造写真は、もしかしたらスマートフォンで作ったものかもしれない。安弘に渡したのは、単なる嫌がらせか。すんなりと鵜呑みにされて、彼女も内心驚いたことだろう。
「あの子、その件が原因で、今は周りから距離を置かれてるみたい。急に中学受験を言い出したのも、それが関係しているのかもね。」
「そ、そんなの聞いてない。」
「私はちゃんとあなたに話したつもりだけど。」
視線をまっすぐ彼に向ける。
「ただ、あなたはその時もスマートフォンに夢中だったから、耳に入ってなかったんでしょうね。」
安弘は黙り込んだ。図星だろう。
「家のパソコンか、美優さんのスマートフォンを調べたら、作業履歴を消すなんて、そんな面倒なこと、あの子はしないはずだから。技術的な検証も可能です。必要であれば、こちらで手配します。」
横から九内弁護士の補足が入った。
「俺は騙されたんだ。」
言い訳を探すように、彼は美優のせいにし始めた。
「お前が浮気してるって思ったら、目の前が真っ暗になってもう離婚だって、それ以外考えられなくなったんだよ。だから……」
「だから、全部、こんな写真を捏造した美優のせいで、鵜呑みにした自分は悪くないって?」
私はねちねちと安弘を詰めていく。
「じゃあ、聞くけど。どうしてまず私に確認しなかったの?一度も話を聞こうとしなかったのも、おかしいよね。」
「そ、それは……」
「答えは簡単。最初から私を疑う方が、都合が良かったから。」
静かに言い切る。その一言で、安弘の顔がぐにゃりと歪む。
「だって、浮気してるの、あなたの方だよね。」
「は?」
空気が完全に硬直した。
私が彼の浮気を知ったのは、事故に遭うより約1ヶ月ほど前のこと。仕事中、同僚が「ちょっといい?」と話しかけてきたのだ。
「これ、大林君だよね。」
彼女が見せてきたスマートフォンの画面には、安弘と女性のツーショットがあった。親しげに手をつなぎ、笑い合う2人の写真である。女性の方は若く、20代半ばほどに見えた。写真は複数枚あり、同僚は全て見せてくれる。カフェで大きなパフェを食べている場面、深夜やデパートのコスメ売り場で女性にコスメを買ってあげている場面など。
「この前の休みに見かけたの。最初は親戚のことかなって思ったんだけど、なんか明らかにデートっぽくて、後ろつけちゃった。」
彼女は心配そうな顔を私に向けてきた。このように若い女性の親しい親戚がいるとは、聞いたこともない。浮気。たった2文字の単語が、私の脳内に浮かぶ。怒りや悲しみは湧かず、なぜか自然に受け入れてしまっていた。家の中で全くスマートフォンを手放さない安弘。確かに最近は、休日になるとどこに行くかも告げずに、早朝から出かけることが増えていた。こんな女性とのデートのためだというのなら、合点が行く。
「教えてくれて、ありがとう。」
私はなんとか笑顔を作って、同僚にお礼を言った。同僚は、痛ましいものを見るような表情になる。
「この写真、美織にも送っておくね。何か助けになれることがあったら、いつでも言って。」
「うん。」
思えば、すでに安弘への愛想は尽きていたのだろう。だが、私はいっぱいいっぱいだった。家庭内の問題が多すぎる。全てを解決するには、時間が足りない。結局、安弘の浮気は、後回しに追いやられていった。思い出したのは、彼に離婚届を突きつけられてからだ。唐突な離婚宣言の理由として、浮気相手の存在は妥当な気がする。
私は九内弁護士を通じて、調査会社に依頼をしてもらった。結果は真っ黒。安弘の浮気は決定的なものとなり、私は病院のベッドの上で、九内弁護士が持ってきてくれた調査報告書に目を通していた。ふと、調査の過程で撮られた写真を見て、違和感を覚えた。浮気相手の女性は、どの場面でもとても幸せそうな表情をしている。不倫の当事者である罪悪感や、妻たる私に対する後ろめたさなどは、微塵も感じられない。もちろん、そういった感情を持たない人間がいることも把握している。だが、何かが引っかかった。女の勘というやつだろうか。
頭を悩ませる私を見て、九内弁護士は意図を組み取ってくれた。
「この女性のことも、もっと詳しく調べてもらいましょうか?」
「お願いします。」
その結果、明らかになったのは衝撃の事実だった。
「あなた、浮気相手に対して、独身だって偽ってたんでしょ。『いつか結婚しようね』って餌をちらつかせて、長い間キープしてた。」
ずばり追求すると、安弘はざっと顔を青ざめさせる。図星のようだ。ただの浮気より、よほど悪い。被害者は私と浮気相手の2人になってしまうのだから。
その時、ふいに病室の扉が開いた。飛び込んできたのは、1人の女性。
「ふな。なんで君がここに?」
驚愕に目を見開く安弘。彼女の名前は長嶋凛。24歳。今まさに話していた、彼の浮気相手である。先ほど、九内弁護士に呼び出しておいてもらったのだ。
「なんでって、私たち、あなたの件について話し合って、とっても仲良くなったのよ。」
凛に向かって笑いかける私。彼女もまた、にっこりと笑みを作って、私と安弘を交互に見る。実は、私たちはすでに接触を果たしていたのだ。
1週間ほど前、九内弁護士に呼び出してもらった凛は、どうして自分がこんな状況になっているのか全く分からず、怯えていた。ベッドの上の私を見て、眉を下げ、「大丈夫ですか」と気遣ってくれた彼女。優しい人だと直感した。なので、余計に騙している安弘に対する怒りが湧いた。
私と凛は、九内弁護士を挟んで、お互いの身の上を話し合う。自分が浮気の加害者だということを知った彼女は、驚愕し、がくがくと震えていた。ふらつきながら膝を床につき、深く深く頭を下げる。土下座だった。
「私、そんなつもりじゃなくて。安弘さんとは、マッチングアプリで出会ったんです。既婚者だなんて、知らなかった。本当なんです。信じてください。」
「ええ、信じるわ。とりあえず、落ち着いて。」
悲壮な表情をする凛を慰める。彼女の気持ちが落ち着いた頃、私たちは作戦会議をした。そこで1つ約束したのだ。もし安弘が私の元に乗り込んできたら、呼び出しに応じてもらうこと。凛は早々に「安弘を許せない」という感情を固め、私は心強い味方を1人得た。
静かに目の前の光景を観察する。病室には、私、九内弁護士、安弘、凛が集合していた。今、安弘は孤立無援だ。
「俺は美織を追い詰める側だ」と根拠のない自信で行動していた彼。若い浮気相手に熱を上げ、遊び、まるで世界全てが自分の思うがままのような顔だったのだろう。だが、現状、立場は逆転している。彼は気づかなかっただけで、元々誰よりも下のポジションにいたのだ。
「こんにちは、安弘さん。なかなか離婚届を提出してくれないから、私、自分に何か落ち度があったのかなって、ずっと悩んでたんですよ。」
一歩、安弘に向かって踏み出す凛。
「えっと、それは、まさかご結婚されていたなんて、私、知りませんでした。どうして黙っていたんですか?」
わざと明るい身振り手ぶりをして近づく彼女に、本能的な危機感を覚えたのか。安弘はじりじりと後退し始める。
「それは、俺が既婚者だって知ったら、そもそも付き合ってくれなかっただろう。」
「当たり前ですよ。だって、それ、ただの浮気ですよね。なんだ、やっちゃダメなことだって自覚はあるんだ。それなのに、私を巻き込んだんですか?」
「巻き込むって、凛ちゃんだって、俺のことを愛してるって言ってくれてたじゃないか。」
「だから何ですか?騙された方が悪いとでも?確かに、すっかり騙されちゃいましたね。私、あなたの言葉を信じて、赤ちゃんまで下ろしたのに。」
私は顔をしかめた。2人の間にあったことは、一応凛から聞いている。凛は去年、中絶していた。理由は、安弘が言ったから。彼のことだから、当時は凛をうまく言いくるめたのだろう。「結婚なんて、親御さんに申し訳ない」「俺はまだ凛ちゃんとの2人きりの時間を楽しみたい」など、適当な口振りで彼女を誘導した。ゲスの極みとは、彼のことを言うのかもしれない。
「お、俺のことを愛しているなら、俺の言うことを聞いて当然だろう。なんで黙って待てなかった?こんな病室まで乗り込んできて。」
安弘と凛の距離は、とうとう拳1個分まで近づいていた。叫ぶ彼に対し、彼女は笑顔のまま、ぐいっとその胸ぐらを掴む。
「へえ。愛してましたとも。絶対にあなたと結婚したいって思ってました。でも、夢って冷めるものですから。」
か細い悲鳴が漏れる。安弘は凛の手を振り払おうとした。ぶんぶんと拳が空を切る音が響く。興奮状態だ。凛の怒りが、彼にもしっかりと伝わっているのだろう。
ふいに、安弘の拳が彼女の顔に当たった。私と九内弁護士は、思わず揃って「あっ」と声を出してしまう。凛の頬にめり込む拳。安弘は、して、とっさに腕を大きく上に振り上げた。結構な力がこもっていたのか。たらりと一筋、鼻血を垂らす凛。
「は、ごめん。」
安弘は謝罪しようとする。一方、凛は親指で鼻血を拭い、にっこりと笑った。
「先に手を出しましたね。」
次の瞬間、彼女の張り手が安弘の左頬に炸裂した。ぱちんと鋭い音で叩きつけられる。続いて、手首を返して右頬にもビンタをお見舞いする凛。私と九内弁護士は、呆気に取られた。
「いや、口、閉じてた方がいいですよ。舌を噛んでしまいますから。」
惚れ惚れするほど見事な往復ビンタである。時間にしたら30秒ほどの出来事だ。
「凛さん、その辺で。」
「あ、そうですね。障害とかになっちゃうかもですし。」
九内弁護士がさりげなく止めに入ると、彼女はぱっと掴んでいた胸ぐらを離した。べしりと床に崩れ落ちる安弘。無様だ。意識は保っている様子だが、両頬はくっきりと真っ赤に染まっている。恐れおののくような視線を、凛に対して向けていた。
「安弘さんに言ったこと、ありましたっけ?私、6人姉妹の4番目なんです。姉妹同士の喧嘩で鍛えたビンタのお味でしたか?」
彼女の手もまた赤くなっていたが、ダメージは少なそうだ。立ち姿は、勝ち戦の勇士のようで、はっきり言って美しい。私は冷蔵庫の中の保冷剤と、棚の上のティッシュボックスを凛に渡した。彼女は軽く礼を言い、ティッシュをちぎって鼻に詰め、手のひらを保冷剤で冷やす。
「私、もうあなたとは終わります。そして、貞操権侵害の慰謝料を請求しますね。」
「は?権、なんだよ、それ。」
「私が提案いたしました。状況的に、間違いなく通るでしょう。」
脇からすっと口を挟む九内弁護士。
「凛さんとのメッセージでのやり取りなどを確認しました。あなた、メッセージ上で自分は独身だと何度か宣言していますよね。そもそも、マッチングアプリでも独身と偽って登録している。十分でしょ。」
「な、何を言ってるんだ?違う。俺たちは、俺と凛ちゃんは愛し合ってるんだから。そんなの……」
「愛は全てを救う」?まさか、ここまで来てそんな妄言を吐くつもりなのかと、私は呆れた。凛に至っては、はっきりと大きなため息をつく。
「あなたは結婚しているどころか、お子さんがいることも私に隠していましたよね。普段は美織さんにお子さんを任せて、自分は遊び歩いていたとか、本当に信じられません。」
「遊びじゃない。俺が付き合ってるのは、君だけだ。」
「もう、どっちでもいいですよ、そんなの。もし私と結婚したとして、お子さんのことはどうするつもりだったんですか?まさか、今度は私に押し付けるつもりでした?そして、自分はまた浮気に走ると?」
「違う。そんなことしない。」
必死に頭を振る安弘。そうやって現実を拒否したいのだろう。全て己の自業自得だという自覚は、微塵もないようだった。
「美優はうちの娘で、中学受験がうまくいけば寮に入る。そしたら、君と結婚して、2人きりで過ごすつもりだった。もしそれが無理でも、凛ちゃんは娘とも近いし、きっと気が合う。それこそ、美織より。」
彼の発言により、病室内の温度が数度下がった気がした。私、凛、九内弁護士は、揃って同じ表情になった。冷ややかで、心の底からの軽蔑と失望を込めた瞳を、安弘に対して向ける。
「マジでありえない。」
敬語が外れ、ぽつりと凛がつぶやく。
「私があなたの子供も下ろした私が、血もつながらない子供の母親になれるって、本気で思ってるの?無理に決まってるでしょ。どれだけ頭お花畑なのよ。」
「え、だって、凛ちゃんは優しいし、美織程度にできたことが、できないわけが……」
「だから、なんでそこで美織さんのすごさに気づかないの?普通の人にできるようなことじゃないの?美織さんの力とか家事に気づかず、夢を描いてるから、浮気しようなんて発想になるんだわ。」
凛は足を踏み鳴らし、安弘を睨みながら話し続ける。夫婦として一緒に暮らしてきた彼より、ほんの少し前に出会っただけの彼女の方が、私のことをよく分かってくれている。向き合い方が違えば、被害者と加害者として対峙しなければならなかった私たち。あの時、彼女の様子に違和感を覚え、話を聞く選択をしたことは、間違っていなかった。なぜなら、今ここに確かな絆が生まれているからだ。凛の言葉は、私の胸に爽快感をもたらした。
「本当に最低。こんな男に惚れてたなんて、バカみたい。美織さんも、さっさと離婚した方がいいですよ。時間の無駄です。」
「ええ、そのつもりよ。もう、顔を見るのも嫌でしょ。」
「凛さんは、帰っていいわよ。」
「そうさせてもらいます。」
最後に、彼女は安弘をひと睨みする。
「逃げないでよね。クズ野郎。」
安弘の喉から、ひゅっと息を飲む音がした。凛は颯爽と病室を去っていった。
呆然とする安弘に対し、九内弁護士は封筒を差し出す。
「こちら、凛さんの慰謝料請求に関する書類になります。」
あくまで淡々とした口調だが、意外と情に厚い彼は、安弘の所業を知った時からずっと怒っている。それ以上に、自分の感情を表に出さず、技術にたけているだけだ。
私は安弘をじっと見下ろした。ベッドの上の私と、床に尻餅をつく彼。どちらが優位にいるかは、一目で分かるだろう。震え、定まらない目で、なんとか顔だけを動かして九内弁護士に向き合う安弘。次の瞬間、彼は手を上げて封筒を振り払った。くるくると床を滑り、封筒はベッドの下に入り込む。病院のベッドの下なので、ほこりまみれになることは避けられるだろう。
「ふざけるな。こんなの認めない。」
「いや、あなたの承認とか必要ないから。あ、これ、こっちは私からの浮気の慰謝料請求についてね。」
安弘のまくし立てる声を一言で切って捨てて、私は枕の下からもう1つ封筒を取り出す。
「ちなみに、凛さんは慰謝料を払うって約束してくれたよ。まさか、あなた、逃げないよね。」
凛は極めて潔かった。騙されていた被害者なのに、「浮気に加担していたのは事実だから」と、慰謝料の支払いを自分の方から言い出したのだ。10年計画で支払うといい、この後、計画表を送ってくれる予定だ。安弘も、少しは見習ってほしい。
「あと、ついでに。その中には、美優の養育費についても書いてあるから、ちゃんと確認しておいてね。」
「え、養育費?なんで。」
本気でわけがわからないという表情をする彼。美優の親権は、安弘が持つだろう。同居関係もあり、今の安弘は収入に問題もなく。美優も、私と父親なら、きっと彼の方を選ぶ。私も、もうお願いされたとしても、あの子と暮らしていけるとは思えない。愛情よりも嫌悪感が勝つ。そういう対象になってしまった。
とはいえ、民法では親である時点で扶養義務があるとされており、養育費の支払い義務は親権の有無に関わらず発生する。子供が成人するまで、健やかな成長を守るためには必須のものだ。安弘に対して根拠を説明すると、彼は再び顔色を変えた。
「だったら、養育費なんていらない。だから、俺も慰謝料を払わなくていいだろ。凛ちゃんにも、お前からうまいこと言っておいてくれないか?」
「あなた、話、聞いてた?養育費は、あなたのためのものじゃなくて、美優のためのお金だから。」
「その通りです。養育費の支払いは、安弘さんの義務で、慰謝料請求は、美織さんが持つ権利。交渉を拒否するということを……」
一度言葉を切り、じっとりと安弘を見つめる九内弁護士。
「待ち受けるのは、裁判だ。おそらく、泥沼になるだろう。今の安弘さんに、それを乗り越える気力があるとは思えません。」
「そ、そんな……」
安弘は視線を彷徨わせ、なんとか状況を打開できないかと、思考を高速回転させている。私と九内弁護士は、彼が何を言い出すか待ってあげることにした。その程度の余裕はある。
「美織、お前、そんなこと言ってるけど、本当は美優のこと、ちゃんと愛してるんだよな。」
安弘が選んだのは、最悪の答えだ。私に美優を押し付けようというのだ。子供がいなければ、自分は再スタートできるとでも思っているのか。はあ、と私は大きなため息をつく。
「確かに愛してた。何よりも大切にしようと思ってたわ。血が繋がっていなくても、私の可愛い娘だって。なら、でも、もう無理。何の感謝も協力も話し合いもないまま、家族をやれるほど、私は大人じゃなかったみたい。」
改めて枕の下に手を差し込み、写真を取り出す。これが、私の入院後、美優からの唯一の接触だった。ひらりと安弘の前に写真を放る。
「え、なんだこれ。グロ。」
ボロボロになった熊のぬいぐるみの写真だ。安弘は美優がこれを送ったと知らなかったようで、インパクトは抜群だった。
「もし家に帰ったら、次にこうなるのは、私かもしれない。とても恐ろしくて、あの子と顔を合わせることも嫌だわ。」
私は顔を伏せ、声と体を細かく震わせ、目元に涙を浮かべる。もちろん、演技だ。安弘は無言で私と写真を交互に見ていたが、やがてぐったりと肩を落とし、沈黙した。
こうして、病室でのやり取りは、私の完全勝利で幕を閉じた。
過去の経緯を、私は電話越しに淡々と話し続ける。全てを順を追って説明すると、最初は勢い込んで文句をつけていた美優も、徐々に静かになっていった。自分でも驚くほど冷静だった。おそらく、怒りも悲しみも、すでに通りすぎているからだろう。長い小説の本文を読み上げているような心地だ。
「というわけなんだけど。大丈夫?聞こえてる?」
「嘘。」
ぽつりと、電話の向こうから声が落ちる。
「そんなの、全部嘘だよ。」
「どこが嘘なの?」
「だって、お父さん、そんなこと言ってなかったもん。こんな大事なこと、なんで教えてくれなかったの?」
「それはまあ、自分に都合の悪いことだからでしょうね。」
語気を変えず、美優は沈黙した。まさか、実の娘に全て隠し通したとは、私も思わなかった。だが、少し考えれば分かることだったかもしれない。安弘は、目の前の問題をどうにかやり過ごすことにばかり注力していたのだから。
「私はあなたの養育費を一括で支払っている。そのことは、安弘もちゃんと把握しているはずだけど。」
養育費がきちんと使われているのなら、修学旅行代は毎月積み立てられているはずだ。先ほどの美優の口ぶりからは、学費の支払いすらも苦しいように聞こえる。安弘は最初から修学旅行など行かせないつもりで、支払っていなかったのだろうか。だが、美優の方は、どれだけ大変でも修学旅行には行きたい。そこですれ違いが起こった結果が、今の電話だった。
「じゃあ、あんたの浮気も嘘?」
「お父さん、あの写真、本当だったって、教えてくれてありがとうって喜んでたのに。」
「嘘だよ。浮気してたのは、安弘の方。今、そう説明したでしょ?」
私ははっきりと言い切る。
「あの写真、あなたが作り上げたくせに。私の浮気を言い出した安弘を、おかしいとは思わなかった?」
「それは、たまたま本当にあんたが浮気してたんだと思って……」
もごもごと口ごもる美優。私はため息をつく。
「私、お金ないって言われて、中学受験も諦めたのに。」
彼女の弱々しい声は、そのまま怒りに変わった。私の脳内の美優は、顔を両手で覆い、おいおいと同情を誘うように泣いている。けれど、私は何も感じなかった。どうせ嘘だろうと、直感で思ってしまったからだ。
そして、電話を切った数分後。それは裏付けられることになる。九内弁護士にメッセージを送り、私のかつての家族について何か知っているかと切り出した。結果は予想通りだった。
5年前、美優は宣言通り中学受験に挑戦する。だが、そもそもまともに勉強していない彼女は、教師の協力も得ずに準備不足のまま受験に臨み、当然のように不合格。周囲には「合格確実」と大々的に宣言していたらしく、結果、受験の失敗が恥として残った。逃げるように選んだのが、自宅から遠く離れた中学校だ。電車で2時間ほどかかる、知り合いがほとんどいない環境だった様子。それが美優の選択だったが、中学校で立て直せたかといえば、そうではない。高校受験でも、彼女は同じことを繰り返した。憧れたお嬢様学校の後悔を「9時には目が覚める」と言いながら、勉強はしない。当然、結果は不合格。3年前の繰り返しだ。最終的に入学したのは、滑り止めの高校。そこにも真面目に通っておらず、問題児として扱われているという。それなのに、修学旅行には行くつもりなのだから、図々しいと言われても仕方ないと思う。
九内弁護士の情報は、少し恐ろしいほどだった。美優は何も変わっていない。
ちなみに、安弘の方は、私との離婚と自身の浮気の噂が広まって、会社を辞めていた。私と凛への慰謝料は、元義両親に泣きついて払ってもらった。その際に、美優もまとめてすっぱり縁を切られたと聞いている。元義両親は、美優の母になった私のことを痛く気に入り、何かと気にかけてくれる存在だった。安弘と美優の所行に怒るのも当然だ。元義両親にことの詳細を教えたのは、実は私なのだが、彼らは知る由もないだろう。
安弘は職を転々とし、今はアルバイトを複数掛け持ちするフリーターらしい。私はピンと来た。彼はおそらく、私の養育費を使い込んでいる。最悪の憶測だが、そうとしか考えられない。
私は美優が何を言い出すか、冷静に待った。電話の向こうで、彼女の呼吸が乱れているのが分かる。
「じゃ、じゃあ……」
やがて、威圧するように無理やり声を張り上げる。
「養育費で払うくらいなら、お金あるんでしょ。だったら、修学旅行代くらい出してくれたっていいじゃん。」
来ると思っていた言葉だった。私は一瞬も間を置かず、返す。
「お金なんてないよ。」
「は?」
「私、あの時、借金して一括で払ったから。」
今の美優は、きっとぽかんと、まぬけな表情をしていることだろう。貯金だけじゃ足りなかったからね。今も返済中。仕事を変えて収入も減ったから、それなりに大変なんだよ。養育費のおよそ半分は自分で出して、残りは兄弟たちに頭を下げて、細かく借りたのだ。現在に至るまで、無理して返済を続けている。最初にきちんと返済計画を立てたからだ。しかし、そんなことはわざわざ美優に教えない。彼女は勝手に勘違いしてくれたらいい。
「なんで、そこまでして……」
かすれた声。どうやら、私が危ないところから借金をしたと思っているらしい。想像力が豊かで、結構なことだ。
「さあね。どうしてだと思う?」
「あ、わかんない。」
「簡単だよ。もう2度と、あなたたちと関わりたくなかったから。一括で払って、綺麗に終わらせたかったの。」
言い切ると、電話の向こうで息を飲む音がした。その意味を、ようやく理解したのだろう。
「どうしてもお金が欲しいなら、今からまた借りてあげてもいいけど。その代わり、あなたの名前、連帯保証人の欄に書いてもいい?」
「は?は?何それ?」
明確に動揺する美優。さすがに、その欄に自分の名前が載ることの重さは分かるらしい。
「大丈夫でしょ?修学旅行にどうしても行きたいんだもんね。」
わざと優しい口調で言う。
「そ、それは……」
「借りたお金は、もちろん返さないといけないけど。もし返せなかったら、どうなるか分かる?あなたに請求が行くんだよ。それでもいいなら、今すぐ手配するのを考えるけど。」
あくまで考えるだけ。実際に借金をするわけではない。例え本当に兄弟に借りたとしても、「あれだけこけにされたのに、まだ助けるのか」と突っ込まれるだろう。
「も、もういい。」
数秒の静寂の後、美優は叫んだ。
「自分で何とかする。」
そのまま、通話が一方的に切れた。ツーという無機質な音が耳元に残る。私はスマートフォンをゆっくりと下ろした。ため息が自然に漏れ、一気に疲れが押し寄せてきた。体の奥から、重たいものが抜けていく感覚がある。
「ああ、疲れた。」
ぽつりとつぶやく。けれど、後悔はなかった。美優は自分で選んだ。そして、私は関わらないと決めた。それだけのことだ。
2週間後、再び電話が鳴った。画面に表示された名前を見て、思わず眉を寄せる。安弘だ。出るかどうか、一瞬だけ迷う。だが、すぐに通話ボタンを押した。
「もしもし。何?」
「おい、お前、美優に全部ばらしたな。」
いきなり怒鳴り声が飛んでくる。予想通りの反応だった。
「ばらした?何の話?」
「とぼけんな。あいつ、俺のカードと通帳を勝手に使って、金下ろして、修学旅行に行きやがったんだぞ。」
ああ、と内心で納得する。彼は暗証番号を、覚えやすく分かりやすいものに設定していたはずだ。カードと通帳がどこにあったのかは知らないが、すんなり盗まれてしまうとは、脇が甘い。
「それで?」
「それで、じゃねえよ。全部、お前のせいだろ。」
「は?思わず声が低くなる。なんでそうなるの?」
「お前が余計なこと言うからだろう。だから、美優はあんなことを。今まで反抗もしないいい子だったのに。」
「余計なこと?私は聞かれたから、事実を話しただけだけど。そもそも、あなたが嘘を伝えていたのが悪いんでしょ。まさか、養育費が正しく使われていなかったなんてね。」
安弘は押し黙った。私としては釘を刺したつもりだったが、彼の反応が全てを物語っている。彼は親としての義務を放棄していたのだ。
「それは、俺だって、ちゃんと父としてやろうって頑張ってた。だけど、うまくいかなくて。それもこれも、全部、お前がうるさいから。」
「全部、自己責任でしょ。」
一蹴する。電話の向こうが静まり、安弘の出方を伺っていると、彼は最悪の行動を起こした。
「なあ、俺たち、やり直さないか。」
急に声のトーンが変わった。ぞくっと、嫌な予感がする。
「ほら、色々あったけど、俺たち、色々うまくやってただろ。美優はまだ高校生だ。やっぱり、母親が必要なんだよ。」
何を言っているのか、全く理解できない。
「昔のことは、全部謝る。お前、どうせまだ体が不自由なんだろ。俺がお前の面倒を見てやるよ。だから、お前は美優のことを……」
「無理。」
私は即答した。一切の迷いもない。
「ふ。何言ってるの?あなた、そんなにバカだったっけ?意味不明。気持ち悪い。」
呆れがそのまま声に出る。
「私、養育費の支払いで借金まみれだけど、それでもいいの?」
「ふ、ま、ぬけ……」
彼の返答。そういえば、安弘もまた、私が支払った養育費の正確な出所を知らないのだったか。借金をしてまで払ったのだと匂わせると、彼は途端に沈黙する。私は意識して、柔らかい声を作った。
「私、あなたに心配されなくても、今、愛する人と一緒にいられて幸せだから。やりたいこともやれてるしね。」
「どういう意味だ?」
「あなたのところに戻る理由なんて、どこにもないってこと。」
困惑する安弘をよそに、とどめの一言を放つ。
「それより、あなたも少しは親としての義務を果たしたら?」
ぶつっと通話を切った。画面が暗くなる。番号だけ一応記憶して、着信拒否に設定した。私はスマートフォンをテーブルに置いた。これで、本当に終わりだろう。目を閉じて、しばらく思考と体を休ませる。一瞬、幼い美優の笑顔が脳裏をよぎった。今や幻の光景だ。ふと、熊のぬいぐるみはどうなったのかと気になった。裂かれ、もがれた無惨な姿は、ゴミ箱に直行だろうか。私も、まとめて頭の中のゴミ箱に捨てることにしよう。安弘と美優の記憶も、家族として過ごした時間も、全て私にはもう必要ない。
「美織さん、どうかした?」
ふっと目を開けると、慧士がこちらを覗き込んでいた。周囲にコーヒーの香りが漂っている。私はにこりと笑う。
「ちょっと休憩しようかなって思って。」
「なら、ちょうどよかった。コーヒーとお菓子を用意したから。」
椅子から腰を上げる際、彼は自然な動作で私を支えた。2人で向かう先には、心安らぐひと時が待っている。
その後の安弘と美優の顛末は、実に分かりやすいものだった。美優は当初こそ、安弘のクレジットカードを使い、修学旅行を満喫していた。ブランドものの小物やお土産を買い込み、周囲に見せびらかしていたという。だが、その時間は長く続かなかった。安弘がすぐにカードの利用停止の手続きを取ったのだ。当然ながら、それ以降は一切使えない。現金も持ち合わせていなかった。美優は追い詰められて、最悪の選択をした。同級生の財布に手を伸ばしたのだ。結果は言うまでもない。その場で発覚し、大騒ぎになった。教師が呼ばれ、事情聴取が始まり、修学旅行どころではない空気になる。
突然、そこに現れたのが安弘だった。カードの件で怒りが爆発し、後を考えず、現地まで乗り込んできたという。騒然とする中、親子はその場で言い争いを始めた。美優は感情のままに叫ぶ。
「養育費も使い込んでたくせに。浮気してたのも、あんたの方でしょ。」
周囲の生徒や教師たちが凍りつく中、言葉は止まらなかった。
「もう、あんたなんか、父親でも何でもない。」
その瞬間、乾いた音が響く。安弘が美優の頬を平手で打ったのだ。場の空気が完全に崩壊した。教師が慌てて2人の間に入り、静止する。隔離されたが、修学旅行は台無しになった。一気に噂が校内に広まった。他の生徒にとっては、修学旅行を台無しにされたも同然なのだから、当たり前だ。
結果、美優は学校に居場所を失くす。やがて、高校中退。現在は家を出て、アルバイトをしながら生活しているらしい。とはいえ、生活は安定しておらず、男性に頼る形でどうにか成り立っているという。
一方の安弘も、まともではいられなかった。娘との関係は完全に崩壊してしまったのだから。夜逃げのように仕事も全てやめて、家に引きこもった。酒を煽り、濃い味付けの弁当ばかりを食べ、寝て過ごす。残された責任と現実に向き合う力は、なかったらしい。
そして1ヶ月後、近隣住民からの通報で、家に警察が駆けつける事態となる。原因は異臭だった。警察官が家の中に入ると、溢れるゴミの海で倒れる安弘を発見した。命に別状はなかったものの、衰弱は激しく、そのまま入院。当然、治療費が発生する。収入のない状態での入院費用は、重くのしかかる。しかし、誰も助けてくれる者はいない。それが、彼の選んだ結果だった。
私の生活に波が起こったのは、2人からの電話がかかってきた一瞬だけ。今は穏やかな日常に戻っている。慧士と一緒にいる時間は、隣に並ぶだけで気持ちが整うような、不思議な作用があった。知恵さんとは、相変わらず仲良くさせてもらっている。結婚当初は「おばあ様」と呼ぼうとしたが、彼女が寂しそうな顔をするので、すっかり「知恵さん」呼びが定着した。週に1度、義実家で共にお茶を楽しむ時間は、掛け替えのないものだった。
凛とも、やり取りを続けている。先日、残っていた私への慰謝料の支払いが、全て終わった。弁護士は案外、律義だ。特に要件がなくても連絡をくれて、近況を尋ねてくる。気づけば、軽い世間話を交わす関係になっていた。
そして今、私は来月開催されるハンドメイドのイベントに向けて、準備の真っ最中。SNSの影響もあり、注文が一気に増えた。指先を動かしながら、完成のイメージを形にしていく。忙しさの合間に、ふと計算してみた。この調子で行けば、年内中には兄弟たちへの返済も終えられそうだ。助けてくれた恩に、ようやく一区切りをつけられる。
「よし、頑張ろう。」
自分自身に声をかけて、私は新しいビーズをつまみ上げた。



