「実は俺には他に付き合っている女性がいる。会社の秘書の、はなすみれという女だ」…

「実は俺には他に付き合っている女性がいる。会社の秘書の、はなすみれという女だ」...

「実は俺には他に付き合っている女性がいる。会社の秘書の、はなすみれという女だ」

7年間連れ添った夫・ヒカルからの突然の告白。その言葉の意味を理解するまで、何秒もの空白が必要だった。

「慰謝料は払うから、円満に別れてほしい」

その瞬間、体の奥底で何かが静かに切れる音がした。自分が不倫相手を妊娠させておきながら、まるでお互い様のように「円満に」と言うこの男の厚かましさに、気持ちが冷えきっていく。

「うん、分かった」

何の感情も込めず、そう返答した。ついに計画を実行に移す時が来た。花屋で何千本もの花を束ねてきたこの手を、今度は自分の人生を束ね直すために動かすのだ。

私は福島ムツ、35歳。駅前の路地裏にひっそりと佇む花屋「花結び」で店員として働いている。朝7時に店に入り、市場から届いたばかりの花の状態を一つ一つ確かめるのが毎日の始まりだ。

オーナーの秋田れん子さんは、私にとって恩師であり、もう一人の母のような存在だ。62歳になるれん子さんは、かつて夫に裏切られた過去を持ちながら、たった一人でこの店を築き上げた人だ。

「むつきちゃん、今日のカーネーション、ちょっと元気ないわね。水切りの角度をもう少し深くしてみて」

「分かりました。昨日の気温で少ししおれ気味ですね。栄養剤も足しておきます」

れん子さんの的確な指示に従いながら、私は手際よく花の手入れを進めていく。花びらの色つや、茎のしなり具合、葉の艶。そうした細かな変化を見逃さないことが、この仕事では何より大切だ。

10年近くこの仕事を続けるうちに、花だけでなく人の表情や仕草の微妙な変化にも敏感になった。常連のお客様が何も言わなくても、「今日は元気がない」とか「何か嬉しいことがあった」とか、そういったことが自然に伝わってくる。

れん子さんは口癖のように言っていた。「花を見る目が育てば、人を見る目も育つ。どちらも正直だからね」

その言葉の意味を、私はこの先、身を持って思い知ることになる。

午前中は近隣のオフィスへの配達と店頭の接客で忙しく過ぎていく。昼過ぎになると少し落ち着いて、帳簿の整理や仕入れの計算をするのが私の担当だった。れん子さんが経理を任せてくれるようになったのは3年ほど前のこと。数字を扱う作業は几帳面な性格に合っていたし、花の仕入れ値と売価のバランスを考えるのはパズルを解くような楽しさがあった。

午後の穏やかな時間帯には、常連のお客様がふらりと立ち寄ってくれることも多い。仏壇に備える花を毎週欠かさず買いに来る年配の女性、恋人へのプレゼントに悩む若いサラリーマン、店先の花を眺めるのが日課の近所のおじいさん。花屋という場所には、人々の暮らしの節目や日常のぬくもりが集まってくる。

夕方6時に店を閉め、電車に揺られて帰宅する。マンションの鍵を開けると、誰もいないリビングが静かに私を迎える。玄関の花瓶に挿した一輪のガーベラだけが、暗い部屋の中に彩りを与えていた。

夫のヒカルは、金光商事という中堅商社の営業部長を務めている。結婚して7年になるが、ここ数年は帰宅が深夜になることも珍しくなかった。冷蔵庫から作り置きのおかずを取り出し、一人分の食卓を整える。ヒカルの分も用意してラップをかけておくのが日課だったが、最近は翌朝そのまま手つかずで残っていることが多い。

テレビをつけても音だけが虚しく響く。広すぎるリビングの中で、私の居場所はどこにもないように感じる。窓の外に見える街灯の明かりを、ただぼんやりと一人で眺める夜が増えていた。

結婚当初、ヒカルは優しい人だった。休日には二人でキッチンに立ち、買ってきた食材で手の込んだ料理を作るのが楽しみだったし、近所の公園を手をつないで散歩しながら、将来生まれてくる子供の名前を考えたこともある。あの頃のヒカルは、私が風邪を引けば仕事を早退して看病してくれるような、そんな温かさを持った人だった。

だが、不妊治療を始めてから少しずつ変わっていった。病院の待合室で何時間も過ごし、痛みを伴う検査に耐え、期待しては裏切られる。その繰り返しが、私たち夫婦の間に見えない溝を作っていたのだと思う。ヒカルは最初こそ一緒に病院に通ってくれていたが、2年目からは「仕事が忙しい」と足が遠のき、4年目には「お前の好きなようにすればいい」と投げやりな態度に変わる。それでも私は諦めきれず、一人で治療を続けていた。

高校時代からの親友である江本さつきには、時より電話で愚痴をこぼしていた。さつきは不動産会社で働くキャリアウーマンで、数年前に離婚を経験している。

「無理しすぎないでね。自分の体と心が一番大事だよ」

電話越しのさつきの声はいつも明るく、私の沈んだ気持ちを引き上げてくれる。彼女がいなければ、不妊治療の辛さに押しつぶされていたかもしれない。心の底から感謝していた。

そんなある日の夕食後、ヒカルがリビングのソファに座り、スマートフォンの画面に目を落としていた。以前なら気にも止めなかったその姿に、私の胸がざわつく。画面を覗き込まれることを嫌がるように、ヒカルはさりげなく体の向きを変えた。

帰宅時間が以前よりさらに遅くなったこと。スーツに残る、私が使っていない甘い香水の匂い。洗面所に見覚えのないブランドの歯ブラシが置かれていたこと。一つ一つは取るに足らない些細なことかもしれないけれど、花を扱う仕事をしている身としては、こうした小さな変化の積み重ねがやがて枯れる前兆になることを知っている。

「ヒカルさん、最近帰りが遅いけど、お仕事忙しいの?」

「ああ、年度末の案件が立て込んでてな。来月には落ち着くと思う」

画面から顔を上げずに答えるヒカルの横顔を見ながら、私は小さく頷いた。嘘をついている人間は、決して相手の顔を見ようとしない。花屋に来るお客様の中にも、浮気の罪滅ぼしに高い花束を注文する男性が何人もいる。そういう人は決まって目が泳ぎ、やたらと愛想が良く、そして財布の紐だけは緩いのだ。ヒカルの態度に、そうした人々の振る舞いと重なるものが見え始めていた。

胸の奥にじわりと広がる不安を押し殺しながら、私は食器を片付けるために立ち上がる。蛇口から流れる水の音だけが、静まり返ったキッチンに響いていた。

翌朝、花屋に出勤すると、れん子さんが店先でバケツの水を変えていた。朝の柔らかい光の中で、色とりどりの花たちが露を帯びて輝いている。

「おはよう、むつきちゃん。今日はちょっと顔色が悪いわね。何かあった?」

「いえ、少し寝不足なだけです。大丈夫ですよ」

れん子さんは私の顔をじっと見つめた後、それ以上は何も聞かなかった。長年の付き合いのおかげか、この人は私が話したい時に話せる空気を作ってくれる。その優しさに甘えるように、私はいつも通り仕事に取りかかった。

店の奥で帳簿を開きながら、ふとヒカルの家計管理のことが頭をよぎる。結婚当初は二人で家計を管理していたが、ヒカルが部長に昇進してからは「経費精算が複雑だから」という理由で、ヒカルの口座はヒカル自身が管理するようになっていた。私の給料は生活費の一部と不妊治療費に当てられ、ヒカルの収入がどう使われているのか詳しくは把握していない。花の帳簿で数字と向き合う日々の中で、家庭の会計がこれほど不透明であることに、今更ながら違和感を覚え始めている自分がいた。

夕方、常連客の奥様がアレンジメントの注文に来られた。結婚記念日のお祝いだという。

「おめでとうございます。バラとカスミソウを合わせた温かみのあるアレンジはいかがですか?花言葉で『感謝』と『幸福』を込められますよ」

赤いバラの花びらを一枚ずつ整えながら、お客様の笑顔を横目で見つめる。旦那様への思いを嬉しそうに語るその姿が、かつての自分と重なって見えた。私たちにもあったはずのあの穏やかな幸福は、いつの間にどこへ消えてしまったのだろう。

閉店作業を終えて帰宅すると、今夜もヒカルの靴はなかった。テーブルの上に置いた夕食のラップが、蛍光灯の光を冷たく反射する。7年前、二人で選んだこのダイニングテーブルは、いつの間にか私一人だけのものになっていた。

深夜になってようやく帰ってきたヒカルは、シャワーを浴びるとすぐに寝室へ消えていく。「ただいま」の一言もなく、食事に手をつけるそぶりもない。枕元に置かれたヒカルのスマートフォンが暗闇の中で何度も光っていたが、私はそれを見ないふりをして目を閉じた。答えの出ない疑問を抱えたまま、また一日が過ぎていく。

週末の夜、珍しくヒカルが早めに帰宅した。リビングに入ってきたヒカルの顔には、いつもの緩んだ笑顔ではなく、どこか引き締まった表情が浮かんでいる。

「ムツ、ちょっと座ってくれないか?大事な話がある」

台所で夕食の支度をしていた私は、その声のトーンに嫌な予感を覚えた。ヒカルがわざわざ「大事な話」と前置きをしたのは、結婚生活の中でも片手で数えるほどしかない。エプロンを外し、椅子に腰を下ろすと、ヒカルは向かい側に座り、組んだ両手をテーブルに置いた。その視線は私の目ではなく、自分の手のひらに向けられている。

「実は俺には他に付き合っている女性がいる。会社の秘書の、はなすみれという女だ」

覚悟していたはずの言葉だったが、それでも私の胸の奥を鋭く貫いた。ヒカルの唇は動き続けているのに、その言葉の意味を理解するまでに何秒もの空白が必要だった。

「それで、すみれが妊娠した。俺の子だ。もう5ヶ月になる」

5ヶ月。つまり半年近くも前から、ヒカルはこの事実を隠していたことになる。私が毎月病院に通い、注射の痛みに耐え、陰性の結果に涙をこぼしたあの時間の裏側で、ヒカルは別の女性との間に子を授かっていたのだ。その残酷さに、一瞬頭が真っ白になった。

「お前との間に子供ができなかったのは、俺だって残念に思ってる。でもすみれのお腹には俺の子供がいるんだ。父親としての責任を取りたいと思っている」

何という言い草だろう。父親としての責任を取る前に、夫として私に誠意を見せるべきではないのか。

「いつからなの?」

「去年の春頃からだ。最初はただの相談相手だったんだが、気づいたらそうなってた」

まるで自分は悪くないとでも言いたげな、責任を曖昧にする言い回しに嫌悪感が湧き上がる。去年の春といえば、私が3度目の体外受精に失敗して泣きながら帰宅した頃だ。ヒカルは私が病院の待合室で順番を待っている間に、秘書と二人きりで「相談」していたというのか。

「すまないとは思ってる。だが俺はすみれとあの子と一緒になりたいと考えている」

ヒカルの目が初めてこちらを向いた。そこには罪悪感と、それを上回る決意のようなものが浮かんでいる。この人はもう、私との未来を完全に切り捨てたのだ。私は声を出すことができなかった。ダイニングの壁に飾ってある結婚式の写真が、蛍光灯の光を受けて白く光っていた。あの日永遠を誓い合った二人は、もうこの世界のどこにも存在しないのだ。

「離婚について改めて話し合いたい。もちろん俺が悪いんだから、それなりの誠意は見せるつもりだ。ざっと200万円くらいは払う用意がある」

これまでの結婚生活を裏切っておいて「誠意を見せる」という言葉が出てくることに、乾いた笑いすら込み上げてくる。私は椅子から立ち上がり、台所に戻ると、沸騰したやかんの火を止めた。手が震えていたが、ヒカルの前では絶対に涙を見せたくなかった。

「分かった。少し考える時間をちょうだい」

「ああ、もちろん。せかすつもりはない」

そうは言っても、不倫相手のお腹の子は日に日に大きくなっていく。時間はヒカルの味方であって、私の味方ではない。そのことに、この時の私は気づいていた。ヒカルは私の返事を待たずにリビングを出ていき、寝室のドアが静かに閉まる音が聞こえた。

一人残されたダイニングで、冷め切った夕食を見つめながら、私は長い時間動けないでいる。やがてベッドに横たわり、暗い天井を見つめ続ける。涙は出なかった。悲しみよりも怒りよりも、頭の中を支配していたのは「これからどう生きていくのか」という切実な問いだ。長い歳月を費やした結婚生活の残骸の中から、何を拾い上げ、何を捨てるべきなのか。枕元の目覚まし時計の針が深夜2時を指しても、答えは見つからないまま、長い夜だけが過ぎていく。

ヒカルの告白から数日が過ぎた。表面上は何も変わらない日常を送りながらも、私の心は嵐の中に置かれた小舟のように揺れ続けている。朝、花屋に出勤しても花の手入れに身が入らない。れん子さんは何も聞かずに私の仕事をさりげなくフォローしてくれていたが、そんな気遣いがかえって胸に染みた。

ヒカルは告白の翌日からほとんど家に帰らなくなった。すみれの部屋に泊まっているのだろう。二人分の食器だけが並ぶキッチンの風景に、もう違和感すら覚えなくなっている自分が怖かった。

ある夜、義母から電話がかかってきた。

「ムツさん、ヒカルから聞いたわ。あの子に赤ちゃんができるんですってね。おめでたいじゃないの」

義母の声は、まるで孫の誕生かのようにはしゃいでいる。私の気持ちなど微塵も考慮していないことが、手に取るように分かった。

「あなたに子供ができなかったのは残念だったけど、仕方のないことよね。ヒカルにも幸せになる権利があるんだから」

「仕方のないこと」。その一言が胸に突き刺さり、じくじくと痛む。不妊治療の辛さを、義母は一度もいたわってくれたことがなかった。

「離婚の話、すんなりまとめてくれると助かるわ。世間体が悪いし、あなたもまだ若いんだからやり直せるでしょう」

「お気持ちは分かりました。ただ、すぐには決められないことなので」

「あら、そう?でもあまり引き延ばさないで。お腹の子のためにも早い方がいいでしょう。ヒカルの幸せを邪魔するようなことだけはやめてちょうだい」

幸せの邪魔をしているのは、私の方なのか。裏切られた側の人間が、まるで加害者であるかのように扱われる。この理不尽な状況に、思わず大声で叫び出したい衝動が湧き起こった。電話を切った後、膝から力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。

義母にとって、私は「子を産まなかった嫁」でしかなかった。7年間、正月やお盆には必ず挨拶に行き、義母の好きな和菓子を手土産に持参し、病気の時には看病にも通った。一人暮らしの義母のために、泊まりがけで世話をしに行ったこともある。その全てが「孫を産まなかった」という事実で無に返してしまうのかと思うと、言いようのない虚しさが胸を満たしていく。

翌日の昼休み、私は思い切ってれん子さんに全てを打ち明けた。店の奥の小さなテーブルで向かい合い、温かいお茶を挟んで話す。れん子さんは黙って私の話を聞き終えると、しばらく沈黙した後、口を開いた。

「むつきちゃん、私もね、40年前に同じことを経験しているの。夫に裏切られて、一人で子供を育てて、この店をオープンした。だからあなたの気持ちは痛いほど分かるわ」

知っていたはずの事実が、今この瞬間、全く別の重みを持って胸に響く。れん子さんの穏やかな目の奥に、長い年月の苦労と消えきらない古い傷の気配が見えた。

「あの時の私は、感情に任せて離婚届に判を押して、結果的に不利な条件で別れてしまった。今でも悔いが残ってるわ。れん子さんだから言うけど、感情で動いちゃだめよ。泣きたい時は思いきり泣いていい。でも判を押す手だけは冷静でいなさい」

れん子さんの言葉は、暗く沈んでいた私の心をしっかりと掴んだ。感情に溺れそうになっていた私に、この人は経験者としての知恵と強さを分けてくれている。

その晩、親友のさつきに電話をかけた。事情を聞いたさつきは、最初こそ怒りで声を荒げたが、すぐに冷静さを取り戻す。

「許せないけど、今は感情抑えて。離婚は情報戦よ。先に動いた方が有利なの。私は身を持って知ってるから」

さつきは自身の離婚経験から、まず何を調べるべきかを的確に助言してくれた。不動産会社に務めているだけあって、資産や登記に関する知識は豊富だ。

「まずはヒカルさんの資産を把握すること。預貯金、不動産、株、保険、全部調べて。離婚の時の財産分与は『知らなかった』じゃ済まないのよ。でもヒカルの口座はヒカルが管理していて、通帳の保管場所は知ってる?銀行だけでも分かれば、弁護士を通じて開示できるわ。それと、ヒカルさんのクレジットカードの明細、確定申告の控え、源泉徴収票。手に入るものは全部コピーを取っておいて」

さつきの声は迷いなく力強い。彼女がいてくれることが、今の私にとってどれほど心強いことか。

「それと、不倫の証拠も集めておいた方がいい。慰謝料の請求に必要だから。でも無理はしないでね」

電話を切った後、私はようやく一つの決意を固め始めていた。泣いているだけでは何も変わらない。れん子さんが言った通り、判を押す手だけは冷静でいなければ。メモに書き連ねた項目を、花屋の仕入れリストを作るように整理していく。確認すべき資産、集めるべき証拠、相談すべき専門家。涙で滲んだインクの上に新しい文字を書き足しながら、私は決めた。この離婚をただの泣き寝入りで終わらせるつもりはない、と。

れん子さんとさつきの助言を胸に、私は静かに準備を始めた。感情に流されず、事実だけを積み上げる。まず取りかかったのは、ヒカルが書斎に保管している書類の確認である。ヒカルが出社した後の早朝の時間を使い、引き出しの中を丁寧に調べていく。

源泉徴収票には、私が知らなかった金額が記されていた。営業部長としての年収は850万円。それに加えて毎月の給与には営業手当として10万円が別途支給されている。ヒカルが家計に入れていたのは月20万円だけで、残りの使途は不明のままだった。私の花屋の月給は18万円で、そのうち不妊治療費に毎月5万円以上を当てていたことを考えると、ヒカルがどれだけ自分のためにお金を使っていたか想像がつく。

さらに引き出しの奥から、クレジットカードの利用明細が束になって出てきた。ヒカルは几帳面に明細を保管する癖があり、それが皮肉にも私の武器となったのだ。花屋で帳簿をつけ慣れた目で数字を追っていくと、不自然な支出が次々と浮かび上がる。都内の高級レストランでの食事代が月に3回から4回、一回あたり3万円から5万円。ブランド品の購入は女性向けのバッグやアクセサリーばかりで、1点10万円を超えるものも珍しくない。さらに週末のホテルの宿泊費には、出張とは思えない都内の高級ホテルが毎月のように計上されている。そのどれもが「接待交際費」として計上されている形跡が、クレジットカードの明細欄に残されていた。

花の仕入れ伝票と売上の照合作業で培った几帳面さで、私はカード明細の全項目を時系列順にノートに書き移していった。ヒカルは秘書との交際費用を会社の接待費として経費精算していた可能性が高い。個人のカードで立替払いをして、後から会社に経費として請求するパターンだろう。仮にそうだとすれば、これは会社に対する背任行為であり、ヒカルの弱点になり得る重大な情報だ。

推定される不正経費の総額は、ざっと計算しただけでも500万円を超えている。営業部長という立場を利用して、不倫相手との交際費を会社につけ回していたのだ。スマートフォンで明細の該当ページを撮影し、データをクラウドに保存した。万が一ヒカルに気づかれて書類を処分されても、証拠は残る。れん子さんの店の帳簿管理と同じように、原本とバックアップを分けて保管するのは基本中の基本だ。書類を元の位置に、数ミリの狂いもなく戻す。

次に確認したのはマンションの権利関係だ。さつきのアドバイスに従い、法務局で登記簿謄本を取得した。住宅ローンの残高と物件の現在価値を比較すると、かなりの含みがある。ヒカルは「慰謝料払う」と言っていたが、この不動産の財産分与を考えれば、慰謝料だけで済まそうとしているのは甘すぎる見積もりだ。婚姻期間中に取得した資産は、名義に関係なく夫婦共有財産として分与の対象になることを、さつきから教わっていた。ヒカルは私が何も知らないと思っているのだろうが、その思い込みこそが彼の最大の弱点だ。

花屋での昼休み、ノートを広げて集めた情報を整理しながら、私の中で一つの方針が固まっていく。感情的にヒカルを責めるのではなく、数字と証拠で有利な条件を引き出す。ノートの最後のページに、私は一行だけ書き加えた。「泣くのは全部終わってから」。その文字を見つめながら、冷静で正確な自分を取り戻していく。

「むつきちゃん、最近顔つきが変わってきたわね。いい顔してるわよ」

れん子さんは何も聞かずに、私の変化を見守ってくれていた。枯れかけた花を復活させるように、私もまた自分の根を張り直す時が来たのだ。静かに、けれども確かな覚悟が胸の中に宿り始めている。

証拠集めを進める中で、一つの壁にぶつかった。ヒカルの不正経費の確証には、会社側の経費精算の仕組みを知る必要がある。しかし私はただの花屋の店員で、ヒカルの務める会社に直接調査に行くわけにもいかない。

そんな折、花屋に一人の女性客が訪れた。れん子さんの古い友人で、週に一度季節の花を買いに来る常連の方だ。

「むつきちゃん、紹介するわ。私の古い友人の霧谷さん。行政書士をしていてね。離婚相談もよく受けているの」

れん子さんは詳しい事情を話していないはずだが、さりげなくこうした出会いの場を作ってくれる。長い人生経験を持つ彼女には、私が何を必要としているのか、言葉にしなくても伝わっているのだろう。花屋という場所が持つ、人と人をつなぐ不思議な力に、私は改めて感謝した。

霧谷さんは穏やかな口調で、離婚に関する一般的な手続きの流れを教えてくれた。協議離婚で条件がまとまらない場合は調停に移行すること、不貞行為の証拠がある場合の慰謝料の相場、財産分与で見落としがちなポイント。その中で、一つ重要な情報を得ることができた。離婚調停の過程で、裁判所を通じて相手方の資産を調査できる制度があるということだ。弁護士に依頼すれば、銀行口座の開示や不動産の調査が法的に可能になるという。つまり、ヒカルが隠している口座や資産があったとしても、法的手段で明らかにできる。彼の「慰謝料を払うから」という曖昧な提案を安易に乗る必要は全くないのだ。

霧谷さんは帰り際に、穏やかな表情で一言だけ付け加えた。「焦らないことが一番大事ですよ。相手がせかしてくる時こそ、こちらは落ち着いていなさい」。れん子さんの言葉とも通じるその助言を、私は胸にしっかりと刻み込んだ。

さつきにも報告すると、彼女はすぐに動いてくれた。

「調べたわ。ヒカルさん名義のマンション、購入値から評価額がかなり上がってる。住宅ローンの残債を差し引いても、1500万くらいの資産価値があるわね」

1500万。ヒカルが言っていた慰謝料200万とは桁が一つ違う。

「そういうこと。向こうはムツが何も知らないと思って、安い金額で手を打とうとしてるのよ。不動産のことも経費の不正のことも、全部知らないと高をくくってる。だから舐めた条件を出せるの」

情報を持っている側が主導権を握れる。不動産の交渉でも同じだと、さつきは力を込めた。知らないことは罪ではないが、知ろうとしないことは自分を守る手段を放棄するのと同じだ。さつきの怒りを含んだ声に、私も静かに頷いた。れん子さんの知恵、さつきの実務力、霧谷さんの専門知識。一人では心が折れそうになる戦いも、支えてくれる人がいれば乗り越えられる。そう信じて、私は次の一歩を踏み出す準備を整えていった。

証拠を集め始めてから2週間が経った頃、ヒカルがマンションに戻ってきた。リビングのソファに深く腰を下ろしたヒカルは、スーツの上着を脱ぎながら私に向かって切り出す。

「慰謝料は200万出す。それと引っ越し費用50万、合計250万だ。悪くない条件だろう。お前がこれ以上苦労しないよう、俺なりに考えた金額だ。これで離婚に合意してほしい」

250万。7年間の結婚生活と不妊治療の苦しみと裏切りの代償が、たったの250万円。その金額はあまりに安すぎる。だが私は感情を顔に出さなかった。れん子さんの「判を押す手だけは冷静でいなさい」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

「ええ」

たった一言、それだけを返す。ヒカルの目が一瞬大きく見開かれた。もっと泣かれるか、怒鳴られるか、せめて条件交渉くらいはされると構えていたのだろう。あまりにもあっさりとした返事に、ヒカルは明らかに拍子抜けしていた。

「本当にいいのか?もう少し時間をかけて考えてもいいんだぞ」

「いいの。もう十分考えたから」

ヒカルは安堵したように大きく息を吐き、肩の力を抜いた。その表情には「こんなに簡単に済むとは思わなかった」という露骨な安心感が浮かんでいる。きっとすみれと二人で練り上げたシナリオでは、私が泣き叫び、すがりつき、条件を吊り上げてくる展開を想定していたのだろう。

「助かるよ。ありがとう。書類は俺の方で準備するから」

軽々しい言葉に湧き上がる怒りを腹の底に押し込める。今はまだカードを切る時ではない。花屋で学んだことがもう一つある。花が最も美しく咲く瞬間を見極めるように、反撃もまた最も効果的なタイミングで放つべきなのだ。

ヒカルはその夜、上機嫌ですみれに電話をかけていた。寝室の薄い壁越しに漏れてくる声が、はっきりと聞こえる。

「大丈夫だ。ムツはあっさり承諾したよ。慰謝料200万と引っ越し費用50万で手を打てた。まあ、済んだな」

ヒカルの笑い声が暗い廊下に響く。彼の言葉を聞いた瞬間、私の中で最後の迷いが消えた。ヒカルは私の献身を「安く済んだ」の一言で片付けたのだ。

翌日、花屋に出勤した私は、昼休みにさつきへ電話した。

「ヒカルが慰謝料200万で離婚を切り出してきた。私は承諾したわ」

「え、承諾したの?」

「表向きはね。ヒカルが安心しきっているうちに、こちらの準備を完璧に整えるの」

電話の向こうでさつきが一瞬沈黙し、それから低く笑った。

「なるほど。ムツ、変わったわね。いい意味で」

「れん子さんに教わったの。判を押す手だけは冷静でいろって」

「素敵な師匠ね。じゃ、本格的に戦略を練りましょう。まず離婚届にはまだサインしないで。協議離婚じゃなくて調停に持ち込む準備をするの」

さつきの声には、離婚経験者ならではの実務的な迫力がある。感情に流されず淡々と最善の手を打つその姿勢は、不動産の交渉で培われた力なのだろう。ヒカルが準備した離婚届は、白紙のまま引き出しにしまっておいた。サインするのは、全ての準備が整ってからだ。

それからの日々は、表と裏の二重生活だった。ヒカルの前では従順な妻を演じながら、その裏で着々と証拠を固めていく。彼は離婚が順調に進んでいると思い込み、すみれとの新生活の準備に浮かれていた。

ある日、ヒカルの書斎で新たな発見があった。会社から持ち帰ったと思われる書類の中に、経費精算書の控えが混じっていたのだ。

「宛先:接待イタリアンレストラン『ステラ』 4万8000円」

日付を確認すると、ヒカルが「出張で帰れない」と言っていた日曜日にあたる。取引先との接待が日曜日に行われること自体が不自然だが、さらに問題なのは、同じ日にクレジットカードの個人利用明細にも同じ店名と金額が記録されていることだった。つまり、ヒカルは個人のカードで支払った食事代を、会社に経費として請求しているのだ。調べてみると、同じパターンの経費精算がこの1年間で20件以上見つかった。

私はスマートフォンで経費精算書と個人明細の両方を撮影し、日付と金額を照合した一覧表をノートに作成した。表にすると、ヒカルの不正の全容が一目瞭然だった。不正経費の総額は530万円を超えている。これは単なる離婚交渉の武器ではなく、刑事事件にもなり得る重大な横領行為だ。この情報を突きつければ、ヒカルは離婚条件で大幅に歩み寄らざるを得なくなる。ただし、使い方を間違えればヒカルが逆上して証拠を隠滅する恐れもあった。切り札は最も効果的な場面まで温存しなければ。

一方、ヒカルとすみれの関係にも微妙な変化が見え始めていた。壁越しに聞こえてくる電話の会話のトーンが、以前とは少し違う。

「だから言ってるだろう。今のマンションでも十分生活できるって。ムツには出ていってもらうから、心配するなよ」

すみれへの電話で、ヒカルの声に苛立ちが混じるようになっていた。どうやらすみれの要求が日増しにエスカレートしているらしい。営業部長の給料だけでは到底賄えない額を、すみれは平気で要求しているようだった。

「分かったよ。タワーマンションは無理だけど、駅から5分以内のところは探すから。でももう少し待ってくれ。今は色々と出費が重なってるんだ」

電話を切ったヒカルのため息が、壁の向こうからはっきりと聞こえてくる。不倫相手に頭を下げる姿は、かつて私に向けていた優しさのかけらもなく、疲弊と苛立ちに満ちていた。付き合い始めた頃は甘い言葉を囁いてくれた男が、いざ現実の生活費の話になると途端に機嫌が悪くなる。すみれはヒカルの経済力という花の蜜に集まってきた蝶に過ぎないのかもしれない。蜜が尽きれば、あっさりと別の花に飛んでいくだろう。ヒカルは自らの不倫が招いた結果に、早くも首を絞められていた。私への慰謝料250万に加え、すみれの新居の敷金、赤ちゃん用品、出産費用、すみれが専業主婦を希望している以上生活費も全てヒカルが負担しなければならない。それらを合算すると、ヒカルの貯蓄ではとても足りない額になるはずだ。そのことにヒカルはまだ気づいていない。目の前の問題を一つずつ処理するのに精一杯で、全体の数字を見渡す余裕を失っているのだ。

ある日、ヒカルが珍しくリビングで夕食を取った。私が作った肉じゃがを黙々と食べるヒカルの横顔を見ながら、ふと彼と過ごした7年間のことを考える。

「肉じゃが、うまいな。昔から変わらない」

その何気ない一言が、逆に胸を締めつけた。美味しいと感じる味覚は残っているのに、それを作った人間への愛情はもう枯れてしまった。花が根から切り離されれば、いくら水に挿しても最後にはしおれるのと同じだ。

「ありがとう。食べてくれて嬉しいわ」

本心からの言葉だった。憎しみだけでは割りきれない感情が、まだ私の中には残っている。しかしそれは離婚の決意を鈍らせるものではない。むしろ、長年の真心を踏みにじられたからこそ、正当な対価を受け取る権利があるのだと改めて確信する。

私は静かに準備を進めていった。さつきと定期的に情報を共有し、離婚調停に備えた資料を整えていく。さつきが調べてくれた不動産の評価額。私が集めたヒカルの収入と支出の記録。すみれとの2ショット写真がスマートフォンに残っていたため、それも不貞の証拠写真として保存した。全てをファイルにまとめ、れん子さんの店の金庫に預けた。自宅に置いておけばヒカルに見つかるリスクがあるが、花屋の金庫なら安全だ。れん子さんは中身を聞くこともなく、「大事なものは大事な場所にしまっておくのが一番よ」と微笑んで預かってくれた。

義母からは相変わらず催促の電話がかかってくる。

「ムツさん、離婚届はもう書いたの?ヒカルは早くすみれさんと籍を入れたいって言ってるわよ。早くしてちょうだい。あなたには悪いけど、孫が生まれるのを指を加えて見ているわけにはいかないの」

彼女の言葉は相変わらず容赦ないが、もう以前のように傷つかなくなっている。花屋で学んだ観察力は、人の言葉の裏にある本音を読み取る力も育ててくれた。義母が焦っているのは世間体のためだ。息子の不倫相手の子供が先に生まれて、後から籍を入れるという形になるのを何としても避けたいのだろう。つまり、時間は私の味方になりつつある。焦っているのは向こうの方なのだ。

それからさらに数日が過ぎた頃、花屋に思いがけない客が訪れた。午後の閑散とした時間帯に、店のドアを開けて入ってきたのは20代後半くらいの若い女性だった。清楚な服装に手入れの行き届いた髪だが、その目元にはどこか計算高い光が宿っている。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

女性は店内を見回しながら、ゆっくりと花を物色し始めた。カーネーションの前で足を止め、値札を確認するようにじっと見つめる。

「この白いカーネーション、1本いくらですか?」

「1本350円になります。花束にもお包みできますよ」

「じゃあ3本だけ。包装は簡単でいいです」

注文を受けて花を包みながら、私は何気なく目を上げた。花を包む手つきは10年の経験が体に染み込んでおり、目を離しても正確に作業を続けられる。女性の手首に巻かれたブレスレットが目に入る。見覚えのあるブランドのデザイン。ヒカルのクレジットカード明細に記載されていた12万円のアクセサリーと同じものではないか。心臓がドクンと跳ねたが、私は表情を変えずに花を包み続けた。この女性がはなすみれだという確証はないけれど、花屋で培った直感が確信に近い答えを告げている。

「ありがとうございます。1050円になります」

女性は財布から1000円札と50円硬貨を取り出しながら、ふと私の名札に目をやった。「福島」という苗字を見た瞬間、彼女の表情がほんの一瞬だけ強張ったのを、私は見逃さなかった。やはりこの女性がすみれなのだ。わざわざ私が働く花屋に来たということは、偵察のつもりだろうか?それとも、自分が勝者であることを確認しに来たのだろうか?

女性が店を出た後、私は静かに深呼吸した。手が小刻みに震えていることに気づき、カウンターの縁を強く握りしめる。

「むつきちゃん、今のお客さん、どうかした?」

「いえ、大丈夫です。ちょっと知り合いに似てる人だったので」

れん子さんはそれ以上追求しなかったが、その目は全てを見透かしているようだった。花屋のオーナーとして30年以上人を見てきたこの人の前では嘘をつくことは難しいけれど、今は余計な心配をかけたくなかった。自分の戦いは自分で決着をつける。れん子さんが40年前にそうしたように。

帰宅後、ヒカルに何くわぬ顔で尋ねてみた。

「ねえ、ヒカルさん。はなさんって、どんな方なの?」

「なんで急にそんなことを聞くんだ?」

「あなたの次のお相手がどんな人か、知っておきたいと思って。別に悪い意味じゃないのよ」

ヒカルは警戒するような表情を見せ、ソファに深く体を沈めた。しばらく黙った後、やがて口を開く。

「すみれは、まあ真面目で優しい女だよ。家庭的だし、料理もうまい。俺のことをよくしてくれる」

家庭的で、料理上手。ヒカルが私に対してもっと家庭的だったらと何度も言っていた言葉を思い出す。不妊のために体を酷使し、治療費を稼ぐために花屋で働き続けていた私に、さらに「家庭的で」と要求した残酷さに、今更ながら怒りが込み上げてくる。ヒカルにとって妻とは、自分の望みを全て叶えてくれる都合のいい存在でしかなかったのだ。それが叶わなければ、簡単に取り替えればいいと思っている。

ヒカルはそれ以上は話さず、スマートフォンを片手に書斎へ消えていった。彼は今夜もすみれに電話をかけるのだろう。「妻は何も疑っていない。順調に進んでいると得意げに報告する声が壁の向こうから聞こえてくる未来が、容易に想像できた。だがヒカルは知らない。その「何も疑っていない妻」が、着々と反撃の準備を整えていること。彼が安心して眠っている間に、証拠ファイルは日に日に厚みを増していた。ヒカルがすみれに送ったブランド品の購入記録、二人で訪れたレストランの予約記録、会社の経費として処理された不正な精算書類。全てが時系列順に整理され、いつでも提出できる状態になっている。

ヒカルの行動パターンも完全に把握していた。月曜と水曜の夜はすみれのマンションに泊まり、金曜の夜は接待と称して高級店で食事。週末はすみれと一緒にベビー用品を見に行くのが最近の日課らしく、カード明細にはベビーカーやチャイルドシートの購入まで残されている。その全てが婚姻生活中の浪費として、財産分与の計算に反映されるのだ。ヒカルは自分で自分の首を絞めるロープを、せっせと編み上げているようなものだった。

さつきとの打ち合わせは週に2回のペースで続いていた。花屋の閉店後、駅前のカフェで会い、集めた情報を突き合わせる。

「ヒカルさんの経費不正、530万円分の証拠が揃ったわね。これだけあれば十分よ」

「使い方が重要なのよね。いつ、どのタイミングで出すか」

「そう。まず離婚調停を申し立てる。その中で不貞の証拠を出して、慰謝料と財産分与の増額を勝ち取る。経費不正の件は、それとは別のカードとして温存するの」

「別のカード」

さつきの口から出た言葉に、私は耳を傾けた。調停で揉めるようなら、会社への通報をちらつかせるのだという。実際に通報するかどうかはヒカルの出方次第だが、この情報を持っているだけで交渉力が格段に上がる。さつきの戦略は、不動産交渉の手法そのものだった。情報を武器に相手の弱点をつき、こちらに有利な条件を引き出す。感情に流されず、冷徹に数字を積み上げていく。私がこの数週間で学んだのは、離婚という戦いにおいて、涙は何の武器にもならないということだった。数字と証拠、それだけが真実を語り、正義を勝ち取る力を持っている。

れん子さんには、離婚調停を申し立てる予定であることだけ伝えた。詳しい作戦は話さなかったが、れん子さんは優しく頷いてくれる。

「あなたはもう大丈夫ね。自分の足でしっかり立っている。花屋のことは心配しなくていいから、自分のことに集中なさい」

その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。れん子さんの40年前の経験と悔いが、今の私を導いてくれている。あの時「感情で動くな」と言われなければ、私はヒカルの差し出した200万円を掴んで泣き寝入りしていたに違いない。

ヒカルからは、離婚に際しての条件が改めて明示された。慰謝料200万円。財産分与なし。養育費なし。ヒカルが自分に都合のいいように作成した一方的な内容だ。これにサインすれば、7年間の結婚生活の清算がたったの200万円で終わる。私はその書類を丁寧にファイルに挟み、れん子さんの金庫にしまった。これもまた、ヒカルの悪意を証明する証拠の一つになる。財産分与を一切認めず、不貞行為の加害者でありながら慰謝料をたった200万に抑え込もうとした事実は、調停の場でヒカルの印象を大きく損なうだろう。調停委員の目にも、誠意のない態度として映るに違いない。

全てのピースが揃い始めていた。後は最も効果的なタイミングを見極めるだけ。花が咲く瞬間を待つように、私は静かにその時を待ち続けた。

帰宅したヒカルに、少し焦ったような声で呼びかけられる。

「なあ。いつまで待たせるんだよ。前から言ってるだろ」

ヒカルはため息をついて、言葉を続けた。

「慰謝料を払うから、円満に別れてほしい」

その言葉を聞いた瞬間、体の奥底で何かが静かに切れる音がした。円満に。自分が不倫相手を妊娠させておきながら、まるでお互い様のように「円満に」というこの男の厚かましさに、気持ちが冷えきっていく。

「うん、分かった」

何の感情も込めず、そう返答した。ついに計画を実行に移す時が来たのだ。

翌日、私は一人で家庭裁判所に向かった。受付の窓口で離婚調停の申立書を提出する。ヒカルが用意した協議離婚の書類にサインせず、正式な手続きを踏むことを選んだのだ。窓口の職員に書類を手渡す瞬間、心は不思議なほど穏やかだった。花屋で何千本もの花を束ねてきたこの手が、今度は自分の人生を束ね直すために動いている。

ヒカルが帰宅する前に、私はリビングのテーブルに調停の通知書を置いておいた。書斎から出てきたヒカルが封筒を手に取り、中身を読み始める。その顔色がみるみる変わっていくのが、薄暗いリビングの中でもはっきりと分かった。

「これはどういうことだ?調停って。お前、協議離婚に同意したじゃないか」

「同意したのは離婚することであって、あなたの条件に同意したわけじゃないわ」

「200万で手を打つと、自分で言っただろう」

「『分かった』と言ったのよ。離婚の話は分かったという意味であって、金額を承諾したわけではないの」

ヒカルの目が大きく見開かれた。初めて事態の深刻さに気づいたように、強張った表情を浮かべている。自分の想定通りに進んでいたはずの離婚が、突然コントロールを失い始めたのだ。動揺が隠しきれずに溢れ出していた。余裕に満ちた笑顔はもう影も形もなく、代わりに焦りと戸惑いが瞳の奥に泳いでいた。

「私が求めているのは、慰謝料500万と、婚姻期間中に形成された共有財産の正当な分よ。マンションの持ち分を含めてね」

「500万だと?ふざけるな。そんな金額を払えるわけがない。それにマンションは俺の名義だぞ」

「名義が誰であっても、婚姻中に取得した不動産は共有財産よ。法律で定められていることだわ。それから、婚姻期間中にあなたが個人的に浪費した金額についても、清算の対象になる」

「浪費?何のことだ?」

問い返す彼の声が明らかに上ずっている。

「高級レストランでの食事、ブランド品の購入、ホテルの宿泊費。婚姻期間中に不倫相手に費やした金額は、本来なら家庭に入るべきお金だったのよ」

ヒカルは明らかに動揺していた。私がここまで法律的な知識を持っているとは、夢にも思わなかったのだろう。

「お前、誰かに入れ知恵されたな。弁護士か。まさか、あの花屋のばあさんか?」

「花屋のばあさん?」

れん子さんのことをそう呼んだヒカルの言葉に、初めて強い怒りが込み上げてくる。30年以上花屋を守り続け、何十人もの弟子を育て上げた人を「ばあさん」の一言で片付ける薄さ。この人は人を肩書きでしか見ることができないのだ。ただ、感情を表に出すのはこの場面ではまだ早い。

「誰に相談しようと、私の自由よ。それより、一つだけ忠告しておくわ」

「なんだ?」

「調停では嘘をつかない方がいいわよ。私の手元には、あなたの不貞行為を証明する十分な証拠があるの」

ヒカルの顔から血の気が引いた。「証拠がある」と言われた瞬間、彼の頭の中では「何をどこまで知られているのか」という計算が始まっているはずだ。ただ、ヒカルが最も恐れるべき切り札、会社の経費不正については、まだ一言も触れていない。それは最後まで温存しておく。れん子さんに教わった「花は一度に全部見せるな。一本ずつ足すから美しくなる」という言葉を、今こそ実践する時だ。証拠という名の花を、最も美しく、最も効果的な順番で束ねていく。

ヒカルは通知書をテーブルに叩きつけ、髪をかきむしった。

「分かった。調停には応じる。だが、俺にだって言い分はある。お前に子供ができなかった責任は」

「不妊は病気であって、罪ではないわ。一緒に病院に通ったのは誰?治療方針を一緒に決めたのは誰?途中で投げ出して通わなくなったのは、どちらかしら?」

ヒカルは一瞬言葉を失った。不妊治療の記憶が、ヒカルにとって痛い場所をついたのだ。

「それを理由に慰謝料を減額しようとするなら、委員がどう判断するか楽しみにしていればいいと思うわよ」

それだけ言い残して、私はリビングを後にした。振り返ることなく寝室に向かう私の背中を、ヒカルの視線が射抜くように追いかけてくる。廊下に出た瞬間、ヒカルが低い声で何かを呟いたが、聞き取れなかった。聞き取る必要もない。やがて椅子を蹴飛ばす鈍い音と、テーブルを叩く音が壁の向こうから響いた。グラスが倒れる音、何かが壁にぶつかる音。ヒカルが自分の感情を持て余している証拠が、次々と壁の向こうから伝わってくる。

寝室のドアを閉め、鍵をかけてから、ようやく大きく息を吐く。手のひらにはびっしりと汗が浮いていた。内心の恐怖を悟られまいと平静を装い続けるのは、想像以上に神経を消耗する。だからと言って、ここで引くわけにはいかない。ヒカルはようやく気づいたのだ。「安く済んだ」と笑った離婚が、決して安くは済まないことに。私を甘く見たことの代償は、これからもっと大きくなるのだから。

調停の申し立てから数日後、義母から激怒の電話がかかってきた。

「ムツさん、あなた何を考えているの?調停ですって。恥知らずにもほどがあるわ。福島家の恥よ」

「落ち着いてください。正当な手続きを踏んでいるだけです」

「えっ、嫁が夫に逆らうなんて、どういう教育を受けてきたの?あなたの親御さんの顔が見たいわ」

義母の怒りは予想していた通り激しかった。受話器から漏れ出す甲高い声が耳を刺すように響く。世間体を何より重視するこの人にとって、家庭裁判所に調停を申し立てるという行為は、福島家の恥を世間にさらすのと同義なのだ。

「ヒカルに申し訳ないと思わないの。嫁の立場で、私たちへの恩を仇で返すような真似をして」

やはりヒカルが真っ先に泣きついたのは母親だった。私は義母の興奮した声を聞きながら、小さくため息をつく。自分一人では処理できなくなった問題を、母の威圧で片付けようというヒカルの算段が透けて見える。

「いいから調停なんてすぐに取り下げなさい。ヒカルが言う通りの条件で判を押して、さっさと出ていって。あなたみたいな嫁は、もう二度とごめんだわ」

「ええ、7年間お世話になりました。でも、自分の権利を守ることだけは、どうか許してください」

「権利?子供も産めない嫁に、何の権利があるの?」

義母の言葉は鋭い刃物のように心を切り裂くけれど、私はもう以前のように傷つかなくなっていた。彼女の言葉の奥にあるのは、息子を擁護する焦りと怒りだ。そこに私への愛情が一度もなかったことは、もうとっくに理解している。

義母との電話を切った後、手が震えていることに気づく。だがそれは恐怖からではなく、怒りからだった。7年間、この家族に尽くしてきた。お盆も正月も義母の好みに合わせた料理を作り、義実家の掃除を手伝い、親戚の集まりでは愛想よく振る舞っていた。それでも「子供を産めない嫁」という一点で、全てが否定される。花を育てるようにこの家庭を育ててきたつもりだったけれど、花と違って家庭は私の力だけでは咲かなかったのだ。

ヒカルはヒカルで、調停に向けた対策を始めていた。会社の顧問弁護士の知り合いに相談したらしく、数日後には正式に弁護士をつけてきた。ヒカル側の弁護士から届いた書面には、慰謝料の減額を求める主張が並んでいる。

「婚姻はすでに破綻しており、不貞行為は結果であって原因ではない」「妻側にも婚姻関係を維持する努力の不足があった」「不妊治療に固執したことが夫婦関係の悪化を招いた」

その文面を読んだ時、手が震えた。怒りでもなく、悲しみでもなく、言い知れぬ虚しさからだ。「不妊治療に固執した」という表現が、何度読み返しても胸に突き刺さる。子供を望むことが、まるで罪であるかのように書かれている。ヒカルと一緒に病院に行った日のこと、二人で治療方針を話し合った夜のこと、陽性反応を夢見て眠りに着いた朝のこと。その全てが「固執」という冷たい言葉で片付けられようとしていた。

さつきに書面を見せると、彼女は一読して顔をしかめた。

「こういう書面は相手の弁護士が書くものだから、ヒカルさん本人の意思とは限らないわ。落ち着いてね」

「分かってるわ。でも、弁護士にこういう主張をさせるということは、ヒカル自身もそう考えているのでしょうね」

「そうかもしれない。でも、こっちには切り札があるわ。焦らないで」

花屋に出勤すると、れん子さんが心配そうな顔で迎えてくれた。

「顔色が悪いわよ。少し休みなさい」

「大丈夫です。働いていた方が気が紛れますから」

れん子さんは何も言わず、温かいほうじ茶を入れてくれた。湯気の立つカップを両手で包みながら、私は店先に並んだ花を眺める。カーネーション、ガーベラ、チューリップ。花たちは何事もなかったかのように、今日も静かに咲いている。人間の事情など知らず、ただ美しく咲き続ける花の姿が、不思議と心を落ち着かせてくれた。

ヒカルの反撃は法的な手段だけにとどまらなかった。すみれを使って、私に精神的な揺さぶりをかけてきたのだ。ある日の昼下がり、花屋に再びすみれが現れた。今度は一人ではなく、明らかにお腹が目立つ姿で。マタニティウェアに身を包んだすみれは、店内を悠然と歩きながら私の前に立った。

「覚えていらっしゃるかしら?先日、花を買わせていただいたものですけど」

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

すみれは薄い笑みを浮かべながら、カウンターに寄りかかった。その目は明らかに私を観察し、反応を楽しんでいる。

「赤ちゃんの部屋に飾るお花を探してるの。ご存知よね。ヒカルさんとの赤ちゃんなんです。もうすぐ生まれるの」

すみれはわざとらしくお腹をさする。彼女は意図的に私を傷つけに来たのだ。ヒカルの指示か、自分の意思かは分からないが、私の中で何かが静かに燃え上がる。しかし私は花屋の店員としての顔を崩さなかった。

「おめでとうございます。赤ちゃんの部屋でしたら、ガーベラやデイジーがおすすめですよ。優しい色合いで、花粉も少ないですから」

すみれは私の冷静さに少し拍子抜けしたようだったが、すぐに意地の悪い笑みを取り戻した。

「ありがとう。やっぱりお花のことはプロに聞くのが一番ね。あ、それと一つ聞いてもいいかしら。ヒカルさん、私のことをどんな風に話してる?」

「お客様のプライベートなお話は、私からは申し上げられません。お花のご相談でしたらお伺いしますけれど」

プロとしての言葉遣い、感情を一切混ぜない。接客マニュアル通りの対応。それが今の私にとって最大の防御壁だ。すみれの笑みが一瞬消えた。挑発に乗ってこない私に、明らかに苛立ちを覚えている。

「うん。つまらない人ね。ヒカルさんが『退屈だ』って言ってたの、分かる気がするわ」

その一言を残して、すみれは花を買うこともなく店を出ていった。ヒカルはすみれの前で、私のことを「退屈な女」と言っていたのか。ドアベルの音が静まった後、私は初めてカウンターの縁を強く握りしめた。

「むつきちゃん、大丈夫?」

奥から出てきたれん子さんが、心配そうに声をかけてくれる。全てを聞いていたのだろう。

「大丈夫です。あの人は私を怒らせて、動揺を引き出そうとしていた。でも、乗りませんでした」

「偉かったわ。でもね、無理はしないでいいのよ」

れん子さんの優しい声に、こらえていたものが一気に込み上げてきたけれど、涙は流さない。まだその時ではない。今は耐える時だ。

すみれの訪問は一度きりでは終わらなかった。その後も週に一度のペースで花屋に現れ、さりげなく嫌みを言って帰っていく。常連客の目がある中で、あからさまに騒ぎを起こすことはしない。計算高いすみれは、私と二人きりになる瞬間を狙って、静かに毒を注いでいく。赤ちゃんの性別が分かったこと、ヒカルが名前を考えていること、新居の内装を二人で選んでいること。全て、私の感情を揺さぶるための計算された行動だった。

義母からも圧力が強まっていた。彼女がすみれに直接連絡を取り、「ムツを追い出す作戦」を練っているらしいことが、漏れ聞こえてくるヒカルの電話の声から聞き取れたのだ。嫁を排除し、新しい嫁と孫を迎え入れる。義母にとっては、それだけが唯一の関心ごとなのだろう。私が7年間、義母のために手料理を作り、掃除を手伝い、笑顔で接してきたことなど、最初から存在しなかったかのようだ。

ヒカルの弁護士からは2回目の書面が届いた。今度は「妻が離婚調停を長引かせることで、夫の精神的苦痛が増大している」という趣旨の主張が加わっていた。不倫をした側が精神的苦痛を訴えるとは、呆れるほかない。とはいえ、法律の世界ではそういう主張も戦術の一つとして成り立つのだと、さつきが教えてくれた。

さらに追い打ちをかけるように、ヒカルから新たな圧力がかかった。

「ムツ、調停を取り下げろ。お前がつまらない意地を張るせいで、会社にも迷惑がかかりかねないんだ」

「会社に迷惑?どういう意味?」

「営業部長の俺が離婚調停なんてやってると知れたら、出世に響く。社内の信用問題だ」

思わず苦笑が漏れた。自分が不倫をしたことで離婚に至ったという自覚が、この男にはまるでない。まるで私が調停を申し立てたせいで迷惑を被っているかのような物言いだ。

「慰謝料は300万に上げる。それで手を打て。これ以上揉めたくない」

「300万ではお話になりません。調停で正式に話し合いましょう」

「お前、一体何が欲しいんだ?金か?金が目当てなのか?花屋の安月給じゃ足りないから、俺から絞り取ろうってのか?」

ヒカルの声が甲高くなり、拳がテーブルに叩きつけられた。彼は最後まで私の仕事を見下し続けている。ヒカルの姿を、私は静かに観察する。怒りの裏には恐怖がある。「不正経費のことをどこまで知られているか」が分からない恐怖が、彼を苛立たせているのだ。

「欲しいのは金ではなく、正当な権利よ。それだけ」

その一言で会話を打ち切り、私は寝室に引き上げた。ヒカルがリビングで大きなため息をつく音が、壁越しに聞こえてくる。

さつきに先ほどの会話を電話で報告した。

「300万に上げてきたってことは、向こうも調停になったら不利だと分かってるのよ。いい兆候だわ」

「でも、すみれが花屋に来て嫌がらせをしてくるの。あれはかなり精神的にきついわ」

「それも記録しておいて。日付と時間、何を言われたか、全部ね。嫌がらせの証拠にもなるし、慰謝料の増額理由にもなるわ。一つも無駄にしちゃだめよ」

私はその夜、すみれの来店記録を全てノートに書き出した。花屋の防犯カメラにも映像が残っているはずだ。れん子さんに確認して、データを保存してもらおう。証拠は着実に積み上がっているが、ヒカルとすみれと義母、三人がかりの圧力は確かに辛い。それでも私には、れん子さんとさつきというかけがえのない味方がいる。一人で戦っているわけではないという事実が、暗い心に明かりを灯してくれていた。

仕事帰りのさつきと二人で、花屋の裏口近くのベンチに座って缶コーヒーを飲む。夕暮れの空がオレンジ色から紫色に変わっていく中、さつきがふいに切り出した。

「ねえ、一つ気になることがあるの。すみれって、本当にヒカルさんだけと付き合ってるのかしら?」

「どういうこと?」

「不動産の仕事柄、人の引っ越し事情を見てきたんだけど、すみれさんが住んでいるマンション、ヒカルさんが借りた名義じゃないみたい。別の男性名義になっているの」

私は息を飲んだ。もしすみれがヒカル以外にも男がいるなら、お腹の子の父親が本当にヒカルなのかという疑問が浮上する。ヒカルは全てを投げ打ってすみれを選んだが、そのすみれ自身がヒカルだけを見ているとは限らない。まだ確証はないが、この情報は今後の展開を大きく左右する可能性がある。さつきに詳しい調査を頼み、私はヒカルの不正経費の証拠整理を続けた。

第1回目の調停を翌日に控えた頃、事態は予想もしない方向に動いた。ヒカルがマンションに帰ってくるなり、形相を変えて私に詰め寄ってきたのだ。いつもの苛立ちとは明らかに異なる、切迫した表情を浮かべている。

「おい、お前、まさか俺の会社に何か連絡したのか?経理部から呼び出しを食らったんだが」

「私は何もしてないわ。本当よ」

経費不正の証拠は離婚交渉の最終手段として温存してあり、会社に通報したことは一度もない。

「嘘をつくな。お前以外に、誰がそんなことをするんだ?」

ヒカルの額には油汗が浮かび、両手が小刻みに震えている。会社の経理部が内部監査に動き始めたということは、ヒカルの不正が別のルートで発覚し始めたのかもしれない。自業自得とはまさにこのことだ。不正経費は私が暴く前に、会社の内部統制が自力で嗅ぎつけた可能性がある。ヒカル以外にも不正を知っていた人間がいて、その人物が通報したのかもしれない。すみれが経費で処理されたレストランの領収書をうっかり誰かに見せていたり、ヒカルの部下の中に上司の不正に気づいていた人間がいたとも考えられる。どのルートであれ、ヒカルが巻いた不正の種は、彼自身の足元で芽を出し始めていたのだ。

「くそ、どうすればいいんだ」

目の前で頭を抱えるヒカルの姿は、かつて見たことのないほど惨めなものだった。営業部長として会社で威張り散らしていた男が、自らの不正に怯える小動物のように縮こまっている。ネクタイは緩み、Yシャツの襟は汗で濡れ、いつも完璧に整えていた髪が額に乱れかかっている。この人がかつて部下の前で堂々とスピーチをしていた同じ人間とは思えなかった。人は追い詰められると、本来の姿が剥き出しになる。ヒカルの本来の姿は、強そうに見えて実は脆い虚勢だけの男だったのかもしれない。

ヒカルは追い詰められた動物のように、矛先を私に向けてきた。

「全部お前のせいだ。お前が調停なんて起こさなければ、こんなことにはならなかった。俺のキャリアを潰す気か」

「あなたのキャリアを潰したのは、私ではなくあなた自身よ」

「黙れ。お前に何が分かる」

その夜、ヒカルは荒れに荒れた。リビングで酒を煽り、壁に拳を打ちつけ、「全部お前のせいだ」と繰り返し怒鳴る。私は寝室のドアに鍵をかけ、布団の中で息を殺していた。酔ったヒカルの足音が廊下を行ったり来たりする音が、深夜まで途切れない。やがてその足音も遠ざかり、玄関のドアが乱暴に開閉する音がした。ヒカルはどこかへ出ていったらしい。

翌朝、花屋「花結び」の前に立つと、シャッターに赤いスプレーで大きく落書きがされていた。「花屋 嘘つき」という文字が、店の顔であるシャッターに見苦しく刻まれている。れん子さんは店の前で立ち尽くしていた。30年以上かけて築き上げた小さな花屋が、一夜にして汚されたのだ。その背中は、初めて見るほど小さく震えている。

「れん子さん、ごめんなさい。これは私のせいです」

「あなたのせいじゃない」

れん子さんは振り向いて私を見据えた。その目には怒りがあったが、それは私に向けられたものではなかった。

「こんな卑怯なことをする人間もいるのよ。でもね、この店は落書きくらいで潰れたりしないわ」

近隣の店たちが次々と様子を見に来てくれた。隣のクリーニング店の店主は「うちの防犯カメラに映っているかもしれない」と申し出てくれる。向かいの薬局の奥さんが、雑巾と洗剤を持って駆けつけてくれた。この商店街で30年以上営業してきたれん子さんの信頼は、こういう形で現れるのだ。すぐに業者を呼んでシャッターを塗り直してもらった。しかし費用は10万円近くかかることに。れん子さんは何も言わず自分の財布から支払ったが、小さな花屋にとっては決して軽い出費ではない。常連客の中には「修繕費のカンパを集めましょう」と言ってくれる人もいたが、れん子さんは穏やかに断った。「ご近所の皆さんのお気持ちだけで十分です」と頭を下げるれん子さんの姿に、胸が詰まる。

ヒカルがやったという証拠はない。だがタイミングと動機から考えて、ヒカルか、ヒカルの指示を受けた誰かの仕業であることは間違いなかった。あの人は自分の窮地を脱するためなら、妻の恩師の店を傷つけることも厭わないのだ。私は深い罪悪感に苛まれた。自分が離婚を争わなければ、れん子さんの店は被害を受けなかったのではないか。今すぐ調停を取り下げてヒカルの言いなりになった方が、周囲に迷惑をかけずに済むのではないか。そんな気持ちが頭の中を支配し、心がぐらぐらと揺れ、自分が何をすべきなのか分からなくなっていた。

その夜、私は花屋の裏庭に一人で座り込んでいた。春の夜風が頬を撫でるが、心は凍えるように冷たい。7年間の結婚生活を振り返る。ヒカルと出会った頃の胸の高鳴り。初めてのデートで隣に座ったヒカルは、私の仕事を聞いて「花屋さんなんて、素敵だね」と笑ってくれた。あの笑顔に、私は一瞬で心を奪われたのだ。結婚式で交わした誓い。「病める時も、健やかなる時も」と読み上げたヒカルの声は、少し震えていた。あれは緊張ではなく感動の震えだと思っていた。今となっては、本当のところは分からない。新居に二人で引っ越した日の喜び。カーテンも家具もない殺風景な部屋で、二人で床に座ってコンビニのおにぎりを食べた。「ここから二人の生活が始まるんだね」とヒカルが言って、私は泣きそうになったものだ。

不妊治療が始まってからの苦しみ。何度も陰性の結果に涙をこぼした夜。注射の痛みに耐え、薬の副作用に苦しみ、それでも「次こそは」と希望を捨てなかった日々。ヒカルは最初の頃、一緒に病院に来てくれていた。だが次第に足が遠のき、治療費の明細を見てはため息をつくようになったのだ。「もういいんじゃないか」と言い出したのは、ヒカルの方だった。私は「もう少しだけ」と食い下がった。あの時の私の必死さが、ヒカルには重荷だったのだろうか。あの頃から、夫婦の間にはもう目に見えない亀裂が入り始めていたのかもしれない。

全てが走馬灯のように頭の中を駆け巡り、胸が張り裂けそうになる。私がもっと家庭的であれば良かったのだろうか。もっと笑顔でいれば。子供さえ産めていれば、ヒカルは私を捨てなかったのか。自分を責める思いが、底なし沼のように私を飲み込んでいく。

「こんなところにいたの。探したわよ」

背後から聞こえた声に振り返ると、れん子さんがコートを羽織って立っていた。手には湯気の立つマグカップを二つ持っている。

「はい。温かいもの飲みなさい。体が冷えてるでしょう」

「れん子さん、お店のこと、本当に申し訳ありません。私のせいで」

「だから言ったでしょ。あなたのせいじゃないって」

れん子さんは私の隣に腰を下ろし、バラの苗木を見上げた。

「むつきちゃん、このバラ、覚えてる?3年前の台風の後、折れかけて、もうダメかと思ったでしょ」

「はい」

「でも、翌年の春にはまた芽を出しました。そう。花は踏みつけられても、折られても、また咲くの。根さえ生きていれば」

彼女の言葉には、花屋を一人で守り続けた40年間の人生の重みが込められていた。夜風が裏庭の木々を揺らし、葉の音がさわさわと響く。

「私もね、夫に裏切られた時、何もかも投げ出したくなった。子供を抱えて、この店も借金だらけで、もう全部終わりにしたいとすら思った」

初めて聞く話だ。れん子さんの口からそんな弱音が出るとは、想像もしていなかった。

「でもね、花屋を続けるうちに気づいたの。花は毎年咲く。枯れても、次の季節にはまた新しい花が咲くわ。人間だって同じよ」

私は声をあげて泣いた。れん子さんの前で、初めて、子供のように泣いた。溜め込んでいた全てが一気に溢れ出して、止めることができない。れん子さんは何も言わず、ただ私の背中を撫でてくれていた。その手の温かさが、凍えた心に少しずつ血を通わせていく。

しばらく泣いた後、温かいココアを一口飲むと、冷え切った体の芯から少しだけ力が戻ってくる。

「店の落書きなんて、洗剤一つで消せるの。でも、あなたの未来を消すことはできない。あなたが今戦っているのは、これから先の人生を取り戻すための戦いよ。それを、店の壁一枚のために諦めるの?」

その言葉が、暗闇の中に差し込む一筋の光のように、私の心を照らした。れん子さんは私のことを怒っているのではない。私が自分自身を諦めかけていることに、怒っているのだ。

「れん子さん、ごめんなさい。弱気になっていました」

「弱気になるのは当たり前。でも、弱気のまま終わらないのが大事なのよ」

二人で並んでバラの苗木を見上げる。暗い夜空の下で、枝先に小さなつぼみが膨らみ始めているのが、かすかに見えた。春はもうすぐそこまで来ている。

翌朝目が覚めた時、不思議なほど頭がすっきりしていた。昨夜のれん子さんの言葉が、心の奥底に静かに染み渡っている。洗面台の鏡に映る自分の顔にはまだくまが残っていたが、目の奥に宿る光は以前とは違っていた。あの裏庭で泣いた夜が、私の中の何かを洗い流してくれたのだ。

朝食のトーストを一枚焼き、コーヒーを入れる。いつもの朝の動作だが、一つ一つに力がこもっている。パンの焼ける匂い、コーヒーの苦み、窓から差し込む朝日の温かさ。小さな日常の感覚が、くっきりと鮮やかに戻ってきていた。

出勤前にさつきに電話をかけた。

「調停は取り下げない。最後まで戦うわ」

「よかった。そう言ってくれると思ってた。実はね、すみれのことで面白い情報が入ったの」

さつきが不動産の仕事を通じて調べてくれた結果、重要な事実が判明した。すみれが住んでいるマンションの賃貸契約者は、ヒカルではなく別の男性名義だった。さらに、その男性はすみれの元交際相手で、すみれがヒカルと付き合い始めた後もマンションの家賃を払い続けているという。

「つまり、すみれはヒカルさんと付き合いながら、元彼から経済的な援助を受けていたの。お腹の子の父親が本当にヒカルさんなのか、かなり怪しいわ」

この情報は離婚調停の直接的な武器ではないが、ヒカルにとっては致命的な精神的打撃になり得る。自分が全てを犠牲にした女性が、実は自分だけを見ていなかったという事実は、男のプライドを粉々に砕くだろう。

花屋に出勤すると、れん子さんが塗り直されたシャッターの前に立っていた。昨日までの落書きは跡形もなく消え、真っ白な新しいシャッターが朝日を受けて輝いている。

「ほら、見て。昨日より綺麗になったでしょ?傷は、乗り越えた後の方が強くなるのよ」

私はれん子さんに深く頭を下げた。言葉にならない感謝が胸の中に溢れている。この人がいなければ、私はとっくに折れていた。花の恩師であり、人生の師でもあるれん子さんの存在が、どれほど大きかったか。これからの人生で、私もいつか誰かにとってのれん子さんのような存在になれたら、と心の底から思った。

店に入り、いつものように花の手入れを始める。カーネーションの茎を切り揃え、水揚げの具合を確認し、バケツの水を変えていく。手が覚えた仕事を黙々とこなしながら、頭の中では調停の戦略を最終的に組み立てていた。まず不貞行為の証拠を提示して慰謝料の増額を要求する。次に財産分与としてマンションの持ち分を主張。そして最後の切り札として、ヒカルの不正経費の証拠を見せ、会社への通報を匂わすことで、こちらに有利な条件での合意を迫る。三段構えの作戦だ。一つ目で相手を動揺させ、二つ目で追い詰め、三つ目で完全に沈ませる。

私のこの手は花を扱うことしかできないと、ヒカルは思っていたのだろう。しかし、花を束ねる手は、証拠を束ねることだってできる。大切なものを丁寧に扱い、最も美しく見える配置を考え、一本も無駄にしない。それが花屋の仕事であり、それが今、私の武器になっている。

さつきにも最終確認の電話を入れた。

「全ての証拠に関する資料は揃っているわ。あとは調停の場で出すだけよ」

「ありがとう、さつき。あなたがいなかったら、ここまで来られなかった」

「当たり前でしょ。親友を泣かせた男よ。黙ってるわけないじゃない」

電話越しのさつきの声に、私は小さく笑った。高校時代からずっと変わらない、この真っすぐな友情が今の私を支えてくれている。カウンターの上で、今朝仕入れたばかりのカーネーションが静かに花開いていた。

閉店作業を終えて店を出ると、夕焼け空に一番星が光っている。明日は調停の日だ。深呼吸をして空を見上げる。大丈夫。私は一人じゃない。

離婚調停の当日、私は朝一番で家庭裁判所に到着した。さつきが準備してくれた資料一式を入れたファイルバッグを抱え、待合室のベンチに腰を下ろす。窓の外では桜の花びらが風に舞っていた。春の日差しが薄いカーテン越しに差し込み、ベンチの上に柔らかな影を落としている。今朝、家を出る前に鏡の前で整えた髪。紺のブラウスに黒いパンツ。それから、れん子さんが「お守りにしなさい」とくれた小さなブローチ。ドライフラワーを樹脂で閉じ込めた手作りの品で、中にはすみれの花が一輪入っている。花屋の恩師からもらったすみれを胸元に飾って調停に臨む。その小さな重みが、静かに勇気をくれた。

待合室には他にも数組の男女がいた。それぞれが異なる事情を抱え、異なる思いでここに来ているのだろう。家庭裁判所という場所は、不思議な静けさに包まれていた。怒りも悲しみも、この建物の壁の中では息を潜めている。

調停委員に名前を呼ばれ、室に入る。ヒカルは別の待合室にいるはずだ。廊下を歩く間、一瞬だけヒカルの背中が見えた気がした。だが、振り返らずに調停室のドアを開ける。

調停委員は50代の男性と40代の女性の二人組で、どちらも落ち着いた物腰の方だった。部屋の中央に置かれた長いテーブルと、向かい合うように配置された椅子。私は深呼吸をして、用意された席に腰を下ろした。

「福島さんですね。今日は離婚調停の第1回期日です。まず、申し立ての経緯からお話いただけますか?」

私は7年間の結婚生活、不妊、ヒカルの不倫発覚、そしてヒカルが提示した一方的な離婚条件について、順を追って説明した。結婚してから何年目に不妊治療を始めたか、治療費の総額、ヒカルの帰宅時間がいつ頃から遅くなったのか。不倫の告白を受けた日のこと。その時のヒカルの態度はどうだったか。委員の質問に、一つ一つ丁寧に答えていく。声は震えなかった。何度も頭の中で整理し、ノートに書き出し、さつきと確認し合った内容だから。

「不貞行為の証拠はお持ちですか?」

「はい。夫のスマートフォンに残っていた不倫相手とのやり取りのスクリーンショット、クレジットカードの利用明細、そして不倫相手自身が妊娠を認めた発言の記録があります」

ファイルから証拠書類を取り出し、調停委員に手渡す。日付順に整理されたスクリーンショット、カード明細の該当箇所に蛍光ペンで印をつけたコピー、そしてすみれ自身が花屋で妊娠を認めた際の発言メモ。花屋の帳簿と同じ几帳面さで整理された資料に、調停委員は目を通しながら、時折メモを取っていた。女性の調停委員がカード明細の一枚を手に取り、じっと見入っている。高級ホテルのスイートルーム、ブランドジュエリーショップ、フレンチレストラン。婚姻期間中に不倫相手に注がれたお金の流れが、数字として克明に記録されていた。

「慰謝料として500万円と、マンションの財産分与を求めているということですね」

「はい。婚姻期間中に夫が不倫相手に費やした金額も含め、正当な清算を求めています」

約30分の聞き取りを終え、私は待合室に戻された。次はヒカルが調停室に呼ばれる番だ。待合室のベンチに座り直し、胸元のブローチに触れる。すみれの花が樹脂の中で静かに光を放っていた。手帳を開いて、今の聞き取りの内容を振り返る。調停委員は私の話を丁寧に聞いてくれたし、証拠書類にもしっかり目を通してくれた。少なくとも、こちらの主張が荒唐無稽なものではないと受け止めてもらえたはずだ。

窓の外を見ると、裁判所の中庭に植えられた桜の木が満開を迎えていた。花びらが風に乗って舞い上がり、窓ガラスにそっと張り付いては離れていく。花屋で働く私にとって、桜は春の訪れを告げる花であると同時に、別れと新しい始まりを象徴する花でもある。今日、この場所で、私は一つの人生に別れを告げ、新しい人生を始めようとしているのだ。

待合室で静かに座っていると、廊下の向こうからヒカルの声がかすかに聞こえてきた。調停室のドアは閉まっているはずだが、ヒカルの声が次第に大きくなっているのが分かる。「そんなことは言っていない」「誤解だ」という言葉が断片的に漏れてくる。彼は調停委員の前でも冷静さを保てなくなっているのだ。営業部長として取引先と渡り合ってきた交渉術も、自分自身が追及される側に回った途端、崩れ去るらしい。

再び私が調停室に呼ばれた時、委員の表情が先ほどより厳しくなっていた。

「ご主人側は、慰謝料は300万円が上限だと主張されています。また、不妊治療への固執が婚姻関係破綻の一因だと述べています」

「その主張に対して、追加の証拠を提出してもよろしいですか?」

調停委員が頷いたのを確認して、私は二つ目のファイルを取り出した。ヒカルの不正経費に関する表である。

「これは、夫が会社の接待費として処理しながら、実際には不倫相手との交際に使用していた経費の記録です。個人のクレジットカードの明細と、会社への経費精算の控えを照合したものになります」

調停委員の目が大きく見開かれた。一枚ずつ丁寧に資料を確認しながら、その表情が次第に険しくなっていく。

「これはかなり重大な事案ですね」

「総額530万円を超える不正です。これが事実であれば、夫は会社から懲戒処分を受ける可能性があります」

「私がこの情報を会社に報告するかどうかは、調停の結果次第です」

直接的な脅迫にならないよう、言葉を慎重に選んだ。事前に調べた法的知識と、さつきのアドバイスに基づいた、問題のない範囲での交渉術だ。委員は二人とも、しばらく無言で資料を見つめていた。その沈黙の重さが、この証拠の深刻さを物語っていた。

「この資料は、ご主人との面談で確認させていただきます」

「お願いいたします」

調停委員は資料を丁寧にまとめ、次のヒカルとの面談に持ち込んだ。再び待合室で待つ間、自動販売機で温かいお茶を買った。カップのくもりが、緊張で冷えた指先にじんわりと伝わる。れん子さんが毎朝入れてくれるお茶には遠く及ばないが、今はこの小さな温かさがありがたかった。

廊下の向こうから、今度は明らかに動揺したヒカルの声が聞こえてきた。先ほどまでとは比べ物にならないほど、声が大きく荒くなっている。「そんなバカな」「出鱈目だ」「あの女が勝手に作った書類だ」などと断片的に漏れてくる。ヒカルが最も恐れていた不正経費の証拠を突きつけられて、パニックを起こしているようだ。調停委員がなだめるような低い声が挟まり、しばらくしてヒカルの声は途切れた。

3度目の面談で、調停委員が淡々と結果を伝えてくれた。

「ご主人側は、不正経費の件について事実関係を認めました。その上で、慰謝料と財産分与の条件を再検討すると述べています」

ついにヒカルは折れたのだ。不正経費の証拠を突きつけられた瞬間、彼に残された選択肢は二つしかなかった。こちらの条件を飲むか、会社に通報されて全てを失うか。営業部長として数々の商談をまとめてきた男が、自分自身の離婚交渉では完全に追い詰められている。交渉の主導権は、最初から最後まで私の手の中にあった。花を束ねるように、一つ一つの証拠を丁寧に積み上げてきた成果が、ここで実を結んだのだ。れん子さんの教え、さつきの知恵、そして花屋で培った私自身の忍耐力。全てがこの結果につながっている。

調停は2回目の期日で、最終的な合意に達した。慰謝料500万円。マンションの財産分与として持ち分相当の800万円。合計1300万円。ヒカルが当初提示した200万円の6倍以上の金額だ。合意書の文面を読み上げる調停委員の声を聞きながら、私は不思議な感慨に包まれていた。この金額が欲しかったわけではない。お金で7年間の歳月は戻ってこないし、不妊治療の苦しみが報われるわけでもない。それでも、自分の権利を正当に主張し、それが認められたという事実が、静かな満足感を与えてくれた。

「花の世話しかできない女」だと、ヒカルは私を見下していた。その女に、ここまで追い詰められたのだ。ヒカルは調停の合意書にサインする際、手が震えていたと、後で調停委員から聞いた。ペンを握る指が定まらず、何度も書き直したのだという。かつて営業部長として数々の契約書にサインをしていた同じ手が、自らの敗北を記す書類の前で力を失っていた。

調停が終わった帰り道、裁判所の前で空を見上げた。桜の花びらが風に乗って、青空の中を舞い上がっていく。ポケットの中のスマートフォンが震え、さつきからのメッセージが届いていた。「お疲れ様。結果はどうだった?」「全部うまくいったよ。ありがとう」返信を打つ指が少しだけ震えている。だが、それは恐怖や不安からではなく、長い戦いを終えた安堵の震えだ。裁判所の門を出る時、胸元のブローチのすみれが、午後の光を受けて小さく輝いた。

そして調停が終わった翌日、朝、花屋に出勤すると、さつきから緊急の電話が入った。

「ムツ、ヒカルさん、金光商事を懲戒解雇されたみたい」

「え?私は会社には何も連絡していないわよ」

「分かってる。どうやら社内の内部監査で発覚したらしいの。調停とは別のタイミングで、経理部が独自に不正を見つけたのね」

確かに、ヒカルの不正経費530万円は、離婚調停の切り札として使われただけでなく、会社の内部監査によっても独立して発覚していた。その調査が進み、全てが露見したのだ。私が通報したわけではない。ヒカル自身の不正が、ヒカル自身を滅ぼしたのだ。「因果応報」という言葉が、これほど正確に現実を表すことがあるのかと、呆然とするしかなかった。

懲戒解雇ということは、退職金も出ないだろう。それどころか、530万円の不正経費の弁済を求められるはずだ。慰謝料と財産分与の1300万に加え、会社への弁済金530万円。ヒカルが抱えることになる負債の総額は、想像するだけでも途方もない金額になる。

翌日、ヒカルはマンションのリビングで叫び声をあげていたという。かつての同僚から伝え聞いた話では、ヒカルは「なんでこうなったんだ」と頭を抱えて床に崩れ落ちたのだそうだ。営業部長として社内を闊歩していた男の、あまりにも惨めな姿だった。

さらに衝撃の情報が続いた。

「すみれのことを調べが進んだの。マンションの名義人の男性と、すみれが頻繁に会っていたことが分かったわ。ヒカルさんと付き合っている間も、ずっと」

つまり、すみれはヒカルと付き合いながら、元交際相手とも関係を続けていた。お腹の子の父親がヒカルである保証は、どこにもない。ヒカルは私を「退屈な女」と言い、すみれを選んだ。しかし、そのすみれには最初から誠実さなどなかったのだ。人を見る目がなかったのは、子供ができなかった私ではなく、ヒカル自身だった。お腹の子の父親がヒカルでない可能性。ヒカルが全てをかけた相手が、実はヒカルだけを見ていなかったという残酷な真実。一つの嘘が崩れると、その裏に隠されていた全ての嘘が連鎖的に暴かれる。ヒカルの人生は、まさにその真っただ中にあった。

その日の夕方、ヒカルから電話がかかってきた。声はかれて、以前の営業部長としての威厳は跡形もなくなっている。

「ムツ、俺は会社を首になった。不正経費の件で、懲戒解雇だ」

「そう」

「それだけじゃない。すみれが、あいつ、別の男と会ってたんだ。お腹の子も、俺の子じゃないかもしれないと言い出して」

ヒカルの声が途切れ、電話の向こうから嗚咽が漏れてくる。全てを失った男の慟哭が、受話器を通して静かに響いていた。

「俺は何もかも失った。会社も、お前も、すみれも。何のために、あんなことをしたんだ」

私は一言だけ答えた。

「あなたは自分で選んだのよ。全部、自分で」

電話を切った後、手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握っていたことに気づいた。ヒカルへの憎しみではない。7年間を共に過ごした人間の最期を目の当たりにした、言いようのない感情だった。かつて愛した人が全てを失っていく姿を見ても、胸が痛むような気持ちにはならない。ただ、もうこの人のために涙を流す理由はないのだという確信だけがあった。

窓の外で夕日が沈んでいく。オレンジ色の光が部屋に差し込み、テーブルの上に置かれた離婚調停の合意書を照らしていた。その書類の上に、長い影が伸びている。古い人生の影が、夕暮れと共に消えていこうとしていた。

翌日、花屋に出勤すると、れん子さんが朝の仕入れ作業をしていた。満開のバラの花束が、店頭を華やかに彩っている。

「はいよ。むつきちゃん、いい顔してるわね」

「れん子さん、全部終わりました。離婚も、ヒカルのことも」

れん子さんは花を挿す手を止め、私の顔をじっと見つめた。それから穏やかに目を細め、こう言った。

「お帰りなさい、むつきちゃん。ここがあなたの居場所よ」

その言葉を聞いた瞬間、こらえていたものが一気に溢れ出した。ノートに書いた「泣くのは全部終わってから」の約束を、ようやく果たす時が来たのだ。花屋の店先で、満開のバラに囲まれながら、私は声をあげて泣いた。悲しみの涙ではない。長い戦いを終えた安堵と、これから始まる新しい人生への温かい涙だった。

ヒカルのその後は、まさに転落の一途だった。金光商事の懲戒解雇処分は、社内でたちまち噂となり、同業他社にも広まったらしい。営業部長という肩書きを失ったヒカルを、どの会社も受け入れようとはしなかったそうだ。530万円の不正経費の弁済を会社から求められ、さらに離婚の慰謝料と財産分与で1300万円の支払い義務が残っている。すみれはヒカルが懲戒解雇されたと知るや、即座に手のひらを返したという。「無職の人と一緒にはいられないの。ごめんなさい」それだけの言葉で、すみれはヒカルの前から姿を消したのだとか。引っ越し先も告げず、電話番号も変え、まるで最初から存在しなかったかのように。お腹の子の父親が誰なのかという問いにも、最後まで答えることはなかった。

ヒカルが家庭もキャリアも全てを投げ打って選んだ相手は、ヒカルの地位と金にしか興味がなかったのだ。すみれにとってヒカルは、高級レストランに連れて行ってくれる男であって、それ以上でも以下でもなかったのだろう。肩書きがなくなった途端に見向きもされなくなるとは、何とも皮肉な結末だ。

義母も、ヒカルの不正と懲戒解雇の事実を知り、激怒したらしい。「福島の恥さらし。あんたのせいで、ご近所にも親戚にも顔を合わせられないわ」息子を擁護していた義母が、世間体を守るために息子を切り捨てる。その冷酷さは、かつて「子供を産めない嫁」として私を切り捨てた時と、全く同じだった。義母にとって、息子も嫁も、自分の体面を飾るための道具に過ぎなかったのだろう。道具として役に立たなくなれば、容赦なく捨てる。それが福島家という人間の本質だった。

ヒカルは実家にも戻れず、安い賃貸アパートに一人で暮らし始めたそうだ。かつては営業部長として高級レストランで接待をしていた男が、コンビニの弁当を一人で食べる日々を送っているらしい。妻も、愛人も、仕事も、母の信頼も。全てを同時に失った。残ったのは、膨れ上がった、取り返しのつかない後悔だけだった。

離婚届が受理されてから3ヶ月が経った。私は旧姓の楠木に戻り、花屋「花結び」で変わらぬ日々を送っている。れん子さんの店で花の手入れをしながら、ふと裏庭のバラを見る。冬にはつぼみだったバラが、今は見事な花を咲かせていた。真紅の花びらが朝の光を受けて輝いている姿は、何度見ても美しい。れん子さんがあの夜語ってくれた言葉が、今こうして目の前で証明されていた。

さつきとは、月に一度駅前のカフェで会うのが習慣になった。れん子さんは相変わらず、毎朝私に一杯のお茶を入れてくれる。二人の存在に支えられた日々は、穏やかで温かく、確かな手触りがあった。

先日、常連のお客様から「楠木さん、最近いいお顔してますね」と言われた。鏡を見ると、確かに以前より目の輝きが戻っている気がする。辛い時期を乗り越えた人間の顔には、独特の強さと柔らかさが同居するのだと、れん子さんが教えてくれた。

新しい名刺には「楠木ムツ」と印字されている。それを手に取るたびに、私は静かに笑みを浮かべる。花は枯れても、また咲く。私の第二の人生も、またここから咲き始めるのだ。

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