店の前で倒れていた女性に、俺は我を忘れて駆け寄った。両親から継いだ弁当屋が閉店の危機で、人助けをする余裕なんてなかったはずなのに。どうしても見て見ぬふりができなかった。
「しっかりしてください!」
女性は全身ボロボロの格好で、生き倒れのように気を失っていた。まるでホームレスのような彼女は、俺が救急車を呼ぼうとすると、
「待って……救急車はいいので」
と弱々しい声で病院に運ばれることを拒むのだった。
こんないかにも訳ありな女性が、1ヶ月後、また俺の前に現れる。以前とは全く別人のような姿で、俺に恩返しをするために。そして彼女の存在は、本当に俺をどん底から救ってくれるのだった。
うーん。やっぱりなんか違うよな。
作り立てのハンバーグを咀嚼しながら、険しい顔で首をひねる俺。名前は篠山新太、35歳。とあるオフィス街から少し行った先、突き当たりを曲がったところにある弁当屋「山の天」だ。
「だいぶ近いとは思うんだけど、次は塩を少し増やしてみるか」
先ほどから一人でブツブツと呟いているのは、メニューの一つであるハンバーグ弁当の改良をしているからだ。もう何日も肉の種類や調味料を変えて、何度も試作しては「ああでもない、こうでもない」と言い続けている。もうハンバーグを見るのも嫌なくらいだ。
「こんな事態になったのも、あんたのせいだぞ、親父」
この弁当屋は、両親が経営していた店だった。昔気質で無口な調理担当の父、明るく人当たりがいい接客担当の母。そんな正反対の二人が売る弁当は、決して写真映えするような見た目でも、食べる人を唸らせる絶品でもなかった。どこにでもあるような家庭料理とシンプルな白米が詰まっているだけ。それなりに店が繁盛していたのは、やっぱり美味しかったからだ。
「お前、そろそろ店を手伝わないか?」
ある年の正月、父は唐突にそう言った。元々店を継ぐ気はなくて、実家から近い会社に通っていた俺。
「仕事が忙しいから、今は無理だよ」
当時はそう言って断ったのだが、思えばそれは虫の知らせというものだったのかもしれない。それから間もなく、両親は事故でこの世を去ってしまったのだから。
「親父のやつめ、店を継がせる気なら、せめてメモくらい残しておけよな」
一時は閉店しようとも考えたけれど、結局俺は脱サラして引き継ぐことにしたのだった。実家は弁当屋の店の2階にあって、子供の頃に学校から帰ると、母が「おやつに食べなさい」と余ったおかずをくれた。いつもむすっと不機嫌そうだった父が、店のキッチンに立っている時だけはどこか楽しそうで、その姿を眺めているのが好きだった。そんな思い出が残る、自分にとっても大切な場所だったんだと気づいたから。
ただし、すぐに問題が発生した。それは父がレシピを全く残さないまま逝ってしまったことだ。
「ここの弁当、味が変わっちゃったよな。前の方が好きだったな」
そんな声がキッチンまで聞こえて、俺はぎくりとする。散々練習を重ねたおかげで、自炊しか料理経験がなかったにしては、まあまあ形になる弁当を作れているとは思うが、さすがに味まではレシピなしで再現することはできなかった。店を継いで約1年、ずっと試行錯誤を続けているが、やっぱり父が作るものとは微妙に味が違う。それはこの弁当屋を愛してくれる客にこそ伝わるもので、次々と常連客が離れていった結果、売上はガタ落ち。俺の努力も虚しく、すっかり経営が傾いてしまったのだった。
その日も予想していた数の半分すら弁当が売れず、仕込みの食材も大量に余らせ、がっくりしながら6時の閉店時間となった。
「もう少し頑張ってみて、ダメだったら諦めるか」
そんなことすら考えながら外のシャッターを閉めようと表に出た時。
「えっ」
俺は驚きのあまり大声をあげて固まった。その理由は、店の前に誰かが倒れていたからだ。地面の上で両手足を伸ばして、まるで生き倒れのような格好の、髪が長いので辛うじて女性かと思われる人物。その髪もボサボサで、まるで何日も洗っていないかのようだ。服装は薄手のコートにスニーカーだが、これまた長い間洗っていないかのように全体的に汚れてボロボロ。失礼ながら近づくと、かすかに異臭も漂ってくる。
「ホームレスかな? この辺りでは滅多に見かけないが、いつだか裏のゴミ箱が荒らされていたことがある。うちは日々大量の廃棄物が出るので、目をつけた人がいるのかもしれない。あの時は掃除が大変で、正直迷惑だなと思ってしまったものだが」
「大丈夫ですか? 今救急車を呼ぶので、しっかりしてください」
目の前で倒れている人を見なかったふりをするのとは、また別の話だ。俺は女性の肩を揺らしながら、近い距離で何度も呼びかけた。そして救急車を呼ぼうとポケットからスマホを取り出した時だった。
「えっ、待って。救急車は大丈夫なので」
弱々しい声で俺を止めながら、女性は体を起こそうと手足にぐっと力を入れたけれど、途中でまたぐったりと地面に倒れてしまって、同時にぐぅーっと大きな音が響いた。
「もしかして、お腹が空いてるんですか?」
「はい」
少し戸惑うような間を開けて、女性が返事をする。俺は起き上がるのに手を貸しながら、彼女に提案した。
「よかったら、中で休んでいきませんか」
「えっ、でも、こんな格好なので、お店の中を汚しちゃう」
「いいですよ。どうせ掃除するところだったし」
それに、この格好、それに救急車を嫌がる辺り、おそらく病院にかかるお金もないんだろう。そしてホームレスになるにしては、声が若すぎる気がする。事情は人それぞれだろうけど、この女性に限っては特に訳ありな気がした。そして「困っている人がいたら、とりあえず助けておきなさいよ。後でいいことがあるかもしれないから」という母の口癖が聞こえた気がしたから。
「俺はここの店主で、篠山と言います」
「私は……ごめんなさい」
「名前は分かりました。どうぞ、中に。遠慮しないで」
「ありがとうございます」
おずおずと後ろをついてくる彼女を店の中に案内しながら、名乗れないほど訳ありな女性を助けるなんて、なんだか映画みたいだな。そんなことを俺は考えていたのだった。
弁当を受け渡すカウンターの前には、両親の時代から椅子を一つ置いてある。注文が立て込んでいる時は、そこに座って待っていてもらうために。そんな最近はすっかり活躍の機会がないベンチに、俺は女性を座らせた。
「アレルギーや苦手な食べ物なんかは?」
「え? いえ、特に」
「分かりました。ちょっと待っていてください」
そう言ってキッチンに入り、約3分後、出来上がったのは焼いたウィンナーと卵焼きがメインの弁当。うちで一番提供が早い、そして意外にも人気商品である「懐かし弁当」だ。
「とりあえず、これをどうぞ。足りなかったら、そこのメニューにあるものは何でも用意するので」
でも、遠慮しているのか、なかなか弁当を受け取らない女性。しかし先ほどからぐぅっと腹の音は鳴りっぱなし。それに目は弁当に釘付けで、とても分かりやすい。
「とりあえず食べてから、後のことを考えましょうよ。腹が減っては戦はできぬ、というやつです」
「あ、はい。では、いただきます」
そう言って勢いよく頭を下げるや否や、女性はひったくるように俺から弁当を受け取ると、そのままガツガツと掻き込み始めた。
「あ、も、もう少しゆっくり食べては、喉に詰まったら……」
「えっ、美味しい。美味しい」
美味しいと繰り返しながら、彼女はあっという間に完食してしまった。そしてのり弁当、唐揚げ弁当、野菜炒め弁当と次々に平らげて、すっかり外が夜になった頃、ようやく「ご馳走様でした」と手を合わせたのだった。
「すごく食べましたね。大丈夫ですか? お腹とか」
積み上がった弁当箱の数に俺が呆気に取られていると、女性は突然「あっ」と叫んで、汚れたスカートのポケットをゴソゴソと漁り始めた。
「あの、こんなに食べておいて、大変言いづらいのですが」
「はい」
「その、今は持ち合わせが、これだけしか……」
そう言いながら女性が申し訳なさそうに見せてきたのは、手のひらに乗せた、たった1枚の10円玉だった。
「後で必ず全部お支払いします。本当に無銭飲食なんてするつもりはなくて、あまりに美味しくて、ついこんなに……」
「そんなに美味しかったですか?」
「ええ、すごく」
「そっか」
俺は「お代なんかいいですよ」と下げる女性に、再び10円玉を握らせた。そんな言葉は、この店を継いでから初めて言ってもらえた。「味が変わった」「前の方が良かった」ではなく、「美味しかった」と。それがあまりに嬉しくて、お代のことなんてどうでもいいとさえ思ってしまった。
「元々俺から進めたことでもあるので、いいですよ、お代は」
「あ、ありがとうございます。篠山さん」
「それと、ご迷惑ついでにお願いが」
「何ですか?」
「そのハンバーグ弁当も、頂いていいですか?」
もじもじしながら女性は絞り出すような声で、壁のメニュー表を指差すのだった。
「本当に美味しいです。このハンバーグなんて、特に」
「ありがとうございます。よく入りますね」
本当に大量の弁当を食べた後だというのに、これが1個目の弁当だとでも言うかのように、笑顔でどんどん箸を進める女性。頭から足元まで汚れきった格好をしているのに、よく観察すると妙な違和感がある。それはボサボサに伸びた髪の下に、綺麗に整った顔立ちがあったから。まつ毛が長くて大きな目に、すっと高い鼻。それに汚れを落とせば、きっと肌も白いはず。
「こんな若い美人が、どうしてホームレスに?」
俺が思わず女性の顔をじっと見つめたその時だった。
「うっ」
突然ぴたりと箸を止めた女性。その目から涙が一筋、すーっと流れた。
「えっ、ど、どうかしましたか?」
「いえ、すみません。ちょっと昔を思い出しちゃって」
そう言うと彼女は涙を拭うこともせず、残りの弁当を一気に平らげた。そして「ご馳走様でした」とこちらへ丁寧に深々と頭を下げた。
「本当にとっても美味しかったです。しばらくは来れそうにないですが、絶対に篠山さんのことは忘れません。本当にありがとうございました」
「あ、ど、どういたしまして」
それでは、と最後ににっこり笑うと、女性は店を出ていくのだった。「必ずまた来ます」という、やけに意味深な一言を残して。
そんな出来事から1ヶ月が経った頃だった。ある朝、自宅でなんとなくテレビを見ていると、先日スタートしたある新作の舞台が大盛況というニュースが流れてきた。
「へえ、星川ルナさんか」
思わず目を引かれたのは、カメラに向かって手を振る女性。今回の舞台ではヒロインのホームレス役を務めた女優だった。まさに「透明感」という言葉がぴったりな、透けるように白い肌。それに大きな目が印象的な、芸能人に興味がない俺でも見とれてしまうほどの美女だ。
「まだ24歳か。こんなに若いのに、大したもんだな」
彼女は昔テレビで子役として活躍していたらしい。現在は舞台を中心に活動し、今回ついに大望のヒロイン役を勝ち取った。その美貌のみならず、抜群の演技力でも注目される。これから要注目の人物だと、アナウンサーの説明を関心しながら聞いていた俺だったのだが、ここで「現在大盛況な舞台の様子を少しだけお届けします」という言葉と一緒にテレビに映し出された映像。それを見た俺は、ポカンと開いた口が塞がらなくなった。
「えっ、この人って、まさか?」
そこに映っていたのは、1ヶ月前俺が助けたホームレスの女性だったのだ。
それから俺は1日中ぼーっとして、全く仕事が手につかなかった。どうなってるんだ、一体。舞台の上で走り回ったり、危機迫る表情でセリフを叫んだりしていたのは、間違いなく1ヶ月前に店の前で倒れていた女性だった。全身ボロボロの格好も、顔の汚れまで、あの日に見た姿そのまま。もちろん、その下に隠れていた美貌も。ということは、あの人は星川さん。
ほとんど客が来ないことは、この日に限っては幸いだったのかもしれない。ぼーっと空中を見つめたり、かと思えば急に叫び出したりと、店主の俺が完全に挙動不審だったから。
「いいや。今日はどうせ誰も来ないし、早いけどもう店を閉めてしまおう」
そう思い、シャッターを閉めるために表へ出ようとした。その時だった。
「すみません。まだ大丈夫ですか?」
不意に外からドアが開いて、一人の女性が店内を覗き込んできた。
「ああ、はい、大丈夫ですよ」
返事をしながら、その女性に抱いた印象は「怪しい」だった。黒いキャップを目が隠れるまで深く被り、首まできっちりファスナーを上げた黒いジャージ姿。おまけに顔全体を覆うマスクまで黒と、全身が黒一色で、誰が見たって怪しい。もっとはっきり言えば、不審者だ。とてもじゃないが、これから弁当を食べようという人物には見えない。
「ご注文ですか?」
「はい。とりあえず、50個ほどお願いできますか?」
「ご、50個?」
怪しすぎる人物からの、予想外すぎる質問。俺が思わず素っ頓狂な声をあげると、目の前の女性は突然ブンブンと顔の前で手を振り始めた。
「あ、違いますから。いくら私でも、さすがに50個は食べられません」
「えっ、私でも20個ならなんとか……」
「うん」
「篠山さんのお弁当なら、30個でも……」
「あの、どこかでお会いしたことが?」
全く覚えのない俺がそう尋ねると、女性はおもむろにマスクを外し、形のいい唇でにっこりと微笑んだ。そして続けてキャップを脱ぐと、えっ、驚きのあまり後ずさって、カウンターに思い切り背中をぶつけた。なぜなら、目の前で微笑むのは、今朝テレビに映っていた美貌の女優、星川ルナさんだったのだから。
「お久しぶりです、篠山さん。あの日は改めて、本当にありがとうございました」
「お久しぶりって、まさか本当に?」
「約束通り、また来ました。今日はちゃんとお財布を持って」
そう言って彼女は少し照れたような笑顔を浮かべた。俺は様々な衝撃に包まれながら、その笑顔に見惚れてしまうのだった。
その後、俺が少し落ち着いた頃、あのホームレス姿は役作りのためだったとルナさんは明かした。最初は役になりきって街を歩くだけだったのが、だんだん「この程度じゃダメだ」とエスカレートして、ついには食事まで抜くようになった。そこにハードな稽古が重なって、とうとう倒れてしまったのだと。
「昔からよく食べるのもあって、もう辛くて辛くて。このお店の前で倒れていたのも、無意識に感じたのかもしれませんね。ここにすごく美味しいお弁当があるぞって」
「そうですか」
「どうかしたんですか?」
首をかしげる彼女に、俺も明かす。「美味しい、美味しい」とこの間から言ってくれていること。それはすごく嬉しいが、これが父だったらもっと美味しい弁当を作れただろうと。
「そんな、本当にすごく美味しかったのに」
「きっと、お腹がペコペコだったからですよ」
「俺が作る弁当は美味しくない。全然売れないのが、何よりの証拠です」
元営業マンとして接客には自信があったものの、やはり母には敵わない。両親との思い出の店を傾かせてしまって、こんな自分が後を継ぐなんて、やはり無謀だったんじゃないか。ルナさんの前なのに、俺は厳しい現状を思い出してため息をついた。するとその時だった。
「ハンバーグ弁当!」
「えっ?」
ルナさんが急に大声を出したので、面食らってキョトンとする。ルナさん本人は頬を赤らめて、恥ずかしそうに笑っていた。
「すみません。あの味を思い出したら、つい。大きな声で、ハンバーグ弁当を1つ頂いてもいいですか?」
「あ、はい。少々お待ちください」
今の話の流れで、とも思わないでもなかったが、才能ある人というのはどこか世間の常識からずれているものだと聞いたことがある。俺はキッチンに入って、とりあえずハンバーグ弁当の調理に取りかかった。そして約10分後。
「お待たせしました」
「ああ」
俺が持ってきた弁当を見て、ルナさんは分かりやすく目を輝かせた。そして早速ベンチに座り、「いただきます」と出来たてのハンバーグを口に運んだ。
「そうそう。私、今日はそんなにお腹が空いていないんです」
「あ、そ、そうなんですか」
「はい。でも、やっぱりすごく美味しいです」
こう言ってルナさんはにっこりと微笑んでくれるのだった。
「お弁当を50個注文したいんです。一緒に舞台をしている皆さんに差し入れしたいので」
あっという間に弁当1つを完食すると、ルナさんは改めてそう言った。
「大丈夫ですか? 50個か。初めてですが、無理ではないと思います。でも、本当にうちでいいんですか?」
「篠山さんのお弁当がいいんです。どのお弁当も美味しくて、それに優しい味がしたから。一緒に頑張っている仲間たちにも食べてもらって、残りの舞台を乗り切りたい」
彼女はそう言ってくれた。
「優しい味……」
「お父さんの時と味が変わってしまったのは、きっと仕方ないことだと思います。同じ役柄で同じセリフを喋っていても、演じる人によって雰囲気が違ってしまうように。それは演技の上手い下手じゃなくて、それぞれの個性があるからだと思うんです」
「個性……」
「だから私は、美味しくて優しい味がする篠山さんのお弁当が好きです。私だけじゃなくて、そう思う人はきっと大勢います。だから、自信を持ってください」
あっ、その言葉はずっと抱いていた勘違いに気づかせてくれた。いくら父の味を追い求めても、完璧に再現することなんて不可能なのに。そんなことよりも、もっと大事なのは、自分が自信を持って「美味しい」と言える弁当を客に提供することじゃなかったのか。
「ご注文、承りました」
「本当ですか?」
「はい。皆さんの元気が出るような、飛び切りの弁当を作らせてもらいます」
目を輝かせたルナさんに、俺も笑顔で大きく頷いた。
それから数日後、俺は今出せる全力を込めた弁当50個を、ルナさんが舞台をしている劇場に納品すると、想像以上の反響があり、「すごく美味しかったから」と直接買いに来てくれる舞台関係者も少なくなかった。そして、「すみません、少しご相談があるんですが」と、ある日そんな電話が店にかかってきた。電話の主である女性は、あるモデル事務所の社員。舞台関係者との繋がりから話を聞いて、この店の弁当に興味を持ってくれたらしい。
「和風のおかず中心のお弁当を作ってもらえないでしょうか? できるだけカロリーを低く、だけど味は美味しくて、少量でも満足できるもの」
これは随分難しい注文だが、聞けば所属するモデルの多くがスタイルの維持に悩んでいるという。この店の評判を聞いて食べてみたいという声が多く上がったものの、みんなカロリーが気になって食べられない。それがどうにか食べさせてあげたいのだと。
「なるほど。ちなみに、数は全部で100個お願いします」
「100個ですか?」
それはこれまでで一番の大口注文だった。俺は試行錯誤の末に、低カロリーで美味しく、かつ満足感のある新しい弁当を完成させ、どうにか無事に納品すると、それがさらに評判を呼んで、別の芸能事務所からも注文が次々と舞い込むようになって、かつて泣いていた店は、急に休む間もないほど忙しくなったのだった。
「こんにちは。弁当屋『山の天』です。特製弁当10個、お届けに参りました」
そんな大忙しの日々の中でも、俺には必ず自分の足で行く場所があった。それはとある雑居ビルの2階にある、オフィスが1つあるだけの小さな芸能事務所だ。
「ご苦労様。そこに置いてちょうだい」
ここはルナさんの個人事務所。社長を務めているのは、ルナさんの母、星川葉子さん。注文の弁当を配達に来るといつも決まって「そこに置いて」と、パソコンから顔をあげることもなく指示される。ルナさんと顔立ちは似ているが、その雰囲気は正反対。綺麗だが、少し冷たくて怖い印象のある女性だ。
「まだ何か?」
「いえ、失礼します」
少し配達が遅れただけで、棘のある声が飛んでくる。「お母さんはいつも厳しいの」とルナさんがこぼしていた通りだけれど。
「ありがとうございました。またのご注文をお待ちしています」
これからも俺はここに弁当を届けに来る。弁当屋「山の天」が大復活するきっかけをくれたルナさんへの感謝を込めて。そんなある日のことだった。
彼女自身も仕事で大忙しな中、そのルナさんが久々に店へ顔を出して、いきなり「篠山さんにお願いがあります」と切り出した。
「私に料理を教えてもらえませんか?」
「えっ、料理ですか? 俺がルナさんに?」
「はい。篠山さんしかいないんです」
そう言いながらルナさんはカウンター越しにぐっと顔を近づけてきた。
「えっ、お願いします」
とても真剣な目で、今世間が最も注目する美女に迫られて、俺は鼓動がドキッと急に早くなったまま、しばらく元に戻らなかった。急に料理を教わりたいなんて、また役作りのためだろうか。そう考えた俺は、すぐにルナさんの頼みを引き受けることにした。何しろホームレス役の時、彼女が演技にかける情熱を、俺は文字通り間近で見た。また彼女があんな素晴らしい演技をするなら、それに恩人である彼女のためなら、料理を教えるくらいお安い御用だ。
「こういうのもなんですが、あの時は本物のホームレスに見えました。あそこまでしなきゃいけないなんて、演技大変なんですね」
「いえ、あの時は特別でした。私の人生がかかっていたので」
「人生ですか?」
「ええ」
ルナさんは苦笑いをしながら、あれほど役作りにのめり込んだ理由を明かしてくれた。彼女は10数年前、一時期かなり注目された子役だったらしい。「天才子役」「10年に1人の逸材」と持ち上げられ、周囲の大人たちに散々やんややんやと囃し立てられた。しかし、すぐに旬を過ぎてしまったんです。別の子役が注目されるようになると、一気に世間から飽きられてしまって、どんどん仕事は減っていって、学を卒業する頃にはもう誰も私を覚えていませんでした。大人たちにも手のひらを返され、所属していた事務所も首に。それから約10年の間、名前もないような端役をこなしながら、女優としてパッとしない日々を送った。ところが、ある日チャンスは前触れもなく舞い込んできた。有名な舞台監督が私をヒロインに抜擢してくれたんです。それがあのホームレス役で、ついに仕事が0になって正直焦っていた時だったので、「これだ」と直感しました。この役を完璧に演じられれば、これからも女優を続けられる。だから、役作りのためなら何でもしてみせるって。あの厳しい社長ですら、抜擢された時は「頑張りなさい」と激励してくれたらしい。だから空腹のあまり気絶するまで、ルナさんは自分を追い込んだ。その甲斐あって舞台は大成功。現在は事務所にもひっきりなしにオファーが舞い込んでいるという。
「それは良かったけど、やっぱり芸能界は大変ですね。ただテレビを見ているだけの俺には、単に華やかな世界に見えるのに」
「ええ」
その時、ふとルナさんの表情が寂しそうなものに変わった。
「篠山さんの料理は、美味しくて優しくて、それに懐かしいです」
「懐かしい?」
「実は、料理を教わりたいのは役作りのためじゃないんです」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。私、お母さんのために料理を作りたいんです」
まっすぐ俺を見つめながら、ルナさんはそう言った。
「子役を始める前、それに始めたばかりの頃。うちはお金がなくて、でも『ルナのためなら』って、お母さんは工夫を凝らしてお腹いっぱいご飯を食べさせてくれました。それが本当に美味しくて。篠山さんが作るお弁当の味は、不思議とお母さんの料理に似ているんです」
「それはいいお母さんですね」
「そうですよね。いいお母さんなんです」
とってもまた寂しそうな表情を浮かべて、ルナさんはぽつりと呟く。弁当を食べながら泣いてしまったのは、その当時を思い出したから。貧乏な家庭でも、あの頃は幸せだったと。今との違いを思い知って、悲しくなったからだとも。
「今は、幸せじゃないと?」
「そうですね。お母さんが変わってしまったので」
「変わった?」
「私のために何もかも投げ打って頑張ってくれたのは知ってるけど、役者として成功した途端、たくさんお金が手に入った途端、今のお母さんに変わっちゃった。例え貧乏のままでも、私は優しいお母さんがいてくれたら、それだけで良かったのに」
ぽたりと、ルナさんの手元に涙のしずくが落ちる。それを見た瞬間、俺は悟った。彼女が料理を教わりたいのは、昔の優しい社長を取り戻したいから。二人で思い出の料理を食べれば、社長も昔を思い出してくれると信じているからだと。
「ルナさん、社長はどんな料理が得意だったか、教えてもらえませんか?」
「えっ」
突然ある作戦を思いついた俺。それをルナさんに明かすと、彼女も目を丸くした。そして翌日から、仕事の合間を見つけては俺の元へ通ってくるようになるのだった。
ルナさんに料理を教え始めて1ヶ月が経つ頃だった。いつものように彼女の事務所へ弁当を届けに行くと、珍しく社長は顔をあげて、俺をまっすぐに見つめた。
「あの、何か?」
「今後、2度と篠山さんにお弁当は注文しません」
「えっ?」
思わぬ言葉に固まると、社長は椅子を立ち上がり、こちらへ歩いてきた。そして目の前まで来ると、じろっと鋭い目で俺を睨みつけた。
「知っているのよ。ここ1ヶ月、娘があなたのお店に通い詰めているのは。何をしているのか知らないけれど、もう2度と行かせませんから」
「そんな、待ってください。ルナさんは……」
「困るのよ。やっと仕事が増えてきた今の時期に、スキャンダルで変な注目をされるのは」
「スキャンダル?」
「今すぐ娘と関係を切って。お金が欲しいなら、多くはないけど差し上げるつもりよ」
「待ってください。社長は俺たちについて誤解している。ルナさんに関しては、誓って何もやましいことはないのだと」
俺は弁明しようとするが、それは途中で社長に遮切られてしまった。
「どうせ娘を使って芸能界に繋がりを作りたかったんでしょう。良かったじゃない。随分繁盛しているようだし、もう十分なくらい娘を利用できたでしょう。これ以上は、ルナにとって邪魔でしかないわ。あなたのせいで女優としてのキャリアに傷がついたら、私は絶対にあなたを許しませんから」
「あっ、ルナさんにとって邪魔。女優としてのキャリアに傷がつく」
考えてもみなかった言葉に、俺は頭をガツンと殴られたようなショックを受けた。
「分かりました。ですが、最後にお願いがあります」
「お金のこと?」
「違います。これを食べてもらえませんか?」
「は?」
嫌な顔をする社長に、俺は持ってきた弁当の山から一番上の1個を差し出した。それだけ、他の弁当箱とは蓋の色が違う。なぜなら、それは特別な弁当だから。
「これは今朝、ルナさんと一緒に作ったものです。ルナさんと社長、お母さんとの思い出の料理をたくさん詰めてあります。これを作ったルナさんの気持ち、きっと食べてもらえれば分かるはずです。できれば、ルナさんと一緒に」
「そんな話、信じると思う?」
「中を見てもらえれば分かりますよ。それでは、失礼します」
深く一礼すると、俺は社長の元を後にした。もう2度と来ることはない場所。そしてルナさんとも、明日を最後にもう2度と会えないのだと覚悟しながら。
そして翌日の閉店後、いつものように仕事を終えたルナさんが店にやってきた。夜遅くにソワソワしながら、彼女は俺におずおずと尋ねてきた。
「お弁当、お母さんに渡してくれたんですよね。私、昨日はロケで帰れなくて」
「ちゃんと渡しましたよ」
「本当に?」
「はい」
目を輝かせる彼女には、とても本当のことは言えなかった。弁当を受け取った社長が、少しも嬉しそうな顔をしなかったなんて。それからも通り一緒に料理をして、完成した料理を一緒に食べている最中、ついに俺は切り出した。
「もう、これで最後にしましょう」
「えっ?」
「随分上手になったので、俺が教えることはありません。お弁当も無事社長に渡したことですし」
「あ、で、でも、私まだまだ全然下手で。1回だけでお母さんが元に戻ってくれるとも限らないし、これからも……」
食い下がるルナさんを突き離すように、俺は出入り口に向かい、ドアを開け放った。
「帰ってください。それから、もう2度と来ないでください」
「篠山さん、どうして?」
声を震わせながら、ルナさんの目が見る見るうちに潤んでいく。そして、
「篠山さんが、新太さんが好きになっちゃったんです。これからも一緒にいたいって、思っちゃだめなんですか?」
ぽたぽたと涙が頬を伝って、床に落ちる。厳しい芸能界に生きる中で、俺のそばだけがほっと安らげて、心から笑える場所なのだと。そんな思わぬ告白にも、俺の心は動かなかった。
「さあ、帰って。ルナさんの気持ちには答えられないので」
「新太さん……」
俺はルナさんの腕を掴んで、無理やり出入り口に連れて行った。涙で顔をぐちゃぐちゃにしたルナさんは、しばらく抵抗したものの、最後は俺と一緒に店の外へ出て、ようやく諦めたようにその場で力なく俯いた。
「本当に、これで最後なんですか?」
「はい。もうルナさんには会いたくありません」
「そう」
そこで不意に顔をあげたルナさんは、寂しそうな微笑みを浮かべていた。
「そして、私の気持ち、忘れないでください」
そう言って、突然ぎゅっと抱きついてくるのだった。
「ルナさん、最後ですから、いいですよね。これくらい」
ああ、どうしよう。一瞬、真実を明かしてしまおうか。どうしてルナさんと会えなくなるのか。そして、俺の本心も。そんな迷いのせいで、俺はルナさんの腕を振りほどくことができなかった。だから、チャンスを与えてしまった。すぐ近くで張り込みをしていた記者に、俺たちの写真を撮るチャンスを。
あっ、カシャッとシャッター音が聞こえた時には、手遅れだった。カメラを持った若い男性がニヤニヤと笑いながら駆け寄ってきて、慌てて俺から離れたルナさんに質問を浴びせた。
「週刊誌です。女優の星川ルナさんですよね。そちらの男性は、恋人ですか?」
「あ、違います」
「なら、どうして抱き合っていたんですか? ご兄弟は、いませんよね。子役時代から母子家庭で、お母さんの星川社長と2人きりの家族なので」
「やめてください」
男性から守るように、俺はルナさんを背後に隠す。すると男性は「熱愛スクープの証拠ができた」とばかりに、何度もカシャカシャとシャッターを切った。
「やめろって言ってるんだ。彼女とは何でもない、赤の他人なんだよ」
「これを見た人も、果たして同じことを思いますかね」
ニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら、男性はカメラを俺に見せつけるように高く掲げて、ヒラヒラと振って見せた。そしてどこかへ電話をかけながら、止める間もなく走り去っていくのだった。
「新太さん……」
不安そうな表情のルナさんを、「きっと大丈夫」と慰める。根拠は全くないけれど、そう言うしか俺にできることはなかった。
ところが、お母さんだ。
「もしもし。ルナ、今すぐ事務所に来なさい。篠山さんと一緒に」
ルナさんのスマホから響いた、星川社長の怒鳴り声。それは決して「大丈夫」と言える状況ではないことを物語っていた。
「週刊誌の記者から連絡があったわ。熱愛記事を取り下げて欲しければ、1000万円を払えって」
「1000万ですか?」
「だからお願いしたのよ。もうルナには近づかないでって」
事務所に到着するなり、星川社長は俺を攻め立てた。
「全部あなたのせい。私が今までどれだけルナの身辺に気を使ってきたと思ってるの」
「なんとか言ったら? それとも、あなたが1000万円を払ってくれるの?」
「すみません」
「やめて、お母さん。新太さんは何も悪くないの。悪いのは全部私。きっと私のために、新太さんはわざと突き離してくれたのに、私が気持ちを抑えられなかったから」
「どうでもいいわ。それより、どうにか記事を取り下げてもらわないと、今後の仕事に差し支えるわ。何か記者を止める手はないのか」
どこかへ電話をかけようとする社長。その手を、俺は掴んで止めた。
「さっ、何してるの、あなた?」
「昨日のルナさんの弁当、食べていないですよね、社長」
「お弁当? こんな時に何を……」
「いいから、話しなさい。もし食べていたら、そんな言葉は出ないはずだ。ルナさんの気持ちがどうでもいいなんて」
あっ、はっとしたような顔で、社長の動きが止まる。そこへルナさんが不安そうな顔で訪ねた。
「あの、お弁当、食べてないの? お母さん」
「あなたまで、そんな場合じゃないって分かるでしょう」
「もしかして、食べないで捨てちゃったの?」
「捨てるはずがないでしょ!」
そう叫びながら、社長は勢いよく椅子を立ち上がった。ルナさんは少しほっとした顔になる。ここがチャンスだと、俺は社長に真実を告げた。
「社長、ルナさんはずっと俺に料理を習っていただけです」
「料理ですって?」
「はい。昔2人で一緒に食べた思い出の料理を再現したいから。それを今の社長と一緒に食べたいからですよね、ルナさん」
「はい」
「お母さん、お弁当は捨ててないのなら、今はどこにあるの?」
ああ、じっとルナさんの顔を見つめたまま、しばらく沈黙する社長。すると不意にオフィスの隅へ向かうと、そこにあった冷蔵庫から見覚えのある箱を取り出して、戻ってきた。
「開けてもいいかしら?」
そう尋ねられたルナさんが、小さくこくんと頷く。そっと包み紙を剥がして、弁当箱の蓋を開けると、社長の表情が変わった。
「これ、ウィンナーは高くて買えないから、割引のちくわで作ってくれた、タコさんウィンナー。そっちは、野菜の切れ端をたっぷり入れた、かさましオムレツ」
それから1つ1つ丁寧に、ルナさんがおかずの解説をしていく。どれも家計に余裕がないなりに、食べることが大好きな娘のためにと工夫を凝らされた、美味しくて愛情がたっぷり詰まった料理だ。ルナさんはどの料理も、食材から味付けまで鮮明に覚えていた。俺が教えたのは、せいぜい調理道具の安全な使い方くらいだ。
「一緒に食べよう、お母さん。すごく美味しいから。ちゃんと味見もしたけど、お母さんが作ってくれた料理そのままだもの」
「ルナ……」
「お父さんと離婚して、私を1人で育ててくれたこと。お金がないのに、私がお芝居をしたいって言ったから、高いレッスン代を工面してくれたこと。子役のお仕事を始めてから今まで、ずっと隣で支えてくれたこと。すごく感謝してる。でもね、今の怖い顔をしているお母さんより、昔のお母さんの方が好きなの。女優の仕事を続けるより、たくさんお金をもらうより、お母さんと一緒にご飯を食べたい。お金がある今より、貧乏だった昔の方がずっと楽しかったから。これが私の気持ち」
ああ。社長は俯いたまま、じっと弁当箱の中を覗き込んでいたが、やがてルナさんが差し出した割り箸を受け取ると、まずはゆっくりとオムレツを口に運んだ。
「あっ、美味しいでしょ」
目を見開いた社長に、ルナさんがにっこりと微笑む。そして別のおかずにも次々と手を伸ばすのを、静かに見守っていた。
「仕事が取れるまでオーディションを受け続けなさいって、厳しく言ったのも、本当は嫌だったの。私が頑張りたかったから、頑張っただけ。本当は辛くて、1人でこっそり泣いたけど」
「そうだったの」
ぽろぽろと、社長の目から涙がこぼれる。涙をこぼしながら、彼女の箸は止まらなかった。そしてすっかり弁当を完食すると、最後に社長は小さな声で「美味しかったわ」と呟くのだった。
「ごめんなさい。あなたのためを思って、ずっと頑張ってきたつもりだけれど、本当はあなたの気持ちなんて、何も分かっていなかったのね」
「お母さん、篠山さん、ありがとう。間違いに気づかせてくれて。それから、ごめんなさい。色々と失礼なことを言って」
「社長、私からも本当にありがとうございました」
「新太さん」
そっくりな微笑みを浮かべながら、揃って俺に頭を下げて。頭をあげると、ルナさんと社長は顔を見合わせて、にっこりと笑い合った。こうして彼女たちは、無事に昔のような2人に戻ることができたのだった。
その後、ルナさんはホームレス役の大成功を足がかりに、女優として再ブレイク。今ではドラマからバラエティ、CMまで、テレビで見ない日はないほどの売れっ子だ。ちなみに、あれから週刊誌に熱愛記事は出ていない。社長がどんな手を使ったのかは不明だが。
「よかった。ルナさん、すごく生き生きしてるよ」
あまりテレビに興味がなかった俺も、彼女が出る番組は欠かさず録画している。1日中クタクタになるまで弁当を作って、夜は録画した番組を見るのが、最近の疲れを癒す方法だ。ますます輝くほど綺麗になったルナさんは、どんな仕事も全力で頑張っている。その姿を見るのがすごく嬉しくて、やっぱり住む世界が違う人だと思ってしまう。
よかった。ルナさんがちゃんと約束を守ってくれて。もう店には来ない。俺とルナさんは、彼女が社長と和解した後、改めてそう約束した。また写真を撮られて、ルナさんの活躍を妨げられないように。それから3ヶ月の間、彼女は1度も姿を見せていない。それでいい。これからも俺は画面の向こうから見守るだけで、そう思っていたのだが、突然「会いたい」と連絡してきたのは、ルナさんの方だった。
「ここは限られた人しか知らない会員制のお店なので、まず週刊誌の記者は入ってこれません」
久々に再会したルナさんは、待ち合わせ場所のバーでにっこりと微笑んだ。やっぱりすごく綺麗だ。ドレスアップした彼女の姿に、俺は思わず見惚れて立ち尽くした。
「あれから、お母さんともたくさん話しました。少し喧嘩にもなったけど、ちゃんと仲直りできたんですよ」
「そうですか。それは良かったです」
「今の仕事は、私がやりたいと言った分だけをさせてくれてるんです。『ルナが好きなように、思うままにやってみなさい。体を壊さないように、ほどほどに頑張りなさい』って。それから、1日1回は必ず一緒にご飯を食べられるようにって、スケジュールを調整してくれるようになりました」
「そっか」
「全部、新太さんのおかげ。本当に、本当にありがとう」
そう言いながら、ルナさんはそっと体を俺の肩に寄せてきた。いきなり彼女と密着する形になって、俺の心臓がドキッと跳ねる。
「あはは。酔っ払ってるのかな、ルナさん」
「そうかも。だから、忘れちゃいました。新太さんに振られたことなんて」
至近距離で微笑みながら、ルナさんがさらに体を寄せてくる。
「そして、好きです。新太さん」
「ルナさん……」
「また振られても、絶対諦めません。女優は根性が命なので」
はあ、本当に何度だって告白されそうな気がした。ただし、それは俺が彼女の告白を断ったら。残念ながら、今日はしっかりと覚悟を決めてから来たのだった。
「俺もです。ルナさんが好きで、ずっと会いたくて仕方なかった」
「新太さん!」
まるでスポットライトを浴びたように、ルナさんの顔がパーッと輝く。その瞬間、あまりにも愛しくなって、今度は俺から彼女を強く抱きしめるのだった。
それから、ルナさんは記者会見を開き、俺との交際を世間に公表した。その理由を記者の1人に尋ねられると、彼女は毅然とした口調で、にっこりと微笑みながら答えるのだった。
「私も、もちろん相手の男性も、何も悪いことをしていないので、秘密にしておく理由はないと、社長とも相談して決めました」
後ほど聞いた話によれば、社長はルナさんの思いが実るまで、あの記者との交渉を引き延ばしてくれていたらしい。「もうすぐもっと世間を騒がせるネタを提供する。騒ぎにならなかったら、2000万でも億でも払う」と言い続けて、社長は嘘をついていない。ルナさんの堂々とした交際宣言で、世間はしばらく大騒ぎになった。そして記者は、ネタが台無しになり、1000万円を手に入れることもできず、今頃さぞ悔しい思いをしていることだろう。
一方の俺は、以前にも増して忙しい日々を送っている。ルナさんが会見で「相手の男性はお弁当屋さんを経営している方」と公表したおかげで、すぐさま俺の店が特定されたからだ。最初は興味本位で押し寄せた客たちも、1度弁当を買っていけば、みんな2回、3回と来店する常連になってくれた。今では店の前に行列ができるほど、弁当屋は連日客で大賑わいの店になったのだった。
「新太さん、和風ヘルシーを1つ」
「ルナさん、いらっしゃい」
ルナさんも、今では常連客の1人だ。お互い非常に忙しいので、店で会うのがデート代わりのようなものだけれど、彼女はそれが楽しいと言ってくれる。そして、それは俺も同じなのだった。
「ハンバーグ弁当じゃなくていいの?」
「最近ちょっと太っちゃって、しばらくカロリーを控えようかなって」
「そんなことないと思うけど。それに、少し太った方が、むしろ役の幅が広がるんじゃない?」
「確かに」
本当の理由は、好きなものを美味しそうに食べる姿が大好きだから。だが、ルナさんが笑顔になってくれたので、嘘も方便というやつだ。ちなみに現在、新メニューの「ヘルシーハンバーグ弁当」をお勧めしている。
「美味しそう。じゃあ、それをとりあえず5個」
「かしこまりました」
「そのうち、大食いの仕事も来そうだね」
「大食いか。うん。得意かも。一番組に出演しちゃおうかな。その時は頑張るから、応援してね」
そう言ってにっこり笑うルナさんに、俺も「もちろん」と笑顔で頷いた。だって、俺は彼女の恋人で、そして世界で一番のファンなんだから。
天国の両親に向けて、俺は語りかける。2人が残してくれた店を、ちゃんと守ることができたと。それは父の味を再現しなければという思い込みから抜け出して、新たな経営の道を見つけ出すことができたからだった。ピンチを突破する鍵は、思ってもみなかった場所に落ちているものだ。偶然の出会いから、俺とルナさんの両方がずっと抱えていた問題を解決できたように。そして、問題を解決したいと思っていなければ、それが鍵だと気づくことはできない。だから、俺はこれからもたくさん悩んでいく。そして、最愛の人の力も借りながら、1つずつ着実に乗り越えていきたいと思っている。



