退職届を受け取った瞬間、40年という時間の重さを初めて実感した。私は生涯をかけて、目に見えない建造物を築き続けてきた。それは、1枚1枚のレガ、残業、週末の実出金で積み上げられたものだ。モルタルの役割を果たしたのは、取引先への深いお辞儀、後輩への指示、そして決して弱みを見せないという鉄の意志だった。完成したその建造物の名を、人々は「体面」と呼ぶ。6月のある雨の日、玄関のチャイムが一度鳴った。それだけで、40年かけて積み上げたものが根元から崩れ始めた。
2026年6月、千葉県内のある住宅地は梅雨の気配に重く沈んでいた。松原秀夫は朝6時きっかりに目を覚ます。目覚ましは5時45分にセットしてあるが、鳴り終わるより先に意識が戻ってくる。それが何十年も続いた習慣だった。布団の中で一度だけ深呼吸をし、天井の木目を3秒眺め、それから起き上がる。順番が違ったことは一度もない。洗面台の前に立ち、鏡の中の自分を確認する。髪は昨夜スプレーで整えたまま崩れていない。65歳という年齢にしては肌に張りがあると、かかりつけの医者に言われたことがある。松原自身はそれを自己管理の結果だと受け止めていた。誇るべきことではないが、怠るべきことでもない。
台所に降りると、妻の知恵子がすでに起きていた。63歳の知恵子は夫より30分早く起き、朝食の準備を終わらせてから静かに座って待っている。それも長年の習慣だった。松原はコーヒーメーカーではなく、古いネルドリップのポットでコーヒーを入れる。豆は100g単位でスーパーの特売品を買い比べしている。退職前はブランドにこだわっていたが、今はそんな余裕が見つからない。湯を細く注ぎながら、松原は窓の外を見た。梅雨空は低く垂れ込め、向かいの家の屋根が灰色に滲んでいた。雨はまだ降り始めていないが、湿気が空気ごと重くなっていて、庭の低木の葉が光を反射せずにただ鈍く濡れている。
知恵子はテーブルに座り、スーパーの折り込みチラシを広げていた。ハサミで丁寧に割引券を切り抜きながら、時々鉛筆で何かを書き込んでいる。買い物リストだろう。松原はコーヒーを持って向かいの席に座り、新聞を手に取った。紙の新聞を取り続けているのは、習慣と維持の両方からだ。スマートフォンで読めると娘に言われたことがあるが、松原はその言葉に応じなかった。指でスクロールして読むのでは、どうしても「ちゃんと読んだ」という感触が伴わない。
1面の見出しは物価上昇に関する記事だった。電気代、食品、生活用品。松原は数字を目で追いながら、頭の中で今月の支出を照合していた。年金の振り込みは月に17万円と少し。固定費を除いたら手元に来るのはその半分以下だ。知恵子が割引券に鉛筆を走らせる理由は、松原には分かっていた。ただ、それについて口に出したことはない。
退職してから4ヶ月が経っていた。40年近く地域信用金庫で、松原は最終的に支店の福祉店長まで登り詰めた。部下が10数人いた時期もある。取引先の経営者から食事に誘われることもあった。名刺入れには良質な革を使い、靴は必ず磨いてから出社した。それが松原秀夫という人間の輪郭だった。今はその輪郭が少しずつ薄れていく感覚がある。朝起きないことへの違和感は最初の2週間で消えた。次に消えたのは、携帯電話が鳴ることへの期待だった。今では1日に着信が一件もない日がある。それでも松原は毎朝6時に起き、シャツの襟を立て、コーヒーを入れ、新聞を読む。形が崩れれば中身まで崩れる気がするからだ。
知恵子がハサミを置き、切り終えた割引券を小さなポーチに入れた。「今日、洋品店に行こうと思ってるんだけど」と知恵子は言った。声は低く、報告するような調子だった。松原は新聞から目を離さずに答えた。「言っておいで」という意味の短い相槌を打った。知恵子はそれ以上何も言わなかった。2人の間に沈黙が戻ってきた。居心地の悪い沈黙ではなかったが、かつて仕事から帰ってくる前の夜の沈黙とも少し違った。何かが満たされていないという気配のある静けさだった。松原はそれに気づきながら、名前をつけなかった。
コーヒーを飲み終えた頃、雨が降り始めた。最初は庭の土に点々と黒い染みを作る程度だったが、5分もしないうちに本降りになった。雨が窓を叩く音が一定のリズムになり、窓ガラスが白く滲んだ。松原は食器を台所に運び、軽く拭いて食器乾燥機に入れた。そのまま2階の書斎に上がった。書斎と言っても、余った和室に小さな机と本棚を置いただけの部屋だ。現役の頃は仕事の資料を広げる場所だったが、今はただ「行く場所がある」という理由で座りに来る。机の上には通帳が1冊置いてある。昨日の夜、引き出しから出したままにしていた。松原は椅子に座り、通帳を手に取り、しかし開かなかった。表紙の角が少しめくれていて、そこを親指で抑えた。
預金残高は800万円を少し下回る。退職金の一部と長年の積み立てを合わせた額だ。老後の資金として、松原はこれを慎重に守ってきた。年金と合わせれば、質素に暮らす分には何年かは持つ計算だった。計算の上では問題ない。問題は、計算が正確であるほど、その数字が揺らされることへの恐怖も正確になるということだった。松原は通帳を机の引き出しに戻し、窓の外を見た。雨は強くなっていた。向かいの家の玄関に干してあった傘が倒れ、傘が1本歩道に転がっていた。誰も拾いに来ない。
正午を少し過ぎた頃、知恵子が1階から声をかけてきた。「お昼ができましたよ」という声だった。松原は立ち上がり、階段を降りながら今日が何曜日だったかを確認した。水曜日だった。退職前は曜日の感覚が薄かったが、最近それが少し鈍くなってきている。それも気に入らなかった。
昼食は日清中華だった。知恵子が割引で買ってきた麺に、卵と細切りのキュウリ、ハムが乗っていた。松原は黙って箸をつけた。「雨、ひどいわね」と知恵子が言った。松原は「そうだな」と答えた。知恵子はそれ以上天気の話を続けなかった。麺をすする音だけが続いた。
食事を終えて、松原が湯飲みを持って縁側に近い廊下に出た時、玄関のチャイムが鳴った。宅配便にしては少し早い時間だった。松原は湯飲みを棚に置き、玄関に向かった。ドアを開けた瞬間、松原は立ちすくんだ。娘の沙耶香が立っていた。36歳の沙耶香は傘を持っておらず、肩から首の辺りまで雨に濡れていた。紺色のコートが色を変えるほど水を吸っていた。髪が頬に張り付いている。その手にはくたびれたトートバッグが1つ、もう一方の手に男の子の手を握っていた。沙耶香の息子、翔太だ。6歳の翔太も同様に濡れていて、小さな運動靴の中がすでに水浸しになっているのが、靴の縁から溢れる水で分かった。
沙耶香はまっすぐ父親の目を見なかった。視線がやや下に落ちていて、上目というほどでもなく、ただ正面を向けないという様子だった。口元が小さく動いたが、言葉にならなかった。松原は3秒、沙耶香の顔を見た。それから翔太の顔を見た。それから沙耶香の顔に戻した。背後の廊下で知恵子の足音がした。気配を察して出てきたのだろう。知恵子が沙耶香の姿を見た瞬間、小さく声をあげた。松原は道路に視線を向けた。雨の中、通りを歩いている人は見えなかった。向かいの家の窓に、カーテン越しに人影があるように見えた。気のせいかもしれない。
「中に入れ」と松原は言った。声を抑えた低い一言だった。続けて「近所の目があるから」と言った。沙耶香が父親の言葉の意味を理解しているかどうか、松原は確認しなかった。翔太の小さな手を引き、沙耶香が玄関の三和土に足を踏み入れた。知恵子が沙耶香に近寄り、濡れたコートを脱がせようとした。沙耶香はされるがままになっていた。翔太は黙って大人たちを見上げていた。泣いてはいなかった。ただ静かに何かを理解しようとしているような顔をしていた。
松原は三和土の端に立ったまま動かなかった。沙耶香が脱いだコートから、玄関の石畳に雫が滴り落ちていた。松原の目はその水滴がゆっくり広がり、玄関の木の床を濡らしていくのを追った。毎週日曜日に雑巾で磨いている床だった。
居間を通してから、松原は台所に立ってお茶を沸かした。知恵子が沙耶香に乾いたタオルを持ってきて、翔太の頭を拭いた。翔太はそれを少し嫌がるような顔をしたが、声には出さなかった。4人が居間のテーブルに座った。正確には沙耶香と翔太が座り、知恵子が隣に腰かけ、松原だけが少し離れた位置に立ったままでいた。しばらくして、居心地が悪いように椅子を引いて座った。
沙耶香が話し始めたのは、翔太が知恵子の持ってきたミカンを一口かじって少し落ち着いてからだった。「離婚した」と沙耶香は言った。声は平坦で、感情を載せていなかった。乗せることができないのではなく、乗せてしまったら崩れると知っているような声だった。松原は黙っていた。知恵子が低く息を吸う音が聞こえた。
沙耶香は続けた。夫の会社が昨年から資金繰りに行き詰まっていたこと。銀行から融資を断られ、別の資金調達を試みていたこと。その過程で沙耶香自身が連帯保証人として書類に署名していたこと。夫が最終的に会社を畳んだこと。残った負債が1500万円を超えること。知恵子がミカンを皿に戻した。翔太は何も言わずにミカンを食べ続けていた。
松原は沙耶香の話を聞きながら、手の中のお茶の湯飲みを持ったままでいた。湯飲みが少しずつ冷えていくのを感じながら、頭の中で数字を反芻した。1500万。沙耶香が手続きに呼ばれ、口座が差し押さえられたため、今は現金がほとんど手元にない。住んでいたアパートも退去を求められ、今日出てきた。沙耶香はそこまで言い終えて、ようやく目線を上げた。父親の顔を見た。
松原の表情は動いていなかった。失望するでも慰めるでも怒るでもなかった。ただ目の奥に何かが集まっていくような静かな変化があった。松原は立ち上がり、台所に行ってお茶を入れ直した。沙耶香の前に置いた。自分の席には戻らず、台所の流し台の前に立って窓の外を見た。雨はまだ続いていた。
しばらくして、翔太が知恵子に何かを耳打ちした。お腹が空いたと言ったようだった。知恵子が席を立ち、冷蔵庫を開けた。松原は2階に上がった。書斎の机の前に座り、引き出しを開けた。通帳を取り出した。今度は開いた。残高の数字を指でなぞった。800万円という数字は、1500万という数字に対して半分にも満たない。松原は通帳を閉じた。閉じてからもう一度開いた。変わっていなかった。当然だった。
窓の外で雨は降り続けていた。音が屋根の上で一定のまま続いている。松原は通帳を両手で持ち、膝の上に置いたまま壁を見た。壁には何もかかっていない。退職前はここに勤続表彰を1枚、額に入れて飾っていた。先月、押し入れの奥にしまった。見るたびに気分が落ち着かなかったからだ。1階で知恵子の声がした。翔太に話しかけている声だった。翔太が何か答えた。短い声で、内容は分からなかった。
松原は通帳を引き出しに戻した。引き出しを閉めた。それからしばらくの間、何もしなかった。40年かけて積み上げてきたものが、今この瞬間、自分の手の届かないところで崩れ始めていることを、松原は静かに正確に理解していた。理解した上で、どうすることもできなかった。ただ座っていた。雨音だけが続いていた。
沙耶香が戻ってきた翌日から、家の空気が変わった。変わったというより、重くなった。同じ空気が同じ部屋の中で循環し続けているような息苦しさだった。台所からはいつも何かを煮る音がしていたが、煮ているものはもやし、豆腐、大根の端の部分だった。知恵子が買い物から帰るたびに持ち帰る袋の中身は、以前より少なく軽くなっていた。松原はそれを見て何も言わなかった。知恵子も説明しなかった。説明の必要がないというより、説明するための言葉を2人ともまだ持っていなかった。
翔太は2階の沙耶香の部屋で過ごすことが多かった。6歳という年齢にしては静かな子で、廊下を歩く時も足音を立てなかった。それが松原には気になった。子供というのはもっと騒がしいものではないかという感覚が、かつての記憶から来ていた。沙耶香が幼い頃、廊下を走って松原に叱られた記憶がある。翔太はその記憶と全く重ならなかった。
沙耶香は1日の大半を自室で過ごした。食事の時だけ1階に降りてきたが、テーブルに座っても言葉数は少なく、翔太の分の食事を先に確認してから自分の箸を持つ順番だった。目の下に薄い隈が浮いていて、松原はそれを直視しなかった。
夜、松原は眠れなかった。眠れないのは以前からのことだったが、今は以前と質が違った。以前の不眠は、翌日の仕事の段取りや案件の数字を頭の中でなぞる習慣から来ていた。今の不眠は、なぞるものがないのに目が覚めているという、もっと根拠のない種類のものだった。午前2時に天井を見て、3時に寝返りを打って、4時に起き上がって台所で水を飲む。その間ずっと、1500万という数字が頭の隅に張り付いていた。手元の貯蓄が800万を切っていること。年金だけでは毎月わずかながら赤字になる計算であること。沙耶香の負債の弁済期限がいつなのか、まだ正確に把握していないこと。そのどれもが、夜中の台所の暗さの中で実際の数字より大きく感じられた。
退職後に何かあった時のためにと、銀行の後輩から進められて加入した個人年金保険の証書が書斎の引き出しの奥にある。しかし解約すれば元本割れする。今の段階で崩すのは得策ではない。松原はその計算を夜の度に繰り返した。繰り返すたびに答えは変わらなかった。
働く必要があるという結論に至ったのは、沙耶香が来てから10日後のことだった。その結論は感情的な決断ではなかった。数字を並べて、削れるものを削って、それでも足りない分を見た時に、自然に出てきた答えだった。松原はそれを認めるまでに3日かかった。3日の間、別の可能性を探した。しかし、どこにも別の可能性はなかった。問題は何をするかではなかった。65歳の銀行管理職上がりの男が、今の時代にどこへ行けば良いかだった。
松原は書斎の小さな本棚の中に、退職前に人事部からもらった1枚のチラシが差してあるのを思い出した。シルバー人材センターの案内だった。受け取った時は自分には関係のない話だと思って、棚の端に立てかけておいたものだ。チラシを取り出して開いた。紙が少し黄ばんでいた。住所は市の中心部にある。公共職業安定所とは別の組織で、60歳以上を対象にした就労支援センターだ。仕事の内容はチラシの後半に列記されていた。
並走警備、駐車場整理、草刈り、家事代補助。松原は1つ1つ読んだ。どれも自分が今まで部下に依頼していた種類の仕事ではなかった。松原はチラシを閉じ、また開いた。住所を確認した。電車で行けば30分かからない。
翌朝、松原は6時に起き、普段通りコーヒーを入れ、新聞を読んだ。違いは、読み終えた後に立ち上がって2階に上がり、クローゼットを開けたことだった。グレーのスーツが1着かかっている。退職後に一度も袖を通していない。その左隣に少し地味な紺のスーツが1着。その右端に普段着のシャツと綿パンツが畳まれている。松原は少し考えてから、グレーのスーツに手をかけた。それから止まった。スーツで行くのは違う。何かの会議に出席するわけではない。しかしノーネクタイのシャツ1枚で行くことも、松原には考えられなかった。結局、紺のスーツを選んだ。ネクタイは締めずに、シャツのボタンを上まで止めた。鏡の前で一度確認した。引退した役職者が市役所の窓口に出向くような見た目だった。それで十分だと思った。
知恵子が台所で朝食の片付けをしていた。松原が玄関で靴を履くと、知恵子が廊下から顔を出した。「どこかへ出かけるの」と知恵子は言った。尋ねるような、確認するような声だった。松原は少し考えてから「ちょっと用事がある」と答えた。知恵子はそれ以上聞かなかった。「お昼はどうするの」と聞いた。松原は「外で食べる」と言った。「外」という言葉を使ってから、今日の目的地と財布の中身を同時に思い浮かべた。駅の売店でパンを買えばいい。それで足りる。
玄関を出ると、6月の曇り空が低く広がっていた。梅雨の中休みで雨は降っていなかったが、空気は湿っていて、歩き始めると背中に汗が滲んだ。松原は駅までの10分間、誰とも目を合わせずに歩いた。顔見知りの家の前を通る時は歩をわずかに早めた。理由は特にない。ただ、今日どこに行くかを知られたくなかった。
電車の中は平日の午前中で、乗客の大半が高齢者か主婦だった。松原はドアの近くに立ち、窓の外の景色を見た。住宅地が続き、やがてビルが増えてくる。40年近く通勤でこの沿線を使い続けたが、昼間の景色をゆっくり見たのはほとんどなかった。いつも書類か手帳を見ていた。
目的の駅で降り、地図を確認しながら歩いた。スマートフォンを出すのは少し抵抗があったが、チラシに書いてあった住所だけでは迷うと判断して、地図アプリを開いた。目的地まで徒歩7分と表示された。
シルバー人材センターは、市の福祉関連施設が入った4階建てのビルの2階にあった。エレベーターを使わず、階段を上がった。受付には整理券の発券機があり、松原はボタンを押した。青い紙片が出てきた。番号は11番だった。
待合いの椅子に、先客が5人座っていた。全員が男性だった。年齢は松原と同じか、それ以上に見えた。1人は膝の上に古びたバッグを置き、天井を見ていた。1人は文庫本を開いていたが、ページをめくっていなかった。端の席の男性は手を膝の上で組み、床の一点を見下ろしていた。全員が何かを待っているというよりは、何かに耐えているような静けさだった。松原は端に近い隅に腰を下ろした。椅子はプラスチック製で、背もたれが少し斜めになっていた。松原はそれを意識して、背筋をまっすぐ保った。
前の壁には求人情報が何枚か張り出されていた。清掃スタッフ、交通誘導員、農作業補助、週3日から。松原はそれを読みながら、読んでいなかった。番号が呼ばれるたびに1人ずつ立ち上がって、奥のカウンターに向かった。松原は自分の番が来るまで手元の整理券を折りたもうとして、やめた。折り曲げると番号が読みにくくなる。
9番が呼ばれた。文庫本を持っていた男性が立ち上がった。男性の背中を見ながら、松原はその人物がどんな仕事をしていたのかを根拠なく考えた。製造業か、あるいは運送業か。どこかで管理職をしていたような、しっかりした歩き方だった。どこかで部下に指示を出していた人間が、今は整理券を持ってここに並んでいる。松原はその観察を自分自身の姿に重ねることを途中でやめた。
10番が呼ばれ、11番が呼ばれた。松原は立ち上がり、カウンターに向かった。カウンターの向こうには若い男性の担当者が座っていた。25歳前後に見えた。髪を短く刈り込み、名札には「村田」と書いてある。机の上にはパソコンと薄いクリアファイルが数枚重なっていた。村田は松原が席につくと顔をあげた。しかし目は合わせなかった。視線は松原の胸元を向いていた。
「登録表はお持ちですか?」と村田は言った。松原は持っていなかった。チラシには「まず窓口にお越しください」としか書いていなかった。「では、こちらを先にご記入ください」と村田は用紙を1枚、カウンターの端に向けて差し出した。松原の方に押し出すというよりは、テーブルの上に放置する動作に近かった。
松原は用紙を受け取り、記入した。氏名、年齢、連絡先、それまでの職歴の概要。職歴の欄に「地域信用金庫 支店長」と書いた。その文字を書きながら、松原は筆圧が入りすぎたのを感じた。ボールペンの先が紙に食い込んでいた。
用紙を返すと、村田はそれを受け取り、パソコンに入力し始めた。視線は画面のまま動かなかった。指先がキーボードを叩く音だけが続いた。しばらくして、村田は画面から目を離し、用紙に目を落とした。職歴の欄を1秒か2秒見た。それから何でもない調子で言った。
「金融機関のご経験は、当方で扱える案件にはなかなか直結しないんですよね」と村田は言った。口調は丁寧だったが、丁寧さの裏に「これはもう何度も繰り返してきた説明だ」という色があった。松原はそれを聞きながら、カウンターの上の自分の手を見た。
「お年齢が松原さんの場合ですと」と村田は続けた。パソコンの画面をスクロールさせながら、ほぼ視線を向けないまま話した。「清掃のお仕事、夜間シフトのものがいくつか。あとは公共施設の巡回確認のスタッフ。建設現場の安全誘導員は少し体力がいりますが、登録される方は多いです」
松原は黙って聞いた。村田は少し間を置いてから、付け足すように言った。「事務系や窓口業務は若い方が優先されてしまう実態がありまして、管理職経験があっても、企業側が年齢を敬遠するケースが多いんですよね」
その言葉は事実の報告として言われた。感情はなかった。だからこそ、松原にはそれが全身に刺さった。「管理職経験があっても」という言葉が、かつて自分が持っていたものの価値を、現在においてゼロと評価する文として耳に届いた。松原は両手を膝の上に置いていた。右手の親指が左手の甲をゆっくり押した。指の関節が白くなるほど力を込めたが、表情には出さなかった。
「清掃の夜間シフトの詳細を聞かせてもらえますか」と松原は言った。声は低く落ち着いていた。自分でもそれが意外だった。村田はキーボードを数回叩き、プリントアウトした1枚の紙をカウンター越しに差し出した。
商業施設の清掃スタッフ、夜間勤務、午後10時から翌朝5時まで、時給は980円。週4日から相談。交通費は上限が設けられている。松原は紙を受け取り、数字を確認した。一晩で7時間、週4日ならば月に16日前後。時給980円で7時間、16日。電卓は持っていなかった。頭の中で計算した。月に約11万円弱。年金と合わせれば数字は変わる。赤字は埋まらないかもしれないが、少なくとも速度は落とせる。
松原は紙から目を上げた。村田はすでに次の書類を手に取っていた。「この仕事の登録手続きをお願いしたいのですが」と松原は言った。村田が顔をあげた。今度は初めてちゃんと松原の目を見た。驚いているわけでもなかったが、少し反応が止まったような間があった。スーツ姿で来て、すぐに決める人はあまりいないのかもしれないと松原は思った。あるいは単純に手続きの手順を切り替えているだけかもしれなかった。
「わかりました。では、こちらの書類にも」と村田はもう1枚の用紙を出した。松原は用紙を受け取り、ボールペンを取り出した。今度は力を入れすぎないよう注意した。名前を書いた。住所を書いた。緊急連絡先の欄に、少し考えてから知恵子の携帯番号を書いた。
手続きが終わり、松原は立ち上がった。村田が椅子から腰を浮かせた。深く頭を下げるようなことはせず、軽く会釈した。松原はカウンターを離れながら、村田の後ろの壁に張ってあった1枚の紙に目がとまった。「今月の登録者数 43名」と書かれていた。今月がまだ半ばであることを考えれば、この施設だけで月に100名近い高齢者が、似たような用紙に名前を書いているということだった。
階段を降りて、ビルの外に出た。外の空気が建物の中より暖かかった。松原は立ち止まり、空を見上げた。雲が動いていた。梅雨の合間に晴れ間が覗いていたが、日差しは薄く、影もできていなかった。
「40年というのは何だったのか」という問いが頭に浮かんだ。しかし答えを探す気にはなれなかった。答えは出ないと知っていた。そういう問いがあることだけを確認して、松原は駅に向かって歩き始めた。
途中、コンビニの前を通った。店頭に100円のおにぎりが並んでいた。梅と昆布とツナの3種類。松原は財布を出して、梅のおにぎりを1つ買った。昼食をできる限り抑えたかった。レジで108円を払い、袋をもらわずにそのままコートのポケットに入れた。
駅のベンチに座って、おにぎりの包みをゆっくり開いた。40年近く、昼食は部下や取引先と外食することが多かった。定食屋か、寿司屋か。自分でコンビニのおにぎりを買って、駅のベンチで1人で食べることは一度もなかった。それが今日、初めてあった。おにぎりは思っていたより小さかった。2口か3口で食べ終えた。梅の酸味が口の中に残った。まずくはなかった。まずくはないが、腹が満ちた感覚がほとんどなかった。それでも、次は昆布にしようかなどとは考えなかった。
電車が来るまでまだ4分あった。松原はベンチに座ったまま、手元の用紙を見た。夜間清掃スタッフとしての初出勤は1週間後に設定されていた。場所は自宅から3駅先の大型商業施設だった。松原は用紙を畳み、スーツの内ポケットに入れた。電車が来た。乗り込んで吊り革を持った。揺れる車内で、松原は窓の外を見ていた。帰ったら知恵子に何を言おうかとぼんやり考えた。「仕事が決まった」とだけ言えば十分だろう。内容については、問われるまで言わないでいようと思った。問われたとしても、必要最低限のことだけを言う。知恵子が困った顔をするか、安堵した顔をするか、それはまだ分からなかった。分からないまま、電車が進んだ。窓の外で住宅地が戻ってきた。松原は吊り革を持ち直した。手のひらが少し汗ばんでいた。
仕事が決まったことを知恵子に告げたのは、帰宅してから夕食を終えた後だった。片付けをしている知恵子の背中に向かって、松原は短く言った。「しばらく仕事をすることにした」と。知恵子は流し台の水を止め、振り返った。どんな仕事かとは聞かなかった。どこでとも聞かなかった。ただ「そう」と言った。それから水を出し直して、食器を洗い始めた。その「そう」の間に何があったかを、松原は考えなかった。知恵子が何を思って「そう」と言ったのか、安堵なのか、心配なのか、あるいはすでにある程度察していたのか。考えれば分かるかもしれなかったが、今は考えるだけの余裕がなかった。
沙耶香には言わなかった。言う必要を感じなかったというよりも、言う言葉を持っていなかった。父親が夜間清掃の仕事を始めるという事実を、どんな言い回しで娘に伝えれば自然なのか、松原には見当がつかなかった。
初出勤の日、松原は午後9時半に家を出た。夜の住宅地は静かだった。街灯の下を歩きながら、松原は靴の底が歩道のアスファルトを踏む音を聞いた。スーツは着ていかなかった。知恵子が引っ張り出してきたウインドブレーカーと厚手の綿パンツを選んだ。作業着に近い格好だった。鏡の前で一度確認した。誰かに見られることを考えた。見られたくなかった。しかし選択肢はなかった。
駅まで歩き、電車に3駅乗り、降りた駅から徒歩。目的の商業施設は、夜でも正面の看板に明かりがついていた。夜間でも一部のテナントが営業しているためだ。施設の裏口に回ると、すでに2人が立っていた。同じ清掃業者の作業員だった。1人は50代後半に見える女性で、白いタオルを首にかけていた。もう1人は60代半ばの男性で、頭に野球帽をかぶっていた。2人とも松原の姿を見て軽く会釈した。松原も会釈した。名前を聞かれることも、自己紹介を求められることもなかった。
業者の責任者が来て、作業の手順を説明した。責任者は40代の男性で、早口だったが聞き取りにくくはなかった。担当エリア、使用する薬剤、モップの種類、ゴミ袋の分別方法。松原は一度で覚えた。長年会議で資料を読み込んできた習慣が、こういう場面でも働いた。支給されたのは水色の作業着の上着とゴム手袋だった。松原はウインドブレーカーの上から上着を羽織った。前のファスナーを引き上げながら、鏡があれば見たくないと思った。鏡はなかった。
最初の夜は1階の食品売場を担当した。閉店後の売場は電気が半分落ちていて、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。棚には翌朝用の商品が並んでいる。床はパート従業員たちが帰る前に一度拭いてあったが、食品売り場特有の油分と水気が残っていた。モップを持って進むたびに、床がわずかに光を反射した。体の動かし方そのものは難しくなかった。モップを押す力、水気を絞る動作、同じエリアを2度重ねてかける手順。しかし1時間もすると、腕の内側が疲れてきた。銀行員として40年間、体を使う仕事とは無縁だった体だった。松原はそれを顔に出さなかった。隣で作業している女性のペースに合わせながら、淡々と続けた。
休憩は午前1時に、裏の従業員通路にあるベンチで取った。自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。130円。松原は缶を両手で持ち、一口飲んだ。甘すぎた。しかし温かかった。冷えた指先が少し戻った。野球帽の男性が隣に腰を下ろした。田中という名前だと後で分かった。田中は缶ジュースを飲みながら、別段何か話しかけるでもなく、ただ隣に座っていた。それが松原には助かった。初日に自分の経歴を説明する言葉を持っていなかった。
朝5時過ぎ、作業を終えて裏口から出た。外の空気が冷たかった。東の空が少し明るくなり始めていた。松原は1人で駅まで歩いた。帰宅すると、知恵子がまだ起きていて、台所でお湯を沸かしていた。松原の顔を見て「お風呂沸かしてあるから」と言った。松原は頷いた。それだけだった。
最初の1週間はそうやって過ぎた。10月になった。夏の暑さが抜け、施設の中でも夜は冷えるようになった。作業着の下に薄いフリースを1枚重ねるようになった。体の方は最初の2週間に比べれば慣れてきた。腕の内側が疲れることはなくなったが、代わりに睡眠が安定しない問題が別の形で続いていた。昼間に眠ろうとしても、翔太の生活音や沙耶香が部屋でスマートフォンを操作する通知音が耳に入った。完全に眠れないわけではないが、深く眠れる日は少なかった。
家の中での時間が難しくなっていた。夕方に目を覚まして台所に行くと、沙耶香が夕食の準備をしていることがあった。沙耶香が知恵子を手伝い始めたのは、戻ってきてから3週間ほど経ってからだった。それ自体は良かった。しかし松原が台所に入ると、沙耶香の動きが少し硬くなった。料理の手が止まるわけではないが、姿勢がわずかに緊張するのが見えた。松原もそれを感じて、用が済めばすぐ台所を出た。
知恵子の咳が増えていた。松原はそれに気づいていたが、知恵子に直接言わなかった。言えば「大丈夫」と答えることが分かっていた。「大丈夫」という言葉が嘘だとも分かっていた。病院に行くよう進めれば、お金がかかる。知恵子は言うだろう。そのやり取りを避けるために、松原は何も言わなかった。それが正しいとは思っていなかった。ただ、今はそれ以上のことができなかった。
夜間の仕事が3週間続いた頃、松原はトイレ清掃のエリアに入った。担当が変わり始めたのはその週からだった。食品売場の担当者が増えたため、松原は施設の東端にある多目的トイレとその周辺の清掃に回ることになった。夜間は利用者がほぼいないため、作業効率は上がる。ただ、他のエリアと比べて1人での作業になることが多く、責任者との連絡も少なくなった。
その夜も松原は1人で東側のトイレを担当していた。消毒液を染み込ませたモップで個室の床を拭き、便器の外側を専用のシートで拭き、鏡をクリーナーで磨いた。作業の手順は体に入っていて、頭を使わなくても動けるようになっていた。それが、帰って考えたくないことを考える時間を生み出した。
洗面台の前で鏡を拭きながら、松原は自分の顔を見た。水色の上着を着た白髪の老人が映っていた。スプレーで整えた髪は、夜の作業で少し乱れていた。目の下が暗く沈んでいた。松原はその顔を1秒見て、視線をクリーナーのボトルに移した。
作業を続けていると、廊下側から足音が聞こえてきた。夜間でも施設の一部は開いているため、人が来ることは珍しくない。松原はモップを持ったまま、個室の1つに下がって作業を続けた。足音が2つあった。話し声が混じっていた。男性と女性の声だった。年は松原と近いか、少し上だろうと声の調子から思った。話の内容が少しずつ聞こえてきた。スーパーで何かを買ってきたらしく、袋の音がした。松原は作業を続けながら、声の主に注意を払わないようにした。
しかし次の瞬間、声の内容が変わった。松原の耳に自分の名前が届いた。正確には「松原さんの」という言葉が届いた。体が止まった。モップを持ったまま、その場に立ち尽くした。廊下の足音はトイレの入り口の前で止まっていた。2人が立ち話をしているらしかった。声は十分に届く距離だった。
女性の声だった。松原には聞き覚えがあった。近所に住む夫婦で、駅までの道の途中で何度かすれ違ったことがある。名前は久保田と言った。夫の方は定年退職後に家庭菜園を始め、時々野菜を近所に配ってくれる人だった。
久保田の妻の声が続いた。「最近ね、松原さんのところ、なんかくびれた感じになってない?あの、奥さんの娘さん、離婚して子供連れて帰ってきてるって話でしょう。旦那が借金抱えて逃げたって聞いたわ」という声だった。松原はトイレの個室の中で、壁に近い位置に立っていた。モップの柄を両手で持ったまま、動かなかった。
久保田の夫の声が応じた。「そうなのか、知らなかった」という調子だった。妻の声が続いた。「それだけじゃないのよ、松原さん。あの後、仕事始めたって話。それがね、夜中にどこかのスーパーで働いてるって。ほら、あんなに偉そうにしてたのに、結局ゴミでも拾ってるんじゃないかって、北側の山下さんが言ってたわ」という声だった。夫が何か言った。声が小さくて聞き取れなかった。妻がまた続けた。「ご本人が1番辛いとは思うけどね」という言葉の後に、「でも、あれだけ人を見下してた人が」という言葉が来た。
そこから先を松原は聞かなかった。聞こえていたのかもしれない。しかし記憶に入ってこなかった。足音が遠ざかった。袋の音が小さくなって消えた。廊下が静かになった。
松原はモップの柄を持ったまま、個室の壁に背をつけた。壁が冷たかった。消毒液の匂いが鼻を刺した。天井の蛍光灯が一定の明るさで光っていた。揺れも変化もなかった。何かが顔の中で動いた。目の縁が熱くなった。松原はそれが何かをすぐに理解した。理解した上で、止めようとした。奥歯を噛んだ。しかし止まらなかった。
30年以上、人前で泣いたことはなかった。部下が失敗しても、取引先に頭を下げても、父親が死んだ時の葬儀でも、松原は泣かなかった。泣くことは弱さの露呈だと信じていた。その信念が、今この瞬間、冷たい個室の壁の前で崩れた。一筋が伝った。松原は拭かなかった。拭くが動かなかった。「人を見下してた人が」という言葉が耳の中に残っていた。
松原は自分がそういう人間だったかどうかを考えた。意識して人を見下したことはないと思っていた。しかし、そう見えていたのなら、結果として同じことだった。「あれだけ偉そうにしてた」という言葉が続いた。40年間、松原が積み上げてきたものは、外から見れば偉そうだった。体面を保つために立て続けた背筋は傲慢に映っていた。守り続けた形式は距離感として伝わっていた。
松原は個室の床を見た。自分が拭いた床だった。消毒液の拭き跡が光の角度によって少し見えた。綺麗だった。誰かが使う度に汚れる床を、毎晩誰かが拭いている。その誰かが今夜は自分だった。
しばらくして、松原は壁から背を離した。目の縁に残った水気を、ゴム手袋の甲で拭った。深く息を吸った。消毒液の匂いが肺の中に入ってきた。残りの作業があった。松原はモップを持ち直し、個室を出た。洗面台の鏡をもう一度確認した。跡が残っていないかどうか、仕事の意味で確認した。鏡は綺麗だった。自分の顔が映っていた。目の縁がわずかに赤かった。誰も見ていなかった。
東側の廊下を戻りながら、松原は先ほどの声を頭の中でもう一度聞いた。久保田の妻の声、山下が言っていたという噂の形をした言葉。松原の名前が、自分のいないところで使われている。それは以前からあったはずだった。定年退職した後から、誰かが何かを話しているはずだった。ただ今夜、初めてそれが直接耳に入った。人は気づかないふりをして生きているか、本当に気づかないでいるかのどちらかだと松原は思った。自分はずっと気づかないふりをする方だった。今夜はそれができなかった。個室の壁が薄かったせいか、自分の耳が敏感になっていたせいか、あるいは単純に疲れていたせいか。
食品売り場に戻ると、田中がモップを片付けているところだった。田中は松原の顔を見て、何も言わなかった。作業終了の確認をして、2人で道具を片付けた。午前5時少し前、裏口から外に出た。田中は反対方向の出口から出るため、そこで別れた。田中が軽く手を上げた。松原も同じようにした。それだけだった。
外は暗かった。10月の夜明けは6時近くにならないと来ない。松原は駅までの道を1人で歩いた。街灯が等間隔に並んでいた。歩道に落ち葉が積もり始めていた。踏むたびに乾いた音がした。
駅の改札を通りながら、松原は今夜の出来事を整理しようとした。しかし整理できる形にはならなかった。久保田の妻が話していた内容は、事実の部分と噂の部分が混じっていた。娘が離婚して戻ってきたのは事実だ。夜中に働いているのも事実だ。ゴミを拾っているというのは正確ではないが、外から見ればほぼ同じことかもしれない。
電車が来た。乗り込んで座席に座った。膝の上に手を置いた。ゴム手袋の跡が手首の内側にうっすら残っていた。松原はそれを見てから、窓の外に顔を向けた。体面というものの正体を、松原はこの夜に初めてはっきりと見た気がした。40年間、自分が守ってきたのは、他者の目に映る自分の像だった。その像を傷つけないために、言葉を選び、姿勢を保ち、弱みを隠してきた。しかしその像は、自分が思っていたものとは違うものだった。外側から見た松原秀夫は、偉そうな人だった。守ろうとしていた体面は、守る前からすでに、自分が思っていたものとは形が違っていた。そのことに65歳で気づいた。
気づいたからと言って、何かが変わるわけではなかった。明日も同じ場所に仕事がある。帰れば知恵子がいる。沙耶香がいる。翔太がいる。1500万という数字が変わったわけでもない。ただ、個室の冷たい壁の感触だけが体の奥にしっかりと残っていた。
電車が家の最寄り駅に着いた。松原は立ち上がり、改札を出た。朝の空気が冷たかった。東の空がほんの少しだけ明るくなり始めていた。松原は歩きながら、その明るさを見ていた。家の玄関のドアを開けると、台所から温かい空気が来た。知恵子がお湯を沸かす音がした。松原は靴を脱ぎ、上がり框に手をついた。「お帰り」という知恵子の声がした。松原は「ただいま」と答えた。声が少しかれていた。知恵子はそれ以上何も言わなかった。湯が湧く音だけが続いた。
11月の末、知恵子が台所で倒れた。朝の7時過ぎだった。松原は夜間の仕事から戻って3時間ほど眠り、ちょうど目を覚ましたところだった。2階の寝室から階段を降りていくと、台所の床に知恵子がしゃがみ込んでいた。正確にはしゃがんでいたのではなく、片手で流し台の縁を掴みながら崩れかけていた。鍋が傾き、中のお湯が少しこぼれて床の周りが濡れていた。
松原は3段飛ばしで台所に入り、知恵子の腕を掴んだ。知恵子の顔は青白く、唇の色が薄かった。「立てるか」と松原は言った。知恵子は頷いたが、足に力が入っていなかった。松原は知恵子の体を支えながら、廊下の椅子まで連れて行った。「大丈夫?」と知恵子は言った。「ちょっと目まいがしただけ」と言った。声が細かった。
松原は知恵子の顔を見た。頬が落ちていた。この1ヶ月で顔が変わっていた。毎日顔を合わせていると気づかないが、今この角度で見るとはっきり分かった。食事の量が減っていたことは知っていた。知恵子は家族の分を先に盛り付けて、自分の茶碗には少なく入れることが習慣になっていた。松原はそれを何度か見ていたが、何も言わなかった。言えば「大丈夫」と言うだろうと思っていた。
咳はここ数週間で悪化していた。深夜に帰宅するたびに、2階から知恵子の咳の音が聞こえた。1度か2度ではなく、続けて咳込む音が廊下まで届いた。それでも知恵子は翌朝には普通の顔で起きていて、松原も普通に接した。2人の間には、体の不調を口にしないという、言葉にされたことのない領があった。
「病院に行くよ」と松原は言った。今度は言った。知恵子は少し間を置いて「でも、お金が」と言いかけた。松原はそれを手で遮った。遮り方が少し強かった。知恵子が黙った。
その日の午後、松原は知恵子を連れて、最寄りの内科に行った。診察室に一緒に入ることは知恵子が断った。外の椅子で待った。待合室には高齢の患者が数人いて、全員が静かだった。受付の番号が呼ばれるたびに誰かが立ち上がり、誰かが座った。30分ほどして、知恵子が出てきた。軽い肺炎の初期症状だった。1週間の安静と服薬、それから栄養を取ることという指示だった。入院は不要だが、悪化すれば入院が必要になる可能性もあると医師に言われたらしかった。
薬局で処方箋を出した。会計で3400円を払った。松原は財布から札を出しながら、今月残っている現金の量を頭の中で確認した。年金の振り込みは来週だった。夜間清掃の給与は月末締めで、まだ入ってきていない。今、手元にある現金は、万が一に備えて残してあった分だった。
その夜、松原は仕事を休んだ。責任者に電話をかけ、家族の看病を理由に欠勤を申し出た。責任者は短く了解した。欠勤すれば、当然その日の給与は出ない。松原は電話を切り、しばらく部屋に座っていた。
翌日から、知恵子は床に伏した。沙耶香が薬を運び、食事の準備を変わった。沙耶香は慣れない手つきで、知恵子の好みの薄味の煮物を作った。味はそれほど良くなかったが、知恵子は全部飲んだ。
12月に入り、知恵子の体が回復してきたのと前後して、郵便受けに封書が届いた。松原が気づいたのは、新聞を取りに出た時だった。銀行のロゴが入った封筒ではなかった。法律事務所の名前と住所が印刷されていた。宛名は沙耶香だったが、松原が先に見つけた。封筒を持って書斎に入り、開けて内容を読んだ。
沙耶香の元夫の事業に関する連帯保証債務について、弁済の意思と計画を30日以内に示すよう求める内容だった。示さない場合は訴訟手続きに移行し、差し押さえを申し立てるという文言が最後の段落にあった。文章は丁寧で、感情がなかった。だからこそ、読んでいる松原の手が少し震えた。震えていることに気づいて、松原は手を膝の上に置いた。封筒を閉じた。また開いた。文章を2度読んだ。30日以内というのは現実的な期限だった。猶予ではなく、最後通牒だった。
その日の夕方、松原は沙耶香を書斎に呼んだ。封筒を渡した。沙耶香は立ったまま読んだ。読み終えて、便箋を折りたたんで封筒に戻した。それから床を見た。「法律事務所には連絡した」と沙耶香は言った。「先月、分割での弁済を希望すると伝えたが、相手方は一括かそれに近い対応でなければ話にならないと言った」ということだった。
「いくら必要だ」と松原は聞いた。沙耶香は少し考えてから、「最低でも600万から800万」という数字を言った。それで交渉の余地が出ると、法律事務所の担当者に言われたとのことだった。
松原は何も言わなかった。手元の貯蓄が800万を下回っていた。そこから600万から800万を出せば、ほとんど残らない。残ったとしても、年金だけで2人の生活費と知恵子の医療費と翔太の生活費を賄うことはできない。沙耶香はドアの近くに立ったままだった。松原の顔を見ていなかった。「わかった」と松原は言った。「少し考えさせてくれ」とは言わなかった。考えるべきことはすでに限られていた。
翌週、松原は区役所に向かった。沙耶香を連れて行くことにした。1人で行って話を聞いてくるだけでも良かったが、手続きには本人の書類が必要になる可能性が高かった。1月の朝は寒かった。駅までの道に霜が降りていた。沙耶香はダウンコートを着て、無言で歩いた。松原もほとんど何も言わなかった。2人が並んで歩く場面は、沙耶香が子供の頃以来、ほとんどなかった。学校の行事か何かの式典の時くらいだった。今、こういう理由で並んで歩いているという事実を、松原は意識しないようにしていた。
区役所の窓口は午前中から混んでいた。番号札を取って、椅子に座って待った。番号が呼ばれるまでの20分。松原は正面の壁に貼られた手続き案内のポスターを読んでいた。読む内容がなくなってからも、ポスターの方を見ていた。沙耶香はスマートフォンを持ったが、画面を開かずに膝の上に置いた。
番号が呼ばれ、2人で窓口に向かった。担当は30代前半の女性職員だった。名札に「田辺」という名前があった。田辺は2人が座るのを確認して、「どのようなご要件ですか」と聞いた。声は事務的で、暖かさもなかった。
沙耶香が状況を説明した。離婚したこと、元夫の事業の連帯保証債務を抱えていること。現在収入がなく、子供と一緒に実家に戻っていること。田辺はメモを取りながら聞いた。聞き終えて、「少しお待ちください」と言い、奥に引っ込んだ。3分ほどして戻ってきた。何枚かの書類を持っていた。
田辺は書類を机の上に並べながら、「確認させていただきたいのですが」と言った。「現在、お父様のご自宅に同居されているということですよね」と確認した。沙耶香が頷いた。田辺は書類に目を落として続けた。「この場合、世帯として判断されるのは、同居されている全員を含めた形になります。お父様の年金収入とご自宅の資産価値が審査の対象になります。現在のご自宅は持ち家でいらっしゃいますか?」
松原が答えた。「そうです」と言った。田辺は書類に何かを書き入れた。それから少し言いにくそうに、しかし決まった言い方で、「現状では、生活保護の対象外となります」と言った。「持ち家があり、年金収入がある世帯と同居している場合、単体での申請は認められないケースが大半です。資産の活用を先に求めることになります」という説明だった。
沙耶香の肩がわずかに下がった。松原はそれを横から見た。「では、健康保険の減免はどうでしょうか」と松原は言った。「沙耶香は現在、国民健康保険に加入していますが、収入がなく、保険料の支払いが困難な状況です」
田辺は別の書類を出した。「減免の申請は可能です。ただし、こちらも世帯収入が審査基準になりますので、お父様の収入が対象に含まれます。現状では減額は見込めるかもしれませんが、免除は難しいかもしれません」という説明だった。
沙耶香が口を開いた。声が少し高くなっていた。「でも、実際に払える状況じゃないんです。私には今、収入がなくて、子供を1人で育てていて、父も年金だけで」と言った。田辺は沙耶香の顔を見た。「お気持ちは分かります」と言った。しかし、その言葉の後に「ただ、制度上の判断基準が」という言葉が続いた。
沙耶香の目が赤くなった。松原はそれに気づいた。沙耶香の声が震えた。「こういう制度って、本当に助けが必要な人を助けないようにできてるじゃないですか」という言葉が出た。声が割れた。周りの椅子に座っていた数人が顔をあげた。
松原は即座に沙耶香の腕に手をかけた。強くではなく、ただ触れるように。沙耶香の動きが止まった。田辺は表情を変えなかった。変えないことが仕事のうちだった。一度視線を松原に向けた。松原は田辺に向かって「ご説明ありがとうございました」と言った。頭を下げた。田辺も小さく頭を下げた。
2人で席を立ち、窓口から離れた。出口に向かう廊下で、沙耶香が立ち止まった。壁の前に立って、下を向いていた。松原は先で立ち止まり、振り返った。沙耶香は何も言わなかった。泣いているわけではなかった。ただ壁の前に立って、床のタイルを見ていた。松原も何も言わなかった。急かさなかった。廊下を人が通るたびに、松原は少し横に寄った。沙耶香が動くのを待った。1分ほどして、沙耶香が歩き始めた。松原も続いた。
外に出ると、冬の日差しが地面に伸びていた。影が長かった。松原は自分の影が歩道の端まで届いているのを見ながら、駅に向かって歩いた。沙耶香は隣を歩いた。言葉はなかった。電車に乗り、それぞれ別の吊り革を持った。松原は窓の外を見た。沙耶香はドアのガラスを見ていた。2人の間に40cmほどの間隔があり、その間隔は揺れるたびに少し広がり、少し縮んだ。
最寄り駅で降りて、家まで歩いた。玄関を開けると、知恵子が廊下に出てきた。まだ体が本調子ではないため、少し顔が青白かった。2人の顔を見て「どうだった」と聞いた。松原は靴を脱ぎながら「少し難しかった」とだけ言った。知恵子はそれ以上聞かなかった。沙耶香は奥に行って、翔太の部屋の前で立ち止まり、ドアを少し開けた。翔太が積み木を並べているのが見えた。沙耶香はしばらくそれを見てから、ドアを閉めた。
夕食は4人で食べた。もやしの炒め物と豆腐の味噌汁と冷凍の白ご飯だった。翔太だけがよく食べた。沙耶香は箸を持ったまま、あまり口に運ばなかった。知恵子は翔太に醤油を取ってあげながら、自分の分をゆっくり食べた。松原は全員の茶碗が空いているかどうかを確認しながら、自分のペースで食べた。
食事が終わり、翔太が寝室に行き、沙耶香が片付けを手伝った。知恵子は早めに横になった。松原は書斎に戻った。電気をつけずに部屋に入り、机の前に座った。窓の外から街灯の薄い光が差し込んでいた。部屋が明暗の境界のような薄暗さに満ちていた。
引き出しを開けた。通帳の他にもう1つの書類が入っていた。土地と建物の登記事項証明書の写しだった。この家を買った時に取得し、ローンを完済した時にもう一度確認した書類だった。以来ずっと引き出しの奥にあった。松原は書類を取り出し、薄明かりの中で見た。建物面積と土地面積の数字、評価額の記載、取得年月日、自分と知恵子の名前が連名で書かれていた。
この家を買ったのは31歳の時だった。頭金を貯めるのに5年かかった。ローンを組む時に支店長に保証人として名前を書いてもらった。その支店長はもう亡くなっている。引っ越した日の朝、知恵子がまだダンボール箱の中からカーテンを探していて、松原は空っぽの窓から外を見ていた。梅雨の前の5月で、庭に植えていた低木が綺麗だった。それだけのことを今でも覚えていた。
34年間、この家で生きてきた。沙耶香が生まれ育ち、出ていった。知恵子の両親が来たことがあった。松原の母親が来たことがあった。それぞれが亡くなり、来ることがなくなった。台所の壁のタイルが1枚割れて、同じ色が見つからず、少し違う色で補修した。それがずっと気になっていたが、今も同じ色のままだった。
松原は書類を机の上に置いた。両手で端を持ち、しばらく動かなかった。売るしかないということは、区役所から帰る電車の中ですでに分かっていた。ただ、分かっていることを実行に移す決断として形にするには、少し時間が必要だった。その時間が今だった。貯蓄から600万以上を出せば、残る資金では先が見えない。しかし貯蓄は生活費で少しずつ減っていく。年金だけでは毎月足りない。夜間清掃の収入はあっても、大きな出費が1つくれば崩れる。知恵子の体調が悪化すれば入院費用が出る。翔太の学校が変われば学費が出る。どこを計算しても、今の状態では弁済の資金を出しながら生活を維持することは難しかった。
家を売れば、ある程度まとまった金額が入る。今の相場でこの立地ならば、2000万前後になるはずだった。そこから弁済に回し、残りで賃貸に移る。小さくていい。遠くてもいい。年金と清掃の収入で回せる家賃の範囲で探す。それが今できる唯一の、全員が生き続けられる計算だった。
松原は書類を折りたたまなかった。広げたまま机の上に置いた。立ち上がり、窓の外を見た。向かいの家に明かりがついていた。カーテン越しにテレビらしい明滅が見えた。その隣の家は暗かった。街灯の下に猫が1匹いた。猫は座ったまま動かなかった。しばらく見ていたが、猫は松原の視線に気づかなかった。
玄関の壁に家族の写真が1枚かかっている。沙耶香の結婚式の日に撮ったものだ。松原がスーツを着て、知恵子が訪問着を着ていた。沙耶香は白いドレスだった。3人とも笑っていた。元夫の顔もあったが、今は飾り方の角度によって少し切れている。その写真を松原は今夜は見なかった。見なかったことに、後で気づいた。
翌朝、松原は朝食の後に知恵子を居間に呼んだ。沙耶香も同席させた。翔太は2階にいた。松原は短く話した。「家を売ることにした」と言った。理由の説明は最低限にした。数字と見通しと結論だけを言った。余計なことは言わなかった。
知恵子は黙って聞いた。聞き終えて、少し間を置いてから「分かった」と言った。目が赤くなっていたが、声は安定していた。沙耶香は俯いていた。松原が話し終えてからもしばらく何も言わなかった。やがて沙耶香が顔をあげた。目の縁が濡れていた。声が細かった。「お父さん、ごめんなさい」と言った。それ以上の言葉が続かなかった。
松原は沙耶香の顔を見た。「謝るな」とは言わなかった。「仕方ない」とも思わなかった。「飯を食べよう」と言った。沙耶香の前の茶碗がまだ半分残っていた。沙耶香は一度だけ頷き、箸を持った。松原も自分の茶碗を持った。知恵子がお茶を一口飲んだ。3人の間に沈黙があった。しかし朝の光が窓から入っていて、部屋は明るかった。台所の壁の補修したタイルが、朝の角度で少し目立って見えた。松原はそれを見てから、茶碗の中の米をゆっくりと口に運んだ。
家が売れたのは2月の終わりだった。不動産業者が最初に査定に来たのは1月の中旬で、松原は立ち合いながら、担当者が各部屋を測り、写真を撮り、メモを取るのを見ていた。担当者は30代の男性で、手際が良かった。庭の低木を見て「手入れが行き届いていますね」と言った。松原は頷いた。それ以上の言葉を返さなかった。
売却価格は1880万円で決まった。松原が想定していた額の下限に近かった。交渉の余地はないかと少し粘ったが、担当者は現在の市況と周辺の相場を淡々と説明した。松原は数字を頭の中で確認して、「わかりました」と答えた。
売買契約の締結から引き渡しまで約6週間だった。その6週間の間に、松原は次の住まいを探した。条件は3つだけ決めた。家賃が月6万円以下であること。電車で30分以内の場所であること。4人が寝られること。それ以外は問わなかった。
不動産情報を見るのに、松原はスマートフォンを使った。以前は紙の物件情報誌を使っていたが、今はほとんどの情報が画面の中にあった。小さな文字を読むのに少し目を細めながら、松原は毎晩仕事の前に物件を確認した。駅から遠い、築年数が古い、部屋数が少ない。それでも4人が入れる間取りで月6万以内となると、選択肢は限られた。
決めたのは、千葉市の端にある団地の一室だった。昭和50年代に建てられた5階建ての集合住宅で、外壁はベージュだったが、長年の雨風で薄く汚れていた。エレベーターはなかった。3階の角部屋で3DKの間取り。家賃は月5万4000円。管理費を合わせて6万を少し切る。内見に行った時、廊下の天井の一部にシミがあり、壁紙が少し浮いていた。松原は指で壁紙の端を押した。担当者が何か言いかけたが、松原は「構いません」と先に言った。
3月の下旬、引っ越しの日が来た。引っ越し業者を頼む余裕はなかった。レンタカーを借り、2日かけて運んだ。松原と沙耶香がダンボール箱を運び、知恵子はまだ体力が完全に戻っていなかったため、軽いものだけを持った。翔太は小さな袋を自分で持って、それが自分の仕事だと思っているようだった。
荷物は以前の家の半分以下しか持ってこなかった。松原の書斎にあった本棚は処分した。本の大半も処分した。残したのは辞書が2冊と、長年使っていた手帳が数冊だけだった。知恵子の食器棚も処分した。新しい部屋の台所に大きな食器棚を置く場所がなかった。食器は必要な分だけ残し、それ以外は近所のリサイクルショップに持っていった。査定は2000円だった。知恵子は査定額を聞いても何も言わなかった。
松原の書斎の机は持ってきた。新しい部屋に置けるかどうか分からなかったが、捨てる気になれなかった。結果的に6畳の和室の隅に収まった。部屋の広さに対して少し大きかったが、置けないわけではなかった。
引っ越しが終わった夜、4人はダンボール箱が積み重なった部屋の中に座った。夕食はコンビニで買ったおにぎりとインスタントの味噌汁だった。翔太が自分のおにぎりの包みをうまく開けられなくて、沙耶香が手伝った。翔太はそれを受け取り、一口大きくかぶりついた。特に何も言わなかった。腹が減っていたのだろう。
松原は自分のおにぎりを食べながら、部屋の中を見た。ダンボール箱と運び込んだ家具と4人の人間が、6畳と台所と小さなダイニングキッチンの中に収まっていた。以前の家のリビングだけで、この部屋の倍の広さがあった。それでも壁が崩れているわけでも、屋根が破れているわけでもなかった。水は出た。ガスもついた。電気もついた。松原は天井の蛍光灯を一度見た。少し古い型だったが、明るかった。
それから数日が過ぎた。3月も末になると、日が長くなってきた。午後5時を過ぎても空が明るく、団地の廊下に差し込む光が窓のガラスに斜めに当たった。松原はその光を、台所の椅子に座りながら見ていた。
引っ越してから最初の1週間は、荷解きと生活の段取りを整えることに追われた。どの棚に何を入れるか、台所の動線をどう取るか。翔太の荷物をどこに置くか。小さな判断が連続して、その連続の中にいると、余計なことを考える時間がなかった。2周目に入り、荷解きがほぼ終わった頃から、生活のリズムが戻り始めた。
松原は引き続き夜間清掃の仕事を続けていた。施設までの経路が変わり、乗り換えが1回増えたが、所要時間はほぼ変わらなかった。田中とも変わらず同じ現場だった。田中は松原の顔を見て、いつものように軽く手を上げた。
引っ越した先で松原が最初に気づいたのは、静けさのことだった。前の家は住宅地の一戸建てで、隣家との間に庭があり、道路からも少し距離があった。だから団地に来たら騒がしいだろうと思っていた。しかし実際には逆だった。隣の部屋の生活音は時々壁越しに聞こえたが、それよりも、誰かが廊下を歩く気配が日常的にあることの方が、松原には新鮮だった。前の家では、廊下を人が歩けば必ず誰かの目があった。それがいつも気になっていた。ここでは、廊下を人が通っても、誰も松原の方を見なかった。会釈するかしないかというだけの関係で、それ以上でも以下でもなかった。
ある朝、ゴミを出しに廊下に出ると、向かいの部屋の住人と顔を合わせた。70代の男性で、松原より少し年上に見えた。ランニングシャツにジャージ姿で、右手にゴミ袋を持っていた。2人は一瞬顔を合わせた。男性が軽く頷いた。松原も頷いた。男性はそのままゴミ置場の方へ歩いていった。それだけだった。
以前の住宅地では、あの会釈は「各の家の元支店長」という文脈で起きていた。あるいは「娘が離婚して戻ってきた」という噂の文脈で。しかしここでは、男性は松原のことを何も知らなかった。松原の経歴も、娘の事情も、昨年何があったかも、知る由もなかった。
松原はゴミを出してから、廊下に少し立った。空が曇っていた。団地の敷地内に植えられた桜の木が、まだつぼみだった。3月の末にしては寒い朝で、息が少し白かった。松原はそのつぼみを見た。咲いていないが、咲く前にあるという状態は見えた。
何かが軽くなっていると、松原はその時思った。軽くなっているというのは正確ではないかもしれなかった。貯蓄はほぼ底をついた。年金と夜間清掃の収入で4人の生活はギリギリ回っている。知恵子の体がまだ完全ではない。沙耶香の就職がまだ決まっていない。翔太の転校手続きもある。問題は何も減っていなかった。それでも、軽くなっている何かがあった。廊下を歩いても、誰も自分を見ていなかった。ゴミを出しても、隣の男性は「松原支店長」を見ていなかった。ただの同じ棟に住む年配の男を見ていた。それだけだった。あの体面を守るために使っていた力が、今はどこにも向かう先がなかった。守るべき体面が、ここにはなかった。それが喪失なのか解放なのか、松原にはまだ言葉がなかった。ただ、呼吸が少し楽だという感覚だけがあった。
その夕方、沙耶香が帰ってきた。仕事用のコートを着て、肩にトートバッグをかけていた。前の日に面接を受けていた近所のスーパーのことだった。松原は台所で茶を飲んでいた。知恵子が洗い物をしていた。翔太がダイニングのテーブルで何かを描いていた。
沙耶香は玄関で靴を脱ぎ、廊下に入ってきた。コートを脱いでいる途中で「決まった」と言った。松原は茶碗を置いた。知恵子が振り返った。翔太は顔をあげた。「スーパーのレジの仕事を、来月から入れることになった」と沙耶香は続けた。声はまだ固かったが、この数ヶ月で聞いた中では1番安定していた。翔太の学童の時間に合わせてシフトを組んでもらえるとも言った。
知恵子が「良かった」と言った。声が少しかれた。翔太が「お母さん、仕事するの?」と言った。「うん」と沙耶香は言った。「レジっていう仕事」翔太はしばらく考えてから「僕もレジやりたい」と言った。沙耶香がわずかに笑った。今日初めて見た種類の笑い方だった。この家に戻ってきてから初めてかもしれなかった。松原は茶碗を持ち直し、一口飲んだ。何も言わなかった。
夕食の時間になった。知恵子がその日の夕食を作った。体の調子がいい日には、自分で台所に立ちたがった。メニューは魚の焼いたものと大根の煮物と薄い味噌汁だった。魚は駅前のスーパーで割引になっていたもので、アジとホッケが1匹ずつあった。
4人がダイニングの小さなテーブルを囲んだ。テーブルは以前の家から持ってきたもので、4人で囲むと少し窮屈だった。翔太の肘が時々沙耶香の腕に当たった。沙耶香はその度に少し体を寄せた。
食事が始まった。松原は皿の上の魚を見た。アジとホッケが置かれている。アジの方が身が多かった。松原はホッケに箸をつけた。それから身の1番いい部分を取り分け、翔太の皿に置いた。翔太は一瞬見てから、「ありがとう」と言わずに食べた。6歳の子供の食べ方だった。次に、大根の煮物の中から柔らかそうな一切れを選んで、知恵子の皿に移した。知恵子は気づいていたが、何も言わなかった。
沙耶香が「今月分の生活費の一部を、来月の給与から出す」と言った。声は低く、テーブルに向かって言うような調子だった。松原への報告でもあり、自分への宣言でもあるような言い方だった。松原は煮物を口に運んでから「分かった」と言った。それだけだった。金額の話も詳細の話もしなかった。今夜はそういう話をする場ではなかった。
知恵子が翔太に「ご飯、もっと欲しいか」と聞いた。翔太は頷いた。知恵子が立ち上がり、翔太の茶碗にご飯を追加した。翔太は受け取り、また食べ始めた。
窓の外で風が少し吹いた。団地の廊下を通る風の音が、薄い壁越しに聞こえた。前の家より壁が薄かった。しかし今夜は、その薄さが気にならなかった。
松原は箸を置いて、茶碗を持った。「飯があって、屋根があれば、生きていけると思う」と松原は言った。誰に向けた言葉かはっきりしなかった。テーブル全体に行ったような、あるいは自分に行ったような調子だった。いつものような丁寧な言い回しではなく、言葉そのままが出てきたような、珍しい言い方だった。
沙耶香が顔をあげた。松原の顔を見た。松原は茶碗を持ったまま、テーブルの端を見ていた。知恵子が味噌汁を一口飲んだ。翔太は魚を食べていた。骨が多くて食べにくかったようで、少し眉を寄せていた。沙耶香が自然に手を伸ばし、翔太の皿の骨を取ってやった。翔太は何も言わず、そのまま食べ続けた。
4人の間に会話はなかった。しかし沈黙が以前とは違っていた。前の家でも沈黙は多かったが、あの沈黙は何かを言えないための沈黙だった。体面を崩さないための沈黙だった。誰かが何かを知っていて、しかし口にしないための沈黙だった。今夜の沈黙は、ただ食べているための沈黙だった。それだけのことが、今この4人には十分だった。
食事が終わり、片付けを知恵子と沙耶香がした。翔太は眠そうな顔で、沙耶香に布団に連れて行かれた。松原は1人でダイニングに残り、冷めたお茶を飲んだ。窓の向こうに、団地の敷地内の街灯がついていた。つぼみのままだった桜の木が、街灯の光を受けて薄く浮かんでいた。昼間よりも枝が細く見えた。しかし確かにそこにあった。
松原はしばらくその木を見ていた。今日が、ここで過ごす最初のまともな夜だった。明日も仕事がある。来月からは沙耶香の収入が少し加わる。知恵子の体が回復を続ければ、通院の頻度が下がるかもしれない。翔太が新しい学校になれるまでもう少し時間がかかるだろう。先のことは先のことだ。
松原は茶碗を置き、椅子から立ち上がった。台所の電気を消した。廊下の電気を消した。寝室のドアを開けると、知恵子がすでに布団に入っていた。起きているのか眠っているのか分からなかったが、松原が布団に入ると、知恵子が少し体を動かした。起きていた。2人とも何も言わなかった。
松原は天井を見た。前の家の天井と違う色だった。古い建物特有の、少し黄ばんだ白だった。慣れないうちは気になるかもしれなかったが、今夜はそれほど気にならなかった。目を閉じた。外から風の音がした。桜のつぼみが揺れているかもしれなかった。咲くのはあと数日だろう。咲いたとして、誰かがそれを見るだろう。あるいは見ないかもしれない。そういうことが、あちこちで起きていた。
松原はそのまま、ゆっくりと眠りに落ちた。



