就任したばかりの部長は、俺の営業成績トップの実績を無視して、170億の案件から俺を外した。しかも、その理由は「組織として動けない社員は最低評価のDだ」という一言だった。俺は現場を見て業者を選ぶことにこだわってきたのに、そのこだわりまで否定された。悔しさで拳を握りしめながら、俺は「では、辞めますね」と言った。部長は鼻で笑って「好きにしろ」と返してきた。だが、その1週間後、施主から契約解除の通知…

就任したばかりの部長は、俺の営業成績トップの実績を無視して、170億の案件から俺を外した。しかも、その理由は「組織として動けない社員は最低評価のDだ」という一言だった。俺は現場を見て業者を選ぶことにこだわってきたのに、そのこだわりまで否定された。悔しさで拳を握りしめながら、俺は「では、辞めますね」と言った。部長は鼻で笑って「好きにしろ」と返してきた。だが、その1週間後、施主から契約解除の通知...

就任したばかりの部長は、営業成績トップの俺の働きぶりを一度も見ることなく、最低の評価を下し、170億の案件から俺を外した。この新部長は、許諾案件が会社の看板ではなく、俺の現場を見極める目で決まったことを知らない。そして、いずれこの新部長は思い知るだろう。俺を外した瞬間から、自らの転落が始まっていたことを。

俺は島、48歳。中堅ゼネコンの営業部で働いている。20代の終わりまでは現場監督で、その後営業へ回され、20年近くになる。昨年度の受注額は部内で1番だった。

そんな俺にも苦い経験がある。13年前のある朝、俺が担当した建物で、引き渡し後に外壁のタイルが剥がれ落ちた。幸い怪我人は出さずに済んだ。落ちたタイルを1枚拾い上げると、裏についているはずのモルタルが、指で押しただけで粉になって落ちた。明らかな手抜き工事だった。それでいて工事の書類の方は何ひとつ不備がない。書類さえ整えてしまえば、現場でどんな手抜きをしていても、外からは分からない。俺が思い知らされたのは、そういうことだった。

以来、書類の数字だけで業者を決めるのを、俺はやめた。仕事を任せる前に、その業者が立てた建物を見せてもらい、コンクリート面やタイル壁に直接触れて確かめる。それを欠かさず続けてきた。

5年前、ある大手デベロッパーが施主となった現場でのことだ。工事を任せる予定だった一社は、書類の上では問題のない業者だった。しかし、念のため別の建物を見に行くと、仕上げの面に波打っている箇所がいくつもあり、タイルの壁を叩くと軽い音が返ってくる。書類には現れない施工の甘さだ。俺はこの業者は使えないと判断した。

俺は撮ってきた写真と資料を持ち、施主側の開発担当取締役である三に説明した。さらに現物も一緒に見てもらう。三は着工前の業者の変更を認めてくれた。

それから3年後、三の会社の別の部署が発注した現場に、俺が警告して外した業者が入っていたという。具体的に施工不良が出て、手直しの費用は施主が負担することになった。三はその業者の出入りを禁止したとのことだ。

以後、三の会社が施主となり、うちが元請けになった現場では、必ず俺が窓口を任されるようになった。そして年明け、正式に三の会社と大型オフィスビルの建築契約が決まった。工事の総額は170億円。

「八島さんのところは信頼していますが、これほどの金額を個人への依頼だけで取り仕切るのは、社内を通すことはできませんので」

三はそう言って、業者選定の手続きを契約書に明文化しておきたいと申し出た。専門工事業者を選ぶ際は、元請けの窓口である俺が選んだ業者を書面で出し、施主の承認を得る。施主が認めない業者を元請けが引っ込めなければ、施主側から契約を打ち切れるという内容だ。躯体工事は、長年俺が担当する現場を任せている本の会社にすると決めていた。本にもその旨を伝えてある。あとは提出する書面に俺の名前を書くだけだったが、提出そのものは着工に合わせて新年度に入ってから行う段取りになっていた。

そんな折、時期部長人事の噂が部内でちらほら聞こえてくるようになった。本命と目されていたのは栗原だ。今年で定年になる。俺より6年早く入社した先輩だ。専務の白田が栗原を押しているらしい。だが、ここ数年栗原が大きな受注案件に絡んでいるのを見た覚えがない。一方の俺は昨年度の受注額で部内トップだった。正直、割り切れない気持ちはあった。だが、この業界は今も年功序列が物を言う。実力だけで役職が決まるわけではないことくらい、20年近くも営業をやっていれば分かっている。俺はそう自分に言い聞かせた。

年度が変わった最初の朝礼で、前の部長が定年で退くことと、後任が栗原になることが伝えられた。やはりな、と心の中で失望が広がった。転職もいいかもしれない。そんな思いが頭の片隅によぎる。20年近くの付き合いの中で、声をかけてくれそうな相手の顔が2つ、3つ浮かんでいた。

栗原からは着任したその日の午後、俺を執務室に呼んだ。なりた視線に、睨むような色があった。歓迎されていないことだけはすぐに分かる。栗原は前置きもなく、机の上に書類を滑らせてくる。

「オフィスビルの躯体業者、本からこっちに変えてくれ」

示されていたのは、三が出入り禁止にしたあの業者の名前だ。「こっちの方が2割安くなる」

俺はすぐに過去の経緯を挙げて反対した。しかし栗原は俺の説明を途中で遮った。

「その業者の経緯くらい、俺も聞いている。だが、それは過去の話だ。今回の変更は専務も承知の上だ」

専務の白田まで絡んでいるという一言が、小さな引っかかりとして残った。なぜ専務が、と思うが、この場で問い詰めても栗原からは答えないだろう。それなら書面にして残す方が確実だ。

翌朝、契約書の写しと、業者を変えることに反対する理由をまとめた書面を栗原に差し出した。栗原は契約書には目もくれず、書面も表題を一瞥しただけで顔を上げた。

「業者の変更は決定事項だ」

そう言って栗原は書面を脇に寄せ、代わりに机の引き出しから評価表を出した。その表は営業部員で年に1度、部長が部下の働きを見てつけるものだ。着任翌日に見せるものではない。

「矢島、お前の売上は認めてやる。組織として動けない社員は最低評価のDだ」

栗原は評価を閉じ、続けていった。

「案件の担当は部長の俺が決めることだ。誰の承認もいらない。今日付けで170億の案件からお前を外し、選定業者の書面には俺の名を書く。矢島、今までお疲れさん」

栗原はそう言って、退出を促すように手を振った。手を硬く握ると、爪の先が手のひらに食い込む。現場を見て信頼できる業者を選ぶ。そのこだわりまで取り上げられては、この会社にいる理由が見つからない。俺は込み上げる悔しさをこらえながら言った。

「では、辞めますね」

栗原は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに鼻で笑った。

「好きにしろ」

俺は奥歯を噛みしめたまま、部屋を後にしたのだ。

翌朝、俺は退職届を提出した。今期は170億の案件に専念するため、他の担当案件は年度代わり前に一通り肩を付けてあった。170億の案件を外された以上、俺が引き継ぐものはもう残っていない。最終出社はその日と決まった。辞めるまでの日が短く、取引先に挨拶へ回る時間もなかったのが心残りだが、今優先すべきは転職先を探すことだろう。

私物をまとめていると、後輩の脇坂が寄ってきた。

「八島さん、なんでこんな急に辞められるんですか?何があったんですか?」

脇坂の声には困惑しかなかった。まだ誰にも話していない話だ。俺は栗原との経緯をかいつまんで話した。話を終えると、反対の理由をまとめた書面の写しを取り出し、脇坂に渡した。

「この業者のことで、この先何か問題が起きた時のためだ。会社として反対した人間がいたという証拠になる。俺はもう当事者じゃないが、お前が持っていてくれ」

脇坂は書面に目をやったが、それ以上は聞かなかった。

「分かりました。何かあった時のために取っておけばいいんですね」

俺が頷くと、それきり何も聞かずに、折りたたんで自分の手帳に挟んだ。

最終出社の翌日、本から電話が来た。本は打ち合わせの件で会社に電話を入れ、そこで俺が辞めたことを知ったという。躯体業者を別の会社に変える話も、その電話口で聞かされたらしい。俺がこんなことになって申し訳ないと伝えると、本はどこか冷めた声で言った。

「矢島さんがいなければ、この仕事は受けられない。これまで矢島さんが見に来て、きちんと指示を出してくれるのを前提に段取りを組んできたんだ。あんたがいない現場で、うちがどこまでやれば合格なのか、俺には分からん」

その翌日、三から着信が入った。三の話では、2日前に担当窓口の変更通知が届いたという。書面には前任者の退職と、後任の名前が栗原と書かれていた。部長自らが実務の窓口に入るのはあまり聞かない話だという。

「八島さん、退職理由を会社に伺っても、事情は教えていただけませんでした。ですが、矢島さんが自ら辞められたのなら、それだけの理由があったのだろうと思っています。急なことですし、事情を教えていただけませんか?」

俺は口ごもった。社内の揉め事を持ち出すべきではないと思う一方、長年世話になった三には業者変更の件を伝えるべきかもしれないとも思う。迷っていると、三はしばらく黙った末に言った。

「矢島さん、どうか会って話す時間を作っていただけませんか?私はあなたの口から直接経緯を聞きたいんです。私が170億の仕事を任せたいのは、八島さんご自身です。会社の看板ではありません」

ここまで言われては断れないだろう。俺の頭には13年前のあの朝がよぎっていた。指で押しただけで粉になって崩れたモルタル。書類には何ひとつ不備がなかったあの現場。数字も書類も、現物の前では何の証にもならないと思い知った日だ。それ以来、現場を見る目だけは誰にも譲らずにやってきた。その積み重ねを、三は見ていてくれたのだ。

数日後、脇坂から着信が入った。声が普段より低い。社内が朝から落ち着かないのだという。

「八島さん、あの170億の案件、施主さんから契約解除の通知が入りました」

栗原に辞めると告げてから、ちょうど1週間だ。俺は脇坂に、業者の変更を誰も止めなかったのかと聞いた。

「部長が決めた話に、こちらから口は出せません。稟議に上がってこないものは、こちらの目に触れないので」

脇坂はそう答え、また分かったことがあれば連絡すると言い、電話を切った。

今日は夕方に三と会う約束をした日だ。駅前の喫茶店に入ってきた三は、座るなり両手を膝の上に置いた。

「先に謝らせてください。契約解除を決めたのは昨日です。矢島さんに一言も知らせず、申し訳なかったです」

昨日、業者決定の書面が届いたそうだ。示されていたのは、施工不良を起こして出入り禁止にした業者の名前だった。

「私はその日のうちに、この業者は認められないと伝えました。帰ってきた返事には、業者の変更は会社としての正式な決定であり、変更する予定はないと書かれていました。部長の独断ではなく、会社としての回答だと明記されていたんです」

その一文を読んで、解除を決めたんです。三は一度言葉を切り、改まった顔で言った。

「矢島さん、お願いがあります。もちろん、矢島さん個人に直接発注するわけにはいきません。ただ、矢島さんが窓口に立ってくれる会社であれば、私はそこに工事を出したい。どこの看板でも構いません。優秀な矢島さんのことだ。転職先はもう決まっているのでは?」

俺は苦笑し、三に少し時間をくれと言った。この1週間で、俺は同業の転職先を見つけている。辞めたことを電話で告げたら、すぐにスカウトしてくれたのだ。だが、170億の工事の行き先を決めるのは三の会社だ。俺に確かめられることは1つだけ。工事を頼む予定だった本に、受ける気が残っているかどうかだ。それが分からなければ、三の話には答えられない。

夜になって、脇坂から着信が入った。契約解除の通知を受けて、白田が栗原を呼びつけたらしい。

「専務は、業者の変更は部長の独断だと言っています。自分は相談を受けた覚えはないと」

脇坂は、役員室から出てきた栗原の青ざめた顔を見たと言った。その後、栗原は本の会社に、やはり工事を頼みたいと電話を入れたという。本から折り返しが入って、それを受けたのは脇坂だった。

「矢島さんのいない仕事を受ける気はない。それだけ言われて終わったんです」

電話を切った後、俺はその場で本に電話を入れ、会って話す時間をもらえないかと頼んだ。本は明日の午前なら空いていると言った。三に返せる言葉があるとすれば、その後だ。

翌日の午前、俺は本の会社へ向かった。事務所の応接に通されると、俺は施主が発注し直す意向であることを伝えた。その上で、受ける気が残っているかを聞いた。

「俺が降りたのは、矢島さんが見に来ない現場だからだ。あんたが窓口になり、現場に来てくれるなら、受ける気はある」

帰り際、本は付け加えた。

「窓口に立つにも、あんたには今、看板がないだろう」

確かにその通りだった。

「うちが20年以上組んできた元請けが一社ある。三さんの仕事で組んだこともある。声をかけてみたらどうだ?」

その社名を聞いて、俺は思わず息を止めた。今週、俺に声をかけてきた会社と同じ名前だったのだ。

三を訪ねたのは、その翌日の午前だ。俺が三に伝えたのは3つ。本の会社は俺が窓口に立てば受ける意向であること。本が長年組んできた元請けが一社あること。その元請けが俺の転職先であることだ。

三はその元請けの名を聞くと、心当たりがあると言った。

「ああ。あの会社ですね。分かりました。170億の工事を、その元請けに発注します。その時の条件を、今度は契約書の前に決めておきます。主要な工事を任せる業者を選ぶのは矢島さん。着工から引き渡しまで、窓口は矢島さんです」

翌日、俺はその元請け会社を訪ねた。すでに声をかけられた縁もあり、話はすぐにまとまったのだ。

3日後、三から着信が入った。俺が辞めた会社から、契約の件で話をさせて欲しいと申し入れがあったという。三は、辞めるつもりはないと言う。その上で、三は俺に同席を求めてきた。工事を託す当事者がその場にいた方が話が早いという。俺は工事を受ける側の人間として行くことに決めた。

見慣れた本社の会議室に通されたのは、翌日の午後だった。上座に白田が座り、その手前に栗原がいる。斜め後ろの席には脇坂がついていた。記録を取る者を1人置いたのだろう。白田も栗原も、俺の方を見ようとしない。俺は何も言わず、三の隣に腰を下ろした。

三は前置きを置かずに、次にどこへ発注するかを告げ、窓口は矢島さんですと言い切った。白田が身じろぎをし、栗原だけを鋭く睨んだ。栗原が机に手をついた。

「お待ちください。あの業者に問題があるなどという話は、私は聞いておりません。矢島が業者選びにこだわって、個人の好みで反対していただけです」

三は書類を1枚出し、机の中ほどへ置いた。2年前の手直し工事にかかった費用の明細と、その業者の出入りを禁止するという社内の通達だという。

「外したのは我が社です。八島さんの好みではありません」

栗原の顔がみるみる蒼白になっていく。

「聞いていない。私は着任したばかりで、そんな経緯は…」

俺は耐え切れず口を挟んだ。

「経緯はご存知だったはずです。業者を変えるとおっしゃったあの日、あなた自身が『その業者の経緯くらい、俺も聞いている』と言いましたが」

栗原の言葉が完全に止まった。その沈黙を破るように、脇坂が立ち上がり、手帳から紙を1枚抜いて栗原の正面に置いた。

「矢島さんが業者の変更に反対した書面です。これは写しで、原本は部長が受け取っているはずです。最終出社の日に、何かあった時のためにと預かりました」

栗原の喉の奥から、かれた音が漏れる。白田がその書面を横から覗き込み、すぐに目を離した。

「部長が担当の反対意見を握りつぶしたわけだ。業者の変更は部長の独断だ。栗原、これは君1人の話ではすまんぞ」

栗原が白田を見た。口が開き、そのまま止まっている。白田は栗原を見ず、三に向けて続けた。

「三さん、この件は部長の判断が先走ったもので、私どもの管理が行き届きませんでした。担当を入れ替えて、改めて選定をやり直させます。どうか解除だけはお考え直しいただけませんか?」

三は即答した。

「先日、この業者を当てるのが社としての判断かどうかを書面でお尋ねしました。『取り下げるつもりはない。社として決めたことだ』と、そう回答をいただいておりますが」

契約解除を決めさせた返事とは、これのことだったのかと俺は合点が行く。白田の指がテーブルの縁で止まった。回答が栗原の独断だと言えば、社として出した書面が嘘になる。社としての判断だと認めれば、独断ではなくなる。どちらへ転んでも、白田の逃げ道はない。

「担当を変えれば済む話ではありません」

三はそう言って椅子を引いた。

「私の要件はこれで済んでおります。本社に伝えるべきことは伝えました。失礼いたします」

三は俺を一瞥し、部屋を後にした。扉が閉まると、栗原が椅子から立ち上がり、俺の前に回ってきて頭を下げた。

「矢島、頼む。戻ってくれ。お前が戻れば、施主も話を戻すはずだ」

すると白田が口を開いた。

「矢島、君の不遇は私が見る。今回の件は栗原の独断だ。矢島を外せと言った覚えはない」

俺は椅子を引いて立った。向き合ったのは栗原からだ。

「私が元の会社に戻っても、契約は戻りませんよ。三さんが見ていたのは、この会社の看板ではない。現場に自分の足で行き、業者を見分ける目を持つ人間がいるかどうかです。業者をいい加減に決める会社に戻る理由などありません」

栗原は顔面を硬直させたまま動かなかった。白田がもう一度俺の名を呼んだが、俺は一礼だけをして部屋を後にした。

廊下の突き当たりで、三がエレベーターの前に立っている。

「来週、敷地を見に行きます。八島さん、ご一緒願えますか?」

俺は頷いた。

1月ほど経った頃、脇坂から電話があった。契約解除の経緯を社内調査で洗ったところ、差し替え先の業者から白田へ金が渡っていたことが判明したという。金を受け取って業者をねじ込もうとした白田は、専務の職を解かれ、関連会社の顧問へ移されたそうだ。選定の書面に自分の名を書いた栗原は、懲戒処分を受けて部長職を解かれ、ほどなく会社を去ったという。

170億の工事は、俺が移った元請けが受け、正式に決まってすぐに動き出した。移った先の会社で、俺は工務部の部長を任されている。着工の日、俺は現場に立っていた。躯体を組むのは本の会社だ。三が敷地の端から歩いてきて、俺の隣に並んだ。信頼できる職人たちが現場で働く姿を見ながら、俺は思う。俺がこれまでこだわりを持ってやってきたことは、決して間違いではなかったと。

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