「行かない方がいい。」
その声は、タクシーの運転手がそれまで見せていた温和な雰囲気とはまるで別人のように、低く、重く響いた。心臓がドキッと跳ねるあまりにも突然のことで、何が起こっているのか理解できず、頭が追いつかない。疑問をぶつけようと口を開きかけたその瞬間、窓の外に人影が見えた。視線を向けると、そこには君かの姿があった。私を迎えに来たのだろうタクシーを降りようとドアに手をかけるしかし、運転手の様子がおかしいことに気づいた。彼は、君かにひどく怯えていたのだ。外にいる彼女は、不思議そうに私を見ている。過去にこの二人の間に、何があったのか。私はもう一度、手の中のメモを見る。「行くな」という三文字が、妙に震えて見えた。
「どうしてですか」
彼は、君かが車から少し離れたのを確認すると、静かにアクセルを踏んだ。
「実は……」
彼の話は、衝撃的で鳥肌が立つものだった。ふと視界に入ったスマホには、君かからの着信が何十件も来ていた。その現実に、背筋が凍った。
私の名前は川口さ野。46歳のパートタイマーだ。47歳の夫と、ごく普通の一軒家で、一見、仲睦まじく暮らしている。
彼との出会いは高校生の頃だ。しかし、その時はお互い、ただの同級生としか見ていなかった。
そんな関係が変わったのは、高校を卒業して十年後に開かれた同窓会である。会場は、とある居酒屋だ。最初は別々の席で飲んでいたが、だんだん人が入り乱れた結果、彼が偶然にも私の隣にやってきた。
「そういえば、昔ってあまり話してなかったよな」
「うん。三年間も同じクラスだったのにね」
彼が話しかけてきてくれたことにより、同じ趣味を持っていたり、近くに住んでいたりすることなどが判明し、とても盛り上がった。
「もしよかったら、今度二人で飲まないか。もっと話したいなって思ってさ」
彼の提案を承諾し、連絡先を交換した後、再び話に花を咲かせた。一時間後、同窓会が終わり、二次会へ行く人と帰る人に別れた。私と彼は、帰る選択をし、二人で最寄り駅まで歩いた。駅のホームで、彼が言う。
「家に帰ったら連絡しろよな。心配だからさ」
その一言に、心が温かくなる。
「ありがとう。あなたもお願いね」
彼は優しく笑い、先に電車に乗り込んだ。彼を見送った後、近くのベンチに座る。同窓会で、新たに仲良くなる人がいるとは思わず、嬉しくなる。私は時刻表を見ながら、両手でスマホを握りしめた。
三十分後、帰宅した私は、彼にメッセージを送る。彼は、すでに家にいると数分前に連絡が来ていた。その流れで、次に会う日時の約束をし、お風呂へ入る。入浴中、早く彼に会いたいという思いがずっと頭の中にあり、気持ちが高ぶった。
その日を境に、私たちは頻繁に顔を合わせるようになった。そして同窓会から半年が経った頃に交際を開始し、二年後に結婚した。駅に近い場所に一軒屋を建て、新しい生活を始める。私は結婚を機に仕事をやめ、家の近くのスーパーでパートタイマーとして働き出した。子供はいないものの、毎日とても幸せで、彼と再開できて良かったと思いながら暮らしていた。
十五年後、両親や義母が亡くなるなどの困難はあったものの、二人で支え合いながら過ごす中、私は街中でとある人物に出会う。話しかけてきたのは、向こうだ。
「もしかして、さやの」
誰か理解できず、反応に困る。
「急に話しかけられても、って感じだよね。私、安藤君か。高校生の頃に、三年間同じクラスだった」
名前を聞いた瞬間、鮮明に彼女との日々が頭の中に浮かんだ。
「君か、久しぶり。昔とはすごい変わってて、全然分からなかった」
私が知っている君かは、福岡で髪が短かった。しかし、目の前の彼女は、学生の頃の面影はなく、スラッとしており、綺麗な髪を一つに束ねていた。
「前と全然違うでしょ。実は大学生になってからイメチェンしたのよ」
「似合うわね。うん、素敵」
再会の場は、駅近くのファミレスの前。時間はちょうど午後を少し過ぎた頃だ。「就職でもどうか」と声をかけようと息を吸った時、君かが話し出した。
「この後、時間あるせっかくだし、ご飯でもどう」
「私もそう言おうとしてたのよ。よし、じゃあ行こう」
そして私たちはレストランへ入った。ご飯を食べながら、思い出話やお互いの近況などに花を咲かせる。彼女は現在、クリニックの院長をしているらしい。
「開業したの」
「もちろん。昔から自分の病院を作るのが夢だったの」
君かは、学生の頃から医者になりたいとよく言っていた。夢が叶ったのだと、私は嬉しくなる。
「院長さん、すごいわね」
「大変なことも多いけど、なんだかんだ楽しいのよ。スタッフもいい人ばかりでさ」
彼女の表情は明るく、今の仕事が本当に楽しいのだと分かる。その後、話題は結婚や住まいについてに移った。君かは、結婚はしていないそうだ。「両親が買ってくれた一軒家に住んで、一人で快適に過ごしているの」とのこと。
「家をプレゼントされるなんて」
「ほら、うちって両親が揃って元気でしょ。お金はあるけど使う場面がないって言ってね」
彼女の親は、現在、飛行機の距離に住んでいるらしい。
「私には縁のない世界だわ」
「そうかな」
そう言って、君かは食後のコーヒーをすすった。
三十分ほど滞在し、ファミレスを出る。連絡先の交換もしたので、いつでも彼女とやり取りができる。
「さやの、今はパートだったよね」
「そうだよ」
「よかったら、今度うちに来ないまたこうして話しましょう。手がなければ、迎えに行くわ」
まさかの誘いに驚く。しかし、このように招いてくれるのは嬉しい。私は二つ返事で承諾した。後日、詳しい日などを決める流れとなり、それぞれの帰路につく。
帰宅し、スマホを見ると君かから「今日はありがとう」とメッセージが届いていたため、同じく感謝の言葉を返す。
「楽しみだな」
シフトを確認している中、そんな声が漏れた。私は胸が高鳴るのを感じつつ、君かに連絡するため再びスマホを手に取った。
その日の夜、夕食の席で、夫に今日の出来事を伝える。
「君かって、覚えてる」
「ああ、高校の時の彼女か。懐かしいな。急にどうしたんだ」
「街中で会ったのよ」
夫は目を見開き、驚く。そしてそのまま、話題の中心は彼女へ。どんな子だったか、部活はどこか、成績はどの辺りかなど、話せば話すほど思い出がどんどん浮かんでくる。
「よくそこまで覚えてるね」
「記憶力だけはいいからさ。でも、あいつ同窓会来なかったよな」
同窓会は、私と夫が再会したあの一回以降、開催されていない。彼は、その一回について話しているのだろう。
「忙しかったんでしょっぽら、お医者さんなんだし」
「それもそうか」
夫は納得し、目の前のおかずに箸を伸ばす。私が彼女の家に行くと言っても、特に止めず、「楽しんで来いよ」と言ってくれた。彼は束縛するタイプではないので、事は分かり切っていたものの、少し安心した。
一ヶ月後、君かと会う日がやってきた。
彼女は車で迎えに来てくれた。車内では、以前のごとく話が盛り上がり、一緒にいて心地よい。
家までは十分もかからずに着いた。駐車し、目の前に広がる光景に息を呑む。
「ここが、君かの家」
「そう。自分で言うのも恥ずかしいけど、結構立派じゃない」
外装や庭は、住宅街に馴染んでいないほど豪華で、輝いて見えた。君かに続いて、家の中に入る。
内装も家具も、何もかも綺麗だ。緊張しつつ、座るように促されたソファーに腰を下ろすとか、気づけば彼女が私の前に紅茶とお菓子を置いていた。
「そんなに緊張しなくていいのに」
「だって、私には異世界だもの」
「何回も来てたら慣れるって。ほら、紅茶でも飲んでリラックスしな」
恐る恐るコーヒーカップに手を伸ばし、鼻先に近づけた。その瞬間、一気に緊張がほぐれた気がする。私の表情を見て分かったのだろう、君かが微笑んだ。
三時間ほど過ぎ、太陽が傾き始めた頃に、帰路につく。「再び、彼女が送ってくれてありがたい限りだ」
「今日はありがとう。またね」
笑顔で伝える彼女は、「こちらこそ」と言い手を振ると、そのまま車を発進させた。
家の中に入り、君かの家で過ごした時間を振り返る。「ゆっくり世間話ができてよかった」と。「またこんな機会が作れたらいいな」と考えつつ、着替えるために寝室へ足を運んだ。
この日を境に、私は君かの家へお邪魔することが増えた。買い物やレストランで食事をする日もあり、彼女と顔を合わせるたびに、再開できて嬉しいと感じる。
ある日、私は君かと意外な人物の接点を見つけた。
ある土曜日の午後、私はタクシーで彼女の家へ向かった。
チャイムを押し、返事を待つとか、すぐに中から足音が聞こえてきて、玄関のドアが開いた。
「今日は迎えに行けなくてごめんね」
「さやのに合わせたい人がいて」
私に思い当たるのは、同級生だけだ。仲良かった人たちを振り返りながら、リビングへ向かうとか、ソファーに座りこちらを見ていたのは、全く想像していなかった人物だった。
「お母さん」
義母だ。なぜここにいるのか、理解が追いつかない。混乱している私に、君かが事情を教えてくれる。
君かと義母は、とある習い事の教室で知り合いになったらしい。二人とも、すでに辞めたが、波長が合うため、交流は続けていたそうだ。
「あなたの苗字や結婚した相手の話を聞くと、もしかしたらって思ってね」
「まさか、さ野さんと君かさんが同級生だとは知らなかったわ。急いで家にある卒業アルバムを見たら、同じページに二人ともが乗ってるんだもの。もうびっくりしちゃった」
義母は、手を叩きながらはしゃいでいる。最後にあったのは、一年前の正月だ。「意外と変わっておらず、安心できた」
「あの子のことって、夫は知ってますか」
「私と君かさんの関係、知らないはずよ」
「何も聞いてないでしょ」
「夫なら、知った時に話してくるでしょう」
私は納得し、いつの間にかソファーに座っていた君かの隣に腰を下ろした。
「まさか、ここであなたと会うなんてね」
「引き合わせてくれた君さんには、感謝しかないわ」
「いえ、さすがに黙ってられませんよ」
その後、三人で雑談をする。つい時間を忘れてしまうほどだとか、気づけば時刻は十七時になっていた。
「あ、もうこんな時間。私、夕食の準備をしなきゃいけないので帰ります」
「あら、そろそろ、息子が帰ってくるのね」
「今日は何を作るのかしら」
「カレーです」
帰り支度をしながら答えるとか、同時にアプリでタクシーを呼んだ。
「あの子と、何も変わらないのね」
「暗くなってるし、気をつけて帰るのよ」
「ありがとうございます」
数分ほど経ち、タクシーがやってくる。
「今日はありがとうございました。また話しましょう」
「また連絡するね」
二人は、玄関から見送ってくれた。車が出発するまで、その場にいてくれ、改めて彼女たちの優しさを感じた。
数時間後、仕事を終えて帰ってきた夫に、先ほどまでの君かの家でのことを伝える。
「君かとお母さんが、びっくりよね。まさか、合わせたい人がお母さんだとは思ってなかったし」
「でも、相変わらず元気そうで安心したわ」
義母の様子を話すと、彼は胸を撫で下ろす。
「それならよかった」
「家同士は近いのに、なかなか会って話にならないだろう。俺たちが持ちかければいいだけなんだけどさ」
私たちの家と義母の家は、車で十分程度だ。「近くに住んでいるので、あえて会おうという話にはならない」
「父さんもいないし、寂しいのかな」
「面倒かもしれないが、構ってやってくれ」
確かに、一軒家で一人暮らしは、寂しいのかもしれない。
「次、またお母さんと会う機会があったら、色々近況も聞いてみるわね。今日はそういう話はしなかったから」
「ああ、頼んだよ」
彼は笑い、着替えのために寝室へ向かうとか、私も夕食の準備を終わらせようと、キッチンへ足を運んだ。
義母と会ってからというもの、君かは私と同じ時間帯に彼女も家に呼び、三人での時間が増えた。
義母は、すでに年金暮らしだが、私と君かは働いている。「タイミングが合う日に、三人でよく集まっていた」
買い物や外食なども楽しむようになり、私の生活はさらに潤っていく気がした。
しかし、そんな生活に、暗い影を落とす出来事が起こったのだ。
それは、普段通り君かの家に行った時のこととか、私がリビングに戻ろうとした際、中から物騒な会話が聞こえてきた。
「いつ頃やります」
「あの人って、すごい鈍感だし、いつやっても大丈夫そうですよね」
「確かに」
「あなたの方の準備は、大丈夫なの」
「え、私は院長ですよ」
「それっぽい理由をつければ、薬を持ち出すなんていつでも簡単にできちゃいます」
彼女たちは、何かを企んでいるのだろうか。「最初はサプライズの類いだと思い込んでいたものの、「薬」という単語が聞こえた瞬間、一気に背筋が凍った」
さすがに、二人が狙っている相手は私ではないはずだ。「これ以上、ここで話を聞き続けるのも怪しまれそうだ」とか、私は何も聞いていないふりをして、彼女たちの元に戻った。
「お帰りなさい」
二人は、普段通りに接してくれる。「バレていないようで、安心した」
しかし、その日から、君かの家に行くたびに、似た会話をよく耳にするようになった。「いつ、あいつを消そうか」などの物騒なことも聞こえてきて、手が震える。決して私の前ではせず、君かと義母の二人きりになった時だけだ。「何を話しているのか、聞くべきだと思ったものの、そこまでの勇気は出せない」
「夫に相談した方がいいかも」とも考えた。「でも、もし私が大きな勘違いをしていたら、夫たちに迷惑をかけてしまう」とか「どうしても、彼女たちが悪いことに手を出す人たちだとは思えない」私に対しては、とても優しいし、いつも楽しく話をしてくれるのだ。
夫との生活が嫌というわけでは決してないが、毎日同じ人たちと似た話をするのは疲れることもある「そんな私にとって、彼女たちはいい刺激になっていた」
だがある日、急に君かと義母の態度を不穏に感じ始めた。「きっかけは、私の体調が悪くなった時のことだ」理由は分からないが、日々の疲れが出たのだと勝手に結論を出した。「特に熱や咳もなく、体がだるいだけなので、パートなどには休まず行っている」
しかし、やはり休日は外に出たくない。「私はなるべく君かの家へ行く機会や買い物などの回数を減らした」そんな生活を送る中、君かが電話をかけてきた。「寝室のベッドに横たばったまま、応答する」
「はい」
「さやの、今日会う約束してたよね」
「なんで来ないの」
「約束はしてなかったはずよ」
視界の端に入ったカレンダーを見ても、そのような予定は書かれていない。
「それに、今体調が悪いの」
「体がだるいだけなんだけど、家を出るのはちょっと」
医者である彼女だ。「私の言い分を分かってくれるはずだろうと思った」
だが、その考えはすぐに覆された。
「いや、いいから来なさいよ」
「なんなら、私が見てあげるし」
「でも、しぶる私に腹を立てたのか、彼女は声を荒げる」
「私がいいって言ってるの」
「二十分以内ね」
ちょっと、君かは全く話を聞かず、勝手に電話を切ってしまう。「このまま放っておけば、再び怒られるかもしれない」とか、なんとか体を起こして出かける準備を始めた。
十分後、私は君かの家にいた。「見てあげると言われたものの、彼女は普段通り世間話をするばかり」君かの横には、義母が座っていた。
家に来て二十分ほどが経った頃、話が途切れたタイミングで彼女に尋ねる。
「ちょっといいかな」
「どうしたの」
君かは、私を見る。「義母も、同じ反応だ」
「さっき電話で体調が悪いって言ったでしょ」
「少しだけ、相談に乗ってくれないかな」
「ああ、そうだったわ」
すると、君かの目つきは、急に鋭くなる。「その代わりに、体がビクっと動いた」
「病院には、行ってないのよね」
「うん」
「じゃあ、私が何とかしてあげる」
「それは嬉しいけど」
彼女の病院へ行くということだろうか、私は静かに話の続きを待った。
「でも、病院には来なくていいわ」
「なら、どうやって」
「それは追い追い話すから」
「とにかく、絶対に病院には行かないでね」
君かの言っている内容が、あまり理解できない。「しかし、医者なりの考えがあるのだろう」
「あ、分かった」
「でも、本当にいいの」
「私がいいって言ってるのよ」
義母は、無言でこちらを見ているだけだ。「私はしぶしぶ頷いた」
「ああ」
「でも、これは夫には言わないでおいて」
夫の提案に、疑問を抱く。
「どうして」
「正直、私がこうして病院外で治療をするって、あまり良くないことなのよ」
「本当は受診しなさいって言うべき立場だからさ」
「ああ」
さらに彼女は話を続ける。
「夫が職場とかで色々言ったら、大変なことになっちゃう」
「あの子、優しいけど、鈍感な部分があるしね」
義母の発言には、納得できた。「君かの立場などを考慮すれば、私はおそらく病院を受診するというべきだ」だが、通院の手間や金銭的な問題を考えると、彼女に任せたいのが正直なところだ。
「分かった」
「誰にも言わない」
この返事に、二人は満足に微笑んだ。
しかし、その後も私の体調は良くならないまま。「調子がいい日と悪い日が交互に来て、精神的にも追い詰められていた」しかし、君かが送ってくるこちらの体調を気遣うメッセージがあったため、なんとか気持ちを保てたのだ。「また、彼女は再び家に誘ってくるように」
時々見える君かの態度に疑問を抱いていたものの、「私を心配してくれているのは確かだ」とか「私は来てほしいと言われることもあり、彼女の家への訪問を再開した」
そんな生活を送り、一ヶ月が経った頃、君かの家に行った際にとある話をしようと決めた。「私の体調についてだ」彼女はなんとかすると言っていたものの、具体的な行動は起こさない。「それに、君かに頼りっぱなしは申し訳ないとも思う」
約束の日に、タクシーで君かの家に着く。「若干だるさがあったが、大丈夫だろう」チャイムを押すと、玄関のドアが開いた。
「さ、入って」
少しふらつきながら、彼女に続いてリビングに入る。「そこには、いつも通り義母の姿があった」彼女は立ち上がり、こちらへやってくる。
「さやさん、こんにちは」
「あら、少し体調が悪いのかしら」
私の歩き方が気になったのか、義母はそう言った。
「ちょっとだけでも、大丈夫ですよ」
「そう」
「なら、早くこっちに行きなさいよ」
義母は、まるで自分の家のごとく、私をソファーへ誘導した。「案内された場所に腰を下ろし、ほっと息をつく」とか、いつの間にか目の前には君かが入れてくれた紅茶が置かれていた。「普段通りの光景に安心する」
「ありがとう」
「家に呼んでくれて」
君かは、「ったしまして」と言った。
その後、私は彼女と話しているうちに、先ほどより体調が回復していくのを感じる。「気を紛らわせることは、重要なのだと気づく」
「一人で家にいるのは、色々考えちゃうからね」
君かは、私の心を読んだかのようにそう言った。
「そういえば、夫はさやのの体調には気づいているの」
君かは、改まった表情で訪ねてくる。
「ええ、最初は黙ってたんですけど、さすがに一緒に生活しているので気づかれました」
「今日も出勤前に、気遣う言葉をかけてくれましたよ」
「隠そうとしていたけど、無理だった」とか「夫は心配の言葉をかけてくれ、よく家事などを交代してくれている」
「そう」
「さすがに、あの子もね」
義母は、なぜか少し残念そうな顔をする。「だが、話題は再び世間話に戻った」
「そうだ」
「昨日、休みだったんだよね」
私も、パート先であったことや、夫との生活について話す。「義母は、楽しそうに紅茶をすっていた」
君かの家に来て二時間が経った頃、私は帰る支度を始めた。
「あれ、もう帰るの」
「うん」
「せっかくだし、買い物でもして帰ろうかなって」
家の近くのスーパーまでタクシーで行き、帰りは歩こうと考える。
「分かったわ」
「今度、息子に言っておくわ」
「ちゃんとさやさんを見てあげてねって」
「いえいえ、十分」
「もう大切にされてるので、大丈夫ですよ」
微笑んで返すと、義母は笑った。
三十分後、私は買い物を終え、家に帰っていた。
冷蔵庫に商品を入れた後、君かにお礼のメッセージを送った。
一分も経たないうちに、彼女からの返信が来て、少し驚く。
その瞬間、体調について聞くことを忘れていたと気づいた。
「また、次でいいか」
そんな言葉が漏れた。
夕食は弁当を買ってきたため、特に準備することはない。「私はスマホをリビングのテーブルに置いた後、ソファーに座り、テレビをつけた」
いつの間にか、寝ていたらしい。
私は、帰ってきたばかりであろう夫に起こされた。
「あ、よかった」
「全然起きなくて、焦ったよ」
「そんなに疲れてるのか」
「疲れが溜まってるんじゃないのか」
「私もそう思うわ」
「だけど、どれだけ休んでも治らなくて、ひどくなったら病院に行くんだぞ」
黙って、夫は共感してこない。「そこも、彼を好きになった理由だ」
「分かった」
「ありがとう」
私は起き上がってキッチンに行き、電子レンジの中にしまってあった弁当を取り出す。
「今日は、お弁当にしたの」
「食べる時に、声をかけてね」
「おお、唐揚げ弁当か」
「ありがとう」
「落ち着いたら言う」
夫が喜んでくれて、嬉しい。「私は、うなずきながら弁当を元に戻した」
一ヶ月が経っても、体調が完全に良くなることはない。「ただ、以前よりはマしになった」パート先で心配される機会も減り、「今まで心配をかけてしまっていた分、懸命に働かなければと考えた」
二週間後、会う約束ができたため、普段通り君かの家にいた。「当然、義母もいる」三人で世間話をする中、話題が途切れたのを見計って、口を開いた。
「君か、ちょっと質問があるんだけど」
「どうしたの」
「私の体調って、なんで悪くなったのかな」
途端に、君かは黙り込む。「純粋な疑問だったため、彼女の反応に戸惑った」
「何か変なこと言った」
「いや、そうじゃないけど」
様子がおかしい。「やはり、君かに迷惑をかけていたのだろう」とか、私はさらに言葉を続ける。
「やっぱり、病院に行った方がいいかな」
その瞬間、君かの表情が変わった。
「絶対に、病院にはかかっちゃだめ」
「さやのは、私が見るって約束したでしょ」
君かは、さらに私に迫ってくる。
「私はさやのと頻繁に話せるし、あなたもお金がかからなくて済む」
「それでいいってなったじゃないの」
「急に意見を変えるのは、やめて」
「う、ごめん」
義母も、君かに同意する。
「君かさんは、お医者さんなのよ」
「絶対に、彼女の言う通りにしておいた方がいいわ」
急に声を荒げられて驚いたが、彼女たちの言い分に頷く雰囲気に飲まれていたのかもしれない。
「とにかく、分かったら病院に行くのはやめてね」
「私に、全部任せて」
「うん、じゃあ」
しかし、これだけは聞くべきだと、話を続ける。
「原因は、何かな」
「それが分かれば、自分でも生活習慣を直すとかできそうだから」
彼女は、鼻で笑った。
「そんなの、知るわけないでしょ」
「検査も、何もしてないし」
「その検査をするために、病院へ」
「じゃあ、そのうち私の病院で日程を組む」
君かから前向きな返事が聞けて、安堵する。
「分かった」
「なら、この話は終わり」
「新しいクッキーを持ってくるわ」
「待ってて」
そのまま彼女は、逃げるようにキッチンへ向かった。「リビングで義母と二人きりになる」とか、何か彼女に言われるかと思ったが、特に会話もないうちに君かが戻ってきた。
「いつも、さやのの家は十六時くらいに帰るわよね」
「今日も、そうするの」
頷いた私に、彼女は私のティーカップに紅茶を注いだ。
家を出る時間まで、三十分ほどある。「私は不審感を覚えつつ、クッキーを口にした」
それからというもの、体調に振り回されることはさらに減った。「以前の生活に戻れて、嬉しい限りだ」
「最近、元気そうで良かった」
「でも、無理は絶対にするなよ」
「何かあったら、俺に頼るんだぞ」
「母さんや、君かでもいい」
「うん」
優しい彼に救われる。「しかし、実際に頼れるのは誰かを考えた」夫と君かは、仕事がある。「年金暮らしの義母は、基本的に家にいるはずだが、高齢の彼女に声をかけるのは気が引けた」
家で一人になったタイミングで、ついため息が漏れる。「勝手に、二人に無断で相談はできない」探せば抜け道があるはずだ。「しかし、今の私には考える気力がなく、この状況を脱することは難しい」相変わらず生き方が下手だと、自分をさらに嫌いになった。
「秘かに怒られた日以降、私は以前と同じく、彼女と義母の三人で何も考えずに世間話を楽しむようにしている」
悩む体力もないためだ。「調子が良くなったと思えば、自らを責めたせいで元に戻ってしまう」全く検査の予定を入れてくれない君かは、普段と変わらず笑顔だ。「その表情の裏には何が隠れているのか、知ってみたいという欲だけがどんどん募っていった」
二ヶ月ほどが経った、ある平日の昼間。
私はどうしても体調が悪く、君かに電話をする。「ちょうど彼女は、仕事が休みのはずだ」
「あの、今日って休みだったよね」
「家に行っても大丈夫」
「体調が悪くて、一人でいるのが心細いの」
「もちろん」
「ちょうど、あなたを誘おうと思ってたのよ」
「お母さんも、いる」
「ええ」
念のため、義母の存在を確認した。
「迎えに行こうか」
「や、タクシーで行くし大丈夫」
「ごめんね」
「じゃあ、気をつけてくるのよ」
なんだかんだ、君かは優しい。「私は返事をして、通話を切った」
そして急いで準備を済ませ、タクシーを呼ぶ。
この頃には体調は落ち着いており、「わざわざ彼女の家に行く必要があるのか悩んだ」それでも、一人でいる間に何があるか分からないし、君かにも家に行くと言ったため、撤回も気が引ける。数分後、タクシーが来たので、外に出て車内に乗り込む。
「お願いします」
えっと、君かの家の住所を伝えると、運転手は少し間を置いた後、はいと返事をした。
そして、仕事の記録用なのか、紙に何かを書き始める。「私は特に気にせず、窓の外に視線をやった」
数秒後、タクシーが動き出す。
、助手席にある運転手の名前と顔写真が記載されたパネルが視界に入った。「彼の名前は、村田と言うらしい」話し方や顔などから、正直彼に怖い印象を抱いた。
しかし、彼と同じ空間にいるのもほんの数分だ。「私は気にせず、今度はスマホに視線を落とす」君かに、家を出たと連絡をし、再び窓の外を見た。
すると、バックミラー越しに、村田が話しかけてくる。
「今日は、いい天気ですね」
うん、急な出来事で驚いたものの、ただの何気ない会話だ。「また、しっかり聞いてみると、意外と彼の声色は優しい」このように話しかけてくれる人は珍しく、私たちは雑談を続けた。
数分限りの、とても短い関係である。
「行き先は、お友達の家ですか」
「いいですね」
「遊びに行かれるんですか」
「まあ、そういうところですね」
「あと、今私ちょっと体調が悪くて、友達のそばにいれば安心かなと」
「それは大変だ」
「早く治ると、いいですね」
話していると、いつの間にか君かの家の前に着いた。
村田に金額を伝えられ、ぴったり現金で出す。
「ありがとうございました」
支払いが終わり、タクシーを出ようとする。
しかし、なかなかドアが開かない。「ロックもかかっており、恐怖を覚えた”
あの、私が村田に問いかけた瞬間、彼が一枚のメモを渡してきた
恐る恐る、内容を見る。「そこには、意味深な内容が書かれていた」意味が分からない。
村田に声を聞こうとした時、彼はこう言った。
「行かない方がいい」
その声色は、先ほどより何倍も重く、心臓がドキッとした。
あまりにも突然の出来事で、何が起こっているのか理解できず、頭がうまく追いつかない。
「どうしてですか」
彼は、君かが車から少し離れているのを確認した後、アクセルを踏んだ。
「実は……」
村田の話は、衝撃的で、鳥肌が立つ。
ふと視界に入ったスマホには、君かが発信元の着信が何十件も来ていた。「その現実に、背筋が凍った」
「少しだけ、時間をいただけますか」
「近くに、私の会社があるんです」
「もっと詳しくお話しできれば、と思いまして」
「あ、はい」
私は一体誰を信じるべきなのか。「混乱で息が苦しいが、今は村田を信じる他ない」彼の提案を受け入れ、一緒にタクシー会社へ向かった。
その後、応接室に通され、目の前のソファーに座った彼をじっと見る。
「いきなり、すみません」
「びっくりしましたよね」
「えっと、あ、私の名前は、村田と申します」
自己紹介をしつつ、名刺を渡してくれた。「私も、同じく名乗る」
「名刺は持ってなくて、すみません」
「いいえ、大丈夫ですよ」
お互いに一息ついた頃、私は口を開いた。
「あの、車内で話してたこと、本当なんですか」
「もちろんです」
「わざわざ、あんな不快に思わせる行いをするわけありません」
「ましてや、勤務中に」
確かに車内では、村田が簡単に彼の妻と君かの接点について話してくれた。「彼には、嫁がいるらしい」約四年前、彼女が体調を悪くし、君かのクリニックへ連れて行った。診断結果は、肺炎の成りかけだったらしく、その日の入院を勧められた。
しかし、個室に入った彼女は、君かの回診の際に暴言を吐かれたり、手を上げられたりしたそうだ。
なんとか数週間で退院できたものの、病院での出来事がトラウマになり、人が怖くなってしまったとのこと。「基本的に、日常生活では目立った症状はないが、君かに似ている人物を見ると、体が震えるらしい」
正直、話を聞いただけでは信じられない。
「証拠とかは、あるんですか」
私は君かとの付き合いが長いので、今日初めて会ったあなたの言い分を鵜呑みにするわけにはいかない。
「タクシー内での行動や発言は、まるで彼女を全面的に悪いと決めつけているようだ」とか「もし、ただの憶測であれば、彼を信じるのは違う」とか、私は強めに村田に訪ねてみた。
「いえ、証人がいます」
「証人」
予想外の展開だ。
「私の友達が、あのクリニックで看護師をしていました」
「それで、何があったのかを全て話してくれて」
「そんな……」
「完全に隠蔽されていました」
「看護師の友達が、院長に直接、妻の件について物を申したんです」
「でも、結局首になって」
「最近、君かの様子がおかしいとは思っていたが、過去にそんな悪行をしていたとは想像もしていなかった」
「そんな……」
「カルテに書いているわけもなく、証拠という証拠もありません」
「妻は、何回も看護師や他のスタッフに院長の行いを話そうとしましたが、実際その場面になると、怖くて無理だったと」
「私に声をかけた理由は、何ですか」
「誰構わず話しかけているわけではないだろう」
「なぜ、ピンポイントで私に伝えたのか」
「車内で、これから友達の家に行くって言ってましたよね」
「体調が悪いし、お世話になると」
先ほどの会話を振り返る。
「言いました」
「実は、以前妻の件で院長の家にお邪魔した機会があったんです」
「なぜですか」
「クリニックの受付で、院長と話がしたいと言ったところ、実際に出てきてくれて」
「ただ、文句があるなら家に来い、と住所の書いた紙を渡されました」
「かなり舐めた行為だ」
だが、君かからすれば、クレームなど余裕だったのか。
「同時に、絶対に言い負かせる、訴えられないという気持ちも、持ち合わせていたそうです」
「妻は、院長の顔を見たくないと言い、私一人で行きました」
「本当に出てきて、中に入れてくれたんです」
「まあ、証拠がないなどと反論されて、追い出されたんですけどね」
なぜ、そんなクリニックが今でも経営できているのだろうと、不審感を覚えた。
きっと、他の医者や看護師などは、首になるため口答えできない環境になっているのだろう。
「もしかして、私が何か被害に遭うかもと思ってくれたんですか」
「はい」
「体調が悪いから、あの家の人にお世話になるなんて」
「友達という関係なので、大丈夫かと考えたんですけど、やはり心配だったんです」
私を助けてくださったんですね。
「優しさが染みる」先ほどまで彼に抱いていた不審感は、特に消えていた。
「厄介なことをされたと感じられても、構わないと考えていました」
「実際、どうだったんですか」
村田は、恐る恐る聞いてくる。
彼を安心させるように、最近の君かの様子や、義母とか交わしていた物騒な会話について伝えた。
実は、頻度は低くなったものの、まだ時折、誰かを手にかける計画が聞こえていた。「全て、私が席を離れていた時である」ここまで状況が揃っていれば、さすがの私も気づいた。
「もしかしたら、私、狙われていたんですかね」
「絶対、そうですよ」
「でも、何か心当たりはあるんですか」
「さすがに、院長がむやみやたらに人を傷つけるのは」
必死に思考を巡らせる。「でも、彼女たちの標的になり得る出来事は、全く浮かばない」
「何も」
「だけど、あの時声をかけていただけなかったら、私は君かの言われるがままになっていたんですね」
「そうですね」
「とりあえず、勇気を出してよかったです」
だが、問題が出てくる。「君かを、どうすればいいのか」全てを知ってしまった以上、放っておくとさらなる被害者が出てしまう。「しかし、証拠はないと言われているため、どうやって彼女を追い込めばいいのかわからない」
「村田さんは、どうしたいですか」
「正直、どうにもならないと諦めています」
「被害者が減ればいいとは、思っていますがね」
「なるほど」
私が、彼らの架け橋になる他ないと考えた。
「もしよかったら、私に何か協力させていただけませんか」
「うん、大丈夫なんですか」
「それに、何年も経った今、何をすればいいのか」
目を見開き驚く彼に、優しく言う。
「今、事情を知って君かに接触できるのは、私しかいません」
「なんとか、証拠になりそうな会話を録音してみます」
「立派な事件ですよ」
「訴えられる可能性も、あるはずです」
「でも、あなたも狙われてるんですよ」
「大丈夫です」
「これからは、出されたものは一切口にしないようにします」
「ダイエットとか理由をつければ、いけるかと」
村田は、まだ心配そうにしていたものの、他にいい方法はないと思ったのだろう。
静かに頷き、
「よろしくお願いします」
と言ってきた。
その後、私たちは詳細を詰め始めた。「証拠が揃い次第、弁護士に依頼すること」「君かと義母に一度会いに行くこと」「早いうちに、村田の友達である看護師に合わせてもらうこと」など、私たちの意見はすぐに一致し、早々に話はまとまった。
「では、そろそろ帰ります」
「分かりました」
「では、お送りいたしますね」
「先ほどの料金も、全てお返しします」
悪いなと思いつつも、彼の提案を受け入れる。
数分後、私は自宅についていた。
「何か緊急なことが起こったら、さっき教えた電話番号かアドレスに連絡してください」
「プライベート用なので」
「ありがとうございます」
軽く会釈をし、タクシーから少し離れる。
そしてドアが閉まり、車は走り去っていった。
私の連絡先も教えたため、君かが村田に対し危害を加える事態となれば、すぐにこちらにも伝わってくれるはずだ。
いつの間にか、体調は良くなっていた。
ここ数ヶ月の体調の悪さは、君かたちのせいではないかと思ってしまう。
私は大きく背伸びをし、家の中に入った。
当日の夜、夫と共に寝る準備を済ませてリビングでテレビを見ていた時、昼間の出来事を彼に話そうとした。
「ちょっといいかな」
「真剣な話があるの」
「改まって、どうしたんだ」
義母も絡んでいる話のため、夫が自らの母の行いを知った際、何を感じるのか怖かった。「しかし、真実を伝える義務が私にはある」
「あのね……」
私は姿勢を正し、今までの君かと義母のこと、村田やその家族のこと、義母たちが私の命を狙っていることなどを話す。
「お母さんたちに黙っててって言われてたんだけど、こんな大事になったら、さすがにね……」
夫は、適切な言葉が見つからないのだろう、視線を泳がせている。
「あの、どこでそれを……」
「今日、たまたま奥さんが被害にあった村田さんのタクシーに乗ってね、色々教えてもらったんだ」
「行き先を伝えたり、私の体調について聞いたら、ピンと来たみたい」
まず憎むべきは君かだが、義母も犯罪に加担する気なのは事実だ。
話が終わるまで、私の心臓は、普段よりも大きく音を立てていた。
「ごめん……」
「母さんが、変なことをして」
彼は床に膝をつき、土下座をする。
「だって、ソファに座ってよ」
「あなたは、何も悪いことはしてないでしょ」
「だって、でも……」
「あなたたちは、別の人間よ」
「実際、今までさっき話した事実は、知らなかったんだよね」
夫は、力なく頷く。「相当のダメージを受けたと分かる」私の言う通り、彼はソファーに座ってくれた。
「俺、どうしたらいい」
「何か手伝えるか」
「落ち着いて」
でも、混乱中の夫を落ち着かせるため、そっと抱きしめた。
最初は激しい心臓の鼓動が聞こえてきたが、だんだんと普段通りに戻る。
ゆっくり体を離せば、彼の表情は少しだけ柔らいでいるように見えた。
「どう」
「ありがとう」
「取り乱しすぎた」
「私も、きっと同じ反応をするわ」
微笑みかけると、彼も目元を緩ませる。
お互いに心を休ませたところで、私は彼にして欲しいことを伝えた。
「とりあえず、私を見守ってて欲しいの」
「大丈夫なのか」
「うん」
「村田さんと話し合って、君かを訴えるから、その証拠集めで少しの間、あの子の家に通うわ」
「だけど、絶対に出されたものは口にしない」
相変わらず、夫は不安そうだ。
「それに、お母さんも多分警察のお世話になると思う」
「大丈夫かな」
「それはもちろん」
「罪を犯そうとしている母さんを、親と認識したくない」
「縁を切ってもいい」
「大事なのは、さやのだ」
彼の返答に、安堵した。
「ありがとう」
「でも、これで君かも母さんも頼れなくなったか」
「体調が悪い時とか、万が一二人が来た時は、電話して欲しい」
「仕事を抜けてくる」
体調について話され、もう一つ大事なことを話す。
「多分、体は大丈夫だと思う」
「なんでだ」
「だって……」
「二人に内緒で病院に行ったのか」
「君かたちの行いとか、村田さんの話を聞いて家に帰ってきた後、なんとなく体が軽くなった気がしたの」
私の話を、夫は不思議そうに聞く。
「それで、もしかしたら体調不良の原因は、君かちなのかなって」
「最初は、純粋に二人と話すのが楽しかったけど……苦しくなった気がしてね」
「窮屈な感じがあったのか」
「そんなところ」
「でも、何かあったら連絡とかはするから、安心して」
改めて連絡の意思を伝えると、彼は「ああ」と笑った。
ふと時計を見れば、時刻はすでに二十三時を過ぎていた。
「そろそろ寝るか」
「私も、明日仕事だし」
「そうだな」
短く言葉を交わした後、私たちは一緒に階段を登り、それぞれの寝室に入った。
朝、整頓できなかったベッドに飛び込む。
部屋の中を暗くし、スマホの明るさを布団の中で浴びる。
先ほどは、一旦落ち着いた。
でも、静かな空間で一人になった途端、急に緊張感が込み上げてきた。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「寝よ」
私は現実から逃れるため、まぶたを閉じた。
一週間後、私は君かの家へと足を運んだ。「行くよ」とメッセージを送れば、すぐに「分かった」と返事が来る。
この時、村田と初めて会った際に大量に送られてきた連絡に対し、何も返していなかったことを思い出す。
だが、彼女はあの日以降、特に何も送ってこなかったので、大丈夫だろうと踏んだ。
準備をし、タクシーに乗り込む。
今回は、運転手は村田ではなかった。
ラジオの静かな車内で流れる。
数分後、君かの家に着いた私は、玄関のチャイムを押した。
少しだけ時間が空いた後、ドアが開く。
「久しぶりね」
「元気だった」
「ええ、まあ」
「とりあえず、入ってよ」
想像より怒っておらず、安堵する。
リビングに入ると、相変わらず義母がいた。
「あら、さやのさんじゃないの」
「はい、お久しぶりです」
つい、縮こまってしまう。
「久しぶりって言ったって、一週間でしょ」
「確かに、そうですね」
慎重にソファーに座る。
君かは紅茶を出してくれたが、絶対に口にはしない。
重い空気が、場を包む。
最初に口を開いたのは、君かだ。
「なんで、先週は勝手に帰ったの」
「タクシーの運転手と話してたけど、関係ある」
「いや、ちょっとここにいられるような体調じゃなくなって」
「ふうん」
「家の前まで来て、帰るってどうなの」
彼女の視線は怖い。
さらに義母が攻めてくる。
「せっかく、君かさんが外まで迎えに行ってあげたのにね」
「急に、一人になりたいって思う時とかありませんか」
「いいよ」
君かには、口では勝てなさそうだと察する。
「まあ、いっか」
「過ぎたことだものね」
「そうですね」
「だけど、連絡を全く返さなかったのは、どうなの」
君かは、自らのスマホを取り出し、こちらへの連絡の履歴を見せてきた。
電話が十件に、メッセージが三十件といった、かなりの量で背筋が凍る。
「色々あって、返せなかったのよ」
「あなただって、そういう時があるでしょ」
「私より、忙しいんだし」
「そう」
「ま、私も先週はちょっと忙しかったし、許してあげる」
なんとか納得してくれた彼女は、しぶしぶスマホをテーブルの上に置いた。
君かも義母も、以前より性格がさらにきつくなっているのは、気のせいだろうか。
私は、変わってしまった彼女たちに、なんとか話を合わせていた。
一時間後、三人でテレビを見ている時、私は「トイレだ」といって席を立った。
わざと、スマホは伏せて置いたままである。
録音がバレないようにするアプリを入れたため、二人に画面を見られても大丈夫だ。
わざと数分ほど時間を開け、リビングの方へ静かに向かう。
すると、中から物騒な会話が聞こえてきた。
「怪しくないですか」
「最近のさやの」
「私も、思ってたのよ」
「まさか、私たちの考えがバレたとか」
「そんなわけ」
「あの鈍感なさやのですよ」
「でも、じゃあなんで怪しく見えるんだって話だけど、やっぱりさっさと手をかければよかったのよ」
「今行動を起こそうとしても、絶対に警戒されるし、うまくいかないのは目に見えてるの」
やはり、二人は私を泣き寝入りものにしようとしている。
「理由を話してくれれば、一つの録音だけで立派な証拠になる」
「ねえ、いつにしようか」
義母の話の途中で、私はリビングに入る。
会話の終わりを待っていたと知られないためだ。
「トイレ、貸してくれてありがとう」
「何を話してたの」
「今日の夜のテレビについて」
「私と安藤さんって、趣味が合うし、何を見るかってね」
必死に頷く義母が、面白い。
私は笑いをこらえながら、「いいね」と返した。
さらに一時間後、普段より早いものの、証拠は入手できたと思い、家を後にすることに決めた。
帰り支度を始めれば、君かが不思議そうにこちらを見る。
「あれ、もう帰るの」
「まだ時間じゃないし」
「ちょっと、用事があってね」
本当は何もないが、この言い訳を使えば帰してくれるはずだ。
「何、用事って」
「どこか行くの」
「デパートです」
突っ込まれるとは予想しておらず、咄嗟に出た行き先を伝える。
「商品を予約してたのを、すっかり忘れてて」
つい、不必要な情報まで言ってしまった。
そこまで話せば、やはり義母は納得する。
「そう」
「じゃあ、玄関まで送るよ」
デパートは、君かの家の近くにある。
「大丈夫だよ」
「ありがとうね」
私は彼女の申し出を断り、平静を保ちながら家を出た。
外の空気は、美味しい。
やはり、証拠集めというものは緊張する。
大きく空気を吸えば、気分が一気に晴れやかになった。
腕時計で改めて時間を確認したところ、夫が帰ってくるまでだいぶ余裕がある。
「せっかくなら、本当にデパートを少し覗いていこう」と、足早に目的地に向かった。
四時間後、夫が帰ってきた。
すでに家で夕食の準備を終わらせておいた私は、リビングのソファーから挨拶をする。
「お疲れさま」
「さやのこそだよ」
彼には、君かの家へ訪問する旨は伝えている。
「どうだった」
「もう最悪よ」
「録音、聞いたんだけど、なんでこんなにひどいことが言えるのかなって感じ」
「しかも、本人が同じ屋根の下にいる中でね」
夫は頭を抱え、再び謝ろうとするが、私は彼を止めた。
「謝るの禁止でしょ」
「分かった」
「おう」
優しい夫は、義母の話をするたびに、謝罪の言葉を口にしてくるのではないか。
そう考えた私は、彼にっぽい禁止令を出したのだ。
「そうだ」
「音声、聞く」
「大丈夫なのか」
「もちろん」
私はスマホを手に取り、音声ファイルをタップし、昼間の会話を再生した。
数分後、眉間に皺を寄せた夫が、口を開いた。
「ひどいな」
「これは」
当然の感想だろう。
「もっと確かな証拠を集めて、警察に突き出してやるわ」
「よし、その意気だ」
なぜか、二人で気持ちが高ぶり、年甲斐もなくハイタッチをする。
大変な事態に巻き込まれているはずなのだが、前向きになれるのは、支えてくれる夫のおかげだと感じた。
その後も、私は行ける際は君かの家へ足を運び、録音を続けた。
溜まっていくファイルを見ると、頑張りがいがある。
そんな生活を送る中、村田に駅近くの喫茶店に呼び出された。
彼にクリニック内の事実を話した看護師の女性に、合わせたいとのことだ。
時間の少し前に指定された店に行けば、すでに村田と一人の女性が奥の席に座っていた。
「すみません」
「お待たせしてしまって」
「いえ、こちらが少し早く着きすぎちゃいましたので」
彼は立ち上がり、彼女であろう女性を紹介する。
「あのクリニックの元看護師である、勝野さんです」
「初めまして」
「勝野と申します」
「川口さんについては、村田から色々聞いてます」
彼女も起立し、礼儀正しく自己紹介をしてくれた。
私も軽く名前を言った後、三人で座り直す。
少し雑談をしつつ、本題に入った。
「村田さんの奥さんって、勝野さんが担当してらっしゃったんですか」
「いえ、主に後輩が受け持っていました」
「彼女に色々相談されて、まずい流れになってしまったと思ったんです」
勝野は、淡々とクリニックでの出来事を話してくれる。
彼女は、村田の奥さんについて知った瞬間、君かを説得したようだ。
最初は「大丈夫だよ」と言い続けていた君かだが、このままでは同じ事態が再発すると考え、勝野は何度も詰め寄った。
結果、その場で首を宣告されたらしい。
不闘解雇だと言っても聞く耳を持ってくれず、労働基準監督署へ相談に行っても、証拠がないと帰らされたという。
「やっぱり、証拠は大事なんですね」
「はい」
「でも、私の場合は急すぎて、何もできませんでした」
「全部、院長の思い通りだと想像するだけで、腹が立ってしまって」
彼女の気持ちは、よくわかる。
私は頷きながら、勝野の話を聞き続けた。
「すみません」
「私ばかり話していました」
「いえ、今日は勝野さんの体験を聞きに来たので」
「他に、何かあるか」
「今は、ないかな」
「そのうち、どんどん出てくるはず」
村田と勝野は、簡単に言葉を交わし、私に向き直る。
「現段階では、何か証拠があってもクリニックを巻き込むことはできません」
「私は辞めさせられた身ですので」
「はい、それは分かっております」
彼女は微笑み、とある提案をしてきた。
「今度、院長の家へ直接話に行くんですよね」
「元々勤めていた私がいれば、何か役に立てるかもしれません」
「一緒に連れて行っていただけませんか」
確かに、勝野がいてくれれば安心だ。
ただ、彼女が再び君かに会って、傷ついて欲しくない。
今回は、義母もいるはずなので、なおさらだ。
「本当に、いいんですか」
「はい」
しかし、力強い返事が聞けて、考えを変えた。
そもそも勝野は、君かに直談判しに行った人物だ。
精神的にも強いはず。
もし何かあれば、私が守ろうと決めた。
「じゃあ、お願いします」
私がそう言うと、彼女は安堵の笑顔を見せた。
気づけば、喫茶店に来て一時間半ほどが経っており、
「そろそろ行きましょうか」
会計を済ませた後、勝野と連絡先を交換して、解散という流れになった。
「では、今日はありがとうございました」
「また今度」
それぞれの言葉を言い、帰路につく。
若干緊張していたからか、気持ちが軽くなった。
おそらく、このまま行けば君かと義母の悪業が暴かれる。
私の胸は、高鳴るばかりだった。
ふと、服のポケットの中にあるスマホの振動に気づく。
勝野が、早速連絡してきてくれたのだろうか。
期待しながら、画面を確認する。
お母さん。
だが、相手は義母だった。
内容は、私に対する文句のようなもの。
「最近の私の態度が気に入らないらしい」意固地になっている、などの文字が目に入り、一気に暗い気持ちになる。
しかし、これも証拠の一つになるはずだ。
私は、メッセージを残しておくことにした。
その後、着々と弁護士の目星をつけたり、音声やメッセージを集めたりなど、準備を進めた。
君かと義母は、気づかず、決して人前で話してはいけない非人的な話をするばかり。
それらを聞く私の身にもなってほしい。
あまりにもひどく、音声の確認を数回断念したほどだ。
だが、くじけたら終わりだと、気合いを入れ直し続けた。
半年後、証拠集めが終わり、君かと義母に話をする日がやってきた。
夫は、やむなく休日出勤のために朝早く家を出た。
村田が、車で家まで迎えに来てくれて、助かる。
後部座席に乗り込めば、助手席には勝野が座っていた。私は村田に「お願いします」と言い、ドアを閉める。
二人とも、想像よりも緊張していないらしい。車内では、穏やかな雰囲気が漂っていた。
数分後、君かの家に着いた。
事前に訪問するとは伝えてあったため、特に恐れず玄関のチャイムを押せた。
ただ、彼女たちに伝えていないのは、村田と勝野も一緒ということ。
二人には、モニターの資格になるであろう位置にいてもらい、私の登場を待つ。
すぐに、こちらへ近づいてくる音が聞こえ、ドアが開いた。
その瞬間、隠れていた村田たちに出てきてもらう。
「いらっしゃい」
「うん、後ろの二人は……」
「あなたと話したいって言ってたから、連れてきちゃった」
「どっちも、覚えてるよね」
君かは、眉を潜め、私を見る。
「女の方は、勝野さんだけクリニックで働いてた」
「男の方は、見覚えないんだけど」
「ひどい話ですね」
村田は、ため息をつく。
君かは、その態度に腹を立てたらしい。
「急に来て、覚えてるかって聞かれても、知らないって」
「勝野さんも、何の用よ」
「今日は、さやのだけが来るはずだったんだけど」
私は、わざと重箱の隅をつくようなことを尋ねた。
「いつ、私だけって言った」
「だって、普段はあんただけじゃ」
「質問に答えてよ」
「だけど、その前に家に入れて欲しいな」
「お母さんも、いるんだよね」
君かは、しぶしぶ頷く。
「ちょうど、お母さんにも話があるのよ」
「じゃあ、お邪魔します」
私は強引に、家に上がった。
リビングに入り、ソファーで寛いでいる義母に話しかける。
こちらは、全員立ったままだ。
彼女を見下ろす構図になる。
「お母さん、こんにちは」
「今日は、知り合いも一緒なんです」
「あ、誰」
義母は、こちらの話を聞いていないらしい。
村田たちを見て、持っていたティーカップを落としかけた。
「知り合いだって言ってますよね」
「連れてくるなら、事前に話を通しておくのが筋でしょう」
「常識がない人に言われても、何も響きません」
「うん、それって私」
もう、彼女と話すのは最後になるはずだ。
私は、今までの鬱憤を晴らすかのごとく、れまでずっと我慢していた思いを伝えた。
そんな会話をしていると、リビングに君かが入ってきた。
「何、勝手に私の母さんにも紹介してるの」
「お母さんが、困っちゃうでしょ」
「知らない人と一緒に入ってきたら」
「あなたは二人を知ってるはずだから、わざわざ詳細は話さなかったけど」
君かは、本当に村田を覚えていないようだ。
「勝野さんは知ってるけど、もう一人には見覚えないんだって」
しびれを切らしたのか、村田が口を開く。
「数年前、あなたのクリニックで妻が入院したんです」
「そんな人、何人もいるわ」
「妻は、肺炎と診断されました」
「数週間で退院できたんですが、あなたの回診の際に、毎回暴言を吐かれたんです」
君かは、思い出したのか、目を見開く。
「まさか……」
「今、彼女は家にいます」
「あなたの被害に遭ってから、なかなか家を出られません」
「人が怖いと言っていました」
「これだけで、相当なトラウマをつけられたと分かりますよね」
君かの手が、震える。
義母も、怯えたらしい。
ティーカップをテーブルに置き、こちらに向き直った。
「あの時の人、しつこかったから、家に呼んだ覚えがあるわ」
「文句があるなら、来いって言ったんでしょ」
話に入ると、君かはこちらを見る。
「んで、知ってるの」
「ここに来る前に、事情を聞いたに決まってるじゃない」
彼女は、唇を噛みしめる。
「私が、一度この家の前に来て、タクシーを降りずに帰った時があったの、覚えてる」
約半年前の出来事だが、君かはすぐに思い出したようだ。
「もしかして、あの時の運転手……」
「はい」
「私が、川口さんに妻のことなどを話しました」
「なんでよ」
「川口さんが危ないと感じたんです」
「住所を聞いた段階で警戒していて、車内で体調が悪いから友達に世話になりに行く、と聞き」
それで、君かと義母の顔が歪むのが分かる。
「さやの、誰にも言わないって約束したのに」
「夫には言っちゃだめとしか言われてないわ」
「他の人へは、大丈夫なのよね」
彼女は何かを言おうとしたが、話す隙は与えない。
「そもそも、私はタクシーの運転手があなたの被害者だとは思っていなかった」
「でも、ペラペラ自分の体調について話すのは、違うでしょ」
君かは、こちらへ迫ってくる。
激しい剣幕なので、一瞬ひるんだものの、すぐに気持ちを切り替えた。
「君かとお母さんが、好きな世間話よ」
「私たちが、いつもしてるじゃないですか」
「あの家の子供はこうだとか、あそこの家の嫁は浮気してるだとか」
私、君か、義母の三人しか知らない話題を上げる。
「正直、今思えばすごい不愉快な話ばかりでしたね」
「あの輪の中にいたなんて、恥ずかしいです」
「あんただって、色々言ってたでしょ」
実際、私はただ笑っていただけだけれど、共犯だと捉えられても仕方がない。
「それでも、勝手なことを言われるのは腹が立った」
「私が話した内容を、言ってくれる」
「覚えてないから、教えて欲しいの」
「うん、それは……えっと、安藤さんなら知ってるはず」
「私に話振られても、困るわよ」
言い合いを始める二人を見て、幼稚だと思ってしまう。
「変な嘘をつくのは、やめてちょうだい」
私の一言で、彼女は黙った。
「とにかく、私が運転手の村田さんに話して、こうなったのは奇跡ということよ」
ようやく本題を話せると思ったが、君かは負けずに話題を振ってくる。
「じゃあ、なんで勝野さんがいるわけ」
「無関係のはず」
「年齢も違うし、同級生とかではないでしょ」
急に問い詰められたのか、勝野は少し動揺する。
心配で、私がフォローに入ろうとした際、彼女の口が開いた。
「私、村田さんの友達なんです」
「あなたに首にさせられた後、すぐに奥さんの話をしました」
「何を、余計なことを」
「あんたは、私の言いつけに黙って従っていればよかったの」
「首になったのに、今になってそんな話を持ち出してくるなんて」
勝野に責任転嫁を仕掛けたので、すぐに割って入る。
「村田さんの奥さんに、暴言を吐かなければよかったのよ」
「そもそも、なんでそんなことをしたの」
先ほどまで余裕があった君かは、たじろいだ。
「理由を聞かれるのは、嫌なのね」
「そんなあなたが、院長をしてるなんて」
「腹が立ってたの」
あまりにもひどい理由に、何を言えばいいのかわからない。
だが、村田が空気を破ってくれた。
「なぜ、ですか」
君かは、怒りを顕わにする。
「あの頃、私はプライベートがうまくいっていなかったの」
「そういう時期に、あんたの嫁が入院してきて、こいつなら気が弱そうだし、何を言っても誰にもばらさないと思っただけ」
「あなたの身勝手な事情のせいで、村田さんの奥さんは苦しんでるのよ」
「どうでもいいわ」
「そもそも、さやのに説教される筋合いはないから」
「クリニックの内部のことも、患者のことも、あんたには関係ないでしょ」
「それこそ、私が君かのクリニックに苦情を停するのは違う」
彼女の行いは良くないことだが、当事者が話すべきだ。
君かと義母を見つめて問う。
「まさか、私が村田さんの奥さんについてだけの文句を言いに来たと考えてる」
「何が言いたいの」
「他にも、言わなきゃダメなことがあるのよ」
二人は、困惑した表情を浮かべた。
「君かも、私に何か隠してることあるわよね」
「うん、いや、ないけど」
「急に、私たちが悪者みたいになって、気分が悪いわ」
白を切るのは分かっていたので、話を続ける。
「知ってるのよ」
「君かとお母さんが、私の命を狙ってるって」
場の空気が、凍る。
「いえ、そんなわけ……」
「ひ、被害妄想が激しいわよ」
「私が体調が悪いと言っても、家に来いとか、病院には行くなと命令してきたわよね」
「あの頃は、余裕がなくて従ってたけど、私をだんだん弱らせる根胆だったんじゃない」
この推理が当たっているのか、二人は口を継ぐ。
「タイミングを伺ってたのも、分かってる」
「でも、お母さんの言う通り、バレちゃいましたけど」
なぜ知っているのかと言いたげに、義母はこちらを見た。
「弱らせる理由は」
しかし、君かはまだ笑う余裕があるらしい。
彼女の様子を見て、義母も調子を取り戻したのか、口を挟んでくる。
「それが、分からないのよ」
「ねえ、なんで私を狙ってたの」
当然だが、聞いても答えてくれないので、私は次の手段に出ることにした。
「ここまで話して、まだ分からない」
「私があなたたちの話を知っていたということは、もうシランプリできる時期は過ぎたの」
「逃げ場は、ないのよ」
けれど、君かと義母は黙ったまま、不敵な笑みを浮かべている。
腹立たしい。
ここまで来れば、一人ずつ話した方がいいだろう。
最初のターゲットを、義母に定めた。
「お母さん、実は今回の件、夫に話してるんです」
「私が把握できてること、全部」
その瞬間、彼女が身を乗り出す。
「あの子の反応は……」
「夫は、私を信じてくれるはず」
「大切なのは、私の方ですって」
「お母さんとは、縁を切ってもいいと言っていました」
その瞬間、彼女は力が抜けたようにソファーの背もたれに体を預けた。
相当ショックを受けたようだ。
「そんな……」
「だって、私はあの子を育ててきたのよ」
「絶対に、裏切るなんてしないわ」
「いえ、現実を見てください」
「いやよ」
話が済まず、腹が立ち、私ははっきりと伝える。
「その反応を見る限り、お母さんは罪を犯そうとしてる自覚はないんですね」
「謝罪の一つもできないなんて」
「私が、どれだけ怖い思いをしながら生活を送ってたのか、分かりますか」
一度爆発した気持ちは、抑えられなかった。
どんどん言いたいことが溢れてくる。
「油断するんじゃないわよ、君か」
「あなたにも、聞きたいことはたくさんあるんだから、さっさと言いなさいよ」
「早く自分の罪を認めたら、クリニックの件も、私への件も」
君かは、まだ反論を試みているようだ。
口をパクパクさせ、懸命にタイミングを見計らっていた。
「いや、あなたはもう医者として表に立つことはないわね」
「だって、通報するんだもの」
「ふざけないでよ」
「そもそも、誰にも口出ししなさそうなやつを選んだって言ったでしょ」
「私にとって患者は、ただの金ずる」
「お金を落としていれば、いいの」
勝ったと思い、つい笑みが漏れる。
「今の発言、しっかり録音させてもらったわ」
私は嬉しさを抑えきれず、スマホを掲げる。
「実は、ここ半年間の君かとお母さんの会話を録音してたのよ」
「どうやって私を泣き寝入りものにするか、とか、村田さんの奥さんについて、をね」
「そんな……」
「やめて」
「スタッフの悪口とかも、言ってたわよね」
「勝手にクリニックから薬を持ち出す計画も、立ててた」
「証拠が揃った音声が、たくさんあるのよ」
「こっちには」
君かは、必死にスマホを取り上げようと、掴みかかってきた。
しかし、私は彼女より身長が高く、筋力もあるので、余裕で勝てる。
義母は、力が入らないのか、ソファーに座ったままだ。
最終的には、村田と勝野も協力してくれ、無事に端末を守り抜けた。
「ま、これを壊されても、パソコンとかUSBに移してるし、今日の会話がなくなることくらいよ」
「なんでよ、もう……」
「被害者は、私たちよ」
君かは、形相を変える。
「いい加減、全て認めてちょうだい」
「あなたたちの味方は、いないのよ」
君かは、その場に崩れ落ちる。
自分の華やかだった人生が、潰されたとでも思っているのだろう か。
泣きそうな顔でこちらを見上げる彼女は、何かに気づいたらしい。
「もしかして、私たちが裏で話してたことを、全て知ってたの」
「ええ、全部録音してたのよ」
「あなたたちの悪業を暴く証拠になるかなと、考えてね」
義母は、力が抜けた。
「まさか、全部知ってたなんて」
そう言い、君かは床に手をつく。
傍から見れば、彼女が被害者だと勘違いされそうだが、立派な加害者だ。
「で、なんで私を手にかけようとしたの」
これが今、一番聞きたいことだ。
私は君かの目線に合わせるようにしゃがみ込み、質問する。
数秒の沈黙の後、彼女はぽつりと話し始めた。
「私……高校生の頃から、ずっと彼が好きだったの」
「そうなの」
「二人が交際している話を聞いた記憶はない」
君かの片思いなのだろう。
「結局、告白できずじまいで、ね……」
「同窓会で気持ちを伝えたかったけど、私は仕事で出席が無理だったの」
「ああ、来てなかったわね」
では、なぜ彼女は私と夫が結婚したと知っているのか。
そう尋ねようとした瞬間、君かが勢いよく話す。
「彼と出会って、彼が結婚したって聞いてさ」
「すごいショックだったの」
「そんな中で、私と出会ったのね」
「ええ、そうよ」
何年も彼を思い続けていた彼女が、真実を知り落ち込むのは、理解もできる。
でも、犯罪に手を染める必要は。
「彼を、略奪したかったの」
「既婚者に手を出すのはダメだと、分かってた」
「だから、あなたを消して、悲しんでいる彼に近づこうと思ったの」
「私が優しくすれば、彼は惚れてくれるはず」
彼を侮辱されて、一瞬息ができなくなった。
彼女に協力していた義母は、私より君かの方がいいと思ったのだろう。
「好きな相手に対して、随分な言い草ね」
「そういうつもりじゃ……」
呆れ果てた。
「彼は、優しくされただけでコロッと落ちる男性じゃない」
「お母さんも、息子が軽い人だと捉えているんですか」
「違うわ」
「ただ、私は君かさんの方がお似合いだと感じただけ」
「それで、手伝ってたの」
「どっちにしろ、もう何もかも遅いですけどね」
私は立ち上がりながら言った。
君かと義母が、こちらを見る。
「理由は、さっき言ったでしょ」
「もう全部、夫には伝えたって」
「お母さんのことを話した時、当然あなたの名前もあげてるのよ」
君かは、うずくまる。
背中が跳ねるように動いており、泣いていると分かった。
しかし、現実は変わらない。「身勝手な行いをしたのは、彼女たちなのだから」
「爪が甘かったわね」
「ああいう話題は、ターゲットがいない時に話すのが普通なのに」
「ま、悪業はいつかバレるから、無駄だけど」
本当はもっと言いたいことがあったが、二人には響かないだろうと判断し、撤退を選んだ。
「じゃあ、私たち帰るわね」
「村田さん、勝野さん、行きましょう」
彼らは、私の後ろについてくる。
玄関で靴を履き、振り返る。
君かと義母は、リビングで動けなくなっているからか、姿は見えなかった。
ただ、彼女たちの嗚咽だけが、耳に入ってきた。
外に出て、村田の車に乗り込む。
「大変でしたね」
シートベルトを閉めた彼が言う。
「だけど、川口さん、かっこよかったですね」
「それは……そうだな」
「つい、暑くなってしまいました」
「お恥ずかしい限りです」
「そんなことないですって」
隣に座っている勝野は、私の肩を優しく叩く。
その瞬間、一気に気が抜け、笑いながらシートに背中を預けた。
村田の通報や、勝野の主張、私の取った録音などが証拠となり、君かのクリニックには調査が入ることになった。
その結果、彼女は逮捕されて、賠償金の支払いと刑罰を命じられた。
同時に、君かが開業してきた病院は、閉鎖となった。
幸い、務めていたスタッフは全員、次の就職先が見つかったらしい。
現在は、請求された金額を払い終わり、檻の中にいる。
私と村田、勝野は、裁判を見守っていた。
村田の嫁は、やはり君かの顔を見られないと言い、弁護士に全てを託した。
判決が下った日、村田は裁判所を出た後、晴れやかな顔で、
「少し、報われた気がするよ」
と言い、彼の横に立っている勝野も頷いた。
義母も、君かに手を貸したため連行されたものの、実際に行動を起こしたわけではないため、すぐに釈放されたらしい。
彼女が、わざわざ私と夫の家にやってきて、ことの顛末を教えてくれたのだ。
でも、全くかわいそうという感想は抱かない。
早く帰って欲しいと考える中、一緒に玄関で義母の話を聞いていた夫が、口を開く。
「俺は、あんたみたいな人を母さんって呼びたくない」
「大切なさやのに、近づかせるのも危険だ」
「縁を切るよ」
「今後、一切うちに来ないでくれ」
普段なら、彼女は反論しただろう。
けれど、今はその気力もないようだ。
義母は、頷きもせず、とぼとぼと家を後にしていった。
「あの人の背中って、あんなに小さかったっけ」
「まあいいか」
夫はそう言い、私の手を優しく握ってくれた。
私の体調は、君かと義母と関わらなくなってから、回復した。
以前は、どんなに彼女たちが怪しい行動をしていても、「二人に頼っていれば治る」と思う。「いわば、洗脳状態だった」ので、一番の原因を遠ざけられて、安堵するばかりだ。
今、私は夫と二人で生活している。
パートしながらの静かな暮らしは、とても快適だ。
夫は変わらず仕事を続けており、毎日楽しそうだ。
年度が変わるのと同時に、昇進するらしい。
とても優しく真面目な彼なので、昇進して環境が変わったり、仕事が増えたりしても大丈夫だろう。
それでも、もし夫がくじけそうになったら、私が支えると決めている。
村田とは、特に連絡は取っていない。
しかし、たまにタクシーを利用すると、彼が運転する車がやってくることがしばしばある。
そこで、数分程度近況を報告し合うのが、楽しみになっている。
彼の嫁は、徐々に回復しているらしい。
このまま、普通の生活に戻れたらいいなと思う。
勝野とは、一人の友達として連絡をし合う中に発展した。
四十代で親しい人ができるとは考えていなかったが、優しい彼女と仲良くなれて、喜ばしい限りだ。
命を狙われた人間は、そう多くはないだろう。
もし村田があの時のタクシー運転手でなかったら、勝野が何も聞いていなかったら、など最悪なことが脳裏をよぎる機会がある。
そんな時は、夫の顔を見ると落ち着くのだ。
生き方が下手で、鈍感なのは、自分でも分かっている。
だからこそ、周りにもっと頼ってもいいのではないか。
考えを改めさせてくれる事件だったなと、一人、大好きな紅茶を飲みながら振り返った。



