はじめましての朝礼で、部長が俺の紹介をしている最中に、一人の男が遅れて入ってきた。三十七歳で新しい部署に戻った初日、俺はただ立っていることしかできなかった。男は悪びれる様子もなく「いやいや、遅刻じゃないっすよ。ギリセーフっす」と笑い、周囲がざわつく中で取引先の社長の家に泊まった話まで始めた。俺が「その談に同行させてください」と口を挟むと、彼は俺をただの荷物持ちとして扱い、自己紹介すらさせてく…

はじめましての朝礼で、部長が俺の紹介をしている最中に、一人の男が遅れて入ってきた。三十七歳で新しい部署に戻った初日、俺はただ立っていることしかできなかった。男は悪びれる様子もなく「いやいや、遅刻じゃないっすよ。ギリセーフっす」と笑い、周囲がざわつく中で取引先の社長の家に泊まった話まで始めた。俺が「その談に同行させてください」と口を挟むと、彼は俺をただの荷物持ちとして扱い、自己紹介すらさせてく...

初めての部署での朝礼。部長が俺について話している間、俺はただ立っていることしかできなかった。三十七歳になって新しい部署に移るのは、正直気が重い。だが、ここで実績を残さなければならない。そんな決意を固めた矢先、オフィスの扉が音を立てて開いた。

「すいません、遅れました」

滑り込んできたのは、まだ若い男だった。部長は無言でその男を見つめている。

「いやいや、遅刻じゃないっすよ。ギリセーフっす。おしかりは後で受けるんで、ちょっと今バタバタしてますんで」

男は言いながらパソコンを開いた。誰も聞いていないのに、一人で話し始める。

「昨晩、取引先の社長と飲んでたんですけど、ついつい遅くまで飲みすぎて終電を逃しちゃったんですよ。それで社長の家に泊めてもらって、今朝『七時半の電車に乗れば間に合う』って言われたんで、その通りにしたらこのあり様ですよ。もう参っちゃいますよね」

オフィスがざわつく。同僚の一人が声を上げた。

「お前、社長の家に泊まったのか?」

「ええ、まあ成行きで」

取引先の社長の家に泊まるなんて、よほど相手の懐に入るのがうまい人間なのだろう。部長は依然として彼を見つめている。だが、その男は構わず続けた。

「いや、だから今かなり忙しいんですって。A社との打ち合わせがあるから、今日は荷物も多くて多くて」

A社。その言葉を聞いて、俺は体が反応した。

「荷物が多いんですか?」

気がつけば、俺は口を開いていた。

「そうなんですよね。先方から前回持っていった資料じゃ足りないって言われちゃって。勢いで全部の資料を持っていきますって言っちゃったんですよ。部長からも『A社との取引は今日中に決着をつけろ』っておっしゃるし」

男は部長をちらりと見る。部長は無言でうなずいた。

「こっちはもう十分説明したつもりなんですけどね。他に何が足りないんだろう」

俺はまた、無意識に口を開いていた。

「あの、その談に同行させていただけませんか? 荷物が多いなら、僕が運びますから」

男がすっと顔を上げた。

「本当ですか? それは助かります。じゃあ、行く時に声をかけますね」

そう言って彼は再びパソコンに向かった。三十分後、彼に呼ばれて俺は急いで彼のもとへ向かった。

「ああ、今更ですけど、俺たち初めましてですよね。畑山かずです。こう見えて営業成績はトップなんですよ」

ようやく名前が分かった。

「渋谷大子です。よろしくお願いします」

畑山さんはうなずくと、大量のファイルが入った大きなカバンを指さした。俺がそれを持ち上げると、彼は軽快な足取りでオフィスを出ていった。

A社に到着し、受付を済ませると、俺たちは会議室へ案内された。俺はついきょろきょろと周りを見回してしまう。

「ちょっと、そんなにきょろきょろしないでください。まあ、これだけ大きな会社だから仕方ないですけど」

畑山さんはにこやかに話しかけてくる。だが、俺は不思議でならなかった。今日が初対面だというのに、どうしてこの人は俺のことを気にしないのだろうか。とはいえ、今更説明するのも気まずい。

そんなことを考えていると、会議室のドアが開き、一人の男性が入ってきた。中野さんというその男性は、畑山さんとは仲が良いようで、顔を合わせるなり笑顔で挨拶を交わした。

「畑山さん、今日はよろしく頼みますよ。僕も上司に自信を持って推薦するつもりなんで、情報のサポートをお願いしますよ」

そう言って中野さんは畑山さんに握手を求めた。畑山さんは俺が持っているカバンを指さして言った。

「今日こそは任せてください。あれを見てくださいよ。大量に資料を持ってきたんですから」

そこで初めて中野さんが俺の方を見た。

「こちらの方は」

俺が自己紹介しようとすると、畑山さんが遮った。

「ああ、彼は今日、荷物持ちとして同行してもらいました。この膨大な資料なんでね」

「ああ、なるほど。そういうことですね。本日はわざわざすみません」

中野さんは俺に頭を下げた。結局、俺は自己紹介をし損ねてしまったが、そのまま談判の行方を見守ることにした。

大量のファイルを前に、中野さんは困った顔をしていた。

「畑山さん、これって何か資料をまとめたものはないんですか?」

「え、だって前回は資料を全部持ってこいっておっしゃったじゃないですか」

「いや、確かにそう言いましたけど、さすがにこの量を全部見てくれるわけないじゃないですか。いきなりこんなに出したら叱られちゃいますよ。うちの上司は『氷の女王』って呼ばれてるんですから」

氷の女王。その言葉に俺は反応してしまった。

「ちょっと、本人の前ではくれぐれも言わないでくださいよ。仕事はかなりできる人なんですけど、自分にも他人にもとても厳しい人なんです。でも判断は正確ですし、私自身も彼女に鍛えられているので尊敬はしているんですけどね。とにかく、このままでは見せられないですね」

中野さんははっきりと突っぱねた。

「でも、うちだって今日までに決着をつけろって上から煽られてるんですよ」

「じゃあ、その上司の方に直接会わせていただけませんか? 僕の方から説明しますから」

畑山さんの言葉に、中野さんは首を横に振った。

「無理です。無理です。今日は別の打ち合わせが入ってますし、本当に忙しい人なんですから」

中野さんは必死に抵抗するが、畑山さんも引こうとしない。

「そこをなんとか、五分だけでいいので」

五分で説明するだなんて、無茶すぎる。俺が苦言を呈すると、畑山さんは俺の方をじろっと見た。

「今まで僕はこの商品の説明を何十回としてきました。何も知らないのに口を挟まないでください」

営業成績トップの彼のプライドを傷つけてしまった。だが、俺は彼に構うことなく、中野さんに名刺を差し出した。

「こちらを、その上司の方に渡していただけますか?」

中野さんは険しい表情で俺を見た。

「確か、名前は小松誠子さんでしたよね」

俺の言葉に中野さんは目を見開いた。

「どうして知ってるんですか?」

「実は古くからの知り合いでして。その名刺を見せてダメだと言うなら、今日は諦めて帰りますから」

「お、分かりましたよ。これを渡すだけですからね。それでダメなら、今日のところはお引き取りくださいよ」

俺がうなずくと、中野さんは会議室を出ていった。残された俺と畑山さん。しばらく沈黙が続いた後、彼が口を開いた。

「何勝手に話を進めてるんですか? 今なんとかしないといけないって何度も言いましたよね。もし会えなかったらどうしてくれるんですか?」

俺はため息をついて返した。

「どのみち、このままじゃ相手にしてもらえないでしょ」

「もし今日の談判が失敗に終わったら、渋谷さんのせいだって報告しますから」

畑山さんはすねたようにそう言った。それから十分ほどが経つと、会議室のドアが開き、懐かしい顔が現れた。

「渋谷君、いつ日本に帰ってきたの?」

真っ赤な顔で質問してくる小松さんに、俺は微笑んだ。

「実は今日が本社復帰の初日でして」

すると小松さんは驚いた様子だった。

「え、そうなの? 初日にうちの会社に来てくれたの? 言っておいてくれたら、初めから私が応対したのに」

そこに遅れて中野さんが入ってきて、小松さんを見て驚いている。おそらく、彼女のこんな姿を見たことがないのだろう。

「いやいや、そんなとんでもないです。ご足労をおかけしてすみませんでした。本日は私から商品の説明をさせていただいてもよろしいですか?」

俺がそう言うと、小松さんは笑顔でうなずいた。

「せっかくなら、もう二人にも説明してもらえないかしら」

俺は彼女の言葉の意味が分からなかったが、とりあえずうなずいておいた。すると小松さんは中野さんに指示を出し、彼は会議室を出ていった。しばらくして彼が連れてきたのは、二人の男性だった。

「中国から来た張さんと僕さんです。普段は英語でやり取りしているんだけど、せっかくなので中国語でプレゼンしてもらえるかしら」

彼女は微笑みながら俺に聞いてきた。試されている。そう感じた俺に、闘志が燃え上がった。

「もちろんですよ」

「もしこの二人が納得するようなら、前向きに検討します」

急に仕事モードになった彼女は、まさしく氷の女王のようだった。俺も仕事モードに切り替える。俺が必死に運んできた膨大なファイルは横に置き、畑山さんが前回の談判で使った資料を使いながら、俺は情報を付け足して中国の二人に説明をした。

実は、この製品は俺が中国で扱っていた製品だった。間違いなく畑山さんよりも多くの人に説明してきた。映像現場もこの目で見ているし、開発経緯も知っている。そんな俺の説明に、中国の二人は何度もうなずき、小松さんに英語で話しかけている。すると彼女はにこっと笑った。

「さすがね。彼らはかなり興味があるみたいよ。ちなみに私からもいくつか質問をしていいかしら?」

突然そう言われ、俺は気を引き締め直した。俺もこれまでに彼女から何度も叱られてきた。説明中に少しでも戸惑いを見せると、最初からやり直しをさせられた。やはり彼女からは的確な質問がいくつもされたが、俺はなんなく回答することができた。すると、その場で契約が決定し、談判は大成功を収めた。

「こちらからまた連絡するわ」

彼女から渡された名刺の裏には、携帯電話の番号が書かれていた。A社を出ると、畑山さんは俺の荷物を持ち、急に腰が低くなった。

「ちょ、ちょっと、さっきのはどういうことですか? あなた一体何者なんですか? 今日入社の中途社員ですよね」

「俺は八年間、中国の支社で修行してきて、今日から営業部一家の課長として本社に復帰した、中国語が堪能なただのおじさんだよ」

俺がそう言うと、畑山さんは目をまん丸くして驚いた。

「課長だったんですか? それは失礼いたしました」

彼はそう言って、俺に深く頭を下げた。

「人の話はちゃんと聞いておけよ。部長は何度も俺を紹介しようとしてくれたのに、お前は全然聞こうとしなかったからな」

「すいません。忙しくしてしまっていたので」

「今まではその行動でもうまくいっていたかもしれんが、相手によってはお前は首を切られるぞ」

俺が真剣な表情でそう言うと、畑山さんは顔を真っ赤にした。

「でも、お前はきっと強運の持ち主なんだろうな。俺はそんなに気難しくないからな。今日の談判も危なかったけど、俺が同行したからなんとかなった。やっぱりお前は運がいい」

「課長は小松さんとどうやって知り合ったんですか?」

俺は自社に戻る道中、彼に昔話をすることにした。今から十五年前、俺は大学を卒業してこの会社に入り、営業として働き始めた。研修を終え、先輩について営業を学び、俺が一人立ちをする時に任されたのがA社だった。そしてその時、小松誠子も取引先との商談の主担当を任されたばかりだった。

彼女は俺の説明を逐一止めて、その都度詳細を尋ねてきた。そして俺が少しでも回答に困ると、持ち帰りを命じられた。当時はかなり難しい人という印象だった。当時の俺も若くて生意気だったから、なんとか相手の懐に入ろうと色々な方法を試みたが、彼女が微笑むのは俺が上手に説明できた時だけだった。取引先というよりは先生といった感じがして、俺はそれが悔しかった。そして何度も彼女と顔を合わせているうちに、俺は彼女に惚れてしまったのだ。

普段は難しい表情をしているのに、時折見せる笑顔はとても美しくて、俺は引き込まれていた。当時の俺はその笑顔を求めて、彼女が気に入るものを提示しようと必死だった。そうすることで俺の業績は自然に上がっていき、八年前に俺は移動を命じられた。場所は中国。俺は彼女に担当が変わることを告げた。すると、今まで接待ですら顔を出さなかった彼女が、飲みに行こうと誘ってくれた。

小さな小料理屋で、たった一時間だけの送別会。彼女からは最後に「また会えるといいわね」とだけ言われた。なぜか俺はその言葉が胸に残っていた。彼女に好意を抱いていた部分は伏せて、畑山さんに全てを説明した。

「ああ、俺の苦手なタイプですね。困っただけで最初からやり直しなんて厳しすぎじゃないですか? 今は令和ですよ。そんな時代じゃないですって」

出発前の彼の勢いは、まるでなくなっていた。

「それくらいの強い気持ちがないと、そもそも相手にしてもらえない人もいるからな」

「そういう人は課長に任せますよ」

俺は彼をどのように育てていくべきか考えた。そして会社に戻った俺は、あるものを見つめて再び考えていた。小松さんからもらった名刺の裏に書かれた携帯の番号。おそらく小松さんの個人の電話番号で間違いないだろう。俺は電話をかけるべきなのだろうか。連絡先を渡されて無視するのも失礼か。色々な考えが頭をよぎったが、俺は自分の気持ちに素直になることにした。

年がいもなく緊張しながら電話をかけると、呼び出した直後に電話は繋がった。たったそれだけのことが、俺にとってとても嬉しく感じた。

「もしもし」

彼女は恐る恐る小声でそう言った。そうか。彼女は俺の電話番号を知らないんだ。

「渋谷です。渋谷大子です」

俺が名乗ると、小松さんは安心したように話し出した。

「ああ、やっぱり渋谷君か。電話してくれてありがとう。私、今料理屋にいるんだけど、覚えてるかな? 君が中国に出発する前に」

俺は彼女の話を遮った。

「もちろん覚えてますよ」

「本当によく覚えていたわね。まあ、今日は忙しいと思うから、また今度」

俺は再び彼女の話を遮った。

「何にも予定ないですよ。小松さんが良かったら、今からそちらに伺ってもいいですか?」

電話の向こうで、くすっと笑う声が聞こえてくる。俺の好きだった彼女の笑顔が電話の向こうにあると思うと、気持ちが高鳴った。

「じゃあ、待ってるわ」

電話を切った瞬間、俺は慌てて店に向かった。息を切らせながら小料理屋に到着すると、小松さんはやはり笑っていた。

「そんなに急いでこなくてもいいのに」

走ってきたからなのか、彼女が目の前にいるからなのか。理由は分からないが、心臓をバクバクさせながら俺は彼女の向かいに座った。

「今日は本社復帰祝いだから、私が奢るわ。何飲む?」

すっとメニューを差し出す左手には、指輪はついていない。結婚指輪はつけない主義なのだろうか。それに苗字も変わっていない。仕事中は旧姓で名乗っているのだろうか。無婚の可能性だってある。頭の中ではそんなことばかり考えているのに、「結婚しているのか」という一言が聞けない。

「渋谷君は結婚しているの?」

彼女からの突然の質問に、俺は一瞬言葉を失った。自分が聞こうかどうか迷っていた言葉が、小松さんからあっさり出てきたことについ固まってしまったのだ。

「そりゃしてるか。指輪はしない主義なの?」

勝手に話が進んでいき、俺はすぐに否定した。

「いやいや、結婚はしてないですよ。俺も今、全く同じ質問をしようと思っていたから、びっくりしちゃって」

すると小松さんは困ったような表情をした。

「氷の女王が結婚なんてできるわけないでしょう。どこの誰が私なんかと結婚してくれるの?」

自虐的な言葉に、俺はどきっとする。

「俺は小松さんと結婚したいですけどね」

つい本音を話していた。

「本当に昔から調子がいい人なんだから」

小松さんは今までで一番の笑顔を見せてくれた。だが、このままでは冗談だと思われる。俺は真剣な表情で改めて告白した。

「いや、これは嘘じゃないですよ」

俺の言葉に、小松さんはいきなり涙をこぼした。

「え、小松さん、すいません。俺、なんか泣くようなこと言いましたか?」

俺が慌てて聞くと、小松さんも驚いていた。

「え、ちょっと嫌だ。涙……そんなつもりじゃなかったのに。私こそごめんなさい」

小松さんは涙を拭い、下を向いた。

「ちょっと今、家の中で色々あって」

話を聞くと、最近小松さんの妹さんが三人目の子供を産んだらしい。その連絡が母から来たらしく、「老後は自分の力でなんとかしなさい」と言われたという。彼女は母から突き離されたような気分になり、その言葉がずっと胸に残っているというのだ。

「ちょっと弱ってたから、渋谷君からあんなことを言われて動揺しちゃったんだわ」

小松さんは苦笑いをしながら日本酒を飲んだ。

「そんなことって。俺、ずっと小松さんのことが好きだったんですよ」

後に引けなくなった俺は、全てを話すことにした。

「小松さんがいたから今の俺がいるんですよ。あなたは根気よく俺のことを育ててくれた。小松さんが俺に時折見せてくれる笑顔は、本当に綺麗で素敵なんです。今日だって俺と再会した時に微笑んでくれたし、この店に俺が来た時だってあなたは笑ってくれた。俺はもっと小松さんの笑顔が見たいんですよ。一人占めしたいんです。中国に赴任している時だって、ずっと小松さんのことが忘れられなくて」

話が止まらない俺に、小松さんは落ち着かない様子だった。

「渋谷君、ちょっと待って。恥ずかしいよ。これは何かの冗談なのよね」

「誠子さん、これは冗談なんかじゃないです」

初めて彼女の名前を下の名で呼ぶと、誠子さんは顔を真っ赤にした。

「もう結婚を諦めてるなら、俺と結婚してください。ずっと俺の隣にいてください。どれだけ時間がかかるか分かりませんけど、いつか絶対に惚れさせて見せますから」

「渋谷君、落ち着いて。私も三十九歳よ。渋谷君はもっと若い子と結婚した方が」

俺は誠子さんの涙をそっと拭った。

「もう一度言います。俺はあなたと一緒にいたいんです。若い子ではなくて、誠子さんと。何度だって言いますよ。俺が中国に行く前に『また会えるといいわね』って言ってくれましたよね。だから俺は、今度誠子さんに会えたら絶対に告白するって決めてたんです」

「じゃあ大子君は、あの時から」

「さっきから言ってるじゃないですか。むしろあの時よりずっと前から、誠子さんのことが好きなんです」

すると誠子さんの表情が少し曇った。

「じゃあ、なんで中国に行く前にそう言ってくれなかったの?」

「え、だって誠子さんは全然俺に興味なさそうだったから。俺のことなんて恋愛対象としては見てないだろうなって」

「好きだったよ、あの時。私も渋谷君のことが好きだったよ」

俺は絶句した。

「私、好きでもない男性と二人でご飯なんて行かないわよ」

彼女からそう言われ、俺は大切なことを思い出した。そうだった。彼女はそういう女性だったんだ。送別会とはいえ、彼女から誘われた時点で、気持ちに気づいてあげるべきだったんだ。

「俺、鈍感ですいません。今からでも間に合いますかね?」

俺がそう尋ねると、誠子さんは小さくうなずいてくれた。きっと、恋愛に関しては本当に自分に自信がない人なのだろう。それでも俺は、これから一生をかけて、誠子さんのことが世界で一番好きだということを伝えていきたいと思う。

それから二年が経ったある日のこと。

「ああ、ねえ。ヒロが泣いちゃった」

誠子の叫び声に、俺も慌てる。

「ヒロが泣いたってことは……ああ、やっぱりルリも泣いちゃった」

俺たちは結婚して、必死に双子を育てている。結婚後すぐに不妊治療をした俺たちは、双子に恵まれたのだ。初めての出産が四十一歳で、かつ双子ということで、俺は本当に心配だった。だが、氷の女王である彼女は、臨月までしっかりと働き、見事に双子を出産してくれた。それでも出産を終えた彼女は、涙を流しながら言った。

「私、本当にこんなに幸せになっていいのかな?」

彼女からのこの言葉は、一生忘れることはないだろう。想像していた以上に子供を育てるのは大変だが、この子たちにはまっすぐに育っていってほしい。俺たちはそう願いながら、毎日子供たちを抱いている。

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