あの夜、夫がリビングで馬券を振りかざして叫んだ。「一億円だ。これで俺は億万長者だ」。夕食の片付けをしていた私は、その下品な雄叫びに背筋が凍った。信吾はそのまま会社を辞めてきたと告げ、勝利を確信した顔で私を見下した。「お前とは離婚だ。慰謝料代わりにこの家をくれてやる。さっさとリカを連れて出ていけ」。私は静かに待っていた。彼が全てを言い終えるのを。そして凍てつく声で返した。「離婚には同意するわ。…

あの夜、夫がリビングで馬券を振りかざして叫んだ。「一億円だ。これで俺は億万長者だ」。夕食の片付けをしていた私は、その下品な雄叫びに背筋が凍った。信吾はそのまま会社を辞めてきたと告げ、勝利を確信した顔で私を見下した。「お前とは離婚だ。慰謝料代わりにこの家をくれてやる。さっさとリカを連れて出ていけ」。私は静かに待っていた。彼が全てを言い終えるのを。そして凍てつく声で返した。「離婚には同意するわ。...

「一億円だ。一億円ゲット。これで俺は億万長者だ」

リビングに響き渡る夫・信吾の下品な雄叫び。彼は安っぽい馬券を宝物のように振りかざし、テーブルを叩いて狂喜乱舞している。

「聞いて驚け。俺、あのクソみたいな会社やめてきたからな。ムカつく上司の顔に辞表を叩きつけてやったぜ。安月給のために惨めに頭を下げる生活とは今日でおさらばだ」

私の醒めた反応に一瞬顔を歪めた信吾だったが、すぐに金を手にした全能感に満ちた笑みを浮かべ、決定的な一言を私につきつけた。

「そして一番大事なことを言う。お前とは離婚だ。ババアとの生活はおさらばだ」

彼は勝利を確信した傲慢な顔で私を見下し、唾でも吐き捨てるかのように続ける。

「慰謝料代わりだ。この古臭い家はくれてやる。だからさっさとリカを連れて出ていけ。貧乏臭い顔は二度と見せるな」

全ての暴言を吐き出し勝ち誇る夫。しかし私は動揺しない。ただ静かにその時を待っていた。そして凍てつくような冷たい声でゆっくりと言い放った。

「離婚には同意するわ。でも一つだけ勘違いしないで。リカはあなたにくれてやるわ」

億長者になったはずの男の傲慢な笑みが消えていく。

私の名前は山崎あけみ。夫の信吾とは同じ職場で出会い、恋愛の末に結婚した。この人となら穏やかで幸せな家庭を築けると、当時は信じて疑わなかった。しかしその幻想は結婚生活が始まると同時にもろくも崩れ去る。信吾の金銭感覚は結婚前からすでに歪んでいたのだ。

私が将来のためにと貯蓄を提案しても、彼はいつも鼻で笑うだけだった。

「信吾さん、少しずつでも将来のために貯金しない?」

「はあ? そんなちまちましたことして何になるんだよ。金ってのはな、バーッと使ってこそ価値があるんだ」

彼は給料の大半を競馬やパチンコに注ぎ込み、週末はいつも家を開けていた。そんな夫の母・愛子さんは止めるどころか、むしろ褒めそやす始末である。

「信吾は本当に男らしくて素敵ね。細かいことを気にしない器の大きい男よ」

やがて娘のリカが生まれたが、信吾の自己中心的な態度は変わらなかった。おむつ替えも夜泣きの対応も全て私任せで、彼は指一本動かそうともしない。私が育児に追われ疲弊していると、彼は信じられない言葉を投げつけた。

「おい、リカが泣いてて競馬中継が聞こえねえだろ。早く黙らせろよ」

結局、私は心身ともに限界を迎え、育児休暇を取っていた会社を辞めざるを得なかったのだ。

そんなある日、信吾が同居を提案してきた。

「おふくろもリカの面倒を見るって言ってるし、お前にとっても好都合だろ」

愛子さんも「ええ、可愛いリカちゃんのためなら何でも手伝うわよ」と満面の笑みで約束してくれた。私はこの提案に一縷の望みを託してしまったのである。義母との同居生活が始まったが、私の淡い期待はすぐに裏切られた。リカがまだ幼かった頃、愛子さんが育児を手伝ってくれたのは本当に最初の数日だけだった。

「あら、ごめんなさいね。今日は腰が痛くてリカちゃんのことお願いできるかしら? まあ、昨日は少し無理をしすぎたみたい。今日は一日横になっていたいわ」

口を開けば体調不良を訴え、結局は家事も育児も全て私の方にのしかかった。状況は同居前と何も変わらず、むしろ気を使う相手が増えただけの日々が続く。しかし本当の地獄はリカが小学校に上がってから始まったのである。あれほどリカに無関心だった信吾と育児を放棄していた愛子さんが手のひらを返したように過剰な介入を始めたのだ。

私はリカに社会で生きていくための基本的な躾を試みた。宿題をきちんと済ませること、挨拶をしっかりすること、食事のマナーを守ること。親として当然の務めのはずだった。だが、そんな私の教育方針を信吾と愛子さんは真っ向から否定しにかかった。

「リカ、テレビは宿題が終わってからにしなさい。約束でしょう」

「えー、やだ。今面白いところなのに。宿題なんて後でやるもん」

勉強を嫌がるリカを見て、信吾がわざとらしく大きなため息をつく。

「おい、あけみ、子供に勉強ばっかり押し付けるなよ。リカ、パパがいいって言うんだから好きなだけテレビを見てなさい」

すかさず愛子さんも同調し、私を貶めるような目で見る。

「本当にそうよ。あけみさんてば時代遅れの教育ママなんだから。これだから頭の硬い人は困るのよ。かわいそうに、リカちゃん」

二人はリカの目の前で私を貶め、甘い言葉でリカを甘やかした。それだけではない。彼らはリカが欲しがるものはどんな高価なものでも無条件で買い与えたのである。最新のゲーム機、流行りのブランド服、人気アイドルのコンサートグッズ。私がそんなに甘やかしてはいけないと口を挟むと、愛子さんは鬼のような形相で私を罵倒するのだった。

「お母さん、先週も新しいゲームを買ったばかりですよ。こんなに甘やかすのは教育上よくありません」

「まあ、なんてケチ臭い嫁なんでしょう。子供が欲しいものを買ってあげるのが親の甲斐性ってもんでしょうが。あんたはリカちゃんが可愛くないの?」

「そうだ、そうだ。お前のそのケチなところがリカを苦しめてんだよ。俺の稼いだ金で何を買おうが、お前に指図される筋合いはない」

こんな環境で育ったリカがまともな人間に育つはずもなかった。いつしかリカは私の言うことには一切耳を貸さなくなり、完全に信吾と愛子さんの味方になっていた。私のことはケチで口うるさいママと見下し、何か注意をしようものならすぐに祖母と父親に泣きつくのである。その結果、リカは自分の意に沿わないことは一切受け入れない、わがままで傲慢な人間に成長していった。そしてその歪んだ性格は、学校という社会生活の場でも問題を引き起こすようになる。

ある日、リカが学校で同級生に怪我をさせ、担任の先生から電話がかかってきた。私がリカを叱ろうとしても、彼女は悪びれる様子もなくただ相手を貶すだけだった。

「ママ、今日学校で先生に怒られた。でも私は悪くないもん。あの子が先にちょっかい出してきたのが悪いんだもん」

「そうだったのね。でも、だからと言ってお友達を突き飛ばして怪我をさせていい理由にはならないでしょう。まずは先生とその子にきちんと謝らないと」

「やだ。謝らない。私は悪くないんだから」

自分の非を認めようとしない娘の姿に、私は頭を抱えるしかなかった。私たちの会話を耳にした信吾と愛子さんが鬼の形相で割って入ってきたのである。

「はあ。うちのリカがそんなことするはずないだろうが。どうせ相手の子に何か言われたんだろう。おい、学校に電話するぞ。どんな教育してやがるんだ」

「そうですとも。うちの可愛いリカちゃんを一方的に悪者にするなんて、あの担任はどうかしてるわ。私からもガツンと言ってやりますから」

彼らは学校に乗り込んではリカを盲目的に擁護し、学校側を悪者に仕立て上げた。まさにモンスターペアレントそのものである。学校側もこれ以上関わりたくないと思ったのか、それ以降リカの素行について連絡してくることはなくなった。その結果、リカはますます増長し、自分の非を一切認めない性格が完成してしまったのだ。

この家で私の味方は一人もいなかった。私の言葉は誰にも届かない虚しい響きでしかなかったのである。信吾、愛子、リカの三人は私を仲間外れにするのが当たり前になっていた。彼らは私に留守番を強要し、三人だけで頻繁に旅行に出かけるようになったのである。高級旅館やリゾートホテルに泊まり、SNSには楽しそうな写真をこれ見よがしにアップしていた。その間、私は広い家に一人残り、三人が散らかした部屋を片付け、帰りを待つだけだった。まるでこの家の使用人のような扱いであった。

そんなある日のこと、一本の電話が鳴った。三人が宿泊している高級ホテルのスタッフからだった。

「山崎信吾様のお宅でしょうか。先日ご宿泊の際の忘れ物がございましてご連絡いたしました」

「はい、私が妻のあけみです。主人がお世話になっております」

電話口の向こうで相手が息を飲む気配がした。

「ああ、奥様でいらっしゃいましたか。大変失礼いたしました。いつもご一緒の女性の方が奥様だとばかり思い込んでおりまして」

その気まずそうな声を聞いた瞬間、私の頭の中でこれまで感じていた違和感の全てが繋がった。夫の浮気。おそらくもう何年も前から続いていたのだろう。家族旅行として私を家に置き去りにし、愛人を連れ回していたのだ。怒りと悲しみを通り越し、冷たい感情が心を支配していくのを感じた。私はこの歪んだ家族から抜け出す決意を固めた。静かに、そして慎重に離婚の準備を始めたのである。弁護士に相談し、財産分与について調べ、探偵を雇って浮気の決定的な証拠を集めた。そしてリカが高校生になった頃には、私の準備は全て整っていた。慰謝料請求に必要な証拠も、離婚後の生活基盤を築く計画も、全て完璧だ。私から離婚を切り出すタイミングを図っていた。

まさにその日の夜だった。信吾が見たこともないような上機嫌で帰宅したのである。リビングに足を踏み入れた私に、信吾は一枚の紙切れをヒラヒラと見せびらかした。それは競馬の当たり券だった。

「よっしゃ、見たか? これ一億円だ。一億円ゲット。これで俺は億万長者だ」

狂喜乱舞する夫。私はただ冷めた目で見つめていた。

「まあ、そうだ。いい機会だから言っとくわ。俺、もう会社やめてきたからな。こんな安い給料のために毎日働くなんてバカバカしいだろ」

「そう」

私の素っ気ない返事に信吾は少しむっとしたようだったが、すぐに下品な笑みを浮かべた。

「それからな。お前とは離婚だ。こんな面白みのないババアと一緒にいる意味もなくなったからな。せいぜい泣いて悔しがることだな」

彼は得意げに私にそう言い放った。

「慰謝料代わりだ。この家はお前にくれてやる。だからさっさとリカを連れて出ていけ。もう二度とお前らの顔も見たくないんだよ」

彼は勝利を確信したような傲慢な笑みを浮かべている。しかし私は少しも動揺しなかった。彼の言葉をただ静かに聞いていた。そしてゆっくりと口を開いたのである。

「離婚には同意するわ。でもリカは置いていくわ」

予想外の返答に信吾の顔から笑みが消える。

「だから、リカはあなたが引き取って。私は一人でこの家を出ていくから」

私の予想外の返答に信吾は一瞬言葉を失っていた。やがて我に返ると、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

「はあ? 何言ってんだお前。子供は母親が見るのが当たり前だろうが。ふざけんじゃねえよ」

「どうして当たり前なんてことはないでしょう。それにリカは私の言うことなんてもう何年も前から聞きやしないわ。あの子が心から信頼し、大好きで一緒にいたいと願っているのはあなたとお母さんじゃないの? 私ではないわ」

私は冷静に、そして淡々と事実を告げた。その言葉に信吾は反論できないようだ。まさにその時、騒ぎを聞きつけた愛子さんとリカがリビングに入ってきたのである。二人は信吾が一億円を手にしたことをすでに知っているらしく、興奮で顔を上気させていた。

「まあ、信吾、一億円ですって。すごいじゃないの。さすがは私の息子だわ」

「パパすごい! じゃあ今度の誕生日はヨーロッパ旅行ね。絶対だよ。約束だからね」

部屋の険悪な雰囲気にも気づかず、二人は浮かれきっていた。そんな二人の様子を見て、愛子さんがようやく私の冷たい視線に気づき、かしげ顔をする。

「なんですの、この空気は? あけみさん、信吾がせっかく大金を手にしたっていうのに、その態度は何ですの? 少しは祝いなさいよ」

「おふくろ、聞いてくれよ。こいつ、離婚する代わりにリカを俺に押し付けて一人で出ていくって言うんだ」

信吾が吐き捨てるように言うと、愛子さんとリカの表情が凍りつく。しかしリカは次の瞬間、待ってましたとばかりに甲高い声をあげたのである。

「ちょうどいいじゃん。私もうママとは暮らしたくないもん。パパとおばあちゃんと一緒がいいに決まってる」

リカはそう言うと、わざとらしく目に涙を溜めて愛子さんに抱きついた。

「ケチでガミガミうるさいママなんてもういらない。パパとおばあちゃんがいればそれでいいんだもん」

その芝居がかった姿は、長年私を苦しめてきた光景そのものだった。愛子さんも泣きまねをするリカをぎゅっと抱きしめ、私を睨みつけた。

「まあ、なんてことを言うの? こんなに可愛くて素直なリカちゃんを捨てるなんて。それでも母親ですの?」

彼女はまるで悲劇のヒロインのように大げさに嘆いてみせる。

「結構ですわ。リカちゃんは私たちで大事に大事に育てますから。あなたのようなケチ臭くて愛情のない人にこの子を任せられるわけがないでしょう」

その言葉を私は待っていた。三人が私の望んだ通りの言葉を自らの口で言ってくれたのだ。私は心の中で小さくガッツポーズをした。

「そう。リカもお母さんもそう言うならよかったわ。じゃあ、親権は信吾さん。あなたにお願いしますね。正式な書類にもサインしてもらうから」

私のあっさりとした態度に三人は少し拍子抜けしたような顔を見せた。しかしすぐに一億円のことで頭がいっぱいになったのだろう。

「さあ、リカちゃん、あんな冷たい人のことは忘れて。何を買いに行くか相談しましょう」

「うん! まずは最新のスマホとパソコンと、それから……」

二人はキャッキャとはしゃぎながらリビングから出ていった。残された信吾は苦虫を噛み潰したような顔で私を睨んでいる。

「ちっ、分かったよ。どうせ俺には金があるんだ。お前一人いなくなったって、リカくらいどうとでもなるわ」

彼はそう言い捨て、娘たちの後を追うように部屋を出ていった。こうして長年の懸案だったリカの親権問題は、意図もあっさりと彼ら自身の選択によって解決したのである。

私はこれから始まる本当の反撃に向けて、静かに呼吸を整えた。愛子さんとリカがリビングから出ていき、私と信吾の二人が戻った。私は何も言わずに鞄から一冊のファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。そこには私が弁護士と探偵に依頼して集めたあらゆる証拠が納められている。この瞬間のために、私は何年も耐えてきたのだ。

「信吾さん、離婚の条件についてもう少しお話があるのだけど」

「は? まだ何かあんのかよ。家もくれてやるって言ってんだから文句ねえだろ。さっさと消えろよ」

信吾は嫌な様子で私を睨みつける。私は何も言わずにファイルの表紙をめくり、彼の目の前に突きつけた。そこに並んでいたのは、信吾と見知らぬ若い女性が仲睦まじく腕を組み、ホテルの前で微笑み合っている写真の数々だった。

「これは……なんだよ、これ」

彼の顔から血の気が引いていくのが手に取るように分かった。

「王野ともかさん、三十四歳。あなたの部下の方よね。もう何年も不適切な関係を続けているみたいだけど」

私はさらにページをめくる。ファイルには二人がラブホテルに出入りする写真や、ともかさんのマンションで同棲生活を送っている証拠が几帳面にまとめられていた。ホテルの領収書のコピー、クレジットカードの利用明細、二人の親密なメールのやり取り。それは言い逃れのしようがない、完璧な浮気調査の報告書だった。信吾の顔は見る見るうちに青ざめ、額には脂汗が滲んでいた。しかし彼はすぐに開き直ったようにふてぶてしい笑みを浮かべた。絶望的な状況に追い込まれた人間が時として見せる虚勢である。

「はっ、そうだよ。その通りだ。バレてたんなら話が早いぜ。ともかはな、お前みたいな生活に疲れたババアと違って、若くて可愛くて最高の女なんだよ」

信吾はまるで勝利宣言でもするように胸を張った。その姿は滑稽で哀れですらあった。

「ちょうど良かったぜ。こんな窮屈な家とお前から解放されて、俺はともかと一緒になるんだ。一億円の金と最高の彼女。俺の人生、これからが本番なんだよ」

その下劣な言葉の数々を、私はただ静かに受け止めていた。全て想定内の反応だったからだ。

「そう。それなら話は早いわね。私はあなたとその王野ともかさん双方に慰謝料を請求させてもらうわ。長年にわたる不貞行為による精神的苦痛に対する損害賠償として、法的に認められる最大限の金額をね」

私の言葉に信吾は一瞬ひるんだ表情を見せた。だが彼はすぐにポケットから当たり券を取り出し、それを誇示するように笑い飛ばした。

「慰謝料だ? くれてやるよ。いくらでもな。言っただろ、俺には一億円あるんだ。明日にでも好きなだけ持っていけ。そんな金で縁が切れるなら安いもんだぜ。せいぜい受け取って、俺たちの前から消えてくれ」

その愚かで傲慢な姿を、私はただ哀れむような気持ちで見つめていた。彼はまだ自分がこれから何を失うことになるのか、全く理解していなかったのである。

後日、私は弁護士に同席してもらい、信吾と愛人の王野ともかさんを交えた四者での話し合いの場を設けた。場所は都内のホテルの静かなラウンジである。約束の時間ぴったりに現れた信吾ともかさんは、私の前で見せつけるように腕を絡ませていた。その親密な様子は、これから慰謝料の話をする当事者とは思えないほど無神経なものだ。

「初めまして。王野ともかです。信吾さんとは真剣にお付き合いさせていただいてます」

猫撫で声で挨拶するとかさんの隣で、信吾は得意満面な笑みを浮かべている。二人の稚拙な芝居に、私と弁護士は内心呆れながらも冷静に事を進めようとした。しかし信吾は私たちのことなど眼中にないようだった。彼は突然ともかさんの手を取り、片膝をついたのである。

「ともか、見ててくれ。俺はもうこの女とは完全に切れる。だから俺と結婚してくれ」

「信吾さん、本当! 嬉しい!」

まるで安っぽい昼ドラのような光景に、私は思わずため息が出そうになった。ゆっくりと信吾を見つめ、それからともかさんに向けて私は静かに口を開いた。

「おめでとうございます。でも、ともかさん、よろしいのですか? 信吾さんと結婚するということは、漏れなく素敵な特典がついてきますけど」

「え? 特典ですか?」

私の言葉の意味が分からず、ともかさんはかしげる。

「息子を神様のように崇拝し、新しい嫁をこき使うお母様と、欲しいものは何でも手に入らないと気が済まないわがままな十七歳の娘さんが、漏れなくセットでついてきます。もちろんお二人の生活費も娘さんの学費もこれからの贅沢も、全て信吾さんの一億円から支払うことになります。頑張ってくださいね」

私の言葉に、ともかさんの笑顔がみるみるうちに凍りついていく。彼女は信吾の方を向き、不安そうに問い詰める。

「信吾さん、どういうことなの? 娘さんがいるなんて聞いてないわよ」

信吾は慌てた様子で立ち上がり、ともかさんの耳元で何かを囁いた。その声は小さかったが、私の耳にははっきりと届いていた。

「大丈夫だって。俺には一億円あるんだ。一億。あんな奴らの生活費なんて何でもねえよ。すぐに静かになるさ」

その言葉を聞いたともかさんは、一瞬で表情を変える。先ほどまでの不安げな顔はどこへやら、欲望に満ちた満面の笑みを浮かべたのである。

「そっか、一億円。それなら大丈夫。私、頑張る。信吾さんのためだもん」

金の切れ目が縁の切れ目とは、まさにこのことだろう。彼らの浅ましさに、私は最後の哀れみの気持ちさえ消えていくのを感じた。この二人には、これから訪れるであろう破滅がお似合いである。私は弁護士に目配せをし、慰謝料の金額が書かれた書類を彼らの前に静かに差し出した。信吾は書類にちらりと目をやっただけで、まるでゴミでも払うかのようにペンを走らせサインをした。こうして、私の長く苦しい結婚生活はようやく終わりを告げたのだ。

離婚成立後、私はすぐに社会復帰を果たした。結婚前にキャリアを積んでいた会社はすでに辞めていたが、幸運にも学生時代の友人が手を差し伸べてくれたのである。友人が立ち上げたITベンチャー企業が、私を経理担当として迎え入れてくれたのだ。結婚と育児で十数年のブランクはあったものの、かつて培ったスキルは鈍っていなかった。私は水を得た魚のように仕事に没頭し、会社の急成長に貢献することができた。仕事は日に日に充実感を増し、自分の力で未来を切り開く喜びに満ちている。そして離婚から一年が経った。私は会社の業績への貢献が認められ、役員待遇という立場になっていた。給料も上がり、都心のタワーマンションで快適な一人暮らしを始めている。あの息の詰まるような毎日が、まるで遠い昔の悪夢のようだ。

そんなある日の夜、マンションのエントランスのインターホンが鳴った。モニターに映っていたのは、変わり果てた娘・リカの姿だった。高価なブランド服に身を包んでいた面影はなく、やつれて正気のない目で彼女はそこに立っている。私がドアを開けると、リカは崩れるようにその場に泣き崩れた。部屋に招き入れると、リカは堰を切ったように泣きじゃくりながら、この一年で元家族に起きたことを話し始めたのである。

「ママ、助けて。もう無理だよ、生活」

彼女の話を要約するとこうであった。信吾は知人から持ちかけられた「絶対に儲かる」といういかにも怪しい投資話に飛びついたらしい。そして一億円の大半を注ぎ込んだ結果、数ヶ月でその全てを失ったという。典型的な投資詐欺だった。

「パパはすぐに倍になるからって言って、おばあちゃんと一緒に毎日ブランド品を買い漁って、お寿司や焼肉を毎日のように食べに行って。計画性のない二人は、手元に大金があることをいいことに、後先考えずに散財を繰り返していたの」

詐欺だと気づいた時には、一億円は跡形もなく消え、多額の借金だけが残っていたのだ。

「私、高校も辞めさせられた。生活費を稼げって言われて、毎日コンビニと居酒屋のバイトを掛け持ちしてるの」

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、リカは訴える。

「ともかさんって人も最初は優しかったけど、お金がなくなったら毎日イライラしてて、私に当たってくるし。おばあちゃんも私のこと使用人みたいにこき使うし。もう、あんな家にはいたくない」

リカは床に突っ伏し、私の足にすがりついてきた。

「ママ、ごめんなさい。私が全部間違ってた。だからお願い。もう一度ママと一緒に暮らしたい。お願いだよ」

過去のリカなら決して口にしなかったであろう謝罪の言葉である。しかし私の心は少しも揺らがなかった。私は冷たく言い放つ。

「いやよ。あなたを甘やかしてそんなわがままな人間に育てたのはパパとおばあちゃんでしょ。私は関係ないわ」

「そ、そんなひどいよ、ママ」

「ひどい? 本当にひどいのは、これからあなたが一人で生きていく社会よ。お金がなければ誰も優しくなんてしてくれない。それが現実。ようやくそれを学ぶ機会が来たのよ」

私は泣きじゃくるリカを無理やり立たせ、玄関へと向かわせた。

「自分で選んだ道なのだから、自分で何とかしなさい。それがあなたへの私の最後の情けよ」

私はリカを部屋から追い出し、二度とここへは来ないようにと告げて、静かにドアを閉めた。冷たい母親だと思われるかもしれない。しかし、これが本当の意味でリカのためになると、私は信じていた。

リカを追い返してから、元夫の一家の顛末が人づてに私の耳にも入ってくるようになった。愛人だったともかさんは信吾との再婚後、しばらくは愛子さんによる嫁いびりに耐えていたらしい。しかしそれも信吾の一億円があればこそだったのだろう。大金が借金に変わったと知るや、テーブルに離婚届と安物の指輪を叩きつけ、忽然と姿を消したそうだ。まさに絵に描いたような悪女である。

残された信吾、愛子、リカの三人は、ローンだけが残った家を二束三文で売却した。そして都心から遠い格安の市営物件アパートに引っ越したと聞いた。そこでの生活は想像を絶するほど悲惨なものだったようだ。愛子さんは過去にリカにブランド品を買い与えたことを恩に着せ、自分の身の回りの世話を全て強要した。

「誰のおかげで今までいい思いができたと思ってるんだい。この恩知らずが。さっさと私の世話をしな」

しかし甘やかされて育ったリカがそんな生活に耐えられるはずもなかった。ある日、彼女は愛子さんの罵倒に耐えかね、信吾にも何も告げずに家出してしまった。それ以来、彼女の行方は誰も知らない。

しばらくして、私の携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきた。それはかつての傲慢さが嘘のように弱々しく震える信吾の声だった。

「お、おい……リカが、リカがお前のところに行ってないか?」

私は彼の情けない声を聞いても、何の感情も湧かなかった。

「来るわけないでしょ。もし来たとしても、玄関先で追い返すだけよ。もう私には関係のないことだから」

私はそれだけ言うと一方的に電話を切り、彼の番号を着信拒否に設定した。それが元夫と交わした最後の会話になった。

娘にまで逃げられた信吾は、日に日に増えていく借金の取り立てから逃れるため、ついに動いた。母親である愛子さんさえも置き去りにして、夜逃げ同然に蒸発してしまったのである。市営物件のアパートには、認知症の症状が出始めた愛子さんがたった一人で取り残されたそうだ。近所では「あの家はやっぱり呪われている」と噂が広まり、愛子さんの孤独な生活をさらに不気味なものにしていると聞く。自ら蒔いた種とはいえ、因果応報という言葉を思わずにはいられない。

一方、私はと言うと、仕事で大きな成功を収めていた。友人の会社で立ち上げた新規事業が大ヒットし、会社に莫大な利益をもたらしたのだ。その功績が認められ、今では次期取締役候補として周囲からも厚い信頼を寄せられている。自分の力で確固たる地位を築き上げた毎日は、自信と喜びに満ち溢れていた。プライベートも順風満帆である。タワーマンションのラウンジで知り合った様々な業界で活躍する友人たちと知的な会話を楽しみ、互いに高め合える関係を築いている。長期休暇には昔から夢だったヨーロッパの美術館を巡る旅行を満喫し、心から人生を謳歌しているのだ。

あの地獄のような結婚生活は、もはや遠い過去の出来事である。足かせから完全に解放された私は、自らの足で人生を切り開き、誰にも邪魔されることのない自由で輝かしい未来を歩んでいる。

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