あの日、私は雨の中で門前から追い出され、実家の父にも「この家にそなたのような娘はおらぬ」と刺繍枠を火に投げ込まれた。誰も私を助けてはくれなかった。ただ一人、百姓の佐知だけが「俺には5人の子がいる。共に来て、あの子らの母になってくれぬか」と手を差し出した。私はその手を取り、山里の家で必死に生きてきた。そして今、江戸の市で、かつて私を「子を宿せぬ女」と偽りで追い出した新パチと、偶然出会ってしまっ…

あの日、私は雨の中で門前から追い出され、実家の父にも「この家にそなたのような娘はおらぬ」と刺繍枠を火に投げ込まれた。誰も私を助けてはくれなかった。ただ一人、百姓の佐知だけが「俺には5人の子がいる。共に来て、あの子らの母になってくれぬか」と手を差し出した。私はその手を取り、山里の家で必死に生きてきた。そして今、江戸の市で、かつて私を「子を宿せぬ女」と偽りで追い出した新パチと、偶然出会ってしまっ...

庭に上がった炎が音を立てていた。死野がただ一つ誇りとしていた薄桃色の晴れ着が、三国屋の門前で黒やけ落ちていくところだった。新パチは虫けらでも見るような目で死野を見下ろし、言い放った。「式もできぬ家にわざわいを招く女を、嫁として置いておくわけにはいかぬ。」集まった人々の見ている前で、死野は通りへ追い出された。お湯をかけるように、身の両親までもが背を向け、戸を閉ざした。その時、道の隅で静かに見守っていた身なりの粗末な男が、死野にただ一言を差し出した。「俺には5人の子がいる。共に来て、あの子らの母になってくれぬか。」それが死野の全てを変える始まりだった。

死野は江戸の御府省の大身の一人として生まれた。大身は代々、手が対秋内で罪を築いてきた家で、死野の父はこの家の歩への核を文じる人だった。娘がよき家へとつぐことは、大身を守ることそのものだった。門の外へ足を踏み出すことは許されず、死野が知る世間の全ては屋敷の壁の内側に収まっていた。

7つの年、両害賞として名の知れた三国屋との間に飯付けの約束が結ばれた。両家の飽き内を結びつける、固い取り決めの縁だった。父にとってこの縁は、大身の野をさらに大きくするまたとない機会でもあった。祝いの席で父が三国屋の当主と杯を交わし、満足に頷いていた姿を、死野は幼いながらによく覚えていた。

その後、相手の息子がどのような顔立ちをしているのか、どのような声で話すのか、死野は尋ねることすら許されなかった。ただ月日が過ぎるのを静かに待つより他なかった。女中たちが生きる先の幻想を、死野は奥座敷の障子越しに聞くばかりで、その中に混じることは一度として許されなかった。良い嫁になることこそが、死野に与えられた唯一の役目だった。そのこと自体を、死野は疑ったことがなかった。

死野が門の外へ出ることを許されたのは、年に一度、氏神への参拝に付き添う時だけだった。乳母に手を引かれ、俯いたまま歩く短い道のりが、死野にとって唯一の外の世界だった。それ以外の日々は、奥座敷の中で針を持ち、庭を眺めて過ごすばかりだった。母もまた、かつては同じように育てられ、同じように大身へとついできた人だった。良き妻となり、良き母となることこそが、代々の女に課せられた勤めなのだと、死野は物心つく前から教えられてきた。

隣の部屋からは、兄が師匠に習う声がいつも低く漏れ聞こえてきた。死野は針仕事の手を止め、その声に耳を済ませた。筆を持つことは許されなかったものの、死野は指先だけで畳の上に文字をなぞり、字を一人でこっそりと覚えていった。誰にも明かすことのできない、密かな秘密だった。文字を覚えるたび、死野の心にはさやかな明かりが一つ増えていくようだった。壁の外を渡る鳥の声を聞きながら、死野はいつかこの文字が何かの役に立つ日が来るとは思わず、ただ静かに一つずつ心に刻んでいった。

兄が部屋を出て縁側を通り過ぎるたび、死野は畳になぞった文字を袖でそっと消し、何事もなかったような顔をして針を取り直した。死野の指は、針を取ることにも人並み外れてたけていた。中でも鳳凰の刺繍は、母から受け継いだ死野の一番の得意だった。母もかつて同じ図を仕立てて大身へとついできたのだと聞かされたことがあった。幼い頃、死野は母の手元を飽きずに眺め、自分で針を持つようになったのが始まりだった。

嫁入りを明日に控えた夜、死野は最後まで床につかず、灯りの下で針を動かし続けていた。手にしていたのは黄金色の鳳凰だった。布の上には鳳凰の翼が半分ほど姿を表していた。細い糸を何重にも重ね、羽の一枚一枚に陰影をつけていく手法は、母から何年もかけて仕込まれたものだった。他人の手を借りず、自分の指だけで初めから仕上げていく。明日出会う夫への唯一の贈り物だった。羽の一枚一枚に糸を通すたび、死野はまだ見ぬ相手の顔を思い描こうとしたが、その姿はいつも霞のように曖昧なままだった。それでもこの鳳凰を縫い上げれば、きっと自分の心も伝わるだろうと死野は信じていた。

その晩、母が部屋を訪れた。母はしばらく死野の手元を黙って見つめていたが、やがて死野の前で立ち止まり、短く一言「もう火を消して休みなさい」とだけ言い残し、部屋を出ていった。振り返らぬまま去っていくその後ろ姿には、死野がこれまで一度も見たことのない硬さがあった。何かを言いかけて思い直したような間だった。障子の向こうへ消えていく母の足音を、死野はいつまでも耳で追い続けていた。

死野はその違和感を確かめる間もなく、翌朝を迎えた。夜が明けると女中たちが慌ただしく出入りし、死野の髪を結い上げていった。櫛を刺される間も、死野はただじっと座り、女中たちの手が動くままに身を任せていた。鏡に映る自分の顔を、死野はどこか他人のもののように眺めていた。薄桃色の晴れ着に身を包まれ、綿帽子を被せられた死野は、まだ仕上がっていない鳳凰の刺繍枠を、誰にも気づかれぬよう懐の奥深くに忍ばせた。

駕籠に乗り込む死野の目には、生まれ育った屋敷の門と、見送りに出た女中たちの姿が最後の景色として映っていた。駕籠は三国屋の門前で止まった。覆っていた布が乱暴に払われ、死野の膝の上に、赤い判を押された一枚の紙が投げ落とされた。祝いに集まっていた人々が、水を打ったように静まり返った。姑は式の間中一度も死野に目を合わせようとはせず、隣に座る新パチにだけ何事かを耳打ちしていた。

段の上に立った新パチが、その紙を大きな声で読み上げていった。「子をなすことのできぬ運命、家にわざわいを招く星回り。」その一言一言が、庭に集まった人々の前にさらされていった。ちょうどその時、空が急に曇り始め、冷たい雨がぽつりぽつりと降り出した。死野は駕籠から下ろされたばかりの姿勢のまま、雨に打たれる石畳の上に立ち尽くしていた。綿帽子の下から覗く死野の顔には、まだ状況を飲み込めぬ戸惑いが浮かんでいた。

姑が静かに手を振ると、奉公人が二人、死野の前に進み出てきた。彼らは死野の身にまとわれていた薄桃色の晴れ着を、その場で無造作に脱がせにかかった。死野は抗わなかった。庭の真ん中に小さな炎が上がり、脱がされた晴れ着がその中へ投げ入れられた。絹の焼ける匂いが、雨の匂いと混ざり合って広がっていった。集まった客の中から「気の毒に」という低いつぶやきが漏れたが、誰一人として声を上げて止める者はいなかった。

付き添ってきた乳母や親戚たちは、棒を手にした下男に追い立てられ、慌てて門の外へと逃げ出していった。誰一人として死野を庇う者はいなかった。招かれていた客たちも、死野の傍らを気まずそうに通り過ぎ、次々と門の外へ消えていった。死野は不思議なほど涙も出てこなかった。死野はただ膝をついたまま、燃えていく晴れ着を見つめていた。手の中には、駕籠に乗る前、懐に隠しておいた小さな刺繍枠だけが残っていた。まだ半分しか縫えていない鳳凰の翼だった。

庭の木の影に立つ古びた易者の姿が雨の中に一瞬見えたが、死野と目が合うとすぐに背を向け、足早に消えていった。やがて奉公人の一人に腕を掴まれ、死野は門の外へと引きずり出された。重い門が音を立てて閉ざされた。死野は雨の中ゆっくりと立ち上がり、生まれ育った実家へと向かって歩き出した。裸足に近い足取りで泥水を踏みしめながら、死野は生まれてから一度も一人で歩いたことのない江戸の道を、ただ前へと進み続けた。

降りしきる雨の中を歩く死野の足取りは、決して早くはなかった。実家の門を叩くと、隙間から父の顔が覗いた。「この家に、そなたのような娘はおらぬ。」父は低い声でそう言い放つと、死野の手にあった刺繍枠へと手を伸ばした。死野が握りしめる間もなく、枠は奪い取られ、庭の隅にあった火鉢の中へと投げ込まれた。黄金色の糸で刺された鳳凰の翼が炎の中で一瞬光を放ち、やがて黒く縮んでいった。死野が18年をかけて積み重ねてきた唯一の宝が、跡形もなく消えていく様を、死野はただ見つめている他なかった。死野の手は、握るものを失ったまま、微かに震えていた。

奥の障子がわずかに開き、母がこちらを覗いていた。目があった瞬間、母は素早く障子を閉じ、姿を隠した。父は死野に背を向け、「二度とこの家の門に足を踏み入れるな」と言い残して、家の中へと消えていった。重い鍵の音が響き、死野は閉ざされた門の前に、ただ一人取り残された。雨は依然として降り続き、死野の濡れた裾は重く体にまとわりついていた。行き交う人々は、うずくまる死野を一瞥しては、関わりを恐れるように足早に通り過ぎていった。誰一人として傘を差しかけてくれる者はいなかった。

雨足の強まる中、遠くから荷車の音が近づいてきた。それまでの長い時間、死野は門前に正座し、これからどこへ向かえば良いのかさえ、検討もつかずに過ごしていた。降りてきたのは、粗末な蓑傘を差した一人の百姓だった。男は無言のまま笠を脱ぎ、死野の頭の上にそっと被せた。降りかかる雨粒が、丸い傘の縁を伝って外へと流れていった。男は死野の低い石の上に腰を下ろした。

「武蔵の山里に、神部という易者がいる。」男が低く口を開いた。「俺はちょうど今日、江戸へ薬草を売りに来ていて、たまたま三国屋の騒ぎに居合わせたのだ。あの男が金一つで人の運命を軽々しく口にするような者だとは、俺にはどうしても思えぬ。」男の声には確信もなければ慰めの言葉もなかった。ただ淡々とした、一つの静かな疑いだけがそこにあった。

男は佐知と名乗り、山里に5人の子がいると告げた。「末の子はようやく1つを過ぎたばかりだ。半年前に妻が亡くなり、家の中の手がどうしようもなく足りぬのだ。俺は文字も知らぬし、着物を着せてやる力もない。畑は狭く、暮らしは楽ではない。」佐知は隠すことなく言い添えた。「あなたは今、行く場がない。俺は家のことを任せる者がいる。」

死野はしばらく黙ったまま、閉ざされたままの実家の門を見つめていた。「俺のところがどのような暮らしか、確かめもせず来いとは言わぬ。」佐知はそう付け加えた。それだけを言うと、佐知は太い手を差し出した。荒れて節くれだった、土のついた手だった。死野はその手をしばらく見つめた後、静かに取った。「連れて行ってください。」それが死野の答えだった。

道中、佐知はほとんど何も語らなかった。車輪の音と、遠くで泣く鳥の声だけが二人の間を埋めていた。時折、車が石に乗り上げて大きく揺れると、佐知は無言のまま手綱を握り直し、死野の方を一度も振り返ろうとはしなかった。雨が上がり、雲の切れ間から夕暮れの光が差し込む頃、道は次第に細くなり、両側の木々が深くなっていった。死野は懐に忍ばせた刺繍枠にそっと手を当て、これから向かう先がどのような場所であれ、もう後戻りはできないのだと自分に言い聞かせていた。

荷車はいくつもの坂を超え、山里の奥深く、屋根の傷んだ小さな茅葺きの家の前で止まった。向こうから赤ん坊の泣き声が絶え間なく漏れ聞こえていた。死野が敷居をまたぐと、部屋の中には雨漏りを受ける瀬戸物の器が並び、幼い子供たちが柱の影から見知らぬ侵入者をじっと伺っていた。年下の二人は死野と目が合うとすぐに顔を伏せ、裏の縁に立っていた男の子は振り向きもせずに鶏に餌をやり続けていた。一番上の初だけは、死野に一度も目を向けようとせず、裏に座ったまま暗い山の方へと顔を背け続けていた。

狭い土間には、長らく手入れのされていない鍋や釜が乱雑に積まれ、この家に女手がなくなってからの日々の長さを物語っていた。壁にかけられた埃だらけの着物や、隅に積まれたままの洗い物が、この半年の間この家がどのように保たれてきたかを、何よりも雄弁に語っていた。死野は荷物を部屋の隅に下ろすと、迷わず竈の前に腰を下ろした。18年の間、針と糸ばかりを引いてきた指には、薪の組み方も火の起こし方も分からなかった。火打ち石をいく度打ち合わせても、辛い煙ばかりが立ちのぼり、目を刺した。涙をにじませながらも、死野は手を止めることなく、乾いた枝を選んでは湿った木の切れ端へと火を仕込んでいった。いく度も火種を落としては拾い直し、ようやく火が起きた頃には、死野の手の甲は黒い煤にまみれ、着物の裾にも灰がついていた。

かつての奥座敷でしか暮らしたことのない体には、目のくらむほどの隔たりだった。それでも死野は竈の前を離れようとはしなかった。次の朝も、その次の朝も、死野は同じ場所に座り、少しずつ火のつけ方を体に覚え込ませていった。佐知は多くを語らぬ人だったが、死野の煤だらけの手を見た朝、濡れた薪と乾いた薪を分けておく場所を無言のまま示してくれた。それは佐知なりの精一杯の気遣いだった。死野はその日から、薪の選び方に困ることがなくなっていった。

物陰から様子を伺っていた子供たちの目にも、この見知らぬ女が決して逃げ出そうとはしないことが、次第に映り始めていた。誰も声をかけはしなかったが、死野の煤だらけの手を見る子供たちの視線には、わずかながら変化の兆しが現れていた。

その夜、佐知が末の子をあやそうと網の寝台を揺っていたが、泣き声は一向に収まらなかった。困り果てた佐知の顔を見て、死野は台所から歩み出て、その子を胸に抱き上げた。汗ばんだ小さな体を抱いたまま、死野は夜の庭を何度も歩き続けた。幼い頃に乳母から聞いた古い子守歌を、覚えている限りの節で口ずさみながら。庭の隅で、初が黙ってその様子を見つめていたことに、死野は気づいていなかった。

翌晩も同じ泣き声が続き、死野は同じように庭を巡った。3日目の夜になってようやく、末の子は少しずつ死野の腕の中で眠りにつくようになっていった。日々の暮らしは、そうした小さな繰り返しの積み重ねで、少しずつ形を変えていった。

洗濯も水汲みも、死野には初めての仕事だった。井戸の縄を引く手には力の入れ方すら分からず、いく度も桶をひっくり返しては、一からやり直した。それでも死野は誰にも助けを求めず、日が沈む頃にはその日の分の水と洗濯を必ず終わらせるようになっていった。

家の中での呼び名すら、死野にはまだ与えられていなかった。子供たちは死野に話しかける時、ただ「あの人」と言い、母上とも死野殿とも呼ぼうとはしなかった。死野はそのことを、呼ばれるたびにただ静かに振り返り、用向きを尋ねるだけだった。名もなき者のように扱われることに、死野はもはや驚きを覚えなくなっていた。

ある日の夕餉、死野が丁寧に盛った飯を前に、3番目の子が死野の顔をまっすぐ見たまま、器を払い落とした。飯粒が散らばり、鈍い音が響いた。他の子供たちはびっくりと縮こまった。死野は声を荒げず、床にしゃがみ込んで飯を拾い集め、何も言わず新しい器をその子の前に差し出した。傍らで2番目が4番目の耳元にささやく声が、死野の耳にもはっきりと届いた。「あの人は、俺たちの母じゃない。」死野は卓を拭く手を止めなかった。4番目が「いつまでいるのか」と尋ねた時も、死野は答えの代わりに、その子の乱れた髪をそっと一度撫でただけだった。器を払い落とした3番目も、その日を境に、死野の盛った飯を黙って食べるようになっていった。

夜、子供たちが寝静まった後、佐知は死野の隣に腰を下ろし、「今日も大変だったな」とだけ短く声をかけることがあった。死野はそのたび「いいえ」と答えるだけだったが、その一言が日々の疲れをいくらか和らげてくれるのだった。

初の膳だけは、3日の間、盛られたそのままの形で台所へと戻ってきた。初は膳の前に座っても箸を取らず、ただ窓の外の一点だけを見つめていた。死野は初を叱ることも、無理に食べさせようとすることもせず、いく度も新しい飯を盛り、初の前に置き続けた。他の子供たちが初の様子を気にして目配せをする中でも、死野はいつもと変わらぬ様子で淡々と一日の仕事をこなし続けた。

3日目の深い夜、死野は洗濯物を干そうと出た時、隣部屋の障子の隙間に小さな影を見た。初だった。皆が寝静まった後、初だけが一人起きて、弟たちの乱れた布団を一つ一つ丁寧に直していた。2番目が蹴り飛ばした布団を引き寄せ、肩までかけ直す初の手つきは、何度も繰り返してきたものの慣れたものだった。4番目の額に浮いた汗を袖の端でそっと拭ってやる仕草もあった。末の子の口元に垂れたよだれまで、初は嫌な顔を一つせず拭き取っていた。

障子の影からその様子を見つめる死野の胸に、これまで感じたことのない重みが込み上げてきた。母が亡くなってからの半年。この13の子が、誰にも頼らず、4人の弟妹を守り続けてきたのだと、死野はその時初めて悟った。初の頑なさの奥にあったのは、憎しみではなく、守るべきものへの切実な思いだったのだ。

それでも、次郎、三郎、四郎。そして末の子は、日を追うごとに少しずつ死野の傍らに近寄るようになっていった。死野が洗濯物を干せば、誰からともなく傍らに立ち、死野が薪を割れば、遠巻きに眺めるようになった。ある日、四郎が黙って薪の束を運んできて、死野の足元にどさりと置いていった。何を言うでもなく、また駆けていってしまったが、死野はその背に向かって小さく礼を言った。言葉を交わすことはまだ少なかったものの、朝夕の膳を囲む話の中に、4人の子供たちは自然と加わり始めていた。ただ一人、初だけが変わらず距離を保ったままでした。

4日目の朝、死野は初の前に膳を置いた後、その傍らに膝をついた。這うようにして初の目の高さまで身を低くし、死野は静かに切り出した。かつて奥座敷で、誰にも頭を下げたことのなかった死野が、今、13の子供の前に膝をついていた。「教えてくれないだろうか。あなたの母上が淹れておられた白菜の味噌汁のことだ。私が作るものには、いつも何かが足りぬ気がしてならぬ。」

初はしばらく黙ったまま、死野の顔を見つめていた。そのまなざしの中には、疑いと戸惑いが入り混じっていた。長い沈黙の後、初は台所へと戻り、乾いた瓢箪の中に大切に包まれた、褐食に固まった小さな味噌の塊を取り出してきた。それは亡き母が最後に仕込んだ、甕の底から掻き集めた、この家に残る最後の味噌だった。これまで誰にも触れさせなかった、初の宝物だった。初はそれを両手で捧げ物のようにして、死野の前に差し出した。「白菜が柔らかくなるまで、味噌は入れないでください。」

その短い指示に、死野はそのまま黙って従った。竈の火が燃え上がり、鍋の中の湯が湧き立つ間、死野は初の言葉だけを頼りに手を動かした。白菜の葉を一枚ずつ丁寧に洗い、指示された通りの大きさに切り分けていった。「母はいつもこうして、長く煮ることで甘みを出しておられました。」初はぽつりぽつりと、覚えている限りの手順を口にした。「まだ、それではありません。母はもう少し待っておられました。」死野は初の一言一言に忠実に従い続けた。竈の傍らで、初もいつしか腰を下ろし、鍋の中を静かに覗き込むようになっていた。戸口の外では、次郎たちが物音を聞きつけ、そっと中の様子を伺っていた。

やがて、この家に長らく絶えていた匂いが立ちのぼった。煮えた白菜の甘みと、古い味噌の香ばしさが混ざり合った、初にとって何よりも懐かしい匂いだった。匂いが広がった瞬間、初の肩が小さく震え始めた。初は死野の背後から両腕を回し、洗い晒しの着物に顔を埋めた。死野は振り返らず、自分の腰に回された初の小さな両手の上に、そっと自らの荒れた手を重ねた。台所には、竈の煮え立つ音と、初のかすかな嗚咽だけが満ちていた。

その日の夕餉、卓を囲んだ子供たちの前に、白菜の味噌汁が並んだ。湯の立つ器を覗き込んだ次郎と三郎が、思わず顔を見合わせた。末の子は箸を使うのももどかしいというように、器に直接口をつけて汁をすすり、幼い声で「おいしい」と繰り返した。初は箸を取ると、俯いたまま黙々と器を空にしていった。この家に来て初めて、6つの器が全て空になった夜だった。外からその様子を見守っていた佐知の口元が、その夜だけはいつもより少し緩んでいた。

それからというもの、初は少しずつ死野の傍らに近づくようになり、洗い物や縫い物を並んでこなす姿が、家の中の当たり前の景色になっていった。他の子供たちも初の変化を見てとったのか、次第に死野の周りに集まるようになり、家の中には少しずつ笑い声が戻り始めていた。朝夕の膳を囲む6つの顔にも、以前のような硬さは見られなくなっていった。

数日後、死野は台所の古い棚を拭いていると、埃の奥に一冊の書物を見つけた。亡き母が残した、薬草の煎じ方を記した覚え書きだった。乱れのない丁寧な文字が、傷や癒しに効く薬草の名と、その分量を細かに書き記していた。表紙は何度も繰り返し開かれた後があり、この家の暮らしを長らく支えてきた書物であることが一目で分かった。初がそれに気づき、一度は死野の手から取り上げたが、すぐに紐を解いて死野の前でページを開き、末の子のための煎じ方を指し示した。「母が残したものです。月に一度、これを煎じて飲ませよと申しておりました。」初はしばらくためらった後、この書物を死野に預けると言い添えた。それは初が死野に差し出した、大きな信頼の印だった。死野はその書物を、亡き人の形見として扱うように、両手でそっと受け取った。

死野はその日から、幼い頃に兄の声を盗み聞きして覚えた文字を、初めて表立って使うようになった。佐知が山野から集めてくる薬草を、死野は種類ごとに選り分け、取れた日付や効能を帳面に丁寧に記していった。それまで大まかな束のまま持ち込まれ、商人に買い叩かれることの多かった薬草にも、次第に正当な値がつくようになった。佐知の懐も、少しずつ重みを増していった。死野はまた、集めた薬草を陰干しする場所と、すぐに使う分を分けて帳面に印をつけ、痛みやすいものから順に売りに出せるよう工夫した。家には米の絶える日がなくなり、子供たちの着物にも、冬を越せる分の綿が入れられるようになった。

仕事の合間、佐知はぽつりと「お前が来てくれてよかった」と口にすることがあった。縁側では、初がいつからか死野の傍らに座り、筆を運ぶ手元をじっと見つめるようになった。死野は筆の速さを緩め、初が文字の形を目で追えるようにしてやった。二人の間に交わされるのは、髪を擦る筆の音だけだった。時折、初は自分でも指先で文字をなぞってみるようになり、死野はそれを見て、幼い頃の自分の姿を重ねずにはいられなかった。

佐知が薬草を売りに出向いた時、死野は帳面を示しながら、「この束はいつ取れたものか、目方はどれほどか」と、一つ一つ商人に問いただすようになった。それまでいい加減に買い叩かれていた薬草にも、次第に正当な値がつくようになり、佐知の顔には次第に安堵の色が浮かぶようになっていった。近隣の百姓たちの間でも、「佐知のところは良い女房を迎えた」と、次第に評判が立つようになっていった。

暮らしが上向いてきた、ある朝のことだった。庭に馬の蹄の音が響き、伝八と名乗る男が、屈強な男たちを従えて現れた。子供たちは驚いて家の中へ駆け込み、死野は庭に立って様子を伺った。伝八の手にしていたのは、大鑑賞所へ願い出た証だという、赤い判を押された紙だった。「妹が佐知の家から分けられた土地がある。名義を移す手間が不便なまま今日に至った。妹が亡くなった今、この地は本来の家へ戻すのが筋というものだ。」

佐知は字を読めず、突きつけられた紙の中身を確かめる術も持たぬまま、ただ黙って伝八を睨みつける他なかった。悔しさに、佐知の喉から低い唸り声が漏れた。村の者たちが騒ぎを聞きつけ、木戸の外に集まり始めた。近頃、死野の帳面のおかげで薬草に良い値がつくようになったことを、村の者たちも耳にしていた。伝八はその視線を背に感じ取ると、田の話を離れ、縁側に立つ佐知へと目を向けた。「江戸を追い出された女だそうだが、こうも宿せぬ家に災いをもたらす女を、この清らかな田畑に立たせておくとは、一体どういう了見だ。」

佐知が一歩前へ出て言い返そうとしたが、伝八の連れてきた男たちがすぐさま間に立ちはだかった。家の中では末の子が怯えて泣き出しそうな顔をしていたが、次郎がその手をしっかりと握っていた。伝八の声は、村の者たち全員に届くよう、はっきりと張り上げられていた。死野は身じろぎ一つせず、ただその場に立ち尽くしていた。佐知の握った拳に青筋が浮かんだ。庭の空気が張り詰め、誰も口を挟むことができぬ長い間があった。

その時、5人の子供たちが、誰に言われるでもなく、一斉に庭へと歩み出てきた。次郎と三郎もそれぞれ手に下男の棒を握りしめ、四郎は末の子を庇うように前へ出た。子供たちは死野の前に並び立ち、伝八との間に小さな壁を作った。この光景を見た村の百姓の中には、思わず目頭を押さえる者もいた。初は末の子を片腕に抱いたまま、もう一方の手で庭の杭を握りしめ、伝八を真っすぐに見据えた。「その口を閉じなさい。我らの母上に、そのような無礼な物言いをしないでください。我らの母上は、我らを飢えさせません。」

庭に静かに落ちたその一言に、死野の目から初めて涙がにじんだ。誰にも許されなかったその呼び名を、子供たちが自ら選び取った瞬間だった。傍らに立つ佐知もまた、拳を握ったまま、込み上げるものを堪えるように空を見上げていた。集まっていた村の者たちの間にも、伝八への冷ややかな空気が広がっていった。「子供らに慕われて、幸せ者だ」というつぶやきが、木戸の外から漏れ聞こえてきた。伝八は苦々しげに口を歪めると、「後日、大鑑賞所へ正式に訴え出る」とだけ言い残し、馬に飛び乗って坂を下っていった。

その夜、村の小兵が佐知の元を訪ねてきた。伝八の父親の代からの因縁も知る小兵は、この一件を穏便に収める道を考えていた。「死野殿の名を、この家の人別帳に正式に記されるが良い。さすれば、伝八とて、この家に容易には手出しできますまい。」

小兵が去った後、佐知は死野の前に立った。「あなたさえ承知してくれるならば、正式に祝言を上げたい。」それは甘い言葉でも、恋の告白でもなかった。佐知が持つ唯一のものを、丸ごと死野に差し出す申し出だった。死野はしばらく佐知の顔を見つめていた。この申し出を受けることが何を意味するのか、死野にはよく分かっていた。それでも死野は短く答えた。「そういたします。」

次の朝、庭の古い卓の上には、水を満たした器と、小さな灯りが一つだけ置かれていた。華やかな晴れ着も、集まる客もなかった。かつての嫁入りには、駕籠と晴れ着と多くの客があり、そして炎で終わった。この二度目の嫁入りには何の華やかさもなかったが、5人の子供たちがその周りを丸く囲んでいた。佐知は普段と変わらぬ蓑のまま、けれども背筋だけはいつもより伸びていた。佐知と死野はその卓の前に並んで立ち、小兵が筆を取り、赤い判を押された紙の上に、死野の名を丁寧に記していった。子供たちは誰も声を立てず、小兵の筆先をじっと見つめていた。墨を含んだ筆が紙を擦る音だけが、静かな庭に響いていた。

末の子を抱いたまま前を見つめていた初が、長く深い息を一つ吐き出した。母を失ってからの半年、張り詰めたまま抱え続けてきた重荷が、ようやく降りていくという息だった。この一件は瞬く間に村中に知れ渡り、以来、死野を蔑むような目を向ける者は、目に見えて少なくなっていった。佐知と顔を合わせる商人たちも、「佐知殿のところの」と自然に呼ぶようになり、死野はようやくこの土地に根を下ろしたという実感を得るようになっていった。佐知自身、その呼び名を耳にするたび、まんざらでもない顔をしていた。

家の中での呼び名も、いつしか変わっていった。「あの人」としか呼ばなかった子供たちの口から、ある朝、末の子がふと「母上」と口にした。誰に教わったわけでもなく、ごく自然に出た一言だった。それを聞いた死野は、洗い物の手を止め、しばらくその場から動くことができなかった。

季節が巡ったある日、竈の前で朝餉の支度をしていた死野が、急に顔色を変え、前掛けを外して裏庭へと駆け出していった。近頃、死野の食が細くなり、朝の身支度に手間取ることが増えていたことに、初は薄う気づいていた。ただならぬ足音に気づいた初が後を追うと、死野は裏庭の梅の木の下でうずくまり、両腕で自分の腹を抱えたまま、涙を流しながらも口元に笑みを浮かべていた。「母上、どこか痛むのですか?」初の問いに、死野は答える代わりに首を横に振った。

その日のうちに呼ばれた産婆は、死野の腹に手を当て、しばらく静かに耳を済ませた後、佐知と初に向かって告げた。「2月を過ぎておりますよ。」台所で聞き耳を立てていた初の手から、握っていた布巾が滑り落ちた。佐知はその場に立ち尽くしたまま、しばらく言葉を発することができなかった。子を宿せぬと言われ、家を追われた死野だった。その体には、初めから何の咎もなかったのだ。

その夜、佐知は裏庭に一人腰を下ろし、しばらく山の稜線を眺めていた。やがて彼は、小さなつぼみのついた梅の枝を一本手に、部屋へと戻ってきた。佐知は灯りの下に座る死野の傍らに歩み寄ると、卓の上にその枝をそっと置いた。祝いの言葉も、感謝の一言もなかった。ただその小さな枝だけが、佐知の気持ちを語っていた。死野はその枝を手に取り、指先でそっとつぼみに触れた。固く閉じたそのつぼみは、いずれ花開くのだと、死野は静かに思いをはせた。

その知らせは翌朝にはもう、子供たち皆の知るところとなっていた。次郎と三郎は「弟か妹か」と言い合って騒ぎ、末の子は死野の腹に耳を寄せては「何も聞こえない」と不満げに口を尖らせた。四郎はどこか照れくさそうに、いつもより多くの薪を運んでくるようになった。初だけは静かに微笑み、死野の代わりに家の仕事を一つ多く引き受けるようになった。

月日が流れるにつれ、死野の腹は目に見えて大きくなっていった。死野の書きつけた帳面のおかげで、家の暮らしはますます落ち着き、納屋には薬草と穀物が絶えることなく積まれるようになった。佐知は無理に働かせぬよう、以前にも増して気を配るようになっていた。かつて雨漏りを受けていた甕も、もう必要なくなっていた。子供たちもそれぞれに家の仕事を覚え、朝から晩まで家の中には途切れることなく人の動く音が満ちていた。冬支度も滞りなく進み、納屋には薪も炭も十分に蓄えられていた。

かつて「死野の母じゃない」と呟いていた末の子は、この頃にはもう、誰よりも先に死野の膝に潜り込む子になっていた。死野の作る飯を「おいしい」と言い、夜は必ず死野の隣でなければ眠らないと駄々をこねることさえあった。死野はそのたびに苦笑いを浮かべながらも、そのぬくもりを噛みしめずにはいられなかった。

夜、灯りの下で縫い物をする死野の傍らに、子供たちが一人また一人と集まってくるのが、この頃の習わしになっていた。誰が言い出すでもなく、末の子が死野の膝に寄りかかり、次郎と三郎が並んで座り、四郎が隅で薪を足す。そうした何気ない夜の光景の中に、この家の穏やかさが現れていた。死野の腹に耳を当てて動きを確かめようとする子供たちの姿も、いつしか夜の日課になっていた。

初はこの頃、家のことをほとんど任されるようになっていた。弟たちの世話も、縫い物の仕上げも、初が率先してこなし、死野の体を気遣う言葉を誰よりも先に口にするのも初だった。かつて誰よりも頑なだったこの娘が、今では誰よりも死野を気にかける存在になっていることに、佐知も時折り、感慨深げなまなざしを向けることがあった。

ある朝の膳の支度の時、佐知が子供たちに向かって告げた。「来月、江戸で大きな市が立つ。薬草をたっぷり積んで、皆で行くとしよう。」子供たちは声を弾ませ、初めて行く大きな町の話に、夜も更けるまで盛り上がっていた。死野の手だけが、卓を拭く動きの途中でふと止まった。江戸。それは死野が生まれ育ちながらも、最も無惨な形で追われねばならなかった土地だった。それでも死野は静かに手を下ろし、何も言わず頷いた。

江戸へ向かう朝、初と弟たちは、こっそりと貯めておいた銭を差し出した。それは、木の実を拾い集め、佐知の手伝いで小さな賃仕事をしてためた、子供たちなりの心遣いだった。差し出された銭を死野は初めは辞退したが、初がその手に銭を握らせ、「これは私たちが決めたことです」と言い切った。死野の身には、淡い青みを帯びた絹の着物がまとわれた。かつての人々の前で、母を少しも恥ずかしい思いをさせたくないという願いが込められた一着だった。死野はその着物をまといながら、子供たちの手のぬくもりがまだそこに残っているような気がしていた。

江戸へ向かう道中、死野の腹は大きく膨らみ、荷車の揺れるたびに佐知が手を貸してやった。町の境が近づくにつれ、死野の口数は次第に少なくなっていった。それに気づいた初が、そっと死野の手を握り、何も言わずに寄り添った。

江戸の市は、いくつもの屋台が連なり、雲のような人並みで賑わっていた。品物を広げる小間物屋の声、飴を売る子供の声、あちこちから飛び交う掛け声が、市の空気を絶えず揺らしていた。乾いた薬草の匂いと、焼き物の香ばしい匂いが、冷たい秋の空気の中に混ざり合っていた。子供たちは、かつて見たこともない大きな町の様子に目を輝かせながら、辺りを見回していた。

佐知は慣れた手付きで太い木の柱を立てて布を張り、薬草の売り場を手際よく整えた。死野はその傍らに立った。佐知の運んできた薬草は質が良く、たちまち人々の目を引いた。死野は帳面を手に代金を正確に数え、初は弟たちをまとめながら、受け取った銭を手際よく整えていった。歯車が噛み合うような、固く穏やかな家族の光景だった。

昼近くまで、薬草はよく売れた。死野の帳面には、いくつもの取引の記録が丁寧に書き加えられていった。末の子は物珍しさに辺りを駆け回り、飴売りの屋台の前で何度も足を止めていた。子供たちも初めのうちこそ町の賑わいに気を取られていたが、やがて銭の受け渡しや品の計量を、互いに助け合いながらこなすようになっていった。佐知は時折り死野の帳面を覗き込んでは、満足そうに小さく頷いていた。

日が中天に登る頃、市は一層込み合ってきた。品を選ぶ人々の合間を縫うように、そこへ上等な絹の羽織りをまとった男女の一組が近づいてきた。女は華やかな簪を挿し、いかにも裕福な商家の娘といった佇まいだった。女が売り場に並んだ薬草の束に目を止め、足を止めた。傍らの男がふと顔を上げた。新パチだった。

彼の視線は死野の顔の上で止まったかと思うと、やがて信じられぬというように下へと滑り落ちていった。淡い絹の着物に包まれた、丸く膨らんだ死野の腹。子を宿せぬはずの女の腹に、行きづく確かな命の証だった。新パチの顔から、見る見る血の気が引いていった。傍らの妻が、軽蔑したように新パチの袖を引いた。新パチの口からは、何の言葉も出てこなかった。周りにいた人々も、ただならぬ気配を感じ取り、次第に足を止めて二人の様子を伺い始めていた。

死野は目をそらさず、静かに口を開いた。「こちらは私の夫でございます。」死野は傍らの佐知へそっと手を差し伸べた。「こちらは長女の初、次郎、三郎、四郎、末の子です。」死野は子供たちの名を一人一人呼び上げると、自らの腹の上に両手を重ねた。「これから生まれてくる子もおります。」恨み言も、勝ち誇った響きもなかった。ただ、今自分がこの足で立つ場所と、その傍らを支える人々の名を、静かに並べただけだった。しかし、そのいくつかの言葉が、新パチの胸に重い岩のようにのしかかった。

周りで品を選んでいた人々も、いつしか二人のやり取りに気づき、遠巻きに様子を伺い始めていた。新パチが震える唇を動かそうとした、まさにその時だった。新パチの額に汗が浮かび、言葉を探すように口を開いては閉じを繰り返していた。かつて死野を虫けらのように見下ろしていたあの目が、今は落ち着きなく揺れていた。佐知は死野の傍らに一歩寄り添い、何が起ころうとも構える構えで、静かにその場に立っていた。

「そこまでだ。」人並みの向こうから、枯れた声が響き渡った。声の主の方へ、人々の群れがゆっくりと割れていった。歩み出てきたのは、古びた易者の面影をした老人だった。曲がった腰に杖をつき、一歩一歩確かめるようなその足取りには、この日をずっと待ち続けてきた者だけが持つ、強い決意があった。彼は死野には目もくれず、ただ青ざめた新パチだけを見据えていた。

死野の幻想が、潮のように引いていった。誰も、その老いた易者の道を塞ぐことができなかった。「古番、重綱でございます。」その声は、幻想を突き抜けるほどはっきりとした声だった。「この1年半、片時もこの重さを忘れたことはございません。1年半前、三国屋の使いが夜半に私の元を訪れ、これを握らせていきました。あの日以来、私はいく度も占いの結果を握るたび、あの娘の顔を思い出さぬ日はありませんでした。」

易者は言葉を継いだ。「新パチ様は兼ねてより、家柄の大きい商家の娘との縁を望んでおられました。しかし、死野殿との縁は両家が長年かけて結んできたもの。自ら破れば、三国屋の名に傷がつく。それ故、新パチ様は私に金を渡し、『子を宿せぬ女、家にわざわいをもたらす女』と言わせたのです。己の裏切りを、家のための決断に見せかけるために。」

死野は、易者の一言一言をただ静かに聞いていた。長年胸の奥に沈んでいたものが、ようやく形を得て溶けていく瞬間だった。新パチの顔は、もはや血の気を失い、紙のように白くなっていた。易者は懐から色あせた絹の巾着を取り出すと、新パチの足元へと荒々しく投げつけた。銭が行く先もなく鈍い音を立てて、石畳に散らばった。新パチはそれを拾おうともせず、ただその場に立ち尽くしていた。

「私はその金に目がくらみ、一人の娘の一生を踏みにじりました。今日、その汚れた金を余すところなく返しに参ったのです。」易者はそう言えると、深く頭を下げた。長い沈黙が、市の真ん中に広がった。屋台の呼び声も、行き交う人々の足音さえも、その一瞬だけは止んでいるかのようだった。

死野には、怒りも、悲しみも上がらなかった。代わりに、品を選んでいた商人たちも、通りすがりの見物人たちも、示し合わせたように新パチの周りから一歩また一歩と、静かに後ずさっていった。先ほどまで新パチに愛想よく声をかけていた商人たちも、今は目を合わせようとさえしなかった。傍らに立っていた新パチの妻は、顔色を蒼白にしたまま、握っていた袖をそっと離した。義父となるはずだった商家の当主もまた、冷ややかに一瞥をくれると、未練もなく背を向けて去っていった。

新パチは、誰にも殴られず、縄で縛られもしなかった。けれども、その瞬間、彼を取り巻いていた最も華やかな世間が、音を立てて崩れ落ちていた。商人の目を恐れ、世間体を守ろうとしてきた男が、今、何百人もの人々の前で、ただ一人取り残されていた。

離れたところでこの一部始終を見ていた次郎と三郎は、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。初は末の子の目をそっと覆い、「これで良いのです」とだけ小さくつぶやいた。この一件は後に大鑑賞所の知るところとなり、三国屋の偽りの証は白日の下にさらされることとなった。三国屋の家は大きく傷つき、これまでの取引先も次々と離れていったと、後に伝え聞いた。新パチが望んでいた商家との新たな縁の話も、この一件を境に、跡形もなく立ち消えとなった。死野の名が正式に記された佐知の人別帳が、揺るぎなく正当なものであることも確かめられ、伝八もまた、二度と佐知の家の近くへ足を踏み入れることはなかった。

死野は、崩れ落ちる新パチにそれ以上目を向けることなく、静かに背を向けた。市の入り口では、佐知と子供たちが並んで死野を待っていた。一部始終を遠くから見ていた子供たちの顔には、驚きと、そしてどこか誇らしげな色が浮かんでいた。死野が歩み寄ると、初がその手をそっと握った。何の言葉もないけれども、何よりも温かな引き寄せだった。死野は家族に囲まれ、市の幻想を後にして、ゆっくりと歩き出した。その道の途中、死野はただの一度も後ろを振り返らなかった。

帰りの荷車の上で、末の子が疲れて眠りに落ちるまで、誰も多くを語らなかった。ただ、それぞれの胸のうちに、確かな何かが収まった夜だった。星の出た夜道を、荷車はゆっくりと進んでいった。佐知は手綱を握りながら、時折り死野の様子を確かめるように振り返った。死野は星空を見上げ、これでようやく過去に振り回されずに生きていけるのだと、静かに思いを巡らせていた。

それからいくつかの季節が過ぎたある日、江戸から一通の文が届いた。父が重い病に伏っているとの知らせだった。佐知は「行っておいで」と短く送り出し、留守の間の家のことは案じるなと言い添えた。死野は良い薬草を選び、佐知から渡された銭を懐に、江戸へと向かった。かつて雨の中で追い出されるように叩いたあの門を、死野は今度は穏やかな昼下がりの日差しの下で叩いた。

門を開けたのは、すっかりと老け込んだ母だった。母は死野の姿を見るなり、老いた顔を涙で濡らしたが、死野はその場で共に涙を流すことはせず、ただ軽く会釈をして敷居をまたいだ。かつて死野が涙を堪えて叩いたその同じ門を、今、死野は静かな足取りでくぐっていった。奥の部屋には、骨と皮ばかりに痩せた父が横たわっていた。かつて家の外に勢いを振るったその面影は、すっかり消え失せていた。

死野は薬草を煎じ、匙で少しずつ父の口元へ運んだが、父はもうほとんどそれを飲み下す力もなかった。父はすでに言葉を発することもできず、ただ揺れる瞳だけが、死野の方へ切なく向けられていた。かつて自分を切り捨てたこの手を前にしても、死野の心はもう波立つことがなかった。死野は父の枕辺に膝をつき、自らの荒れた両手を、父の冷たく痩せた手に重ねた。「お休みください。」それだけの一言だった。許すとも、恨んでいたとも、死野は口にしなかった。傍らでは、母が俯いたまま、声もなく肩を震わせていた。

数日後、父は何の遺言も残さぬまま、静かに息を引き取った。死野は自らの手で位牌を取り仕切った。読経の声が響く中、かつて自分を見捨てた親戚たちが、気まずそうな顔で弔問の列に並んでいたが、その落ち着いた死野の姿の前では、誰一人として何も言うことができなかった。棺を送り出す際、死野は位牌に手を合わせ、長い間動かなかった。

葬儀を終えた死野は、母を一人残すことなく、山里の家の近くに小さな部屋を用意し、身の周りの世話をする者をつけてやった。それ以上、母の元に長く留まることはしなかった。死野には、もう戻るべき場所がはっきりと定まっていたからだ。母はその後、季節の便りを添えて、時折り死野の元へ文を送るようになった。かつて口にできなかった詫びの言葉が、その文の端々に滲むこともあった。

季節がいく度も巡った。大太は元気に生まれ、山里の家には笑い声が絶えることがなくなった。幼い八田は姉たちの手のひらを駆け回り、死野の作った着物を着飾って育っていった。かつて死野に懐かなかった末の子も、いつしか誰よりも死野の後を追って歩く子になっていた。

子供たちはそれぞれに大きくなり、初はやがて隣村の実直な若者の元へと嫁いで行き、自らも一人の母となった。嫁入りの日、初は門を出る前に立ち止まり、死野を静かに振り返った。その目には大粒の涙が浮かんでいたが、それは悲しみの涙ではなく、長い年月を無事に超えてきた者の晴れやかな涙だった。少し離れたところに立つ佐知も、腕を組んだまま、何度も目元をこすっていた。死野は涙を拭ってやることはせず、ただ静かに頷いてやった。

嫁いだ後も、初は季節ごとに山里の家を訪れ、死野の傍らで、昔と変わらぬ調子で味噌汁を作って見せるのであった。次郎と三郎はやがて佐知の後を継いで薬草の商いを大きくし、遠く隣の国にまで名の知れる商人と取引をするようになった。四郎は村の鍛冶屋で修業し、腕のいい職人として身を立てていった。誰一人としてこの家を離れようとする者はいなかった。季節ごとの祭りには、皆が必ず顔を揃えるようになっていた。

雨の漏っていた古い茅葺きの屋根は、いつしか瓦と葺き替えられ、涙を堪えてうずくまっていた裏庭の梅の木は、毎年見事な花を咲かせるようになった。納屋には常に薬草と穀物が積まれ、かつて器の底を見せることさえ稀だった膳には、季節ごとの実りが絶えることなく並ぶようになった。春には裏庭の梅が、夏には青々とした薬草畑が、秋には黄金色に実る稲穂が、そして冬には囲炉裏を囲む家族の姿が、山里の家にいく度も巡ってきた。

子供たちの振る舞いの端々には、いつしか死野の面影が滲むようになっていた。薬草を選り分ける手つき、慌てず声を立てぬ物静かさ。それは死野が言葉で教えたものではなく、長い年月を共に過ごす中で、自然と染み込んでいったものだった。次郎も三郎も四郎も、それぞれに家の仕事を一人前にこなす年頃になり、山里の家は、行く年来る年の冬を穏やかに超えていった。

死野は時折り、焼け落ちた鳳凰の刺繍のことを思い出すことがあったが、その記憶はもう、かつてのような痛みを伴うものではなくなっていた。

秋の日差しが縁側に長く伸びる、ある穏やかな午後のことだった。庭の梅の木は葉を色づかせ、乾いた風が縁側を吹き抜けていった。白髪の混じり始めた死野が、膝の上に小さな刺繍枠を広げていた。長らく針から遠ざかっていた指も、いくらか針を運ぶうちに、若い頃の確かさを少しずつ取り戻していった。すっかり成長した四郎が、山の木を自ら削り、何日もかけてこしらえた、まろやかな枠だった。

傍らでは、佐知が死野に初めて被せたあの古い傘を、今もなお静かな手付きで繕っていた。何年経っても、佐知はその傘を新しいものに変えようとはしなかった。孫を連れて尋ねてきた初が、縁側にそっと歩み寄り、尋ねた。「お母様は、何を縫っておいでですか?」死野は針を持つ手を止め、穏やかな笑みを浮かべた。「鳳凰をね、孫に送るものです。」初は幼子を抱き直し、深く一度頷いた。

最後の一針が、張り詰めた絹の布を静かに通り抜けていった。黄金色の鳳凰が、追い求めた翼を完全な形で広げた。どこにも足りぬところのない、堂々とした翼だった。庭では、覚えたての足取りでよちよちと歩く孫の姿を、初が笑いながら見守っていた。その笑い声が古い家の柱にまで響き渡り、佐知は傘を繕う手を止めぬまま、死野の隣に静かに座っていた。死野はもう、誰かが自分の運命を決めるのを、奥の部屋で待つ必要のない場所に立っていた。

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