今日は3人でご飯を食べられるはずだった。順夜の誕生日、まどかと一緒にハンバーグを作っていると、彼から電話がかかってきた。
「仕事で遅くなる。先に食べてて」
なんとなく察していたものの、ため息が漏れた。
「わかった。まどかには私から説明しておくわ」
これ以上まどかに辛い思いをさせたくない。彼女のために我慢するつもりだったが、もう限界だ。私は帰宅した順夜と対面して、どうするか決めることにした。
それから4時間後、12時過ぎに順夜が帰宅した。彼はリビングに入った途端、目を見開いた。
「なんだ、まだ起きてたの?俺、遅くなるって言ったよな」
順夜の顔は真っ赤で、足元がおぼつかない。どうやら酒を飲んできたようだ。彼はジャケットを脱ぎ、閉めていたネクタイを緩めた。
「今までありがとう」
「え?」
発言の真意が分からないのか、順夜が不思議そうな顔をする。気づかれないとでも思っていたのだろうか。
私は加藤望、34歳。同年の夫・順夜と7歳の娘・まどかと3人暮らしをしている。
私と順夜が出会ったのは今から12年前。彼は大学卒業後に入社した保険会社の同期だった。
「新人が俺1人だったらどうしようと思ってたから安心したよ。これからよろしくね」
「私の方こそ、加藤君がいてくれて心強いよ。一緒に頑張ろうね」
新人研修後、同じ部署で働くこととなった私たち。順夜は社交的かつ明るい性格で、初対面の時から人懐っこい笑顔を見せてくれた。会った瞬間、この人は営業に向いているタイプだと思った。実際、彼はどんどんスキルを伸ばし、上司とも仲良くなっていく。そんな彼を見て、私は次第に焦り始める。自分はまだ営業トークも下手だし、先輩にも怒られてばかり。同期入社者だからこそ、順夜と比べられて厳しくされるのではないかと不安だった。
すると順夜がある日、そっと声をかけてくる。
「望みさん、ロープレ付き合ってくれない?先輩に注意されてさ」
「え、私と練習相手になれるかわからないけど、大丈夫?」
「何言ってるの?望みさん、話し方が丁寧で分かりやすいじゃん。だから俺としては付き合ってもらえると嬉しいんだけど」
彼は私が悩んでいることに気づき、手を差し伸べてくれたのだろう。順夜の優しさに触れ、自然と胸が熱くなる。
「ありがとう。順君に褒めてもらえるなんて嬉しい」
私は彼の気遣いに心から感謝した。それ以来、私たちは互いに悩みを相談しては励まし合い、徐々に距離を縮めていく。
順夜は努力家で、いつも仕事に一生懸命だった。
「先輩たちみたいに早く1人前になりたいんだよね。だからこそもっと数をこなさないと」
「私も順夜君を見習って頑張らなきゃな」
「何言ってるの?望みもすごく頑張ってるじゃん。俺、尊敬してるんだ。望みのこと」
照れ臭そうに笑う順夜。私は仕事に対する真摯な姿勢を見て、気づけば彼に惹かれていた。それは順夜も同じ気持ちだったらしい。
「俺、望みのことが好きなんだ。よかったら俺と付き合ってくれない?」
入社して3年目。初めて2人きりで出かけた日に、彼から告白されたのだ。順夜は顔を真っ赤にして思いを伝えてくれた。両思いだという事実が嬉しくて、視界が滲む。
「嬉しい。私も順夜君のことが好きだったの」
そして1年の交際を経て、私たちは結婚。翌年にはまどかを出産した。
今でも、生まれたばかりの我が子を抱き、幸せそうに微笑んだ順夜の顔を覚えている。
「俺がパパになるなんて。望み、ありがとう。絶対に2人のことを幸せにするから」
私はその時、彼と結婚して良かったと心から思った。ちなみに妊娠を機に保険会社を退職した私は、今、社労士事務所でパートをしている。まどかが3歳の頃から働いているため、今年で4年目だ。主な業務はデスクワークで、初めてすぐは慣れないことばかりで大変だった。だが今はこの仕事に決めて良かったと思っている。
一方、今も同じ保険会社で働いている順夜は、部下も増え、責任ある立場を任されているようだ。
家事はもっぱら私の担当なので、毎日夕食を作って彼の帰りを待っている。
「じゃあ、お帰り。今日もお仕事お疲れ様」
「パパ、お帰りなさい」
お手伝いをしてくれていたまどかが勢いよく玄関に向かう。そして彼女は順夜にぎゅっと抱きついた。
「まどか。ただいま。お、今日はカレーか。いい匂いだな」
「私もお鍋だよね、ママ」
「まどかが手伝ってくれたから、今日のカレーは一段と美味しいはずよ」
私の言葉に順夜がふっと笑う。まどかは私たち夫婦にとってかけがえのない宝物だ。誰に対しても優しく、それで勉強が大好きな子。まどかがいれば何もいらないと思えるほど、娘の存在はとても大きい。家族3人で過ごす時間は日々の癒しだ。
順夜と今笑い合えているのも、まどかのおかげだろう。彼女がいなければ離婚していた可能性だってあるのだから。
実は、まどかを妊娠していた際に不倫疑惑が浮上したのだ。
当時の彼は帰宅が極端に遅くなり、私に対してそっけない態度を取っていた。
「え、飯ないの?俺、仕事で疲れて帰ってきてるんだけど。1日家にいたんだから作れたはずだよね」
「ごめん。今日はちょっと悪阻がひどくて。何か買ってきてってメッセージ送ったでしょ」
ソファーに横たわる私を一瞥した後、スマホを確認した順夜。彼はあからさまに面倒そうな顔をした。
「仕事中スマホなんて見る暇ないんだよ。ああ、またカップ麺か」
ブツブツと呟きながら順夜がお湯を沸かし、カップ麺を作る。そして食べ終わるなり、彼はすぐさま浴室へと向かった。カップ麺の容器はシンクに放置されたまま。食事を準備できなかったことに申し訳なさはあるものの、後片付けくらいはしてほしい。そう伝えるも、風呂上がりの彼は大きくため息をつく。
「なんで俺がそんなことしなくちゃいけないの?望みは今日ずっと寝てたんでしょ?これくらい洗ってよ」
「ごめん。起き上がるのもしんどくて」
でも順夜は、出産後も私に家事を押し付ける気なの?
「子供が生まれたら、さすがに手伝ってもらうことになるんだけど」
「俺の稼ぎで生活してるのに、家事までやらせるつもり?よく命令できるな。こんなことになるなら、子供なんていらなかった」
その言葉に思わず絶句する。私たちは2人とも子供を望んでいて、妊娠を報告した時は順夜も喜んでいた。そんな彼だからこそ、今後もうまくやっていけると思っていたのに。
「もういい。順夜の考えは分かった。後で付ける。私がすればいいのね」
私は順夜に頼らないと決め、無理やり体を起こした。その間、彼は不機嫌そうに顔を顰めていたが、スマホを確認した途端、表情を明るくする。
当時の順夜は、家にいる間ずっと誰かと連絡を取り合っているようだった。スマホを片時も離さず、通知が来たら即座に返信する。私はそんな彼を見て、嫌な予感がした。
それから数日後のことだ。順夜が入浴している最中、彼のスマホが震えた。ふと視線を移した途端、目を疑う。画面に表示されていたのはとあるメッセージの通知。その文面にはハートの絵文字がついていた。
「早く順夜に会いたいな。来週仕事終わりにまたご飯行こう。望みにはうまく言い訳してね」
恐る恐る確認すると、送り主は歯科風華。彼女は私と順夜の同期だ。風華は大学卒業後に入社したため、年齢は2つ下。目鼻立ちが整っており、男性の同僚からも人気があるタイプ。最近順夜が連絡を取り合っていた相手は風華だったようだ。
帰宅が遅くなったのも、彼女と食事に出かけているからかもしれない。でも、食べて帰ってきているなら、なぜ夕食がないことに怒っていたのか。おそらく風華と食事に行っていることを隠し通すためだろう。
ふつふつと怒りが湧いてくる。私は順夜をすぐ問い詰めた。
「ねえ、風華とご飯行ってるの?」
「え?急に何を言って?」
彼はたちまち顔を真っ赤にする。その反応からして、やはり風華との関係はバレたくなかったようだ。順夜は慌ててスマホを手に取り、メッセージを確認する。
「違うんだよ。風華がたまたまご飯に誘ってくれてさ、色々と相談に乗ってもらってて」
「今回だけ誘われたわけじゃないでしょ。以前から頻繁に行ってたのよね。帰りが遅かったのは風華と一緒にいたから」
どんどん彼の声が小さくなっていく。弁解することもできず、順夜は小声で謝罪の言葉を口にした。
「ごめん。風華と食事に行ってたのは事実だ。俺、ずっと悩んでて」
「つまり風華と不倫しているってこと。彼女とそういう関係なのよね」
「それは誤解だ。風華とはただご飯に行っただけ。仲のいい同期であって、彼女とは付き合ってもない」
そう言われても、同僚にわざわざハートの絵文字なんてつけるだろうか。本当に食事に行っているだけなら、私に内緒にする理由もない。
「悪いけど信じられないわ。今までのやり取り見せてくれる?きっと過去のメッセージを見れば事実が分かる」
私は順夜にスマホを渡すよう要求した。彼は一瞬顔を強張らせたものの、おとなしく差し出す。
「見てもいいけど、本当に不倫じゃない。いくらなんでも望みを裏切ったりしないから」
黙って、私は会話を遮り、くまなくチェックした。だが順夜の言う通り、確かに2人は食事の約束しかしていない。週に3、4回という頻度の多さが気になるものの、不倫だと断言するのは難しかった。
「これだけじゃまだ白か黒か確定できない。食事に行くふりして別の場所に2人で向かってた可能性もあるわよね」
順夜の帰宅の遅さからして、食事だけしているとは思えない。疑いの目を向けると、彼はクレジットカードの明細を見せてきた。
「これ全部食事代。確認したら分かると思うけど、他にお金を使ってないだろう。俺は断言する。不倫はしてない。本当に飯を食ってただけなんだ」
「毎月こんなにも支払ってたの?」
「ごめん。望みに黙って風華と飯に行ってたことは謝る。疑われても仕方ないけど、本当に不倫じゃない。信じてくれ」
証拠を手に、自分は無実だと訴え続ける順夜。夜遅くに会っていたことが引っかかるものの、この状況で彼が裏切ったと決めつけるのはさすがに酷だろう。
「分かった。不倫してないことは信じる。だけど、なんで隠れてご飯なんて行ってたの?私が悪阻でしんどい思いしてるのに」
不倫ではなかったとしても、順夜が私を軽んじたのは事実だ。何より、風華と2人で会っていることを隠すために「飯くらい作れ」と激怒した理不尽さに腹が煮えくり返る。
「本当は夕食がなくても困らなかったんでしょ。私に当たり散らしてストレス発散でもしてた」
「ごめん。望みが家事をしてくれなくてイライラしてた。悪阻でしんどいこと、全く理解してなかったんだ。その悩みを風華が聞いてくれて」
順夜は、妊娠後、私が急に冷たくなったと感じ、悩んでいたらしい。そんな中、風華が声をかけてくれたという。
「話くらい聞くよって言われて、食事に行って。俺、風華の優しさに甘えてたんだ。その結果、望みのことまで傷つけてしまった」
「食事に行くだけなら、行ってくれたら良かったじゃない。そもそも私に直接相談するべきじゃん」
「だって望みは、話もできる状況じゃなかっただろう。吐くことも多かったし。望みの方が辛い思いをしているわけだし。内心分かってたんだよ。俺が悩んでる場合じゃないって」
順夜は私に相談できず、風華を頼ったそうだ。彼なりに気を使った結果かもしれない。しかし、妻がいながら他の女性と2人きりで食事に行き、それを隠すなんておかしい。とりわけ私は「子供なんていらなかった」という発言が許せなかった。
「どれだけ順夜が悩んでいようと、『子供なんていらない』ってよく口にできたわよね。順夜は結局のところ、自分のことしか考えてなかったの」
妊娠後に冷たくなったのは順夜の方だ。彼は家事をやらない私に苛立っただけ。その怒りの矛先を、あろうことかお腹にいる子供に向けたのだ。到底許せない。
今回は不倫ではなかったかもしれない。だけど、順夜のことを信じられない自分がいる。今後もまた同じようなことがあるんじゃないかって。
「本当にごめん。俺が全部悪かった。でもあれは本心じゃない。ついゴロゴロする望みに苛立って八つ当たりしただけ。分かってくれよ」
順夜は深々と頭を下げ、懸命に謝罪する。彼自身、反省はしているらしい。
「俺がもっと望みに寄り添わなくちゃいけなかったよな。風華と食事に行く暇があるなら、さっさと帰ってくるべきだった。今更それに気づいたんだ」
「分かってくれてよかった。だけど、もう落ち着いて。俺、これからは改心してもう望みを傷つけない。疑われるようなことはしないし、ご飯も作る。だからチャンスをください」
順夜は私が離婚する気でいると察したのだろう。実際、別れるなら子供が生まれる前がいい。そう思ったが、彼は意地でも別れたくないという。
「望みと子供のために頑張るから、お願いします」
目に涙をため、必死に懇願する順夜。私は迷いながらも、離婚はひとまずやめることにした。子供には父親がいた方がいいし、何より私は現在無職。順夜が家族のために仕事を頑張っていたのは事実だ。1度くらいはチャンスを与えるべきだろう。
「順夜の気持ちは分かった。ただ、次また裏切ったら終わりだからね。その時は絶対に離婚するから」
「もちろん、もう絶対に2人を裏切らない。今までごめん。俺、生まれ変わるよ」
すると翌日、夜に話を聞いたのか、風華から謝罪の連絡があった。
「望みさん、ごめんね。私のせいで誤解させちゃったんでしょ」
彼女曰く、順夜は自分が父親になることに不安を抱いていたという。
「しっかりしてる望みさんを見てたら、順夜は自信がなくなっちゃったみたい。だけど、そんなこと望みさんに話せないからって、私が聞き役をしてたの」
「そう。じゃあ順夜とは特別な関係ではなかったってこと?」
「もちろん、望みさんが奥さんだって知ってるのに、順夜と関係を持つわけないじゃん。だから安心して。今後は誤解を与えるような行動は控えるからね」
風華はそう弁明したが、未だに不審感が拭えない。なんせ彼女は男性社員には好かれているものの、女性社員からの評判は悪かったのだ。自分の容姿を武器にして上司に擦り寄っているのを何度か見たことがある。おまけに、風華の父親も同じ保険会社に勤務しているからと、彼女は平然と先輩社員に仕事を押し付けていた。
「お父さんに相談しようかな。先輩が私に嫌がらせするんですって」
自分の味方になりそうな同僚以外には冷たかった風華。部署が違っていたため、私は直接被害に遭わなかったが、悪い噂はしょっちゅう聞いていた。
そもそも2人の関係に疑念を抱いた時、ふと思い出したことがあった。実は順夜との結婚を会社で報告した際、同僚みんな祝福してくれたものの、風華だけが妙な反応だったのだ。
「望みさん、おめでとう。2人が付き合ってたなんてびっくりしたよ。望みさんならきっと順夜と幸せな家庭を築けるね」
彼女は笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。妊娠を機に退職する際も、同じような表情だった気がする。
「望みさんがいなくなっちゃうの寂しいな。じゃあこれからは望みさんの分まで仕事頑張ろうね」
彼女は口元を緩め、私の隣に立っていた順夜に声をかけた。
「順夜、どうしたの?」
「ああ、いや、なんでもないよ。風華の言う通りだなって実感してただけ。望みの分まで俺が働かなくちゃいけないなって」
今思えば、彼はあの時目をそらし、気まずそうにしていた。当時は深く考えなかったものの、あの頃から2人の間には何かあったのかもしれない。そんなことを思い出して、ますます疑わしくなる。
しかし、順夜にもう1度だけチャンスを与えると決めたのは私だ。2人の関係にはしばらく触れないでおこう。そう考え、私はまどかを出産後、家族3人での生活を始めた。
すると、まどかが生まれてから順夜は完全に心を入れ替える。彼は家事をできる限り手伝い、育児にも積極的に参加した。
「まどか、今日は天気もいいし公園にでも行こうか。望み、家でゆっくりしてていいよ」
「1人で大丈夫?」
「もちろん。今日は休んでて。夕食も俺が作るからさ」
かつての順夜とはまるで別人のようだ。彼なりに父親になろうと頑張っているのだろう。そんな順夜の支えもあり、すくすくと成長したまどか。子煩悩な父親だからこそ、まどかは順夜にも懐いている。彼はきっと信頼を取り戻したと思っているに違いない。不倫疑惑のことなど、私はとっくに忘れたと考えているのではないか。
その油断からか、順夜の様子が最近またおかしくなった。彼の帰宅がやけに遅くなったのだ。
「今週も土日仕事に出なくちゃいけないわ。家事手伝えなくてごめんな」
順夜がキャリアアップして仕事量が増えたことは理解している。それにしても残業の頻度が多い。休日出勤も増え、まどかも寂しがるようになった。
「パパ、今日もお仕事なの?来週一緒に動物園行こうねって約束してたのに」
出勤する順夜を見送った後、彼女が小さく呟く。まどかは彼とのお出かけを心待ちにしていた。来週は必ず休みを取ると順夜も言っていたのに。
「まどか、ママと2人で出かけようか。パパ、ちょっとお仕事で忙しいみたいだし」
「そうだね」
悲しげに笑うまどかを見て、胸が締めつけられた。仕事だから仕方ないと我慢しているのだろう。最近、順夜はまどかとの約束をよく反故にする。
「どうしてパパ、まどかとの約束守ってくれないの?まどかのこと嫌いになっちゃった?」
「そんなわけないだろう。まどか、ごめんな。分かってくれ。パパはまどかたちのために頑張ってるんだ。遊びに行ってるわけじゃないしな」
まどかに問いかけられても、彼が悪びれることはない。仕事だからという理由であれば断ってもいいと思っているようだった。さすがにかわいそうだからと、私も何度か注意している。しかし順夜は呆れたように笑うだけ。
「俺がいない時は望みがまどかを構ってやれよ。こっちだって本当は休みたいけど、しぶしぶ仕事に出てるんだぞ」
「それは理解してる。ただ、守れない約束をしないで欲しいの。来週再来週の予定が分からないなら、まどかに期待させないで」
「しょうがないだろう。急遽仕事が入ることだってあるんだから。慰めるのは望みの役目ってことでよろしく」
一向に悪びれない彼に、思わず頭を抱える。順夜は最近まどかに冷たい。宿題を見てあげなくなり、話しかけられても適当に流すことが増えた。
「パパ、今仕事の人と連絡してるから、ママと遊んで」
「うん」
その度に泣きそうな顔をするまどか。私は仕事を調整してでも彼女との時間を確保して欲しいと伝えた。だが順夜は首を横に振る。
「仕事を調整したら給料が減るんだぞ。まどかが将来進学するとなれば、お金が必要だ。俺はそのために今頑張ってるんだから、妻として支えてくれよ」
「順夜の考えも分かるけど、私だって働いてる。夫婦2人で貯金すれば、順夜が仕事量を減らしても大丈夫なはずよ。将来も大事だけど、今のまどかの気持ちをもっと優先してあげて」
「望みはただのパートじゃん。俺の稼ぎがメインなのに、共働きだって偉そうにしないでよ」
その言葉に、私は何も言えなくなった。家計を支えているのは紛れもなく順夜だ。私も働いているとはいえ、彼の稼ぎがなければ生活は厳しいだろう。
「俺が学費のためにお金を貯めるから、望みはまどかの面倒を見てやってくれ。まどかが寂しい思いをしたら、それは望みのせいだからな」
「分かったわ」
まどかはあくまでも順夜と過ごす時間が短いことを悲しんでいる。それは私1人では埋められない穴だ。順夜には父親としてもう少しまどかと接してほしい。そう伝えているのに、彼は理解してくれなかった。ただ、収入について触れられると強く出れない自分がもどかしい。私が正社員になれば、順夜も少しはまどかとの時間を作ってくれるだろうか。そんなことを考えながら夕食を作っていた時。
「ママ、どうしたの?」
まどかが心配そうにこちらを見た。彼女を不安にさせてはならないと、慌てて笑顔を作る。
「ごめん。なんでもないよ」
「本当?最近のママ、変だよね。パパがお家にいないから」
「うん、大丈夫。ママは元気だよ。まどかがいるから」
今、寂しい思いをしているのはまどかだ。私は彼女の頭をそっと撫でた。
「心配かけちゃった。ごめんね」
「まどかもね、ママがいるから元気だよ。だから安心してね」
まどかがにっこりと微笑む。私は彼女のためにも暗いことは考えないと心に決めた。順夜はただ仕事で成果を出すために頑張っているだけ。彼はちゃんと反省して、娘思いの父親になったのだ。家族を裏切るような真似はもう2度としないはず。そう思い込み、なるべく前を向くことにした。
まどかも私に釣られてか、以前より表情が明るくなった。
それから2週間後の日曜日、順夜は珍しくまどかとの約束を守った。
「最近お仕事ばっかでごめんな。今日は休みだから、3人でお買い物でも行こうか。約束破っちゃった分、まどかの欲しいもの買ってあげるよ」
「本当?ありがとう」
目をキラキラと輝かせるまどか。私たちは3人でショッピングモールへと出かけた。
「シールみたい。あとね、おもちゃもいいよ」
「1個ずつ見に行こうな」
順夜と手をつなぎ、まどかが嬉しそうに笑う。彼女がこんなにはしゃぐのは久しぶりだ。それだけ順夜と一緒にいたかったのだろう。私は幸せそうな2人を見て、ふと目を細めた。その時だった。
「あれ?順夜と望みさんじゃん」
聞き慣れた声がして振り返る。そこにいたのは風華だった。彼女も買い物に来ていたらしい。
「久しぶりね。元気だった?」
「仕事は忙しいけど、なんとか元気だよ。今日は3人で買い物。仲がいいね」
「ママ、誰?」
まどかがきょとんとした顔で風華を見つめる。
「パパの会社の人だよ。ほら、まどか、ご挨拶して」
「まどかちゃん、こんにちは。可愛いね。私、パパにはいつもお世話になってるんだ。ママとも昔一緒に働いたことがあるんだよ」
風華はまどかと視線を合わせ、にこやかに話しかける。その姿を眺めていた時、隣にいる順夜の様子がおかしいことに気がついた。彼は苦笑いを浮かべ、妙に戸惑っていたのだ。
「いや、まさかここで風華と会うとは思わなかったよ。お前も買い物?」
「そう、そう。ちょっと見たいものがあってさ」
「へえ」
どことなく気まずそうで、風華と目も合わせない。以前不倫疑惑が浮上した相手だからだろうか。私の前で風華と話すのは居心地が悪いのかもしれない。それにしても順夜の挙動は不自然に感じた。
「順夜、どうしたの?」
思わず問いかけようとしたその瞬間、ポケットに入れていたスマホが震える。
「あ、電話だ」
「出ていいよ。この辺り人混みで騒がしいから、ちょっと離れた方がいい気がする」
「分かった。まどか、しばらくパパと待っててね」
私はまどかに声をかけ、風華を離れて通話ボタンを押した。それから20分後、2人の元に戻ると、すでに風華は去っていた。
「お待たせ。まどか、どうしたの?」
近づいた瞬間、はっとする。なぜかまどかの表情が暗かったのだ。先ほどまで順夜に笑いかけていたのに、俯いて口数も少ない。
「まどか、何かあった?欲しかったもの見つからなかったの?」
「うん」
「順夜、どうしたの?まどか体調が悪いとか?」
まどかに聞いても答えてくれないので、順夜に視線を送る。しかし彼も首をかしげた。
「分からないんだよ。急に元気がなくなっちゃって」
結局その日1日、まどかはずっと浮かない顔をしていた。彼女が理由もなく落ち込むわけがない。翌日、私は2人きりの時に改めて尋ねた。
「まどか、昨日何かあったの?あんなにパパとのお出かけ楽しそうにしてたでしょ?もしも悲しいことがあったなら、教えて欲しい」
するとまどかがゆっくりと口を開く。
「パパには言わないでくれる?」
「もちろん、黙っておくわ」
「昨日お姉さんに会ったでしょ?あの人に言われたの。パパにはママやまどか以外に大切な人がいるって」
「え?」
昨日のお姉さんとは風華のことだ。私は自然と身を乗り出していた。
「どういうこと?あの人がそんなことを言ったの?」
「うん。えっとね」
まどかの話によると、私が電話で離れていた時、風華が「まどかちゃんのパパにはね、家族よりも大切な人がいるの。あなたが生まれるよりも前からね」と告げたという。順夜は急いで会話を遮り、まどかを口止めしたらしい。
「ママには言わないってパパと約束したの。だけど、なんだか不思議で。あのお姉さん、パパと仲良しなんだね」
「一緒に働いてるから、仲が悪いわけではないと思う」
「パパの大切な人って、じゃあバーバのこと?」
確かに義母も順夜にとって大切な人だろう。「まどかが生まれる前から大切だった」という言葉に当てはまりはする。ただ、わざわざまどかに伝えるようなことではない。それに順夜が口止めしたということは、私にバレたくなかったからだ。
「あのお姉さんが言ってたことは忘れていいわよ。きっと冗談か何かだと思うから」
「分かった」
納得しない様子ながらも、まどかが小さく頷く。私は胸騒ぎを覚えた。実は昨日の電話の主は、保険会社時代に仲が良かった後輩だった。彼女は最近良くない噂を耳にして、私に伝えようと連絡をくれた。なんと順夜と風華が不倫をしているのではないかと、社内で囁かれているそうだ。彼らはやけに親密で、部署が違うのに一緒にいるのをよく見るのだとか。
2人は同期だから、社内で顔を合わせたら話す仲なのかもしれない。でも、教えてくれてありがとう。妊娠していた時のことがフラッシュバックする。あれはやっぱり不倫だったのではないか。今回こそ白黒はっきりさせないといけない。
「まどか、パパに内緒にしておくように言われてたのに、教えてくれてありがとう。パパとの約束破らせてごめんね」
一通り話を聞いた後、私はまどかに謝罪した。だが彼女は安堵したような表情を浮かべる。
「ママに内緒にするの、なんだか嫌だったから言えてよかった。聞いてくれてありがとう」
「まどか、これからも悲しいことがあったら相談してね。ママはいつだってまどかの味方だから」
どんな理由であれ、まどかを不安にさせたことも許せない。私は順夜について徹底的に調べようと決心した。しかし、彼の不倫が発覚した時、本当に離婚してもいいのだろうか。まどかは順夜のことが好きだ。家族3人一緒の方が、彼女だって嬉しいに決まっている。順夜もきっとそれを理解しているはずだ。私は一度の望みにかけ、彼が家族を裏切っていないことを信じていた。
それから2ヶ月後、迎えた順夜の誕生日。今年は土曜日だったこともあり、まどかは朝早くから張り切っていた。
「今日はママと一緒に晩御飯作るね」
「まどかもお手伝いするのか。偉いな。ありがとう」
「だからパパ、早く帰ってきてね」
しかしその日も仕事。まどかは寂しいのか、彼のジャケットの裾を引っ張った。そんな彼女を見て順夜が目を細める。
「今日はなるべく早く帰るよ。まどかとママのご飯楽しみだから」
「本当?待ってるからね。約束」
彼はまどかと指切りげんまんをして家を出ていった。今まで何度も約束を破られてきた手前、安心はできないものの、順夜も父親だ。自分のために頑張る娘の気持ちを無碍にはできないだろう。
「それじゃあ、お買い物に行こうか」
その後、私はまどかと共にスーパーで食材を購入し、予約していたケーキも取りに行った。あとは順夜の好物であるハンバーグを作るだけ。まどかは小さい手で種をこねながら笑った。
「今日は3人でご飯食べれるね」
「そうよ。美味しいハンバーグ作って、パパを驚かせないと」
嬉しそうなまどかを見ていると、私までつい頬が緩む。ただ、形成してそろそろ焼こうというタイミングで、私のスマホが鳴った。画面に表示されていたのは順夜の名前。確認した瞬間、嫌な予感がする。時刻は午後5時。順夜は朝の段階では午後6時頃には帰れると言っていた。もうすぐ出るという連絡だと信じて、恐る恐るスマホを手に取る。
「もしもし。どうしたの?」
「仕事で遅くなる。先に食べてて」
開口一番、順夜は焦ったような声を出す。なんとなく察していたものの、ため息が漏れた。
「どういうこと?今日は早く帰れるって言ってたわよね。まどかと一緒にハンバーグ作ってるのに」
「いや、俺も早く帰れると思ってたんだけど、ちょっと仕事でトラブルが発生してさ」
どうやら後輩が顧客を怒らせてしまい、今から謝罪に行くという。順夜も先輩として同行するらしい。顧客のため、後輩だけ行かせるわけにはいかないらしい。
「悪いな。まどかには望みから事情を説明しておいてくれ」
「そう言われても、電話変わろうか。まどかのためにも、順夜の口から説明すべきじゃん」
「なんでだよ。パパが謝ってたって伝えておけばいいじゃん。俺も明日ゆっくりまどかに謝罪するし」
「順夜は約束を破ったんだから、ちゃんと今謝らなくちゃ。まどかが今日をどれだけ楽しみにしてたか」
すると私の声を遮って、順夜が語気を強める。
「こっちは今大変なんだよ。まどかに謝罪する暇とかないから。俺は仕事してるんだぞ。それくらいわかるよな。だけど、わざわざ電話してやっただけでも感謝して欲しいくらいだよ。もういい。俺、今すぐ会社を出なくちゃいけないから」
喧嘩腰の彼に戸惑う中、こちらを見つめるまどかと目が合う。彼女の瞳は揺れ、不安そうな顔をしていた。いくら電話越しでも、まどかの前で言い争いなどしたくない。
「分かった。まどかには私から説明しておくわ」
「最初からそう言えばいいのに。俺の晩飯は冷蔵庫にでも入れておいて。じゃあな」
私は通話を終えるべくボタンを押した。だがその直後、一瞬女性の声が聞こえる。
「順夜、早く開けてよ」
聞き間違いかと思ったが、確かに今、女性が順夜に話しかけていた。しかもプレゼントと言った。順夜の誕生日なのだから、彼も職場でちょっとしたプレゼントをもらう可能性はある。しかし順夜は今から客に謝罪しに行くと言っていた。トラブルが発生している最中、そんな悠長なことはしていられないだろう。何より気になるのは、聞こえてきた声が風華のものだったこと。先日ショッピングモールで遭遇した時と同じだった。絶対に聞き間違いではない。
「ママ、パパからの電話だったんだよね。パパ、何を言ってたの?」
まどかがそっと私の元へと歩み寄り、おずおずと問いかける。彼女の悲しげな表情に胸が締めつけられた。
「まどか、ごめんね。パパ、仕事で帰りが遅くなるみたい。だから今日はママと2人でハンバーグ食べよう」
「そっか」
まどかは肩を落とし、わがままを言うでもなく静かに落ち込む。私にはどうすることもできないが、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
夕食にハンバーグを口にしても、彼女の表情は晴れないまま。
「やっぱりパパには、ママやまどかより大切な人がいるのかな」
「まどか、違うの。パパは仕事で」
「でもパパ、約束守ってくれない。まどかが悪い子だから?」
まどかは今でも風華に言われた言葉が胸に突き刺さっているのだろう。
「ごめんね、まどか」
「うん。ママは悪くない。一緒にハンバーグ作れて楽しかったもん。ママのハンバーグ大好き」
これ以上まどかに辛い思いをさせたくない。彼女のために我慢するつもりだったが、もう限界だ。私は順夜のハンバーグをラップして冷蔵庫に入れた。彼がこれを食べることはもうないのかもしれない。そしてまどかが寝室に向かった後、私はリビングで1人、今後のことを考えた。準備はすでに整っている。あとは私の気持ち次第。帰宅した順夜と対面して、どうするか決めよう。
それから4時間が経った12時過ぎ、玄関に物音がした。順夜はリビングに入ってきた途端、目を見開く。
「なんだ?まだ起きてたの?俺、遅くなるって言ったよな」
彼は顔が真っ赤で、足元がおぼつかない。どうやら酒を飲んできたらしい。
「お帰り。トラブルは解決したの?」
「当たり前だろ。俺が言ったら、お客さんすぐ機嫌が治ったよ。悪かったな。ちゃんとまどかに事情を伝えたのか」
「ええ、ショックを受けてたけどね」
そう伝えるや、彼はむすっと顔を顰める。
「なんだよ、その言い方。まるで俺が悪いみたいに。こっちは家族のために一生懸命働いてるんだ。まともに稼いでない望みが偉そうな口を聞くな」
酒の勢いもあってか、順夜は普段よりも言葉が荒い。彼は苛立ちを顕わにしつつジャケットを脱ぐ。そして手を首にやり、閉めていたネクタイを緩めた。
「今までありがとう」
「え?」
発言の真意が分からないのか、順夜が不思議そうな顔をする。私が気づかないとでも思っているのだろうか。つくづく舐められているらしい。
「そのネクタイは何?私、見覚えがないんだけど」
私は冷静を装い、順夜のネクタイを指さした。彼は自身の首元に目をやり、立ち竦み始める。
「あ、えっと、これは今朝つけていったものとは別で」
「どうしてネクタイを変えたの?そもそもそんなもの持ってなかったはずよね」
毎朝、私は順夜がその日着るスーツやシャツ、ネクタイを準備している。保険会社を退職した時、彼に頼まれたのだ。
「俺、朝が苦手で毎回バタバタするんだ。だから着るものだけまとめてくれない?」
「いいけど」
スーツをクリーニングに持っていくのも、シャツにアイロンをかけるのも私。それらを所定の位置にかけておくだけの簡単な作業だ。お願いされた時も、大して難しいことではないからと引き受けた。順夜はそれを気にも止めず、毎日着用している。だから、自分がどんなネクタイを締めたかなんて覚えていないのだろう。
「今日は順夜の誕生日だったから、5年前にプレゼントしたネクタイを用意してたのよ。ほら、ネイビーで小さめのドット柄の」
「そうだったっけ?望みが勘違いしてるんじゃないか。俺は今朝からこれを締めてる。間違えるわけないじゃない」
「私が順夜にあげたものだもの。そのネクタイは一体どこで手に入れたの?やけに綺麗だけど」
今順夜が締めているネクタイは初めて見るものだった。グリーンで細めのストライプ柄。しかも値札があり、シワが一切見当たらない。おそらく新品だろう。
「もしかしてもらったものかしら?結構いいブランドのネクタイだし。そんなの順夜が自分で購入するとは思えないわね」
順夜はスーツにはこだわりがあるものの、ネクタイは比較的安価なものを選びがちだ。だからこそ、いいネクタイを1つは持って欲しいと思い、5年前にプレゼントした。それを外してまで新品を締めているのには、きっと理由がある。
「ほら、そのネクタイどうしたの?言えない?」
「いや、これはたまたま会社にあって」
「じゃあ、他の社員のものを盗んだってこと?最低ね。今すぐ持ち主に返さないと。今日出勤してた人に連絡取って確認してみたら」
「違う。盗んだわけじゃなくて、俺の机にあったんだよ」
順夜は酔ってることもあって頭が働かないのだろう。言葉をつまらせながら下手な言い訳を繰り返す。
「机にあったから、てっきり俺へのプレゼントかと思って」
「プレゼントかどうかなんて分かりっこないじゃない。間違えて誰かが置いた可能性だってあるでしょ。それを勝手につけたってこと?」
「違うってば。とにかく俺は」
「もう正直に言いなさいよ。風華にもらったんでしょ。知ってるんだから、隠しても無駄」
順夜の話に付き合うのも面倒になり、私は事実を突きつけた。途端に彼は目を丸くする。
「なんで望みが知ってるんだよ。俺、風華のことなんて1度も言ってないのに」
「バレてないと思ってたのね。呆れた。2人の関係なんてとっくに調べてるし、証拠だってあるのよ」
私は準備していた写真を机に並べた。そのどれもに順夜と風華が映っている。2人は腕を組み、中には顔を寄せ合い、昼間堂々とベタベタしている写真まであった。
「俺のこと調査してたのか」
呆然としたまま写真を凝視する順夜。実はまどかから話を聞いた後、興信所に依頼して順夜と風華を調べてもらったのだ。結果、2人は不倫をしていた。順夜の帰りがここ最近遅くなったのも、全部風華と会っていたからだった。
「仕事終わりに毎回社外で待ち合わせて、出かけてたのよね。前回は食事だけだって言い張ってたけど、今回はそうじゃないって分かってるから」
2人は食事後、休憩して愛を育んでいたのだろう。ホテルに通っていることもすでに把握済みだ。今日も風華と会っていたに違いない。
「今日、実は後輩に連絡を取ったのよ。ほら、私が務めてた時、仲良かった子がいたでしょ」
その後輩とは、先日ショッピングモールにいた際連絡をくれた人物だ。彼女曰く、今日出社していた社員の中に順夜がいなかったという。
「あの子、今日出勤してたのよ。でも順夜は来てなかったし、トラブルも起きてなかったって」
ちなみに風華も出勤していなかったそうだ。順夜はどうせ誕生日だからと、彼女と2人でデートにでも行っていたのだろう。そして風華からプレゼントをもらった。彼女が「今すぐつけて」と言って、ネクタイを交換させたのかもしれない。憶測ではあるが、大方当たっていたらしい。
「お前、わざわざ社員にまで連絡したのか。風華のことまで確認しやがって。そこまでして俺を疑うなんて、性格悪いぞ」
順夜は激しく罵倒して私を攻め立てる。彼が今つけているネクタイは、確か風華が好きなブランドだ。自分の好みを押し付けているのも彼女らしい。
「風華と2人で過ごす時間は楽しかった?そもそも疑われるようなことをしたのは、あなたよね」
「知ってる?順夜と風華の関係、社内で噂になってるって」
後輩から聞いた話を順夜は知らなかったようだ。私が一部始終を説明すると、彼は見るみるうちに顔を青白くする。
「そんなの、俺はあくまでも仲のいい同期と話してただけだ。勝手に噂話を広めた同僚に問題があるだろう。俺は不倫なんて実際してたじゃない」
「みんな気づいてたの。バレてないと思ってたのは、順夜と風華だけ」
周りに隠し通せていると思っていたなんて、2人はどこまで愚かなのか。思わず苦笑すると、順夜が目を吊り上げる。
「ふざけるな。こんな盗撮みたいなことをしやがって。わざわざ気づかれないよう毎回社外で会ってたんだぞ。付け回されたこっちの身にもなれよ」
もう騙せないと悟ったのか、彼は開き直って不倫を認めた。風華とは1年ほど前から交際が始まったらしい。今日も彼女と会い、1日一緒にいたそうだ。ただ、どこまで本当かわからないが、私の妊娠中は不倫していなかったという。
「あの時は風華に言い寄られたんだ。でも俺は望みを裏切りたくなくて、関係を持たなかった。だけど、望みはずっと疑ってたんだな」
「信用してたわよ。だけど裏切ったのは順夜の方でしょ。不倫してたくせに、よく被害者面できるわね」
「だって俺が被害者じゃん。本当は裏切りたくなかった。だけど望みは全然俺に優しくない。家事をやっても感謝されないし、金だけ取られて」
「え、感謝してたけど」
順夜が家事を手伝ってくれていた時期、私は毎回感謝を伝えていた。その方がまどかの教育にもいいと思ったし、実際ありがたかったからだ。しかし私の気持ちは順夜には届いてなかったらしい。
「俺は仕事しながら家事を手伝ってやってたんだぞ。だけどお前は『ありがとう』の一言しか言わなかった。本来なら家事なんて望みが全部するべきなのに」
「家事のことは分かった。こっちの伝え方も悪かったのかもしれない。でも順夜のお金を取ったことはないわよね」
以前は生活費の大半が順夜の稼ぎから引かれていた。だが私も仕事を始めたため、現在は1/3ほど出している。うちはお小遣い制度ではないので、生活費以外のお金の使い道は順夜の自由だ。取った覚えはない。そう説明するも、順夜は眉を潜めた。
「生活費がまず均等じゃないことがおかしいだろう。望みも働いてるんだから、半分は出すべきだ」
「いや、収入が違うんだから均等は無理よ。そもそも2人でちゃんと話し合って決めたことなのに、なぜ今になって文句を言うの?不満があったなら先に伝えるべきじゃん」
「どうせ生活費の均等を求めたら、家事をやれって言うんだろ。それが分かってたから嫌だったんだよ。望みは自分の意見ばかり。俺の話はろくに聞いてくれない」
彼は被害者面して私を攻め立てるが、正直納得しない。私は順夜から相談されたら、何事も真剣に聞いている。適当に流したことなどない。あくまでも2人で話し合いを重ね、お互い納得できる答えを出してきた。ただ順夜はそれが気に食わないそうだ。
「俺の方が稼ぎが多いんだから、望みはこっちの言うことを聞くべきなんだよ。それなのに反論ばかりで俺をないがしろにして。そんなやつ、大切にできると思う?不倫されて当然だ」
シラフであれば、順夜ももう少し冷静に話し合いに応じてくれたかもしれない。だが今の彼の言葉こそ本心なのだろう。順夜は私を裏切ったことに、微塵も罪悪感を抱いていないようだ。それどころか、彼は私を見て鼻で笑う。
「もしかして離婚を考えてるとか言わないだろうな。望みは自分の立場分かってる?パートだよ。まともな稼ぎもないのに。離婚したら、まどかの親権は俺が取るから」
不倫しておいて。順夜は離婚する気ないってこと。私はてっきり風華と結婚するつもりだと思っていた。しかし今の発言からして、離婚はしたくないらしい。まどかを人質にとって、私を縛りつけようとしている。
「私のことが嫌いなくせに、婚姻関係を続けてどうするのよ」
思わず問いかけると、順夜は口元を緩めた。
「分かってないな。まどかのために我慢してやるって言ってんだよ。両親が離婚したら、まどかがかわいそうだろう」
「離婚されるようなことをしておいて、どうして順夜が偉そうなの?あなたが不倫なんてしなければ、私は離婚を考えることはなかった」
順夜は私とまどかを裏切った。
「うるさい」
彼は声を荒らげ、私の発言を拒む。ろくに話を聞いてくれないのは順夜の方だ。私はもう彼との生活に終止符を打つと決めた。これ以上話し合ったところで解決しない。
「順夜、今すぐ書いてくれる」
私は準備していた離婚届を机に置いた。順夜は顔を強張らせる。
「これ、望み、離婚するの?まどかと会えなくなってもいいのかよ」
「何言ってるの?まどかは私が育てるわ。順夜に親権を渡すわけないじゃない」
「はあ」
一瞬驚いていたものの、彼はプッと吹き出した。私が親権を取るなんて無理だと決めつけているらしい。
「いくら母親の方が強いとはいえ、望みの稼ぎじゃまどかが苦労するって。好きなもの食べられなくなるよ、とか言えば、まどかは絶対に俺の方に来るよ」
「あなたはまどかのこと何も分かってない。そんなんで釣られるはずがないでしょ。安心してちょうだい。私もまどかには好きな食べ物食べさせてあげられるから」
「パートのくせに何を言って?」
順夜が勢いよく立ち上がり、私をきつく睨みつける。そんな彼を静かに見つめ返した。
「私ね、正社員になったの」
「え?」
「順夜も知ってるでしょ。ほら、私ずっと社労士試験の勉強してたじゃない。それがね、受かったの」
私の言葉に順夜は茫然とする。実は先月、私は社労士を取得したのだ。目指したきっかけは、やはり社労士事務所で働いていたことだろう。正社員として働けば、順夜も苦労せずに済む。家族3人で過ごす時間が増えるのではないかと思い、勉強を始めた。もちろん簡単な試験ではないため、挫折しそうになったこともある。だが職場の上司にも支えられ、どうにか続けてこれた。実務を学びながら勉強ができたことも大きかった。これまで4年間ほど地道にコツコツ頑張ってきた結果だ。
「なんだよ、それ。もっと早く言えばよかったじゃん」
「言いたかったけど、順夜は帰りが遅かったでしょ。だから伝えるタイミングがなかったのよ」
ただ、合格してすぐ順夜の不倫が発覚した。資格を取っておいてよかったと今は思う。そのおかげで、私は正社員の仕事が決まったのだから。
「来月から今の職場である社労士事務所で、正社員として雇ってもらえることになったの。だから順夜と離婚しても、まどかのこと育てられるから」
別れた後のお金の心配はなくなった。それ故、私は離婚に踏み切ることができたのだ。順夜は事実を知ると激しく動揺する。
「待ってくれ。俺も興奮していて、まだ状況を理解できてなかったんだ。まさか望みが社労士になってたなんて」
「だから何?順夜が不倫していたのは紛れもない事実でしょ。あなたは私とまどかを裏切った。だから離婚する」
「俺はまどかを裏切ってない。確かに望みには迷惑かけたけど」
「あなたはまどかとの約束を破って、風華と会ってたわよね。それでも裏切ってないと言い張るの?」
彼が大切にしていたのは、私でもまどかでもない。ずっと風華との時間を優先していたのだ。そんな順夜と一緒にいても、まどかは悲しい思いをするだけ。まどかにはもう、彼のような父親など必要ない。そう伝えても、順夜は反論を続けた。
「一旦落ち着いてくれ。俺がシラフの時に、もう一度話し合おう。まどかだって、俺たちが離婚したら悲しむ。別れるにしても、どっちについて行きたいか聞かなくちゃならないし」
「順夜はまどかを引き取りたいと思ってるの?」
「そりゃそうじゃん。だって俺の大切な娘だよ。まどかのこと、本当に大好きなんだ。それは嘘じゃない。分かってくれ」
大切な存在であるまどかを蔑ろにしてきたくせに、何を言っているのか。都合のいい順夜に呆れるも、確かに彼がシラフの時に話し合った方がいいだろう。私はとりあえず離婚届を引っ込めた。すると順夜が言う。
「そうだ。せめて来週のバーベキューまでは待ってくれよ。2人とも参加することになってただろう。急にキャンセルすると、幹事が困るからな」
実は来週末、保険会社のイベントでバーベキューが開催される予定なのだ。社員間の親睦だけでなく、家族の職場への理解を深めるのが目的で、毎年行われている。今まで参加していなかったものの、今年はまどかが行きたがったため、出席することにした。それを順夜は思い出したらしい。
「参加費も支払ってるし、まどかも楽しみにしてただろう。だからそれが終わった後、ゆっくり話し合おうよ」
参加予定だった家族が来ないとなれば、彼は同僚から怪しまれかねない。まどかのためというのは建前で、順夜は自分の体裁を守りたいだけだ。それを分かった上で、私は彼の提案を受け入れることにした。
「じゃあ、バーベキューだけは参加するわね」
「ありがとう。俺、望みの信頼を取り戻すから」
順夜はバーベキューでかっこいいところを見せれば、やり直せると思っているらしい。彼がそこまで離婚したがらない理由は不明だ。私は複雑な心境ながらも、しばらく順夜を泳がせることにした。
そして迎えたバーベキュー当日。まどかを連れて、私は順夜と共に参加した。
「まどか、今日はパパがいっぱいお肉焼いてあげるからな」
そう声をかけるも、まどかの表情は暗い。順夜は私が余計なことを吹き込んだと思ったのだろう。
「お前にまどかを味方につけるなんて、ずるいだろ」
まどかに聞こえないよう、小声で耳打ちしてきた。だが私は彼女にはまだ離婚についても不倫についても伝えていない。
「何も言ってないわよ。まどかは、彼女を見て怯えているのかもしれない」
「え?ああ」
順夜が私の視線の先に目をやる。そこにいたのは風華だ。彼女は周囲の男性社員に擦り寄り、肉をもらっていた。まどかは風華を見て、先日言われたことを思い出したのだろう。
「まどか、ママと一緒に向こうに行こうか。あっちにママが仲良かったお友達がいるの」
「行く」
私は風華の視界に入らないようにと、仲のいい後輩の元へと向かった。背後から順夜も気まずそうに追いかけてくる。
「待ってくれよ。パパも一緒に」
その時、聞きたくない声が耳に飛び込んできた。
「あ、順夜。望みさん、まどかちゃんもいるのね。こんにちは」
風華が私たちを見つけて駆け寄ってきたのだ。彼女は品定めするかのように、私を頭から爪先までじろじろと見つめる。
「望みさん、元社員だからって気を抜きすぎじゃない?順夜の奥さんなんだし、もうちょっとおしゃれに気をつけないと」
「今日はバーベキューよ。気合い入れるより、動きやすい格好の方が大事だと思うけど」
「分かってないなあ。ねえ、順夜」
風華は順夜の肩に手を置くと、ニコッと笑いかけた。そんな彼女の表情を見て、順夜が声を震わせる。
「風華、離れろって。望み、誤解するなよ。俺はもう彼女とは」
「あ、もしかしてバレた感じ?」
風華がたちまち口元を歪ませた。彼女は今まで私が不倫に気づいていることを知らなかったらしい。私と順夜を交互に見比べ、目を細める。
「順夜がよそよそしくなって変だと思ってたんだ。でも、こうしてバーベキューに来たってことは、仲直りしたんでしょ?」
「いや、それは」
「まどか、行こう」
父親が他の女性といちゃつくところなんて、まどかに見せたくない。私は足早にその場を去ろうとした。順夜は風華を払いのけ、私たちを追いかけようとする。
「望み、待ってくれ。俺はもう裏切らないからな」
「あんな冷たい奥さん、放っておきなよ。子供も可愛くないし」
「まどかのことは言うなよ」
2人のやり取りを見て、まどかの表情が強張る。やはり順夜の提案など断って、さっさと別れるべきだった。長居する理由もないと考え、私はまどかを連れて帰ろうとした。
だが次の瞬間、
「風華、何してるの?」
私たちの背後に、険悪な顔をした1人の男性が立っていることに気がついた。彼は風華を見つめ、眉を潜める。
「その人、営業部だよね。風華」
「やっぱり」
「嘘。なんで修平がここに?」
またたく間に彼女の顔が真っ青になった。そんな風華に視線を送り、困惑する順夜。
「風華、この社員と知り合い?同じ部署だったっけ?」
「違うけど」
その明らかに動揺する彼女に、男性はゆっくりと歩み寄る。
「風華、どういうことかちゃんと説明してくれる?俺、びっくりしてるんだけど」
「ごめんなさい、修平」
ちょうどその時、私の元に後輩がやってきた。そして彼女から男性の正体を聞かされる。男性はなんと風華の彼氏だった。清野修平といい、人事部の社員なのだ。
「そう」
保険会社の社員ならば、彼がここにいてもおかしくない。ただ風華は状況を飲み込めていなかった。
「どうして修平がいるの?バーベキューは欠席するって言ってたよね。こういう場が苦手だって」
修平は彼女に、バーベキューには参加しないと事前に伝えていたらしい。だから風華は平然と順夜に擦り寄っていたのだろう。彼女は慌てて順夜と距離を置くが、もう遅い。
「前々から風華の噂を耳にして、確認しに来たんだ。さすがに嘘だと思ってた。そもそもこんな社員が大勢いる場で、浮気相手と会話するはずがないって」
「噂?何それ?」
「その人が浮気相手でしょう。既婚者と関係を持つなんて最低だね。こんな大っぴらにボディタッチするところも理解できない」
驚く風華に、淡々と事実を告げる修平。どうやら彼は、私が以前後輩から聞いた噂を人づてに知ったらしい。そこで自分の目で確認するべく、風華に黙ってバーベキューに参加したそうだ。幹事には事前に相談済みだ。だから風華は今の今まで、俺が来るとは思ってなかったんでしょ。幹事も風華からの噂を知っていたそうで、修平の事情に理解を示したとのこと。それだけ2人は社内でも常に距離が近かったのだろう。修平は先ほどのやり取りを見て、浮気を確信したようだ。
「がっかりだよ。風華に裏切られたこともショックだけど、何より平気で既婚者に手を出すことに幻滅してる。俺はもう風華とは別れるから」
「待って、修平。これは誤解なの。私はずっと順夜に付きまとわれてて。本当に好きなのは修平だけ」
風華は声を大にして不倫を否定する。そして周囲の視線も気にせず、修平にすがりついた。
「順夜のこと、周りに相談したかった。でも迷惑かけたくなかったの。分かってくれる?私、怖くて」
「何言ってるんだよ。俺が付きまとうわけないだろう。言い寄ってきたのはそっちのくせに」
順夜が激怒し、風華に詰め寄る。彼もまた、社員にどう見られているかなど気にする余裕がないようだった。
「お前のせいで、俺は今離婚の危機に陥ってるんだぞ。そもそも彼氏がいるくせに、俺に交際を持ちかけたなんて」
「意味が分からないことを言わないで。離婚しそうなのは自分のせいじゃん。私は何もしてない。順夜が勝手に口説いてきたんでしょ」
「口説いたのはお前だろ。俺は最初ちゃんと断ったじゃないか」
見苦しい言い争いを始める2人。順夜は風華に恋人がいるとは知らなかったようだ。興信所に調査してもらっていたものの、私も把握していなかった。
「修平は私の婚約者なの。彼とは再来月結婚する予定なんだから」
風華は修平に腕を絡め、愛想を振りまく。だが修平は彼女の腕を振り払った。
「風華との婚約は破棄する。浮気する女と結婚なんてできない」
「浮気じゃないって。順夜が一方的に好意を寄せてきてるだけ。私が好きなのは修平で」
「信じられるわけないだろう。ずっと俺のこと裏切ってたんだから」
彼は風華に冷ややかな視線を送る。彼女は硬直し、何も言えない様子だった。ただ、そんなことよりも私が気がかりなのはまどかだ。父親の醜態なんて、彼女には見せたくない。
私は後輩にまどかを預け、しばらく離れておくよう伝えた。
「ママ、パパと大事な話があるから、お姉さんと待っててね」
「ママは、まどかのこと大切だよね」
まどかが目を潤ませる。順夜の大切な人が自分ではないと知り、ショックを受けているようだ。私は彼女をギュッと抱きしめた。
「ママにとって1番大切なのはまどかだよ。これは一生変わらない。だから安心して」
「うん。ありがとう。まどかもママが一番大切」
そう告げると、まどかは後輩と共に私たちの元を離れた。2人との距離が遠くなったのを確認して、修平に声をかける。
「初めまして。私はそこにいる順夜の妻です。これ、彼と風華の不倫の証拠なんですが」
スマホで画像を保存しておいてよかった。私は2人の不倫現場の写真を修平に見せた。彼は確認するなり、目を見張る。
「ありがとうございます。やはり不倫は事実なんですね」
修平が婚約者ならば、風華に慰謝料を請求できるはずだ。そう思い、私は証拠を提供した。しかし順夜は私の行動が気に食わないようだ。
「余計なことをするな。望みは俺の味方じゃないのか?夫が慰謝料を請求されてもいいのかよ」
彼はこちらに視線を向け、声を上げる。私は順夜が何を言っているのかピンと来なかった。
「味方も何も、私だって順夜と風華に慰謝料を請求するつもりよ。だからどっちかといえば、同じ被害者である清野さんの味方かしら」
「は?お前、待ってくれ。離婚のことはまた後日改めて話し合うんだろう。俺は同意してない。慰謝料なんて支払う気ないから」
「私だって払わないもん。こっちは順夜に言い寄られただけ。むしろ婚約破棄になったら、順夜に慰謝料を請求してやるし」
風華は取り繕っても無駄だと悟ったのだろう。ヘラヘラ笑いながら事実を語り出す。
「望みさんはどうせ順夜から何も聞いてないんでしょ。私、実は入社してすぐ彼に告白されたんだよ」
「お前、何を言って」
「でも振ったの?順夜とは釣り合わない気がして。そしたら彼、自分を慕ってくれる望みさんに告白したの。笑えるよね。順夜は望みさんで妥協したってこと」
順夜はうつむいて否定しなかった。つまり風華の話は事実だということだ。私は思わず肩を落とした。順夜はそんな気持ちで私と結婚したのね。
「いや、今のはあくまでも過去の話で」
「でも結局私と付き合ってるよね。順夜が本当に好きなのは私なんでしょ。望みが妊娠してる時に、風華が言っただろう。あの時は意識してなかったけど、今はいい男だと思うって。だから今なら行けるんじゃないかなって」
順夜は振られてもなお、風華を狙っていたようだ。彼との子供を妊娠していなければ、私はとっくに捨てられていたのかもしれない。
「望みさん、ごめんね。あなたの夫、結局私が好きみたい。子供まで作ったのに見捨てられるとか、かわいそう」
風華は勝ち誇ったような顔をする。婚約者である修平が目の前にいるのに、彼女はどうしてここまで開き直れるのか。私は不思議で仕方なかった。そんな中、順夜は苦しい言い訳を続ける。
「望み、誤解しないでほしい。風華のことが好きだったのは昔だ。そりゃ一瞬彼女に気持ちが傾いたけど、本当に愛してるのは望みなんだよ」
「だから昔じゃないでしょ。実際、今不倫してるんだから。私はもうあなたとは夫婦でいられない。離婚はする。順夜は私とまどかより、風華のことが大切みたいだしね」
「風華、2度と俺に近づかないでくれ。婚約を破棄したこと、部長にも伝えるから」
修平が真剣な表情で、きっぱりと告げる。ただ風華は未だに納得していなかった。
「勝手にすれば。でもお父さんが修平の味方をすると思う?下手したら自分が大変なことになるの。分かってる?」
彼女の父は人事部長だ。修平はどうも上司である部長から風華を進められて交際したらしい。風華は父親を利用して、今回の揉め事もうやむやにしようとしていた。
「今日、お父さんは予定があってここには来ない。あんたらが事情を説明したところで、お父さんは私の話を信じるに決まってるの」
実際、バーベキューに人事部長は参加していない。風華はどれだけ目撃者がいようが、自分が勝てると考えていた。
「いくら風華が娘とはいえ、さすがに人事部長が他の社員の話を無視するとは思えないけど」
「でもお父さんより偉い人、1人もいないじゃん。みんな私の立場を妬んでるんだって言えば簡単でしょ。お父さんはいつだって私に寄り添ってくれるもん」
子供じみた言い分に呆れていたその時、社員が急にざわつき出す。彼らは「あれ?」と小さく呟いた。
「風華、何を騒いでいるな」
「これはどういうことだ?」
そこにいたのは風華の父親である人事部長。風華は彼に気づいた途端、体を縮込ませた。
「どうしてお父さんがいるの?今日予定あったよね。来ないはずじゃん」
「社員の加藤さんから話を聞いてね。疑って悪かった。まさか娘が不倫なんて」
部長が私に向かって頭を下げる。実は彼を呼んだのは私だ。部長とは働いていた頃に面識があった。そのため不倫の事実が発覚した後、風華の父親だからと連絡を入れたのだ。
「信じてもらえるか分かりませんが、実は」
風華は今も実家に住んでおり、証拠を送ればいつか必ず不倫がバレる。その際、部長を驚かせてはならないと事前に伝えたのだ。ただ彼は最初、半信半疑だった。
「風華が不倫?そんなまさか」
「驚かれるのも無理はありません。でも証拠はありますし、不倫は事実です。疑われるのならば、一度夫と風華さんが一緒にいるところを見てみますか?2人は距離が近いことで、社内でも噂になっているので」
「そうだな。この目で確認した方が早い」
そして部長は、確実に2人が出会うバーベキューに来ると決めた。幹事には後輩に頼んで伝えてもらっている。部長は開始してすぐ、物陰から私たちのことを見ていた。
「風華には修平君という婚約者がいる。結婚も目前だ。だから勘違いか何かだと思っていた。それなのに、お前は」
彼は恐ろしい形相で風華を睨みつける。娘の不貞行為を知り、怒りを抑えられないようだ。見られてしまった以上、いくら父親でも誤魔化せない。
「お父さん、ごめんなさい。でも聞いて」
風華は涙ながらに部長にすがりつくも、彼は冷たく突き放す。
「言い訳など聞きたくない。お前は修平君を裏切った上、加藤さんとその娘さんを傷つけたんだ。自分がどれだけ最低なことをしたか、分かっているのか?」
「ごめんなさい。私はバカでした。でも反省してるの。2度とこんなことはしないし。修平のことも本気で愛して」
「修平君、すまない。俺がこいつを紹介したせいで、君に迷惑をかけた。婚約の話はなしでいい。慰謝料も必ず支払わせるから」
彼は深々と頭を下げ、修平に謝罪する。風華は今にも泣きそうな顔で部長に縋った。
「修平、ごめん。私、マリッジブルーだったの。結婚が近くなって不安になって、それで思わず他の人と」
「部長、頭を上げてください。彼女のために謝っても無駄です。俺は風華のこと、許すつもりはないですから」
その瞬間、風華が息を飲む音が聞こえた。
「修平、私本当に反省してるの。あなたと結婚したい。それは本心で」
「違うでしょ。風華は結婚を焦ってたんだよね。既婚者や彼女持ちとばかり付き合ってて、今のチャンスを逃しそうだったから、部長にいい人を紹介して欲しいって言ったんでしょ」
それは図星だったからか、彼女は口をつむぐ。そんな風華を見て、修平は苦笑いを浮かべた。
「よかったじゃん。彼、離婚するんでしょ?お互いフリーになれば、結婚できるね」
「ふざけんな。俺は離婚しない。望み、分かってくれるだろう」
「加藤君、それ以上奥さんを苦しめるのはやめなさい。彼女は離婚を望んでいるんだよな」
部長に睨まれた瞬間、順夜は肩をビクッと震わせる。怯えから言葉をつまらせた。
「加藤さん。本当に申し訳ない。娘には必ず慰謝料を支払わせる」
「いえ、部長が私の話を信じ、こうして現場を見に来てくれただけでありがたかったです」
「すぐには信じられなかったけどね。事実、この噂を修平君に知られるのが嫌で、風華に婚約者がいること隠してすまなかった」
「いいんです。それだけ慎重な部長が事実と認めたことが大きいので」
部長に今回のことがバレた以上、順夜と風華の関係はもう隠し通せない。すでに社内で噂が広まっていたとはいえ、会社での居場所はなくなるだろう。その時、順夜が私の足元に縋りついて土下座し出す。
「望み。本当にごめん。こんなことになるとは思ってなかった。頼む。俺にもう1回チャンスをくれ」
彼は何としてでも離婚したくないらしい。頭を地面に擦りつけ、謝罪の言葉を口にする。しかしその姿を見ても、何の感情も湧いてこなかった。
「チャンスは昔あげたよね。それでも裏切ったのは順夜でしょ。もうやり直すつもりはないから」
「お前は俺を捨てるのか。まどかがどんな思いをするか分かる。まどかはあんなにも俺になついていたのに」
涙ながらに懸命に訴える順夜。社員は冷めた目で見ているが、彼にはそんなことどうでもいいようだ。
「俺が好きなのは望みとまどかだ。これからは2人を大切にする。離れたくない。俺からまどかを奪わないでくれ」
この後に及んで、順夜はまだ被害者ぶる。彼の様子に呆れている中、私は突然誰かに手を握られた。慌てて目をやると、隣に立っていたのはまどか。
「なんでまどかがここに?お姉さんと待っててって言ったはずじゃん」
「まどかにとって、ママはとっても大切なの。だから守りに来たよ。パパにひどいことされたんでしょ」
彼女はニコッと笑ったかと思えば、順夜には冷たい視線を送る。
「パパ、ママやまどかより、あのお姉さんが大切だったんだね。まどかの約束は守らないくせに、お姉さんとの約束は守ってたんでしょ」
「まどか、ごめん。でもパパ、反省したんだ。まどかとママにはいっぱい悲しい思いをさせたよね。これからは2人を大事にするから」
まどかに向かって懇願する順夜。しかし彼女は首を横に振る。
「ママにひどいことするパパなんて嫌い。まどか、ママがいればいいよ。パパ、いらない」
「嘘だろ。まどか、あんなにパパのこと大好きだったじゃないか。パパが美味しいものいっぱい買ってあげる。おもちゃもプレゼントするよ。だから」
「いらないってば」
私はまどかを庇うようにして、彼女の前に立った。
「前にも言ったよね。まどかは物に釣られるような子じゃない。本当に大切な人を選べる子なの。お願いだから、もうまどかのこと苦しめないで」
そんな順夜は、最愛の娘に拒まれ、質に崩れる。その場で項垂れ、何も言わなくなった。まどかは日に日に冷たくなる順夜を見て、ある程度察していたのかもしれない。彼女のためにも、もっと早く別れを決断すべきだった。
「まどか、ごめんね」
まどかの頭をそっと撫でると、彼女は目を潤ませる。
「うん。ママのこと守れてよかった。まどかはずっとママのそばにいるから」
「ありがとう」
そんな中、風華がいきなり部長に向かって土下座する。彼女もまた、家族に見放されたくないのだろう。
「お父さんは私の味方でしょ。仕事が見つからなくて困ってたら助けてくれたじゃない。今日も助けてよ」
風華は必死にしがみつき、部長に懇願する。しかし彼の表情は険しいまま。
「仕事が見つからなかったのは自業自得だったんだろうな。風華のためにも、あの時手を差し伸べるべきじゃなかった」
「そんなこと言わないで。ねえ、お父さん」
風華は叫び続けるが、部長は振り返って社員に視線を向けた。
「この度は私の娘がご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした。今回のことは会社にもきちんと報告します。バーベキューを台無しにしてしまい、何とお詫びすれば良いのか。夫婦間の問題に巻き込んでしまい、申し訳ございません」
「俺もすみませんでした」
私と修平も部長と共に頭を下げた。ただ社員たちはみんな優しく、誰も私たちを責めない。彼らも、会社の風紀を乱す風華の関係にいい思いはしていなかったのだろう。
「おら、今日は帰るぞ」
部長は泣き崩れる風華の腕を引いて、無理やり立たせる。私はまどかと手をつなぎ、最後に順夜に視線を送った。
「慰謝料は請求するけど、養育費はあなたに任せるわ。支払わないなら、順夜は父親を辞めたと判断する。どっちにするか、よく考えて選びなさい」
そう告げると、彼は虚ろな目でこちらを見た。しかし何も言わず、静かに黙っている。どう答えるべきか分からないのだろう。まどかはそんな順夜に見向きもしなかった。
その後、私と順夜は弁護士を通して離婚が成立。まどかはもちろん私が育てることとなった。慰謝料と養育費は全額一括で支払った順夜。本人の意思もあるだろうが、義心に促されたことが大きいに違いない。今は義実家を追い出され、1人寂しくボロアパートで暮らしているそうだ。順夜は社員に白い目を向けられながら、今も保険会社で働いているらしい。バーベキューでの騒動が原因で異動になり、窓際部署に追いやられたとか。ただ風華は退職。2人はそのタイミングで破局したと聞いた。風華も部長に立て替えてもらって、どうにか慰謝料を払ってくれた。今はその立て替え分を部長に返済している途中だという。バイトを掛け持ちして、生計を立てているらしい。今後2人は、家族にも見放され、苦しい生活を送ることになるだろう。
一方、私はまどかとの2人暮らしを始めた。社労士として働きながら、家事と育児をこなす日々。家のことはまどかもお手伝いをしてくれている。
「ママ、今日は一緒にご飯作ろう」
「いいね。まどかが食べたいものは何?」
「えっとね」
彼女は以前よりも笑顔が増え、明るくなった。学校も楽しいようで、勉強したことを色々と教えてくれる。これからは私が母親として、まどかを守っていかなくてはならない。
「ママがまどかのことを守るなら、まどかがママを守るね」
「え?」
私の考えていることが、彼女にはお見通しのようだ。驚いたものの、ふと頬が緩む。
「まどか、これからもいっぱい大切にするからね」
私はまどかを抱きしめて、優しく頭を撫でた。この子がいれば、大丈夫だ。



