夜の倉庫で、七十歳の塩谷十蔵は懐中電灯を手に立っていた。補聴器を左耳に嵌め、背筋を伸ばしたまま、静かな夜の空気に溶け込んでいた。息子の大樹はうつ病で仕事を失い、孫の夢は五歳。十蔵と妻の夏美にとって、夢は唯一の希望だった。
その夜、二度目の巡回を終えた時、ポケットの携帯が震えた。知らない番号だった。出ると、警察からだった。「息子さんとお孫さんの事故です。病院に運ばれています」
十蔵は言葉を失った。懐中電灯が手から滑り落ち、コンクリートに大きな音を立てた。彼は膝をついて拾い、立ち上がった。手が震えていた。
タクシーで妻を迎え、病院へ向かった。受付で名乗ると、医師が別室に通した。
「塩谷大樹さんは搬送時にはすでに多発性外傷で意識がなく、本日二十三時十四分に死亡が確認されました」
夏美の膝が崩れた。彼女は床に手をつき、声もなくうずくまった。喘息の発作が始まり、吸入器を落とした。十蔵はそれを拾い、口元に当てた。
医師は続けた。「お孫さんの夢君は命は取り留めましたが、左足を膝から切断しています」
十蔵は唇を噛んだ。血の味がした。
翌朝、警察から事故の状況が知らされた。大樹が夢を保育園から連れ帰る途中、後ろから来た乗用車に衝突された。運転していたのは木崎という二十二歳の男。飲酒の疑いがあり、現場から逃走しようとしたところを住民に取り押さえられた。
警察署で担当刑事から話を聞いた後、十蔵は待合室に木崎を見た。若い男がスマートフォンを弄っていた。その横に、グレーのスーツを着た男が立っていた。弁護士の炎上寺だった。
十蔵が近づくと、炎上寺が立ちはだかった。「この度は誠にご愁傷様でございます。ただ、現時点では捜査が継続中ですので、当事者への直接のご接触はご遠慮いただけますか」
十蔵は一歩踏み出した。炎上寺はさらに体を寄せた。「依頼人は未確認の障害物に衝突した可能性があります。息子さんは事故前に倒れていた可能性が生じています」
その時、木崎が顔を上げた。十蔵と目が合ったが、何の感情もなく、すぐにスマートフォンに視線を戻した。十蔵の体に冷たい何かが走った。彼は木崎に掴みかかろうとしたが、炎上寺が体を入れ、刑事に止められた。
その日の夕方、病院で夢の顔を見た。夢はぼんやりとした目で「じじ」と言った。十蔵は何も言えなかった。
帰りのタクシーで、夏美が言った。「なんで大樹が先に行くんですか」
十蔵は答えられなかった。
葬儀は小さかった。参列者は数えるほどだった。大樹はうつ病になってから人との繋がりを失っていた。十蔵は最前列で、若い頃の写真を見た。ネクタイをして、照れ臭そうな顔をしていた。
葬儀の翌日から、夏美は毎日病院に通った。夢は最初、毛布を頭まで被って誰とも目を合わせなかった。三日目の朝、夢が毛布の隙間から「おばあちゃん」と言った。夏美は「うん」と答えた。それだけだったが、その日、夢は少しご飯を食べた。
十蔵は仕事に戻った。有給は三日しか取れなかった。葬儀費用、手術代、入院費。貯蓄は半分以下になっていた。彼は夜間の警備を続けながら、日中の臨時作業も始めた。夏美も病院の仕事の後、防護服の洗浄の内職を始めた。喘息の症状が悪化すると分かっていても、やめなかった。
事故から三ヶ月後、初公判が開かれた。検察は木崎を危険運転致死傷罪で起訴した。十蔵は少し息を吐いた。しかし、弁護人席から炎上寺が立ち上がった。
「検察の主張には重大な事実誤認があります」
炎上寺は大樹の医療記録を提出した。大樹はうつ病の治療薬を服用しており、気分の落ち込みが続く時期に深夜に缶ビールを飲む習慣があった。夏美が警察の事情聴取で話していた。
さらに、炎上寺はドライブレコーダーの解析書類を提出した。衝突の一・八秒前に自転車がすでに傾いていたという。法医学鑑定では、大樹は薬と飲酒の相互作用による急性心臓発作を起こし、衝突前に意識を失っていた可能性が高いとされた。
十蔵の口の中が乾いた。炎上寺は静かに、しかし確実に検察の主張の隙間を突いた。
判決の日、十蔵は眠れないまま法廷に臨んだ。裁判長が判決を読み上げた。「危険運転致死傷罪については、死因との直接的な因果関係を完全に確定させることが困難である。被告人を業務上過失致死傷罪及び死体損壊罪により、懲役三年、執行猶予四年に処する」
十蔵は立ち上がった。「息子を殺したんだ! 酔っ払って携帯を触りながら走っていたんだ! なんで執行猶予なんだ!」
警備員に腕を掴まれ、廊下に引き出された。その時、夏美が倒れる音がした。喘息の発作だった。
裁判所の外で、炎上寺と木崎が立っていた。木崎が何かを言い、笑った。十蔵はその笑いを見た。怒りの下に、もっと冷たい何かがあった。
家に帰り、夏美が言った。「あの解析とか、お医者さんの話、全部本当のことみたいに言ってたけど、大樹は心臓が悪かったわけじゃないですよね」
十蔵は「俺もそう思う」とだけ言った。
判決から一週間後、保険会社から通知が届いた。死因が事故として確定されなかったため、支払いは疾病死亡の四分の一だった。大樹は病気で死んだことになった。
さらに、木崎側からの損害賠償の提示額は、十蔵が想定していた額の三分の一を下回っていた。炎上寺は「判例に基づく妥当な算定です」と繰り返した。十蔵は受け入れるしかなかった。
八月、夏美の喘息が悪化した。処方薬が必要だったが、通院の費用が惜しくて後回しにしていた。十蔵は強く言えなかった。
九月、大家から手紙が届いた。夢の夜泣きの苦情があり、退去を求められた。夢は七月に退院し、十蔵たちのアパートで暮らしていた。切断した足の痛みを訴えて、夜中に泣くことが多かった。
引っ越し先を探した。バリアフリーの物件は高く、条件を下げるしかなかった。三件目で、産業廃棄物処理場の近くの古い二DKを紹介された。家賃は少し安かった。十蔵は「ここにします」と言った。夏美は何も言わなかった。
十月、引っ越した。新しいアパートでも、夢は夜中に泣いた。「足が痛い」と。十蔵は「大丈夫だ」としか言えなかった。
臨時の仕事は十月末で終わった。予算削減で、抽選で一人外れることになり、外れたのは十蔵だった。
ある日、十蔵は川沿いを歩いていた。商店街を通りかかると、木崎が昼間から酒を飲んでいた。仲間と笑いながら、こう言った。「うちの親父が雇った弁護士が一番うまいんだよ。あんなお年寄りに持ってくる奴、なかなかいないって話。じいさんが騒いでたけど、まあそんなもんだろう。元々あの親父も問題あるやつだったんだし」
十蔵の耳に血が上った。彼は工事現場の鉄パイプを掴み、木崎に向かって走った。しかし、若い男たちに取り押さえられ、蹴られた。警察が来て、十蔵は手錠をかけられた。
警察署で、木崎側から暴行と威力業務妨害の被害届が出された。十蔵は身元引き受け人として夏美の名前を伝えたが、夏美は来られなかった。夢の世話か、発作か。
留置場の夜、十蔵は眠れなかった。大樹の小学生の頃の顔が浮かんだ。
翌朝、取り調べ室に炎上寺がいた。彼は書類を差し出した。「これに署名すれば、昨日の件について被害届を取り下げることが可能です」
書類には、木崎とその家族に対する接触、損害賠償請求、民事再審の申し立てなど、一切の要求を放棄することが書かれていた。
「一点確認させてください。この書類に署名した場合、大樹の件について新たな事実が出てきても、一切の法的行動を取れなくなるのですか?」
炎上寺は「そのように読んでいただいて構いません」と答えた。
十蔵は唇を噛んだ。血の味がした。ペンを取り、署名した。
釈放され、アパートに帰ると、夏美が「話してくれなくていいです」と言った。十蔵は「署名した」とだけ言った。
数日後、アパートの前に探偵を名乗る男が現れた。特内と名乗った。彼は言った。「事故現場から五十メートル離れた駐車場の防犯カメラに、事故の前後が映っています。自転車は動いています。親子が乗った状態で。衝突の直前、後ろから来た車が速度を落とさず突っ込んでいます」
「いくらだ」と十蔵は聞いた。
「二百万円です」
十蔵にはそんな金がなかった。しかし、頭に浮かんだものがあった。遠縁の親戚から預かっている土地の権利書。それを担保に、非公式の金融業者から金を借りられるかもしれない。それは信頼への裏切りだった。
夏美に相談した。夏美は「映像が本物だとして、何かが変わりますか?」と聞いた。十蔵は「それでも知りたい」と答えた。
十蔵は権利書を担保に百五十万円を借り、特内から映像を買った。図書館で映像を再生した。自転車は確かに動いていた。後ろからヘッドライトが近づき、速度を落とさず突っ込んだ。
十蔵は警察と検察に再調査を求めたが、門前払いだった。「判決は確定しています。証拠の出所が不明確です」
その夜、炎上寺から電話があった。「制約違反として法的措置を検討しなければなりません」
十蔵は聞いた。「あなたは大樹が心臓で死んだと本当に思っているんですか?」
炎上寺は「それは私の考えるべきことではありません。私は依頼人の利益のために動いています」と答えた。
十蔵は電話を切った。法律には届かない。では、法律の外に何があるか。
十蔵は、倉庫の臨時仕事で知り合った若い男を通じて、動画を扱う人物に映像を渡した。金銭は受け取らず、映像の使用権と事故の詳細を説明する許可を与えた。
一週間後、動画が公開された。再生回数が伸び、木崎の会社がネット上で話題になった。
木崎の父親から電話があった。「息子が大変なことをしたことは重々承知しています。動画を取り下げて欲しい。誠意を示したい」
喫茶店で会った。十蔵は言った。「動画を取り下げることはできません。私がそれを動かす立場にないからです。ただ、私が自分でやったことだと認めて公開の場で発言することはできます。その代わり、妻と孫の今後の生活の保証を求めます。金額は私が決めます。非公式の形で妻の口座に入れてください」
父親は条件を受け入れた。十蔵は記者会見を開き、映像は自分の判断で提供したと認めた。
数日後、炎上寺から契約違反として損害賠償を求める民事訴訟の書面が届いた。十蔵は夏美に見せた。「裁判になる」と言った。夏美は「うん」と答えた。十蔵は「でも口座にはもう入ってる」と言った。
裁判の日、十蔵は一人で出廷した。弁護士はいなかった。炎上寺が陳述した。十蔵は「私がやりました。映像を渡したのは私です」とだけ言った。
判決は懲役四年の実刑だった。執行猶予はつかなかった。
アパートに帰り、十蔵は夏美に言った。「四年だ。口座のことはちゃんと使えるようにしておいた。夢のリハビリも続けてやってくれ。義足の費用はそこから出せる。施設のことも調べておいた。夢が大きくなるまでの間、二人で生活できるよう補助申請してある」
夏美は頷いた。手を擦り合わせるのが早くなった。
十蔵は夢の寝顔を見た。左足の部分が毛布の上でくぼんでいた。
「お前は何も悪くない」と十蔵は夏美に言った。「夢も悪くない」
夏美の肩が一度揺れた。声は出なかった。
数日後、十蔵は収監された。独居房は四畳ほどで、窓が小さかった。眠れないのは変わらなかったが、体の中の音が鳴っていなかった。怒りの音も焦りの音もなく、ただ静かだった。
「やることが終わった」と十蔵は思った。夢の義足の費用は出る。夏美の生活の保証はある。大樹が心臓で死んだのではないことを示す映像は、世界のどこかに出た。法律は認めなかったが、誰かの目には届いた。
その夜、十蔵は初めて夢を見た。夢の中で大樹が自転車をこいでいた。夢が後ろに座っていた。夕暮れの道だった。二人の背中が遠ざかっていった。十蔵は追いかけなかった。ただ見ていた。
場面が変わった。新しいアパートの台所に夏美が立っていた。夢が廊下を走ってきた。義足の音がした。転ばなかった。夏美が笑った。
春、夏美は新しいアパートの台所に立っていた。窓の外に桜が見えた。夢がリハビリから帰ってきた。義足をつけた左足で、まだぎこちなく歩いていた。でも転ばなかった。
「おばあちゃん、今さ、自分でバスに乗れたよ」
夏美は「そうか」とだけ言った。でも、お湯を沸かしながら、鍋の蓋を持った手が少し震えた。
壁に大樹の写真が貼ってあった。生まれたばかりの夢を抱いた写真だった。大樹は照れ臭そうな顔をしていた。
夏美は夕飯の準備を始めた。十蔵からの手紙は月に一度来た。短かった。「体は元気だ。夢の様子を聞かせてくれ。無理をするな」
夏美は毎回それを読んで、引き出しの奥にしまった。返事は書いていたが、大事なことは何も書けなかった。
夕飯ができた。夢を呼んだ。二人で「いただきます」と言った。
夏美は窓の外の暗くなった空を見た。正義はどこにも来なかった。来るはずもなかった。家族は戻らなかった。十蔵はいない。大樹もいない。夢の足も戻らない。
それでも夕飯は温かかった。夢が「おかわり」と言った。夏美はご飯を持った。それだけだった。それだけのことが、今の夏美には何より重かった。



