「お前のおかげで俺も部長だよ。部長権限で俺の部下にしてやろうか」
10年ぶりに本社へ戻ってきた俺に、同僚の磯谷がニヤニヤしながら声をかけてきた。
「お前はまたすぐにどこか地方に左遷されるだろう。せっかく戻ってきたのに気の毒にな。俺が社長に頼んでなんとかしてやろうか」
こいつは相変わらずだ。上司には媚びへつらい、自分より下だと思った人間には平気で足を引っ張る。俺はそんな磯谷の姿を見て、思わず笑ってしまった。
「お前が社長に頼んでくれるのか?それはそれは」
「おい、何を笑ってるんだ?地方で頭がおかしくなったのか?」
「いや、まだ知らないみたいだな」
「何をだよ」
「本部付きで移動してきたが、今度の役員会で俺は社長に就任するんだよ」
「はあ?お前、本当に頭がおかしくなったみたいだな。お前が社長なら、俺は会長にでもなるか」
「そんなことを言っていられるのも今のうちだ。社長権限でお前は首だ」
俺は冷たく言い放った。磯谷は鼻で笑い、俺をあしらうようにして立ち去っていった。その背中を、俺はにやりと笑って見つめていた。
――俺の名前は岡村。大学を卒業して大手IT企業に入社し、本社の営業部で働いていた。入社したばかりの頃は口下手で、なぜ営業に配属されたのか分からなかった。
「いいか?ベラベラ喋るばかりが営業じゃないぞ。相手が何を望んでいるか、丁寧にそれに答えるんだ」
当時の部長の言葉は、今でもよく覚えている。最初はうまく説明できずに苦労したが、下調べを入念にして丁寧な対応を心がけるうちに、少しずつ得意先との信頼関係が築けるようになった。数年が経ち、中堅社員になった頃、部長と昼食を取っていた時のことだ。
「岡村君も営業の仕事をしてだいぶ経つ。次の人事でチーフマネージャーに考えているが、どうだ?」
「え?あ、はい」
思いがけない言葉に戸惑っていると、部長は背中を押すように言った。
「君はいつもコツコツと丁寧に仕事に取り組んでいる。そんな君を信頼して長く付き合っている得意先も多い。もう少し責任ある仕事を任せたいんだよ」
「そんなに緊張するな。まだ決まったわけじゃない。俺の考えだよ」
部長はそう言うと、俺の肩をポンと叩いて立ち去った。俺の地道な努力を分かってくれていることが、何より嬉しかった。
それから1週間ほど過ぎた朝、エレベーターに乗り込もうとした時、同期の磯谷が声をかけてきた。
「聞いたぞ。お前、チーフマネージャーになるんだってな」
「なんだよ、それ。俺も初耳だよ」
「ふん。お前みたいなのろまにチーフマネージャーが勤まるのかな」
磯谷はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべた。こいつは仕事は適当だが、人に取り入るのがうまく、上司からの評判はいい。しかし、自分より下だと思う人間には態度を変えてくる厄介なやつだ。俺は何も言わずにエレベーターのボタンを押した。
「どこで誰に取り入ったのか知らないが、せいぜい頑張れよ」
磯谷は自分のフロアに着くと、そんな捨て台詞を吐いて降りていった。
ある日、部長に呼び出された。
「例のシステムの案件はどうなっている?」
「はい。先日のプレゼンも好評で、概ね合意を得て最終調整に入るところです」
それは我が社が開発した行政機関向けの事務処理システムで、俺が1年ほど前から担当している最大の案件だった。これがまとまれば数十億という大きな契約になる。俺の営業人生で最大の仕事であり、心血を注いでいると言ってもよかった。
「そうか。それは良かった。みんな聞いてくれ。岡村君の大きな取引がまとまりそうだ」
部長が報告すると、営業部のみんなが口々に歓声を上げた。照れ臭くて汗が出てきたが、俺がコツコツやってきたことが認められた瞬間だった。
ところが、それから数日後のことだ。
「岡村君、監査役が君を呼んでいる。すぐに行ってくれ」
部長が俺のデスクに来て、耳元で囁くように言った。
「え、どういうことですか?」
「俺も分からない。とにかく来てくれと連絡があってね。急ぎだそうだ」
急いで監査役の待つ部屋に向かうと、無表情な監査役が俺をソファーに座らせた。
「岡村君、忙しいところ申し訳ない。実は先日、君に対する密告があってね」
「密告?」
「ああ。君が行政機関用のシステムの案件をまとめるために、ワイロを送り、違法な接待を繰り返しているということだ」
「え、そんな。私は何も知りません。行政の担当者に確認していただければ分かることです」
「密告者は君を処罰しなければ、しかるべき機関に告発すると言っているんだ。火のないところに煙は立たないだろう」
「待ってください。私は本当に何もしていません」
「会社としては、事実がどうであれ、メディアに取り上げられて会社の名前が出てしまうことが一番の問題なんだよ。疑いのある人物を厳しく処罰せざるを得ない」
監査役は俺の言葉を遮るように言い放った。俺は全てを諦め、何も言わずに引き下がるしかなかった。
「処遇については追って連絡するから、仕事に戻って構わないよ」
監査役は俺の顔も見ずにそう言った。会社は一社員の俺より、会社の名誉や信用が大切なのだと痛感した。
翌日、再び監査役に呼び出された。
「岡村君、君に辞令が降りたよ。地方の子会社への出向だ」
「申し訳ないが、これは会社の信用を守るためだ。噂になりワイロのことが表沙汰にならないように、出向の理由については社員たちには伏せておくよ」
「分かっています。ですが、俺の無実も信じていただきたい」
監査役は無言だった。俺はなす術もなく部屋を後にした。
営業部に戻ると、部長が近づいてきた。
「おい、お前、この前から監査役と何を話しているんだ?大丈夫なのか?」
「実は内々のことで、部長にだけお話しします」
誰かに聞かれても困るので、俺は辺りを見回して確認した。ワイロや密告のことを話すわけにもいかないが、移動のことは隠しきれないと思い、部長に子会社へ出向することを話した。
「部長、お世話になりました。もう少しここで頑張りたかったですが、私の個人的な都合で」
「そうか。私も残念だ。話はまたゆっくり聞こう」
部長は何かを悟ったように頷きながら、俺の肩にそっと手を置いて立ち去った。こうやって支えてくれる人、一緒に頑張ってきた仲間のことを思うと、感傷的な気分が襲ってきた。俺はこの営業の仕事が好きなのだと改めて思い知らされた。
数日後、俺が子会社へ出向することが正式に発表された。営業部のみんなは驚いたように詰め寄ってきた。
「岡村さん、出向って聞きましたけど、一体どうしてそんな希望を出したんですか?」
「希望?ああ、新規一転頑張ってみたくてね」
俺は焦って適当な返答をした。どうやら俺が希望して地方に行くことになっているらしいが、これは噂を防ぐための会社の役員たちの仕業だろう。みんなが俺との別れを惜しんでくれる。それだけでも十分な気がした。
本社での最終日、磯谷が珍しく俺のデスクまで来た。
「密告のせいで何の証拠もないのに左遷とは哀れなもんだな」
「いや、お前」
俺が振り向くと、磯谷はもう言ってしまった。誰も知らないはずの密告のことを知っているなんて。あの時、密告の電話を入れたのは磯谷だったのか。俺は今更気づかされたが、もうどうにもならない。
「覚えていろ。俺はこのままでは終わらせないからな」
俺は一人呟いた。
それから半年ほど経った。子会社の近くの部屋を借りて、引っ越しの荷物も片付いた。出勤すると、同期の同僚が話しかけてきた。
「岡村さん、本社で大きな取引がまとまったって話、聞きました?」
「いや、俺は何も聞いていませんよ」
「行政機関向けの大掛かりなシステムの契約が決定したそうですよ。テレビのニュースでも朝からそのことばかりで大騒ぎですから」
それはきっと俺が担当していた例の案件だ。子会社に来て半年、俺はここで新規一転頑張ろうと思い直して働いてきたが、この話を聞いて本社でのことが蘇ってきた。
「ああ、あの事務処理システムの」
「そうですよ。岡村さんは本社から来たんだから、よくご存知でしょう」
「まあ、少し聞いていますよ」
俺は曖昧な返事をしてごまかしたが、あの案件のことを忘れるはずもない。
「担当は磯谷さんという人だそうで、本社でも出世頭だと話題ですよ。磯谷さんをご存知ですか?」
磯谷。俺はその名前を久しぶりに思い出した。というより、無理に忘れようとしていたのだ。あいつが出世頭とは驚いた。確かにあいつは要領がいいが、それだけだ。俺を落とし入れておいて、そんなことが許されるのか?俺を落とし入れたのは、俺が疎ましいだけでなく、あの案件を奪うためでもあったのか。
「岡村さん、どうかしましたか?俺の話、聞いていますか?」
同僚が笑いながら肩を揺すってきた。
「ああ、すみません。磯谷さんのことはよく知っていますよ。同期ですからね」
俺はそう言って、ニコリと笑って見せた。
それからさらに月日が過ぎた。子会社でも色々なことがあったが、臨時移動で本社に復帰することになったのは、出向して10年が経った時のことだ。子会社での日々は忘れがたいものがあり、社員たちとの別れは辛いものになった。だが、晴れて本社に復帰できて、俺はやはり嬉しくてたまらなかった。
復帰当日、本社ビルの各部署で懐かしい顔を見ながら挨拶回りをしていると、廊下の向こうからフラフラと歩いてくる男が見えた。
「よう、岡村じゃないか」
その男はニヤニヤしながら近づいてくる。10年ぶりに会った、忘れもしないあの磯谷だった。
「のこのこ戻ってきやがって。相変わらず冴えない奴だな」
こいつのおかげで俺は10年も地方の子会社に行っていたのだ。そう思うと手に力が入り、拳をぐっと握りしめた。
「お前のおかげで俺も部長だよ。部長権限で俺の部下にしてやろうか。この負け犬」
磯谷が俺の担当していた案件を奪い、昇進したことは聞いていた。本社に来た以上、こいつに会うことも分かってはいたが、いざ目の前にすると抑えきれないものがあった。
「なってやがる。お前に思い知らせてやる」
俺は体の内側から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「本部付きの移動だから、またすぐにどこか地方に左遷されるだろう。せっかく戻ってきたのに気の毒にな。俺が社長に頼んでなんとかしてやろうか」
磯谷は薄ら笑いを浮かべながら、そんな高飛車なことを言った。
「お前が社長に頼んでくれるのか?それはそれは」
「おい、どうした?何を笑ってるんだ、お前。地方周りで頭がおかしくなったのか?」
「いや、まだ知らないみたいだな」
「何をだよ」
「本部付きで移動してきたが、今度の役員会で俺は社長に就任するんだよ」
「はあ?お前、本当に頭がおかしくなったみたいだな。お前が社長なら、俺は会長にでもなるか」
「そんなことを言っていられるのも今のうちだ。社長権限でお前は首だ」
俺は冷たく言い放った。磯谷は鼻で笑い、俺をあしらうようにして立ち去っていった。その背中を、俺はにやりと笑って見つめていた。
そして数日後の役員会で、俺の社長就任と磯谷の解雇が決定した。子会社から戻ってからの怒涛の展開だったが、これは全て前社長のおかげだった。本社へ移動となる前、前社長が連絡をくれていたのだ。
「岡村君、今回私は社長を退任するが、後任として君を指名する。君が赴任先の子会社で低迷していた業績を急成長させてくれたことを、大いに評価しているよ」
前社長は、俺が営業部にいた時の部長で、当時からいち早く俺の仕事ぶりやセンスを見抜いて、何度も励まし支えてくれた人だった。
人事が発表されると、磯谷が慌てた様子で俺のところにやってきた。
「岡村、一体何なんだよ。お前が社長ってどういうことなんだ?」
「どうもこうも、辞令通りのことだ」
「お前が社長だなんて、驚いたよ。俺が首だなんて、冗談だよな。勘弁してくれよ」
「何言ってるんだ?お前は首だ。もう決定したことだ」
「なんだよ、そんなの。あんまりだろ。どうして俺が首なんだ」
「お前、部下に対して暴力的な言動をしていただろう。調べはついている。それを言っているのは一人や二人じゃないぞ」
磯谷は取りすがるように言ってくるが、こいつの傲慢な言動について、俺自身も被害に遭っていたし、本社の社員たちにも話を聞いて事情は分かっていた。磯谷は以前から上司には取り入るような言動をし、部下には暴言を吐き、手柄を横取りするようなことを繰り返していた。部長に就任してからも、部下を使い、自分がうまく取引をまとめたように見せかけていたようだ。だが、ここのところは上司も含めて部下たちもそれを見抜いていて、うんざりしていたらしい。
「今更何を言っている?お前は散々、下の人間に対してひどい言動をしてきただろう。そしてそんなことを棚に上げて出世しようとしている。どうしようもないな」
俺の言葉を聞いて、磯谷は唇を噛むようにして悔しさを滲ませた。そして観念したのだろう、肩を落としてとぼとぼと歩いて行ってしまった。
10年前から、いや、もっと前からだろうか。磯谷は自分が要領が良く、周りに気に入られていると思っていたらしい。だが、それは見かけだけで、本当のところは別にあったということだ。
本社に復帰した後、俺は社長室に挨拶に行った。
「社長、長い間お疲れ様でした。私が社長にまでなれたのは、入社以来地道に努力したことを社長が認めてくださったからです。そのおかげで、子会社に行っても頑張ることができました」
「いや、君には本当に苦労をかけたね。覚えているかな?以前、君をチーフマネージャーにと思っていたが、叶わなかった。それがどうにも悔まれてね」
「ええ、そんなこともありましたね。でも私はあの時、心から自分の仕事ぶりを認めてもらえたことが何より嬉しかったです」
「これからはこの会社を頼んだよ。君の地道な頑張りは、誰にでもできることではないよ」
前社長はそう言うと、俺と固く握手を交わした。前社長とこの会社で出会ったのは運命だし、それに感謝するしかない。俺も社長になった以上、真面目に働く社員を大切にして、この会社を運営していくのが俺のこれからの使命だと思っている。



