「そのネックレスはどこで手に入れたんだ?」
72歳の天油グループ会長、鈴木誠一の声は震えていた。
「綺麗でしょう。お母さんが、お父さんが亡くなる前にもらったんですって」
10歳の少女が無邪気に笑った。
「お父さんの名前は何と言うんだい?」
「鈴木正斗です」
その瞬間、誠一は足元がふらついた。25年前、身分の違いを理由に家から追い出した息子の名前だったからだ。
「おじいさん、どこか具合でも悪いんですか?」
この子は、自分がその存在すら知らなかった孫娘だった。滞納した家賃76万円を取り立てに来た古いビルで、25年ぶりに対面した衝撃的な真実だった。
しかし、本当に驚くべきは別のことだった。この出会いが、一人の財閥の人生を根底から覆すことになるという事実だ。
物語は3週間前、春雨が止んだあの日の午後に遡る。
雨が止んだ午後だった。アスファルトの上の水分が蒸発し、白い湯気が立ち上っていた。天油グループの鈴木誠一会長は黒いベンツから降り、古びた雑居ビルを見上げた。72歳という年齢にも関わらず、ちゃんとした姿勢を保っていたが、今日に限って肩が重そうに見えた。
「会長、本当にご自身で賃借人の状況を確認なさるのですか?」
後ろから秘書の吉田ミキが慎重に訪ねた。38歳の彼女は8年間誠一のそばで働き、会長の性格を誰よりもよく知っていた。普段ならこんな些細なことは部下に任せるはずなのに。今日は違った。
「家賃が8ヶ月も滞納していると言ったな」
「はい。合計で76万円の滞納です。連絡もつきません。法的手続きを踏んではいかがでしょうか」
誠一は建物の外観をゆっくりと眺めた。ペンキがはげた壁、錆びついた看板、割れた窓ガラスまで。父親の代から受け継いだこの建物が、いつからこんなに見窄らしくなっていたのだろうか。東京銀座のど真ん中にある華やかな本社ビルとはあまりにも対照的だった。
「父の代からある場所だからな。ただ書類だけで処理するにはな」
誠一は言葉を終えずに階段を登った。2階へと続くコンクリートの階段は、古い匂いと湿気で満ちていた。各階に3つずつある小さなワンルームはいずれも庶民たちの生活の場だった。廊下の天井には古いが作動中の共用の防犯カメラが設置されていた。
廊下の突き当たり、203号室の前で立ち止まり、ドアプレートを確認した。「佐藤ユナ」という名前が古びたテープで貼り付けられていた。
コンコン。
誠一がドアをノックすると、中から小さな足音が聞こえた。慎重に近づいてくる音だった。しばらくしてドアが少し開き、幼い少女が顔を覗かせた。10歳くらいに見える子だった。大きな瞳が印象的だ。
「どなたですか?」
子供の声ははっきりしていたが、警戒の色がにじんでいた。幼いながらに見知らぬ人には注意するよう教えられているのだろう。
「この家の大人の人はいるかな?」
誠一はできるだけ優しく訪ねた。少女はドアの隙間から誠一とミキを交互に見た。スーツ姿の2人が只者ではないと直感したのかもしれない。
「お母さんは病院に行きました。今日は遅くなるって」
病院に。誠一の表情がかすかに変わった。8ヶ月も家賃を払えない事情があるのだろうと察した。ミキが一歩前に出た。
「失礼ですが、少し中に入ってもよろしいでしょうか? 大家さんから重要なお話がありまして」
少女は一瞬ためらったが、ドアをさらに開けてくれた。1人でも礼儀をわきまえている子だった。
狭いワンルームに入った誠一は、一瞬言葉を失った。15畳ほどの空間に生活の全てが詰まっていた。部屋の片隅には様々な薬袋がきちんと整理され、食卓の上には水でふやかしたご飯の入った茶碗が置かれていた。おかずの容器にはキムチと小魚の煮物が少しだけ入っていた。
「1人なのかい?」
「はい。大丈夫です。お母さんがご飯も作って行ってくれました」
少女は当然と答えた。10歳という年齢が信じられないほど落ち着いていた。おそらく厳しい環境の中で早くに大人になったのだろう。誠一は部屋を見回しながら、胸の片隅が重くなるのを感じた。古びた冷蔵庫。古いテレビ、そして隅に小さく設けられた勉強スペース。全てが最小限のもので整えられていたが、きちんと片付いていた。
しかし、その時だった。誠一の視線が少女の首にかかったネックレスに釘付けになった。小さな貝殻のネックレスが蛍光灯の光を受けてほのかに輝いていたのだ。
その瞬間、誠一の体は固まった。
「そのネックレスはどこで手に入れたんだ?」
誠一の声はわずかに震えていた。少女は自分の首に触れ、無邪気に笑った。
「綺麗でしょう。お母さんが、お父さんが亡くなる前にもらったんですって。お母さんの宝物なんです」
誠一は一歩後ずさった。心臓が激しく鼓動を始めた。そのネックレスは30年前に自分が妻に送ったものだった。結婚10周年を記念して特別に制作した一点物のネックレスの1つだった。妻が亡くなる前に嫁に渡したのに違いなかった。
「お父さんの名前は何と言うんだい?」
誠一の問いに、少女の顔がパッと明るくなった。
「鈴木正斗です。素敵な名前でしょう。お母さん、お父さんは本当に偉人だったって言ってました」
まさか。誠一は足がよろめくのを感じた。自分の息子の名前だった。25年前。身分の違いを理由に家から追い出した。まさにその息子だ。家の体面を守るため、事業の邪魔になるからと、冷酷に切り捨てた決断だった。
「会長、大丈夫でございますか?」
ミキが心配そうに尋ねたが、誠一は答えることができなかった。頭の中が真っ白になってしまった。少女は依然として澄んだ瞳で誠一を見つめていた。
「おじいさん、どこか具合でも悪いんですか? お水、要りますか? おじいさん」
その一言が誠一の胸を突き刺した。この子は自分の孫娘だったのだ。25年間、その存在すら知らなかった血。そして、この瞬間まで知らずにいた家族だった。
誠一は壁によりかかり、ゆっくりと息を吐いた。部屋を再び見渡すと、全てが違って見えた。古びた家具も、質素な食事を済ませる質素な食卓も、そして1人で家を守る幼い孫娘の姿も。
「いつからここに住んでいるんだ?」
「えっと、私が5歳の時から。その前は違うところに住んでたけど、よく覚えてないんです」
5年間。誠一は心の中で計算した。その頃に息子の正斗が亡くなり、嫁がここへ引っ越してきたのだろう。これまでこんなに苦しい生活を送ってきたということだった。
「お母さんは具合が悪いのかい?」
少女の表情が少し曇った。
「時々すごく咳込むんです。病院でお薬ももらってくるんですけど、でもお母さんは大丈夫だって。私に心配かけたくないみたい」
誠一は食卓の上の薬袋を見つめた。病名が書かれた紙がびっしりと貼られている。肺疾患関連の薬がほとんどのようだ。かなり深刻な状態である可能性が高かった。
ふと、階下から足音が聞こえた。階段を登ってくる音だ。少女は耳を澄まし、嬉しそうに叫んだ。
「お母さんだ!」
誠一とミキは顔を見合わせた。いよいよ25年ぶりに嫁と対面する時が来た。果たして佐藤ユナは自分のことを覚えているだろうか。そして何より、どんな気持ちで受け入れるだろうか。
玄関のドアが開く音がした。廊下から聞こえてくる足音がだんだんと近づいてくる。誠一は無意識に拳を握った。25年ぶりに向き合うことになる嫁を思うと胸が高鳴った。
玄関のドアが開くと同時に、1人の女性が姿を現した。46歳の佐藤ユナだった。看護師を卒業し、研修医として働き始めたが、出産と夫の事故、経済的な困難でキャリアが中断され、町の診療所で補助として働いてきた彼女だった。資格は所有していたが、長期間のブランクのため現場復帰をためらっていた。かつては美しかったであろう顔に、歳月の痕跡が深く刻まれていた。痩せた体と青白い顔色が、彼女がどれほど苦しい時間を過ごしてきたかを物語っていた。
ユナは玄関で靴を脱ぎかけ、リビングにいる誠一に気づいて動きを止めた。しばらく何も言えなかった。時間が止まったかのようだった。
「お母さん、このおじいさんが大家さんだって」
娘が無邪気にかけ寄り、ユナの手を握った。ユナは娘の頭を撫でながら、ゆっくりと顔を上げて誠一を見つめた。
「お義父様」
声が震えていた。25年という月日が流れてもなお、礼儀を忘れない嫁の姿だった。誠一は喉が詰まり、しばらく言葉を発することができなかった。彼女はかつて自分の嫁だった。息子の正斗が心から愛した女性だった。
「君だったのか。ここに住んでいたのは」
誠一の声も普段とは違って力がなかった。ユナは静かに頷いた。
「息子さんが亡くなられてもう5年になります」
その言葉を聞いた瞬間、誠一の手が震えた。息子が死んだという事実を、今になって確認することになったのだ。25年間、絶縁していたため、息子の死さえ知らずにいた。
「じゃあ、あの子は?」
「はい。息子さんが残してくださった孫娘です。美代と言います」
誠一は息が詰まった。自分の血を引く孫娘がこんなに近くにいたのに、全く知らなかったという事実に衝撃を受けた。美代は依然として母のそばに立ち、見慣れない祖父を不思議そうに見つめていた。
ユナは娘に言った。
「美代、お部屋で宿題していてくれる? お母さん、お客さんと大事な話があるから」
「うん。お母さん」
美代は素直に返事をし、奥の部屋に入っていった。ドアが閉まると、リビングには重い沈黙が流れた。ユナは誠一に席を進めた。
「お座りください。お義父様」
誠一とミキが古びたソファに腰を下ろすと、ユナがお茶を出してくれた。震える手でカップを渡す姿に緊張がありありと現れていた。
「正斗はいつ亡くなったんだ?」
「5年前の秋です。工事現場の事故でした」
誠一の胸は崩れ落ちた。息子が工事現場で働いていて死んだという話だった。かつて有名大学を出て将来を嘱望されていた息子が、そんな場所で働かなければならなかったとは。
「なぜ? なぜ連絡しなかったんだ?」
「連絡などできたでしょうか? お義父様が私たちを家から追い出された時、何とおっしゃいましたか?」
ユナの声には、長年抑圧されてきた感情が滲んでいた。誠一は25年前のあの日を思い出した。当時、誠一は息子の結婚に猛反対した。ユナは平凡な家庭の出身で、特別な財産も背景もなかった。天油グループの後継者の妻としては不十分だと考えたのだ。
「うちの家柄に平凡な女を迎え入れるわけにはいかん。家の格が落ちる」
それが当時、誠一が言った言葉だった。息子が泣きながら懇願したが、聞き入れなかった。結局、息子はユナと共に家を出て、その日以来連絡が途絶えたのだった。
「25年間、こうして生きてきたのか」
誠一は部屋を見回しながら呟いた。冷蔵庫の唸る音、窓の外から聞こえる車の騒音、そして壁のあちこちに染み込んだ湿気。全てが貧しい生活の痕跡だった。
「最初は大変でした。正斗さんもなかなか仕事が見つからなくて。でも、幸せでした」
ユナの声に当時の記憶がにじみ出ていた。
「子供が生まれてからはもっと一生懸命に働きました。朝も昼も夜も働いて、この家も手に入れて」
ユナは言葉を止めた。夫を失った喪失感がまだ癒えていないようだった。誠一は胸が苦しくなった。自分の頑固さのせいで、息子がそんなに苦しい人生を送らなければならなかったことが耐えがたかった。そして今、その代償を嫁と孫娘が払っている。
「病院には、なぜ通っているんだ?」
「大したことではありません。風邪が長引いているだけです」
ユナは何でもないように言ったが、誠一は部屋にあった薬袋を思い出した。肺疾患の治療薬がほとんどだった。単なる風邪ではない可能性が高い。
「正確には何が問題なんだ?」
「お義父様にご心配いただくようなことではございません」
ユナのきっぱりとした返事に、誠一はそれ以上問い質すことができなかった。25年間、他人も同然だった間柄で、急に心配されても受け入れがたいだろう。
ミキが慎重に口を開いた。
「失礼ですが、家賃の件でお伺いいたしました」
ユナの顔が曇った。
「存じております。8ヶ月の滞納ですね。申し訳ございません。事情が終わり次第、近いうちにお支払いします。もう少しだけお時間をください」
ユナは頭を下げた。プライドの高い人間が頭を下げるというのは、本当に切迫した状況だということだった。誠一は複雑な心境だった。嫁に家賃の督促確認に来たつもりが、孫娘の存在を知り、息子がすでにこの世にいないという事実まで確認した。全てが一気に押し寄せ、頭が整理できなかった。
「76万円だ。少ない額ではない」
「はい。承知しております」
ユナはさらに小さくなった。誠一は彼女の姿を見て胸が痛んだ。かつて息子があれほど愛した女性が、こんなに見窄らしくなっているとは。
奥の部屋から美代の声が聞こえた。
「お母さん、お水ちょうだい」
「ちょっと待っててね。美代」
ユナが立ち上がろうとした時、突然咳が込み上げてきた。激しい咳がしばらく止まらない。手で口を覆ったが、音を隠すことはできなかった。誠一は驚いて立ち上がった。
「大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
しかし、ユナの顔はさらに青白くなっていた。息を整えるのも苦しそうだ。誠一はこの状況をどう受け止めればいいのか分からなかった。25年ぶりに会った嫁は病に倒れ、孫娘は貧困の中で育っていた。そして、全ての始まりは自分の頑固さにあった。
外に出た誠一とミキは、しばらく無言だった。春の夜の空気が冷たかった。
「会長、いかがなさいますか?」
ミキの問いに、誠一は答えられなかった。これまで生きてきた全てのものが揺らぐような気分だった。
それから3日が過ぎた。誠一は嫁と孫娘のことが頭から離れなかった。会社でも集中できず、夜も眠れない日が続いた。25年ぶりに会った家族の現実があまりにも衝撃的だったのだ。
「会長、もしかしてご体調でも?」
吉田ミキが心配そうに訪ねた。いつもより口数が少なく、頻繁に窓の外を眺めていたからだ。
「吉田君、あの家についてもう少し調べてくれ」
「はい。どちらの大家のことでしょうか?」
「203号室の佐藤さんのことだ。正確にどんな状況なのか把握してくれ」
ミキは意外そうな表情を浮かべた。普段なら家賃滞納者については法的手続きを指示するだけなのに、今回は違った。
2日後、ミキが調査結果を持ってきた。
「佐藤さんは3年前から肺線維症を患っています。現在、かなり進行した状態です。また、消費者金融などからの借入れが3件以上確認されました。合計で約450万から500万円ほどになります。肺線維症の治療費が重く、複数の場所からお金を借りたようです。現在の主な債務は300万円ほどです」
誠一の顔がこわばった。肺線維症となれば、命に関わる病気だ。
「まだあります。娘の美代さんも昨年、心臓の手術を受けたそうです。先天性疾患で、その時の手術費用のためにさらに大きな借金を負ったそうです」
誠一は椅子によりかかり、目を閉じた。孫娘まで病気だったとは。これまでこの家族がどれほど大変な時間を過ごしてきたか、想像に難くなかった。
「今すぐあの家に行くぞ」
「はい。急でございますか?」
「今すぐだ」
誠一の声には切迫感が滲んでいた。1時間後、誠一は再び203号室の前に立っていた。ドアをノックすると、美代が出てきた。
「おじいさん、また来てくれたんだね」
少女は嬉しそうに笑ったが、顔は以前より痩せて見えた。
「お母さんはどこだ?」
「ベッドで休んでるの。すごく具合が悪そうで」
誠一は胸が詰まった。美代の案内で奥の部屋に入ると、ユナがベッドに横たわっていた。息をするのも苦しそうな様子が見て取れた。
「お義父様、なぜまた?」
ユナは体を起こそうとしたが、力が入らないようだった。
「そのまま寝ていなさい。少し話がしたい」
誠一はベッドの横の椅子に腰を下ろした。テーブルの上には病院の請求書と借金の督促状が混在していた。金額を見れば、状況がどれほど深刻か一目瞭然だった。
「美代の手術費のために、闇金にまで手を出しました。もう何も残っていません。家賃も払えず、治療費も滞納して」
ユナの声は力なかった。
「いくら必要なんだ?」
「え?」
「金のことだ。正確にいくら必要なのかと聞いている」
ユナは戸惑った表情を浮かべた。あまりに突然の質問だった。
「答えなさい」
「治療費が200万円、借金が300万円、合わせて500万円ほどです」
誠一は頷いた。自分にとっては大金ではないが、この家族にとっては到底払えない額だろう。
「でも、命だけは助けたいんです」
ユナは目を閉じた。母親としての最後の切なる願いがこもった言葉だった。
「あの時、お前が俺の息子を連れて行ったんじゃない。俺がお前たちを捨てたんだ」
誠一は黙って頭を下げた。25年前の過ちがこうして帰ってきたのだ。自分の頑固さと偏見のせいで家族は離散し、ついには息子が死に、嫁と孫娘がこんな苦しみを味わっている。
「お義父様、すまなかった。本当にすまなかった。25年間、こんなに苦労させて」
ユナは涙を流した。長い間抑え込んできた感情が堰を切ったように溢れ出した。
その夜、誠一は秘書に指示した。
「あの入居者の治療費を全額支援しろ。借金も全て整理してやれ」
「会長、500万円を超える金額ですが」
「構わん。私の名前は絶対に出すな。匿名で処理しろ」
「かしこまりました」
誠一は窓の外を見つめ、深いため息をついた。金で全てを解決できるわけではないが、少なくとも命は救えるはずだと思った。
しかし、問題はそれで終わらなかった。
2日後、203号室の前で騒ぎが起きていた。誠一が現場に到着した時、借金取りの男2人がユナと言い合っていた。
「金がねえなら、うちの債務は別だぞ」
1人が叫んだ。40代前半に見える男だった。隣には30代後半の仲間が立っていた。
「お願いします。もう少しだけ時間をください」
ユナは震える声で懇願した。
「時間だ。もう3ヶ月も遅れてるんだぞ。何が時間だ」
「子供を巻き込まないでください。私に言ってください」
「借金は家族全員で責任を負うもんだろ。うちは別の業者だ。片方返しても、もう片方は別なんだよ」
その言葉にユナは恐怖に震えた。美代を守ろうと、子供の前に立ちはだかった。
「やめてください。美代には手を出さないで」
「じゃあ、出せよ。今すぐだ」
借金取りがユナを突き飛ばすと、彼女は壁にぶつかって倒れ込んだ。体が弱っている状態では、衝撃は大きかっただろう。
「お母さん!」
美代が泣きながら駆け寄った。
まさにその時だった。誠一が階段を上がってきた。
「ここで何をしている?」
誠一の声には威圧感が漂っていた。借金取りたちが振り返った。
「あんた誰だ? 首を突っ込むな」
「この建物の大家だ」
誠一の言葉に借金取りたちの表情が変わった。大家となれば無視できない存在だった。
「まあ、未成年者に対する脅迫発言を全て録音した。直ちに110番に通報する」
誠一はスマートフォンを取り出して見せた。
「玄関の防犯カメラの映像もバックアップ済みです」
ミキが前に出た。借金取りたちの態度が急変した。
「150万円だったな。今すぐ清算してやるから、とっとと立ち去れ」
誠一は財布からカードを取り出した。
「本当ですか? 本当に返してくれるんですか?」
「私が嘘を言う理由があるか?」
誠一はミキに目くばせした。ミキが前に出て口座情報を確認し、その場で送金手続きを行った。
「確認しました。150万円、入金完了です」
借金取りたちはスマートフォンで入金を確認すると、呆然とした表情で立ち去っていった。
「じゃあ、これで終わりですね。2度とこの家の前に現れるな」
誠一の冷たい声に、借金取りたちは慌てて姿を消した。ユナは床に座り込んだまま、涙を流していた。美代が母親をしっかりと抱きしめていた。
「なぜ? なぜ私たちを助けてくださるのですか?」
ユナの問いに、誠一は答えられなかった。どう言えばいいのか分からなかったのだ。
「治療費もすでに手配済みだ。もう心配するな」
「え?」
「匿名の支援者がいると、病院から連絡があったはずだ」
ユナは信じられないという表情を浮かべた。1日にして全ての借金がなくなるなど、現実とは思えなかった。誠一はその場を立ち去ろうとした。これ以上言うべき言葉はなかった。しかし、美代が駆け寄ってきて、彼の服の裾を掴んだ。
「おじいさん、ありがとう」
少女の澄んだ瞳が誠一の心を揺さぶった。この瞬間だけは、本当の祖父になったような気がした。
しかし、この全ての出来事を見つめている、もう1つの視線があった。天建設の田中孝太、常務だった。彼は会長の奇妙な行動を周囲に気づかれないよう、深く張っていたのだ。
「会長はなぜあんな場所に頻繁に通うんだ?」
田中は疑問を抱き始めた。そして、その疑問はやがてより大きな問題へとつながっていくのだった。
借金取りが去ってから1日が過ぎた。誠一は会社でも集中できなかった。嫁と孫娘の姿が絶えず頭に浮かんでいた。特に美代が自分をおじいさんと呼び、感謝してくれた瞬間が忘れられなかった。
「会長。本日の午後は天建設の役員会議がございます」
吉田ミキがスケジュールを伝えた。しかし、誠一の心はすでに別の場所にあった。
「吉田君、203号室の様子を確認してくれ」
「はい。昨日、借金の整理は全て済ませましたが」
「それでも、もう1度行ってみよう。なんだか胸騒ぎがする」
誠一の直感は外れていなかった。午後、誠一とミキがビルに到着すると、異様な物音が聞こえてきた。2階から怒鳴り声と、ドンドンと何かを叩く音が響いていた。
「何かおかしいですね。会長」
2人は急いで階段を駆け上がった。203号室の前に着くと、玄関のドアが完全に破壊されていた。ドア枠が外れ、鍵も壊されていた。
「一体、何が?」
誠一が中に入ろうとした瞬間、中から荒々しい声が聞こえた。
「借金も返せねえくせに。ここで粘る気か」
昨日とは違う借金取りたちだった。より乱暴で暴力的な雰囲気の男たちだった。1人は50代前半に見える大柄な男で、もう1人は40代後半の鋭い目つきの男だった。
「やめてください。昨日、全て整理してもらったはずです」
ユナの震える声が聞こえた。彼女は隅に追い詰められ、美代を腕の中に抱いて泣いていた。
「知るか。俺たちは別の業者だ。それぞれの債権は別なんだよ」
大柄な男が叫んだ。
「治療費のために、あちこちから借りたんだろう。うちの債務は別口だ」
鋭い目つきの男が付け加えた。美代が母の腕の中で泣きじゃくっていた。
「お母さん、怖いよ」
子供の声に、誠一の胸は張り裂けそうだった。昨日、全てが解決したと思ったのに、まだ別の借金があったのだ。
「金がねえなら、この家だけでも明け渡しな。ここで商売でもしてやるよ」
鋭い目つきの男がテーブルを蹴り飛ばした。その上にあった美代のノートと色鉛筆が床に散らばった。
「やめてください。子供がいるのに。なぜこんなことを?」
ユナが必死で止めに入ったが、弱った体では力の差は歴然だった。
まさにその時だった。誠一が玄関から入ってきた。
「ここで何をしている?」
誠一の声には冷たい怒りが宿っていた。借金取りたちが振り返った。
「あんた誰だ? 家族か?」
「この家の大家だ。やめろ」
誠一は1歩ずつ中に入ってきた。72歳という年齢にも関わらず、威圧的な雰囲気を放っていた。
「大家だとは。それなら、家賃の借金も責任取るべきじゃねえのか」
大柄な男が嘲った。
「この建物は私のものだ。今すぐ出ていけ」
「俺たちがなんで出ていかなきゃならねえんだ。金を取りに来ただけだ」
「警察を呼ぶか」
誠一の冷たい言葉に、借金取りたちは一瞬ためらった。しかし、すぐに態度を改めた。
「警察? いいぜ。呼びなよ。借金の取り立てが何の罪になるってんだ」
鋭い目つきの男が誠一に近づいた。
「じいさん、年寄りは余計なことに首を突っ込むなよ。怪我するぜ」
彼は誠一の肩を乱暴に押した。誠一が後ろによろめいた。
「会長!」
ミキが驚いて駆け寄ったが、誠一は手で制した。
「今の発言と行動。全て録音と録画で確保した。直ちに警察に引き渡す」
誠一はスマートフォンを掲げて見せた。
「玄関の防犯カメラも全て記録しています」
ミキが前に出た。借金取りたちの表情が急変した。暴力と脅迫が全て証拠として残ることを悟ったのだ。
「いくらだ? 借金はいくらだと言っている」
誠一は体勢を立て直し、借金取りを正面から見据えた。
「100万円だ。利息を入れたら120万円だな」
「分かった。私が払ってやるから、とっとと行け」
借金取りたちは顔を見合わせた。昨日と全く同じ状況だった。
「本当ですか? また払ってくれるんですか?」
「条件がある。2度とこの家に来るな。そして、他の業者も来られないようにしろ」
大柄な男は首をかしげた。
「他の業者? それは俺たちにはどうしようもない」
「では、警察を呼ぼう」
誠一の断固たる態度に、借金取りたちはついに折れた。ミキがその場で口座振り込みを済ませると、彼らは慌てて去っていった。しかし、去り際に一言残していった。
「じいさんよ。こんな風に払い続けるつもりかい。この女の借金は1つや2つじゃねえぜ」
ドアが閉まった後、部屋には重い沈黙が流れた。ユナは床に座り込み、涙を流していた。
「申し訳ございません。本当に申し訳ございません」
「立ちなさい。床は冷える」
誠一はユナを立たせた。彼女の手は冷たく冷え切っていた。
「借金はあとどれくらいあるんだ?」
「分かりません。病院で急にお金が必要になるたびに、あちこちから借りてしまって」
ユナの声は絶望に満ちていた。
「正確に把握する必要があるな。吉田君、専門業者に依頼して、彼女の借金を全て調査してくれ」
「はい。かしこまりました」
美代が誠一に近づいてきた。
「おじいさん、私たちのせいで大変だよね」
子供の純粋な問いに、誠一は胸が詰まった。
「いいや。全く大変じゃない」
誠一は美代の頭を撫でた。初めて孫娘に触れた瞬間だった。
その夜、誠一は会社に戻り、重要な決断を下した。あのビルの再開発計画を全面中止する。役員が集まる会議室で、誠一が発表した。全員が驚愕した。
「会長、あのビルは地価再開発の核となる土地です。予想利益は数十億円に上りますが」
田中孝太常務が反対した。
「構わん。リフォームに方針転換する」
「リフォームですか? それでは利益が10分の1に減ってしまいますが」
「まず人を救うのが先だ。利益は後回しだ」
誠一の断固たる言葉に、会議室は騒然となった。これまでの経営方針とは全く異なる決定だったからだ。
「会長、何か特別な理由がおありなのでしょうか?」
別の役員が慎重に尋ねた。
「ただ、そうしたくなっただけだ」
誠一はそれ以上説明しなかった。しかし、心の中でははっきりと分かっていた。これは贖罪だ。25年間家族を捨てた罪、息子を失わせた罪、嫁と孫娘を苦しませた罪に対する贖罪なのだ。
会議が終わった後、田中が誠一の執務室を訪ねてきた。
「会長、本当に再開発を断念されるのですか?」
「そう言ったはずだ」
「あのビルに何か特別な意味でも? 急なご決断ですので」
田中の目には疑いの光が宿っていた。誠一の最近の行動が腑に落ちないと考えていたのだ。
「常務が気にすることではない。しかし、会社の利益に大きな打撃が」
「私が対処する。下がりなさい」
誠一の冷たい命令に、田中は仕方なく引き下がった。しかし、彼の疑念はさらに深まっていた。
その夜、誠一は1人で執務室に残り、窓の外を眺めていた。遠くに見えるあのビルの方向を見つめていた。そこに自分の家族が住んでいるという事実がまだ信じられなかった。しかし、今は確信していた。残された時間で彼らを守り抜くという決意を。
田中の執務室は暗闇に包まれていた。深夜にも関わらず、彼はパソコンの前に座っていた。画面には天グループの株価チャートと再開発プロジェクトの損失予想表が表示されていた。
「数十億円だぞ。数十億円を意図も簡単に不意にするとは」
田中は歯噛みした。15年間、天油建設で働き、築き上げてきた侵略と利益が、会長の突発的な行動1つで水の泡になろうとしていた。これまで再開発プロジェクトから得てきた様々な手数料や裏金も途絶える危機にあった。
「会長は感情に振り回されている」
田中は電話を取った。相手は協力会社の社長だった。
「あの女1人のせいでプロジェクトが止まったんです。我々が損をするのは当然のこと。会長の判断力にも問題があるようです」
電話の向こうから荒々しい罵声が聞こえた。すでに投資を進めていた業者たちの怒りだった。田中は机の引き出しから封筒を1つ取り出した。中には報道機関の記者の名刺が入っていた。これまで会社の不祥事のために管理してきた人脈だ。
「そろそろ使う時が来たようだな」
翌朝、インターネットのポータルサイトのトップに衝撃的な記事が掲載された。
「天油グループ鈴木誠一会長、不正資金で特定の入居者を支援か」
記事の内容は具体的だった。会長が個人的に入居者の借金を肩代わりしたこと、会社の資金を私的に流用した可能性、そして再開発プロジェクトを感情的に中止させたことへの批判まで書かれていた。コメントはまたたく間に数千件に達した。
「やっぱり財閥はこれだからな」
「個人の感情で会社を左右するのか」
「株主の金で遊んでるんじゃないだろうが」
「透明性はどこへ行ったんだ」
誠一は朝のニュースを見て、険しい表情を浮かべた。予想していたことではあったが、これほど早く表沙汰になるとは思わなかった。
「会長、どのように対応されますか?」
吉田が心配そうに訪ねた。
「ひとまず静観」
しかし、状況は誠一の予想をはるかに超えて急速に悪化した。午後には48時間以内の臨時取締役会の通知が届いた。
通知から2日後、臨時取締役会の会議室は殺伐とした雰囲気に包まれていた。7人の取締役の内5人が出席していたが、全員が深刻な表情をしていた。
「会長、今朝の記事はご覧になりましたね」
取締役会の議長が冷たい声で訪ねた。
「ああ」
「事実ですか? 個人的な感情で会社の資金を」
誠一はしばらく沈黙した。否定することもできたが、嘘はつきたくなかった。
「会社の資金ではない。私の個人資産だ」
「では、再開発プロジェクトの中止はどう説明されますか?」
別の取締役が鋭く追及した。
「事業の判断だ」
「事業上の判断ですか? 数十億円の損失を出すことが事業上の判断だとは」
「金より重要なものがある」
誠一の答えに、取締役たちは顔を見合わせた。これまでの誠一とは全く違う姿だったからだ。
「会長の個人的な感情が企業経営に介入したとなれば、重大な問題です。株主や同業者たちにどう説明なさるおつもりですか?」
議長が厳しい声で言った。誠一は黙って全ての非難を受け止めた。弁解するつもりもなかった。実際に自分が感情的に行動したのも事実だったからだ。
「会長の解任問題も一部で議論されています」
ある取締役の言葉に、会議室が静まり返った。誠一は頷いた。
「必要とあらば、そうしよう」
その瞬間だった。誠一のスマートフォンがけたたましくなった。発信者は美代だった。
「もしもし」
「おじいさん!」
美代の泣きじゃくる声が聞こえた。
「お母さんが急に倒れたの。救急車を呼んだけど、今病院に向かってて」
誠一の顔が真っ白になった。
「どこの病院だ?」
「大学病院です。おじいさん、お母さん、息が、息が苦しそうで」
誠一は電話を切り、席から勢いよく立ち上がった。
「取締役会は後で続ける」
「会長、まだ重要な話が」
しかし、誠一はすでに会議室を出て行っていた。25年ぶりに見つけた家族が危険に瀕している。会社の仕事が重要であるはずがなかった。
病院の救急治療室に到着した時、美代が椅子に座って泣いていた。10歳の子供が1人でこの状況に耐えているとは。誠一の胸は張り裂けそうだった。
「美代ちゃん」
「おじいさん!」
美代は駆け寄って誠一にしがみついた。小さな体がブルブルと震えていた。
「お母さんはどこにいるんだ?」
「あそこの救急室の中。お医者さんが入っちゃだめだって」
誠一は救急室の入り口に警告灯がともり、立ち入りが制限されているのを確認した。緊急処置が行われている最中だということだ。
1時間後、医師が出てきた。
「保護者の方ですか?」
「はい、そうです」
「肺線維症が急性増悪を起こしました。当面は集中治療室で人工呼吸器と薬剤の投与が必要です。長期的には移植リストへの登録をお勧めします」
医師の言葉に、美代は再び泣き崩れた。
「面会は可能でしょうか?」
「ご家族の方のみ、10分ほど可能です」
誠一は美代の手を握り、集中治療室へと向かった。ユナは酸素マスクをつけ、ベッドに横たわっていた。顔は青白く、全く正気がなかった。
「お母さん」
美代がそっとユナの手を握った。冷たい手だった。誠一はベッドのそばに立ち、ユナを見つめた。25年前、初めて会った時の姿が脳裏に浮かんだ。あの頃、彼女はどれほど美しく明るかっただろうか。息子の正斗があれほど愛した理由が分かった気がした。
「ユナさん」
誠一が静かに呼びかけた。ユナのまぶたがかすかに震えた。
「私はまだ許されていない。だが、どうか生きてくれ」
誠一の声が震えていた。生涯強く生きてきた72歳の老人が、初めて誰かに懇願していた。
集中治療室から出た誠一と美代は、廊下で待っていた。夜は更けていったが、誠一は病院を離れるつもりはなかった。美代は誠一の膝によりかかって眠り込んでいた。
午前2時頃、担当の医師が現れた。山田武志だった。50歳の彼は20年間、肺疾患の専門医として働いてきたベテランだ。
「患者さんの状態は深刻です。緊急処置と集中治療の一時費用として、約72万円が発生します」
誠一の顔がこわばった。
「最善を尽くしてください」
「もちろんです。ところで、失礼ですが、患者さんとはどのようなご関係で?」
誠一は一瞬ためらった。そして、きっぱりと答えた。
「彼女は私の家族です」
医師は意外そうな表情を浮かべた。年齢差を考えれば父娘のようだが、何か複雑な事情があるように見えた。
「承知いたしました。治療の準備を始めます」
誠一は治療費の支払いのために1階へ降りた。窓口の職員が金額を確認しながら言った。
「72万円でございます。カードでのお支払いでよろしいでしょうか?」
「ああ」
誠一がカードを渡した瞬間、後ろから声がした。
「会長」
振り返ると、吉田ミキが立っていた。夜遅くに病院まで駆けつけたのだ。
「吉田君、どうしてここまで?」
「心配で参りました」
「患者さんのご容態は緊急処置が必要な状態だ」
誠一は支払いを済ませ、ミキと共に病院のロビーに座った。
「会長、会社で大変なことが起きました」
「なんだ?」
「田中が逮捕されました」
誠一の目が光った。
「逮捕?」
「はい。会社資金の横領容疑です。検察が今夜、緊急逮捕しました」
誠一は予想していたことだというように頷いた。
「やはりそうか」
「会長は予想しておられましたか?」
「ある程度はな。あの男の動きはあまりに露骨だった」
実は誠一は数日前から田中の奇妙な行動に気づいていた。再開発プロジェクトに執着しすぎる様子。そして、マスコミに情報をリークしたのも田中の仕業だと確信していた。
「調査の結果、5年間で総額3億円を横領していたことが判明しました」
「3億だと」
「はい。協力会社と共謀し、架空の契約書を作成して資金を横領していました。再開発プロジェクトもその一部です」
誠一は鼻で笑った。田中が自分を攻撃した理由が明確になった。再開発プロジェクトが中止になれば、自分の不正が発覚する危険があったのだ。
「会長に罪を着せようとしていたのですね」
誠一は静かに言った。
「人の欲は、結局人を滅ぼすものだ」
午前4時、救急室前の待ち合い室で、誠一は美代と共に待っていた。子供は依然として誠一に寄りかかって眠っている。治療が始まってから6時間が経過した。誠一は1度も席を立たずに待ち続けた。72歳という年齢にも関わらず、全く疲労を感じなかった。むしろ緊張感のせいで意識はより鮮明だった。
午前8時、ついに集中治療室のドアが開いた。山田がマスクを外しながら出てきた。
「緊急処置は成功しました」
誠一は安堵のため息をついた。
「ただし、リハビリと経過観察が必要です。最低でも数週間は入院治療を受けていただくことになります」
「承知いたしました」
誠一は頭を下げ、涙を流した。生涯でほとんど泣いたことのない彼が、病院の廊下で声を上げて泣いていた。
「おじいさん、どうして泣いてるの?」
美代が目を覚まして尋ねた。
「嬉しくてな。お母さんが助かったんだ」
「本当? 本当に?」
「本当だ」
美代も涙を流した。しかし、今回は喜びの涙だった。
「ありがとうございます。先生」
誠一は山田に丁重に頭を下げた。
「私がすべきことをしたまでです。患者さんも自身の意思が強かった。お金で治療がうまくいきました」
数日後、ユナが意識を取り戻した。誠一は病室で彼女を見守っていた。
「お義父様」
それがユナの第一声だった。
「目が覚めたか」
「美代はどこにいますか?」
「学校に行ったよ。心配するな」
ユナは酸素マスクの向こうから誠一を見つめていた。まだ話すのは辛そうだったが、目ははっきりしていた。
「なぜ、私たちを助けてくださるのですか?」
誠一はしばらく答えられなかった。25年間抑圧してきた感情が喉を塞いでいた。
「すまなかった。本当にすまなかった。正斗を行かせてしまってすまなかった。お前たちを苦労させてすまなかった。全てが、本当にすまなかった」
ユナの目から涙がこぼれ落ちた。
「今更すまないと言っても、許してくれと頼む資格もない。ただ、残された時間でお前たちを守りたいんだ」
その夜、誠一は病室の窓を開け、夕焼けを眺めていた。西の空が赤く染まっていた。
「正斗よ。私が遅すぎたな。お前が心から愛した人たちを、今頃になって知るとは。本当に遅すぎたが、せめてこれからは見守らせてほしい」
数日後、ミキが病院を訪ねてきた。
「会長、会社の状況が整理されました」
「どうなった?」
「田中の件で全ての疑惑が晴れました。むしろ、会長に対する世論は好転しています」
「そうか」
「はい。会長が個人資産で困窮した入居者を助けたという事実が知れ渡り、企業の社会的責任だとして賞賛する記事が出ています」
誠一は気のない表情を浮かべた。世論がどうであろうと関係なかった。
「そして、再開発プロジェクトの代わりに進めることになったリフォーム計画が大きな反響を呼んでいます。既存の住民を追い出すことなく再生するモデルだとして、政府からも関心が寄せられています」
誠一は意外そうな表情を浮かべた。感情的に下した決断が、帰って良い結果をもたらしたのだ。
「世の中には、正しいことが利益をもたらすこともあるのですね」
ミキの言葉に、誠一は頷いた。
しかし、まだ全てが終わったわけではなかった。田中は起訴され裁判中だが、その背後にはさらに大きな勢力がいる可能性が高い。そして、誠一が家族を守ろうとする気持ちが強まるほど、彼らを狙う視線もさらに危険なものになるだろう。誠一は窓の外を見つめ、覚悟を決めた。これからが本当の戦いの始まりだと感じていた。
ユナが意識を取り戻してから4日が過ぎた。緊急処置は成功したが、回復には時間が必要だった。誠一は毎日病院に通い、彼女のそばに付き添っていた。
「会長、会社の方はよろしいのですか?」
ユナが慎重に尋ねた。酸素マスクを外してからは声もだいぶ良くなっていた。
「会社より、ここが重要だ」
誠一の答えに、ユナは複雑な表情を浮かべた。25年前とは全く違う姿だったからだ。
「美代は今日も学校から直接来るのか?」
「そうでしょう。あの子は母親のことが心配でたまらないからな」
誠一は窓際の椅子に座り、ユナを見つめていた。緊急処置の後、随分痩せたが、顔には正気が戻りつつあった。
その時、ユナがベッドの横の引き出しを開けた。
「お義父様、これをお渡ししなければ」
彼女は小さなベルベットの箱を取り出した。指の大きさほどの古びた箱だった。
「これは?」
誠一が箱を受け取って開けると、中には小さな貝殻のネックレスが入っていた。しかし、美代がつけていたものとは形が違う。まるで何かの語りかけのようだった。
「これは、お義母様からいただきました」
ユナの言葉に、誠一の手が震えた。
「母が?」
「はい。亡くなる前に、私を訪ねてこられました」
誠一は箱を見つめながら、過去を思い出した。30年前、結婚10周年を記念して妻に送った特別なネックレスだった。1つの貝殻を2つに分けて作ったペアのネックレスだ。妻が片方をつけ、自分がもう片方を持っていた。
「あの方がいらした時、とてもお元気そうでした」
ユナはあの日を思い出しながら言った。
「正斗さんと私が家を出てから半年ほど経った頃でした。お義母様が1人で私たちの家を訪ねて来られたんです」
誠一は妻がそんなことをしていたとは全く知らなかった。当時、妻は癌と闘病中だった。体が辛い中、嫁に会いに行ったのだ。
「何と言っていた?」
「最初は何もおっしゃらず、しばらく泣いておられました。それから、このネックレスを私の手に握らせて」
ユナは一瞬言葉を止めた。当時の記憶が生々しく蘇った。
「『誠一さんが本当の心に気づいたら、これを返してあげて』と」
誠一は息が詰まった。妻が自分の心をそこまで深く理解していたとは。
「そして、もう1つ。何とおっしゃったかご存知ですか?」
ユナの声に温かみがにじんでいた。
「『正斗をよろしくお願いしますね。あの子は表向きは強く見せているけれど、本当は弱い子だから』と。そして、『いつか誠一さんが自分の過ちに気づく時が来る』とおっしゃっていました」
誠一の目から涙がこぼれた。妻は死ぬ間際まで家族を心配していたのだ。
「母は知っていたのか」
誠一は震える手でネックレスに触れた。30年前の記憶が鮮明に蘇る。
「あなた、このネックレス特別なのよ」
妻が笑いながら言った。
「あの日を思い出した。1つを2つに分けたものでしょう。私たちが離れていても、心は1つという意味なのよ」
その時、誠一はただ笑って聞き流したが、妻はその意味を本当に大切にしていたのだ。
「お義父様もお持ちですよね」
ユナの言葉に、誠一は頷いた。自分のネックレスは仏壇の引き出しの奥深くにしまってある。妻が亡くなってから、見るに忍びなく隠しておいたのだ。
「明日、持ってくる」
「そうすれば、美代がつけているネックレスと合わせて3つが揃いますね」
誠一は意外そうな表情を浮かべた。
「3つ?」
「はい。お義母様はネックレスを2つくださったんです。1つは私に、もう1つは美代に」
ユナは微笑んだ。
「おそらく、ペアのペンダントの他に、いつか会える日のために、同じ貝殻で小さなペンダントをもう1つ注文して置かれたのだと思います」
誠一は胸が熱くなった。妻は死ぬ前にすでに全てを計画していたのだ。いつか家族が再会する。その日のために。
「お義母様が亡くなる直前、正斗さんにも手紙を送っておられました」
「手紙?」
「はい。正斗さんはその手紙を読んで、ひどく泣いていました。『お父様に連絡したかった』そうですが、勇気が出なかったと」
誠一に後悔の念が押し寄せた。息子が連絡したがっていたのに、自分が頑固すぎたのだ。
「その手紙の内容を知っているか?」
「はい。正斗さんが私に読んでくれましたので」
ユナはしばらく目を閉じ、記憶を辿った。
「『息子へ。お父さんは今怒っていますが、いつか必ず後悔するでしょう。その時まで、ユナさんと幸せに暮らしなさい。そして、子供が生まれたら、必ずお父さんに見せてあげなさい。お父さんは孫を見れば、きっと心が変わるはずだから』と書かれていました」
誠一はしばらく言葉を発することができなかった。妻が全てを予見していたのだ。
「息子さんも、最後まで私たちのことばかり心配していました」
ユナの声が涙で潤んでいた。
「亡くなる前に、『父さんにすまなかったと伝えてほしい。自分のせいで家族がバラバラになった』と」
誠一は首を横に振った。
「違う。間違っていたのは私だ」
その時、病室のドアが開き、美代が駆け込んできた。
「お母さん! おじいさん!」
子供は学校から直接病院に来たようだった。体操服のままランドセルを背負っている。
「美代、学校はどうだった?」
「楽しかったよ。友達が、お母さんが早く良くなるようにって、お手紙書いてくれたの」
美代はランドセルから色紙で作られた手紙を取り出した。子供たちが心を込めて作ったものだった。
「それとね、おじいさん。先生がおじいさんの話を聞かせてって」
「私の話?」
「うん。おじいさんがどんな人なのか知りたいんだって」
誠一に笑みがこぼれた。10歳の子供が祖父を誇りに思ってくれていることが、これほど嬉しいとは知らなかった。
「美代、こっちへおいで」
誠一は美代を呼び寄せ、ネックレスの箱を見せた。
「これは?」
「おばあちゃんがくれたんだ。お前の首にあるのと対になっているんだよ」
美代は自分のネックレスに触れ、不思議そうな顔をした。
「本当? じゃあ、おばあちゃんも私たちのこと愛してくれてたの?」
「もちろんだとも。おばあちゃんはお前たちを一番愛していたよ」
誠一はネックレスの2つのかけらを合わせてみた。完全な1つの形が出来上がった。
「これで完全になったな」
誠一は呟いた。母の思いも、息子の心も、今やっと理解できた。
ユナは誠一を見つめ、涙を流した。
「お義父様、これで本当に家族になれたのでしょうか?」
「もちろんだ。最初から家族だったんだ。私が気づかなかっただけで」
その夜、誠一は家に戻り、自分のネックレスを持ってきた。仏壇の引き出しの奥深くに隠しておいた。それを手に取った瞬間、30年間の思い出が蘇った。
翌日、病院で3つのネックレスが揃った。誠一のもの、ユナのもの、そして美代のものだ。
「わあ、本当に1つになった」
美代は不思議そうにネックレスたちを合わせてみた。誠一はその姿を見ながら悟った。家族とはこういうものなのだ。離れていても心は1つで、時が流れても愛は変わらないものなのだと。
しかし、まだ解決すべき問題が残っていた。田中の背後にある勢力。そして、これからこの家族をどう守っていくのかという問題だ。誠一は窓の外を見つめ、覚悟を決めた。これからが本当の新しい始まりだった。
1ヶ月が過ぎた。秋が深まる東京。あの地区のその古いビルの前には、新しい看板が掲げられていた。白い背景に緑の文字で書かれた「希望の家 地域健康相談所」という文字が、温かい日差しを浴びて輝いていた。
美代は長いモップを手に、看板を丁寧に拭いていた。10歳の少女はもうすっかり大きくなって見えた。体調が安定し、段階的に回復している母と共に、相談所の仕事を手伝っていたのだ。
「おじいさん、お母さんがまたお医者さんの仕事に戻ったよ」
美代は明るく笑いながら、誠一に駆け寄った。誠一はビル前のベンチに座り、孫娘の姿を満足そうに眺めていた。
「ああ、それこそが本当の回復というものだ」
誠一は微笑んだ。ユナが週に数回、医療ボランティアチームと共に地域住民の健康相談を行えるようになったことが、何よりも嬉しかった。彼女は緊急処置の後はリハビリを受けながら、慎重に医療活動を再開していた。
相談所は、誠一が建物を買い取り、入居者を中心にリフォームして作った場所だった。1階は健康相談所、2階はユナと美代が暮らせる清潔な住居スペースに改装した。もう家賃の心配をすることなく暮らせる安住の地だった。
「おじいさん、今日もお年寄りの人がたくさん来てたよ」
美代が誇らしげに言った。開設から1ヶ月で、この界隈の人々の間で口コミが広がり始めていた。経験豊富な医療スタッフと温かい相談員が無料で健康相談に乗ってくれるという噂が広まったのだ。
「では、お母さんは大変だな」
「うん。でも、お母さんすごく幸せそうだよ」
美代の言う通りだった。ユナは住民の相談に乗り、医療スタッフとの連携を図る中で、本当のやりがいを感じていた。お金のために治療を諦める人がいなくなること。それが彼女の夢だったからだ。
その時、相談所のドアが開き、ユナが出てきた。清潔な白衣をまとった彼女の姿は、1ヶ月前とは全く違っていた。正気に満ち、自信に溢れていた。
「お義父様、今日もお越しくださったのですね」
ユナは誠一に丁重に頭を下げた。今では彼女は自然に「お義父様」と呼ぶようになっていた。
「ああ、ここが私の仕事場だからな」
誠一は笑って答えた。彼はこの建物の1階の一角に小さなオフィスを設けていた。天油グループの社会貢献事業を自ら管理するためだった。
「今日の相談者は何人だったかね?」
「20人ほどです。お年寄りの方が多かったのですが、皆さんとても感謝してくださいました」
ユナの声には誇らしさが滲んでいた。誠一は満足そうな表情を浮かべた。最初は単に嫁と孫娘を助けるために始めたことだったが、今では本当に意義のある事業へと成長していた。
その時、吉田ミキがオフィスから出てきた。彼女もここで誠一の業務を補佐していた。
「会長、本日の新聞はご覧になりましたか?」
ミキが新聞を手渡した。一面に目を引く見出しがあった。
「大家の家賃76万円が1人の財閥の人生を変えた」
誠一は記事を読んだ。自分という名、そして家族の物語が詳細に書かれていた。もちろん個人情報は全て匿名で処理されていたが、内容は正確だった。記事は、ある財閥の会長が偶然出会った入居者家族を助ける中で、人生の真の意味に気づかされたという感動的なストーリーで構成されていた。
「良い記事ですね」
ユナが記事を読みながら言った。
「こういう話を読んで、人々が希望を持ってくれたら嬉しいです」
誠一は新聞を畳み、頷いた。重要なのは他人がどう評価するかではなく、自分が本当に意味のあることをしているかどうかだった。
「おじいさん、田中のおじさんはどうなったの?」
美代が不思議そうに尋ねた。子供もこれまでの出来事をある程度理解していた。
「今、起訴されて裁判中だ。おそらく長く刑務所に入ることになるだろう」
誠一は簡潔に答えた。田中は3億円の横領と会社機密の漏洩などの容疑で裁判を受けていた。貪欲さが招いた結果だった。
「悪いことをしたら、バツが当たるんだね」
美代が呟いた。
「そうだ。だから、いつも正しく生きなければならないんだ」
誠一は孫娘の頭を撫でた。
日が暮れようとしていた。西の空が赤く染まり、美しい夕焼けを作り出していた。誠一はネックレスを指先でなぞりながら呟いた。
「人は失っても、愛は残る」
ユナはその言葉を聞いて頷いた。
「正斗さんも、きっと喜んでくれているはずです」
「そうだろうな。息子が一番望んでいたのは、きっとこんな光景だったろうから」
誠一は空を見上げた。どこかで息子が見守ってくれているような気がした。
美代が2人の間に割って入り、言った。
「私たち、もう本当の家族だよね」
「当たり前じゃないか。最初から家族だったんだ」
誠一の答えに、美代はパッと明るく笑った。ユナは一瞬ためらった後、慎重に口を開いた。
「お義父様」
「うん」
「もう、本当に『お父様』と呼んでもよろしいでしょうか?」
誠一は胸が熱くなった。25年ぶりに再び「お父様」という呼び名を聞くことになったのだ。
「ああ、もちろんだ。そう呼んでくれ」
「では、これからは『お父様』と呼ばせていただきます」
ユナの声には真心がこもっていた。夕焼けの光が3人の手の甲に広がっていく。温かいオレンジ色の光が彼らを包み込み、平和な雰囲気を醸し出していた。誠一はこの瞬間を胸の奥深くに刻みつけておきたいと思った。72年の人生で、最も幸せな瞬間の1つだった。
「おじいさん、明日も来てくれるよね?」
美代が尋ねた。
「もちろんだとも。ここが私の家だからな」
誠一の答えに、美代とユナは笑った。家族はこうして再び1つになった。失われた25年の歳月を取り戻すことはできないが、これからの時間は共に築いていくことができる。そして、それだけで十分だった。
誠一は最後に建物を見上げた。「希望の家」という看板が夕焼けに照らされて輝いていた。本当に希望に満ちた家になった。本当の家族としての始まり。新しい始まりだった。


