寒い日の午後、取引先の営業マンが突然うちの工場にやってきた。俺は西田、四十歳。町工場の二代目社長だ。父が十年以上かけて開発した特許技術で、大手メーカーの製造ラインを支えてきた。「実は、私、部署移動が決まりまして。営業の担当が井上部長に変わるんです」その言葉を聞いた瞬間、一年前の光景が蘇った。初対面のあの日、廊下でコーヒーをぶつけられた挙句、一方的に怒鳴られたことを。まさか、あの男がうちの担当…
俺は西田、四十歳。町工場の二代目社長だ。初代の父は母と一緒に田舎で悠々自適の隠居生活を送っている。うちは反動体製造装置に使う重要部品を作っている。この部品は父の代から十年以上かけて開発したもので、熱変形防止機構を持つ特許技術だ。反動体製造装置は高温環境で動くから、わずかな歪みが製品の不良率を跳ね上げる。近年、国内でも反動体を作ろうという動きが活発になり、ありがたいことに仕事は増える一方だ。 寒い日だった。打ち合わせの合間に、取引先の営業・野本さんが突然訪ねてきた。顔を合わせるのも社長の仕事の一つだ。 「最近の調子はどうですか」 「ぼちぼちですよ。新しい部品の開発も順調です」 新部品の開発はかなり前から進めていた。売上の伸びで資金に余裕が出て、開発スピードも一気に上がった。試作品は完成し、複数の企業でテストが始まっているところだ。 「部品が完成したら、ぜひお話を聞かせてください」 「もちろんです。ところで、今日はどうされました?」 こちらから話を振ると、野本さんの顔が一瞬で曇った。 「実は、私、部署移動が決まりまして。営業の担当が井上部長に変わるんです」 思わず嫌な声が出た。野本さんは気にする様子もなく、むしろ申し訳なさそうに頭を下げた。 「すみません。別の人に頼みたかったんですが、部長が『俺に任せろ』と言って聞かなくて。引き継ぎ資料には西田さんの会社の技術の重要性を何度も書きました。部長がちゃんと読めば、必ず理解してくれるはずです」 いい担当者を失うのは痛い。だが、野本さんの判断を信じるしかない。 井上部長と俺には、少なからぬ因縁があった。 一年前、うちの会社と野本さんの会社が契約を結んだ時、挨拶のために俺は相手の会社を訪れた。受付で教えてもらった会議室へ向かおうとしたが、建物が広くて迷ってしまい、廊下の案内図と睨めっこしていた。すると突然、右肩に衝撃が走った。 「おい、こんなところにぼーっと立ってるな。どこの部署の人間だ?」 振り返ると、コーヒーをこぼした相手が一方的に怒鳴ってきた。俺はただ立っていただけで、道を塞いだわけでもない。相手がよそ見をしていただけだ。それなのに、全部俺のせいだと決めつけてくる。 「こぼれたコーヒーは片付けておけよ」 言い返したい気持ちを飲み込んだ。これから契約の挨拶に行く立場だ。トラブルを起こすわけにはいかない。 「わかりました」 頭を下げると、その男は満足そうに立ち去った。苦い思いを噛みしめていると、俺がなかなか来ないのを心配した野本さんが探しに来てくれた。事情と相手の見た目を伝えると、野本さんは顔をしかめた。 「総務の井上課長ですね。高学歴のいわゆるエリートなんですけど、部下への態度が悪くて評判は良くないんですよ。目上の人には愛想がいいから、課長まで上がれたって言われてます」 どうやら俺を部下と勘違いしていたらしい。確かに、俺は社長らしくない地味な見た目だ。 その後、当時の営業部長が病気で退職し、空いた椅子に井上課長が座ることになった。初対面であれだけ印象の悪い男が新しい担当者になると知り、俺の気分は沈んだ。 「きちんと引き継ぎ資料は用意してありますから、あれをちゃんと読んでおけば問題はないはずです」 野本さんの言葉を信じるしかなかった。井上部長は頭のいい人らしいし、資料を読めば理解してくれるだろう。俺はそう思っていた。しかし、井上部長は俺の想像をはるかに超える人物だった。 一か月後、正式に担当が引き継がれ、挨拶のために俺は相手の会社を再び訪れた。井上部長は一年前に会ったことを覚えていないらしく、じろじろと遠慮のない視線を向けてから、俺が差し出した名刺に目を落とした。 「初めまして。西田と申します。よろしくお願いいたします。野本さんから聞いたのですが、うちの窓口は部長が立候補してくださったとか」 世間話のつもりで話題を振ると、井上部長から信じられない言葉が返ってきた。 「ああ。本社との取引はいずれ中止しようと考えててな」 耳を疑った。 「部長、恐れ入りますが、引き継ぎ資料はお読みになりましたか?」 「忙しくてまだ目を通していない。だが価格を見れば十分だ。高すぎる」 やはり読んでいない。この人は何も分かっていない。井上部長はさらに続けた。 「他にも採算が取れないと判断した取引先は、野本から全部引き継いだ。俺がまとめて取引中止にした方がいいと思ってな。今までの担当は甘すぎた。俺が担当して徹底的にコストカットすれば、会社に大きな利益をもたらせる。それが評価されれば、さらに出世できるからな」 なるほど、そういうことか。この人は自分の出世のために取引先を切ろうとしているのだ。 「近いうちに取引先の担当者を集めて、合同で契約更新を行う。契約内容の見直しもするつもりだ。こういうのは効率的に進めた方がいい」 「えっと、ちょっと待ってください。どういう意味ですか?」 思わず問いかけると、井上部長は眉を寄せた。 「お前、学歴が低いから俺の言ってることが理解できないのか?」 「学歴ですか? 高卒ですが」 突然の問いかけに素直に答えると、井上部長は思いきり顔をしかめた。まるで虫けらを見るような目だ。 「ぼったくりの貧乏工場の上に、トップが低学歴か。救いようがないな」 腹の底から怒りが込み上げてきた。父が築き、俺が守り続けてきた工場を、この男はぼったくりと言った。だが、ここで感情的になっても意味がない。この男に何を言っても無駄だ。俺は深呼吸して感情を押し殺した。 「まあいい。合同の契約見直しまでに、お前の貧乏工場がどれだけ我が社に貢献できるか、資料をまとめておけよ。内容によっては契約更新してやる」 「ご自分の言っていることを理解してますか?」 「何だと?」 俺は井上部長の部下ではない。取引先だ。立場が上でもないのに、この男は最初から俺を見下し、馬鹿にしていた。 「取引先に対して、あまりにもひどすぎると思いますが」 「度胸だけはあるようだな。合同の契約更新の日を楽しみにしておけ」 そう言って、虫を追い払うように手を振った。俺は何も言わずにその場を去った。 合同の契約見直しの日。この日はたまたま特許更新の日でもあった。事前に送られてきたメールによると、今日は十五社が集まって契約更新を行うらしい。俺は特許更新の書類だけを持って会議室の扉を開けた。すでに数社の担当者が席についている。井上部長は上から目線で偉そうに話していた。 「なるほどな。契約更新してやろう」 「あ、ありがとうございます」 こんな馬鹿げた集まりには一刻も早く終わらせたい。俺は井上部長のもとへまっすぐ歩み寄った。俺に気づいた部長と目が合うと、嫌な笑みを浮かべた。 … Read more