義理の母が「あら、いい肉じゃない。うちでもらうわ」と、亡き祖父の米寿祝い用の最高級和牛を掴んだ瞬間、私は何かが凍りつくのを感じた。夫の憲吾は「また買えばいいだろう」と笑う。その夜、私たちの結婚生活の本質が明らかになった。「正直に言うとさ、顔だけがタイプだから結婚してやったんだよ」と彼が言い放った時、私は決めた。家も夫も義両親も、全てを処分すると。彼らは知らない。この家が誰のものか、私の祖父が…
「あら、いい肉じゃない。うちでもらうわ」 義母の手が、祖父の米寿のお祝い用に一ヶ月前から予約していた最高級和牛を掴んだ。仕事から帰った私の目に飛び込んできたのは、我が物顔でキッチンに立つ義両親の姿だった。 「待ってください。それは祖父のお祝い用に取り寄せたもので――」 「また買えばいいだろう。親の高校の邪魔するなよ」 夫の憲吾が鼻で笑う。これが私の日常だった。毎日のように冷蔵庫を漁り、友人を呼んでパーティーを開き、私を小遣い帳代わりにする義両親。それを止めるどころか担ぐ夫。 正直に言うとさ、顔だけがタイプだから結婚してやったんだよ。 その言葉が響いた時、私の胸の奥で何かが凍りついた。この人たちは知らないのだ。この家が誰のものか、私の祖父が何者か。そして、私を怒らせるとどうなるかを。 私は今井栞、34歳。大手企業で管理職を務めている。仕事一筋で20代を駆け抜け、恋愛など遠い存在だった私に、男を見る目など養われるはずもなかった。そんな私の前に現れたのが、同じ会社でアルバイトをしていた憲吾だった。 彼は休憩時間になるとスマホに保存した甥っ子の写真を嬉しそうに眺める。 「この子がまた可愛くてさ、会うと懐いてくれるんだよね」 目尻を下げながら語るその横顔に、私の心は静かに揺れた。野良猫を見かければ足を止め、しゃがみ込んで優しく声をかける。実家の両親の話をする時は照れ臭そうに頭を掻きながらも、愛情のこもった言葉を紡ぐ。子供好き、動物好き、家族思い。私が憧れていた理想の家庭像を、彼は体現しているように見えた。 交際は驚くほど順調に進み、私たちは結婚した。それが最初から計算された演出だったとは、夢にも知らずに。 結婚後、アルバイトのままでは将来が不安だと嘆く憲吾を見かねて、私は自社グループの会長である祖父に頭を下げ、系列会社への正社員採用を頼み込んだ。 「お前がそこまで言うなら」 しぶしぶと言った表情ながらも、祖父は首を縦に振ってくれた。これで憲吾も安定した収入を得られる。私たちの新婚生活はきっとうまくいく。そう信じて疑わなかったあの頃の自分を、今は殴ってやりたい気分だ。 結婚から半年、私の日常は静かに、しかし確実に変貌を遂げていった。 「おい、飯はまだか?」 ソファーに寝転がりながら、憲吾はテレビから目を離さずに言い放つ。 「あと10分でできるから」 「仕事から帰ってきた旦那を待たせるなよ。お前、主婦失格だな」 主婦失格。その言葉に私は唇を噛みしめながら、やり場のない悔しさを飲み込むしかなかった。私だって同じ会社で働いている。むしろ役職は私の方が上だ。帰宅時間もほぼ同じなのに、いつの間にか家事は私の義務へとすり替えられていた。 「家事を放置して働く嫁なんて可愛げがないんだよ」 彼は折に触れてそう吐き捨てるようになり、あの優しかった笑顔は今や冷笑へと変わり果てた。彼への愛が覚めるのに、そう時間はかからなかった。 中でも決定的に許しがたかったのが、この家に関する彼の虚言だ。私たちが暮らすこの家は、祖父が若い頃に建てた思い出深い邸宅で、私が生まれる前から大切に維持されてきた。都心の一等地に佇む館で、その価値は控えめに見積もっても数億円は下らないだろう。 ところが憲吾は、この家を「俺が働いて買った」と義両親に吹聴していたのだ。 「まあ、賢吾ったら立派になって」 「こんな家に住まわせてもらえて、栞ちゃんは幸せ者だね」 義母のその言葉を聞いた時、私は全てを悟った。この家族は、私の祖父の存在も、私の立場も、何もかもを無視して、自分たちの都合のいい物語を作り上げている。そして憲吾は、その物語の主役を演じることに何の罪悪感も持っていない。 かつて私が憧れた優しい笑顔は、単なる仮面だったのだ。 「今日のパーティー、あんたは仕事があるから来なくていいわよ」 義母が私に言い放った日、私は決意した。もういい。家も夫も義両親も、全てを処分する。私はスマホを取り出し、弁護士と不動産業者に連絡を取り始めた。 私の名前は今井栞。祖父はこの国の経済を支えてきた人物だ。そして私は、その祖父が最も信頼する後継者。この家の名義が誰にあるのか、憲吾は一度も確認したことがないのだろう。本当の意味で、この家が誰のものかを知らないのは、私ではなく彼らの方だった。 「ねえ、憲吾。この家、あなたが買ったんだったわよね?」 ある夜、私は何気なく尋ねた。 「ああ、そうだよ。父さん母さんに言った通りだろ」 彼は何の疑いもなく答える。 「じゃあ、登記簿を見せてくれる? ローン控除の書類が必要で」 その瞬間、憲吾の顔が強張った。 「ちょっと待って。なんでそんなものが必要なんだ?」 「会社でね、住宅ローン控除の書類を提出しなきゃいけなくなったの。あなたがこの家を買ったっていうなら、書類があるはずよね?」 憲吾は慌てて目をそらした。 「あ、あのな、実は……書類は実家に置いてあって……」 「そう。じゃあ、明日でいいわ。取りに行ってきてくれる?」 翌日、憲吾は書類を持ってこなかった。その次の日も、その次の日も。彼は言い訳を重ねるばかりだ。 「私から義両親に聞いてみようか? あなたがこの家を買った時の話を」 その言葉に憲吾の顔色が変わった。彼は観念したように口を開く。 「……悪かった。俺が言ったのは冗談だ。この家はお前の祖父さんのものだって分かってる」 「分かってる? あなた、義両親にずっと自分のものだと言い続けてきたんでしょう?」 「だって……格好つけたかったんだよ。両親にこんな家に住めるなんて言ったら、俺がすごい人間だと思ってくれるだろ?」 その言葉に、私は笑った。いや、笑うしかなかった。彼の自尊心を満たすために、私は長年利用されていたのだ。祖父が築き上げた財産も、私の努力も、何もかもが彼の見栄のためだけに踏みにじられてきた。 「分かったわ。でも、一つだけ聞かせて。結婚する時、私のことを愛してた?」 沈黙が続いた。長い、本当に長い沈黙の後、憲吾は口を開いた。 … Read more