夫が新しいポロシャツを着て玄関に立った時、私はもう、あの封筒が彼のポケットの中にあることを悟ってしまった。パチンコ店のトイレを深夜まで磨いて、やっと手にした4万円。電気代と米を買うための、唯一の現金だった。「それ、使ったよ」夫は鏡の前で襟を整えながら、何事もなかったかのように言った。「今日はゴルフ仲間と焼肉だからね」。41年間、一度も遅刻せず働いてきた。退職金は封筒のまま、夫に奪われた。そし…
41年間、一度も遅刻をしなかった。それだけが白石千鶴の誇りだった。誰かに褒められたわけでも、昇進したわけでもない。ただ毎朝決まった時間に起きて、薄暗い更衣室でビニール手袋をはめ、腕まくりをして洗濯機の前に立ち続けた。66歳になった今日、その41年が一枚の封筒にまとめられて渡された。退職金は150万円。一度開けて確認し、すぐに封を戻した。数字を見ていると、なぜか泣きたくなった。 3月の終わり、市立病院のランドリーは湿気と消毒用漂白剤の匂いで満たされていた。地下の作業場に蛍光灯の白い光が降り注いでいた。千鶴はその日も午前5時半に出勤し、白衣や患者の衣類を仕分けながら、普段と変わらない朝を過ごした。ただ、ロッカーに私物がほとんど残っていないことだけが、今日という日の異質さを示していた。彼女の手は何十年もの労働を刻み込んでいた。指先はひび割れ、皮膚は荒れ、爪の根元には洗剤が染み込んで白くなった部分が残っていた。洗い物をするたびに右の人差し指の付け根が切れて、絆創膏を貼っては剥がれ、また貼り直すことを繰り返してきた。 午後3時、千鶴は上司の吉田係長から薄い封筒を渡された。係長は50代の男性で、千鶴の退職が今日であることをその朝まで忘れていたらしく、慌てたような顔で「お疲れ様でした。長い間、本当に…」と言葉を切った。続きは出てこなかった。千鶴は小さく頭を下げ、封筒を受け取った。更衣室で私物をまとめながら、千鶴は41年前の初出勤の日を思い出そうとした。しかし記憶はぼんやりとしていて、若い自分の顔すら浮かんでこなかった。代わりに浮かんだのは、洗濯機の振動音、蒸気の厚さ、腰を痛めた同僚が泣きながら作業を続けていた冬の朝の光景だった。 千鶴は小さなナイロンバッグに手鏡とタオルと常備薬を入れ、ロッカーの扉を閉めた。建物の外に出ると、3月末の風がひんやりと吹いていた。彼女は少しの間、正面玄関の自動ドアが開閉するのを見ていた。見舞い客が出入りし、白衣を着た看護師が小走りに通り過ぎ、誰も千鶴には目を向けなかった。41年、この建物のために働いてきた。しかし外から眺めると、病院は何も変わらず動き続けていた。患者は来院し、洗濯機は回り、医療は続いていく。その当たり前の事実が、足の裏から冷えてくるような感覚として伝わってきた。 バスに40分揺られて帰宅した。築30年以上の一軒家は、玄関先の植木鉢が一つ倒れたまま放置されていた。千鶴は傾いた鉢を起こし、土を少し抑えてから扉を開けた。家の中では、夫の白石秀夫が昼間からテレビの前に座っていた。68歳、2年前に長距離トラックの運転手を退職した男だ。腹が出た体に首元の伸びたポロシャツを着て、缶ビールを片手に持っていた。テレビにはゴルフの中継が映っていた。千鶴が玄関で靴を脱いでいると、秀夫は振り向きもせずに言った。 「遅かったな。今日で最後だろう。退職金はいくらだ?」 千鶴は上がり框に腰を下ろし、バッグから封筒を取り出した。「150万でした」 秀夫がようやくテレビから目を離した。立ち上がると、千鶴の前に手を差し出した。「通帳も出せ」 千鶴は手を止めた。両手がほんのわずかに白衣の裾を探したが、もう白衣はなかった。代わりに普段のスカートの裾を指先でつまんだ。「あなた、膝がここのところ痛んでいて病院に行こうかと思っていたんです。それと、電気代が2ヶ月分…」 秀夫は手を引っ込めなかった。「話を聞いているか。通帳を出せと言っているんだ」 千鶴はバッグの底から古い通帳を引き出した。秀夫はそれを受け取り、一度だけ中を確認してから、黙ってズボンのポケットに入れた。 その日の夕方、秀夫は外出した。千鶴は台所に立ち、じゃがいもと玉ねぎだけの味噌汁を作った。冷蔵庫には残り物のご飯があった。夕食の準備をしながら、千鶴は電気代の督促状のことを考えていた。先月届いた封筒は、秀夫に見せないようにタンスの引き出しに隠してある。次の支払日は来週だった。秀夫が戻ってきたのは夜の8時を過ぎた頃だった。両手に大きな紙袋を下げ、顔は上機嫌だった。 「ゴルフクラブを買ってきた。15万円のセットだ。仲間内でも古い道具で出るのは恥ずかしくてな」 千鶴は台所から出てきて紙袋の中を見た。金属の艶が光を受けて輝いていた。秀夫は紙袋を棚の隅に立てかけ、ビールを冷蔵庫から取り出した。「それより来月のゴルフ場の会員費を振り込まなきゃならん。通帳から出しておいてくれ」 千鶴は何も言えなかった。味噌汁が吹きこぼれそうになっていたので、火を弱めた。15万円。自分の月の年金額が6万円だとすると、それは2ヶ月半分に相当する。電気代の督促状の金額と膝の診察費の目安と来月の食費を頭の中で足し合わせようとしたが、計算が途中で止まった。秀夫はソファに座り直し、ゴルフ中継の録画を再生し始めた。千鶴は台所に戻り、味噌汁を椀によそった。じゃがいもはわずかに煮崩れていた。 夕食の間、2人はほとんど言葉を交わさなかった。秀夫はご飯を食べながら「おかずはこれだけか」と言い、それきりだった。千鶴は「はい」とだけ答え、自分の椀を手に持った。食べながら千鶴はぼんやりと41年前のことを考えた。25歳で結婚し、子供は生まれなかった。秀夫は長距離の仕事で1週間以上家を開けることが多く、千鶴は病院の仕事と家の管理を1人でこなしてきた。夫婦としての会話が少しずつ減っていったのがいつ頃からなのか、千鶴にはもう分からなかった。気づけば秀夫は家にいるのに、千鶴と目を合わせなくなっていた。 食後、秀夫はすぐにテレビの前に戻った。千鶴は食器を洗い、台所を拭いた。流しの縁に手をついて換気扇の音を聞きながら立っていると、膝の内側がずくずくと痛んだ。立ちっぱなしの仕事を41年続けてきた体が、それを知らせていた。千鶴はしばらくその姿勢のままでいたが、やがてタオルで手を拭き、電気を消した。 夜、千鶴は布団の中で天井を見上げた。秀夫はすでに隣でいびきを立てていた。150万円が消えた。通帳に入る前に秀夫の手に渡り、すでに数字ではなくなっていた。明日からは月6万円の年金が唯一の収入になる。電気代、水道代、食費、国民健康保険の掛金。千鶴は指を折って計算しようとしたが、6万円の中から何をどう削っても数字が合わなかった。41年間毎月の給料から少しずつ貯めてきた郵便貯金の口座がある。秀夫には知らせていない口座で、今の残高は32万円ほどだった。そこに手をつけることは今まで考えたことがなかった。いざという時のために取っておいた。しかし、今がいざという時ではないとしたら、いつなのか。千鶴はしばらくそのことを考えてから目を閉じた。眠れなかった。秀夫の寝息が静かな部屋に響いていた。千鶴は目を開け、また天井を見た。退職してから8時間も経っていなかった。 翌朝、千鶴は5時半に目が覚めた。体の習慣が抜けていなかった。秀夫はまだ眠っていた。千鶴は静かに起き上がり、台所でお湯を沸かした。窓の外はまだ暗く、遠くに電車の音が聞こえた。カップにお茶を注ぎながら、千鶴は今日から何をするべきか考えた。仕事に行かなくて良い朝は41年ぶりだった。しかし、何もしなくて良いわけではなかった。電気代の督促状を何とか処理しなければならない。それには郵便貯金を崩すしかない。千鶴は口をつけたお茶が暑すぎたので、少しの間カップを両手で包んだまま待った。 秀夫が姿を現したのは9時を過ぎた頃だった。千鶴は洗濯物を干していた。秀夫は欠伸をしながら「朝飯は」と言い、椅子に座った。千鶴はトーストを焼き、昨日の残りの味噌汁を温めた。秀夫は食べながらスマートフォンを眺めていた。何かのゴルフ関連のサイトらしく、指でスクロールしながら言った。「来月、仲間内でコースを回ることになった。宿泊ありで参加費が1人3万5000円だ」 千鶴は味噌汁の椀を洗いながら聞いていた。「それは来月の話ですか?」 「当たり前だろう。今月ではない」秀夫は続けた。「通帳から引き出しておいてくれ。あと、昼は外で食べてくるから弁当はいらん」 千鶴はスポンジを握ったまま流しの底を見ていた。3万5000円。郵便貯金の残高が頭をよぎった。それを使えば28万5000円になる。その次に崩す理由がまた必ず来る。秀夫は食べ終えると車の鍵を持って外に出た。千鶴は食器を洗い終え、台所を拭いた。 午後、千鶴は近所のスーパーに買い物に出た。彼女が持っていった通帳には今日の退職金と年金が入っていた。彼女の手元には2000円ほどの小銭しかなかった。食材コーナーの値引きシールが貼られた豆腐と、袋の底でしなびかけているほうれん草を手に取り、レジに並んだ。帰り道、公園の脇を通ると、ベンチに老いた女性が一人座っていた。70歳前後に見えた。くたびれたジャンパーを着て、足元に古い買い物袋を置いていた。女性は千鶴が通りかかっても視線を動かさなかった。ただ黙って公園の地面を見ていた。千鶴は立ち止まりかけたが、何も言わずに歩き続けた。声をかける言葉が見つからなかった。それに、声をかけて何ができるというわけでもなかった。 家に帰ると、家は無人でテレビがついていた。秀夫はまだ戻っていなかった。千鶴はエコバッグを台所に置き、手を洗った。豆腐とほうれん草で夕食を作ることを考えながら、蛇口を閉めた。水道代が頭に浮かんだ。千鶴は少しの間濡れたままの手を中に浮かせていた。タオルを取り、手を拭き、冷蔵庫を開けた。41年間働いた。それは確かな事実だった。しかし今、千鶴の手元に残っているのは2000円の小銭と、秀夫に知らせていない郵便貯金の通帳だけだった。窓の外では夕暮れが静かに始まっていた。台所に立ったまま、千鶴はその光をただじっと見ていた。 退職してから2週間が過ぎた頃には、白石家の食卓は目に見えて貧しくなっていた。千鶴は朝一で安売りされているもやしを買い、それを油で炒めただけのものに申し訳程度の醤油をかけて出すことが増えた。魚は切り身ではなく、骨と皮ばかりの安いあらを煮付けにして、身の柔らかい部分だけを秀夫の皿に取り分けた。自分の分には骨の周りに残った筋ばかりの肉を突いて済ませた。 ある晩、秀夫は箸で皿をかき回しながら顔をしかめた。「またもやしか。肉はないのか?」 千鶴は流しの前から振り返らずに答えた。「今月は少し厳しくて。魚のあらなら安く手に入ったので」 秀夫は茶碗を音を立てて置いた。「貧乏臭い飯ばかり食わせやがって。俺はゴルフ仲間と高級な店で飯を食う身分なんだぞ。家でこんなものを食わされたら、外で恥をかく」 千鶴は何も言わず、もやしの最後の一口を飲み込んだ。喉の奥に苦いものが残った。「外で恥をかく」という言葉の意味が千鶴にはよくわからなかった。家でどんな食事をしていようと、外でそれを誰かに話すわけでもないだろうに。そう思ったが、口には出さなかった。 その日の午後、秀夫はゴルフ場から戻ってくると不機嫌な顔で玄関の扉を乱暴に閉めた。千鶴は物音に驚いて台所から顔を出した。秀夫はソファに座り込み、缶ビールのプルタブを乱暴に開けた。「今日、コースの後にみんなで焼肉に行こうという話になった。俺だけ先に帰ってきた」 千鶴はおずおずと尋ねた。「どうしてですか?」 「金がないからに決まってるだろう」秀夫は怒鳴った。「あいつらは退職金で株を買ったり株をやったりしている。俺は年金とお前の泣けなしの退職金しかない。情けない話だ」 千鶴は黙って立っていた。秀夫の言葉の中で、自分の退職金が「泣けなしの」という形容詞で呼ばれたことが、胸の奥に小さな棘のように刺さった。41年間毎日洗剤の匂いを吸いながら積み上げてきたものが、秀夫にとっては取るに足らない金額でしかないらしかった。秀夫はテレビをつけ、ゴルフ番組を眺めながら缶ビールを煽った。千鶴は台所に戻り、洗い物を始めた。蛇口から流れる水の音だけがしばらく家の中に響いていた。 夕方になると家の中の空気が重くなり、千鶴は買い物籠を手に外へ出た。実際には買うものはほとんどなかったが、家の中にいると息が詰まりそうだった。近所の公園まで歩き、ベンチの端に腰を下ろした。公園には数羽の鳩が地面をついばんでいた。千鶴はぼんやりとそれを眺めていたが、視線の先に見覚えのある人影があることに気づいた。先日も見かけたジャンパーを着た老女だった。今日はベンチではなく、植え込みの茂みに蹲り、空き缶を一つずつ拾い上げては肩から下げた袋に入れていた。老女は缶を拾い終えるとゆっくりと体を起こした。膝に手をついて立ち上がる動作には、長年の習慣のような滑らかさがあった。目が合うと、老女は驚いた様子もなくふっと口元を緩めた。 「あんたも、お金のかからない老後の楽しみを探してるのかい?」老女は日に焼けた笑みを浮かべていった。「ここらじゃ缶拾いのことを『ゼロ円の趣味』って呼んでるんだよ」 千鶴は何と返して良いかわからず、曖昧に頷いた。老女は名乗り、大塚フミといった。70歳で夫を10年前になくし、今は一人暮らしをしているという。年金だけでは家賃と光熱費を払うのがやっとで、空き缶を集めて換金する金額をわずかな足しにしているのだと、フミは淡々と語った。「最初は恥ずかしくてね」フミは袋の口を縛りながら続けた。「近所の人に見られるのが嫌で、夜にこっそり拾ってた時期もあった。でもそのうちどうでも良くなる。生きるのに恥も外聞もないってことを、こういう年になって初めて知るんだよ」 千鶴はフミの言葉を聞きながら、自分の将来がそこに重なって見える気がした。フミの肌は皺が目立ち、姿勢はやや前傾だったが、目だけは妙にはっきりとしていた。それが長年一人で生き抜いてきた人間の目つきなのかもしれないと千鶴は思った。フミは袋を肩にかけ直すと軽く会釈をして公園を出ていった。千鶴はしばらくベンチに座ったまま、フミの後ろ姿が小さくなっていくのを見ていた。趣味ではなく、それは絶望の中で人がそれでも生き延びようとする姿そのものだった。千鶴は自分自身の姿がその灰色の景色に重なって映るのを感じた。 日が傾き始めた頃、千鶴は重い足取りで家へ戻った。玄関を開けると、廊下に自分の衣類が散乱しているのが目に入った。タンスの引き出しが乱暴に引き出され、中身が床にぶちまけられていた。家の中から秀夫が顔を出した。手には何かの切り抜きを持っていた。 「お前、こんなところに金を隠していたのか」 千鶴は息を飲んだ。秀夫が手にしていたのは郵便貯金の通帳だった。タンスの奥、子供の頃に使っていた古い箱の底に隠してあったものだ。「それは…」千鶴は声を震わせた。「これはもしもの時のために少しずつ貯めていたもので…」 秀夫は通帳を開き、残高のページを千鶴の目の前に突きつけた。「32万。こんな金があるなら、なぜ最初から出さなかった?お前は俺に隠れて自分だけの金を貯めていたのか」 千鶴は答えに詰まった。「隠していたわけでは…ただ何かあった時のために…」 「何かあった時のためなら、今がその何かだろう」秀夫の声が大きくなった。「来月のゴルフ場の会費も払えない。焼肉にも行けない。これがその何かじゃなくて何だ」 秀夫は通帳を自分の上着の内ポケットにねじ込んだ。千鶴は床に散らばった自分の衣類を一枚ずつ拾い集めながら、何も言い返せなかった。膝をつき、丁寧に畳んでいたタオル類を拾い上げた時、千鶴の手は小さく震えていた。千鶴は40年間この家で家事をこなし、秀夫の食事を作り、洗濯物を畳んできた。その間、自分の意思で何かを拒んだことはほとんどなかった。今この瞬間も、千鶴は「嫌だ」という言葉そのものをどうやって出すのか分からなかった。床に膝をついたまま、千鶴はただ静かに衣類を畳み続けた。 その夜、秀夫は早々に寝室に引き上げた。千鶴は一人、居間の電気を消さずに座っていた。テーブルの上には畳み終えた衣類が積まれていた。32万円。41年かけて給料の中からほんの少しずつ抜き出して貯めてきた金額だった。1万円札を一枚抜くたびに、心の中で謝るような気持ちがあった。それが今日、たった数分で秀夫の内ポケットに消えていった。千鶴は自分の手のひらを見つめた。指先のひび割れ、爪の周りに残る漂白剤の跡。この手で41年間働いてきた証だった。その手が今、空っぽになっていた。電気を消す前に千鶴はもう一度台所に立ち寄り、明日の朝食の準備を確認した。米びつの底には、あと数合の米しか残っていなかった。買い物に使えるお金は、千鶴の財布の中にある1000円札一枚といくつかの小銭だけだった。千鶴は電気を消し、暗い廊下を歩いて寝室へ向かった。秀夫のいびきが聞こえてきた。布団に入っても千鶴の目は冴えたままだった。天井の木目を見つめながら、千鶴は明日からどうやって食費をやりくりするべきか頭の中で何度も同じ計算を繰り返した。答えは出なかった。 翌朝、秀夫はいつになく早く起きてきた。千鶴が台所で湯を沸かしていると、秀夫は椅子に座りながら唐突に言った。「お前、働きに出ろ」 千鶴は手を止めた。「働くと言っても、どこにですか?」 「どこでもいい。お前の年金じゃ来月のゴルフ会費すら払えないんだ」秀夫は新聞を広げながら続けた。「66ならまだ働けるだろう。パートでも何でも探してこい」 千鶴は湯の立つやかんを見つめながら、しばらく言葉を返せなかった。41年働いてようやく退職したばかりだった。体のあちこちが悲鳴を上げていたが、それを秀夫に訴えたところで聞き入れられないことは分かっていた。「わかりました」千鶴は小さく頷いた。「探してみます」 秀夫は満足そうに新聞をめくった。「いい返事だ。最初からそう言えばいいんだ」 その日の午後、千鶴は近所の図書館に出向き、情報誌を手に取った。60代を歓迎する求人は限られていた。清掃、警備、調理補助。どれも体力を要する仕事ばかりだった。ページをめくっていると、一つの求人が目にとまった。市の外れにあるパチンコ店のトイレ清掃員の募集だった。時給は安く、勤務時間は夜の8時から深夜2時までと書かれていた。千鶴は少しの間、文字を見つめた。深夜の勤務は体への負担が大きいことは分かっていたが、求人誌の中で他に自分を雇ってくれそうな仕事は見当たらなかった。千鶴は求人誌のページを折り、メモ帳にその店の電話番号を書き移した。図書館を出ると、外はすでに夕方の光に包まれていた。千鶴は電話番号の書かれたメモを財布の中にしまい、家に着いた。今夜、秀夫にこの求人のことを話すべきかどうか千鶴は迷いながら歩いた。話せば秀夫は当然のようにこの仕事を進めるだろう。話さなければ、いつまでも「働きに出ろ」という圧力にさらされ続けることになる。家が見えてくる頃、千鶴は財布の中のメモにもう一度そっと触れた。明日電話をかけてみようと決めた。何かを選んだという実感はなかった。ただそうするしかないという諦めに近い感覚だけが、千鶴の胸の中に静かに広がっていた。 翌朝、秀夫が外出したのを確認してから、千鶴はメモ帳を取り出した。昨夜求人誌から書き移しておいたパチンコ店の電話番号が、几帳面な文字で書かれていた。千鶴は電話の前に立ち、その番号を一度声に出さずに読んだ。それから深く息を吸い、受話器を手に取った。呼び出し音が鳴る度に、千鶴の胸が少しずつ早くなった。3回、4回。出なければ今日のところは諦めようかと思った。5回目で男の声が出た。「はい、玉虎パチンコです」 千鶴は声を整えて話し始めた。「あの、求人誌を拝見してお電話しました。清掃のお仕事のことで」 「ああ、清掃ね」男の声は面倒臭そうでも親切でもなく、ただ事務的だった。「今日来られます?面接ったって大したことは聞かないんで、本人確認と体が動くかどうかの確認くらいです」 … Read more