四十三年、私は吉永美。都内で高級焼肉店を構えている。母方の祖母が大切に守ってきた店を、私はそのまま引き継いだ。祖母っ子だった私は、幼い頃からこの店を継ぐと決めていた。父は家業を継がせたがったが、私ははっきり断った。父の家は四つ葉組というヤクザの家系で、父は三代目組長だ。父の周りにいた部下たちが私の返事に目を丸くするなか、父は大笑いして言ったものだ。「さすがは俺の娘だ。肝が座ってやがる」と。父の世界が嫌いなわけではない。ただ、私は女組長になるより、祖母の店の味を守りたかった。
十八歳の頃、私は父の組員の一人と恋に落ちた。他の組員たちは組長の娘だからと特別扱いするなか、彼だけは年が近いせいか、変わらず自然に接してくれた。その男が後の夫、雄大だ。彼は若い頃から仕事をこなし、異例の速さで出世していった。二十八歳の頃、私は祖母から店を引き継ぎ、雄大は若頭に就任した。そのタイミングで、長い間秘密にしていた交際を父に告白した。雄大は父のお気に入りでもあったから、私たちの関係はすんなり認められ、数年後に結婚した。それから子供も生まれ、雄大は順調に出世を重ね、今では組長になっている。
子供が生まれてからは、定期健診や子育てサロンに顔を出すようになり、ママ友と呼べる友達もできた。いい人ばかりなら問題ないのだが、そううまくはいかない。その中に、どうしても関わり合いになりたくない女性がいた。武田由香。いかにもチンピラっぽい身なりで、態度はでかい。ある日の開店前、店のドアが開いた。「すいません。二人入れますか?」声のする方を見ると、二十代ぐらいの女と、同じくジャージ姿の男が立っていた。女は偉そうに私を見下して言った。「あ、二人ですけど、案内してもらっていいですか?」私は申し訳なさそうに、まだ開店前なので少々お待ちくださいと伝えた。だが女は「え、もしかして美さん?」と言ってきた。隠しきれなかった。この女が、関わり合いになりたくないまま友の由香さん本人だった。
「美さんの店だったのね。じゃあ知り合いってことで、開店前でも中に入れてよ。」私はあくまでお客様として接すると、店の決まりですからと繰り返した。すると由香さんは「いやいや、なんでそんな他人行儀なのよ。ていうか、こうやって話してるうちにあと二十分とかだよ。もう案内しても変わんないでしょう」と笑い出した。私は頭を下げながら、今すぐ追い返したくなったが、そんなことをすれば祖母が築いてきたこの店の歴史に傷がつく。私は考えて、こう言った。「それでは、ご予約の確認だけ先にさせていただいてもよろしいでしょうか?」この店は全個室の完全予約制だ。開店時間に予約をしていても、それを理由に断ることができる。「え、そんなのしてないけど、知り合いだし別にいいじゃん。」私は丁寧に断ろうとしたが、由香さんは食い気味に「じゃあ今するわ。予約すればいいんでしょ」と生意気な態度で言った。予約すると言われては断りきれず、しぶしぶ予約表を出すと、ちょうど開店時間に空きがあったので由香さんは即予約を入れてしまった。
その日は由香さんの連れの男が「けどさ、こんな高級店でごねるとかすごいですね」と、まるで迷惑行為をかっこいいことのように話していた。私はヤクザの血を引く一人娘だ。今すぐ説教してやろうかと思ったが、その日は予約が多く、トラブルを起こすわけにもいかなかった。由香さんはその後も店の予約があるにも関わらず「ちょっと注文お願い」などと大きな声を出し、店の者たちに横柄な態度を貫いた。そして由香さんの席に料理を運んだ時、ある会話が聞こえてしまった。「しかしここって四つ葉組の人たちがよく来るんですよね。私、大丈夫でしょうか?」四つ葉組は父と雄大の組だ。すると由香さんが「余裕よ。私の旦那は若頭補だからね。けど、一人でここに来ちゃだめよ。私がいないと何もできないからね」と答えていた。組を舐めた態度にかなり腹が立ったが、見栄を張るための会話だと分かっていたので、私は見て見ぬふりをした。
二時間が経って、由香さんたちはお会計に席を立った。この店はコース予約が基本だが、由香さんは当日予約で単品注文だった。しかもご飯よりお酒をよく注文していたようで、会計はそこまで高くなかった。帰って行く由香さんを見ながら、次に来た時に同じことがあればはっきり物を申してやろうと心に誓った。
数日後、昼頃に店の電話が鳴った。電話の主は若い女で、聞き覚えのある声だった。「もしもし。予約したいんだけど。」間違いない。この礼儀を知らない生意気な話し方は由香さんだ。しかしお客様となれば、生意気というだけで予約を断るわけにはいかない。私はいつものように穏やかな口調で対応した。「はい、ご予約ですね。日とお時間をお伺いします。」「ああ、日は明後日ね。で、時間は十一時でよろしく。」由香さんはめんどくさそうに言った。私の店はランチを十一時から二時まで、中休みの後、六時から十一時半まで営業している。午前と午後の勘違いがないように、私は一応聞き返した。「すみません。十一時と申しますと、昼の十一時でしょうか?」すると「は?そんなの夜に決まってるでしょ。それと人数は百人で、一万五千円のコースでよろしく」と、いちいち小馬鹿にした態度だった。私はさらに言った。「申し訳ございませんが、当店は二十三時半で閉店となりますので、二十三時のコース予約はお受けできません。」すると電話口から「はあ?」という声が聞こえ、軽く舌打ちが続いた。「いや、こっちは百人の団体客なんだからさあ、ちょっとは融通聞かせたりするもんでしょ。え、じゃあとりあえず十時で予約しといて。また変わったら言うから。」この予約の仕方にはさすがに頭に来たが、私は勤めて穏やかに説明した。「承知いたしました。ただし、当日の予約状況がございますので、変更のご相談は前日までにお願いいたします。当日になって時間変更を希望されても、変更できない可能性がございます。」「でもそれで予約した時間に行けないってなったらどうすんのよ。」由香さんは一体何様のつもりなのだろう。百人の団体客だからと言って、なぜそこまで優遇してもらえると思い込んでいるのか理解できない。「そうなった場合はキャンセルしていただかなければなりません。そして当日キャンセルはコースの全額をキャンセル料として請求しております。もしお時間を変更されるのであれば、必ず前日までにお申し出ください。」私がそう答えると、由香さんは不機嫌そうに「分かった分かった。じゃあとりあえずさっき伝えた時間でよろしく」と言って電話を切った。
二日後、開店前に今日の団体客を迎える準備をしていた。団体客はスピードが命なので、百人分の仕込みを先に済ませ、あとは盛り付けるだけで出せる状態にした。準備が完了した時、店の電話が鳴った。嫌な予感がしながら受けると、相手は由香さんだった。「あ、もしもし。やっぱ今日十時じゃみんな都合悪いみたいだから、二十三時しか無理みたい。変更できる?」さすがの私も、この態度に苛立ち、声が低くなった。「できません。先日説明した通り、二十三時以降のご予約はお受けしておりません。」自分の思い通りにならないのがむかついたのか、由香さんはまた小馬鹿にしたようなヘラヘラした口調になった。「ああ、じゃあ無理ね。また使ってあげるから、今日はキャンセルしといて。」その言い草に、私の中で堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた。「それではキャンセル料をお支払いください。金額は百五十万円になります。期日は今から三日以内でお願いしますね。もし支払わないのであれば、弁護士に相談させていただきますので。」驚いたのか、由香さんは少し黙った。しかし少しすると、先ほどのヘラヘラした話し方とは打って変わって、低く大きな声が聞こえてきた。「はあ?そんなもん払うわけないでしょ。あんた舐めてんの?」由香さんは私を怖がらせようとしたのだろう。しかし私も一応ヤクザの娘だ。こんな脅しは通用しない。「いえ、特にお客様のことを舐めているわけではないですが、当店のルールですので。」私の態度に由香さんは怒った様子で「なんでそんなに他人行儀なのよ。めんどくさいから今すぐそっち行くわ。待ってなさいよ」と言って、ブチッと電話を切った。
数分後、店のドアが勢いよく開く音がして、鋭い声が聞こえた。「わざわざ来てあげたわよ。こんなことさせて、ただで済むと思わないことね。」そこには由香さんと由香さんの後輩が立っていた。私はちらっと由香さんを見て、従業員に合図を送った。従業員は私の意図を理解し、窓のカーテンを全部閉めて裏へ戻っていった。ずかずかと店内に入り、私に近づく由香さん。「ちょっと、何か言ったらどうなの?」「先ほど言っていた、ただで済むと思わないというのはどういうことでしょうか?」私がそう言うと、由香さんは私の顔を覗き込んで凄んだ。「私の旦那はね、四つ葉組ってヤクザの若頭補なの。これがどういうことか分かるわよね。」眉間にしわを寄せながら睨みを利かせる由香さんに、私は鼻で笑った。「ああ、そう。四つ葉組なの。では組長に挨拶に行きましょうか。」「はあ?」想定していた返答ではなかったのだろう。由香さんは一瞬ポカンとした表情を浮かべたが、すぐにまたしかめ面になって私を睨んだ。「あのね、こんなしょうもないことに組長が出てくると思ってんの?」「思っていますよ。組の名前を出してるんだから、責任取ってもらえるんでしょうねって話をしないといけませんからね。」由香さんは私の言葉を聞くと、呆れ出す。「この辺でちょっと高い焼肉屋の店主が、ヤクザの組長と対等に話せると思ってんの?人形映画でも見て影響されたの?」由香さんの声に釣られて、一緒にいた後輩も笑い出した。そしてひとしきり笑った後、由香さんは私を睨みながら、廊下の壁にすごい勢いで拳を打ちつけた。その振動で廊下に飾ってあった壺が落ち、大きな音を立てて割れてしまった。「あんまり舐めてるとね、旦那に頼んで、ここではもう商売なんてできないようにするけど、いいの?」由香さんがそう言い、後輩も私を囲むように横について睨んでいる。いつ手を出されてもおかしくない状況で、私が由香さんを睨み返したその時、店のドアが開いた。「おい、お前ら何してやがる。」由香さんは「何よ」と言って振り返る。店のドア付近には、こちらを見て仁王立ちする旦那の雄大と若頭がいた。若頭の男が私を見るなり、軽く頭を下げて挨拶している。「何よ、あんたたち。今取り込み中よ。」由香さんは雄大たちが誰なのか分かっておらず、変わらず横柄な態度を取っている。「おい、聞こえなかったのか。お前らはここで何してやがるんだ。」「なんで本当にそんなこと聞かれなきゃならないのよ。」雄大は自分の質問に答えない由香さんに苛ついたのか、軽くため息をついた。するとコツコツと靴音を鳴らしながら、こちらに歩み寄ってきた。「さっきうちの名前を出して暴れてる人がいるって、この店から連絡があってな。従業員を持っているようだな。」それを聞いてちらっと厨房の方を見ると、従業員の女の子が心配そうにこちらを見ていた。ああ、あの子が雄大に連絡したのだろう。「うちの従業員はみんないい子ばかりですよ。それに比べて、あなたのところはちゃんと教育できていないようね。」私は歩み寄ってきている雄大を睨んだ。しかし雄大は何やら不思議そうな顔をしている。「俺のところのも優秀だぜ。ほら、こうやって今日も心配してついてきてくれたんだからよ。」雄大は親指を、ドアに立っている若頭の方に向けた。「ああ、その子じゃなくて、こちらの方のことよ。聞けば次の若頭候補の嫁らしいじゃない。四つ葉の名前を出して、私の店で暴れているのよ。自分の組の人を把握できていないの?」私がそう言うと、雄大の眼光は一瞬にして鋭くなった。「こいつが四つ葉の若頭候補の嫁?そんなやつ俺は知らねえぞ。」「知らないって何よ。あんたに四つ葉組の何が分かるっていうのよ。」「お前は頭の顔も知らずに、若頭候補の嫁とか言っていたのか。俺が四つ葉組の組長だ。」雄大の言葉に、由香さんは目を丸くする。「え、組長?どういうこと?」「この様子じゃ、今までどんだけ勝手に組の名前を使ってきたか分かんねえな。一回事務所に連れて行って、話を聞くしかないな。」「いや、ちょっと待って。」雄大が由香さんの肩を掴んでどこかに連れて行こうとした時、私は声を張ってそれを止めた。「その人は今連れて行ってもらっちゃ困るわよ。キャンセル料はどうしてくれるんですか?」「キャンセル料?」雄大は経緯を何も知らないので、私は今までのことを簡単に説明した。「お前、俺の妻の店で何てことをしたんだ。こんなこと、美が店やってから初めてだぞ。」由香さんは雄大の言葉に驚き、私をパッと見ては口をパクパクさせた。「組長の奥さん……。」「ああ、そうだよ。私は先代組長の娘であり、現組長の妻だ。ヤクザの世界じゃメンツが命だからね。ちょっとやそっとのブレーキには目をつぶったけど、これはちょっとやりすぎだね。」私は言いながら腕を組んで、顎を上げて由香さんを見下した。
由香さんは自分のしたことに本格的に焦り始めたのか、ぶるぶると震え出して、その場に膝まずき、手と頭を床に擦りつけて謝り出した。「申し訳ありませんでした。」「謝るだけじゃなくてさ、キャンセル料どうすんの?店の壺も壊してくれちゃって。あれ結構歴史のある大事な壺なんだけど。」由香さんは恐怖で言葉も出ないのか、土下座したまま震えるだけだった。
少しの沈黙の後、雄大は私に向かって姿勢を正して口を開いた。「美、不可抗力とはいえ、俺の組の名前を使った奴が起こしたことだから、俺の方でどうにかする。それで許してもらえないか。」雄大はそう言って、若頭に何か合図を送った。若頭は店を出て、すぐ戻ってきて雄大にアタッシュケースを差し出した。そして雄大はそのケースごと私に手渡した。「一千万ある。キャンセル料とあの壺の弁償代だ。足りなかったら言ってくれ。」由香さんは目の前の光景が信じられないのか、目を見張りながらそれを見ていた。「何見てるんですか?ちゃんと雄大にお礼を言いなさいよ。関係ないあなたのためにこの場を納めてくれてるんですからね。」私がそう言うと、由香さんは急いで雄大に「ありがとうございます。申し訳ありませんでした」と言って、また頭を床につけていた。そのまま由香さんと後輩は、外に止めてある黒塗りの車に乗せられた。その後、私の店の騒動は大事にはならず、店はいつも通り繁盛している。
由香さんがどうなったかと言うと、旦那が次期若頭というのは由香さんが一人で勝手に言っていただけであり、旦那本人はヤクザじゃないどころか普通のサラリーマンで、何も知らなかった。雄大が由香さんの家にまで行って話をし、今までの由香さんの行いを知った旦那は、その場で由香さんに離婚を突きつけたらしい。離婚した由香さんは家を追い出され、ボロボロのアパートに住むことになった。しかし、あの時由香さんが壊した壺は価値のある骨董品だったため、弁償しようとすると雄大が渡してきた額では到底足りなかった。それにより由香さんはキャンセル料を含めて五千万円の借金を背負うことになり、四つ葉組が管理する労働施設で休みなしに働かされているらしい。
そしてそれからさらに数ヶ月経ったある日、私は雄大に言った。「二号店を出そうと思うの。この物件がいいなと思ってるんだけど。」「お、いいじゃないか。広そうだし。」「でもここ、都内の一等地だし、うちの縄張りじゃねえぞ。」「え?うん。そうだけど。」「おいおい、それはちょっともし何かあったら……。」「何?もしかして四つ葉の組長がビビってるの?そんなことないわよね。」「敵には叶わないな。いいよ。何かあれば俺に言ってこい。」「さすが。それでこそ私の旦那ね。」子育ても忙しかったが、由香さん以外の仲の良いママ友たちの助けもあり、店舗のオープン作業は順調に進んでいる。子供も大きくなっていき、これからが本番だ。雄大ともお互いにサポートしつつ、まだまだ現役で頑張っていきたいと思っている。
