夫は、私が役に立たないと分かると、態度を一変させた。家事も子育てもすべて私がやっているのに、夫の目的は最初から別のところにあった。
私はナミ。現在一歳になる息子の看病のため無職、いわゆる専業主婦だ。元々は看護師だった。大学を卒業してすぐ、父が経営する総合病院に他の新卒と同じ条件で就職した。仕事は大変だったがやりがいがあった。患者から感謝されれば嬉しかった。頑張っているうちに順調に出世したが、恋愛はさっぱりだった。
理由はいくつかある。二十代前半に子宮系の大きな病気を患い、子供を望むことが難しいと医者に言われた。さらに、私の父が病院の院長だと分かると、男たちはみな距離を置くようになった。私は結婚を諦め、三十を過ぎてからは一層仕事に励んでいた。そんな時に夫と出会った。
夫は中途採用の事務員だった。職場の歓迎会で顔見知りになり、何回かデートを重ねて告白され、付き合うことになった。大人同士なので夜の関係にもなったところで、私は奇跡の妊娠をした。子供は持てないと言われていたから、嬉しくて泣いた。夫と結婚し、二人の貯金で一軒家を購入した。私は諦めていた幸せな人生が手に入ると心から思った。
だが、新婚早々、仕事が終わって帰宅し二人で夕飯を食べている時、夫が衝撃的なことを暴露した。その日は夫の機嫌がとにかく悪かった。私も理由が分からないまま夫に気を遣っていた。妊娠でつわりが重く、体調が優れなかったのに。
「え、私が院長の娘だって、付き合う前から知っていたの?」
「まあ、俺は事務だからな」
私は表立って自分が院長の娘だとは言っていなかった。むしろ内緒にしていた。
「でも、私が両親のことを話した時、驚いてたじゃない」
「あんなのは演技だよ。驚いたふりをしただけだ」
夫は極秘の人事資料を、事務員の権限で見たのだという。
「それにしても、とんだ貧乏くじを引いたぜ。結局お前と結婚しても何のメリットもないじゃないか」
夫は私と結婚すれば給料が上がったり、自分が役職につけたりすると思い込んでいた。今日、直接院長に直談判したらしい。ところが現実は甘くない。父はまだまだ現役だし、後継ぎの兄もいる。兄だって他の職員と同じ扱いだ。父は徹底した実力主義者。義理の息子になったとはいえ、夫はまだ何の実績もない。そんな一介の中途採用の事務員を、いきなり優遇したりはしない。
「院長は娘が可愛くないようだな。義理の息子を大切にする気がないんだ」
「まさか私と結婚したのは、それが理由じゃないでしょうね」
夫がこれほど権力に執着し、野心が強いとは思っていなかった。酔っ払って口が滑っているだけだと信じたいが、背筋が凍った。離婚の二文字が頭をよぎる。
「それ以外に何があるんだよ。お前みたいな生き遅れをもらってやったんだ。それくらいの恩恵があってもいいだろうが。おい、酒が足りないぞ。早く持ってこい。あと灰皿な」
夫はイライラしながらタバコを吸おうとした。
「ちょっとやめてよ。禁煙してって言ったじゃない。私は妊婦よ。せめて外で吸ってほしい」
「ああ、お前は大げさなんだよ。そんなのテレビとか週刊誌が言ってるだけだろ。妊婦の前だろうがなんだろうが、俺は吸いたいんだよ。そんなにタバコが嫌なら外に出ろよ」
「ひどい。お腹にあなたの子供がいるのよ」
「ああ、まあそうだな。じゃあ、最高だよ。俺の子供だから将来タバコを吸うだろう。今から早期教育だ」
夫は笑った。正気なのか。冗談にしても悪趣味すぎる。でも私も大人しく引き下がる趣味はない。
「ふざけないで。吸うなら外で吸ってきて」
私は絶対に引かないつもりで外を指さした。夫は私の迫力に押されたのか、「さすが若くして看護師長になった実力者は気が強いな」と言うと、それ以上は何も言わずに外に出ていった。
夫は翌日、けろっとした顔で謝ってきた。
「昨日は飲みすぎて心にもないこと言ってごめんな」
「今回は許すけど、タバコは本当にやめてね。赤ちゃんに悪影響だし、あなたの健康も心配だから」
「ああ、分かった。気をつけるよ」
正直、夫の言動にはかなりもやもやした。しかし、まだ夫を愛しているし、子供の父親だ。きっと昨日は院長から下心を見透かされて腹が立って、八つ当たりしただけなのだろう。そう思って我慢することにした。
それから月日が経ち、出産。待望の我が子は、五体満足に生まれることができなかった。先天的に呼吸器系の疾患があることが分かったのだ。私は息子がかわいそうで何度も泣いた。でも気持ちを切り替え、それでも私たちの元へ生まれてきてくれた息子を大切にすることに決めた。幸い手術が可能な病気で、手術をすれば完治する。だが、定期的な通院が必須なため、私は仕事を退職した。息子の世話に専念し、万全の準備を整えるためだ。
ところが夫は大反対した。
「おい、なんで仕事をやめるんだよ。専業主婦なんてふざけるなよ。俺の稼ぎを当てにして、だらだら遊ぶつもりだろう」
「そんなわけないでしょ。息子の看病に決まってるじゃない」
「そんなのうちの病院の小児科病棟にでも入院させとけよ。お前の実家の院長が何とかしてくれるだろう」
「あのね、あなたと私の息子なのよ。家にいられるなら、家にいさせてあげたいでしょ」
「そのせいで俺が大変な思いをしているんだぞ。ローンだってまだあるのに。それに自分の家なのに、好きなようにタバコも吸えないんだ」
「だって呼吸器系の病気なのよ。息子にとって副流煙が危険なことくらい分かるでしょう」
「そんなの俺の知ったことか。お前が健康に産めなかったのが悪いんだろう」
「あなたって最低ね」
夫との溝はどんどん深まっていった。それでも即座に離婚しようと思えなかったのは、ただ息子の看病でそれどころではなかったからだ。夫への愛情は完全に冷めたが、余計なことにエネルギーを費やしたくなかった。
そんなある日曜日の早朝、息子の発作が起き、私は父の総合病院の救急に連れて行った。無事処置が終わり、家に帰る頃にはもう夕方だった。息子は泣き疲れたのか、車の中で眠ってしまった。息子を起こさないようにそっと家に入ると、夫がリビングで寝ている。どうやら酔いつぶれているようだ。
「うわ、タバコの臭い。ビールや缶チューハイの空き缶がいくつも転がっている」
私と息子がいないからと、リビングで一人で酒盛りをしていたのかもしれない。私はすぐに息子を寝室へ避難させた。空気清浄機をフル稼働させて、ぐっすり眠っていることを確認する。許せない。怒りが込み上げてきた。自分のことしか考えない夫。今度こそ完全に愛想が尽きた。
夫を叩き起こそうとして近寄っていくと、灰皿から火がついたままのタバコが落ち、すぐ近くのティッシュに燃え移り始めていた。危ない。私はとっさに手に持っていた息子の水筒を開けた。まだ半分以上残っている。中に入っていた麦茶をぶっかけた。そこまで燃え広がっていなかったため、火はすぐに消し止められたが、一歩間違えれば火事になるところだった。私はまだ高いびきをかいている夫に、残っていた麦茶を全部かけてやった。どうせテーブルの上もカーペットも濡れたし、掃除する手間が少し増えようがどうだっていい。
「うわ、なんだ。冷て。お前何するんだよ」
夫は飛び起きた。しばらく状況が飲み込めないようだったが、私が水筒を持って立っているのを見て、自分が麦茶をかけられて起こされたと分かったらしい。
「お前、ふざけんなよ。専業主婦のくせに、誰の稼ぎで生きてると思ってんだ」
まるで瞬間湯沸かし器のような怒りっぷり。私は無言で灰皿を指さした。
「ああ、なんだよ。あれ? 燃えるとこだったのか」
「まあ、人間誰しも失敗することがあるからな。消し止めたんだし、大丈夫だろ」
夫は謝らない。
「離婚しましょう。こんな男、だめだ」
「おい、冗談はやめろよ。こんなことくらいで大げさだな。お前、専業主婦だろ。俺が稼げなきゃ生きていけないじゃないか」
夫は慌て出したが、何も分かっていない。
「あのさ、専業主婦だからってあなたはよく言うけど、私は看護師よ。いつでも復職できる。しないのは息子のためよ。あなたは息子の世話を手伝ってくれないどころか、迷惑になることしかしない。そんな男、いらないでしょう」
「病気のことは全然大げさじゃないわよ。大切な息子の命に関わるのよ」
「ちょっと息抜きにタバコを吸っただけじゃないか。それをこんなにきつい言い方しなくても」
夫はまだぐちぐちと自分の非を認めない。
「普段よっぽどあなたの方がきついこと言ってきてるわよ。専業主婦が、っていうあなたのその言い分が通るなら、あなたは誰のおかげで仕事に行けると思っているの? あなた、私が働いていた頃から一切家事をしないじゃない。私は息子の看病と家事と全部一人でしているけど、あなたは仕事をするだけなんだから楽なものよね。そうそう、あなた、馬鹿にしていたけど、私の方が給料が高いこと、分かっていたんでしょ。だから私が専業主婦になるのが嫌だったんでしょ。使えるお金が減るから」
私が一気にまくし立てると、夫は黙った。
「それから、あなたは俺が、って言うけど、うちの家の名義は私とあなたの共同でしょ。私だって家主なのよ。私もあなたと同じように意見を言う権利があるのよ。とりあえず、顔も見たくないから、今日はどこか行ってくれない?」
私は夫を言い負かし、外に追い出した。
こうして私たちは離婚した。以前、離婚経験のある看護師仲間が「離婚する時には、慰謝料と養育費は絶対に一括でもらっておいた方がいいよ」と口を酸っぱくして言っていたのを覚えていたため、家を処分した。元々私と夫二人の貯金で買ったものだが、これ以上住み続けたくもない。お金に変えた方がいいと判断し、家を購入した時に出した私の貯金分と、慰謝料も養育費もすべて一括でもらっておいた。完全に縁が切れて、本当に良かった。
夫は私と離婚しても今の職場に残るつもりだったらしい。なかなかの根性をしている。でも周りから白い目で見られ、こそこそ噂され、イライラしたのか、禁煙区間でタバコを吸った。すると火災報知器が作動。消防車が出動し、警察も駆けつけ、新聞沙汰になった。夫はさすがに職場にいられなくなり、自主退職することになった。
ここからは義両親からの情報だが、その後も夫のようなトラブルメーカーを雇ってくれるところはない。無職になり、タバコ代もなくなって、強制的に禁煙状態。ニコチン切れの禁断症状に苦しんでいるそうだ。
私は夫とは離婚したが、義両親とはそれなりに良好な関係を続けていた。義両親は夫と比べると、普通の常識的な人たちだったからだ。なぜこの義両親から夫のようなクズが生まれたのか理解できない。義両親は離婚する際、私と夫の二人からそれぞれの話を聞き、夫が悪いと判断した。私や私の実家に謝罪してくれた。そしてその後の経緯もあり、自分たちの息子とはいえ、夫のことは自業自得だと、援助はしないことに決めたらしい。夫は自分の両親が助けてくれると思っていたのに、当てが外れ、貧乏生活にあえいでいる。ざまあみろだ。
義両親は孫を可愛がってくれていて、誕生日やお正月など、節句ごとにお祝いを送ってくれる。私もたまに顔を見せに行き、LINEのやり取りをするほど良好な関係だ。
息子はこの前手術をして、無事成功した。麻酔が切れて息子が目を覚ました時、にっこり笑ったのだ。それを見て、私は本当にしみじみと幸せを感じた。大切な命を守ることができた。その後の経過も良好で、一安心だ。
息子の回復を待ってから、私も職場に復帰することにした。改めて人を救う仕事の尊さを感じたからだ。家族が病気になって不安な思いをしている時、患者にも患者の家族にも、看護師としてそばに寄り添うことができる。そう思えるようになった。大切な息子も健康になり、私は新たな幸せな人生を歩み始めた。
